院長の休日

苦労しています

平成20年5月から日記にコメントをいただけるようになりました。
美容の杜にいただいたコメントです。
気で気を病む者さん(平成20年5月5日)
夫婦に温度差が出来たり
背中合わせに成ってしまった時
夫婦は修復の手段として
どんな前向きな行動が安穏により近づけられるのだろうか?
      ■         ■
優しい言葉を選んでみたり
こうすれば喜んでくれるのではなかろうか 等
模索して早10年以上が過ぎて
辛抱と忍耐?の生活が進行形です
世間的には?離婚は留まっていますが
勿論
皆様はこんな苦労はして居ないとお察ししておりますが〔苦笑〕
      ■         ■
さくらんぼさん(平成20年5月6日)
何回もcommentしてすみませんm(_ _)m
先生の日記は美容形成に関しては
もちろん 親切・丁寧に説明されているのですが
私が一番好きなのは 先生の姿が 古いアルバムのように見える 内容です
(Blog内で先生の写真を拝見しただけで お会いした事も電話で声を聞いた事もありません)
      ■         ■
炭鉱町の様子は何か 癒されるような記述で情景が目に浮かびました。
また 遠距離恋愛で奥様を見送る姿は
遠くなる飛行機をいつまでもみている先生の姿が目に浮かび、
と、同時に若かりし頃の熱い思いが思い出され、
そんな気持ちもう 忘れてしまっていたっけ、
なんて 思いました。
ここまではセピア色の白黒写真で目に浮かびました。
      ■         ■
カラーで目に浮かぶ姿は
ホワイトデーの白い恋人を買いに札幌の町を歩く先生の姿です。
先生は 国文科?と間違えるほど 情景が浮かぶ記述で、
それがとても ほのぼのとしていて 大好きです。
これからも 無理しないで 楽しませてくださいね。
      ■         ■
私は平成20年2月4日にも書いたように、よく夫婦喧嘩をします。
喧嘩をしなかったのは、結婚してから2年間程度?
あの頃は、幸せでした…。
今、考えても人生で最良の日々だったように思います。
子供が生まれてからは、よく喧嘩になりました。
他愛もないことが原因です。
開業してからは、
医師としての診療や手術以外で困ることが多く、
よく喧嘩になります。
      ■         ■
この日記も苦労して書いています。
ほぼ毎日、何を書こうか構想を練っています。
新聞もよく読むようになりました。
朝、草稿をPCに下書きします。
内容に不安がある時は、時々職員にチェックしてもらいます。
(女性の目で見てどうだろうか…?など)
夜、自宅でもう一度チェックしてからUPしています。
先日のサーバートラブルのようなアクシデントがあると…
草稿の準備ができないことがあります。
      ■         ■
また、毎日まいにちスラスラと書けるのではありません。
途中まで書いて行き詰まることもよくあります。
そんな時に、嫁さんに横でガタガタされたり…
TVの音量が大きいと、イライラが爆発します。
『ドッカーン』と原子爆弾が落ちたようになります。
      ■         ■
私に八つ当たりしないでよ!
少しはオレのことも考えろよ!
そんなに言うなら、代わりに院長日記書いてよ!
院長婦人の日記なら、みんな見たがってるょ!
私にはそんなことはできません。
できないって言う前にやってみたら…
ボクだって最初から書けた訳じゃない。
最初の日記は短いよ!
      ■         ■
ご期待を裏切るようで…
大変申し訳ございません。
私は手術は丁寧で、診療も手を抜いたりしませんが…
決して良い夫ではありません。
気で気を病む者さんの、
温度差とか背中合わせはよくあります。
これはどこの夫婦でも同じではないでしょうか?
完璧な人間なんていませんょ!
私だって苦労して、努力して生きています。

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院長の休日

こいのぼり

 私が小さい頃、家に鯉のぼりはありませんでした。
 家内もお雛様を持っていなかったそうです。
 今から23年前に、長男が生まれました。
 家内の両親が、こいのぼりを贈ってくれました。
 当時、私は北大形成外科のチーフレジデントをしていました。
 以前にも書いたように…
 長男が生まれた時刻に、
 私は北大病院で、患者様の病理解剖に立ち会っていました。
      ■         ■
 当時住んでいたのは、札幌市北区新琴似のマンションの1階でした。
 3LDKで、家賃が管理費込みで6万円でした。
 北大病院のお給料では、マンションを購入する余裕はありませんでした。
 転勤も多かったので、賃貸マンションをお借りして住んでいました。
 JR新琴似駅からすぐで、
 近くにフレッティーというスーパーもあり便利なところでした。
 私はこのマンションが気に入っていました。
      ■         ■
 家内の両親が贈ってくれた鯉のぼり。
 マンションの1階だったので、ベランダ外側の、
 敷地内に立てました。
 今でしたら、管理規約でダメと言われるかも知れません。
 そこのマンションでは、特にお咎め(オトガメ)もなく、
 鯉のぼりを黙認してくれました。
      ■         ■
 鯉のぼりを上げるのは、家内の役目でした。
 雨の日は上げられません。
 朝、上げて…
 夜、しまいます。
 私は休日程度しか、上げませんでした。
 鯉のぼりは、この上げ下げが結構面倒だと知りました。
      ■         ■
 新琴似から、釧路労災病院へ転勤しました。
 釧路労災病院でも官舎の敷地内に立てた記憶があります。
 ただ、釧路の5月は寒くて、霧も出ました。
 あまり、鯉のぼりの出番がなかった記憶があります。
      ■         ■
 釧路の次は、函館中央病院に一年間勤務しました。
 函館の住宅は、五稜郭公園のお堀の前でした。
 自宅の窓から、
 五稜郭公園の桜が見える最高の場所でした。
 ただ、そこは3階建のアパートだったので、
 鯉のぼりを立てる場所がありませんでした。
      ■         ■
 札幌へ帰って来たのが、平成元年でした。
 私が35歳。
 長男が4歳でした。
 まだ、鯉のぼりを喜ぶ年齢だったので、
 西区山の手に新築した自宅で、
 久しぶりに鯉のぼりを立てました。
 住宅ローンで、家計は火の車でしたが、
 久々に空を泳いで、鯉のぼりも楽しそうでした。
      ■         ■
 ただ、山の手の家は川のそばにあり…
 風が強い場所でした。
 家内いわく、鯉のぼりを上げても…
 ポールに絡まって(カラマッテ)しまい…
 鯉が上手に泳がない。
 山の手には、
 平成元年から平成6年まで住んで、
 帯広厚生病院に転勤となりました。
      ■         ■
 帯広で、鯉のぼりを上げたかどうか…?
 記憶が定かではありません。
 帯広では、西帯広の住宅地に、
 一軒家をお借りして住んでいました。
 とても快適な家でした。
 私の記憶では、最後に鯉のぼりを上げたのは…
 子供が小学生だった、山の手の家だったと思います。
      ■         ■
 さくらんぼさんが、
 昨日の日記でコメントしてくださったように…
 子供が大きくなると、
 鯉のぼりより、
 部活のサッカーや友人との釣りが楽しくなり、
 家で鯉のぼりを上げても喜ばなくなったためでしょう。
 鯉のぼりは…
 男の子が生まれて喜んだ、
 親と祖父母のためにあったのか?
 と考える年齢になりました。

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医学講座

こどもの日

 今日はこどもの日です。
 わが家には、
 もう、こどもと呼べるような、小さな子はいません。
 こどもは交通機関の料金体系を見ても、
 せいぜい小学生まででしょう。
      ■         ■
 こどもの定義は、はっきりしていません。
 小児科は従来は中学生までを診療していました。
 高校生になると、小児科は卒業でした。
 現在、日本小児科学会ではHPに次のように書いています。
 ■■小児科医は子ども達が成人するまで見守ります ■■
 日本小児科学会では、小児科が診療する対象年齢を、
 現在の「中学生まで」から「成人するまで」に引き上げること、
 そして、その運動を全国的に展開することを、
 平成18年4月に決定しました。
 これまで小児科に通院していた15~20歳の方はもちろん、
 これまで小児科に通院していなかった15~20歳の方も、
 どうぞ、気軽に小児科医に御相談下さい。
 小児科医は、積極的に診察して参ります。
      ■         ■
 私たち形成外科医も、こどもの病気を治療します。
 今は入院施設がないので、小児の手術はしていません。
 私が総合病院や大学病院の形成外科医だった時は、
 唇顎口蓋裂などの手術をよくしていました。
 生まれつき口唇が割れている唇裂の手術は、
 私が得意とする分野でした。
 口唇を治すだけではなく、鼻の形を整えたり、
 矯正歯科の先生と歯並びのために骨を移植したりしました。
      ■         ■
 今でも、昔、手術をさせていただいた方をたまに診察しています。
 もう、すっかり大きくなっていて、
 こどもとは言っては失礼な年齢になっています。
 それでも、赤ちゃんの時から診ている
 ○○くん、
 ○○ちゃん、
 は自分の子供のように可愛いものです。
      ■         ■
 私自身も市立札幌病院に勤務していた時に、
 小児科を受診しました。
 おたふくかぜ(正式には流行性耳下腺炎)が流行しました。
 私は、おたふくかぜに罹った記憶があいまいでした。
 小児科の先生に相談したところ、
 ワクチンを接種した方がよいと言われました。
 ワクチンは小児科にしかなく、自費だったので、
 小児科のカルテをつくり、
 小児科でワクチンを注射してもらいました。
      ■         ■
 市立札幌病院では、小児科学会の決定以前から、
 中学生以上の方も小児科で治療していました。
 小児糖尿病や喘息など、
 高校生になったからといって、
 すぐに小児科を卒業できない病気もあります。
 私は、こどもの時から診てくださった先生が
 ‘大人’になってからも診察してくれるのはよいことだと思います。
      ■         ■
 元気なこどもさんばかりではありません。
 病気で苦しんでいるこどももたくさんいます。
 中には、こどもなのに亡くなってしまう、
 とても可哀想な病気もあります。
 立派な先生の子どもさんも、ガンで亡くなってしまいました。
 こどもも親もかわいそうです。
 医療者にできることには限りがあります。
 医学も万能ではありません。
 医学が進歩して、
 不幸な病気が一日も早く根絶されることを願っています。

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医学講座

階段男

 平成20年5月4日、朝日新聞日曜版の記事です。
 元気の秘密
 常に鍛えるそれがプロ
 喜劇役者
 伊東四朗(いとうしろう)さん
      ■         ■ 
 5階までなら、必ず階段を使うように心掛けている。
 1階だけでもエレベーターに乗るのを見ると
 「もったいない」と思う。
 「人に見てもらう仕事をしている。
 鍛えておかなければいけない。
 それがプロだろう」。
 そう語る厳しい表情が一転、ほほ笑みに。
      ■         ■
 「階段男ですね」
 自宅に戻ると、
 都内などの街の様子が映し出されるウォーキングマシンで4~8㌔歩く。
 その後、風呂に入りながら、百人一首などを声に出して覚える。
 覚えるものは大リーグの全球団名だったり、全米の州名だったり。
 その日によって変えている。
      ■         ■
 5、6年前、「脳の細胞は毎日死滅している」
 と聞いたことがきっかけで始めた。
 「脳を休ませちゃだめだと、
 時間があれば台本の脇に暗記したい数字を書き連ねることも。
 「つまらないだろうと言われるけど、そんなことはない。
 仕事のためにやっているんだから。せりふの入りもよくなった」
      ■         ■
 テレビ番組の司会のほか、映画、ドラマでシリアスな役もこなす。
 ただ、あくまでも自らのことは「喜劇役者」と呼ぶ。
 「世の中、普通の生活の中に喜劇的なことがいっぱいある。
 それを見過ごしているだけですからね。
 刑事役を演じていても
 『こう言ったら和むだろう』なんて、
 喜劇の視点で考えたりしている」
 いつでも仕事を活力にしているようだ。
 文・本多昭彦 写真・安藤由華
      ■         ■
 1937年、東京生まれ。
 1962年、三波伸介、戸塚睦夫と
 「てんぶくトリオ」を結成し人気に。
 テレビ番組の司会やコント、
 「おしん」(NHHK)など
 多数のドラマ・映画の役者と、幅広い分野で活躍。
 6月7日公開の
 映画「築地魚河岸三代目」(松原信吾監督)で
 2代目店主役を演じている。
 「伊東四朗一座」を作り、舞台喜劇も続ける。
 (以上、朝日新聞より引用)
      ■         ■
 私も平成18年11月6日の日記に書いたように…
 ‘階段男’です。
 きっかけは、健康診断で中性脂肪が正常値の3倍だったことでした。
 内科の友人に相談し、運動をすすめられました。
 当時は今よりもっと働いていました。
 休日もありませんでした。
 もちろんスポーツクラブに行く時間もありませんでした。
      ■         ■
 日常生活の中で、できる運動法を探しました。
 以前にも書いたように…
 整形外科教授の石井清一先生が、
 朝、エレベーターを使わずに…
 1階から10階まで、
 歩いて上がられるのを見てチャレンジしました。
      ■         ■
 私の形成外科医局は13階にありました。
 札幌医大の最上階でした。
 最初は、5階まで上がっただけで…
 息が切れました。
 その後、8階、10階と少しずつ休まずに上がれるようになりました。
 退職する頃には、
 地下一階の外来から13階まで…
 ヒョコヒョコ上がれるようになりました。
      ■         ■
 大学時代には学生実習も担当していました。
 臨床実習に来た学生さんに言いました。
 『エレベーター来ないから、階段で上がろう!』
 『先生、マジっすかぁ?』
 『13階っすよ!』
 勇気ある学生さんが、私に着いてきました。
 全員、8~10階付近で、
 『もう、ダメっす!』
      ■         ■
 私は今でも…
 毎朝、札幌美容形成外科のスノー会舘ビルの階段を上がります。
 6階建ですが、屋上の7階まで階段があります。
 たまに、下の雪印パーラーの店員さんと会います。
 変なおじさんと思われていることだと思います。
 階段のおかげで、中性脂肪は下がったままです。
 これからも、階段を愛用したいと考えています。

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未分類

サーバー移転と不具合

 平成20年5月1日から、
 札幌美容形成外科HPのサーバーを移転しました。
 開院時から、NTT関連会社のサーバーを使用しています。
 以前は容量の関係で、
 日記のコメントも入れられませんでした。
      ■         ■
 新しいサーバーは、容量が大幅にUPしたので、
 日記のコメントも入るようになりました。
 サーバーの移転は、簡単な作業ではありませんでした。
 日記で使用しているプログラム。
 セキュリティの設定など、
 私には無理な部分がたくさんありました。
      ■         ■
 今回も、オフィスクロスロードの須崎克之さんにお世話になりました。
 4月上旬から準備をはじめました。
 何回かテストをして、万全の体制で臨みました。
 須崎さんに設定していただいた、プログラムは問題ありませんでした。
 ところが、昨夜からメールの送受信ができなくなりました。
      ■         ■
 NTTの関連会社は連休でお休みです。
 途方に暮れて、自分でいろいろ設定を変更してみました。
 それでもつながりません。
 困りました。
 連休中に病気になったり、ケガをして困るのと一緒です。
 原因はサーバーの基幹ソフトウェアの動作異常でした。
      ■         ■
 こちらからNTTの関連会社に連絡しようにも、
 連絡はできませんでした。
 インターネットは便利ですが、
 サーバーに不具合があると困ります。
 一番、信頼できそうな会社を選んだのですが、
 それでもこの状態です。
      ■         ■
 須崎さんには電話でも、メールでもすぐに連絡がつきました。
 NTTには電話は通じません。
 連休でお休みです。
 HPの工事・障害情報の項に
 お知らせ
 メールサービス動作不安定
 原因
 基幹ソフトウェアの動作異常
 お客さまにはご迷惑をお掛けし、誠に申し訳ございませんでした。
 現在は復旧しておりますので、お客さまにおかれましても動作のご確認をお願い申し上げます。

 と記載されただけでした。
      ■         ■
 こっちは、昨夜から自分のPCの不具合だと思って…
 何度も、あっちをいじったり、こっちをいじったりして、
 どうしてもダメで須崎さんに電話をしました。
 NTTにもメールをしましたが、返信はなし。
 大企業なんてこんなもんでしょうか?
 札幌美容形成外科は中小企業ですが、
 何かトラブルがあった時には対応できるようにしております。
 でも、その根幹であるメールが使用できないと困ります。
 NTTさん、もっとサービスをよくしてください!

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未分類

千の風になって

 平成20年5月2日、北海道新聞朝刊に掲載された、
 千の風になっての特集記事から、一部を引用しました。
 この記事は平成20年4月25日に七飯町文化センターで開催された、
 「ななえ講演会とシンポジウム」の要旨をまとめたものです。
 訳詩・作曲 新井満氏の基調講演要旨
 死は命の再生 風は地球の呼吸
      ■         ■
 なぜ七飯町大沼で暮らすようになったのか。
 二十年前に芥川賞を頂き、
 函館の文学サークルから講演会に招かれました。
 終わって帰ろうとすると、
 主催者が「いい所へ連れていく」。
 車で四十分、そこが大沼でした。
      ■         ■
 森の中の崩れそうな一軒家を紹介され、
 売りに出ているから買いなさいという。
 安くはない買い物です。
 駒ケ岳から飛び降りるつもりで買いました。
 購入を決めた第一の理由は、風景が美しいこと。
 取材や講演で日本中を訪ねた経験から自信を持って言いますが、
 七飯は最高です。
 人工的な騒音がなく、
 訪ねてくる人もいない。
 来るのはキタキツネやタヌキ。
 リスもエサをくれと扉をノックします。
 美しい自然は表現活動を変えました。
      ■         ■
 もう一つの理由は人情です。
 自然は美しいだけでなく残酷です。
 四年前の九月、
 台風18号で別荘の周辺は壊滅状態になりました。
 倒木で道路が寸断され、
 家の外には一歩も出られません。
 三日聞飲まず食わずで絶望のどん底にいると、
 木を切りながら誰かが近づいてくる音がします。
 地元の方がチェーンソーで避難路を切り開いてくれて、
 私と妻、娘二人、犬は辛くも脱出できました。
      ■         ■
 助けてくれたのは七飯でできた友人の画家
 木村訓丈さんたち。
 木村さん以外は初対面です。
 自分たちも大変なのに、
 私を助けてくれた。
 涙があふれ、
 この恩は忘れないと誓いました。
      ■         ■
 その翌月、故郷の新潟で中越地震がありました。
 救援物資はすぐに届きますが、
 何もすることのない一ヵ月すぎが被災者には一番つらい。
 家族会議で、今こそ花だ、
 七飯特産のカーネーションを送ろうと決め、
 千本を送りました。
 被災者の方々は、
 けなげに咲く花の姿に涙したそうです。
      ♪         ♪ 
 「千の風」の話をさせてください。
 故郷に弁護士の友人がいます。
 奥さんと子どもが3人。
 その奥さんが、
 がんの転移で48歳で亡くなりました。
 何と声を掛ければいいのか。
 「ご愁傷さま」はしらじらしい。
 「力を落とすな」は酷です。
      ■         ■
 奥さんの追悼文集で変わった詩を目にしました。
 12行、作者不詳の英文詩です。
 作者は死者に違いないと思いました。
 「元気でいるから泣かないで」
 と死者が生者を慰めている。
 不思議な力があり、
 読む人の魂をぐいぐい揺さぶる。
      ■         ■
 訳してみよう。
 メロディーを付けて歌にしたら、
 友人の家族を少しでも癒やせるのでは、
 と思いました。
 簡単だと思って訳し始めましたが、難航しました。
 最後の最後、詩を叫ぶように朗読しました。
 七年前の夏、
 誰もいない湖畔の森の真ん中で。
 目を閉じてしばらくすると、
 遠くからザーッという音が聞こえました。
 目を開けると、
 風で森全体の木々が揺れているのを見ました。
 そうか、この詩の根幹は風なんだと気付きました。
      ■         ■
 風は至る所にあり、すぐにやむ。
 しばらくすると息を吹き返す。
 風は地球の呼吸なんだ。
 死んだけど本当は死んでない。
 人間以外の姿に生まれ変わった―。
 死と再生の歌だと分かり、
 スラスラと翻訳できました。
      ■         ■
 ギターでメロディーを付け、
 録音したCDを友人に送りました。
 奥さんをしのぶ会で披露されて、
 聴いた人が皆泣いたそうです。
 既に百人以上の歌手がこの曲を歌っています。
 一昨年、秋川雅史さんが紅白歌合戦で歌うと話題になり、
 CDの売り上げは百万枚を突破しました。
 ヒットによる心境の変化をよく聞かれます。
 「すっかりいい人になりました」
 と答えています。
      ■         ■
 それまでは欲深かった。
 地位、名誉、お金。
 この曲を歌うようになって、
 それらがばかばかしく思えるようになりました。
 人間、生まれる時は無一物。
 死んで風になる時、
 そういったものは荷物になるだけです。
               
 七飯という町は十分に魅力的です。
 では、なぜ観光客が減ったのでしょうか。
 魅力的な町が全国に増えたからです。
 どうすれば人の目が向くのでしょう。
 観光客がお金と時間を使って旅に出る動機は「物語」です。
 「千の風」は日本中が知っています。
 「どうやら七飯の大沼でできたらしいぞ」
 「じゃあ行ってみようか」
 となる。
      ■         ■
 大沼のモニュメントは、
 日本では珍しく、
 景観の邪魔にならない「マンホール型」です。
 今日見てきたら、既に観光客でにぎわっていました。
 「千の風」は大沼で生まれましたが、まだ赤ちゃん。
 七飯の皆さんに育ててもらう必要がある。
 丈夫で明るい子どもに育ててほしい。
      ■         ■
 私の母は助産師として何千人もの赤ん坊を取り上げ、
 91歳で亡くなりました。
 その母は自分の中で生きている。
 親から子、
 孫へ命はバトンタッチされるのです。
 命は不滅です。
 心が苦しい時、
 思い出していただきだい。
 大切な人は風や星になり見守ってくれている。
 だから勇気を出して生きていこう、と。
 死ぬ時は誰にも来ます。
 その時には風や星になって
 後に残した人を見守ってあげればいいんです。
 死は命の終わりではなく再生なのです。

 あらい・まん 作家。
 作詞・作曲のほか、写真、環境映像プロデューサーなど多彩に活動する。
 1946年新潟県生まれ。
 上智大法学部卒業。
 1988年「尋ね人の時間」で芥川賞。
 1998年の長野冬季五輪では開・閉会式のイメージ監督を務めた
 (以上、北海道新聞より引用)

      ■         ■
 私は、自分のお葬式に、
 千の風になってを流して欲しいと家族に言っています。
 函館中央病院形成外科に勤務していた時、
 よく大沼に行っていました。
 七飯には美味しいイチゴも売っています。
 秋には、美味しいリンゴもできます。
 七飯のリンゴで作ったアップルパイは最高です。
      ■         ■
 この記事を読んで、
 「千の風になって」ができた経緯がわかりました。
 医者も弁護士も、
 家族の死には無力です。
 この「千の風になって」が、
 どれだけ多くの人の心を癒してくれたことでしょうか?
 歌には、医学でも法律でも解決できないことを…
 魔法のように解決してくれる不思議な力があります。

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医学講座

硫化水素自殺

 硫化水素による自殺が各地で問題になっています。
 報道すればするほど…
 硫化水素による自殺者が増えているような気がします。
 ネットで調べると…
 今でも‘簡単に’
 硫化水素の作り方を見つけられます。
 私だったら、次のような報道を考えます。
      ■         ■
 人間は誰でも、
 ‘死にたい’と思う瞬間があります。
 私も、思ったことがあります。
 ただ、本気で自殺してしまうかどうかが問題です。
 私を含めて、大部分の人は…
 ‘死ぬよりは…’
 と考え直して、
 自殺を思いとどまります。
      ■         ■
 また、‘死のう’と思っても…
 簡単に死ねないのも事実です。
 自殺しようと思った人でも…
 苦しんで死ぬのはイヤだ。
 痛い思いをして死ぬのはイヤだ。
 ぶざまな格好で死ぬのはイヤだ。
 汚くなって死ぬのはイヤだ。
 などなど…
 死ぬ間際まで、人間はワガママなものです。
      ■         ■
 私たち医師は、さまざまな自殺者を治療してきました。
 救命救急センターに搬送される患者さんの中には、
 多くの自殺未遂患者がいます。
 私たち形成外科医が一番多く経験したのが、
 焼身自殺による自殺者です。
 マスコミは、自殺の事実と、
 亡くなったか?
 意識不明の重体か?
 という程度までしか報道しません。
      ■         ■
 焼身自殺をして、死ねなかったらどうなるか?
 想像できますか?
 どのくらいの治療費がかかるか?
 想像できますか?
 これを報道するだけで、
 焼身自殺は減ると思います。
 それ位、焼身自殺は悲惨であり、
 元の美しい顔が台無しになってしまいます。
      ■         ■
 本題の硫化水素自殺に入ります。
 硫化水素を検索してください。
 Wikipediaにも書いてあります。
 硫化水素は悪臭防止法に基づく特定悪臭物質のひとつです。
 おならやウンコが臭いのは、硫化水素のためです。
 下水処理場、ごみ処理場などのにおいも、
 硫化水素が原因の一つです。
      ■         ■
 つまり、硫化水素で自殺をすると…
 臭くなります。
 それも、おならやウンコの臭いです。
 髪の毛や皮膚に臭いがつくととれません。
 硫化水素で自殺をすると…
 棺桶(カンオケ)の中まで臭くなります。
 棺桶の蓋をして、
 火葬場で焼かれるまで臭いのです。
 私は、これを報道すれば、
 明らかに、女性の自殺者は激減すると思います。
      ■         ■
 どんなに死にたい人でも…
 ウンコの臭いが身体に染み付いた状態で死ぬのはイヤです。
 ウンコ臭いまま、棺桶に入れられ…
 棺桶の蓋をする時に…
 参列者が、
 ハンカチで涙ではなく…
 臭いをガマンできなくて鼻に当てます。
 思わず言います。
 『くさい』
 専門家に出演していただき、
 硫化水素がいかに臭いかをお話ししていただくのが効果的です。
 ぜひ、ワイドショーで取り上げていただきたい話題です。

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院長の休日

心地よい疲労感

 美容外科・形成外科に限らず、
 外科系医師になってよかったと思う瞬間は、
 手術がうまく終了した時の、
 心地よい疲労感です。
 手術までは、緊張しています。
 もちろん、手術中も緊張しています。
      ■         ■
 手術が終了して…
 トラブルもなく、うまく終了した時には、
 何とも言えない、
 心地よい疲労感があります。
 登山で、頂上にたどり着いた時?
 何か、充実感とか満足感があります。
      ■         ■
 いつも感じるのではありませんが、
 難しい手術を、上手にこなした時など、
 ちょっとハイになって…
 何とも言えない、満足感があります。
 形成外科は作品を作る楽しみがあります。
 作った作品が、キレイな女性で…
 『ありがとうございました♪』といわれると、
 とてもよい気分です。
 他科の先生には、ない楽しみだと思います。
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 私は、ビールもあまり飲みません。
 家内と、350mlの缶ビールを、
 半分ずつ飲みます。
 飲んだらすぐに眠ってしまいます。
 心地よい疲労感がある時は、
 この175mlのビールが実に美味しいです。
 毎日、ビールを飲むのではありません。
 たまに飲むだけです。
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 私が、形成外科や美容外科が好きなのは、
 自分で、自分の満足が行くように…
 手術ができるからです。
 手術がうまくいって、キレイに仕上げるのが、
 私の生きがいであり、
 形成外科医としての醍醐味です。

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昔の記憶

昭和の日

 今日は昭和の日です。
 平成元年から平成18年までは、みどりの日でした。
 私が子供の頃は、天皇誕生日でした。
 結婚してからは、義父の誕生日でした。
 以前にも書きましたが、家内の父は国鉄マンでした。
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 平成5年4月6日に、心筋梗塞で急逝してしまいました。
 今でも残念に思っています。
 4月29日になると、義父のことを想い出します。
 私は、義父に結婚を反対されました。
 『北海道は遠い』
 これが理由です。
 確かに、関西から北海道は遠かったです。
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 私が直接言われたのではありませんが、
 『お医者さんは、看護婦(看護師)さんと浮気をする』
 というようなことも…
 理由に入っていたとか?
 聞いた覚えがあります。
 これは、お医者さんに限らず…
 その人によると思います。
 私の友人を見てもそうです。
 義父に言われたためではありませんが…
 私は一度も浮気をしていないし、
 すすきのにもめったに行きません。
 風俗にも行きません。
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 うちのお父さんは、旅行に行っても…
 必ず線路を見ている。
 結婚する前に家内から聞いた言葉です。
 義父は、国鉄の保線マンでした。
 定年退職する前は、尼崎(アマガサキ)保線区長でした。
 JR西日本で、大事故があった尼崎です。
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 あの事故があった時…
 義父が生きていたら、
 どんなに悲しんだことかと、胸が痛くなりました。
 事故があった線路は、義父の管轄でした。
 当時は、福知山線(フクチヤマセン)と言っていました。
 保線区は、線路の除草まですると教えてくれました。
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 昔は、家が貧乏だと…
 立身出世のために、
 国鉄に入ったものだと聞いたことがあります。
 私の祖父も、国鉄に勤めていました。
 義父も島根県の農家の八男でした。
 尋常小学校を卒業後に、大阪に出て、国鉄に入りました。
 亡くなる前も、線路の仕事をしていました。
 50年間も、線路一筋のおじさんでした。
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 昔は、こうして…
 この道一筋の、職人みたいな人が多かった気がします。
 今は、多いのがフリーターやニート。
 苦労して仕事を覚えるというのが、
 若い人に受けないのかも知れません。
 でも、安全に電車を運行するには、
 線路がしっかりしていなければなりません。
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 義父から聞いた印象に残っている言葉があります。
 台風や大雨が降った時の列車の運行です。
 保線区長がOKを出さなければ、
 たとえ特急でも停止して待たなければならない。
 それほど、自分の職務に自信と責任を感じていた人でした。
 もう少し、いろいろなことを相談してみたかった…
 じいちゃん、何でそんなに早く死んじゃったの?
 というのが、義理の息子としての本音です。

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医学講座

化粧はすれども

 平成20年4月27日、朝日新聞朝刊、ひとときへの投稿です。
 化粧はすれども
 朝、いつものように洗面所で化粧水、乳液をペタペタとつけていると、
 主人がのぞきにきた。
 「どうですかなぁ、少しは直りますかなぁ?」。
 私が「あきまヘーん、
 土台がしわしわじゃけん。
 どげんもなりまっせん」
 と言って、
 2人で大笑いになった。
 主人93歳、
 私85歳。
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 主人は掃除、洗濯、庭いじり。
 そして自転車でスイスイお買い物。
 いたって元気で、目の悪い私を支えてくれる。
 私も一通りの家事には不自由しない。
 介護を一切受けず、2人で何とか暮らしている。
      ■         ■
 自分の顔が気になるようになったのは、
 弟ががんで亡くなった2年前。
 悲しみからか、10㌔もやせた。
 玉手箱を開けた浦島太郎みたいに
 髪は真っ白、
 顔はシワシワの
 ばあ様になった。
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 母が84歳で亡くなった時の死に顔が余りにも哀れで、
 悲しかったことが忘れられない。
 自分はふっくらとした優しい顔で死にたいと願っていた。
 それなのに、
 何と生身の私の顔が母のその時とそっくりになり、
 やつれ果てた顔が鏡に映っているではないか。
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 ファンデーションを塗り、
 紅をさして小学校や女学校の同窓生と会うと、
 スタイルが良かった人は背中が曲がり、
 美しかった人は顔がしわくちゃになってしまっていた。
 仕方がないことだ、と納得はしているのだが……。
 福岡県新宮町  山田とみえ 主婦85歳
 (以上、朝日新聞から引用)
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 これは、私の勝手な想像です。
 この85歳のご婦人は、きっと美しい方です。
 身なりも、しゃきっとしていらして…
 85歳より、ずっとお若く見えると思います。
 85歳になっても…
 化粧水・乳液をペタペタとつけて…
 ファンデーションを塗り…
 紅をさして…
 小学校や女学校の同窓生と会う…
 というのが、推定の根拠です。
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 キレイにして、お化粧をしていると…
 ボケないそうです。
 高齢化社会になりました。
 特別養護老人ホームに勤務されている、
 看護師さんにお聞きしました。
 特養に限らず、
 高齢者専用マンションなどに入居されているのは…
 圧倒的に女性が多いそうです。
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 私を含めて、男は短命で長生きできません。
 どうせ長生きしているのだったら…
 いくつになっても、キレイでいたいと願うのが…
 女心です。
 85歳のこの投稿者の女性は…
 きっとキレイな方です。
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 投稿に書いてありましたが、
 人間は悲しみや苦しみがあると…
 急にトシをとることがあります。
 この女性のように、身内が急死した… 
 なんてことは、耐えられないことです。
 玉手箱を開けた浦島太郎みたいになる
 ことも実際にあることです。
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 浦島太郎の時代には、美容外科はありませんでした。
 現代医学は、浦島太郎も治せます。
 浦島花子さん、
 是非美容外科にいらしてください
 手術が無理なら、切らない治療もできます。
 手術ができる方でしたら…
 保険適応になる眼瞼下垂症手術もあります。
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 私は何人も、
 浦島花子さんを治療した経験があります。
 悲しい事実は、覆す(クツガエス)ことはできません。
 ただ、悲しくて…
 シワシワになってしまった顔を治すと、
 元気になります。
 内科や精神神経科ではできない治療です。
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 今日は家内の誕生日です。
 私は、朝日新聞の投稿者のご主人のように
 93歳までは生きられません。
 元気でいられる自信もありません。
 私が亡くなったら…
 どこかの美容形成外科へ行って…
 治してもらってください。
 いつまでも、若く美しくいることは、
 ボケ防止にも役立ち、いいことだと思います。

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