昔の記憶
本間くんだった頃
すみれさんからコメントをいただくようになり、
昔のことをなつかしく思い出しています。
私は夕張市の山奥、大夕張から
15歳の時に札幌に来ました。
私が生まれたのは昭和29年(1954年)です。
洞爺丸台風が来た年に、
市立札幌病院で生まれました。
62年前です。
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小学校2年生までは、
札幌郡手稲町字金山栄町に住んでいました。
父親が手稲療養所という、
三菱鉱業の結核療養所に勤めていました。
父親は、
満90歳で、
今年3月29日に自分が昔勤めていた場所で亡くなりました。
イムス札幌内科リハビリテーション病院という病院になっています。
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小学校3年生から中学校1年生の5月まで、
美唄市茶志内(びばいしちゃしない)に住みました。
茶志内炭鉱(ちゃしないたんこう)という炭鉱の町でした。
茶志内炭鉱が閉山したため、
中学校1年生の5月に、
大夕張に引越して、
鹿島中学校に転校しました。
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高校から札幌に出ました。
夕張の高校から大学に入るのは大変という親の考えでした。
私もそう思っていました。
62歳になって振り返ってみると、
地元に残って夕張東高校に入学した同期生が、
北大に現役合格しました。
札幌医大に入学してお医者さんになった人もいます。
人生はわからないものです。
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札幌に出てきたけんいち少年は、
勉強ができなくて苦労しました。
英語が赤点でした。
医学部なんて絶対に合格できない成績でした。
私が医師になれたのは、
予備校で教えてくださった
矢野雋輔やのしゅんすけ先生のおかげです。
今でも感謝しています。
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よく風邪をひいて、
大きなマスクをして、
青白い顔をしていました。
保健室にもよくお世話になりました。
美容形成外科の医者になるなんて、、、
夢にも考えていませんでした。
人生とは不思議なものです。
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すみれさんから同期のことを教えてもらいました。
東京に行かれた女子が、
その後どうしていらっしゃるのか?
私はまったく知りません。
北海道にいる方でもわかりません。
本間くんだった頃は、
62歳になってみるととてもなつかしいです。
11月23日にクラス会をします。