医学講座

さようならコンタクトオフビル

 昨日、駅前通りを通ったら、
 コンタクトオフビルの解体工事が進んでいました。
 無くなる前に、
 もう一度見ようと、
 今朝の出勤前に寄ってきました。
 ちょうど、
 札幌美容形成外科の手術室が見えました
      ■         ■
 手術室の横に大きな穴があいていて、
 そこから手術室内部が見えました。
 なんと!
 無影灯が残っていました。
 無影灯の架台もしっかり天井についていました。
 うちの奥さんは、
 つらい
 悲しい
 …と言います。
      ■         ■
 私には、
 不思議と涙が出るような感情はなく、
 移転が間に合ってよかった
 (無影灯を)頑丈に固定してくれてよかった
 …という思いしかありません。
 今週は学会出張なので、
 おそらく来週にはもう解体されていると思います。
 13年間ありがとうございました。
 頑丈に無影灯をつけてくださって、
 ありがとうございました。

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院長の休日

5億円「相続より若者に。お金が生きる」 印刷業の創業者、九州大に奨学金

 平成30年5月13日、朝日新聞朝刊の記事です。
 5億円相続より若者にお金が生きる」 印刷業の創業者、九州大に奨学金
 学生の支援に役立ててもらおうと、福岡市の男性が九州大学に5億1600万円の寄付をした。「財産を残すより若い方に渡した方が、お金が生きる」と考えた。九大はこれを元に奨学金制度をつくり、学生の留学や修学を支援する。
 男性は中本博雄さん(80)=福岡市城南区。11日、久保千春・九大総長に寄付金の目録を手渡した。
 中本さんは小倉西高校在学中、恩師に九大進学を強く勧められた。だが家庭が貧しく、泣く泣くあきらめた。「先生が家に5回も来てくれたが、おやじは返事をしてくれなかった」
 勉強したいという思いは消えず、働きながら独学。1972年ごろ、静電気を使ったコピー機関連の特許を米国で取ったという。「情熱が執念に変わるまで勉強すれば道は開ける」。1987年に福岡市で印刷会社「青陽社」を創業。財産を築いた。
 子どもも孫もいるが、「相続しすぎると独立心が育たない」と考え、かつて進学を目指していた大学への寄付を決めた。高校の恩師も、22年前に脳梗塞(こうそく)で入院した際の担当医も、九大卒という縁もあった。妻の稔恵さん(74)も二つ返事で賛成してくれた。
 「死んで財産を残すよりも若い方に渡した方が、お金が生きる。そこから新しい発明や発見が出て、日本が栄えていけばいい。あの世に行ったときは財産ゼロという死に方をしたい」
 九大によると、奨学金名目の寄付では過去最高額。文部科学省によると、全国でもまれな金額だという。
 九大は「中本博雄賞」を創設し、来年度から20年間、学生の留学や海外渡航費を毎年35人に、給付型奨学金を毎年30人に支給する予定。
 (渡辺純子)

中本博雄さん
(以上、朝日新聞より引用)

      ■         ■
 朝日新聞の朝刊を読んでいて、
 すごいなぁ~
 …と思いました。
 私には絶対に無理です。
 医学界でも聞いたことはありません。
 すばらしいことだと思います。
 さすが九州男児です。
 これだけでも驚きでした。
      ■         ■
 院長日記を書くためにネットで調べて、
 もっと驚きました。
 ふつうの印刷会社ではありませんでした。
 青陽社のHPを見ると、
 情報入力
 ・CAD入出力
 ・各種アプリケーション入出力
 •Microsoft Word®
 •Microsoft Excel®
 •Microsoft PowerPoint®
 •Microsoft Access®
 •Adobe Illustrator®
 •Adobe Photoshop®
 •ソフト開発
 ・電子ファイリング

      ■         ■
 私たちがして欲しいことが、
 すべて掲載されています。
 コピプリ
 …という会社を運営していることもわかりました。
 福岡市・北九州市・佐賀市・鹿児島市の印刷会社が運営している高品質で格安なコピー・プリントサービスです。
 さすが、
 働きながら独学
 1972年ごろ、
 静電気を使ったコピー機関連の特許を米国で取った

 …という社長さんは違います。
 病院の紙カルテを電子化するのも、
 この会社なら何とかしてくれるのでは?
 …と思いました。
      ■         ■
 九州大学の、
 「中本博雄賞」で、
 2019年度から20年間、
 学生の留学や海外渡航費を毎年35人に、
 給付型奨学金を毎年30人に支給

 きっと素晴らしい研究成果が出ることと思います。
 日曜日の朝に、
 とても気分がいい記事をありがとうございました。

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医学講座

はしか、「排除」したはずがなぜ流行?

 平成30年5月11日、朝日新聞朝刊の記事です。
 昨日の朝刊ですが、大切なことなので引用します。
 ニュースQ3はしか、「排除したはずがなぜ流行?
 沖縄で流行しているはしかが、愛知や神奈川、東京にも飛び火し、4都県で患者数が100人を超えた。日本は2015年にはしかの国内流行を抑え込む「排除」を達成したが、なぜ感染が広がっているのか。その予防法は?
 ■すでに感染100人超
 沖縄で最初に感染者が確認されたのは3月20日。台湾からやって来た30代男性で、発症した状態で商業施設や飲食店を観光で巡り、従業員やその家族らへと感染が広がっていった。
 愛知では、沖縄に旅行した10代男性の感染が4月11日に判明した。男性は診断までに、名古屋市内の病院など県内の三つの医療機関を受診。医療機関の職員や患者を中心に感染が拡大した。
 川崎市や東京都町田市でも5月8日までに、沖縄からやってきた20代女性などの感染を確認。同日時点で、沖縄に端を発したはしかの患者数は、公表分だけで沖縄92人、愛知16人、神奈川・東京2人の計110人に上っている。
 はしかはウイルス性の感染症で空気中のウイルスを吸い込むだけでもうつる。約10日の潜伏期間後、熱や発疹が出る。特効薬はない。肺炎や脳炎などとの合併症が起こることもあり、約1千人に1人は命を落とすと言われている。
 かつては日本も年間約20万人の患者がいたとされる。2008年には、子どもを中心に患者が1万人を超え、休校が相次いだ。しかし、予防接種の普及で、2015年に患者が年35人まで減少。世界保健機関(WHO)は「地域性流行が1年以上ない状態」など、日本がはしかの「排除」を達成したと認定した。
 ■帰国者らから拡大
 ただし、その後も、毎年100人台の患者が出ている。主な原因は、タイやインドネシアなどはしかが排除されていない国からの帰国者や訪日客が感染源となる「輸入はしか」だ。
 昨年は、インドネシアから帰国した20代男性から、山形県を中心に7都県の約60人に感染が広がった。今回の流行の感染源となった台湾の男性も、沖縄への旅行前にタイに行っており、そこで感染したとみられる。
 感染症に詳しい、川崎市健康安全研究所の岡部信彦所長は「大流行を大火事とすると、今回はまだぼや程度。ワクチン接種が2回の世代が増えて大流行の可能性は低いが、食い止める努力が大切だ」と話す。1年以上感染が続けば、WHOからはしか「排除」の認定を取り消される可能性もある。
 ■まずワクチン接種
 対策のポイントは二つだ。まずはワクチン接種。はしかのワクチンは1978年から定期接種が始まり、2006年から回数が2回に増えた。2回接種していれば、多くは予防できるとされる。
 今回の感染者も接種歴「無し」「1回」「不明」がほとんどだ。岡部所長は「子どもは定期接種を必ず受け、大人は母子手帳を確認し、はしかにかかっておらず接種歴が0回の人は任意接種を」と呼びかける。ただし、妊婦などはワクチンを打てない。その場合、家族など周囲の人がワクチンを打って、感染を防ぐことが大切だ。
 二つ目は、医療機関の受診方法だ。愛知や東京では、医療機関で感染が広がった。発熱や発疹などはしかと似た症状が出たら医療機関に事前に連絡する。受診方法を確認し、ほかの来院者や医療従事者に感染を広げないようにすることが重要だ。
 (水戸部六美)

はしかの患者数の推移/沖縄からのはしかの感染拡大の推移
(以上、朝日新聞より引用)

      ■         ■
 私は子どもの時にはしか麻疹にかかりました。
 うちの奥さんによると、
 私の息子もはしかになったそうです。
 受診した小児科で移ったそうです。
 私は育児を奥さんに丸投げだったので記憶がありません
 娘は予防注射を一回受けたので、
 息子のはしかは移らなかったそうです。
      ■         ■
 私は30歳の時に、
 風疹で入院しました
 当時勤務していた、
 形成外科メモリアル病院で、
 子どもの患者さんからうつりました
 39℃の高熱が出て、
 とてもつらかった記憶があります。
      ■         ■
 朝日新聞に書いてあるように、
 まずワクチン接種です。
 気になったので、
 昨日、薬問屋さんに問い合わせました。
 全国的な流行で、
 麻疹風疹のワクチンが品薄だそうです。
 はしかにかかりたくなければ、
 外出を避けることです。
 でも、困ったなぁ~
 来週は学会で上京しなくてはなりません。
 私は子どもの時にはしかに罹患したので、
 おそらく大丈夫だと思います。
 気をつけましょう!

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昔の記憶

大浦武彦先生87歳のお誕生日

 今日5月11日は、
 恩師、
 大浦武彦先生のお誕生日です
 先生は、
 1931年5月11日(昭和6年5月11日)に台湾でお生まれです。
 87歳の今でも、
 現役の医師であり、
 現役の研究者です。
 日本下肢救済・足病学会の理事長です
      ■         ■
 最愛の奥様、
 大浦憲子様がお亡くなりになったのが
 2013年11月19日(平成25年11月19日)です。
 大浦先生は、
 札幌駅近くのマンションで、
 お元気で生活されています。
 …ここまでは昨年と同じ記載です。
 毎年、このお誕生日の記録を更新したいです。
      ■         ■ 
 FBを見ると、
 今は教授のお誕生日を、
 医局員が教室でお祝いするところもあるようです。
 私の記憶では、
 大浦武彦先生のお誕生日のお祝いをしたのは、
 還暦の時だけだったと思います。
 大浦先生、申し訳ございません。
      ■         ■
 下の写真は、
 平成16年12月11日に開催された、
 北大形成外科忘年会の集合写真です。
 大浦武彦先生の右上に私が写っています。
 今から14年前です。
 ちょうど札幌美容形成外科を開業した年です。
 私は49歳で、
 大浦武彦先生は73歳です。
 いつまでもお元気でご活躍していただきたいです。 

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わきが

わき汗は自分のせいではない

 わきに汗染みができました
 63歳の私ですら、
 シャツの脇が黄色くなるとショックです。
 私の耳垢は乾いていて、
 ワキガ体質ではありません。
 それでも、
 汗をたくさんかくと、
 シャツのわきの部分が黄色くなります。
      ■         ■
 札幌美容形成外科の院長、
 わきがくさい
 …なんて思われると、
 嫌です
 ですから、
 毎日お風呂に入って、
 下着も取り替えて、
 術衣も取り替えて、
 気をつけています
      ■         ■
 不潔にして汗臭いのは本人の責任ですが、
 自分には何の責任もないのに
 悪いことをしたのでもないのに
 脇から大量の汗が出る人がいます
 私は自分が汗で困っているので、
 困っている人の気持ちがわかります
 私は脇から出た汗が、
 へその横くらいまで流れることもあります。
      ■         ■
 毎年5月と6月は、
 脇汗ボトックス注射にいらっしゃる方が多い月です。
 患者さんから、
 ここが無くならなくてよかった
 …と言っていただいています。
 汗のにおいを、
 ワキガだと誤解している人もいます。
 脇汗で困っている方はどうぞいらしてください。
 ご予約をお待ちしております。

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医学講座

独学で覚えた医療事務とオンライン請求

 昨日の院長日記、
 移転とオンライン請求2018に、
 さくらんぼさんからコメントをいただきました
 私がニチイさんで資格を取った時は電卓に薬価本でした。
 うちの奥さんも、
 ニチイ学館で医療事務の資格を取りました。
 電卓と薬価本でした。
      ■         ■
 今はPCで料金計算をして、
 オンライン請求です。
 札幌美容形成外科を開業した14年前は、
 紙カルテで、
 紙のレセプトに手書きでした
 毎月、月はじめに、
 日本医療事務センターから2~3人の方にいらしていただき、
 手書きでレセプトを作成していただきました。
      ■         ■
 傷病名という病名も、
 ゴム印で押してました。
 今から考えると隔世の感があります。
 札幌美容形成外科を開業した時は、
 領収書もレシートだけでした。
 2005年から
 ORCAオルカ
 …と呼ばれる。
 日本医師会が作った料金計算のシステムを入れて、
 手書きレセプトから、
 印刷したレセプトにしました。
 領収書も印刷して出せるようになりました。
      ■         ■
 その次、
 2009年に導入したのが、
 電子カルテです。
 アイレックスという札幌の会社の電子カルテです。
 その前に使っていた、
 ORCAオルカというシステムを使える電子カルテです。
 今でも使っています。
 私は、
 それぞれのシステムを、
 会社の担当者から教えていただき、
 あとは独学で覚えました。
 オンライン請求は知り合いの先生が、
 『僕は自分でやってます』
 『(本間)先生もできますょ』

 …というお言葉に励まされてやりました。
 やればできるものです

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医学講座

移転とオンライン請求2018

 南舘ビルに移転して順調に診療を続けています。
 私のように移転しなければならないとか、
 移転をした医療機関への助言です。
 隣のビルでも、
 引越しすると、 
 新たな医療機関としての届出と承認が必要です
 一番大変なのが、
 医療法人の認可です。
 北海道知事が認可します。
      ■         ■
 私のように、
 移転直前まで、
 移転先が決まらない時は大変です
 原則として、
 2㎞以内の範囲が、
 遡及指定そきゅうしていを受けられる条件です。
 他府県への移転は、
 まったくの新規扱いになります。
 札幌美容形成外科は、 
 近くに移転できてよかったです。
      ■         ■
 医療機関にとって大変なのが、
 レセプトという診療報酬請求です。
 札幌美容形成外科も移転したので、
 また新たに電子証明書を取得し、
 新しい接続用のIDとパスワードをいただきました。
 電子証明書は4,000円もします。
 前の電子証明書の有効期限が残っていたのに、、、
 もったいない話しです。
      ■         ■ 
 この新しい電子証明書用の、
 IDとパスワードが、
 昨日ようやく届きました。
 請求業務は毎月5日から10日までです。
 幸い、
 自分で設定できたので間に合いました。
 もしトラブルになったら、
 5月10日の締め切りに間に合わない可能性があります。
 何でも電子化の世の中ですが、
 もう少し簡単にしてほしいです
 AMAZON楽天
 引越しても簡単に注文できます。

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院長の休日

大通公園のチューリップ

 南舘ビルに移転してから
 私の通勤経路が変わりました。
 毎日、大通公園を通って通勤しています。
 札幌の都心なのに、
 緑がきれいです。
 チューリップが満開です。
 私の他にも写真を撮っている方がいらっしゃいました。
      ■         ■
 下の写真が今朝の大通公園です。
 咲いたさいた
 ♪チューリップの花が

 …と口ずさんでいる声が聞こえてきました。
 私の近くで写真を撮っていらした方でした。
 緑がとてもきれいです。
      ■         ■
 今朝の札幌は寒いです。
 北海道の5月は、
 寒くなったり、
 あたたかくなったりを繰り返します。
 もう少しすると、
 ライラックの花が咲きます
 緑が美しい街はいいです。

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昔の記憶

私の欠席日数

 昨日の院長日記、
 橋本順子先生(ライオン)で、
 高校時代のことを思い出しました。
 西高一年生の頃
 札幌西高の想い出
 私が札幌西高校へ入学したのが、
 1970年4月(昭和45年4月)です。
      ■         ■
 15歳のけんいち少年ひ弱でした
 よく風邪をひいて、
 学校を休みました。
 欠席日数が多いので、
 自治医大の入試で面接官から、
 きみは高校をよく欠席しているが、
 そんなに身体が弱くて僻地の医師になれるのか?

 …と質問されたのを覚えています。
      ■         ■
 橋本順子先生は、
 まさか?
 あのひ弱な、
 本間くんが、
 医者になれるなんて、
 きっと思っていなかったと思います。
 成績も医学部に合格できるとは、
 到底考えられない低空飛行でした。
      ■         ■
 私の欠席日数は、
 高校1年生10日
 高校2年生15日
 高校3年生14日
 特に毎年1月~3月の、
 3学期に多い傾向があります。
 とにかく、
 よく風邪をひいていました。
      ■         ■
 欠席日数は、
 高校の時の通知票に書いてあります。
 実家から持ってきてここ(私の部屋)にあります。
 通知票の中味は、
 とても公開できるものではありません。
 西高1年生の時は、
 5段階評価の5はゼロです。
 これでも医者になれたのです。
 私が医者になれたのは、
 予備校でお世話になった、
 矢野雋輔(やのしゅんすけ)先生
 …のおかげです。

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昔の記憶

橋本順子先生(ライオン)

 今日は2018年5月5日、子供の日です。
 今朝、北海道新聞朝刊を読んでいると、
 見たことがある女性が載っていました。
 間違いない!
 橋本順子はしもとまさこ先生だ!
 私が大夕張の山奥から出てきて、
 札幌西高校に入学した時の、
 1年8組の担任が橋本順子先生でした
      ■         ■
 順子と書いて
 まさこと読みます。

 お茶の水女子大学を卒業され、
 札幌西高校で世界史を教えていらした、
 才女の先生です。
 ニックネームはライオンでした。
 本名を知らず、
 ライオンという名前だけ覚えている同窓生も多いようです。
 獅子しし子先生と呼んだ西高の後輩もいました。
      ■         ■
 平成30年5月5日、北海道新聞朝刊(札幌版)の記事です。
 札幌の元教員橋本さん
 友好のバナナ配達21年
 フィリピンの農業者支援

 札幌市西区の元高校教員橋本順子さん(81)は定年退職後の21年間、無農薬のフィリピン産バナナを自ら仕入れ、市内の仲間にボランティアで配達している。途上国の農産物を適正価格で取引し、生産者の暮らしを守るフェアトレードを支えるためだ。毎月120㌔約80人分。「フィリピンで頑張る農業者と、札幌の人々の橋渡しをしたい」と話している。(石川泰士)
 4月中旬、橋本さんは手稲区内の配達先で車を降り、はき慣れた運動靴できびきび歩く。ベルを鳴らし「バナナをお持ちしました」と明るい声で届ける。
 配達しているのはフィリピン南部のバランゴンバナナ。山間部に自生し、農薬や化学肥料を使わず収穫される。大きさはふぞろいだが、やさしい甘さがあるフェアトレードの商品だ。東京の商社を通じて取り寄せ、仕入れ値に配達のガソリン代を加えた1㌔600円で届けている。
 このバナナを知ったのは札幌西高の社会科教員だった1995年。途上国の農業者を支えるフェアトレードのバナナを知り、実際に仕入れ、授業で取り上げた。
 高校を定年退職した97年、「食べてみたい」との友人の声を受け、試しに20㌔仕入れて4、5人で分けた。昔の教え子の保護者に薦めると評判になり、定期的に仕入れを始めた。
 毎月1㌔の配達を受ける手稲区の牧師清水和恵さん(60)は30年前にフィリピンで、低賃金の農園労働者を見た。「バナナを食べると、誇りを持って働く生産者が目に浮かぶ」と話す。
 橋本さんは実際にフィリピン南部の現場を訪れている。バナナの収入で自立した生産者の暮らしをみて、活動に手応えを感じたという。
 今春からは、市民活動で出会った若い仲間が配達を手伝うようになった。「体力の続く限り、バナナを届けたい」と力を込める。

フィリピン産無農薬バナナを届ける橋本順子さん(左)
(以上、北海道新聞より引用)

      ■         ■
 橋本先生らしいなぁ~
 81歳になっても、
 すごいなぁ~
 札幌西高校には、
 新琴似のご自宅から、
 カローラで通勤されていた記憶があります。
 お元気そうでよかったです。
 橋本先生には申し訳ございません。
 私は世界史はまったくできませんでした。
 先生ごめんなさいです。

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