昔の記憶
西高の想い出(遅刻)
札幌市中央区宮の森と
西区山の手の境界にある通りを、
通称、文化通りと言います。
由来は…?
文化人がたくさん住んでいたから…?
理由はわかりません。
私が昭和45年(1970年)に、
北海道札幌西高等学校へ入学した時には、
文化通りと呼ばれていました。
■ ■
当時は、
札幌に‘区’はありませんでした。
札幌に‘区’ができたのは、
1972年の札幌オリンピックの後です。
文化通りは、
何の変哲もない、
ふつうの住宅街の通りです。
■ ■
大夕張の山奥から、
札幌へ出て来た、
弱冠、15歳の私は、
毎日、この文化通りを通って、
札幌西高校へ通学しました。
西区八軒にあった古い家から、
バスで高校へ通っていました。
今でしたら…
自転車で通学したと思います。
■ ■
毎日、満員の市営バスに乗り、
慣れない札幌の生活でクタクタになって、
必死に通学していました。
私の家の近くに、
函館本線の開かず踏切がありました。
この踏切で待たされ…
バスが遅れた時は、
文化通りを、
重い鞄(かばん)を持って、
ダッシュしたものでした。
■ ■
私がダッシュしていた時には、
必ず、他にもダッシュしている生徒がいました。
中には、悠々と歩いている人もいました。
息切れがして、
途中で休むと…
無残な遅刻でした。
たまに、あと一歩のところで…
用務員のおじさんに、
玄関のドアをガチャンと閉められました。
■ ■
ドアが閉まった後は、
ボイラー室横の入口から入り、
外靴を持って…
とぼとぼと、
生徒玄関まで、
床の冷たさを感じながら…
惨(みじめ)めに歩いたものでした。
毎回、私以外にも、
遅刻組の生徒がいました。
3年間で、
数回遅刻しました。
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毎日、同じ時刻のバスに乗っても、
運悪く…遅刻することがありました。
高校に慣れてくると、
自転車通学をするようになりました。
自転車通学になってからは、
開かずの踏切を避けて通り、
遅刻もなくなりました。
遅刻も今となっては楽しい想い出の一つです。
■ ■
私が一度も遅刻や欠席をしなかったのは、
予備校時代でした。
出席は無かったと思いますが、
とにかく必死で勉強していました。
今晩は西高の仲間が男ばかり集まり、
クラス会をします。
昔の仲間は楽しいものです。
幹事は、
学校であまり勉強しないのに
東大に合格した有沢くんです。
あいつの頭はどうなっているのか?
と…よく思っていたものです。
懐かしいひと時を過ごされている事と思います。
私にも 中学の同窓会の案内がきました。もともと 地元に残っている同級生が多くて 何年か前 同じ年に 二人続けてなくなり、当時担任だった先生から、お葬式だけに顔をあわせるのは寂しいといわれ その年から 我クラスは度々クラス会をしていましたが、このたびは市町村合併になり中学校も大きく一つになるので 社会見学を兼ねた(バスで松島観光) 同窓会を企画してくれました。私は バスの長旅は無理で また来月末はラ・フランスの発送期と重なり 体も疲れているので参加の 会費(寸志)だけ おさめて欠席にしました。
私は 体が弱かったのでしょっちゅう熱を出し、 小学校時代から 進級できないほど 欠席が多かったです。
だから 息子達ふたりが 皆勤賞をいただいた時は嬉しかったです。
先生の笑顔が目に浮かぶようです。
私は夏は自転車でしたが、雨の日と冬はバス通学で、しかも市内のほとんどの高校がその系統のバスを経由するのでバスは私の自宅近く(バス会社の近く)から乗ろうにも、もう満員でドアすら開けてもらえず・・・
ひどい時は朝6時台のバスに乗って通学しても、遅刻になった日があって、門を閉められ、生徒手帳に遅刻とか書かれてたような???気がします。
クラス会楽しんできてください。
ちなみに、今テレビで二トリの安さの秘密が放送しています。