医療問題

障害年金

平成19年11月29日(木)朝日新聞朝刊の記事です。
 障害年金受けるには
 うつ病や糖尿病でも
 ポイントは初診日と認定日
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 人生に病気やけがはつきものです。障害が残ったとき、生活の支えとなるのが障害年金。
 生まれつきの障害だけではなく、がんや糖尿病などでも場合によっては受けとれるのですが、知らずに請求していない人もいるようです。
 自分は関係ないと思っていませんか?
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 年金は、年をとってからもらうものと思いがちだ。
 しかし、それだけではない。病気やけがで心身に障害が残って働きにくくなった場合に収入を保障するのが障害年金だ。
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 ただ、この制度自体があまり知られていない。
 障害年金に詳しい社会保険労務士の藤澤貴司さんは
「もらえるはずなのに請求していない人は、少なくないはず」。
 その大きな理由は「障害」という言葉が、一般には狭く解釈されているからではないかという。
 障害年金の対象は手足が不自由な人だけではない。がんや生活習慣病、うつ病などでも、労働や日常生活が制限を受けていると認められれば、年金が出る。
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 認定は、障害者手帳の基準などとは異なる独自の基準に従って社会保険庁がする。
 障害等級により年金額が変わる。
 全国民が対象となる障害基礎年金は2級まで、会社員が在職中の病気やけがで障害をおった場合に受け取る障害厚生年金には3級も加わる。
 例えば、心臓病でペースメーカーを入れていれば3級、糖尿病による腎症で人工透析が必要なら2級が目安となる。
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 社保庁によると、障害基礎年金の受給者は2005年度末で152万人、障害厚生年金は35万人だった。
 障害年金の受給の仕組みでは、初診日と認定日が重要だ。
 初診日は、その障害の原因となった病気やけがで初めて診察を受けた日。それまでに保険料をきちんと納めていることが、受給条件だ(初診日が20歳未満の場合をのぞく)。
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 認定日は
①基本は初診日から1年半後
②それ以前に症状が悪化も改善もしない状態になったらその時点で、障害の程度を判断することになる。
 所定の診断書を医師に記入してもらい、社保事務所に出す。
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 老齢の基礎年金と障害基礎、老齢厚生年金と障害厚生を両方はもらえない。ともに条件を満たす人は、どちらかを選ぶことになる。
 額は障害基礎は定額で、2級が老齢基礎の満額(40年加入)と同じ年間792,100円なる。
 障害厚生では認定日までに納めた保険料が年金額に反映する。
 誰もがいつ障害年金を受ける立場になるか分からない。生活習慣病では長い間に症状が悪化するのが一般的だが、初診日がいつだったかは年金を請求する側が証明しなければならない。
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 特に障害厚生では、初診日が会社勤めの期間中だったかが重要になる。
 カルテの法定保存期間は5年。転院などしていれば証明が難しいことも少なくない。
 社労士の藤澤さんは「退職が近く、体調がおかしいと思う人は、退職前に病院に行った方がいい。
 万一、障害厚生年金を請求するときの初診日になる。診察券や記録も残しておくこと」と助言する。(山田史比古)
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 どんな人が受けられる?(認定基準の一部)
一級:両目の矯正視力が合計0.04以下、両上肢のすべての指を欠く、座っていること、立ち上がることができない
二級:両目の矯正視力が0.05以上0.08以下、 平衡機能や音声、言語機能に著しい障害、そしやく機能を欠く
三級:両目の矯正視力がともに0.1以下、そしやくまたは言語に相当の障害、労障害基礎年金
(以上、朝日新聞より引用)
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 私は市立札幌病院と帯広厚生病院に勤務していた時に、育成医療と身体障害者の指定医になりました。
 形成外科で障害者の診断書を書くことはマレです。
 20歳になって、国民年金に加入していなかったため、脊髄損傷で障害者になったのに障害年金を貰えなかった大学生は知っています。とてもお気の毒でした。
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 恥ずかしい話しですが、身体障害者の等級と障害年金の等級が、同じ症状でも異なることは、この記事を読むまで知りませんでした。
 決して多い額ではありませんが、せっかくある制度ですから有効に利用なさってください。

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昔の記憶

床上安静

 床上安静、ショウジョウアンセイと読みます。
 ベッドの上でずっと寝ていることです。
 勉強も仕事もしないで一日中寝ているのです。
 楽でよいなんてものではありません。
 一日中ベッドの上に拘束されるのです。
 ストレス以外の何ものでもありません。
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 ギプスがとれた私は、ベッドの上で左下肢の牽引をしました。
 骨折した時は、骨に金属(太い針金状のもの)を入れて牽引します。
 ペルテスだった私は、左下肢に装具をつけて、下肢を固定し、ベッドの上にレールを敷いて、その上に脚をのせました。
 下肢を貨車(コンテナをのせる台車型貨車)のような台にのせ、その台をレール(本物のレールを小さくしたようなレールでした)にのせます。
      ■         ■
 その貨車にヒモをつけて、重石で引っ張る治療です。
 注射と違って痛くはないので、最初はよかったのですが、それもつかの間…。
 レールの上に下肢を固定されているので、私は一日中ベッドの上です。
 隣のベッドでは、腎臓の子供が‘元気’に遊んでいます。
 私の楽しみは、ベッドの上でできることに限られてしまいました。
      ■         ■
 11月にだったので、窓の外では雪が降りました。
 窓のそばまで行けば外の景色が見えますが、子供がベッドの上で起き上がったところで、空か屋根しか見えませんでした。
 ベッドの上だけで、どこにも行けないというのはストレスです。
 雪に触りたいという私の願いで、家族が雪を洗面器に入れて持ってきてくれたのを覚えています。
      ■         ■
 5歳の子供が一人で入院することはできません。家族が付き添ってくれていました。
 3歳下の弟がいましたので、両親はさぞ大変だったと思います。
 母の実家が、北1条西10丁目にありました。
 愛育病院は北3条西16丁目でした。
 大人の足で歩けば10分ほどの距離です。
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 私の入院では、母の実家の全面的なサポートがありました。
 母方の祖母は私のことを一番可愛がってくれました。
 母の弟が3人いました。どの叔父も可愛がってくれました。
 母が来れない時は、叔父が来てくれて夜に泊まってくれたこともありました。
 父も夜に泊まってくれました。仕事が終わってから、手稲金山から知事公館まで、国鉄バスで来てくれました。
 朝は、その逆をバスで手稲金山まで通勤してくれました。
 家族が一人でも病気になって入院すると、家族すべてが犠牲になり協力します。
 今から思えば、祖母や母の弟(私の叔父)はよくやってくれたと思います。
      ■         ■
 ベッドの上の楽しみは紙芝居でした。
 テレビがようやく普及しはじめた頃でした。
 今のように24時間番組を放送していたのではありません。
 日中はテレビにも昼休みがありました。チャンネルを回しても、テストパターンの丸い画像が映るだけでした。
 まして子供向けの番組は限られていました。
      ■         ■
 私が好きだった紙芝居は、バンビだったように記憶していますが…この辺は定かでありません。
 同じ紙芝居を何回もなんかいも読んでもらった記憶があります。
 幼稚園の先生がお友だちが書いた絵を持ってきてくれました。
      ■         ■
 私が通っていた幼稚園は、手稲町立手稲西幼稚園です。
 担任の先生が、セイノレイコ先生(情野玲子?)先生だったと思います。
 幼稚園の先生からも紙芝居をいただいた気がします。
 とても優しい先生でした。
      ■         ■
 約一ヵ月間入院して牽引治療をしたおかげで、私の症状はよくなりました。
 退院の前日に許可が出て、父と地下のお風呂に入りました。
 約一ヵ月ぶりにお風呂に入れてとても嬉しかったのを覚えています。
 恥ずかしい話しですが、一ヵ月もお風呂に入らなかったので、垢がボロぼろ出ました。

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昔の記憶

ギプスカット

 私の腰から下はギプスで固められました。
 石膏でできたギプスはセメントのように硬く、びくともしませんでした。
 白いギプスはそのうち汚れてきます。
 石膏のギプスが直接肌に当たらないように、綿のようなものを巻いてからギプスを巻きます。
 この綿が次第にボロになってきて痒くなります。
      ■         ■
 私が形成外科医になってからは、私が患者さんにギプスを巻きました。
 患者さんの中には、ギプスに落書きをする人もいます。
 ○○ちゃん、頑張ってね!
 はやくよくなりますように!
 若い方だと、○○愛してるぅ~!なんてものありました。
      ■         ■
 私の腰についたギプスに落書きが書いてあったかどうかは覚えていません。
 とにかくギプスの中が痒いので、一日も早くギプスを外して欲しかったのを記憶しています。
 箸でつついて、痒いところを掻くのも限界でした。
      ■         ■
 いよいよギプスカットの日が来ました。
 私はギプスが外れるのを楽しみにしていました。
 子供心に、ギプスはどうやって外すのだろうと思っていました。
 イヤな予感は当たりました。
 ギプスをカットするのは、手品で腕を切断する時に使うような電動ノコギリでした。
 担当してくれたのは、一番怖い看護婦さんでした。
      ■         ■
 「キーン」という金属音をたてて、ギプスカッターを持った看護婦さんが言いました。
 「動いたら、足が切れちゃうよ!」
 私はビビリました。本当に足が切れると思いました。
 「イヤだイヤだ」
 「ギプスなんか切らないで!」
 「ボク、痒いのもがまんするから!切らないで!」
 (ここは私のフィクションですがこんなことを言ったと思います)
      ■         ■
 お腹の近くを切る時は、必死にお腹をへこませた記憶があります。
 足の部分を切る時は、オシッコをちびりそうになりながら必死にじっとしていました。
 ある程度切ったら、大きなペンチのような道具で、バリバリとギプスを開きます。
 とうとうギプスが割れて、パッかぁ~んと私の腰とチンチンと脚が出てきました。
      ■         ■
 実は、ギプスカッターは電動ノコのような形ですが、刃は本物の電動ノコのように回転せず、振動するだけです。
 ですから、もし当たったとしても、少しキズができる程度で、ノコギリのように切れたりはしません。
 でも、本当に手品で使うように足が切れると思いました。
      ■         ■
 私は、たとえ子供でもちゃんと説明してくれて、『これは音が怖いけれど、脚は切れないからね』と言ってくれたらよかったのにと思います。
 札幌医大の学生の時に、小児麻酔の講義を、田宮恵子先生という小児センターの先生から習いました。
 田宮先生は、子供でも、ある程度話しがわかる子は、大人と同じように説明して不安をとってあげるのがよい。とお話しされました。
 自分の経験から、さすが小児センターの先生は違うものだと思ったのを覚えています。
      ■         ■
 田宮先生はとても優秀な小児麻酔医でしたが、病気で他界なさってしまいました。
 でも、私の中では、田宮先生のお話しはずっと生きています。
 形成外科医になってからも、ある程度の年齢に達して、話せばわかるようになった子供には、必ず子供の目の高さで話して説明していました。
      ■         ■
 辛いことがあった入院生活ですが、5歳の時の記憶が50年たっても生きています。
 大学で講義を聴いても、自分が体験したことはよく理解できますし忘れません。
 ペルテスになったおかげで、私は入院生活の辛さや退屈さを経験できました。
 病気はありがたくないことですが、自分が病気で入院した体験は何ものにも勝る医学教育だと思います。

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昔の記憶

床上排泄

 床上排泄(ショウジョウハイセツ)と読みます。
 ベッドの上でオシッコもウンコもすることです。
 ペルテス病になった5歳の私は、札幌の愛育病院に入院しました。昭和34年11月のことです。
 大腿骨という、太ももの骨の病気です。そのままだと、歩けなくなります。両親は焦ったと思います。
      ■         ■
 愛育病院は昭和32年8月に開設されました。財団法人小児愛育協会附属愛育病院。
 病床数32床、小児科、皮膚科、整形外科、耳鼻咽喉科の病院でした。
 北大医学部小児科の2代目教授、弘 好文先生を中心に地域の小児保健問題の研究と解決、及び育児指導を目的として小児総合病院建設の構想の下に作られました。
      ■         ■
 愛育病院へ入院した私は、まず腰から下のギプスをつけられました。
 大腿骨頭にかかる負荷を減らす目的だと思います。
 子供だった私は何と説明されたかは覚えていません。ギプスをつける時に暴れたので麻酔をかけられたような気もします。
      ■         ■
 ギプスは石膏でできているので、子供の私が暴れたところでびくともしませんでした。
 パンツの代わりに、セメントでできたズボンをはいているようなものです。
 オシッコとウンコをするために、チンチンのところとおしりには穴が開いていました。
 当然のことですが、トイレには行けません。
 ギプスをつけたその日から、ベッドの上でオシッコもウンコもしなくてはなりません。
 5歳の子供でも、これには参りました。
      ■         ■
 オシッコは尿瓶(シビン)でできるからまだマシです。
 問題はウンコでした。
 ウンコをする時は、カーテンをして他の子供から見えないようにしてしました。
 いくらカーテンをしても、臭いは容赦なくカーテンにこもります。
 5歳の男の子でも、クサイにおいには閉口しました。
 同室の子供から、ウンコ臭いなんて言われようものなら、ウンコが出なくなりました。
      ■         ■
 ウンコが出なくなるとお腹が痛くなります。
 ウンコがイヤでお腹が痛くなるので、食事も進みません。
 骨の病気で入院したのに、ウンコが最大の苦痛でした。
 子供の病院なので、同室者は子供ばかりでした。
 他の子供は、小児科の患者が大部分でした。
 ペルテスは私一人で、他の子供たちは元気に遊び回っていました。
 私だけ、24時間ベッドの上でした。次第にストレスが溜まりました。
      ■         ■
 同室の子供たちは腎臓病の子が多かったように記憶しています。
 食事の時間になると、『腎臓さんの食事ですよ!』と、腎臓病食がその子供たちに配膳されました。
 食事の時間は、私が優位でした。腎臓病の子供は、醤油が食べられませんでした。
 私はご飯に生卵をかけて食べられましたが、腎臓病の子は生卵に醤油をかけられませんでした。
      ■         ■
 病院で入院患者の部屋割りを決める時は、男性は男性。女性は女性。あかちゃんはあかちゃん。学童は学童と分けます。
 私は小学校入学前だったので、男の子も女の子も同じ部屋でした。
 自分の経験から、男性と女性は無理としても、できるだけ同じ病気の子が同じ病室で過ごせるとよいと思います。
      ■         ■
 たとえば乳癌が専門の病院があります。
 同じ部屋に術前の患者さんと術後の患者さん、新入りの患者さんがいらっしゃいます。
 私たち医療従事者が説明するよりも、先輩患者が自分の体験を元に‘説明’してくださると、実に安心することがよくあります。
 ベテランの看護師長は、ベッドの割り振りや部屋割りがとても上手です。
      ■         ■
 私は約一ヵ月入院しましたが、小児科の子供と仲良くなった記憶はありません。
 24時間、ベッドの上で、お風呂も入れない生活は苦痛でした。
 ギプスはつけたままなので、次第に痒くなります。
 ギプスの中が痒くても手や指は届きません。
 お箸で痒いところを掻いた覚えがあります。
      ■         ■
 5歳になると、入院していたことや辛かったことはよく覚えています。
 形成外科医になってからも、植皮術の後に床上安静が必要なことがありました。
 私は、5歳の時の体験から、できるだけ早くウンコだけはトイレでしてもらうように配慮していたつもりです。
 この他にも、自分の入院体験は役に立っています。また別の日に続きを書きます。

昭和35年1月の私です。
左下肢につけているのが装具。
(コルセット)です。

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昔の記憶

お医者さんごっこ

 私が子供だったのは、昭和30年代です。
 日本は戦後の混乱から、高度経済成長の時代に入っていました。
 ‘三丁目の夕日’は、昭和33年(1958年)の東京の下町が舞台として設定されています。
 私が育った、札幌郡手稲町も、三丁目の夕日と同じように、隣近所が親しくお付き合いしていました。
      ■         ■
 子供の遊びは、近くの雑木林でドングリを拾ったり、当時流行っていた、月光仮面のマネをしたり、チャンバラをしたり…。
 女の子は、おままごと遊びをして、それに加わったり…。
 ごく普通の子供の、ごくふつうのあそびでした。
      ■         ■
 ただ一つ違っていたとすれば、‘お医者さんごっこ’だと思います。
 病院職員の子供ばかりの集団です。お医者さんごっこも、ふつうの子供より知識がありました。
 子供は、お父さんと同じ職に就きました。
      ■         ■
・マーちゃんがお医者さん。お父さんは小山先生。
・はるみちゃん(マーちゃんの妹)が看護婦さん。お母さんが元看護婦さん。
・ひろすけちゃんが事務長さん。お父さんは小林事務長さん。
・まさるちゃんがレントゲン技師さん。お父さんは、レントゲン技師の草野さん。
・私が薬剤師。父は薬剤師。
 患者さん役が誰だったか?どうやったか?は覚えていません。
      ■         ■
 お医者さんのマーちゃんが‘診察’をして、看護婦さんのはるみちゃんが介助します。
 レントゲン技師のまさるちゃんがレントゲンを撮ります。
 注射は、看護婦さんのはるみちゃんが担当。
 薬剤師のケンちゃんは、マーちゃんが処方したお薬を作ります。
      ■         ■
 私は、土を集めて、サラサラにして、お薬を調合。
 木の葉っぱに包んで、「はい、お薬ができました」という係りでした。これは今でも覚えています。
 私はこの薬の係りが好きでした。
 少し大きめの葉っぱを集めて、さらさらにした土を、おままごとの皿に入れて調合しました。
 看護婦さんの、はるみちゃんが「はーい、お口を開けて!」と飲ませるマネをしていました。
      ■         ■
 お医者さんは、血も見なければいけないし大変だから、自分は薬剤師でよかった!と子供心に思ったのを覚えています。
 マーちゃんのようにお医者さんになりたいとは、まったく考えていませんでした。
      ■         ■
 子供たちは、親が働いている療養所へ遊びに行っていました。
 マーちゃんとはるみちゃんは、お父さんのいる医局へ。
 私は父がいた薬局へ行きました。
      ■         ■
 薬局には、今のような分包器(粉薬を紙の袋に入れる器械)はありませんでした。
 薬包紙という薄い紙を、調剤台の上に並べて、そこへ父が乳鉢で調合した薬を手際よく配分していました。
 怒ると怖い父でしたが、その時は子供心に『お父さんすごい!』と思いました。
      ■         ■
 その他に錠剤を作る器械があり、ゴットンごっとんと動いて錠剤ができていました。
 子供にとっては、イスと机と本しかない医局(お医者さんの部屋)よりも、いろいろな薬や器械がある薬局の方が楽しみでした。
 私は注射が嫌いでしたし、手術なんて考えただけで血の気が引いていました。
 その頃から考えると、よく形成外科医になったものです。
      ■         ■
 子供は地域が育てるものと言われます。
 親から教えられることの他に、近所のお兄さんお姉さんからもたくさんのことを教えられます。
 私の兄貴分はマーちゃんでした。マーちゃんは面倒見がよく、妹や私とよく遊んでくれました。
 私の一生の中で、手稲で過ごした7年間はとても貴重なものだと思っています。マーちゃんに感謝しています。

ソリを引くのがマーちゃん
その後ろが妹のはるみちゃん
最後尾が私(ケンちゃん)です

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昔の記憶

ペルテス病

 私は幼稚園の時にペルテスという病気になりました。
 50年も経った現在でも原因不明の病気です。
 6歳前後の男の子に多く、大腿骨という太ももの骨の頭(骨頭といいます)が徐々に崩れてきます。骨の血流障害が原因ですが、なぜ血流障害になるかはわかっていません。
      ■         ■
 大腿骨は、体を支えるために、太く丈夫にできています。
 テーブルの脚と同じで、ぐらぐらすると困るので、体についている部分は、骨盤という骨にがっちり食い込んでいます。
 骨盤に食い込んでいる部分も、動かないと脚を開いたり、前後に動かしたりできないので、ベアリングのように丸くなっています。
 この丸くなっている部分が、崩れていびつになるので歩けなくなるのがペルテス病です。
      ■         ■
 私の初発症状は、『歩き方が変!』だったようです。
 少し、痛みもありましたが、耐えられない激痛ではありません。
 手稲療養所で外科の近江谷先生がレントゲンを撮って診て下さいました。
      ■         ■
 レントゲンは暗い少しひんやりした部屋で撮られました。
 レントゲンを撮ってくださったのは、まさるちゃんのお父さんです。
 レントゲン室は現像液の臭いがする部屋でした。
 私はレントゲンは好きでした。なぜかというと、ただじっとしていれば終わるからです。
 注射のように痛いこともありません。
 レントゲンを見てもあまり変化がなかったようです。外科の近江谷先生は股関節脱臼を疑われました。
      ■         ■
 股関節脱臼にしては治らないので、私は北大病院へ紹介されました。
 北大でかかったのは整形外科でした。
 私は子供だったので、外科も整形外科もわかりません。
 当時の整形外科は外科から分かれて独立し、まだ10年くらいだったようです。
 整形外科といえば、美容整形?といわれ、骨折は『骨接ぎ』といわれる整骨院に行っていた時代でした。
      ■         ■
 北大でついた診断名がペルテス病。
 整形外科ではレントゲンを撮られ、診察室を歩かされました。
 『向うの壁まで歩いて行って、戻ってきて。』
 整形外科医は歩行分析をして、診断をつけたのだと思います。
 今ならわかるのですが、5歳の子供には『何でボクは歩かされるんだ?』
 『注射よりマシだけど、早くしてよ!』という思いでした。
      ■         ■
 私は入院治療が必要であること。
 その後も、装具を着用しなければならないこと。
 しっかり治療しなければ、歩けなくなること。などの説明を受けたはずです。
 自分では覚えていませんが、両親や祖母が心配したのは想像できます。
      ■         ■
 北大病院が満床だったのでしょう。私は知事公館の近くにある愛育病院という北大の関連病院へ入院しました。5歳の時でした。
 入院したのは11月。期間は約一ヵ月でした。
 入院中のことは今でもよく覚えています。
 私が医師になってからも、5歳の時に入院した経験は生きていました。
      ■         ■
 5歳の子供でしたが、入院中にはいろいろ辛いことがありました。
 たった一ヵ月の入院でしたが、貴重な体験でした。
 自分が入院したから、医師を目指したのではありません。
 ただ、自分が入院したからわかることがありました。50年たっても生きています。
 別な日に私の入院生活について書きたいと思います。

手稲療養所の慰安旅行で行った洞爺湖です
父と一緒に行ったようです。病気になる前です。

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医療問題

職場でのうつ

平成19年11月23日北海道新聞朝刊の記事です。
 広がる職場でのうつ
 鍵は上司、同僚の「支え」
 じっくり話を聞いて
 復職支援、きめ細やかに
      ■         ■
 企業や官公庁、団体などで、うつ病で休職する人が増えている。
 背景には、長時間労働や成果主義、上司による嫌がらせ(パワーハラスメント)によるストレスなどがあるとみられ、専門家は職場での予防対策を訴えている。
 職場の部下や同僚がうつ病になったとき、私たちはどう接し、どう支えればいいのか。当事者や専門家の話を聞きながら考えた。きょうは「勤労感謝の日」。(村田泉)
      ■         ■
 道内のサービス業に勤務する二十代男性Aさんは、「仕事のストレス」で抑うつになり二ヵ月間、休職した経験をもつ。
 休職前は、いつも疲れが抜けないほか、手が震えたり、言葉がうまく出ないなどの身体的症状もあったが、苦しみながら約一年、働き続けた。
 現在は職場復帰しているAさんはこう振り返る。「職場に理解があり、復帰後しばらくは時短勤務を認めてもらったのも良かった。あのまま病院にいかずにいたら、どうなっていたかわからない。つらいときは、すぐに受診すべきです」
      ■         ■
 部下や同僚の心身の不調に気付いても、対応の仕方がわからず、戸惑う人は多い。
 NPO法人、勤労者心の健康づくり協会(札幌)の久村正也会長(心療内科医)は、「職場のメンタルヘルス(心の健康)のかぎを握る、直属の上司の声のかけかたが重要」と言う。
      ■         ■
 久村会長によると、うつ病の人は自分自身への嫌悪感や無能力感に苦しんでいることが多く、「このごろ、どうしたんだ」 「甘えている」といった言葉は症状を悪化させる可能性もある。
 また、腫れ物に触るようにしたり「気分転換したら?」などの、当たり障りのない励ましも禁物。
 「元気ないようだけど、どこか調子悪いんじゃないか?」と、体の話から人ると本人も受け人れやすいという。
      ■         ■
 本人が話し始めたら、じっくり話を聞き、一緒に問題を解決しよう、という姿勢を示すことが人切だ。
 すぐに病気と決めつけるのは論外。「本人から十分話を聞いた上で、上司が会社の産業医や外部専門機関に受診の必要性を相談する」のが良いようだ。
      ■         ■
 同僚ができることは何だろう。
 久村会長は「うつの人は『この人には話してもいい』と相手を選択して相談することが多い」と説明する。
 相談を受けた人はやはりしっかり話を聞き、「支える」というメッセージを伝えることが人切だという。
      ■         ■
 うつ病で休職した場合は、治療と十分な休養が必要だ。
 道立精神保健福祉センターの田辺等所長(精神科医)は「かつてのうつ病は、40代ぐらいの働き盛りが中心だったが、最近は幅広い年齢に広がっており、個人に合わせた、よりきめ細かな復職支援が必要になっている。
 管理職は自身の異動の際、部下の症状をきちんと引き継ぐほか、復職後も産業医などと連携しケアをすることが必要」と言う。
(以上、北海道新聞より引用)
      ■         ■
 医療関係者にも『うつ病』は広がっています。
 信じられないことですが、病棟の看護師さんに『ばか!あほ!無能!』呼ばわりされて、落ち込む研修医は山ほどいます。
 大学で勉強した医学と、現実の‘医療’のギャップに悩む研修医もいます。
      ■         ■
 美容外科医もストレスの多い職種です。
 どんなに丁寧に手術をしても、お客さんが‘NO(ノー)’と言ったら価値がなくなってしまいます。
 高度の専門職、知識や技術が要求される職種にはストレスがつきものです。
      ■         ■
 経営者にもストレスは溜まります。私の一ヵ月の勤務時間は200時間を越えています。もちろん、こうして日記を書いている時間や、自宅でメールに返信している時間は含まれていません。
 たとえ自己満足でも、自分の考えを伝え、残すことに意義があると考えています。
 私が何とかやって行けるのは、たとえ一人でも私の‘勤労’=‘手術・診療’に‘感謝’してくださる方がいらして、日記を読んでくださる方がいらっしゃるからです。
 今日も拙い(ツタナイ)日記を最後まで読んでいただきありがとうございました。

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未分類

市立病院の会

私は平成元年4月(34歳)から平成6年12月(40歳)まで、市立札幌病院に勤務しました。
 人間は成長する過程でどんな人と出会い、どんな影響を受けるかで、その人の人格や人間性が形成されます。
 医師も、成長する過程で、どんな先輩や同僚と出会い、どんな経験を積むかで、医師としての技量や人格が形成されます。
 私は医師としての‘青春時代’を市立札幌病院で過ごしたことにより、目に見えない貴重な財産を得ました。
      ■         ■
 市立札幌病院には、とても優秀な医師が集まっていました。
 各科の連携がよく、ちょっと困ったことがあると、いつでも誰とでも気軽に相談できる雰囲気がありました。
 どんなに医学書を紐解いても、経験を積んだ先輩に聞くことにはかないません。
 生き字引と言える専門家が各科にいました。他科の医師と交流を深めることが何よりの勉強になりました。
      ■         ■
 一年に2回、元市立札幌病院に勤務した医師の仲間が集まって勉強会をしています。
 総勢10人に満たない会ですが、それぞれが持ち回りで講師を担当します。
 昨夜は、私が講師を担当し「美容形成外科の実際」というタイトルで発表させていただきました。
      ■         ■
 会のメンバーは次の通りです。
河野通史(コウノミチフミ)先生。北大51期(昭和50年卒)
 こうの内科。
 札幌市中央区大通西24丁目1-10円山公園メディカルビル3F
 電話:011-631-1181
 元市立札幌病院リウマチ血液内科部長。
 優秀で、優しく丁寧な先生です。会のBrainです。
小泉 眞(コイズミマコト)先生。北大52期(昭和51年卒)
 小泉呼吸器科・内科クリニック
 札幌市中央区南1条西27丁目1番41号
 電話:011-632-8881
 元市立札幌病院呼吸器科内科医長。
 呼吸器内科の専門医です。奥様とご一緒に開業なさっていらっしゃいます。会の中心メンバーです。
小泉洋子(コイズミヒロコ)先生。北大52期(昭和51年卒)
 小泉皮膚科クリニック
 札幌市中央区南1条西27丁目1番41号
 電話:011-632-8484
 元北海道大学医学部皮膚科助教授。
 優しい先生です。元北大医学部で助教授をなさっていらっしゃいました。とても優秀な先生です。とても偉い先生だったのに、その偉さを出さない先生です。実力があります。
辻永宏文(ツジナガヒロフミ)先生。北大55期(昭和54年卒)
 日之出内科クリニック
 札幌市中央区南1条西4丁目13日之出ビル7階(三越西向い)
 電話:011-200-7757
 元北海道大学医学部第一内科、麻酔科。元国立札幌病院救命救急センター
 とても優しい先生です。北大時代に麻酔をかけていただいたことがあります。麻酔科と呼吸内科をなさっていらした先生です。いびき(睡眠時無呼吸)の治療にも力を入れていらっしゃいます。
松永 崇(マツナガタカシ)先生。北大59期(昭和58年卒)
 松永内科クリニック
 札幌市西区西町北20丁目3-10SR宮の沢メディカルビル3階
 電話:011-669-3666
 元市立札幌病院消化器内科。
 優しい先生です。とても優秀な先生です。消火器病、肝臓病の専門家です。私の家族や職員もお世話になっています。
羽田 均(ハネダ ヒトシ)先生。北大60期(昭和59年卒)
 はねだ内科クリニック
 札幌市西区発寒6条3丁目2-10
 電話:011-666-2227
 元市立札幌病院呼吸器内科。
 優しくてとても優秀な先生です。呼吸器の専門家です。JR発寒中央駅前にあります。
      ■         ■
 昨夜のメンバーは私を入れて7人でした。
 発表が終わった後で、食事会です。開業医ならではの、いろいろな悩みを打ち明け、相談できます。
 こういう会に出席して親交を深めることは、何よりのストレス解消になります。
 診療科を問わず、開業医は開業医としての悩み苦しみがあります。
 昔の仲間と、先輩と楽しく時間を過ごしました。また明日から頑張ります。

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「ひととき」から

 平成19年11月21日朝日新聞-ひととき-への投稿です。
 「しゅくだい」
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 娘の幼稚園では週に一度、絵本の貸し出しがあります。
 先日、5歳の娘が借りてきた本は「しゅくだい」という絵本。いつものように夜寝る前にお布団で読み始めました
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 あらすじは、主人公のもぐらのもぐくんが、学校の先生から[おうちの人にだっこしてもらうこと」という宿題を出されます。
 けれど、もぐくんのお母さんは、生まれたばかりの赤ちゃんのお世話で大忙し。
 ちゅうちょして、なかなか「しゅくだい」を言い出せません。でも、最後は、家族みんなから抱きしめてもらうというお話です。
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 ふと、我が家の風景がだぶり、ドキリとしました。
 幼稚園にも慣れ、ほとんどのことが自分でできるしっかりものの娘だから、下の1歳の弟にばかり手をかけていたことに気づかされたのです。
 そういえぱ、最近ギューしてあげてないな。
 さびしかったかな。
      ■         ■
 読んだあと、隣の布団で聞いていた娘に「おいで」と声をかけました。そして、お布団の中で思い切り抱きしめました。
 気恥ずかしそうにしていた娘ですが、ギューした後すぐに、幸せそうに寝息をたてて眠ってしまいました。
 偶然借りてきた本なのでしょうが、心に残る一冊との出会いになりました。
 それ以来、心をこめて、2人の子どもたちに「しゅくだい」をする毎日です。
 川崎市 主婦 34歳
 (以上、朝日新聞より引用)
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 子供が小さい頃、よく『お父さん、早く帰ってきて遊んでね』と言われました。
 地方の病院にいた頃は、臨時手術でもない限りは、午後8時頃までには帰宅するようにしていました。
 下の子が生まれると、どうしても下の子にてがかかるので、上の子は淋しがります。
      ■         ■
 私は日曜日や休日は、なるべく子供と遊ぶようにしていたつもりです。
 釧路にいた頃は、子供と屈斜路湖までハクチョウに餌をやりに行ったりもしました。
 小さな子供さんがいるご家庭では、できるだけ子供さんと接してあげてください。
 一生に一度しかない楽しい時期です。

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セルフスタンド

平成19年11月18日北海道朝刊の記事です。
 軽油 ガソリン車に
 軽だから…安いから…
 セルフ式利用者 トラブル多発
      ■         ■
 道内のセルフ式ガソリンスタンドで、ガソリンエンジンの車に誤ってディーゼルエンジン用の軽油を入れてしまうトラブルが今夏以降、急増している。
 日本自動車連盟(JAF)北海道本部によると、誤給油による出動は今年6月から10月末までで96件に達した。
 ガソリン価格高騰で割安なセルフ式の利用者が増え、「軽自動車だから軽油」という勘違いや軽油の低価格に目を奪われて間違う例が多いという。
      ■         ■
 「エンジンが止まってしまいそうだ」。今年6月ごろ、札幌市南区のスタンドに軽乗用車に乗った30代の男性が助けを求めてきた。男性は一キロほど離れたセルフ式スタンドで給油。
 従業員が確認すると伝票に「軽油」の文字。男性は「『軽』だから軽油と思いこんでいた。友人から借りた車なのに…」と肩を落とした。
      ■         ■
 タンクから軽油を抜きガソリンを入れ直すと、ガソリン代のほかにタンク洗浄費など約三千円がかかった。
 対応した男性従業員(38)は「安く済ませようとセルフに行ったのに、高くついて気の毒だった」と振り返る。
      ■         ■
 石油情報センター(東京)によると、今年の道内のガソリン平均小売価格は3月まで下落を続けたが、その後上昇。8月には一リットル143.7円と1987年の調査開始以来の最高値を記録した。
      ■         ■
 一方、道内のセルフ式スタンドは今年3月末で5年前の7倍以上の297店に増えた。セルフ式を併置する札幌市内のスタンドは「ガソリンが高くなるにつれて一円でも安くとセルフ給油する人が増え、現在は8割がセルフ給油」と話す。
      ■         ■
 JAF道本部は「誤給油はセルフの少ない時代はほとんどなかったが、価格上昇とともに増えてきた」と言い、8月には、走行中にエンジンが不調になったドライバーからの出動要請が25件に達した。
 中には「一番安い燃料を」と軽油を入れてしまった例もあった。
      ■         ■
 ガソリン車に軽油を入れると最初は走行できるが、やがてエンジンが停止。軽油を抜き取り内部を洗浄した上、部品交換が必要なケースもある。
 札幌市内のディーラーは「燃料の入れ替えと整備で一万円から三万円かかる場合もある」と話す。
      ■         ■
 セルフ式に限らず、給油ノズルは軽油が緑、レギュラーが赤、ハイオクは黄と色分けして区別できるようになっており、JAF道本部は「大切な車のため、自分の車の燃料の種類をしっかりと確認して」と訴えている。
(以上、北海道新聞より引用)
      ■         ■
 私はセルフスタンドを利用しています。家内がガソリンを入れる時もセルフです。
 自分でガソリンと軽油を間違えたことはありませんが、昔、アルバイトの店員さんに間違えて軽油を入れられたことが一度だけありました。
 店長さんが、平謝りに謝っていました。
 色さえ間違わなければ、セルフスタンドは安全だと思います。
      ■         ■
 ガソリンや灯油が値上がりすると、美容外科は不景気になります。厳しい冬を迎えるのに‘整形’どころではありません。
 形成外科の保険診療は、生活保護の方も、ひとり親家庭の方も受けられます。
 ワキガ手術などは保険診療で受けると、セルフスタンド以上に‘お得’です。
 せっかく高い税金や保険料を払っているのですから、有効にご利用なさってください。

軽油の誤給油が急増しているセルフ式スタンド
給油ノズルは軽油、レギュラー、ハイオクで色分けされている
札幌市手稲区 (北海道新聞より引用)

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