昔の記憶
私の学生時代
私は、昭和45年4月から札幌に住んでいます。
その年に、札幌西高校へ入学しました。
当時は大学区制で、入学定員の3%程度までは、
北海道のどこからでも、札幌の高校へ進学できました。
一番難しかったのが、
札幌南高校、
昔は札幌一中(いっちゅう)と呼ばれていました。
その次が、
札幌北高校、昔の庁立高等女学校です。
札幌西高校は、おおよそ3番目でした。
昔の札幌二中(にちゅう)でした。
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私の父方の祖母が住んでいた、
琴似八軒(後の西区八軒)から、
一番通いやすかったのも選んだ理由の一つです。
西高は自由な雰囲気が‘売り’でした。
自分の学力と相談して、
札幌南は無理でした。
無理のないところが、札幌西でした。
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大夕張に父親を一人残して、
母親、私、弟の3人が札幌へ来ました。
今から思えば、父親には悪いことをしました。
父親は、月に1~2回、
バスで札幌へ来ました。
自家用車もありませんでした。
バスの運賃が、片道1,080円程度だったと記憶してます。
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お金がないので、
母親は、八軒にあった森永製菓の工場へ、
パートで働きに出ました。
エンゼルパイというお菓子を作っていました。
たまに、できそこないで廃棄処分にされるお菓子を、
こっそり持って帰ってくれて、
それを食べるのが楽しみでした。
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当時の日本(札幌)は、
今と比べて裕福とは言えませんでした。
トイレは汲み取り式。
道路は未舗装。
下水道はなく、ドブ川に排水を流していました。
私が高校2年生の時、昭和47年(1972年)に
札幌オリンピックがありました。
その時に、地下鉄南北線ができました。
真駒内⇔北24条でした。
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私は、高校生の時からケチでした。
ケチというより、お金がなかったので、
ケチケチ生活にならざるをえませんでした。
お金がないので、
街に出てラーメンを食べる時も、
必ず安いところで食べました。
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めったに食べませんでしたが、
市役所の食堂なんかを利用しました。
当時は滝本食品という会社が、
市役所の食堂に入っていました。
大通り公園が見える食堂で、
ラーメンが300円もしなかったと思います。
公共機関の安い食堂を利用するのは、
今でも昔のままだと、家内に言われます。
私は悪いことだとは思いません。
北大生協の食堂も好きです。
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それでも、小遣いが少なくなると…
あと500円しかないのに…
どうやって、一週間過ごそうなんて考えたものです。
街へ出かけるのにも、バスを使うとお金がかかるので、
よく自転車を利用しました。
私が尊敬する、
ニトリの似鳥昭雄社長も、
苦労した時代に、
毎日インスタントラーメンしか食べられず、
トリ目になったと言われていました。
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昔と今は違うと家内は言いますが…
人間は、一度は腹ペコになって…
あ~ぁ。
お腹すいたなぁ~
でも財布には、300円しかないから、
どうしたらこれでお腹いっぱいになれるかなぁ~?
という時期が必要だと思います。
そういう時代を過ごした人が政治家になって、
世の中をよくして欲しいと願っています。
医師も同じだと思います。
苦労を知らない人は、
人の痛みがわかる医師にはなれません。