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吉野家③
2003年12月24日、吉野家の安部修仁社長は深夜に一本の電話を受けました。
吉野家は米国カリフォルニア州にも約100店の店舗があります。海外に現地駐在員がいます。
緊急の要件は、深夜でも早朝でも社長に直通で電話がかかります。夜中から早朝に来る電話はイヤな用件が多いのです。と社長はお話しされました。
欧州で問題になっていたBSEが、米国で発生したという第一報でした。
■ ■
『ヤバイ!まいったな!』というのが正直なところでした。
輸入停止になると予測はしましたが、こんなに長く続くとは夢にも思いませんでした。
牛肉が止まる?→何をやる?
社長として何をやらなくてはいけないか?
この時ほど、頭が急速回転して、いろいろなことを考えたことはなかった。
いっぺんに、いろいろなことをグルグルと考えていた。
自分の潜在的能力をフルに出し切って考えていた。
■ ■
会社に向かう車の中で、商品担当常務と電話で話し、特別対策本部を設置しました。
会社に寝泊りしながら、話し合いました。
吉野家は東証一部上場会社です。
12月30日が東証の大納会。それまでに方針を決定し、情報を開示しなくては会社の存亡にかかわります。
■ ■
吉野家には直営店の他にFC店があります。
フランチャイズ加盟店に説明するのが、12月28日と29日。
12月24日25日26日の僅か3日間で方針を決めなければなりません。
さすがの安部社長も、この時は本当に窮地でした。
特別によい考えが、すぐにあったわけではありませんでした。
吉野家は牛丼が売り物で、牛丼がダメだったらすぐに他のものに転換できる状態ではありませんでした。
■ ■
店舗の厨房、什器、店員の教育、原材料の供給。
どれをとっても、牛丼専用に作られているのが吉野家です。
牛丼以外の商品を提供するのは、新しい業態を創業するのと等しい作業です。
すべてが無い無いづくしの状態でした。
牛肉がなくなった時に何を販売するか?
新メニューの開発、キッチンオペレーションマニュアル、原材料の発注、店舗への供給。
■ ■
ハードがない。
スキルがない。
今だからはっきり言えるけど、いいものが出せるはずがなかった。
牛肉がなくなってから、初動の1~2ヵ月は試行錯誤の連続。
この時に社長が一番気にかけたのが内部崩壊。
社内がパニックになっては、一気に会社がつぶれます。
■ ■
安部社長からリーダーへの訓示は、朝令暮改をためらうな。
それまでの吉野家では、一番忌み嫌われていた言葉でした。
言うことをコロコロ変えろ。
軌道に乗せるまでは、変えることを躊躇(チュウチョ)するな。
従業員へは
向こう3ヵ月は何があっても怒らないでください。何があっても腹を立てないでください。と訓示しました。
混乱の渦(ウズ)になるのを防ぐことを一番心がけました。
■ ■
勝つまでやるから必ず勝つ。
牛丼抜きの長い戦いがはじまりました。
1980年に倒産を乗り切った社長だから、主力の牛丼がなくなっても、会社はつぶれませんでした。
吉野家社員の85%は、1990年に上場して株式を公開してから入社していました。
順風満帆に育った社員が、生きるか死ぬかの目に遭いました。
困難を乗り越えて、軌道に乗せて、クリアーしたという体験は何ものにも代えがたい貴重な体験でした。
■ ■
950日間のブランクを乗り越えて、2006年9月18日に牛丼が復活しました。
午前11:00の開店前には、お客さんが並んで待ってくれました。
開店と同時に、お客さんから自然と拍手がわきました。お客さんに勇気と感動をいただきました。
■ ■
私は安部社長の講義を拝聴して心を打たれました。一人のリーダーの気質でここまで人を引きつけられるのは素晴らしいことです。
どんなことがあっても決して諦めず、辛抱強く続けることの重要性を教えていただきました。
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吉野家②
昨日に引き続き、吉野家の安部修仁社長のお話しです。
日経BP社から2007年3月12日に『吉野家 安部修仁 逆境の経営学』という本が出版されました。
著者は戸田顕司さんという日経ビジネスの記者さんです。約3年間にわたり、安部社長を取材し、2006年10月2日号~11月27号まで、日経ビジネスに連載されたました。
安部社長がいかに逆境から立ち直り、吉野家を再建させたかがよくわかります。
■ ■
吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しました。
その時、安部社長は30歳。将来を嘱望(ショクボウ)される幹部候補生で、前年には米国へ社命留学。倒産直前には、本社の部長格でした。
そもそも、安部社長は、九州、福岡の工業高校を卒業後、リズム・アンド・ブルース(R&B)のバンドのリーダーとして上京しました。
発刊間もない、まだペラペラだったアルバイトニュースで一番時給が高かったのが吉野家でした。アルバイトで生活費の足しにするつもりで入ったのがきっかけでした。
仕事ぶりを評価されて、正社員になり、すぐに店長を任されました。
■ ■
吉野家は、2代目社長の松田瑞穂さんの強力なパワーで、1968年からチェーン展開に進出しました。
築地市場は比較的裕福な方がお客さんでした。ある程度価格が高くても牛丼は売れました。
チェーン展開する時に、それまでの‘うまい!早い!’に‘安い!’をプラスしました。
ここから安さへの探求がはじまりました。
■ ■
1977年には店舗数が100を、1978年には200を突破しました。
安部社長は100店の手前で、九州地区本部長に昇格していました。
日本国内200店では足らずに、米国200店構想まで出ていました。
「急成長時代は仕事が楽しくてしかたがなかった」
「週80時間も喜んで働いていた」と社長は講義でお話しされました。
しかし、急成長には落とし穴がありました。
25→50→100と100店までは、何とかできました。
100店→200店を一年で達成した頃には、人・物・金のすべてに赤信号が出ていました。
■ ■
出店を急ぐあまり、まず店舗数を増やすことに主眼がおかれました。
立地条件の悪いところにも出店するようになってしまい、結果的に不採算店を作りました。粗製濫造の店ができました。
吉野家の旨さ(ウマサ)の秘訣は、肉、玉ねぎ、たれの絶妙なバランスにあります。
特に、誰にも明かせない企業秘密が、たれの成分です。
急成長で店舗数を増やした時には、伝統のたれを粉末にしたこと、フリーズドライの乾燥牛肉の利用で、味が悪化し、客離れを起こしました。
■ ■
会社更生法が適用されると、会社の再建は管財人の弁護士さんが裁判所の許可を得てすすめます。
吉野家の管財人になったのが、弁護士の増岡章三先生でした。
増岡先生は再建のプロでした。吉野家の進路は急成長路線から、膨大な負債を返済し、会社を再建することに変わりました。
安部社長は、増岡弁護士の信頼を得て、33歳の若さで取締役になりました。「若すぎる」と反対した東京地裁を増岡弁護士が説得しました。
裁判官という、外食産業にはまったくの素人に、明快な論理で説明できる資料を作成するのが、安部取締役の仕事になりました。
■ ■
会社更生法のおかげで、企業を安全に経営する基礎ができました。
急成長時代には経験できなかった、安全性の実践ができました。
外食産業がわからない裁判官に、わかるように論理を構成し、わかるように説明ができるようになりました。
安部社長は、この倒産が何よりの学習になったとお話しされました。
■ ■
吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しましたが、1987年には 更生計画終結。倒産の元になった債務(更生債務100億円)を完済しました。
その後、1990年には株式をジャスダックに店頭公開。
2000年11月には東京証券取引所第一部に上場しました。
2001年夏には、牛丼並400円→280円に値下げし、ユニクロと並んでデフレの王者と呼ばれました。
ところが2003年12月に、米国BSE感染問題が報じられ、2004年2月から主力商品の牛丼を提供できなくなりました。
1980年から、わずか25年の間に、地獄を2回見たのが安部社長です。
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吉野家①
昨日、北海学園大学のニトリ講座で、吉野家の安部修仁社長の講義を受講してきました。
私はヨシギュウが好きです。並盛とポテトサラダを注文するのが定番です。東京へ出張へ行った時もよく利用していました。
男が一人で入りやすく、価格も手ごろです。うまい、安い、早いのが好きです。
■ ■
安部修仁社長は1949年9月14日生まれ。矢沢永吉さんと同じ誕生日だそうです。
福岡県出身で音楽を志して上京。1972年(昭和47年)に、吉野家へ学生アルバイトとして勤務。正社員に昇格し、社長になった方です。
吉野屋は、1899年(明治32年)に東京日本橋の魚河岸で創業しました。当時、東京の台所は日本橋にありました。
大阪から上京した、松田栄吉さんが屋台ではじめたのがはじまりです。その後、魚河岸が築地に移り、現在も吉野家築地店として残っている店が発祥の地です。
松田さんの出身地が、大阪吉野町だったので‘吉野家’になりました。
■ ■
魚河岸の朝は早く、夜明けとともにはじまり、正午過ぎには終わってしまいます。
築地市場で働く人たちは、食のプロばかりです。味にうるさい大勢の人たちが、長靴のまま店に入り、短時間で食事を済ませます。
すべての動きが通常の3倍速。ビデオの早送り状態で、注文し、牛丼が出てきます。
吉野家のクイックサービスは築地市場で培われ(ツチカワレ)ました。
■ ■
築地市場は、限られた人たちだけが集まる場所です。
今でこそ外国人観光客の観光スポットの一つですが、当時は、朝から激しい動きをする大勢の人たちだけのclosedな世界でした。
吉野家の特徴は‘繰り返し食べても飽きが来ない後味’。
‘うまかった!また来よう!という食後感’です。
これは築地市場という閉鎖されたマーケットで、‘いつものお客さん’の満足度を高めなければ生き残れない環境で育まれ(ハグクマレ)ました。
■ ■
創業店といえども、大きな店ではありません。10坪もないような小さなお店です。客席は15席もありません。
この小さな店で、午前5:00~正午までに、約1000人のお客さんが来店します。
早さや、客席回転率は並みのものではありません。
常に満席で、中には立ったまま食べるお客さんもいらっしゃいます。
安部社長でも、築地店の店長は大変だったそうです。
■ ■
築地店のリーダーは、お客さんが店に入った瞬間に(注文が出る前)、牛丼を作ります。
お客さんの顔とオーダーを一人ずつ覚えていて、席に着いたらすぐに(たのんでもいないのに)注文通りの牛丼が出てきます。
入店からわずか5~10秒で牛丼が出てくるのは、世界一です。
この早く待たせないというスピードがお客さんへの一番のサービスです。
■ ■
安部社長おすすめのメニューはプレーンです。
頭の大盛(アタマのオオモリ)を一度注文してみてください。
ご飯の量は普通で、具だけ大盛です。このオーダーが出ると、‘この人はプロだ!’と店は緊張するそうです。
■ ■
吉野家は1980年7月15日に会社更生法を申請して倒産しました。
2003年12月24日には、米国BSE感染問題が報じられ、看板の牛丼を提供できなくなりました。
2006年9月18日に牛丼が復活するまで950日間の牛丼ブランクがありました。
波乱万丈の吉野家について、少しずつ書いてみたいと思います。
ヨシ牛が食べたくなりました。今度は頭大盛をオーダーします。
食べたくなります
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昔の記憶
幼少時の記憶
私は誕生日にも書きましたが、昭和29年9月に市立札幌病院で生まれました。
生まれた時に住んでいたのは、札幌郡手稲町字金山栄町というところでした。今の札幌市手稲区金山です。
現在は北海道の子ども総合医療・療育センターがあります。
■ ■
私の父は薬剤師で、三菱砿業㈱という炭鉱会社の結核療養所に勤務していました。現在は手稲ロイヤル病院になっています。
手稲金山は、昭和12年から昭和24年まで三菱砿業㈱によって金の採掘が行われました。昭和16年が最盛期で、東洋一と言われた選鉱場ができたのもこの頃です。
今でも札樽自動車道、金山パーキングの山側にその遺残があります。
■ ■
私が育った頃の手稲金山は、手稲鉱山が規模を縮小し、ゴーストタウンになりかけていたそうです。
当時の手稲町長と道庁が知恵を絞って、鉱山住宅の跡を利用して、北海道の職員住宅を作りました。
私が子供の頃は、毎朝、北海道の職員送迎バス(道バスと呼んでいました)が道庁まで職員を送迎していました。
■ ■
父が勤務していた、結核療養所も、もともと三菱砿業㈱が鉱山でケガをした人のために作った病院でした。
そこを結核患者のサナトリウム(療養所)として整備していました。
芝生の前庭がある白い壁の建物で、裏には星置川が流れていました。池があって、大きなコイが泳いでいました。
とてもキレイな療養所でした。内科、外科があり歯科の先生も北大からいらしていました。
■ ■
職員の社宅が、少し離れたところに建っていました。
大きな塀のついた戸建が3軒。2軒長屋が3棟。芝生の庭がついたお屋敷が一軒ありました。
大きなお屋敷が、大塚先生という所長さんの家でした。戸建は内科部長、外科部長、事務長さんの家でした。
2軒長屋には、部長以外の医師と薬剤師の父、レントゲン技師の家族が住んでいました。
■ ■
隣近所がとても親しく交流していました。私は小さい時に体が弱く、よく先生に往診をしていただいていました。
内科の小山(オヤマ)先生の奥様は、元看護師さんでした。私が母に叱られて泣いていると、よく助けに来てくださいました。
同年代の医師や薬剤師、レントゲン技師が住んでいたので、同じような年代の子供がいました。
■ ■
手稲金山から見る石狩湾はとてもキレイです。今でもはっきりと記憶に残っています。
家の周囲には雑木林があり、近所の子供たちといつも仲良く遊んでいました。
病院の医師、薬剤師、レントゲン技師、事務長の子供が同年代で、毎日その仲間が一緒でした。
■ ■
子供のリーダーが小山先生の長男のマーちゃん。その妹がはるみちゃん。
事務長さんのこどもはヒロスケちゃん。
内科の先生の子供がナミヒロちゃん。その妹がようこちゃん。
レントゲン技師さんの子供がマサルちゃん。
その隣に住んでいたのが私、ケンちゃんでした。
■ ■
小山先生の家の犬がポチ。
マサルちゃんちの犬がタロ。
私の家の犬がコロでした。
■ ■
時代はまさに‘三丁目の夕日’そのものでした。
日本は戦後の混乱から、高度成長期に入っていました。
結核療養所は、抗結核薬の発達で患者が減っていましたが、私の子供時代の中では、もっともキレイな想い出として残っています。
■ ■
病院の職制がそのまま社宅につながっていました。
今の病院と時代が違うのかもしれませんが、病院では職員の草野球があったり、ジンギスカンパーティーがあったりしました。
夏には、病院の看護婦さんたちと、大浜(今のドリームビーチ)に海水浴に行った想い出もあります。
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各家庭とも、専門職の集まりでした。教育にも熱心だったように思います。
私は子供の頃から医師になろうと思っていたわけではありません。
ただ、今になって考えてみると、手稲で過ごした幼少時の想い出が、私の性格に影響していると思います。
緑や土が好きですし、山を歩くのも好きです。
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マーちゃんは歯科医師に、はるみちゃんは薬剤師に、私は医師になりました。
マサルちゃんがどうしたかその後の消息は知りません。
マーちゃんには、函館にいた時に40年ぶり位で再会しました。家内がお世話になり、他の歯医者さんで治せなかった歯を治していただきました。
人間の一生なんてわからないものです。小さい時によい想い出をたくさん経験できたことは親に感謝しています。
恥ずかしながら、2歳頃のケンちゃんです
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医療問題
豊胸手術で死亡
平成19年10月30日毎日新聞の記事です。
「豊胸手術ミスで死亡」女性の遺族が医師を提訴
■ ■
茨城県つくば市の医院で受けた豊胸手術の2日後に死亡したのは手術ミスが原因だとして、死亡した会社員の女性(当時50歳)の遺族が、執刀した稲吉浩司医師(45)=東京都品川区=を相手に、約5700万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴したことが分かった。
稲吉医師は今月、所得税法違反で懲役1年、罰金4000万円の実刑が確定している。診療報酬の不正請求で医業停止中の2002年には、医師として勤務したことなどが県の調べで判明している。
■ ■
毎日新聞が入手した医療記録によると、女性は稲吉医師が実質経営していたつくば市の医院で2006年7月15日、約30年前に注入したワセリンを取り去り、シリコンを入れる手術を受けた。稲吉医師が局部麻酔をして約40分後の執刀中に痙攣(けいれん)を起こして心肺停止状態になり搬送先の救急病院で死亡した。
■ ■
稲吉医師は眼科医だった1998年に診療報酬の不正請求が発覚。詐欺罪で有罪が確定し、旧厚生省から2000年4月に医業停止3年間の処分を受けた。しかし、処分期間中の2002年10月に水戸市内の美容外科で勤務したことが水戸保健所の聞き取りで判明している。
■ ■
処分が解けた後に3医院を開いたが、2006年4月~8月にすべて閉院。同年12月、所得税約1億6400万円を脱税したとして所得税法違反(脱税)罪で在宅起訴された。
■ ■
稲吉医師が実質経営していた医院のある各地の消費生活センターには「まぶたの切開をして二重まぶたにしようとしたがならなかった」「美容整形を8回分契約したが、3回で医者がいなくなった」などの苦情が計110件寄せられている。
稲吉医師は毎日新聞の取材に「コメントすることはない」と話している。【立上修、山本将克】
(2007年10月30日毎日新聞より引用)
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平成18年3月の朝日新聞には次の記事も掲載されています。
茨城県や東京都で美容外科や眼科を経営する柳瀬浩司院長(43)が、2004年分までの2年間で得た診療報酬など約4億6000万円の所得を隠し、約1億6000万円の所得税を免れたとして、東京国税局が東京地検に所得税法違反(脱税)容疑で告発したことが分かった。
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院長は架空診療で多額の診療報酬をだまし取ったとして2000年に旧厚生省から医業停止3年の処分を受けている。隠し所得には停止中の医療行為で得た分が含まれており、医師法違反の疑いもある。
■ ■
関係者によると、柳瀬院長は2002年10月~2003年12月、水戸市内の美容外科で週3回程度の診療を行い、1ヵ月数百万円の収入を得ていた。さらに2003年6月、東京都港区に「品川イーストワン眼科」、2004年1月、水戸市に「秀聖美容外科」を開業し、院長に就任した。
■ ■
これらの診療報酬の一部だけを税務申告する「つまみ申告」の手口で所得を圧縮。除外した主な報酬は美容外科手術など医療保険が利かない自由診療の現金収入だが、保険診療分も含まれていた。都内で経営する賃貸アパートの家賃収入も除いていたという。
隠し所得は柳瀬院長が預金や金融商品にして管理していたとされる。
■ ■
柳瀬院長は以前、「稲吉浩司」の名前で東京都新宿区で眼科医をしていた。この際、偽造した診療報酬明細書を社会保険の審査支払機関などに提出。診療報酬約7000万円をだまし取った詐欺罪で1998年9月、東京地裁から懲役3年執行猶予5年の判決を言い渡された。
■ ■
この結果、2003年4月までの3年間の医業停止処分を受けたが、期間中の2000年9月に婿養子となって姓を変え、水戸市の美容外科で診療していたことが判明。2001年9月から2002年にかけ、東京都渋谷区で眼科を開業していたこともわかり、同区は医師法違反にあたるとみている。
朝日新聞の取材に、柳瀬院長の広報窓口という秀聖美容外科の事務長は「査察を受けたのは事実。すでに修正申告や納税を済ませた」と話した。柳瀬院長は取材に応じなかった。
(2006年3月朝日新聞より引用)
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亡くなられた女性に心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
事故が起きたのが2006年7月です。2006年3月には柳瀬浩司の名前で報道されています。
平成18年3月の朝日新聞には「秀聖美容外科」というクリニック名が出ていますが、他紙では「つくば市にオープンした美容整形外科医院」しか出ていなかったところもあります。今回の毎日新聞でも「つくば市の医院」しか出ていません。
亡くなった女性も、まさか脱税や医師法違反で捕まったことがある‘先生’とは夢にも思っていなかったと思います。
■ ■
重大な犯罪では容疑者でも名前がすぐに報道されますが、医療事故や脱税などはなかなか病院名まで出ません。
今回の医療事故も死亡事故でありながら、遺族が医師を訴えたという民事訴訟のためか、毎日新聞以外では報道されていません。
医療事故を起こしても、立件されて起訴、有罪が確定し、医道審議会で医師免許が剥脱されても大きく報道されないことがあります。
過去に脱税で有罪が確定した‘先生’の書籍広告が、朝日や道新などの一面の下に堂々と掲載されています。
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消費者が美容外科を選ぶのは本当に難しいと思います。
この死亡事故は痙攣を起こしているので、局所麻酔薬による中毒が考えられます。過去に札幌市内でも同じような事故がありました。
局所麻酔薬は非常に低い確率ですが、中毒を起こすことが知られています。
万一、事故が起きても、適切に対処できるかどうかで生死が別れます。助けられる技術と設備が必要です。
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局所麻酔薬は、私たちも毎日使用しています。美容外科を開業する一人として、十分に気をつけなくてはならないことだと思います。
稲吉医師は順天堂大学医学部を卒業し、眼科専門医も取得した‘先生’だったようです。
どうしてこのような事故を起こしたのか?同業者の一人として本当に残念に思います。
最後にもう一度、亡くなった女性に心から哀悼の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
医療問題
カラコンに注意
平成19年10月29日朝日新聞朝刊の記事です。
カラーコンタクト規制へ 警告表示を検討
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おしゃれ用品として人気のカラーコンタクトレンズによる目の病気が後を絶たない。学会の全国調査では一ヵ月で27件にのぼり、入院例も見つかった。医療用と違って品質や販売に規制はなく、独立行政法人の製品評価技術基盤機構(NITE(ナイト))は10月29日、調査委員会を発足させ、経済産業、厚生労働両省とともに警告表示を義務化する方向で対策に乗り出す。
視力補正が目的でないおしゃれ用のカラーコンタクトは、「瞳がぱっちり大きく見える」「青や茶色の瞳でモテる」などの宣伝で、10年ほど前から若者に人気の品だ。1セット2,000~8,000円程度で、量販店やインターネットで売られている。
■ ■
日本眼科医会や日本コンタクトレンズ学会でつくる協議会が昨年10月、全国213の眼科病医院の協力で調べたところ、おしゃれ用カラーコンタクトによる目の病気は一ヵ月間で27件報告された。うち失明につながる恐れのある角膜潰瘍(かいよう)・角膜浸潤も9件あった。
製品事故情報を集約しているNITEによると、8、9月には北海道の医師から角膜疾患3件の情報が寄せられた。埼玉県消費生活支援センターからは今月、「県内の10代男性が角膜潰瘍で入院した」との通報があった。患者の男性は「量販店で買った。着けて違和感があったので外したが、右目が曇って見え、両目が開かなくなった」と話したという。
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カラーコンタクトには医療用とおしゃれ用の2種類がある。視力を補う医療用は薬事法で品質や販売が規制されているが、おしゃれ用は雑貨品扱いで規制がない。業界団体もないため、業者の数や売上高すら分かっていない。
国民生活センターが2005年度、おしゃれ用10銘柄を調べたところ、4銘柄で色素の流出が見つかった。うち2銘柄は細胞毒性も検出され、かゆみの原因になる「眼粘膜刺激」を起こす恐れがあるとわかった。
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問題は国会でも取り上げられ、経産、厚労両省は5月、小売各団体に対し、使用上の注意を客に十分知らせるよう文書で要請した。
両省とNITEは、流通と健康被害の実態を調べる調査委員会を設置、その初会合を10月29日に開く。委員は、眼科医やメーカー、消費者団体の代表ら19人の予定。経産省製品安全課は「これまで対策が抜け落ちていた。実態を確認し、規制の可能性を話し合いたい」としている。
(以上、朝日新聞より引用)
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カラーコンタクトの危険性は、2006年2月に国民生活センターから発表されています。
平成18年2月4日の新聞でも報道されています。
国民生活センターの詳しい調査結果は、こちらのPDFファイルでご覧になれます。
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カラコンは、瞼が下垂傾向で、黒目が小さく見える方が、目を大きく見せるためによく使用していらっしゃいます。確かに、目は大きく見えますが結膜に炎症が起きていて、二重手術ができないこともあります。
カラコンをするのでしたら、是非、眼科で診ていただいて、眼科で購入してください。
カラーコンタクトレンズ、瞳が大きく見える
朝日新聞より引用
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医学講座
産科医冥利
メディカルトリビューンという医師向けの新聞に、日本産婦人科医会会長、浜松医科大学長の寺尾俊彦先生のエッセイが掲載されていました。
産科医冥利(ミョウリ)という心に残る文章です。少し長いですが、一部をご紹介します。
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今、日本の産科医療の崩壊が始まったと言われている。毎年数千人単位で医師数が増加していくというのに、産婦人科の人気は低迷していて、残念なことに、産婦人科の医師数はむしろ減少傾向にある。
産科に携わる医師数が少なければ安心・安全な産科医療ができない。その増加が喫緊の課題になっている。
産科医には昼夜の区別がなく、宿命的とも言える宿日直がある。宿日直明けにも激務が待っている。
我々はこんな生活を当たり前として受け止めていたが、今の学生には耐えられないことと映るらしい。
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一旦、産科医になってしまうと、「こんなに楽しい診療科は無い」と異口同音に産科医は言う。私もこれを実感してきた一人である。産科医になって50年近くになるが、年を重ねるにつれ、産科医になって良かったとしみじみ思う。
赤ちゃん誕生の感激は勿論、その赤ちゃんの成長も楽しみである。
成長ぶりを写真で知らせていただいたり、その子の結婚式に招いて下さることもある。年賀状には孫ができたとの便りも多くなった。
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産科医の楽しさ、良さを、私たちはもっと学生に伝える必要があると思っている。そこで、その二、三の例を紹介したい。
先ず、産科医冥利につきると思ったこと、話は40年前に遡る。当時、私は名古屋大学医学部附属病院に勤務していた。
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ある日、浜松から患者さんが診察にみえた。幼いころ、脊柱が湾曲する病気にかかり、身長が中学生位の方だった。
大学で福祉の勉強をしたという、とてもかわいらしい女性である。卒業後、高校教諭と結婚したが、出産はあきらめていた。どの産婦人科医に尋ねても無理とのこと。
しかし、愛する夫の子がどうしても欲しいと遂に名古屋まで来たという。
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正直、私も無理かと思った。子宮が大きくなるにつれ腸の行き場がなくなり食事ができない、また、背骨が痛むのではないかと心配した。
しかし、話をしているうちに、この方の明るさと前向きな姿勢なら、ひょっとしていけるかもしれないと思うようになった。
結局、浜松から名古屋まで通っていただき、帝王切開で無事、男の子が誕生した。更に数年後には女の子が誕生した。
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ある日、「私のことが新聞に載っているから見て下さい」との便りをいただいた。
読売新聞社の「心に残る医療」体験記コンクールで、この方の「大丈夫。頑張りましょう」が厚生大臣賞に選ばれたという記事であった。
また、数日後、その新聞の一面コラム欄(読売手帳)に、この体験記と私のことが紹介され、最後に「長男は医学部に進んだが、患者思いの医師になることだろう」とあった。
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連絡したところ、長男は名古屋大学医学部、妹は南山大学の学生であるという。
この長男が卒業後2年間の研修医期間を終え、私たちの産婦人科教室に入ってくれた。さらにまた、結婚し、私たち夫婦が仲人をさせていただいた。
最近、この夫婦にも赤ちゃんが誕生したが、将来きっと素晴らしい医師になってくれるに違いない。
(以上、メディカルトリビューンより引用)
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当直が多い、訴訟が多いと、産婦人科は医学生や臨床研修医から嫌われているようです。
このお話しを読んで、一人でも多くの産婦人科医が誕生してくれたらと思います。美容外科では絶対に経験できないことです
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手のぬくもり
幼稚園で、はじめて異性と手をつないでお遊戯をする。もう忘れてしまった記憶ですが、誰にでもある想い出です。
今の時代には、『おじさん何言ってんの!』と笑われそうです。
手をつなぐ、手を握るという行為は、心の温かみまで伝えてくれます。
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私たちの手は、さまざまな作業をするため、実に精密に作られています。
目以外に字が読めるのは手だけです。
ホッペに点字を当てても読めません。
指先には神経のセンサーがたくさんついているので、細かな違いも読み取れるのです。
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手が温かいのは、血流があるからです。手には細かな血管網が密にめぐっています。
手は細かい動作をするために、何本もの腱というスジがあります。前腕にある筋肉が収縮して、手の腱を引っ張るので、重いものも持てます。
手にも筋肉があります。筋肉が収縮するためにはエネルギーが必要なので、血管が発達しています。だから手は温かいのです。
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手当て(テアテ)という言葉があります。手当てをできるのは、お医者さんだけではありません。
おなかが痛い時に、そっと手を当ててください。誰かの手を当ててもらうのもよいです。
手のぬくもりが伝わり、痛みが和らぎます。
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はじめての手術で、ガチガチに緊張している人がいます。
緊張すると交感神経が働き、手足の血管を収縮させます。すると手足はスーっと冷たくなります。
他の人の温かい手で、冷たい手を握ってもらうと、温かさが伝わり緊張もほぐれます。
手を握るだけで、『がんばってください!』という声援が伝わります。手を握ってもらっていると安心感があります。
人の手は、どんなに優れた鎮静剤や麻酔薬より効果的です。副作用もありません。
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手術をするのも手。よいことをするのも手。悪いことをするのも手です。
神の手、巧の手(タクミノテ)、ゴットハンド。
手を組む。手を結ぶ。手を取り合う。
悪に手を染める。麻薬に手を出す。手くせが悪い。
あの手、この手など手に関する言葉もたくさんあります。
手の握りかた一つで、気持ちも伝わります。
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私たちの医業は、人の手がなくてはできない業種です。何をするにも手がかかります。手間隙(テマヒマ)をかけないとよい仕事はできません。
医療に携わる(タズサワル)人は、自分の手を大切にし、自分の手で他人に喜ばれ、自分の生活を支えなくてはなりません。
せっかく時間をかけて鍛えた手です。自分が元気な間は、手を動かし、手をかけて、人に喜ばれる仕事をしたいと考えています。
私を含め、札幌美容形成外科の職員の手は、いつもキレイで温かです。私たちの手のぬくもりが伝わるような仕事をしたいと願っています。
医療問題
サミット救急医療
2007年10月26日北海道新聞朝刊の記事です。
-救急医療態勢立ち遅れ-対テロ機関連携が急務
「沖縄」は1年前から準備
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来年七月の北海道洞爺湖サミツトで、首脳らを狙ったテロなど不測の事態に備える救急救命医療態勢づくりが急務となっている。
国は今月ようやく作業に着手したが、テロなどの恐れは2000年の沖縄サミット時と比較にならぬほど高まっており、関係者の間には作業の遅れに懸念も広がっている。
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札幌市内のホテルの一室に20日夜、国や道、それに道内外の医療関係者が集まった。会合の狙いは、サミット開催期間中の救急救命態勢をいかに構築するか。関係者にとって、初めての意見交換の場だった。
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沖縄サミットの際は、ほぽ一年前から救急医療態勢が始動していた。厚生労働省は「北海道は医療基盤が整っている」と、沖縄との違いを説明するが、サミットの救急救命態勢は警備と並ぶ最重要課題。不測の事態の際の要人救護はもちろん、騒乱などによる傷病者の大量発生にも備えなければならない。
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2005年のクレンイークルズ・サミット(英国)ではロンドン同時爆弾テロが発生。2001年のイタリアではデモ隊の一人が死亡し、今年のドイツでもデモの一部暴徒化で多数の負傷者が出た。
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関係機関の連携も大きな課題だ。サミットの救急医療態勢は、複数の省庁や医療機関などが参加する。関係者の一人は「要人の情報など機密も絡むだけに、各機関の連携を円滑にするためにも、早く態勢を立ち上げて備えなければならない」と指摘する。
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沖繩サミットでは、医師ら約200人が全国から集結。毒劇物や感染症の専門医も加めった。生物・化学兵器に対する防護マスクや除染テントの準備のほか、首脳を関係者以外の目に触れさせない動線の確保など、細かい態勢を整えた。
沖縄サミットで国の医療対策本部に参加した札幌医大の浅井康文教授は、「万一の事態を想定した万全の態勢づくりが必要」と話している。
(以上、北海道新聞より引用)
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のん気な厚生労働省は『北海道は医療基盤が整っている』と、言っているそうですが、とんでもない誤りです。
北海道の医療機関は、国の医療費削減政策で疲弊しています。特に、洞爺湖がある胆振管内は、唯一の救命救急センターである、日鋼記念病院が機能していません。
日鋼記念病院がゴタゴタしているおかげで、お隣の市立室蘭総合病院や新日鉄病院も大変です。
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私が札幌医大に在籍してた時に、有珠山が噴火しました。洞爺湖は有珠山が噴火してできた、カルデラ湖です。
サミット会場のウインザーホテルからも有珠山はすぐ近くです。
有珠山噴火によって、ヤケドの患者さんがたくさん出たら、北海道としてどうやって対処するかを検討しました。
高度救命救急センターである、札幌医科大学ですら、重症のヤケド患者さんを、一度に数十名も治療することは不可能です。
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もし、サミットの際に集団テロで、一度に数百人もの人が負傷したら、大都市の札幌ですら対処するのは大変です。
浅井教授は、その辺のことは十分にご存知です。
サミットを洞爺湖に決めた安倍首相はもう退任されました。厚生労働大臣も年金問題でサミットの医療問題どころではなさそうです。
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救急医を全国から集めただけでは救急医療はできません。
看護師、臨床検査技師、診療放射線技師、薬剤師、医療事務、病院の設備、一つ欠けても病院として機能しません。
テロが起きてからでは遅いのです。国立災害医療センターなどの専門家を交えて、慎重な討論と準備が必要だと思います。
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私立医大納付金
2007年10月22日朝日新聞夕刊の記事です。
私大医学部納付金値下げ続々
国立大の定員増視野に
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都内の私立大医学部が来春人学者の入学金や授業料などの納付金を相次いで値下げする。優秀だが経済的余裕がない学生を迎え入れるのが狙いだ。来春には地方の国立大医学部が定員を増やすことが決まっており、優秀な学生を獲得しようと私立と国立の競争は激しさを増している。
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昭和大医学部(品川区)は来春から、6年間合計の納付額を今より400万円安い2650万円とする。入試の成績上位者は、500万円安くする。守屋明俊教務部長は「最近、学生の水準が、学力以上に人間性の面で低下している。両方優れているのに高い学費を理由に受験をあきらめている受験生に来てほしい」と話す。
同大の06年度の収入は1056億円。学生納付金は100億円で、付属病院の医療収入647億円に次ぐ大きな収入源だ。今回の値下げで年間5億円の減収となるが、守屋部長は「現在の利益でぎりぎり対応できる。いっそう経費節減を進めていきたい」。
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さらに大幅な値下げに踏み切るのが順天堂大(文京区)だ。880万円引き下げて同2090万円とする。日本医科大(同)は同27万円減だが、保護者に負担感が大きい初年度納付金を588万円と52万円値下げする。
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日本私立医科大学協会によると、現在、医学部生が6年間で支払う納付金の平均は、国立大が350万円なのに対し、私大は10倍近い3357万円。私大が医学部生1人を6年間教育するのに約1億円の経費がかかるため、容易には値下げに踏み切れないという。
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今回の動きについて、代々木ゼミナールの坂□幸世本部長は、地方の医師不足対策として来春、地方国立大医学部の定員が8校で計80人増えることの影響を指摘。「値下げする3大学とも伝統校で、内部留保に余裕があるから実現できた面もあるだろう」(増谷文生)
(以上、朝日新聞より引用)
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クリニックや先生を選ぶ時に、出身大学を参考にすることがあります。
私立医大に高額の入学金や寄付金を払って入学したので、‘あの先生は金儲け主義’と考えるのは、必ずしも正しくありません。
私の高校の同期にも、私立医大に入学した人がいましたが、全員とても良い先生です。
私立でも、慶応大学医学部や慈恵医大は、他大学と比較して入学金が安くなっています。それでも、国公立よりは格段に高いですが…。
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美容外科医としての腕になると、旧帝大卒の先生より、腕の良い私立医大卒の先生がたくさんいらっしゃいます。
もともと、美容外科は‘下賎な医業’と見下されていた時代がありました。
日本の美容外科に名前を残している、著名な美容外科医は、多くが私立医大の卒業生です。
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一番問題なのは、外科的なトレーニングもせず、学会にも参加しない、一匹狼のような‘先生’です。
TVで取り上げられて問題となった、リピーター医師(医療事故を繰り返し起こすリピーター)です。彼は有名国立大学を卒業しました。
国立大学を卒業したから、お金で私立医大に入ったからで、その先生を見分けるのは危険です。
私立医大を卒業して立派に開業して、患者様から感謝されて盛業中の先生を何人も知っています。
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国公立大学を卒業しても、私立医大を卒業しても医師免許証は同じです。国立大学医学部でも医師国家試験に落ちる人もいます。
先生を選ぶ時は、大学はひとつの目安に過ぎません。‘彼氏’を選ぶ時と同じように、本当にその‘先生’と相性がよいか、腕がよいかを慎重に選んでください。