医学講座

東日本学園大学の創立者_渡邉 享 先生

 今日は2023年10月13日(金)です。
 今朝の北海道新聞に、
 2028年に北海道医療大学が移転するのに合わせて、
 JR学園都市線の北海道医療大学前駅の名称を変更すると出ていました。
 私が予備校生だった50年前に、
 東日本学園薬学部が釧路管内音別町に開学しました。
 その後、当別町に移転しました。
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 東日本学園は誰が創立したのだろう?
 …とずっと思っていました。
 道新には1974年、
 前身の東日本学園大が旧釧路管内音別町で開学し薬学部を設置と出ています。
 ネットで検索したところ、
 日本歯科大学の卒業生、
 渡邉 享 わたなべうくる先生が開学にご尽力されたと知りました。
 当別町にとっては残念なことですが、
 これも時代の流れだと思います。
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 ネットで見つけた日本歯科大学校友会HPのページをご紹介いたします。
 東日本学園大学の創立者_渡邉 享わたなべうくる先生
 歯科医師過少の要請を受けて昭和40年代後半,私立の伝統校が第二歯学部をつくる動きが相次いだ。
 本学も,東京とは異なる地方都市に増設を検討した。静岡市,札幌市,新潟市が候補に挙がったが,いち早く用地の目処が立ったのが新潟市であった。
 昭和50年代中頃,私は,本学30回卒の庄内宗夫先生(北海道歯科医師会長)に札幌郊外へ案内された。美しい林のひろがる緑地帯を指して,先生は「ここが予定地だったんですよ」と教えた。
 そのときの私は,ここに本学第二歯学部ができていたら,渡邉先生が札幌に東日本学園大学を興すことはなかったろう,としばし感慨にふけった。…幻の札幌歯学部。
 32回卒・札幌市開業の渡邉 享(うくる)は,新潟歯学部の開校した昭和47年(1972)の7月,設計事務所長を伴って,札幌から1時間ほどの当別町の土地を下見した。
 ついで,新日本観光興業社長の佐々木眞太郎を訪ね,医療過疎といわれた北海道に医療系大学を設置したいと,その構想を熱っぽく説き,スポンサーとして創設資金の拠出をあおいだ。当時,道内には北大1校であったから,彼の構想には説得力があったろう。
 さらに,9月に北海道知事の堂垣内尚弘を訪問し,その気迫をもって学園設置の協力を取りつけた。翌10月には,札幌富士ビルのワタナベ歯科診療所内に設立準備室を置き,大学開校に邁進する。本学学長の中原 實も,創立理事に名を列ねた。
 翌昭和48年4月に文部省に歯学部設置の認可申請(第一次審査),6月薬学部設置の認可申請を提出した。渡邉の起意から2年足らずの昭和49年(1974)4月,東日本学園大学(のちに北海道医療大学に改称)は,渡邉 享を理事長,大野精七を学長として,薬学部を開設した。
 東日本学園大学の校名は,堂垣内知事が命名したと聞く。昭和52年の第二次審査をへて,歯学部は昭和53年4月に増設された。
 渡邉は,初代理事長として昭和59年1月までつとめたが,非情にも病いに倒れ,昭和60年6月16日に68歳で逝去した。理事長在任10年であったが,ひとり医療系大学を起意し,豪胆に一歩を踏みだしたのは,紛れもなく渡邉 享である。
 かつて,渡邉先生を中に数人の校友とススキノに遊んだ。そのとき先生は,「歯学部は二次の審査なので,薬学部が先になってしまったんですよ」と微笑んだ。私は今も,その穏やかながら毅然とした品格を忘れない。(写真・渡邉 享 先生)

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 私が札幌医大の学生だった頃、
 札幌医大に歯学部をつくる?という話しを聞いたことがありました。
 当時の堂垣内尚弘北海道知事は、
 きっと北海道の歯科医師不足を心配していたと思います。
 私の推測ですが、
 東日本学園の初代理事長が渡邉享先生、
 初代学長が札幌医大初代学長の大野精七先生なので、
 何となくわかります。
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 東日本学園の開学した音別町と、
 その後に移転した当別町は、
 きっと過疎地対策を考えていた当時の北海道知事の考えもあったのかなぁ~?
 …と69歳になった私は考えています。
 今から50年も前のことなのでわかりません。
 根も葉もない、
 エビデンスもない、
 本間賢一の推測です。

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