昔の記憶

おばが亡くなりました

 私のおば(太田昌子)が亡くなりました。
 1937年9月生まれ、80歳でした。
 私の母の弟(太田和男)の奥さんです。
 私が小さい頃から、
 けんちゃんケンちゃんとかわいがってくれました。
 叔父とは大学時代に知り合い、
 当時は珍しかった、
 ♡恋愛結婚♡だと聞いていました。
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 子供の私には、
 ♡れんあいけっこん♡が何を意味するかもわかりませんでした。
 小さい頃に、
 はじめておじさんの家に行った時に、
 水洗トイレでした。
 見るのも使うのもはじめてでした。
 おじさんの家は公団住宅でしたが、
 ハイカラでした。
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 おじとおばは、
 昔の北海道学芸大学(今の北海道教育大学)で、
 音楽を学び、
 音楽の先生になりました。
 おじが東京で音楽の勉強を、
 もっとしたいと、
 札幌から関東に引越しました。
 関東学院中学高校で、
 長い間ハンドベルを指導していました。
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 奥さんが亡くなってしまい、
 おじは一人になりました。
 今朝電話がありました。
 教え子たちが、
 みんなやってくれて、
 ぼくはだまってすわっているだけなんだ。

 おじ夫婦には子供がいません。
 おばもハンドベルをしていました。
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 関東学院の卒業生の方たちが、
 おばのことを
 ママ、ままって呼んでくれ、
 最期まで面倒をみてくださり、
 葬儀もしてくださるそうです。
 ほんとうにありがとうございます。
 私は葬儀には参列できませんが、
 札幌から冥福を祈っています。
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 横浜のタウンニュース
 2016年9月1日号に掲載された、
 私の叔父の記事です。
 金沢区・磯子区版
 2016年8月13日、ファイナルコンサートを開いた「クレシェンド」を21年指導した指揮者
 太田和男さん
 並木在住 82歳
 独自に創ったベルの響き
○…「こんなに楽しく棒を振ったことはない」。ミューザ川崎シンフォニーホールで開かれた最後の舞台に涙はなかった。「キレイに響くベルの音が最高で、ウキウキだった」と笑う。客席には教え子や教員仲間、札幌から駆け付けた兄弟、車いす姿の難病の妻ら。アンコールが終わると列ができ、懐かしい顔が見送ってくれた。「舞台を一番楽しんだのは僕だったね」
○…声楽を学び関東学院中学高校の音楽教師に。そんな折、ある演奏会で初めてハンドベルの音色を聞いた。「えもいえない美しい音。『これだ!』と思った」と振り返る。校長にかけあい、何とか40万円近くする3オクターブのハンドベルを米国の会社から購入。だが、肝心の音が響かない。「大変なものを買ってしまった」という思いで必死になった。教本も楽譜もなく指導者もいない中、音を響かせる試行錯誤が始まった。
○…苦難の末、手に入れた大きな音を響かせる関東学院の演奏は、当時の日本のハンドベル界では異端だった。1976年に初の全国大会が開かれるも、柔らかで優雅な音をスピーカーで流す他校から「関東は乱暴だ」と陰口を叩かれた。それでも「生の音で演奏するのが本来のベル」という哲学は曲げられない。生徒たちも「これが関東学院の音」と背中を押した。そんな中、当時の米国ハンドベル連盟の理事長と意気投合。ジョイントコンサートをやろうという話から、世界大会の構想が生まれた。1982年に渡米し理事会で世界大会開催を提唱、その2年後に実現する。海外での評価が高まるにつれ、国内でも認められるようになった。
○…教員時代に始め、21年間活動を続けたクレシェンドのメンバーには関東学院の卒業生も多い。「3年ぐらいしか続かないと思っていたけど」とほほ笑む。このたび、目を悪くするなどの理由で、指揮棒を置く決意をした。「迷惑をかける前にやめないと。最後は大事だから」

太田和男
(以上、タウンニュースより引用)

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