医学講座

1973年一県一医大構想

 平成28年1月23日、朝日新聞夕刊の記事です。
 (あのとき・それから)昭和48年1973年
 一県一医大構想 医師数、ぶれ続ける政策
 この春、私立の東北薬科大(仙台市)に医学部が誕生する。東日本大震災の復興特例で、新設は国内で37年ぶり。定員100人に2463人が志願。6年で3400万円かかる学費を、最高で3000万円まで条件つきで貸与する修学資金枠を55人分用意したこともあり、24倍を超す狭き門になった。
 新設を巡っては、これ以上の「激戦」が43年前にもあった。当時の田中角栄内閣が閣議で決めた「一県一医大構想」の先陣を切る形で、山形大、旭川医大、愛媛大の3医学部で1973年10月、最初の入試があった。
 認可が遅れたため通常より半年遅い、異例の秋入試。最も倍率が高かったのは山形大で実質倍率は37倍だった。1期生になった山大付属病院長の久保田功教授は、「『ああ、これで浪人せずに済む』とホッとしたことを覚えています」と振り返る。

 医師の養成は40年代まで、東大などの旧帝国大と、戦時下で短期間に医師を育てるために増えた旧医学専門学校が担っていた。戦後しばらくは、大陸から引き揚げてきた医師も加わり、医師数はむしろ多かった。
 だが、高度経済成長期に入り、1961年に国民皆保険制度ができて医療機関を受診しやすくなると、病院にかかる人が増えた。同時に医師不足と、医療の質に対する不満が顕在化していく。
 国は、1960年代は医学部などの定員を増やして対応したが、医学部がない県では医師確保が難しかった。このため、医学部設置は地域の「悲願」に。1970年、戦後初の国立医学部が秋田大に設置されると、医学部のない県の中央への陳情が盛んになった。
 この頃、自民党幹事長で、次期首相を狙う田中角栄は山形を訪れ、「佐藤(栄作)首相は5選はしないだろうし、これから(残る任期の)2年間は政治に没頭できる」として、将来の新幹線や高速道路などの整備と合わせ、医学部建設の調査費計上を約束。それは地方での選挙対策の「切り札」の一つでもあった。
 1973年には4校、74年に滋賀、宮崎など3校、といった具合に、1979年の琉球大まで、7年で16の国公立の医学部・医科大ができた。私立の新設も相次ぎ、1981年には防衛医大を除いた79校で、入学定員は8280人になり、10年余りで倍以上になった。
 ところが1982年、「将来、医師が過剰になる」という声が医学界などから上がり、国は削減策に転換する。国の医師需給の検討会は1984年、「2025年に医師の1割程度が過剰になる」という推計をもとに、「1995年をめどに最小限10%程度削減する必要がある」という意見を出した。結局、定員は2003年に7625人まで減り、一県一医大達成時より約1割減った。

 だが皮肉なことに、医師過剰時代は訪れていない。医師の質をあげるために導入した新人医師の臨床研修の必修化、医師を地域病院に派遣する医局制度の崩壊、医療の高度化などで、現場は医師不足で疲弊している。
 国は2008年から定員の増加政策に転じ、今年から医学部の新設も再開される。「わが国の医師数政策ほど振り子のように揺れた政策はめずらしい」「1割削減という目標は達成された。だが、その時すでに1割過剰どころか、1割以上不足であることが明らかになっていた」と、国立保健医療科学院の岡本悦司統括研究官は著作で述べている。
 将来に向けて医師はどれくらい必要なのか。医療や介護の費用の面でも重要な見通しだが、医療行政に詳しい元官僚はつぶやいた。「誰も全体像をわかって議論していないのではないでしょうか」(権敬淑)
 ■優秀な看護師育成に力を 医学部の立ち上げに関わった山形大元教授・精神科医、外崎(とのさき)昭さん(78)
 戦時中に医学専門学校がたくさんできた影響で、1940年代半ばは、医学部の入学者は1万人以上いたんじゃないでしょうか。引き揚げの医師も加わって、多くが開業医に。そういう方が当時の国民衛生のために活躍された。
 しかし、GHQの公衆衛生福祉局長は、日本の医学教育について、「日本に医科大学無し」と厳しく評価しています。日本の教育や設備、医療の質は決して高くはなかったんです。
 1960年代半ばになると、戦後に開業した先生方の子弟が医学部を目指した。そのころは定員も減り、ものすごい競争に。そういう背景も、当時の一県一医大構想につながっています。
 東北大で解剖学を教えていて、山形に初めて足を運んだのは1972年秋。地元では医学部への期待はあっても、現実的な理解は薄かった。「医者が来てくれればいいだけ。教育や研究はいらない」と言われたり、「死体を置くなんて」と解剖学教室に反対が起きたり。苦労はしましたが、理想を持って一から創るのはやりがいがありました。
 現在、精神科医として社会と折り合いをつけづらい人や認知症の方と接します。日本の医療、介護の将来を考えるなら、医学部の定員をいじるより、教育の充実で優秀な看護師を育てたり、介護者のレベルアップに力を注いだりする方が現実的ではないでしょうか。
 ■医学部と入学定員を巡る流れ
1886年~  旧帝国大7校に医科大学
1940年代前半 各地に医学専門学校
1961年  国民皆保険制度が確立
1973年2月 一県一医大構想を閣議決定
1973年9月 旭川医大、山形大、愛媛大に医学部開設
1979年  琉球大に医学部。無医大県解消。
1982年  医師過剰への配慮を閣議決定
1984年  厚生省検討会が医師数1割削減の意見を出す
1985年  地域別の医療計画づくり開始
1986年  医学部入学定員を約1割削減へ
1997年  医学部の整理・合理化も視野に医学部定員削減を続ける閣議決定
2004年  新人医師の臨床研修が必修に
2008年  医師不足を背景に既存校の定員を期間限定で増やす
2016年  特例で東北薬科大に医学部
2017年  国際医療福祉大に医学部(予定)
(以上、朝日新聞より引用)

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一県一医大構想の一環で最初にできた山形大学医学部の最初の入学式。1期生のうち地元出身者は1人だった=1973年11月(山形大学医学部創設十周年記念誌より)

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患者に接する臨床実習をする前の試験に合格し、「スチューデント・ドクター」の認証を受ける医学生たち=2012年、山形市

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医学部開設から10年後には、田んぼばかりだった土地に、付属病院や研究棟などが建設され、周囲には街も広がった=1983年、山形市(同記念誌より)
(以上、朝日新聞より引用)

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 医学部新設について、
 これだけ詳しい新聞記事は今まで見たことがありません。
 記事を書いてくださった、
 朝日新聞社の権敬淑さんに感謝いたします。
 昭和48年1973年は、
 私が浪人した年でした。
 私は秋に旭川医大を受験し
 みごとに落ちました。
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 旭川医大一期生の入学試験問題の国語に、
 朝日新聞の天声人語から出題された記憶があります。
 国語は小田島哲哉先生のおかげでできました
 私の学力不足もありますが、
 私にとって難題だったのは、
 社会科の2科目という壁でした。
 札幌医大は政治経済だけでOKでしたが、
 旭川医大は政治経済+日本史で受け全滅しました。
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 全国の浪人生が、
 旭川、
 山形、
 愛媛、
 この3つの医学部に集中しました。
 旭川の旅館がすべて埋まり、
 旅館組合に申し込んで、
 相部屋に泊まった記憶があります。
 私が通っていた、
 札幌予備学院医進コースからも多数合格しました
      ■         ■
 中にはせっかく秋に現役合格できたのに、
 旭川医大には進学せず、
 翌年北大医学部に進学した人もいました。
 現在の旭川医大学長、眼科の吉田晃敏(よしだあきとし)先生も、
 秋に受験した組です。
 天気がいい日で、
 大雪山が見えた記憶があります。
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 朝日新聞の記事にあるように、
 日本の医学部入学定員ほど、
 国の政策によって変わったものはありません。
 医師数、ぶれ続ける政策の見出し通りです。
 入学定員を増やしたり、
 医学部を新設しても医療現場は変わらないと思います。
 私も山形大元教授の外崎昭(とのさき)(78)先生と同意見です。
 医学部の定員をいじるより、教育の充実で優秀な看護師を育てたり、介護者のレベルアップに力を注いだりする方が現実的ではないでしょうか。
 私の意見はもう一つあり、
 リハビリに予算配分を多くすることが大切だと思います

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