昔の記憶
札幌西高の想い出
私が札幌西高校へ入学したのが、
昭和45年(1970年)4月でした。
今から38年前です。
自由な雰囲気の高校でした。
当時はまだ制服がありました。
黒の学生服に3本の白い線が入った学生帽です。
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学生服のボタンだけが、
西高のマークがついたボタンになり、
帽子には、西高の校章がつきました。
当時、3本線が入った帽子を被っているのは、
中学生でした。
ですから、高校生になっても3本線は西高だけ。
逆に目立っていました。
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一学年の定員は450人でした。
45人ずつ、10クラスありました。
男子が約300人。
女子が約150人でした。
数からいって、
約半分は彼女ができない組です。
私は、彼女ができない組でした。
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西高は、自由な校風の高校でした。
ある同期(男性)が言っていましたが…
高校に入学すると…
3年生の先輩とかが…
男子と女子が手をつないで通学…
この光景を見て、
カルチャーショックを受けたと言っていました。
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入学して私は1年8組になりました。
橋本順子(はしもとまさこ)先生という、
世界史の先生が担任でした。
『順子と書いて、まさこと読みます。』
というのが最初の挨拶でした。
はっきりと、ものを言う先生でした。
東京のお茶の水女子大卒の、
頭のよい先生でした。
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大夕張の田舎から出て来て、
毎日、バスで通学するだけで大変でした。
とにかく人が多いのに驚きました。
毎日、通学だけで疲れました。
その上、勉強はできず…
英語の暗記はできず…
高校に入ってから、劣等生になりました。
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中学校から選抜された450人が集まったのです。
正規分布した母集団です。
大夕張では、成績が優秀だったとしても…
高校に入ってから成績が落ちるのは、
当然と言えば当然の結果です。
彼女はできませんでしたが、
友人はすぐにできました。
お前、英語の暗記できた?
できねぇ~。
勉強しようと思ったけど、寝ちゃった。
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男同士でも楽しい高校生活でした。
友人にも彼女はいませんでした。
だから、
彼女がいなくても…
自分が価値のない人間とは思いませんでした。
秋葉原の無差別殺人の加藤容疑者。
彼女がいないことより、
男性の親友がいなくて、
携帯とPCが親友だったことが…
孤立を深めた原因だったと思います。