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被曝線量

私は、ペルテスの診断と治療のために、股関節のレントゲン写真を何枚も撮りました。
 前にも書きましたが、レントゲン写真はじっとしているだけでした。
 注射と違って、何枚撮っても痛くないので子供にとっては安心でした。
      ■         ■
 股関節のレントゲンを撮ると、当然、チンチンにも放射線が当たり被曝します。
 今でしたら、チンチンにプロテクターを当てて、被曝を防ぎますが、当時、子供のチンチンにプロテクターを当てたかどうか、記憶が定かではありませんでした。
 被曝線量を計算すれば、大したことはない値だと思います。
 それでも、結婚して子供ができた時には、一抹の不安がありました。
 家内には話しませんでしたが、何か子供に異常があれば、私の責任かなぁ?と考えていました。
      ■         ■
 私は形成外科医として、たくさんの子供さんの手術をしてきました。
 親は、
 どうして…?
 うちの子供にだけ…?
 神様はこんなむごいことをしたのだろう…?
 と考えます。
 待望の赤ちゃんが生まれて、本来であれば、喜びに包まれているはずなのに……
      ■         ■
 以前、ある患者さんのお父さんから、
 『自分は病気で治療を受けていました』
 『子供に生まれつきの異常があったのは、自分の治療と何か関係があるのでは?』
 と質問を受けたことがあります。
 私は、子供さんの異常とお父さんの治療は関係がないこと。
 先天異常の大部分は、原因がはっきりとわかっていないことをご説明しました。
      ■         ■
 人間は、信じられないような不幸な出来事が起こると、
 『なぜ?』
 『どうして?』
 と考えて、思いを巡らせます。
 私が被曝した線量は、問題になるような量ではなかったと思いますが、自分自身には不安がありました。
      ■         ■
 幸いなことに、私の子供には生まれつきの異常はなく、私はホッとしました。
 もし、何らかの異常があれば、私は自分を責めたり、神を憎んだりしたと思います。
 ペルテスになった原因は今でもわかりません。
 一つだけ心当たりがあるとすれば、私は小さい頃に結構やんちゃで、よく飛び降りて遊んでいたような気がします。
 二軒長屋で育ったので、ソファーの上から飛び降りて遊んでも、階下の人から‘うるさい’と言われることはありませんでした。
      ■         ■
 幸いにも、私はペルテスという病気が治り、レントゲンによる障害も受けませんでした。
 誰にでも、人には話せない悩みや苦悩があります。
 私たち、医療従事者は、他人の悩みや苦しみを少しでも取り除くことを使命としています。
 自分自身が、被曝線量のことを気にしていたので、少しは他人の悩みが理解しやすかったように思います。
 私は自分が受けた治療の恩返しのために、少しでも社会の役に立ちたいと考えて診療をしています。

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昔の記憶

初発症状

 私の左股関節は、整形外科の専門家が診てもわからない位、しっかり治っていました。
 これは、私の歩き方が変で、異常があると早期に発見され、診断をつけ、治療していただいたからです。
      ■         ■
 健康診断で、今までに大きな病気をしたことがありますか?と聞かれます。
 医師になるまでは、子供の時にペルテスをしました。と答えていました。
 ペルテスと言って、すぐにわかる先生はマレでした。
 『ペルテス?』
 『ヘルペスですか?』
 『いいえ、ペルテスです』
 『股関節の病気のペルテスです。幼稚園の時になりました。』
 『……??? はぁ、ペルテスね』
 といった感じで、ペルテスを知らない内科医もたくさんいました。
      ■         ■
 子供の頃の写真を気をつけて見ると、私はよく左足を上げていました。
 両親は、この子は写真を撮る時にポーズをつけて足を上げていると思っていたそうです。
 私にはまったく記憶がありませんが、痛い足をかばうために無意識に足を上げていたのです。
      ■         ■
 整形外科の先生は、私を診察する時に必ず歩かせました。
 向うの壁まで歩いて戻ってきて。
 注射をされないので、整形外科は好きでしたが、先生によっては何回もなんかいも歩かされました。
 子供心に、どうやって歩けば、一発で‘合格’して、何回も歩かされなくて済むのだろう?と思いました。
      ■         ■
 ペルテスに関するホームページがあります。
 50年たった今でも、原因不明で、ペルテスの子の親は戸惑うことが多いようです。
 札幌医大の学生だった時に、一度だけコルセットをつけた子供の親子に、JRで乗り合わせたことがありました。
      ■         ■
 時間があったので、私は『子供さんはペルテスですか?』と伺ったところ、お父さんはとても驚いていらっしゃいました。
・私は、自分も子供の頃にペルテスだったこと。
・今は特に後遺障害もなく普通に生活していること。
・札幌医大の学生であることをお話ししました。
 子供さんは、わからないようでしたが、お父さんはとても喜んでくれました。
      ■         ■
 私は、周囲に医師や医療関係者が多い環境で幼少時を過ごしました。
 私の周囲の‘先生’も、‘ケンちゃん’の歩き方が変なことに気付き、早期発見ができました。
 私は幸運にも、早期発見、早期治療を受けることができ、後遺障害もなく成長できました。
 ペルテスという病名は、北大整形外科でつきましたが、私の周囲は‘小さな変化’を見逃しませんでした。
      ■         ■
 どんな病気でも、早期発見、早期治療が大切です。
 私の両親は、左足を上げる子供を‘ポーズをつける’と思ったようでした。
 私の親が普通のサラリーマンで、周囲に医療関係者がいなければ、‘病気’の発見は遅れたと思います。
 子供のちょっとした変化を目ざとく見つけ、しっかり治療してくれた親と‘先生’に感謝しています。

1959年11月1日(手稲にて)
私と母と弟です。左足を上げています。
入院2日前です

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昔の記憶

鉄人28号

 左下肢に装具をつけていた私は、歩き方がロボットのようでした。
 幼稚園で誰かが、鉄人28号みたいだと言いました。
 鉄人28号は当時流行していた、ウルトラマンの原型のようなロボットでした。
      ■         ■
 私は鉄人28号と呼ばれることを喜んでいました。
 そのロボットは正義の味方で、悪者を次々とやっつける、カッコいいロボットだったからです。
      ■         ■
 私の周囲の子供たちは、育ちがよかったのか?‘いじめ’はありませんでした。
 むしろ私が女の子の髪を引っぱっていたそうです。
 私はあまり記憶がないのですが、札幌西高校へ入学した時に、幼稚園から小学校まで同級だった女の子に会い、『昔、本間君に髪を引っぱられた』と言われ、謝ったことがありました。
      ■         ■
 幼稚園へどうやって通ったのか忘れましたが、幼稚園の遠足では、神社の階段を園長先生が、私をおんぶして上がってくれました。
 コルセットをつけて、外でも遊んでいたような気がします。
 子供は驚くほど適応力があるので、私が手術した子供たちも、ギプスをつけながら器用に遊んでいたことを想い出します。
 こうして、私は約一年間コルセットをつけて幼稚園へ通園しました。
      ■         ■
 整形外科のおかげで、私の骨は変形することもなく成長できました。
 札幌医大に入学してから、整形外科の臨床実習がありました。
 実習担当の先生に、『僕は昔ペルテスで整形外科のお世話になりました』と話しました。
      ■         ■
 『今は何ともないの?』と聞かれました。
 私は、母親から歩き方が変だと言われたことはありますが、特に問題なく、スキーもできますと答えました。
 じゃぁ、念のためレントゲンを撮ってみようということになり、私は20年ぶりくらいで股関節のレントゲンを撮りました。
      ■         ■
 レントゲンを読影してくださった先生は、『本間君、ペルテスだったのは右か?左か?どっちだった?』と言われました。
 私は今回、日記を書くために古い写真を見て、左とわかりましたが、学生の時はどちらだかはっきりわかりませんでした。
 『おそらく左だったと思います』
 先生は、『イゃ~、こりゃ、どっちかわかんないほどよく治っているゎ』と仰ってくださいました。
      ■         ■
 私は今でも、歩き方が少し変です。
 でも、別に股関節に痛みもありませんし、歩行も水泳もできます。
 手稲でペルテスが見つかり、北大から愛育病院へ紹介され、しっかり治していただいたことに感謝しています。
      ■         ■
 ペルテスのことは、家内にも息子にもあまり話したことはありません。おそらく知らないと思います。
 私の親や親戚は、よく覚えていると思います。
 祖母は、骨によいからと言って、ホッケという魚の骨を焼いて、それを子供の私に食べさせました。
 これを食べると骨が丈夫になるから。
 小さい子供にとって、ホッケの骨は美味しいものではありませんでしたが、私は骨を丈夫にするという言葉を信じて、固い骨をカリカリと食べていました。

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昔の記憶

コルセット

 ペルテスになって愛育病院へ入院した私は、無事に退院できました。
 入院中はギプスをつけたり、下肢を牽引したりの治療でした。
 退院後は大腿骨にかかる負荷を減らし、下肢の安静を保つ目的で装具を作りました。
      ■         ■
 私が子供の時は、装具をコルセットと呼んでいました。
 お風呂に入る時と寝る時以外はすべてコルセットをつけていました。
      ■         ■
 コルセットを作ってくれるのは、義肢装具屋さんという専門家です。義肢装具士という国家資格があります。
 私の装具を作ってくれたのは、北大病院の近くにあった馬場義肢製作所というところでした。
      ■         ■
 整形外科の先生の指示で義肢装具士の方が私の採寸をしてくださいます。
 ある程度できたところで仮合わせをして、微調整を経て完成です。
 コルセットができるまでは、歩行禁止でした。
 出かける時は『おんぶ』です。
      ■         ■
 今にして思えば、ずっとおんぶは大変だったと思います。
 3歳下の弟はヨチヨチ歩きで、大きな私がおんぶでした。
      ■         ■
 このコルセットが高価でした。当時は健康保険の適用はありませんでした。
 私はコルセットを2回作りました。
 一個が18,000円でした。
      ■         ■
 当時、私の父はスクーターに乗っていました。
 中古のラビットスクーターを購入して、自分で手入れをして乗っていました。
 私のコルセットは、その中古のスクーターとほぼ同じ価格でした。
 今では20万円以上でしょうか?父の月給と同じ位の額だったと記憶しています。
      ■         ■
 子供心に、高いものを買ってもらって親に申し訳ないと思っていました。
 私が開業する時に、保険診療でなるべく費用がかからないようにと考えたのは、この記憶に影響されています。
      ■         ■
 親は自分のワキガ体質が遺伝したので、子供にはイヤな思いをかけたくないと考えます。
 ふつうの人はワキガ手術が健康保険で受けられるとは知りません。
 人知れず手術をしたいと思うので、美容外科へ行きこっそり手術を受けます。
 20~30万円で‘治る’ならと考えてローンを組んでも手術を受けます。
      ■         ■
 私は、自分が子供の時に入院して治療を受けて、親に高いコルセットを2回も作ってもらったので、保険が効くものは保険で安く手術をしようと考えて開業しました。
 もし、自分の体験がなければ、このような発想は浮かばなかったと思います。
      ■         ■
 日本の医療保険制度は‘倒産寸前’の赤字企業です。
 医療費の配分も適正に行われていると考えにくい部分もあります。
 せっかく高い保険料を払っているのですから、これを利用しない手はありません。
 ワキガ手術も何年かすると保険から外されることも考えられます。
 かしこい納税者になって、利用できる制度は大いに利用しようではありませんか。

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昔の記憶

お母さんの銀行

平成19年11月29日(木)朝日新聞朝刊ひとときへの投稿です。
「お母さんの銀行」
 地元で開かれた「家事家計講習会」に出た。その席上で、一瞬、子どものおこづかいに話が及んだ。
「おこづかい帳はつけさせていますか」
      ■         ■
 私はその時、心の中で、ほほ笑みたくなった。我が家には「お母さんの銀行」があるからだ。
 子どもたちは中1と小5。
 おこづかいはどちらも月千円程度だが、親類からのお小遣いやお年玉など、臨時収入もあわせると月1万円近くになることもある。
 現金の管理は大人でも難しい。そこで一計を案じたのが「銀行」だ。
      ■         ■
 子どもたちのおこづかいは全額、おのおののファスナー付きの袋にメモ帳とともにいれ、台所の引き出しに保管する。
 お金の出入りがあったら記帳。そこまでは普通だ。
      ■         ■
 我が家の「銀行」の特別なところは、月初めに残高の1%の利息がつくことだ。残高がはっきりしないと利息はつかないので、子どもたちは記帳を忘れない。
 私も子どもたちの所持金を知ることができる。一石二鳥だ。
 そのうちに、利息がついてからお金を使う、なんていう知恵もついてくる。
      ■         ■
「小さいうちから金銭教育を」とよく言われる。
 でも、「やらなければ」なんて堅苦しく考えるよりは、工夫して、楽しくできたらいいと思う。「お母さんの銀行」、始めてみませんか。
 山形市 佐藤美佐子 主婦38歳
(以上、朝日新聞より引用)
      ■         ■
 私が子供の頃は、子供も一人一冊ずつ郵便貯金通帳を持っていました。
 郵便局へ行くと、ガッチャンという印字する器械で、預金額を記入してくれて、四角い郵便局の印を押してくれました。
 100円ずつでも、イヤな顔をせずに預かってくれました。
      ■         ■
 初めて大きな額を下ろした記憶があるのが、小学校6年生頃に買った変速機付き自転車でした。5段変速のミヤタの自転車でした。その自転車は20年近く使いました。
 中学生の時には、星座を見るNikonの双眼鏡を買いました。当時、¥16,000くらいしました。
 そのNikonの双眼鏡は40年近くたった今でも、十分にキレイに見えます。新婚旅行にも持って行きました。
 中学生の時に、『すばる』というプレアデス星団がとてもきれいに見えて感激したのを覚えてます。
 少しずつ貯金をして、良いものを買い長く使うのが私の主義です。
 子供の頃からついた習慣なのかもしれません。

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医療問題

障害年金

平成19年11月29日(木)朝日新聞朝刊の記事です。
 障害年金受けるには
 うつ病や糖尿病でも
 ポイントは初診日と認定日
      ■         ■
 人生に病気やけがはつきものです。障害が残ったとき、生活の支えとなるのが障害年金。
 生まれつきの障害だけではなく、がんや糖尿病などでも場合によっては受けとれるのですが、知らずに請求していない人もいるようです。
 自分は関係ないと思っていませんか?
      ■         ■
 年金は、年をとってからもらうものと思いがちだ。
 しかし、それだけではない。病気やけがで心身に障害が残って働きにくくなった場合に収入を保障するのが障害年金だ。
      ■         ■
 ただ、この制度自体があまり知られていない。
 障害年金に詳しい社会保険労務士の藤澤貴司さんは
「もらえるはずなのに請求していない人は、少なくないはず」。
 その大きな理由は「障害」という言葉が、一般には狭く解釈されているからではないかという。
 障害年金の対象は手足が不自由な人だけではない。がんや生活習慣病、うつ病などでも、労働や日常生活が制限を受けていると認められれば、年金が出る。
      ■         ■
 認定は、障害者手帳の基準などとは異なる独自の基準に従って社会保険庁がする。
 障害等級により年金額が変わる。
 全国民が対象となる障害基礎年金は2級まで、会社員が在職中の病気やけがで障害をおった場合に受け取る障害厚生年金には3級も加わる。
 例えば、心臓病でペースメーカーを入れていれば3級、糖尿病による腎症で人工透析が必要なら2級が目安となる。
      ■         ■
 社保庁によると、障害基礎年金の受給者は2005年度末で152万人、障害厚生年金は35万人だった。
 障害年金の受給の仕組みでは、初診日と認定日が重要だ。
 初診日は、その障害の原因となった病気やけがで初めて診察を受けた日。それまでに保険料をきちんと納めていることが、受給条件だ(初診日が20歳未満の場合をのぞく)。
      ■         ■
 認定日は
①基本は初診日から1年半後
②それ以前に症状が悪化も改善もしない状態になったらその時点で、障害の程度を判断することになる。
 所定の診断書を医師に記入してもらい、社保事務所に出す。
      ■         ■
 老齢の基礎年金と障害基礎、老齢厚生年金と障害厚生を両方はもらえない。ともに条件を満たす人は、どちらかを選ぶことになる。
 額は障害基礎は定額で、2級が老齢基礎の満額(40年加入)と同じ年間792,100円なる。
 障害厚生では認定日までに納めた保険料が年金額に反映する。
 誰もがいつ障害年金を受ける立場になるか分からない。生活習慣病では長い間に症状が悪化するのが一般的だが、初診日がいつだったかは年金を請求する側が証明しなければならない。
      ■         ■
 特に障害厚生では、初診日が会社勤めの期間中だったかが重要になる。
 カルテの法定保存期間は5年。転院などしていれば証明が難しいことも少なくない。
 社労士の藤澤さんは「退職が近く、体調がおかしいと思う人は、退職前に病院に行った方がいい。
 万一、障害厚生年金を請求するときの初診日になる。診察券や記録も残しておくこと」と助言する。(山田史比古)
      ■         ■
 どんな人が受けられる?(認定基準の一部)
一級:両目の矯正視力が合計0.04以下、両上肢のすべての指を欠く、座っていること、立ち上がることができない
二級:両目の矯正視力が0.05以上0.08以下、 平衡機能や音声、言語機能に著しい障害、そしやく機能を欠く
三級:両目の矯正視力がともに0.1以下、そしやくまたは言語に相当の障害、労障害基礎年金
(以上、朝日新聞より引用)
      ■         ■
 私は市立札幌病院と帯広厚生病院に勤務していた時に、育成医療と身体障害者の指定医になりました。
 形成外科で障害者の診断書を書くことはマレです。
 20歳になって、国民年金に加入していなかったため、脊髄損傷で障害者になったのに障害年金を貰えなかった大学生は知っています。とてもお気の毒でした。
      ■         ■
 恥ずかしい話しですが、身体障害者の等級と障害年金の等級が、同じ症状でも異なることは、この記事を読むまで知りませんでした。
 決して多い額ではありませんが、せっかくある制度ですから有効に利用なさってください。

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昔の記憶

床上安静

 床上安静、ショウジョウアンセイと読みます。
 ベッドの上でずっと寝ていることです。
 勉強も仕事もしないで一日中寝ているのです。
 楽でよいなんてものではありません。
 一日中ベッドの上に拘束されるのです。
 ストレス以外の何ものでもありません。
      ■         ■
 ギプスがとれた私は、ベッドの上で左下肢の牽引をしました。
 骨折した時は、骨に金属(太い針金状のもの)を入れて牽引します。
 ペルテスだった私は、左下肢に装具をつけて、下肢を固定し、ベッドの上にレールを敷いて、その上に脚をのせました。
 下肢を貨車(コンテナをのせる台車型貨車)のような台にのせ、その台をレール(本物のレールを小さくしたようなレールでした)にのせます。
      ■         ■
 その貨車にヒモをつけて、重石で引っ張る治療です。
 注射と違って痛くはないので、最初はよかったのですが、それもつかの間…。
 レールの上に下肢を固定されているので、私は一日中ベッドの上です。
 隣のベッドでは、腎臓の子供が‘元気’に遊んでいます。
 私の楽しみは、ベッドの上でできることに限られてしまいました。
      ■         ■
 11月にだったので、窓の外では雪が降りました。
 窓のそばまで行けば外の景色が見えますが、子供がベッドの上で起き上がったところで、空か屋根しか見えませんでした。
 ベッドの上だけで、どこにも行けないというのはストレスです。
 雪に触りたいという私の願いで、家族が雪を洗面器に入れて持ってきてくれたのを覚えています。
      ■         ■
 5歳の子供が一人で入院することはできません。家族が付き添ってくれていました。
 3歳下の弟がいましたので、両親はさぞ大変だったと思います。
 母の実家が、北1条西10丁目にありました。
 愛育病院は北3条西16丁目でした。
 大人の足で歩けば10分ほどの距離です。
      ■         ■
 私の入院では、母の実家の全面的なサポートがありました。
 母方の祖母は私のことを一番可愛がってくれました。
 母の弟が3人いました。どの叔父も可愛がってくれました。
 母が来れない時は、叔父が来てくれて夜に泊まってくれたこともありました。
 父も夜に泊まってくれました。仕事が終わってから、手稲金山から知事公館まで、国鉄バスで来てくれました。
 朝は、その逆をバスで手稲金山まで通勤してくれました。
 家族が一人でも病気になって入院すると、家族すべてが犠牲になり協力します。
 今から思えば、祖母や母の弟(私の叔父)はよくやってくれたと思います。
      ■         ■
 ベッドの上の楽しみは紙芝居でした。
 テレビがようやく普及しはじめた頃でした。
 今のように24時間番組を放送していたのではありません。
 日中はテレビにも昼休みがありました。チャンネルを回しても、テストパターンの丸い画像が映るだけでした。
 まして子供向けの番組は限られていました。
      ■         ■
 私が好きだった紙芝居は、バンビだったように記憶していますが…この辺は定かでありません。
 同じ紙芝居を何回もなんかいも読んでもらった記憶があります。
 幼稚園の先生がお友だちが書いた絵を持ってきてくれました。
      ■         ■
 私が通っていた幼稚園は、手稲町立手稲西幼稚園です。
 担任の先生が、セイノレイコ先生(情野玲子?)先生だったと思います。
 幼稚園の先生からも紙芝居をいただいた気がします。
 とても優しい先生でした。
      ■         ■
 約一ヵ月間入院して牽引治療をしたおかげで、私の症状はよくなりました。
 退院の前日に許可が出て、父と地下のお風呂に入りました。
 約一ヵ月ぶりにお風呂に入れてとても嬉しかったのを覚えています。
 恥ずかしい話しですが、一ヵ月もお風呂に入らなかったので、垢がボロぼろ出ました。

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昔の記憶

ギプスカット

 私の腰から下はギプスで固められました。
 石膏でできたギプスはセメントのように硬く、びくともしませんでした。
 白いギプスはそのうち汚れてきます。
 石膏のギプスが直接肌に当たらないように、綿のようなものを巻いてからギプスを巻きます。
 この綿が次第にボロになってきて痒くなります。
      ■         ■
 私が形成外科医になってからは、私が患者さんにギプスを巻きました。
 患者さんの中には、ギプスに落書きをする人もいます。
 ○○ちゃん、頑張ってね!
 はやくよくなりますように!
 若い方だと、○○愛してるぅ~!なんてものありました。
      ■         ■
 私の腰についたギプスに落書きが書いてあったかどうかは覚えていません。
 とにかくギプスの中が痒いので、一日も早くギプスを外して欲しかったのを記憶しています。
 箸でつついて、痒いところを掻くのも限界でした。
      ■         ■
 いよいよギプスカットの日が来ました。
 私はギプスが外れるのを楽しみにしていました。
 子供心に、ギプスはどうやって外すのだろうと思っていました。
 イヤな予感は当たりました。
 ギプスをカットするのは、手品で腕を切断する時に使うような電動ノコギリでした。
 担当してくれたのは、一番怖い看護婦さんでした。
      ■         ■
 「キーン」という金属音をたてて、ギプスカッターを持った看護婦さんが言いました。
 「動いたら、足が切れちゃうよ!」
 私はビビリました。本当に足が切れると思いました。
 「イヤだイヤだ」
 「ギプスなんか切らないで!」
 「ボク、痒いのもがまんするから!切らないで!」
 (ここは私のフィクションですがこんなことを言ったと思います)
      ■         ■
 お腹の近くを切る時は、必死にお腹をへこませた記憶があります。
 足の部分を切る時は、オシッコをちびりそうになりながら必死にじっとしていました。
 ある程度切ったら、大きなペンチのような道具で、バリバリとギプスを開きます。
 とうとうギプスが割れて、パッかぁ~んと私の腰とチンチンと脚が出てきました。
      ■         ■
 実は、ギプスカッターは電動ノコのような形ですが、刃は本物の電動ノコのように回転せず、振動するだけです。
 ですから、もし当たったとしても、少しキズができる程度で、ノコギリのように切れたりはしません。
 でも、本当に手品で使うように足が切れると思いました。
      ■         ■
 私は、たとえ子供でもちゃんと説明してくれて、『これは音が怖いけれど、脚は切れないからね』と言ってくれたらよかったのにと思います。
 札幌医大の学生の時に、小児麻酔の講義を、田宮恵子先生という小児センターの先生から習いました。
 田宮先生は、子供でも、ある程度話しがわかる子は、大人と同じように説明して不安をとってあげるのがよい。とお話しされました。
 自分の経験から、さすが小児センターの先生は違うものだと思ったのを覚えています。
      ■         ■
 田宮先生はとても優秀な小児麻酔医でしたが、病気で他界なさってしまいました。
 でも、私の中では、田宮先生のお話しはずっと生きています。
 形成外科医になってからも、ある程度の年齢に達して、話せばわかるようになった子供には、必ず子供の目の高さで話して説明していました。
      ■         ■
 辛いことがあった入院生活ですが、5歳の時の記憶が50年たっても生きています。
 大学で講義を聴いても、自分が体験したことはよく理解できますし忘れません。
 ペルテスになったおかげで、私は入院生活の辛さや退屈さを経験できました。
 病気はありがたくないことですが、自分が病気で入院した体験は何ものにも勝る医学教育だと思います。

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昔の記憶

床上排泄

 床上排泄(ショウジョウハイセツ)と読みます。
 ベッドの上でオシッコもウンコもすることです。
 ペルテス病になった5歳の私は、札幌の愛育病院に入院しました。昭和34年11月のことです。
 大腿骨という、太ももの骨の病気です。そのままだと、歩けなくなります。両親は焦ったと思います。
      ■         ■
 愛育病院は昭和32年8月に開設されました。財団法人小児愛育協会附属愛育病院。
 病床数32床、小児科、皮膚科、整形外科、耳鼻咽喉科の病院でした。
 北大医学部小児科の2代目教授、弘 好文先生を中心に地域の小児保健問題の研究と解決、及び育児指導を目的として小児総合病院建設の構想の下に作られました。
      ■         ■
 愛育病院へ入院した私は、まず腰から下のギプスをつけられました。
 大腿骨頭にかかる負荷を減らす目的だと思います。
 子供だった私は何と説明されたかは覚えていません。ギプスをつける時に暴れたので麻酔をかけられたような気もします。
      ■         ■
 ギプスは石膏でできているので、子供の私が暴れたところでびくともしませんでした。
 パンツの代わりに、セメントでできたズボンをはいているようなものです。
 オシッコとウンコをするために、チンチンのところとおしりには穴が開いていました。
 当然のことですが、トイレには行けません。
 ギプスをつけたその日から、ベッドの上でオシッコもウンコもしなくてはなりません。
 5歳の子供でも、これには参りました。
      ■         ■
 オシッコは尿瓶(シビン)でできるからまだマシです。
 問題はウンコでした。
 ウンコをする時は、カーテンをして他の子供から見えないようにしてしました。
 いくらカーテンをしても、臭いは容赦なくカーテンにこもります。
 5歳の男の子でも、クサイにおいには閉口しました。
 同室の子供から、ウンコ臭いなんて言われようものなら、ウンコが出なくなりました。
      ■         ■
 ウンコが出なくなるとお腹が痛くなります。
 ウンコがイヤでお腹が痛くなるので、食事も進みません。
 骨の病気で入院したのに、ウンコが最大の苦痛でした。
 子供の病院なので、同室者は子供ばかりでした。
 他の子供は、小児科の患者が大部分でした。
 ペルテスは私一人で、他の子供たちは元気に遊び回っていました。
 私だけ、24時間ベッドの上でした。次第にストレスが溜まりました。
      ■         ■
 同室の子供たちは腎臓病の子が多かったように記憶しています。
 食事の時間になると、『腎臓さんの食事ですよ!』と、腎臓病食がその子供たちに配膳されました。
 食事の時間は、私が優位でした。腎臓病の子供は、醤油が食べられませんでした。
 私はご飯に生卵をかけて食べられましたが、腎臓病の子は生卵に醤油をかけられませんでした。
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 病院で入院患者の部屋割りを決める時は、男性は男性。女性は女性。あかちゃんはあかちゃん。学童は学童と分けます。
 私は小学校入学前だったので、男の子も女の子も同じ部屋でした。
 自分の経験から、男性と女性は無理としても、できるだけ同じ病気の子が同じ病室で過ごせるとよいと思います。
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 たとえば乳癌が専門の病院があります。
 同じ部屋に術前の患者さんと術後の患者さん、新入りの患者さんがいらっしゃいます。
 私たち医療従事者が説明するよりも、先輩患者が自分の体験を元に‘説明’してくださると、実に安心することがよくあります。
 ベテランの看護師長は、ベッドの割り振りや部屋割りがとても上手です。
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 私は約一ヵ月入院しましたが、小児科の子供と仲良くなった記憶はありません。
 24時間、ベッドの上で、お風呂も入れない生活は苦痛でした。
 ギプスはつけたままなので、次第に痒くなります。
 ギプスの中が痒くても手や指は届きません。
 お箸で痒いところを掻いた覚えがあります。
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 5歳になると、入院していたことや辛かったことはよく覚えています。
 形成外科医になってからも、植皮術の後に床上安静が必要なことがありました。
 私は、5歳の時の体験から、できるだけ早くウンコだけはトイレでしてもらうように配慮していたつもりです。
 この他にも、自分の入院体験は役に立っています。また別の日に続きを書きます。

昭和35年1月の私です。
左下肢につけているのが装具。
(コルセット)です。

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昔の記憶

お医者さんごっこ

 私が子供だったのは、昭和30年代です。
 日本は戦後の混乱から、高度経済成長の時代に入っていました。
 ‘三丁目の夕日’は、昭和33年(1958年)の東京の下町が舞台として設定されています。
 私が育った、札幌郡手稲町も、三丁目の夕日と同じように、隣近所が親しくお付き合いしていました。
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 子供の遊びは、近くの雑木林でドングリを拾ったり、当時流行っていた、月光仮面のマネをしたり、チャンバラをしたり…。
 女の子は、おままごと遊びをして、それに加わったり…。
 ごく普通の子供の、ごくふつうのあそびでした。
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 ただ一つ違っていたとすれば、‘お医者さんごっこ’だと思います。
 病院職員の子供ばかりの集団です。お医者さんごっこも、ふつうの子供より知識がありました。
 子供は、お父さんと同じ職に就きました。
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・マーちゃんがお医者さん。お父さんは小山先生。
・はるみちゃん(マーちゃんの妹)が看護婦さん。お母さんが元看護婦さん。
・ひろすけちゃんが事務長さん。お父さんは小林事務長さん。
・まさるちゃんがレントゲン技師さん。お父さんは、レントゲン技師の草野さん。
・私が薬剤師。父は薬剤師。
 患者さん役が誰だったか?どうやったか?は覚えていません。
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 お医者さんのマーちゃんが‘診察’をして、看護婦さんのはるみちゃんが介助します。
 レントゲン技師のまさるちゃんがレントゲンを撮ります。
 注射は、看護婦さんのはるみちゃんが担当。
 薬剤師のケンちゃんは、マーちゃんが処方したお薬を作ります。
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 私は、土を集めて、サラサラにして、お薬を調合。
 木の葉っぱに包んで、「はい、お薬ができました」という係りでした。これは今でも覚えています。
 私はこの薬の係りが好きでした。
 少し大きめの葉っぱを集めて、さらさらにした土を、おままごとの皿に入れて調合しました。
 看護婦さんの、はるみちゃんが「はーい、お口を開けて!」と飲ませるマネをしていました。
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 お医者さんは、血も見なければいけないし大変だから、自分は薬剤師でよかった!と子供心に思ったのを覚えています。
 マーちゃんのようにお医者さんになりたいとは、まったく考えていませんでした。
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 子供たちは、親が働いている療養所へ遊びに行っていました。
 マーちゃんとはるみちゃんは、お父さんのいる医局へ。
 私は父がいた薬局へ行きました。
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 薬局には、今のような分包器(粉薬を紙の袋に入れる器械)はありませんでした。
 薬包紙という薄い紙を、調剤台の上に並べて、そこへ父が乳鉢で調合した薬を手際よく配分していました。
 怒ると怖い父でしたが、その時は子供心に『お父さんすごい!』と思いました。
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 その他に錠剤を作る器械があり、ゴットンごっとんと動いて錠剤ができていました。
 子供にとっては、イスと机と本しかない医局(お医者さんの部屋)よりも、いろいろな薬や器械がある薬局の方が楽しみでした。
 私は注射が嫌いでしたし、手術なんて考えただけで血の気が引いていました。
 その頃から考えると、よく形成外科医になったものです。
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 子供は地域が育てるものと言われます。
 親から教えられることの他に、近所のお兄さんお姉さんからもたくさんのことを教えられます。
 私の兄貴分はマーちゃんでした。マーちゃんは面倒見がよく、妹や私とよく遊んでくれました。
 私の一生の中で、手稲で過ごした7年間はとても貴重なものだと思っています。マーちゃんに感謝しています。

ソリを引くのがマーちゃん
その後ろが妹のはるみちゃん
最後尾が私(ケンちゃん)です

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