昔の記憶

札幌西高の想い出

 私が札幌西高校へ入学したのが、
 昭和45年(1970年)4月でした。
 今から38年前です。
 自由な雰囲気の高校でした。
 当時はまだ制服がありました。
 黒の学生服に3本の白い線が入った学生帽です。
      ■         ■
 学生服のボタンだけが、
 西高のマークがついたボタンになり、
 帽子には、西高の校章がつきました。
 当時、3本線が入った帽子を被っているのは、
 中学生でした。
 ですから、高校生になっても3本線は西高だけ。
 逆に目立っていました。
      ■         ■
 一学年の定員は450人でした。
 45人ずつ、10クラスありました。
 男子が約300人。
 女子が約150人でした。
 数からいって、
 約半分は彼女ができない組です。
 私は、彼女ができない組でした。
      ■         ■
 西高は、自由な校風の高校でした。
 ある同期(男性)が言っていましたが…
 高校に入学すると…
 3年生の先輩とかが…
 男子と女子が手をつないで通学…
 この光景を見て、
 カルチャーショックを受けたと言っていました。
      ■         ■
 入学して私は1年8組になりました。
 橋本順子(はしもとまさこ)先生という、
 世界史の先生が担任でした。
 『順子と書いて、まさこと読みます。』
 というのが最初の挨拶でした。
 はっきりと、ものを言う先生でした。
 東京のお茶の水女子大卒の、
 頭のよい先生でした。
      ■         ■
 大夕張の田舎から出て来て、
 毎日、バスで通学するだけで大変でした。
 とにかく人が多いのに驚きました。
 毎日、通学だけで疲れました。
 その上、勉強はできず…
 英語の暗記はできず…
 高校に入ってから、劣等生になりました。
      ■         ■
 中学校から選抜された450人が集まったのです。
 正規分布した母集団です。
 大夕張では、成績が優秀だったとしても…
 高校に入ってから成績が落ちるのは、
 当然と言えば当然の結果です。
 彼女はできませんでしたが、
 友人はすぐにできました。
 お前、英語の暗記できた?
 できねぇ~。
 勉強しようと思ったけど、寝ちゃった。
      ■         ■
 男同士でも楽しい高校生活でした。
 友人にも彼女はいませんでした。
 だから、
 彼女がいなくても…
 自分が価値のない人間とは思いませんでした。
 秋葉原の無差別殺人の加藤容疑者。
 彼女がいないことより、
 男性の親友がいなくて、
 携帯とPCが親友だったことが…
 孤立を深めた原因だったと思います。

“札幌西高の想い出”へのコメントを見る

TEL 011-231-6666ご相談ご予約このページのトップへ