医学講座
形成外科42年のあゆみ⑯
形成外科42年のあゆみの続きです。
形成外科医になろう、
美容外科医になろう、
…という若い人がいたら、
医学部に入るところが一番の難関です。
医学部入試は今も昔も難しいです。
私も入れるとは思っていませんでした。
■ ■
私の人生に一番大きな影響を与えてくださったのが、
高校3年生の時に通った、
予備校の夜間ゼミでした。
そこで矢野雋輔やのしゅんすけ先生との出会いがありました。
もし矢野先生の講義を聴いていなければ、
私は医師になれませんでした。
そのくらい私の人生を変えてくださったのが、
矢野先生の講義です。
■ ■
けんいち少年は医学部を目指していましたが、
成績は低迷。
とても…
現役合格できるレベルではありませんでした。
札幌西高校では生物は一年生で履修しました。
生物は好きでしたが、
模試の成績は…
いま一つ…
パットしませんでした。
北海道新聞の広告で、
桑園予備校という予備校が、
夜間ゼミを開講するというのを知りました。
■ ■
母親に頼んで、
この夜間ゼミを受講しました。
当時は、
夏期講習や冬期講習など、
札幌にあった、
札幌予備学院(現、河合塾札幌校)と
桑園予備校(現在はありません)
の2校が
現役受験生向けの講習を開いていました。
■ ■
私の家は裕福ではありませんでした。
父親は夕張で単身寮生活。
母親は生命保険の外交員をしていました。
贅沢ぜいたくはしていませんでしたが、
子どもの教育費だけは、
何とか捻出してくれていました。
西高の授業が終了した後で、
バスで予備校へ通学しました。
■ ■
授業は17:00開講。
19:00までの2時間でした。
矢野先生の授業(講義)は、
あっという間に2時間が過ぎました。
今でも先生の顔、声、授業内容を
とても鮮明に覚えています。
授業は
入試に出る生物100というタイトルでした。
■ ■
桑園予備校には、
当時としては最新鋭のコンピューターがありました。
矢野先生は、
このコンピューターで過去の入試を分析。
入試に出る生物100を抽出し、
その講義をしてくださいました。
■ ■
講義内容は素晴らしく、
培風館(ばいふうかん)という会社の、
生物精義という参考書以上の内容でした。
私が不得意だった、
生物の分類も、
(生物の)名前は
お経(きょう)のように…
何度も口に出して、となえて…
覚えるしかありません…
トイレに紙を貼って覚えなさい!
…とご指導していただきました。
■ ■
原索動物(げんさくどうぶつ)例えば…
ギボシムシ(現在は半索動物に分類)
ホヤ
ナメクジウオ
と今でもスラスラ出てきます。
矢野先生の夜間ゼミのおかげで、
私は冬の校内模試で、
生物が一番になりました。
後にも先にも、一番をとったのは
この生物だけでした。
■ ■
残念なことに数学ができなくて浪人しました。
一浪した予備校時代にも、
札幌予備学院で矢野先生にお世話になりました。
人間とは不思議なもので、
それまでダメだった私が、
矢野先生の生物の講義のおかげで、
他の科目の成績まで伸びました。
いま、こうして医師免許を取得し、
医師として生活できるのも、
矢野先生と出会ったからだと…
一度も忘れたことはありません。
■ ■
68歳になった今も、
矢野先生のことを忘れたことはありません。
恩師、大浦武彦先生の奥様、故大浦憲子様が、
藤女子大学で、
矢野先生の教え子だったと、
教えていただいたことがありました。
私が形成外科医になれたのは、
矢野先生や大浦武彦先生のおかげです。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑮
形成外科42年のあゆみが長くなりました。
つまらない院長日記にお付き合いいただきありがとうございます。
自分史を書いているようで、
なかなかやめられません。
もう少し続けさせてください。
大夕張から札幌に来るために、
私の両親はかなりがんばってくれました。
■ ■
私の高校進学とともに、
私と弟、母の3人が札幌に来ました。
父親の母が住んでいた、
西区八軒はちけんの家に引っ越してきました。
お世辞にも立派な家とは言えませんでした。
トイレは水洗式ではありません。
最初はお風呂もなく銭湯に通っていました。
■ ■
私たち3人は、
七畳くらいの一部屋に、
私と弟と母親が
寝泊りしていました。
私と弟は2段ベッド。
母親は床に布団を敷いて寝ていました。
壁が汚かったので、
ペンキを買ってきて自分たちで塗りました。
床は父親がフローリングを自分で貼りました。
■ ■
父親が昭和36年に購入した中古の建売木造住宅でした。
昭和30年代に建てられ、
父親が自分の叔父との裁判で、
円山にあった土地と建物を失ったので、
その建売住宅を買ったようです。
お金がなかったので土地は長い間借地でした。
最初は父の両親と弟妹が住んでいました。
■ ■
そのボロ家から私は札幌西高校に通っていました。
見栄を張っていたつもりはありませんが、
高校時代、同級生に、
『今度、本間の家(ホンマンチ)へ行ってもいぃ?』
と言われるのが一番困りました。
友人に来てもらうような家ではありませんでした。
友人の家は、
西区西野の閑静な住宅地にあり、
新築の立派な家でした。
■ ■
私の家には友人を呼んだ記憶がありません。
けんいち少年は、
そこからバスと徒歩で西高に通っていました。
お金がなかったので母親は働きに出ました。
北海道新聞に載っていた求人広告をよく見ていました。
40歳を過ぎると雇ってくれるところがないと、
よくぼやいていました。
■ ■
森永製菓のお菓子工場のパート(不況でリストラ)→
日本団体生命保険の外交員→
三菱信託銀行の財形貯蓄の勧誘員、
…それと私が大学に入ってから、
公益社団法人北海道不動産鑑定士協会
…で将来年金をもらえるようにと働いていました。
私たち息子2人が独立してからも、
鑑定協会で働いていました。
そこでたくさんの人脈を築き株も教えていただきました。
94歳になってもお金に困らず、
サ高住に住んでいます。
うさぎ小屋以下だった、
昔の本間家では考えられないことです。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑭
形成外科42年のあゆみを2週間も書いてしまいました。
藤枝正道先生の3年7組は楽しいクラスでした。
模擬試験では一度もA判定もB判定も出ませんでした。
それでも第一志望は札幌医大にしていました。
自分なりに勉強はしていましたが、
なかなか成績は伸びませんでした。
■ ■
今から考えると学力不足でした。
札幌西高校では、
伝統の、
文化祭、
運動会、
行燈行列、
という学校の行事がありました。
受験生なのに勉強以外のこともしていました。
楽しい高校生活でした。
■ ■
北海道には、
炊事遠足というのがあります。
結婚してから奥さんに言ったら、
何それ?って言われました。
はんごうすいさん飯ごう炊さんのこと?
…と言われ、
今度は私がはんごうすいさんって何?
…と聞きかえしました。
■ ■
北海道では、
お弁当を持って行くふつうの遠足ではなく、
どこかに行って、
豚汁を作ったり、
ジンギスカンをしたり、
野外で料理をして食べる遠足を、
炊事遠足すいじえんそくと呼びます。
ネットで検索すると今でもあります。
■ ■
3年7組では、
十五島公園に炊事遠足に行きました。
藤枝先生の奥様と、
お嬢様もいらっしゃいました。
先生が奥さんのことを、
♡としちゃん♡と呼ばれていました。
とても素敵なご夫妻です。
現役合格はできませんでしたが、
私は楽しい高校生活を送ることができました。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑬
形成外科42年のあゆみ13回目です。
高校2年生で少し成績がUPしました。
同級生に本間、新聞を読めと教えてもらったり、
STVラジオで旺文社の大学受験ラジオ講座を聞いて、
少しずつ勉強の方法がわかってきました。
ただ机に向かってもダメでした。
■ ■
当時の札幌西高校は3年生になると、
進路別にクラス分けがありました。
2年生までは全員同じ勉強ですが、
3年生になったら、
・国立理系
・国立文系
・私立理系
・私立理系
…と別れていた記憶があります。
■ ■
国立理系と国立文系は同じクラスで、
数学と物理だけお隣の3年8組と国立理系は数Ⅲを勉強した記憶があります。
(はっきり覚えていなくて申し訳ありません)。
国立文系は数Ⅲはなかったと思いますが、
記憶が定かではありません。
私は数Ⅲが嫌いではありませんでしたが、
成績がいまいちでした。
これが現役で札幌医大を落ちた原因です。
■ ■
高校3年生になったけんいち少年は、
3年7組になりました。
担任は日本史の藤枝正道先生です。
女子に
♡圧倒的人気♡
…の先生でした。
■ ■
私たち男子生徒から見ても、
とても素敵な先生でした。
私が記憶しているのが、
よく藤枝先生が放課後の掃除を、
クラスに来ていっしょにしてくれたことです。
私たちは掃除当番がしていましたが、
先生は毎日掃除にいらしてくださいました。
■ ■
掃除を毎日いっしょにしてくれた先生は、
私の記憶では藤枝先生だけです。
大変申し訳ないことに、
私は日本史の成績が悪く、
あまり勉強もしませんでした。
私が受験した札幌医大は、
社会科が一科目だけでした。
私は政治経済で受験しました。
■ ■
すみれさんと同じクラスだったのも、
3年7組でした。
私よりずっと健康的で素敵な女の子でした。
残念なことに難病でご逝去されてしまいました。
ほんとうに今でも信じられません。
医学の無力さを感じます。
同級生で亡くなられた方が何人もいます。
私はまだ元気で働けてしあわせだと思っています。
心からご冥福をお祈りしています。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑫
形成外科42年のあゆみを書き始めて12回目です。
なかなか高校卒業までたどり着けません。
いい高校からいい大学に行くつもりで、
15歳のけんいち少年は札幌西高校に入学しました。
残念なことに、
札幌西高校に入学してからは、
大夕張の優等生が、
札幌西高の劣等生になりました。
■ ■
ソフトクリームの思い出に書きました。
当時の札幌西高校は一学年450人でした。
45人のクラスが10組ありました。
おおよそ男子300人、女子150人程度で、
圧倒的に女子が少ない学校でした。
北海道の高校ランキングでは、
①札幌南
②札幌北
③札幌西
…という順位でした。
札幌西は自由な校風が特徴でした。
■ ■
私は青白い顔をした、
不健康そうな男子でした。
いつも風邪をひいていました。
熱を出して学校を休んだこともよくありました。
一浪して受けた自治医大の面接で、
きみは高校をよく欠席しているが、
そんなに身体が弱くて僻地の医師になれるのか?
…と面接官から質問されたくらいでした。
■ ■
高校2年生は、
柔道の齋藤佳彦先生が担任で、
仲のよいクラスでした。
夏には余市よいちにキャンプに行きました。
クラスのほぼ全員が参加した記憶があります。
成績上位者にはなれませんでしたが、
いい友人や先生に恵まれました。
彼女はいませんでしたが同級生には女子もいました。
■ ■
よく風邪をひいて、
大きなマスクをして、
青白い顔をしていました。
モテませんでした。
中学・高校と
バレンタインデーにいただいたチョコはゼロ。
医学部を目指して、
勉強ばかりしている男子はもてません。
保健室にもよくお世話になりました。
美容形成外科の医者になるなんて、、、
夢にも考えていませんでした。
人生とは不思議なものです。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑪
形成外科42年のあゆみの続きです。
私の68年の人生で、
形成外科医が42年です。
医師免許証さえ取得してしまえば、
形成外科医になろうと思えばなれます。
68年の人生で一番大変だったのが、
医学部合格でした。
■ ■
医学部合格への道
医学部合格への道②
2009年に書いた院長日記です。
私が長々と中学や高校のことを書くのは、
医学部に入るのが、
いかに大変だったかを書き残すためです。
私が好きな決して諦めてはいけないは、
旺文社の大学受験ラジオ講座で覚えました。
■ ■
高校2年生から、
私はSTVラジオで早朝に放送されていた、
旺文社の大学受験ラジオ講座を聞きました。
テープレコーダーにタイマーで録音していました。
高校2年生には難しい内容もありましたが、
とてもいい先生がいらっしゃいました。
忘れられないのが勝浦捨造先生です。
■ ■
勝浦捨造先生は東北大学助教授から、
代々木ゼミナールの副校長になられました。
一度もお会いしたことはありませんが、
50年たっても先生の関西のアクセントがある声を覚えています。
『いいですか、どんな難問でも、同じ問題を13回解いてごらんなさい。
必ずできるようになります』
…と言われたお言葉は忘れられません。
修学旅行でいっしょに病院に行ってくれた安田くんも、
勝浦先生のファンでした。
■ ■
勉強は孤独です。
自宅に引きこもっていると
自分を見失う恐れがあります。
朝、早くから夜遅くまで、
全員が勉強をしている環境にいると、
自然と勉強するようになります。
成績を向上させるコツとポイントは、
よい先生や参考書を見つけることです。
■ ■
私は回転寿司に行くと、
隣の人が注文した美味しそうなネタを、
注意深く見ています。
そうすると、
美味しいネタがわかります。
受験勉強も同じです。
予備校の自習室などを利用すると、
成績がよい人がどんな勉強をしているかわかります。
友だちになって、
話しをするのもよい方法です。
■ ■
高校生向けの予備校の授業は、
先生がよければ成績UPにつながります。
進学校と呼ばれる学校でも、
科目によって先生を選ぶことはできません。
予備校の授業は、
先生を選択して受けることができます。
私は化学の授業で自分の医進クラスではなく、
他クラスの授業を聴きに行きました。
その橋本先生は北大理学部の大学院生でしたが、
とても明快な授業でした。
■ ■
高校2年生になって、
勉強の方法が少しずつわかってきました。
ただひたすらがむしゃらに覚えようとしてもダメです。
いい先生に
いい方法を
上手に教えてもらうことです。
私はラジオ講座で勉強しましたが、
今はネットもYouTubeもあります。
効率よく勉強することで、
医学部合格への道が開けます。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑩
成績が低迷していた私は16歳になりました。
高校2年生はクラス替があり、
2年5組になりました。
担任は齋藤佳彦先生でした。
専門は柔道です。
私は体育は苦手でしたが、
礼儀正しい柔道は好きでした。
■ ■
札幌西高校では、
男子は柔道か剣道を選択できました。
私は柔道を選択し、
担任の齋藤佳彦先生から柔道を学びました。
強くはなれませんでしたが、
柔道の技と礼儀作法を学びました。
齋藤先生は柔道整復師の資格もお持ちでした。
■ ■
齋藤先生は私と同じ、
西区八軒はちけんに住んでいらっしゃいました。
ガッツ! パブリカと呼ばれていた、
トヨタのパブリカで通勤していらっしゃいました。
私のことを、
本間元気か?
…とよく気にかけてくれました。
私は齋藤先生が好きでした。
■ ■
高校2年生になると友人も増えました。
本間、新聞を読めと、
同級生の高橋新一くんに言われました。
高橋くんは国語が優秀でした。
彼は大学卒業後に北海道放送に就職しました。
高校2年生から、
私は旺文社の大学受験ラジオ講座を聞きました。
私はラジオ講座で少しずつ勉強ができるようになりました。
■ ■
毎日、あぁ~~!
今日もまた寝ちゃった!
ここまでやろうと思ったのに…
あぁ~~!
また同じ問題を間違った!
これで3回目だ。
あぁ~~!
また同じ単語の意味を忘れた!
前回、辞書を引いたのは、
つい一週間前だ。
(私は辞書の単語に日付をつけて、
何回、同じ単語を引いたか記録していました)
■ ■
こんな毎日でしたが、
少しずつ成績がUPしてきました。
落ち込んでいた私を、
本間元気か?
…と気にかけてくれた齋藤佳彦先生のおかげです。
高校2年生の秋に修学旅行があり、
私たちは青函連絡船とJRの夜行列車で、
京都と奈良、東京に行きました。
健康不良児だった私は、
修学旅行で熱を出して、
東京で病院に行きました。
いっしょに行ってくれた安田くんには今でも感謝しています。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑨
15歳のけんいち少年は、
大夕張の夕張市立鹿島中学校から、
札幌の北海道札幌西高等学校へ進学しました。
1970年5月の最初の定期試験で、
何と英語が赤点ぎりぎりでした。
すっかり劣等生になりました。
■ ■
得意科目だったはずの国語も低迷、
高校1年生の社会科は地理でした。
これも得意だったはずなのですが、、、
成績は低迷。
大好きだった理科は、
高校1年生の生物でこれまた低迷、
数学も苦手ではなかったはずなのに、
いい点数は取れませんでした。
■ ■
高校1年生の担任は、
橋本順子まさこ先生でした。
順子と書いて
まさこと読みます。
お茶の水女子大学を卒業され、
札幌西高校で世界史を教えていらした、
才女の先生です。
ニックネームはライオンでした。
本名を知らず、
ライオンという名前だけ覚えている同窓生も多いようです。
獅子しし子先生と呼んだ西高の後輩もいました。
■ ■
2018年5月5日の北海道新聞朝刊(札幌版)に橋本順子先生が出ていました。
札幌西高校の高校生活は、
夏に有珠うすでサマーキャンプがあったり、
学校祭があったり、
伝統のマラソンがあったり、
楽しい思い出はたくさんありますが、
とにかく成績が低迷していました。
医師になるなんて夢のまた夢でした。
考えたこともありませんでした。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑧
形成外科42年のあゆみ、
ようやく中学校まできたところで、
一週間のお休みが終わりました。
せっかく書き始めたので、
もう少し続けさせてください。
■ ■
私が卒業した夕張市立鹿島中学校は、
大夕張の唯一の中学校でした。
大部分の生徒は地元の高校へ進学しました。
私が中学生だった50年前は、
地元の高校に進学しないで、
進学校と呼ばれる、
函館ラサール高校や、
札幌の高校に進学する生徒もいました。
■ ■
私は家庭教師の永井先生がおすすめしてくださった、
札幌西高校と函館ラサール高校を受験しました。
幸運にも両方とも合格できました。
私は弟も札幌の中学校に進学するため、
札幌西高校に行きました。
よかったのはここまででした。
大夕張では成績優秀者の一人でしたが、
あっという間に急降下しました。
■ ■
大夕張の田舎から出て来て、
毎日、バスで通学するだけで大変でした。
とにかく人が多いのに驚きました。
毎日、通学だけで疲れました。
その上、勉強はできず…
英語の暗記はできず…
高校に入ってから劣等生になりました。
■ ■
札幌市内や道内の中学校から選抜された450人が集まったのです。
正規分布した母集団です。
大夕張では成績が優秀だったとしても…
高校に入ってから成績が落ちるのは、
当然と言えば当然の結果です。
友人はすぐにできました。
お前、英語の暗記できた?
できねぇ~。
勉強しようと思ったけど寝ちゃった。
■ ■
最初の定期試験で、
何と英語が赤点ぎりぎりでした。
英語が不得意科目になりました。
1970年5月にあった…
高校一年生はじめての中間試験。
英語の文法、
札幌西高では、
composition(コンポジション)
を略してコンポと呼んでいました。
このコンポがダメでした。
■ ■
毎日、必死に勉強したのに、
100点満点の24点でした。
21点以下が赤点だったので、
かろうじてセーフでしたが、
生まれてはじめて24点なんて点を取りました。
札幌の有名中学校を卒業した同級生には、
楽勝だった人もいました。
学校をやめたくなりました。
■ ■
勉強の仕方もわかりませんでした。
高校一年生のけんいち少年は、
英語の辞書が、
手垢で黒くなるまで、
何度も繰り返して開きました。
他の教科も含めて、
勉強で苦労していました。
とても医学部へ入れるレベルではなく、
将来の展望も持てませんでした。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑦
形成外科42年のあゆみを書いていたら、
一週間が過ぎてしまいました。
ようやく中学生のところまで来ました。
私は美唄から大夕張へ転校しました。
中学1年生の時にはいじめられたりしましたが、
そのうち仲の良い友だちもできました。
成績は悪くはなかったですが、
学年で一番になったことはありませんでした。
■ ■
夕張市立鹿島中学校で一番だったのは、
菊池久子さんという女子でした。
生徒会長にもなった人です。
私が一生懸命勉強をしてもかないませんでした。
お父さんから勉強を習っていると聞きました。
私の成績が伸び悩んでいたので、
うちの親が家庭教師を頼んでくれました。
永井先生でした。
■ ■
家庭教師は週2回だったと記憶しています。
私は永井先生のおかげで成績が少しずつUPしました。
国語が得意になったのは、
中学校3年生の時に聴いた…
NHKラジオの
中学生の勉強室という番組のおかげです。
国語の担当が
東京都立八潮高等学校の
小田島哲哉先生でした。
■ ■
国語は毎週金曜日でした。
小田島先生の語り口が穏やかだったのと、
テキスト本文の朗読がありました。
朗読は東京放送劇団などに所属する、
プロの方が担当されていました。
何て上手な読み方だろう…
耳をそばだてて聴きました。
私はこの中学生の勉強室で、
国語が好きになり…
得意科目になりました。
■ ■
今こうして…
院長日記を書き続けられるのも…
小田島哲哉先生のおかげです。
50年たっても感謝しています。
中学生の勉強室で放送してくれた…
有島武郎(ありしまたけお)の
『生まれ出づる悩み』
が函館ラ・サール高校の入試問題に
そのまま出ました。
■ ■
小田島先生が講義で教えてくださった…
有島武郎の
たけおの読み方。
落葉松
からまつの読み方。
50年たった今でも…
はっきりと覚えています。
私は中学生の勉強室を聴かなければ…
おそらく志望校への進学は無理だったと思います。
■ ■
私が小田島哲哉先生のことを院長日記に書いたので、
小田島哲哉先生の米寿を祝う会に呼んでいただけました。
残念なことに先生はご逝去されてしまいましたが、
米寿を祝う会で先生から、
♡子供に夢をあたえる教育♡
♡夢を持つことが生きがい♡
♡夢を持つことの大切さ♡
…を教えていただきました。
私の貴重な財産の一つです。