院長の休日
おやじのせなか
平成20年6月15日、朝日新聞の記事です。
おやじのせなか
寺脇 研
偉大な反面教師だった
父は医者でした。
医者というより医学部の教授でした。
強烈な上昇志向の持ち主で、
鹿児島の農村から苦学を重ねて
九州大医学部講師になり、
後に九大総長となる恩師の娘、
私の母と結婚しました。
■ ■
長男の私を、なんとしても医学部の教授にしたかった。
勉強して役に立てというより、
偉くなれ、
自分より偉くなれという感じでした。
父が鹿児島大医学部教授のとき、
私は中高一貫の私学の進学校に
トップで合格しました。
■ ■
自慢の息子だったのは、
そこまでです。
勉強しないもんだから成績は急降下。
高校の卒業時は生徒250人中230番台でした。
父は怒りました。
私の部屋を監視し、
文学本ばかり読んでいるといって
本棚をひもでぐるぐる巻きにして封印したり、
凝っていた将棋盤と駒を捨てたり。
■ ■
こっちは医者になる気はなく、
苦しくて自殺まで考えたけど、
やがて父を欺く術を身につけました。
ふすまに細工をして「ギー」と音が鳴るようにしました。
父の急襲をいち早く察知して、
勉強のふりをする時間を稼ぎます。
■ ■
土曜の夜には家を抜け出して
オールナイトの映画館に入り浸りました。
早朝に帰ると
「徹夜で勉強した」と言って
日中に寝ます。
父は最後まで、
私の真の姿に気づきませんでした。
運よく東大にひっかかり、
キャリア官僚にもなって、
そのたびに手放しで喜ぶ父を
私はしらけた気分で見ていました。
■ ■
私はやりたいことをやって生きていく。
栄達を望む父と意気投合することは、
一度もありませんでした。
無趣味で仕事人間の父は、
大学を退くと何もやることがなかった。
そのとき、
初めてむなしさを感じたようです。
■ ■
テレビで夜遅く電車に乗る塾帰りの子どもを見て、
言ってました。
「いかん。
私のようになるぞ。
おまえ、
なんとかしろ」
と。
■ ■
72歳のとき、
老衰で死にました。
その後読んだ教授時代の日記に
「もっと頑張って、
日本一の学者に、
いや世界一の学者に」
とありました。
■ ■
裏表がなく、
自分の素をさらけ出して生きた人でした。
それでよかったんだ、
と思います。
ある意味、
私と同じ。
その素は、
南極と北極ぐらいの違いがあったけど。
偉大なる反面教師でした。
(聞き手・大出公二)
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
今日は父の日です。
私の父は82歳です。
私の父は、私が大学受験をする時に、
医師ではなく、
弁護士になれと言っていました。
自分が法律を知らなくて、
土地をだましとられたため、
私が小学1年生の時に、
NHKの大学講座で、
法律を勉強していました。
■ ■
NHKで勉強していた、
おやじのせなかを見て育った私は、
今でも、NHKで英語会話を勉強しています。
中学生の時には、
NHKの中学生の勉強室という、
ラジオ講座で勉強しました。
大学受験の時には、
旺文社の大学受験ラジオ講座を利用しました。
■ ■
知らず知らずのうちに…
おやじのせなかを見て、
子どもは育つものだと思っていました。
私は大学を追い出されて、
ひどい目に遭いました。
ですから、
息子を医学部の教授にしたいと思った、
この寺脇先生の
お父さんの気持ちがわかりません。
■ ■
『末は博士か大臣か?』
昔の人は、
立身出世を夢見てこう言ったそうです。
私は医学博士の学位をいただきましたが、
それは研究した成果のしるしであり、
別に偉くもなんともありません。
それで生活が楽になったこともありません。
内閣総理大臣になっても大変そうです。
支持率低迷で四苦八苦ですね。
■ ■
私は美容外科という仕事が好きなのでしています。
子どもは、
自分で好きなことを見つけて、
それをするのがよいと思います。
親から強制されても、
長続きしません。
■ ■
私が高校生の時になりたかったのは、
パイロットでした。
パイロットになった友人に聞くと…
パイロットも大変そうです。
自分が好きな仕事をして、
人に喜んでいただけるのが
一番幸せだと思います。
■ ■
追記:
東北地方の地震で被害に遭われた方に
お見舞い申し上げます。
さくらんぼさんはご無事で、
今日もお仕事をなさっていらっしゃるそうです。
寺脇 研
てらわき・けん
映画評論家、
京都造形芸術大学教授。
文部科学省元大臣官房審議官。
在職当時、「ゆとり教育」を推進し、
「ミスター文部省」とも呼ばれた。
近著に
「官僚批判」(講談社)。
55歳。
上田潤撮影
(以上、朝日新聞より引用)