医学講座
目の脂肪とたるみ
目という組織はとても重要な臓器なので、神様は動物をお作りになる時に、さまざまな工夫をなさいました。
大切な食器や磁器を輸送する時は、丈夫な箱に入れて、パッキンで包みます。
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目という大切な器官は、顔面骨という丈夫な骨の中に入っています。目の周囲には脂肪という厚いパッキンが充填されています。
顔面は衝撃を受けやすい場所なので、もし目に大きな外力が加わっても、目の周囲にある、脂肪が衝撃吸収バンバーの役割をして目を保護するようにできています。
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魚でも、鳥でも、動物でも、目の周囲に脂が多いのは、目を保護するために、脂肪というパッキンがあるからです。
丈夫な箱に、大切な磁器を入れてパッキンで包んでも、しっかり蓋(フタ)をしないとパッキンがはみ出てしまいます。
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この蓋の役割をしているのが、眼輪筋という筋肉と皮膚です。
目の上、目の下には、眼輪筋という筋肉があり、これがしっかりと骨に張り付いて、脂肪が出てこないように蓋をしています。
ところが、筋肉も長年使っていると衰えてきます。どんなに丈夫なゴムでも、長年使うと伸びてビロビロになってしまうのと一緒です。
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悲しいことですが、眼輪筋というゴムが伸びてしまうと、目の下がぽこっと膨らむようになります。
この目の下の膨らみを、‘目袋(メブクロ)’と呼ぶ先生もいらっしゃいます。
この目袋を取るためには、余分な脂肪を除去し、伸びてしまった筋肉を引き締め、かつシワシワになった皮膚も切除する必要があります。
簡単な手術のように思いますが、初心者の先生がすると、皮膚を余分に取りすぎたり、手術後に血がたまってしまったりします。
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世界中どこの国でも行われている、目の下の『脂肪』『たるみ』とり手術ですが、世界中どこの国でも、アッカンベーの後遺障害が出ています。
プチ整形しかできない先生は、アッカンベーを治せません。アッカンベーを治すには高度の形成外科的技術が必要です。
下まぶたのたるみは、取り過ぎないようにするのが一番大切です。他とのバランスも重要です。
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下まぶたのたるみ取りでアッカンベーになった方は、顔面神経麻痺でアッカンベーになったのとは状態が違います。
顔面神経麻痺でアッカンベーになった方は、皮膚が足りないとか筋肉が瘢痕でガチガチになっているという症状はありません。
下まぶたのたるみとり手術は、さまざまな方法が報告されています。下まぶたたるみ取りでアッカンベーになったのを治す手術も論文として出ています。
いつも申し上げていることですが、手術は簡単ではありません。安易に受けて後悔なさらないでください。
アッカンベーで困っていらっしゃる方は、札幌美容形成外科へ相談にいらしてください。
医学講座
汗のお話し②
昨日の朝日新聞日曜版(be on Sunday)、汗の話しの続きです。
生命維持し、魅力も発信
(平成19年9月23日朝日新聞より引用)
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たとえば、この夏の真昼のような炎天下で外を10分歩いたとする。その間、汗をかかなければ、体温は1度上がってしまう。
実際にそうならないのは、人によって差はあるがふつう約1,000mlの汗をかき、皮膚上から大気中に蒸発していくときに奪う熱(気化熱)で体を冷やしているからだ。
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汗を研究してきた愛知医科大名誉教授の小川徳雄さんは「汗をかかなければ、体温は上がる一方です」という。
いわば、体の表面に打ち水をしているような仕組みだ。気温や運動量、個人差もあるが、1時間で4㍑も汗をかく場合もある。病気など何らかの原因で汗が出なければ、体温が上がってしまい、生命の危険にさらされる。
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体温調整を担うエクリン汗を出すエクリン汗腺は、皮膚の表面から0.3~5㎜のところにあり、体表まで汗を出す管が通っている。根元は管がからまった毛玉のような形をしている。「毛玉」が、近くにある血管から血液の透明な部分(血漿)を取り込んで、押し出したのが汗だ。
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退化する器官
日本人にはエクリン汗腺が平均230万個あるといわれる。前頭部、鼻などに多いものの、ほぼ全身にある。一方、アポクリン汗を出すアポクリン汗腺は、エクリン汗腺と同じ形をしているが、耳の穴やわきの下、乳首の周り、下腹部など、比較的太い毛が生えた毛穴にしかない。
皮膚腺と呼ばれるものには、もう一つ、皮脂腺があり、こちらは皮脂を分泌して、汗とまじり合い、皮膚を保護している。
人間と違い、おもに呼吸で体温調整をしている犬の場合、アポクリン汗腺は体の表面全体にある。エクリン汗腺は足の肉球にあり、表面をぬらすことで滑り止めの役割をしている。体温調整に役立っていないそうだ。
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エクリン汗が血漿をもとにしたさらっとした薄い塩水なのに対し、アポクリン汗はどろっとした白か灰色の液体だ。
小川さんは「人類の進化の名残で、退化していく運命にある器官」という。実際、妊娠5ヵ月前後の胎児には全身にアポクリン汗腺のもとになる細胞ができるが、その後退化していき、一部だけ残ることが分かっている。
生まれてからもアポクリン汗腺はすぐには働かない。思春期ごろから活動を始め、性的に活発な時期によく働く。動物では、性的魅力を発するフェロモンを出す役割を果たしているといわれる。
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活用法は様々
「わきが臭」の原因として気にされがちなアポクリン汗だが、人によっては魅力的なにおいと感じる場合もある。日本ではにおいをなるべく抑えようとする制汗剤が中心だ。欧米では、制汗剤だけでなく、わきが臭と混じり合っていい香りになる香水を開発してきた歴史がある。
体臭の原因物質の解明では日米欧の研究者がしのぎを削ってきたが、成果をどう活用するかでは、においに対する考え方の違いがあるようだ。
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におい抑える制汗剤 始まりは19世紀後半
汗のにおいを抑える制汗剤の歴史は古い。 19世紀の後半に米国で殺菌剤を配合した商品が発売されたのに始まる。同じ米国で20世紀初頭には汗を抑える商品が出されたが、酸性で皮膚への刺激が強く、衣類が破れるという問題があった。本格的に市場が拡大するのは1950年代からだ。
制汗剤の国内市場は2006年、前年並みの321億円。国内市場は高齢化で頭打ちだが、世界的には欧米を中心に伸びる余地が大きいとされる。花王はスパイシー臭や硫黄臭などの研究成果を、05年から「ビオレ」「メンズビオレ」のスプレーやボディシートなどに反映させている。
(朝日新聞より引用)
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この朝日新聞の記事の中で、アポクリン汗腺は、エクリン汗腺と同じ形をしているというのが、間違いです。
アポクリン腺はエクリン腺より皮膚の深い層にあり、肉眼で見ても明らかに形も色も違います。手術をしたことがある先生ならすぐにわかります。制汗剤で対処できない汗は、是非、札幌美容形成外科に相談なさってください。
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汗のお話し①
今日の朝日新聞日曜版(be on Sunday)に汗の話しが出ていたのでご紹介します。
汗・汗・汗…におう3物質
(平成19年9月23日朝日新聞より引用)
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今年の夏は暑かった。
気象庁によると、6~8月に29道府県の101地点で最高気温を更新した。よく汗をかいたはずだ。
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汗には2種類ある。一つは、体中に広く分布するエクリン汗腺から出る汗で、体温調節の役割を果たす。
もう一つが、わきの下などに集中するアポクリン汗腺からの汗。こちらの役割は不明な点が多い。比較的においが少ないエクリン汗に対し、アポクリン汗はわきがなど体臭の原因で、昔から人々を悩ませてきた。
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近年、アポクリン汗による体臭の原因物質がほぼ解明され、制汗剤などへの応用が期待されている。
花王香料開発研究所の矢吹雅之研究員によると、アポクリン汗に含まれる体臭成分は、カレーのスパイスのにおいに似た「スパイシー臭」、古いぞうきんのような「脂肪酸臭」、生臭く鼻を突く「硫黄臭」の3つから成る。
どのにおいの原因物質もアポクリン汗腺から出た直後はアミノ酸とくっついた「前駆体」という形で、無臭だ。
しかし、皮膚上の細菌がアミノ酸から切り離すと、原因物質だけになり、においを発するようになるという。
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3つの原因物質のうち最初に解明されたのは、脂肪酸臭だ。91年に米国の研究機関、モネル研究所が原因物質を学会で報告した。
スパイシー臭の原因物質を特定したのは花王で、96年、「におい物質」として特許を出願した。
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最後の難関は硫黄臭だった。分泌量がスパイシー臭の原因物質の100分の1以下と少なく、揮発性が高い。
物質を突き止めるため、研究者たちは文字通り汗をかいてきた。
東京都墨田区の花王すみだ事業所には、室温40度、湿度80%にできる実験室がある。90年代半ばから研究員らが自らここで汗をかき、データーを集め、原因物質を探した。
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やっと2000年、それを突き止めたのだが、世界最大の香料会社、ジボダン(スイス)が日本でも香料として特許を申請していたことがわかり、特許申請はならなかった。
微量ならグレープフルーツのような香りがする。花王はその前駆体に研究対象を切り替え、そちらで特許を申請した。
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ところで、花王は04年、米国で18~63歳の女性25人に人前で簡単なクイズや計算、自己紹介をさせ、ストレスを感じさせる実験をした。
結果、鼻でかいでにおいが強くなった12人のうちの10人で、わきの下の原因物質の量が増えていた。
長谷川義博主任研究員は「精神的なストレスがアポクリン汗を出す原因の一つなのは間違いない」と話す。
ストレス社会を生きる限り、においの根本を断ち切ることは難しいようだ。(朝日新聞より引用。文・諏訪和仁)
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実際に毎日わきがの手術をして、においに悩む患者様を診察していると、ストレスで出るのはエクリン汗が多いと思います。
エクリン汗もアポクリン汗も、ボトックス注射で劇的に止まります。
ストレスを受けると交感神経が興奮して、汗を出す信号を発しますが、ボトックスはこれを汗腺に伝えないので汗が出ません。
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わきが手術はアポクリン腺を外科的に切除する手術です。手術をしてみると、わきがの患者様でも汗腺の量には個人差があります。
日本やアジア圏では、欧米よりわきがを忌み嫌う風習があります。高校か大学を卒業するまでに手術を受けるのがよいと思います。
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顔面神経麻痺
顔面神経麻痺(ガンメンシンケイマヒ)という病気があります。ビートたけしさんが、交通事故で右顔面神経麻痺になったのが有名です。
たけしさんは、リハビリで回復し、現在はTVで拝見しても、少し右顔面にマヒが残っている程度です。事故で神経が部分的に障害されたので、少しずつ回復してきました。神経は障害を受けても、少しずつ自分で‘再生’して、治る性質を持っています。
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顔面神経という神経は、脳神経です。脳から耳の穴の前に出てきます。ここから、耳下腺という組織の中を通り、おでこから唇、首までの表情筋を動かす指令を伝えます。
ですから、顔面神経麻痺になると、おでこにシワができなくなる、眉毛が下がる、目が閉じられなくなる、アッカンベーになる、口が曲がって食べ物がこぼれるなどの悲惨な症状が出ます。
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顔面神経麻痺には脳の異常で起こる、中枢性顔面神経麻痺と、主に耳から先の異常で起こる末梢性顔面神経麻痺があります。
この中で多いのが、末梢性顔面神経麻痺です。原因不明のことが多く、これをベル麻痺と呼びます。単純ヘルペスウイルス1型が発症に関与していることが疑われています。
子供の頃にかかる、水痘(水ぼうそう)という病気があります。水痘帯状疱疹(スイトウタイジョウホウシン)ウイルスというヘルペスウイルスが原因でなります。
この帯状疱疹ウイルスが原因でなる顔面神経麻痺をハント症候群と言います。
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ハント症候群は、耳(耳介)や耳の穴(外耳道)に、水ぼうそうのような、小さな水疱や発疹が出るのが特徴です。耳が痛いという症状のこともあります。
このハント症候群には特効薬があります。発症後なるべく早く(できれば3~4日以内)に抗ウイルス薬を投与するとよく効きます。
抗ウイルス薬を投与しても、治らない場合があります。
残念なことに、ハント症候群では、難治性の顔面神経麻痺が残ることがあります。
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顔面神経麻痺になって、一番辛いのが目の症状です。
片側だけ麻痺になるので、片目だけアッカンベーになります。眉が下がってものが見づらくなることもあります。
次に辛いのが、口が曲がることです。食べ物がこぼれてしまい、よだれも垂れてしまいます。
今まで元気だった人が、ある日突然顔面神経麻痺になると、世界がひっくり返ったように生活に支障をきたします。
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顔面神経麻痺の治療は、主として耳鼻科で行われます。耳に関係する初発症状が多いからだと思います。
目の症状が出ると、眼科へかかります。アッカンベーになって、目が痛くなり、目ヤニが出たりするからです。
耳鼻科や眼科で治療してもらって、ある程度神経が回復してくれば問題ありません。
問題なのは、神経が回復せず、顔が曲がったまま、数ヵ月しても症状が改善しない時です。
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ここで、活躍するのが形成外科です。形成外科はもともと顔面の再建、神経の再建は得意です。
私は札幌医大に在籍していた時に、耳鼻科の先生とたくさんの顔面神経麻痺の患者様を治療する機会がありました。
顔面神経にできた、腫瘍(できもの)を切除して、耳の後ろから神経を移植して再建したこともあります。回復するのに時間はかかりましたが、見事に神経がつながりました。
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顔面神経麻痺で、目がアッカンベーになって困っていらっしゃる方は、是非、札幌美容形成外科を受診なさってください。日帰り手術でアッカンベーを治すことができます。
アッカンベーを治すだけでしたら、約1時間程度の手術です。もちろん健康保険が適用されます。
アッカンベーを治して、目を開けやすくするだけで、辛い症状がかなり改善されます。
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商売の極意
昨日の阪本美樹(ヨシキ)先生の講義で、心に残ったことを書きます。
商売の極意は、お客さんの‘不’をとることだそうです。
お客さんの不満、不信、不安を取るのが商売の極意です。イオンの経営方針にも反映されています。
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イオンは三重県四日市の岡田屋さんという老舗呉服店が前身で創業250年になります。
イオンのことは、岡田名誉会長のお話しを平成18年12月13日の日記に書いてあります。
三重県で創業250年ですから、数多くの大災害にも遭遇しました。伊勢湾台風と阪神淡路大震災です。
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阪神淡路大震災の時に、阪本先生は兵庫県西宮市で陣頭指揮をとって、お客さんに対応されました。
パート従業員の方が、サンダル履きで駆けつけてくれ、実によく働いてくれた。今でも忘れられない。とお話しされました。
震災でライフラインが絶たれ、電気も水道もありません。余震が続くので、危なくて店にも入れません。
でも、お客さんは、水が欲しい、コーラが欲しい、お茶が欲しいと来店されます。
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店長を集めて、とにかく生活必需品だけでも販売しようと声をかけました。
『レジが動かないからダメです』
『お釣りがありません』という店長がいたそうです。
商売の原点は、露天商がザルにお金を入れて、商品を販売することです。災害時に、困っているお客さんを何とかするのが商人です。
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被害を受けた西宮店の倉庫から、商品を引っ張り出して売りました。
コーラとウーロン茶で530円。お釣りがないので500円におまけ。多くとってはダメです。消費税込。お客さんに損をさせないのが商売の基本。
臨機応変に対応できる能力が、お客さんから評価されます。
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絶対的価値がないのが、今の時代。いかに自分で知恵を出せるかで将来が決まります。
一つのものにしがみついていてはダメです。
現代は流動化社会。企業が合併を重ね、昔の大家族社会になろうとしています。合併することで、効率を上げようとしています。
こういう時代だからこそ、知恵を出して新しいことをしていかなくては生き残れません。自分にしかできない、その会社でなくてはできない、オンリーワンを作ることが重要。オンリーワンほど強いものはありません。
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250年の歴史に裏付けられた、岡田屋流の商売の極意を伝授していただきました。
美容外科も戦国時代。次々と新しい美容外科が開業します。
私のような個人経営の中小企業が、大手と対抗するのは大変です。合併もできません。ただ、私にしかできないオンリーワンはたくさんあります。
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美容外科もお客様の‘不’を取る仕事です。
美しい人はより美しく、普通の人もより美しく。そうでない人もより美しく。不美人→美人、不安→安心、不満→満足。
一人でも多くのお客様に満足していただけるように頑張ります。
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面接試験の極意
今日から、北海学園大学経営学部・大学院経営学研究科の㈱ニトリ寄附講座(後期)が開講になりました。
2007年後期講座は経営者講座。今日から平成19年12月13日(木)まで7回開講されます。
今年で3年目です。経営学を少しでも勉強したいと応募しましたが、すっかりファンになっています。勉強が楽しいです。
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今日の講師は、イオン㈱元専務取締役の阪本美樹(サカモトヨシキ)先生でした。
阪本先生は、宇治山田高校を卒業後、昭和37年に四日市にあった、岡田屋に就職。岡田屋さんの大番頭として、イオンの岡田会長とともに、現在のイオンを築いた方です。
声が大きくて、関西弁のわかりやすい話し方で、あっという間に120分の講義が終わりました。誰一人として、居眠りしている人はいませんでした。
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たくさんのお話から、冒頭、学生さんに面接試験の極意を伝授されたので、ご紹介します。
会社に就職すると、会社は社会的基盤を与えてくれます。個人の生活基盤を与えてくれるのではありません。個人が裕福になる、幸せになるのは別の話しです。
企業を選ぶのは恋愛と一緒です。この会社に就職したら有利だとか不利だとかを尺度にしてはいけません。
あの人が好きだから一緒に居たいと思うのと同じです。その会社が好きか嫌いかが一番大切です。
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会社が好きだったら、集中できます。闘争心ができます。行動ができます。
企業は一流大学を出たから、高卒だからといって人を差別しません。イオンで働く24万人で東大卒の役員は一人しかいないそうです。阪本先生ご自身が高卒で、イオンの専務取締役にまで出世なさった方です。
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ここからが面接試験の極意です。
企業が欲しい人材は、協調性があり、リーダーシップを発揮して、継続性のある、ヤル気のある人です。
面接試験では、いろいろな質問が出ます。これにどう答えるかで、点数が変わります。
面接の評価は◎、○、△、×です。細かい点数まではつけられません。
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学生時代にアルバイトをなさっていましたか?という質問が出ます。
はい、4年間にたくさんのアルバイトをしました。は×です。
はい、大学時代4年間は、ずっと同じアルバイトをしていました。が○です。
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たくさんのアルバイトを次々と変えていたのは、継続性がないと見なされます。
アルバイトをたくさんなさったのは、どうしてですか?という次の質問が待っています。
はい、上司と合わなかったので、辞めて新しい仕事をみつけました。は×です。辞めたのを他人のせいにしています。
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学生時代は何かクラブ活動をなさっていましたか?という質問が出ます。
クラブ活動で部長とか副部長を経験していると、リーダーシップがあると判断されます。○です。
○○部に入りましたが、すぐに辞めました。はもちろん×です。
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イオンやニトリに面接に行ったとします。
当社にご応募いただきありがとうございました。どちらか当社の店に行かれたことがありますか?
はい、○○店に参りました。あるいは、はい、○○店をいつも利用させていただいています。
その店のどういうところに気がつきましたか?
はい、○○……、と気の利いたことが言えれば○です。面接官に自分のよいところを売り込めれば◎です。
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一般常識は最低でも5つ位、日刊紙で話題になっていることを知っておく必要があります。京都議定書とは何か?くらい知っておく必要があります。
日本経済新聞まで読みなさい、とは言われませんでしたが、全国紙といわれる新聞を読むことが大切だとお話しされました。
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阪本先生にとって、仕事は趣味と実益を兼ね備えたものでした。好きな仕事を選んでするのが大切で、好きですれば、ゴマをすっても気を使っても苦にならない。
イヤイヤ仕事をするならお辞めなさいとお話しされました。
美容外科という好きな仕事をさせていただき、私は幸せだと思いました。
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大学とアルバイト
私が札幌医大の教員になったのが平成10年(1998年)でした。44歳でした。
札幌医大の教員は、北海道公立学校教員という地方公務員です。
医科大学の‘先生’だから、さぞかしお給料がよいだろうと、‘普通’の方は想像されることと思います。
■ ■
公務員はすべて俸給表という、給与表で給与が決まります。
国立大学は、文部教官でした。国立大学病院の看護師さんは、文部技官でした。
研修医は、公務員ではなく、非常勤職員で、私の時は任期が一日で日々更新という制度でした。
■ ■
私は44歳で、北海道公立学校教員として北海道知事に採用されました。当時の知事は堀達也さんでした。
私が北海道からいただくお給料は、帯広厚生病院時代と比べて2/3になりました。
朝7:00過ぎには家を出て、帰るのは夜10:00頃でした。たまに徹夜の手術もありました。
時間外手当は一切ありませんでしたし、タイムカードもありませんでした。
■ ■
事務の方に伺ったところ、大学教員といっても、医師としての加算はなく、俸給表でみると、高校の先生+α程度の給与水準だそうです。同じ北海道の地方公務員でも、道立病院の医師職より給与が低いのが札幌医大の教員でした。
大学の教員はお金がかかります。自分の生活費の他に、学会費、外国雑誌の購入、学会出張のお金(北海道から支給される額だけでは2回位しか行けません)。
■ ■
学生さんに配るプリントを印刷したり、資料をコピーするのに、各医局にコピー機があります。このコピー機のリース代まで自分たちで分担して払っています。
医局に設置してあるFAXの電話料金、FAX本体、電話加入権も自腹です。
これだけの経費を、少ない給与から分担するのは大変なことです。
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少ないお給料を補填(ホテン)してくれたのが、アルバイト収入でした。
形成外科医だから、大手美容外科の札幌店へバイトに行っていたのではありません(お願いしてもおそらく不採用です)。
北海道の地域医療を支える目的で、道内の医療機関へ‘出張’に行きました。これは程度の差こそあれ、どこの医学部でも同じだと思います。
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公務員が、アルバイトをすることは地方公務員法で禁止されています。
昔は、北大の先生が予備校で教えてくれたり、国立大学の先生が、旺文社の大学受験ラジオ講座で講師をしていました。
公務員のアルバイト規制が厳しくなってから、予備校もラジオ講座も国立大学の先生はできなくなりました。
■ ■
医科大学や医学部は、地方医療の支援という‘錦の御旗’のもとでアルバイトが‘許可’されていました。
私が在籍していた時は、‘兼業願い’という書類を提出し、医学部長が決裁していました。
私が記憶している範囲では、‘あなたはアルバイトが多すぎるから減らすように’と減らされた人は、いなかったと思います。
■ ■
問題なのはここからです。当時の札幌医大では、内規で‘自分の年収まではアルバイトを認める’という不文律があったようです。規則に書いてあったとは思えませんが、なぁなぁで決まっていたようです。
私が知っているある講師は、年収が3,000万円を超えていました。大学事務局は住民税を徴収するので、この事実を知っていましたが、まったくお咎(トガメ)なしです。
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私は札幌医大の事務局長に話したことがありますが、問題ないとのことでした。ある講演会で、高橋はるみ知事に話したことがありましたが、調査はされませんでした。
確かに、地方医療の支援は大切だと思いますが、どこの会社に自分の年収の2倍もアルバイトを認めるところがあるでしょうか?
慢性的な赤字のため、札幌医科大学には北海道から毎年多額の公金が支出されています。
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大学というところ
札幌医科大学に限らず、大学の教員になるには資格が必要です。もちろん大学を卒業していないと、大学の教員にはなれません。大学院を出ている人が望ましいですが、大学院を出ていない医学部の教授もたくさんいらっしゃいます。
講師になるには、最低限、学位という博士号が必要です。学術論文も書いていないとなれません。手術が上手だとか、講義が上手だとか、医師として立派だとかはあまり関係ありません。
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大学教員で一番評価されるのは、英文論文が何篇あるか?という書類上の‘業績’です。
つまり、英語で論文を書くのが得意な人が、大学で偉くなれます。
どんなに手術が上手でも、‘神の手’でも、外国の有名な雑誌に英文論文を書いていないと、教授にはなれません。
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外国の雑誌といっても、書店で売っているような雑誌ではありません。一般の方は、まず目にすることがない、大学図書館にでも行かないと見ることができない学術雑誌です。
形成外科では、PRS(ピーアールエス)と呼ばれる、米国形成外科学会雑誌が一番上位です。
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雑誌にはそれぞれ、インパクトファクターというランキングがあります。
このインパクトファクターが高い雑誌ほど、論文の価値があるとされています。
医学部の教授選挙の時には、インパクトファクターが高い論文が何篇あるかが、最初の関門となります。
どんなに素晴らしい先生でも、英文論文が一篇もなければ、医学部の教授にはまずなれません。
論文は、ただ英語で書けばよいというものではありません。掲載されるには厳重な審査があります。
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たとえばPRSは、米国形成外科学会の学術雑誌です。論文を書いたら、編集者のところへ送って審査を受けます。
論文は3人の審査委員のところへ送られます。通常は、雑誌に出ている編集委員が論文の査読(サドク)という審査をします。編集長の判断で編集委員以外に送られることもあります。
私は一度だけ、編集長から論文の審査を依頼されたことがありました。2週間以内に査読して送り返してください、という手紙とともに送られて来ました。とても驚きましたが、名誉なことなので、コメントを書いて返送しました。
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論文は、何か新しいこと‘NEW(ニュー)’がないと採用されません。
形成外科では、新しい手術法を見つけたとか、いままでの手術を何百例か検討したところ、こんな結果だったとか…。
よい雑誌ほど審査が厳しく、採用される率は低くなります。
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論文捏造(ネツゾウ)という話題が報道されることがあります。
手術に関する論文で、データーを捏造しようと思っても難しいですが、基礎的な研究では捏造されることがあります。
韓国で論文が捏造された事件が有名です。
学術論文に嘘を書くなど、科学者として信じられないことですが、実際に嘘のデーターを書いて論文数を増やした先生もいるようです。
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大学教授というと、人物・性格・医療技術のすべてが素晴らしい人という印象を持ちます。
実際に素晴らしい教授が大部分です。ただ、なかには論文の数を増やすことだけに専念して、臨床医として実力が伴わない人もいました。
よい美容外科を見分けるのは難しいですが、大学病院だからといって、100%信じてはいけません。
美容外科に関しては、論文執筆も学会発表もしていないのに‘神の手’のような先生がいらっしゃいます。美容外科は、大学病院より開業医の方に上手な先生がいらっしゃると思います。
昔の記憶
白い巨塔
白い巨塔という小説がありました。TVドラマにもなりました。教授を狙う外科の財前五郎と対照的な内科の里見脩二の2人の先生が出ていました。
医師になる前に山崎豊子さんの原作を、友人から借りて読んだことがありました。
自分とは無縁の世界だと思っていました。医師になった私は、北大形成外科という、実に家庭的な雰囲気の医局で育ちました。
将来、教授になりたいと思ったこともありませんでした。大学に残り偉くなりたいとも思っていませんでした。
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私は北大形成外科の医局員として、市立札幌病院で形成外科の診療をし、北大で研究をして平成6年に学位(医学博士)をいただきました。
私は北大形成外科の人事で、市立札幌病院から帯広厚生病院へ赴任しました。帯広へ行ったのが、平成7年1月のことでした。
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帯広厚生病院には平成10年3月まで3年3ヵ月勤めました。学位をいただいた後の、いわゆる‘お礼奉公’という勤務です。
私も40歳を超えていたので、このまま総合病院の形成外科部長として一生を過ごすことに疑問を感じていました。
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帯広厚生病院を退職する直前に、札幌医大皮膚科のJ教授から、札幌医大形成外科の非常勤講師になってくれないか?と頼まれました。前任の先生が転出され、形成外科の診療を指導できる人がいなくて困っているという理由でした。
非常勤講師として週に一度、手術やカンファレンスの指導に札幌医大に行くようになったのが、平成10年4月でした。
そのうち、再建手術という難しいレベルの手術も他科から依頼されるようになりました。J教授から、平成10年6月頃に常勤の講師になってくれないかと頼まれました。
大学で働くのは大変そうでしたが、自分の出身大学で、友人もいたため、医育機関で教員として働くことにしました。
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私は平成10年9月から、札幌医大形成外科で働き始めました。札幌医大は北海道が設立した公立大学です。前身は北海道女子医専という第二次世界大戦中にできた、専門学校です。
白い巨塔で里見先生が‘飛ばされた’山陰の大学と札幌医大は同レベルです。白い巨塔は大阪の国立大学が舞台ですが、これが東京の旧帝大だったら、里見先生が‘飛ばされたのは’北海道の札幌医大だったかも知れません。
東大・京大・慶応などの‘ブランド’と札幌医大は知名度も難易度も違います。
■ ■
自分の出身大学ということもあり、私は札幌医大でのんびりしていたと思います。
外科手術にはチームワークが大切です。一緒に働く仲間を信用しないと手術はできません。私の失敗は仲間だと思って、後輩を信用しすぎたことが原因でした。
私は少しずつ、直属の上司である皮膚科のJ教授と合わないことを意識し始めました。
■ ■
私がクビになる2年前に、J教授が医学部長に選出されました。医学部長選挙は助手以上の大学教員全員で一次選挙があり、この一次選挙で高得票を得ることが当選の第一歩です。
最初の選挙の時は、J教授の指示で、私も友人・知人に投票を依頼しました。
2年間の医学部長でJ教授は権力を持ち、次は学長を狙うと言われるようになりました。
形成外科の処遇や治療方針でJ教授と合わなくなった私は、自分の職を賭けてJ教授に投票しませんでした。
■ ■
平成14年1月に行われた医学部長選挙で、残念なことにJ教授は再選されました。
その2ヵ月後に私はJ教授から、夜9時に医学部長室へ呼ばれ、解雇通告を受けました。
私を陥れる策は、半年も前から周到に準備されていました。
白い巨塔のことが頭をよぎりました。
私はすぐに大学を辞めることを決意し、次の就職先を探しはじめました。
■ ■
私のことを慕ってくれる後輩もいました。涙を流してくれた教授もいました。
たくさんの先生に助けていただきました。北海道以外の先生にも助けていただきました。今でも、その時のありがたみは忘れていません。
公務員だから、大学の教員だから、悪いことはしていないからといって安泰ではありません。
身から出た錆(サビ)とはいえ、48歳で職を失った時は困りました。
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医科大学の学長といえども、民間病院からお金をもらって逮捕されたり、科研費という研究費の不正使用で捕まる人がいます。奈良県立医大で2000年に起きた事件が有名です。
札幌医大でも、悪いことをしている人がいました。残念なことですが、大学病院だから、教授だからといって信用はできません。
たった4年間でしたが、私はとても貴重な体験をしました。自分が解雇されて、職を失う大変さも経験しました。白い巨塔もよく理解できるようになりました。
一番の教訓は、信じてはいけない人がいるということを知ったことでした。
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失業した時
私は2002年7月に札幌医科大学を退職しました。退職というと聞こえはいいですが、事実上は医学部長に追い出されました。
私を札幌医科大学へ招いてくれたのも、追い出してくれたのも同じ人でした。
48歳の時でした。子供はようやく大学に入ったばかりと、高校生の2人でした。2人とも私立で、お金がかかる時期なのに困りました。
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その前から、嫌な予感がしていたので退職しようと考えていましたが、突然、解雇通告を受けたようなものでした。
開業を考えましたが、資金も準備期間もありませんでした。
その4年前に、美容外科医になろうと思っていました。
解雇通告を受けてから、紹介していただいたり、自分で応募して、ほとんどの大手美容外科に面接に行きました。
たくさん募集広告が出ていたので、簡単に就職できるだろうと安易に考えていました。結果は、不合格やら条件が合わないなどで、惨憺(サンタン)たるものでした。
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技術的に問題があるとか、大学をクビになったからとかの理由ではありませんでした。
私のように、大学の形成外科講師になってしまった人間は、チェーン店ではとても使いづらいのです。
経営者の言う通りに、なんでもハイハイと手術を引き受ける‘先生’でなければ、チェーン店の美容外科医としては失格なのです。
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チェーン店の美容外科は医師が経営しているところと、医師以外が経営しているところがあります。
医師が経営しているチェーン店は、全て私よりも若い先生が経営者でした。
自分より年長の、うるさそうな形成外科医を採用しても、うまく仕事をしてくれそうもない。今なら、よく理解できます。
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大学は追い出されるは、次の就職先は見つからないは、開業するにも資金はないは、で本当に困りました。
その時に助けていただいたのが、親しくしていた医療機器メーカーの社長さんでした。
私の前任である、中央クリニックの社長さんを紹介してくださり、ようやく、私の就職先が見つかりました。
今でも、紹介してくださった社長さんと、採用してくださった中央クリニックの社長さんに心から感謝しています。
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形成外科医として十分な経験と知識があり、札幌の老舗美容外科で副院長も経験していました。
ところが、チェーン店の美容外科は、手術件数の桁が違いました。
普通、市立札幌病院などの総合病院では、手術日が決まっています。
形成外科の手術日は多くて、週に3日、少ないところでは2日です。
年間の手術件数も、数人の形成外科医がいて、多くても1,000件程度でした。
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中央クリニック札幌院に私が在籍していた時は、一人でそれまでの数倍の手術をしました。
毎日、朝から夜まで手術をしていました。
医師になってはじめて、手術のしすぎで手に豆ができました。
形成外科医の時は、手術する相手は‘患者様’でしたが、美容外科では‘お客様’でした。
スタッフも美人の若い女性ばかりでした。私の生活はそれまでと一変しました。
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今になって思うと、大学を辞めてよかったと、私を追い出してくれた医学部長にも‘感謝’しているくらいです。
人生には、予期できないことがたくさんあります。自分が正しいと思ってしていたことでも、他人からは悪く思われ、職を失うこともありました。
医師免許は、簡単に手に入れられるものではありませんが、医師免許があるからといって安泰ではありません。
自分を助けてくれる人、自分を陥れる(オトシイレル)人。さまざまな人がいます。
どんなことがあっても、しっかりと自分の考えを持ち、信念を貫くことが大切だと私は考えています。