医療問題

聴覚障害不正問題

 昨日、出勤途中に札幌駅前を歩いていると
 駅前の北海道銀行の前に、
 たくさんの報道陣が集まっていました。
 夜、帰る時にもまだカメラを構えていました。
 報道関係の方も
 朝早くから夜遅くまでご苦労様です。
      ■         ■
 このビルで開業している、
 耳鼻科の先生が、
 耳が聞こえる人に…
 『聞こえない』
 という診断書を書いて、
 不正に身体障害者手帳を取得させた
 という疑いで、
 昨日、家宅捜索を受けました。
 テレビのニュースには、
 北海道警察の捜査員が、
 ダンボール箱に入れた書類を、
 夜遅くに運び出すところが映っていました。
      ■         ■
 札幌美容形成外科があるのが、
 札幌市中央区北3条西3丁目
 このビルがあるのが
 札幌市中央区北4条西3丁目
 です。
 こんなに近くなのに…
 私はこちらの先生とは面識もなく、
 不正の疑いがあるのが…
 ここの耳鼻科だとは、
 まったく知りませんでした。
      ■         ■
 耳鼻科医は73歳。
 北大医学部35期(昭和34年卒業)の先生です。
 私は、なぜ不正をしたのか…?
 不思議でたまりません。
 私が開業している札幌駅南口地区は、
 美容外科の激戦区です。
 札幌美容形成外科の他に、
 大手美容外科2軒。
 個人の形成外科が1軒あります。
      ■         ■
 物価が上がっているのに、
 美容外科の料金だけは下がっています。
 経営はなかなか大変です。
 それでも、
 私と従業員が食べてゆける収入はあります。
 札幌駅周辺にある、
 耳鼻科は
 問題となっている先生だけです。
 近くに競争相手はいません。
 どこの耳鼻科も混んでいます。
 どう考えても、
 不正なんかしなくても、
 十分に食べてゆけるはずです。
      ■         ■
 聴力検査というのは、
 ヘッドホンのような器械を両耳につけます。
 ピッピッピッピッ…
 という小さな音が聞こえてきます。
 音が聞こえてきたところで、
 手に持ったボタンを押して、
 聴力を測ります。
 2級の障害に相当する聴力ですと、
 両耳から騒音のような音がしても
 じっと耐えて…
 頭が割れそうになっても耐えて…
 じっとボタンを押すのを待ちます。
      ■         ■
 簡単な仕組みなので、
 誰かに一度、
 不正の仕方を教えてもらえば、
 やり方はすぐにわかります。
 聴力検査の時に、
 騒音をガマンさえすれば…
 2級になれるのです。
      ■         ■
 私が知っている耳鼻科の先生は、
 とても真面目で優しい人ばかりです。
 自分が小さい時から、
 アレルギー性鼻炎で悩んだので、
 耳鼻科医になって… 
 苦しんでいる人を治したいと、
 大学院で研究した先生もいました。
 今は開業されて繁盛しています。
 この事件の
 真相が解明される日を待っています。


ビルの前の報道陣


ビルの前の看板

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医療問題

釧路労災病院不正

 平成20年9月3日、北海道新聞朝刊の記事です。
 釧路労災病院
 室長が1600万円着服
 【釧路】釧路労災病院(釧路市、小柳知彦院長)の
 遠藤芳彦・地域医療連携室長(52)が、
 十年間にわたって診断書の作成費など
 約1600万円を着服していたことが9月2日、分かった。
 同病院は同日付で懲戒解雇処分にするとともに、
 釧路署に告発する方針を発表した。
      ■         ■
 同病院の調査では、
 室長は2001年から今年七月にかけて、
 特定疾患の医療受給者証の交付に
 必要な診断書の発行に際し、
 本来は患者が会計課に支払う
 一通3,150円の作成費を直接受け取り、
 病院に納めなかった。
 また、1998年から釧路管内釧路町が同院に支払った
 高額療養費の一部も着服していた。
      ■         ■
 今年5月、患者が室長への支払い方法を
 会計課に相談して発覚した。
 室長は旅行などに使ったと認め、全額弁済した。
 同病院は小柳院長ら
 関係者19人も減給などの処分とした。
 長期間、発覚しなかったことについて同病院は
 「診断書の発行と入金を照合するシステムがなかった」
 と陳謝した。
 (以上、北海道新聞より引用)

      ■         ■
 昨夜テレビを見ていたら、
 小柳先生が悲痛な表情で映っていました。
 先生は、元北大泌尿器科教授。
 北海道大学病院長も歴任された、
 優しくて優秀な泌尿器科医です。
 北大の定年後に、
 釧路労災病院院長に就任されました。
      ■         ■
 私は、釧路労災病院に勤務した、
 20年前に遠藤さんにお世話になりました。
 正直なところ、
 『えっ???…』
 『まさか?あの遠藤さんが…?』
 というのが私の実感です。
 医療相談室で、
 患者さんの困りごとに、
 親切に相談にのっていただいていました。
 『まさか?』
 『どうして?』
 という思いは今でも消えません。
      ■         ■
 私が勤務した当時の釧路労災病院は、
 初代院長の
 新田一雄(にったかずお)先生が築かれた
 全国一の黒字労災病院でした。
 ニッタビジョンというか…
 ニッタマインドというか…
 優秀な外科医であった、
 新田先生の手づくり病院という感じでした。
      ■         ■
 新田先生は、
 北大第一外科助教授から
 釧路労災病院長になられました。
 新田先生が着任した当時の、
 病院建設地は、
 釧路湿原のはずれにあり、
 雨が降ると、
 膝まで泥に埋まるような
 土地だったと聞いていました。
 そこに、職員が力を合わせて、
 立派な病院をつくりました。
      ■         ■
 私が勤務したのは、
 2年間程度ですが、
 たくさんの患者さんの手術をしました。
 札幌から離れていたので、
 簡単に北大に応援を頼めません。
 手術中に…
 『本当に困った!』
 ことが何度かありました。
 何度か困って…
 それを乗り越えて、
 腕を磨きました。
      ■         ■
 新田一雄(にったかずお)先生は、
 私が尊敬する院長のお一人です。
 残念なことに…
 新田先生はお亡くなりになりました。
 遠藤さんは、
 新田先生の時代に、
 釧路労災病院へ採用された方です。
 もし…
 新田先生がご存命だったら…
 『おい、遠藤!』
 『なんてことしたんだ、バカ野郎!』

 と怒られたことと思います。
 でも新田先生だったら…
 更生して出直す道をくださったと思います。
      ■         ■
 病院長というのも無力なものです。
 職員を信頼して仕事を任せなければ、
 病院は運営できません。
 私たち医師は、
 基本的に仲間や職員を信用しています。
 最初から疑っている院長などいません。
 最後に責任をとって謝罪するのが院長です。
 信頼関係が成り立たないところでは、
 医療はできません。
 そこが他の企業と違うところです。
 信頼を裏切った遠藤さんの責任は重いですが、
 是非更生して、
 また患者さんの役に立って欲しいと願っています。
 とても仕事ができる方でした。
 残念に思っています。

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医療問題

電子カルテ

 医療法という法律で、
 カルテは5年間の保存義務があります。
 大学病院などでは、
 何十年分ものカルテを保管しています。
 その保管場所や管理が大変です。
 北大形成外科に勤務していた時は、
 古い外来棟にカルテがありました。
 手術記録などを調べるために、
 カルテ探しを何度もしました。
      ■         ■
 カルテの保管場所は
 掃除をしていませんでした。
 古いカルテを探しに行くと、
 必ず、鼻の中が真っ黒になりました。
 もちろん、手も真っ黒。
 白衣は汚れてもいいような、
 古い白衣を着て行きました。
 当時の北大には、
 診療情報管理士の方は
 いらっしゃらなかったと思います。
      ■         ■
 これからは電子カルテの時代だと思います。
 航空券の予約・発券もネットでできる時代。
 チケットはなくなり、
 携帯電話やカードで、
 ‘ピッ…’とするだけで、
 搭乗ができるようになりました。
 医療機関は、
 残念ながら…
 一番IT化が遅れている業種の一つです。
      ■         ■
 私たちが電子カルテの導入で、
 一番困るのが、
 過去のカルテを参照することです。
 昨年の朝日新聞の投稿には、
 韓国の先進的な病院を訪問する機会があった。
 そこでは1958年の開院以来、
 過去の入院診療録約100万件を
 すべてデジタル化して保存しており、
 診療録管理室には約50人のスタッフが配属されていた。

 とありました。
      ■         ■
 これは実にすごいことです。
 電子カルテの導入費用以上に、
 過去の100万件の入力費用がかかります。
 札幌市内の総合病院で、
 電子カルテが導入されました。
 担当の先生が、
 過去のカルテはどうやって見るのですか?
 と聞いたところ…
 『過去カルテの電子化は、
 予算に入っていません』
 とあっさり言われたそうです。
      ■         ■
 私が勤務医をしていた時代に、
 各病院にコンピューターシステムが入りました。
 毎日、快適に動いていたのではありません。
 システム障害が発生すると、
 院内放送で、
 『ただいま、システム障害が発生しています』
 『復旧の見通しは立っていません』
 『各部署では、手書き対応に変更してください』
 という
 悪夢の放送が流れました。
      ■         ■
 外来は私と看護師さんが一人だけ。
 患者さんには…
 『ごめんなさい』
 『今日、お薬を出すと、何時になるかわかりません』
 『申し訳ありませんが、次にしてください』
 『わかりました、先生も大変ですね』
 なんてことがありました。
      ■         ■
 札幌美容形成外科でも
 電子カルテの導入を検討しています。
 今の電子カルテはかなり進歩したようです。
 過去カルテ入力など、
 難問がありますが、
 なんとか早期に導入しようと考えています。
 システム障害になっても、
 お薬は出せるように準備します。

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昔の記憶

防災の日

 今日は防災の日です。
 私自身は災害の被害を
 受けたことはありません。
 ただ忘れられないのが、
 札幌医大の学生だった時に経験した
 有珠山の噴火でした。
      ■         ■
 札幌医大第二内科では、
 洞爺湖近くの壮瞥町(そうべつちょう)の
 集団検診を実施していました。
 壮瞥町(そうべつちょう)は、
 横綱北の湖の出身地です。
 小畑敏満(おばたとしみつ)さんが本名です。
 私たち学生は、
 第二内科が募集した
 集団検診の学生アルバイトとして
 検診のお手伝いをしていました。
      ■         ■
 壮瞥町役場近くの旅館に宿泊して、
 早朝から壮瞥町内の検診場所へ行き、
 採血や心電図の準備などをしていました。
 なかなか楽しいアルバイトで、
 そのバイトをきっかけにして
 第二内科に入局し、
 循環器内科医となった友人も
 たくさんいました。
 北の湖のご両親も
 検診にいらしたのを記憶しています。
      ■         ■
 噴火があった時、
 私は旅館の風呂に入っていました。
 同級生が、
 『本間、山が噴火したぞ!』
 『窓から見えるから見てみろ!』
 というので、
 風呂の窓を開けて見たのを覚えています。
 最初は青空に…
 きのこ雲ができて…
 ‘すっげぇ~!’
 てな、感じで眺めていました。
      ■         ■
 すごい!と感動したのは、
 最初のうちだけでした。
 きのこ雲はみるみるうちに…
 空全体に広がり…
 あっという間に青空がなくなり、
 夜のように真っ暗になりました。
 真っ暗になったのが先か?
 その後かは覚えていません。
 稲妻が走り、
 雷がゴロゴロごろごろと
 大きな音を出したかと思うと、
 あっという間に…
 泥の大雨が降ってきました。
      ■         ■
 『窓を閉めろ~!』
 誰かが叫んだように思います。
 旅館の屋根が抜けるか?
 と思うほどの泥の大雨でした。
 道路も通行止め。
 避難しようにも、外へ出られません。
 本当に怖い思いをしました。
 幸いなことに、
 ケガはありませんでした。
      ■         ■
 それからしばらくは、
 集団検診は中止となり、
 私たち学生も、
 道路にたまった火山灰の除去作業を
 お手伝いしました。
 一度しか経験したことがない、
 火山の噴火ですが、
 もう二度と体験したくはありません。
 自然の驚異は恐ろしいものです。 


札幌医大の学生だった時
後方に見えるのが有珠山
噴火はこの後で起こりました

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昔の記憶

高校進学

 私は大夕張の鹿島中学校を、
 昭和45年に卒業しました。
 当時の夕張市には、
 北炭、三菱という炭鉱会社があり、
 今よりずっと栄えていました。
 私が住んでいた大夕張にも、
 中学校が1校、高校が1校ありました。
 今は何もありません。
 ダムの底に沈むのを待っています。
      ■         ■
 中学校は一クラス40人程度で、
 A組からG組までの7クラスがありました。
 大部分の生徒は、
 地元の高校へ進学しましたが、
 北海道内の進学校である、
 函館ラサール高校(男子校)や
 札幌市内の公立高校、
 夕張市内でも大学進学率が高い、
 夕張北高へ進学する生徒もいました。
      ■         ■
 私の鹿島中学の先輩に
 Sさんという男子がいました。
 とても勉強ができました。
 Sさんは、鹿島中学校から、
 札幌南高に進学し、
 東大文Ⅰに現役合格しました。
 私たちの間では、
 ‘郷土の英雄’でした。
 Sさんは、
 その後、国家公務員上級試験を通り、
 官僚になられたと聞いています。
      ■         ■
 私たちの世代は、
 一生懸命勉強をして、
 ‘いい高校’から
 ‘いい大学’へ進学することが、
 ‘いい子ども’の条件だったように思います。
 親もそれを願って、
 経済的に苦しくても、
 子どもを札幌や函館の進学校へ出しました。
 それが親にとっての
 喜びだったようにも思います。
      ■         ■
 私が札幌西高校を卒業したのが
 昭和48年(1973年)3月でした。
 私は現役で札幌医大を落ちました。
 大夕張の鹿島中学校から
 函館ラサール高校へ行った友人も、
 北大を落ちました。
 同じく大夕張から札幌北高へ進学した友人も、
 北大を落ちました。
      ■         ■
 夕張から札幌と函館の進学校へ行った、
 私たち3人は
 全員第一志望の大学を落ちました。
 昭和45年に
 鹿島中学校を卒業した生徒のうち、
 ただ一人北大に現役合格したのが、
 大夕張で地元の夕張東高へ進学した
 I君でした。
 夕張北高に進学したT君も
 小樽商大に現役合格しました。
      ■         ■
 夕張から外の高校へ出た3人(私も含めて)が
 高校時代に勉強をサボったのではありません。
 おそらく夕張に残ったI君やT君が
 一生懸命、勉強したのだと思います。
 私は自分が卒業した、
 札幌西高が好きですし、
 札幌に出てきてよかったと思っています。
      ■         ■
 私たちの世代のエリートは、
 北大法学部や小樽商大という
 道内の難関大学を卒業して、
 北海道拓殖銀行に入行しました。
 ‘拓銀に入ったんだってねぇ~’
 ‘すごいねぇ~’
 ‘勉強できたからねぇ~’
 というコースでした。
 ところが、拓銀は経営破たん。
 人生なんてわからないものです。
      ■         ■
 私は、人間は目標へ向かって
 努力している間が、
 一番、夢があって充実していると思います。
 その時は気づかないけれど…。
 私も高校時代に、
 ボロ家で…
 勉強ができなくて…
 成績が上がらなくて…
 苦しんでいた時代があって
 よかったと思っています。
 自分が苦しんだ経験が、
 役に立っていると思います。


中学3年の修学旅行
層雲峡にて(中央が私)
下唇が出ていると言われ
気にして下唇を噛んでいます


鹿島中学校があった
夕張市鹿島常盤町
手前はつり橋です

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昔の記憶

私が住んだ家

 私が子供の頃は、
 父親が勤務していた病院の社宅に住んでいました。
 生まれてから、小学校2年生までは、
 札幌郡手稲町字金山。
 小学校3年生から中学校1年生までは、
 美唄市茶志内町日東(ビバイシチャシナイチョウニットウ)。
 中学校3年間は、
 夕張市鹿島(ユウバリシカシマ)、通称大夕張(オオユウバリ)。
 高校1年生から、札幌市西区八軒(ハチケン)でした。
      ■         ■
 西区八軒の家だけが、父の所有でした。
 お金がなかったので、土地は長い間借地でした。
 昭和30年代に建てられ、
 昭和36年に購入した、中古の建売木造住宅でした。
 最初は、父の両親と弟妹が住んでいました。 
 私が札幌西高校へ入学したため、
 父の母親(私の祖母)が住んでいた家に住みました。
 当時は、こうして地方から札幌へ出てくる高校生がいました。
      ■         ■
 お世辞にも、立派な家とは言えませんでした。
 トイレは水洗式ではありません。
 私の家は、
 七畳くらいの一部屋に、
 私と弟と母親が
 寝泊りしているような家でした。
 壁が汚かったので、
 ペンキを買ってきて自分たちで塗りました。
 床は父親がフローリングを自分で貼りました。
      ■         ■
 高校時代、同級生に、
 『今度、本間の家(ホンマンチ)へ行ってもいぃ?』
 と言われるのが一番困りました。
 見栄を張っていたのではありませんが、
 友人に来てもらうような家ではありませんでした。
 友人の家は、
 西区西野の閑静な住宅地にあり、
 新築の立派な家でした。
      ■         ■
 私は、あまり贅沢はしません。
 着るものも、食べものも。
 ただ、家にはこだわりがあります。
 これは、高校生の頃に、
 ビンボーな家に住んでいたためだと思います。
 マンションや不動産の広告は好きなのでよく見ます。
 自分ではじめて新築した家は、
 張り切りすぎて、住宅ローン地獄になりました。
 米国のサブプライムローン問題がよく理解できます。
      ■         ■
 自分がコンプレックスを持ったことには、
 こだわりができるようです。
 私は、高校生の時に、
 自分も友だちの家のように…
 いつかは新築の立派な家に住みたい。
 と考えるようになったのだと思います。
 私は土をいじるのが好きですが、
 家の壁のクロスなどを補修するのも好きです。
 自分が住んでいる家はキレイに大切にしています。

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昔の記憶

ペット可の貸家

 平成6年は、
 今のように
 ネットが発達していませんでした。
 帯広に転勤する時は、
 家を探すのに苦労しました。
 愛犬のチェリーを飼っていたので、
 『犬を飼ってもOK』
 という貸家を探すだけで大変でした。
 帯広の職業別電話帳を、
 NTTでコピーして、
 札幌から片っ端から電話をしました。
      ■         ■
 帯広の不動産屋さんの中には、
 『イヌを飼ってもいいなんて大家さんはいませんよ!』
 とピシャリと言われたところもありました。
 ようやく何軒か目星をつけて、
 家内と帯広へ車で向かいました。
 12月10日の吹雪の日でした。
 夕張を過ぎた頃には、
 前方が雪で見えなくなり…
 このまま遭難するのでは?
 と思いました。
      ■         ■
 やっとの思いで、帯広に着きました。
 これは!
 と思っていた家は、×でした。
 最後にたどり着いた家は、
 不動産屋さんが終了してしまっていました。
 FAXしていただいた資料から
 その家を見に行きました。
      ■         ■
 外から家の中を見ると、
 明かりが点いていました。
 家内と、
 おそるおそるピンポンを押してみました。
 そこのお宅の奥様が出てきてくださいました。
 『私たちも貸家探しで苦労したのょ。』と
 とても親切に応対してくださいまいした。
 その奥様から、
 大家さんは
 大手住宅建材メーカーにお勤めであること。
 札幌に転勤で住んでいらっしゃること。
 住所と電話番号も教えていただきました。
      ■         ■
 札幌の大家さんのご自宅は、
 私が住んでいたのと同じ、
 西区山の手にありました。
 お電話をして、
 家内とチェリーを連れてお伺いしました。
 『この犬を飼ってもいい家が見つからないと、
 私は帯広厚生病院に赴任できません。』
 万一、犬が住宅を毀損(キソン)した時は、
 すべてこちらが費用を負担して直します。
 必死の思いで、お願いしました。
      ■         ■
 大家さんは、快く許可をくださいました。
 こうして、
 私は帯広厚生病院へ赴任できることになりました。
 今でこそ、
 ペット可のマンションや住宅が増えています。
 14年前は、
 まだペット可の家はありませんでした。
 その後、私は札幌の自宅を貸しました。
 もちろん『ペット可』です。
      ■         ■
 平成元年に、
 分不相応な家を建てて、
 住宅ローン地獄に陥っていた私は、
 平成7年1月に帯広に転勤して、
 自分の家を借りていただき、
 ローン地獄から
 脱出することができました。
 世の中何が幸いするかわかりません。
 今でも家を貸してくださった
 大家さんに感謝してます。


帯広でお借りした家
平成7年4月16日

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昔の記憶

帯広への転勤

 昨日も書きましたが、
 私は平成7年1月1日付けで、
 JA帯広厚生病院へ赴任を命じられました。
 北大形成外科の人事異動です。
 人事異動とは言っても、
 前任の市立札幌病院は、
 自己都合退職。
 『一身上の都合により…退職を…』
 という辞表を出して退職しました。
 正直なところ…
 退職したくはありませんでしたが、
 これが、医者社会の掟(おきて)でした。
      ■         ■
 せっかく家も建てて、
 子どもたちも、
 学校を変わりたくないと言っている。
 『お父さん一人で単身赴任してちょうだい!』
 と家内と喧嘩になりました。
 嫌がる家族を巻き込んで…
 正月早々、
 夜逃げのような引越しでした。
      ■         ■
 お世話になった
 市立札幌病院の婦長さんが、
 『先生、帯広は寒いから…』
 とカシミアのマフラーを
 プレゼントしてくださいました。
 マフラーも素敵でしたが、
 その心が、嬉しくて、
 そのカシミアのマフラーは
 今でも大切に使っています。
      ■         ■
 平成6年12月10日土曜日に、
 北大形成外科の忘年会を欠席して、
 早朝5時に札幌の家を出て、
 帯広まで家探しに行きました。
 その日は天候が悪く、
 途中から猛吹雪になりました。
 札幌→帯広の道にも
 慣れていませんでした。
      ■         ■
 日高の山を越えると、
 十勝平野は晴れていました。
 十勝地方は氷点下30度近くまで
 冷え込むことがある寒い土地です。
 太平洋側にあるので
 積雪量は日本海側の札幌と比較すると
 少ないのが特徴です。
 どこまでも続く、
 広大な畑が十勝地方の特徴です。
      ■         ■
 帯広は、確かに寒いのですが、
 冬でも晴れた日が多く、
 札幌に比較すると、
 お日様が輝いていました。
 家族はイヤイヤ付いて来たのですが、
 子どもたちはスケートを覚えたり、
 夏は釣りをしたり…
 夜空には満天の星があり…
 帯広での生活を楽しんで暮らしました。
      ■         ■
 帯広厚生病院は立派な病院でした。
 JA北海道厚生連の中でも、
 トップクラスの黒字病院でした。
 市立札幌病院では、
 買ってもらえなかった…
 ドイツ製の手術用顕微鏡も、
 ポンと買っていただけました。
 仕事は…
 ‘超’忙しかったのですが、
 充実した毎日でした。
 40歳から43歳までの、
 3年間勤務しました。

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院長の休日

カーナビ2008年問題

 私は13年前の、
 1995年(平成7年)1月1日付けで、
 JA帯広厚生病院形成外科
 主任医長として赴任しました。
 帯広は、食べ物が安くて美味しく、
 住みやすい街でした。
 ただ一つだけ困ったのが、
 夜道の運転でした。
      ■         ■
 十勝地方は道路も整備されていて、
 農道でも立派に舗装されていました。
 ある夜に、帯広空港から帰る途中で、
 道に迷いました。
 前の車について走っていて、
 いつもと違う道へ
 迷い込んでしまいました。
 土地勘がないところで、
 畑の真ん中で…
 自分が今、
 どちらに向いているのかも…
 わかりませんでした。
      ■         ■
 今でしたら携帯にもGPSがついています。
 当時は磁石も持っていません。
 冬だったので、道路標識もわかりません。
 ようやくの思いで、家に帰りました。
 道に迷ったおかげで、
 私はカーナビを購入しました。
 12年前のカーナビがまだ活躍しています。
      ■         ■
 そのカーナビが、
 8月下旬から位置がずれるようになりました。
 何回か調節して、
 位置異常を直してもすぐに戻りました。
 10年以上も使ったのだから…
 壊れても仕方がないね。
 と諦めていました。
      ■         ■
 新しいカーナビを購入しようか?
 とkakaku.com
 を検索していたところ…
 偶然、2008年問題というのを
 見つけました。
 GPSの耐用年数が
 2008年8月17日で切れるので
 古いカーナビは位置異常を起こすのだそうです。
      ■         ■
 kakaku.comのおかげで
 今日、カーナビを無償修理していただきました。
 正常になるまで、
 4日程度かかるそうですが、
 これでまたしばらく使えそうです。
 地図データーは古くなっていますが、
 位置は正確なのでまだ使えます。
 同じような症状が出ている方は、
 メーカーにお問い合わせください。

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未分類

北京オリンピックの少女

 北京オリンピック開会式に
 赤い服を着た、
 可愛い少女が出ていました。
 朝日新聞の記事です。
 少女の歌声は「口パク」
 五輪開会式、舞台裏に別の子
 2008年8月13日0時15分
 開会式でソロで歌い、
 「天使の歌声」と人気を集めていた林妙可ちゃん(9)が、
 実は「口パク」だったことを音楽総監督の陳其鋼氏が
 中国の通信社、中国新聞社の取材に告白した。
 舞台裏で別の女の子が歌っていたという。
 インターネット上では
 「純粋な子どもにうそをつかせるのはよくない」
 と批判が出始めた。
      ■         ■
 陳氏によると、
 楊沛宜ちゃん(7)という別の子の歌声だった。
 選考の際、沛宜ちゃんの歌声が一番よかったが、
 見た目がよりかわいらしい妙可ちゃんが
 舞台に出ることになったという。
 陳氏は
 「対外的なイメージと国益を考えて採用した方法だ」
 と説明した。
 沛宜ちゃんは
 「歌声だけでも披露できて満足、悔しくはない」。
 ネット上の批判は、
 当局が次々と削除している。(峯村健司)
  (以上、朝日新聞より引用)

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 北海道新聞には次の記事が掲載されました。
 歌った少女は「傷心」
 五輪開会式の“口パク”(2008年8月23日 22:41)
 【北京23日共同】
 北京五輪開会式の“口パク”問題で、
 実際に革命歌曲を歌った少女、
 楊沛宜さん(7)について、
 担任の教師が23日までに、
 自身のブログで
 「がっかりし、傷ついているようだ」
 と近況を伝え、
 「楊さんを二度と傷つけないでほしい」と訴えた。
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 教師によると、
 楊さんは18日に
 口パクをした林妙可さん(9)が
 出演した娯楽番組を興奮した様子で見た。
 しかし、
 司会者が、実際には楊さんが歌ったことを紹介しなかったため、
 がっかりした表情を浮かべ、
 ひと言も口をきかずに就寝。
 翌朝、
 楊さんが歯形が残るほど強く
 自身の腕をかんでいたのを家族がみつけた。
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 両親はメディアの取材から守るためとして、
 楊さんを「遠く」に移したという。
 教師は、
 楊さんが林さんを含め
 一緒に開会式の練習をした子どもたちに
 会いたがっているとしている。
 (以上、北海道新聞より引用)

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 私は開会式をTVで見た時に
 中国にも可愛い女の子がいるなぁ~
 と思いました。
 また、中国人が可愛いと感じる
 女の子が、二重まぶたで…
 パッチリとした目の子なんだなぁ~
 と思いました。
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 私は2002年に上海で行われた
 国際美容外科学会に参加しました。
 香港の学会には、
 1998年に一度行っていましたが、
 上海ははじめてでした。
 そこの第九人民病院というところで、
 ライブサージャリーという
 手術の実演がありました。
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 そこへ行って驚いたのは、
 中国でも二重、豊胸、脂肪吸引という
 美容外科手術が盛んなことでした。
 中国全土から、
 富裕層のお金持ちがやって来て、
 手術を受けていました。
 病院には、
 美容外科のフロアーがありました。
 そこだけは、
 内装が豪華で…
 待合の椅子も革張りのソファーでした。
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 一般の外来が、
 失礼ながら、
 かなり昔の日本の病院というイメージだったので、
 その乖離(かいり)に驚きました。
 中国は、日本以上に
 『美』を追求する国である、
 という印象を受けました。
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 私は、
 実際に歌った楊沛宜(Yang Peiyi)ちゃん(7)
 を気の毒に思いました。
 とても可愛らしい少女だと思います。
 AFP NEWSでは
 丸顔で歯並びがあまりよくなかったため、
 中国の正しいイメージを表現していないとして、
 中国政府が置き換えを命じた。

 とありました。
 7歳と9歳では骨格の成長も違います。
 歯列矯正だけで十分美人になれます。
 どうかめげずに成長してほしいと願っています。


2002年、上海にて

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