院長の休日
仕事の喜び
昨日、さくらんぼさんから
コメントをいただきました。
植物や動物を育てたり飼ったりする事は好きでも
仕事となると また 別で
農家も 労働時間と 収入が見合えば
息子にも 継いで欲しいと思うかもしれませんが、
私の代の方より下の後継者はほとんどいません。
★ ★
私も手術をこんなにする前は
草刈り機械で草刈りをしたり
朝 四時から
収穫期は夜中まで
作業していましたが、
体に無理が くるし
主人だけに負担をかけてしまうので
慣れた人を頼んでいます。
★ ★
それでも
今は 病院に診察に行く日くらいしか
休み?がないです。
母は 私たちが 若い時は
三時に起きて仕事した。
などと言ってます。
なんだか 愚痴になってしまいました。
★ ★
でも 私の家は 超忙しいけれど
収穫の時期は 他県に配達に行く事も 多く
たくさんの 人と触れ合い
帰りは 美味しい 海鮮丼など 食べたりできるので
息抜きもできます。
■ ■
私の仕事も年中ヒマなしです。
夜間の呼び出しはなくなりましたが、
メールの返信は深夜になることもあります。
私は、仕事をためるのがイヤなので、
今日できることは、
すぐにやる主義です。
勤務医の時も、
開業してからも、
医師に労働基準法はないと思っています。
■ ■
私のような開業医は、
極小企業の経営者です。
農家の方も、個人事業主ですね。
経営者や個人事業主に、
労働基準法はありません。
好きで選らんだ職業だからやってられます。
大企業になられた、
ニトリの似鳥昭雄社長も、
休みなく働いていらっしゃいます。
■ ■
似鳥昭雄社長は、
母校の北海学園大学で、
教鞭までとられています。
本当に大変なことだと思います。
ニトリさんは、
日本の暮らしを豊かにして、
お客様に喜んでいただくという、
夢とロマンが企業のバックボーンです。
■ ■
私は、人をキレイにして、
お客様に喜んでいただく。
さくらんぼさんは、
美味しい、フルーツを作って
消費者の方に喜んでいただく。
これが、生きがいだから…
辛い高所作業もできるのだと思います。
■ ■
さくらんぼさんに
サクランボを送っていただきました。
今まで見たこともないような…
一度も食べたことがないような…
超高級で、
美味しいサクランボでした。
今日も作業を頑張ってください!
辛い作業でも、
確実に実を結ぶことができるのは、
素晴らしいことだと思います。

宝石のようなサクランボ
ありがとうございました!
院長の休日
おやじのせなか
平成20年6月15日、朝日新聞の記事です。
おやじのせなか
寺脇 研
偉大な反面教師だった
父は医者でした。
医者というより医学部の教授でした。
強烈な上昇志向の持ち主で、
鹿児島の農村から苦学を重ねて
九州大医学部講師になり、
後に九大総長となる恩師の娘、
私の母と結婚しました。
■ ■
長男の私を、なんとしても医学部の教授にしたかった。
勉強して役に立てというより、
偉くなれ、
自分より偉くなれという感じでした。
父が鹿児島大医学部教授のとき、
私は中高一貫の私学の進学校に
トップで合格しました。
■ ■
自慢の息子だったのは、
そこまでです。
勉強しないもんだから成績は急降下。
高校の卒業時は生徒250人中230番台でした。
父は怒りました。
私の部屋を監視し、
文学本ばかり読んでいるといって
本棚をひもでぐるぐる巻きにして封印したり、
凝っていた将棋盤と駒を捨てたり。
■ ■
こっちは医者になる気はなく、
苦しくて自殺まで考えたけど、
やがて父を欺く術を身につけました。
ふすまに細工をして「ギー」と音が鳴るようにしました。
父の急襲をいち早く察知して、
勉強のふりをする時間を稼ぎます。
■ ■
土曜の夜には家を抜け出して
オールナイトの映画館に入り浸りました。
早朝に帰ると
「徹夜で勉強した」と言って
日中に寝ます。
父は最後まで、
私の真の姿に気づきませんでした。
運よく東大にひっかかり、
キャリア官僚にもなって、
そのたびに手放しで喜ぶ父を
私はしらけた気分で見ていました。
■ ■
私はやりたいことをやって生きていく。
栄達を望む父と意気投合することは、
一度もありませんでした。
無趣味で仕事人間の父は、
大学を退くと何もやることがなかった。
そのとき、
初めてむなしさを感じたようです。
■ ■
テレビで夜遅く電車に乗る塾帰りの子どもを見て、
言ってました。
「いかん。
私のようになるぞ。
おまえ、
なんとかしろ」
と。
■ ■
72歳のとき、
老衰で死にました。
その後読んだ教授時代の日記に
「もっと頑張って、
日本一の学者に、
いや世界一の学者に」
とありました。
■ ■
裏表がなく、
自分の素をさらけ出して生きた人でした。
それでよかったんだ、
と思います。
ある意味、
私と同じ。
その素は、
南極と北極ぐらいの違いがあったけど。
偉大なる反面教師でした。
(聞き手・大出公二)
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
今日は父の日です。
私の父は82歳です。
私の父は、私が大学受験をする時に、
医師ではなく、
弁護士になれと言っていました。
自分が法律を知らなくて、
土地をだましとられたため、
私が小学1年生の時に、
NHKの大学講座で、
法律を勉強していました。
■ ■
NHKで勉強していた、
おやじのせなかを見て育った私は、
今でも、NHKで英語会話を勉強しています。
中学生の時には、
NHKの中学生の勉強室という、
ラジオ講座で勉強しました。
大学受験の時には、
旺文社の大学受験ラジオ講座を利用しました。
■ ■
知らず知らずのうちに…
おやじのせなかを見て、
子どもは育つものだと思っていました。
私は大学を追い出されて、
ひどい目に遭いました。
ですから、
息子を医学部の教授にしたいと思った、
この寺脇先生の
お父さんの気持ちがわかりません。
■ ■
『末は博士か大臣か?』
昔の人は、
立身出世を夢見てこう言ったそうです。
私は医学博士の学位をいただきましたが、
それは研究した成果のしるしであり、
別に偉くもなんともありません。
それで生活が楽になったこともありません。
内閣総理大臣になっても大変そうです。
支持率低迷で四苦八苦ですね。
■ ■
私は美容外科という仕事が好きなのでしています。
子どもは、
自分で好きなことを見つけて、
それをするのがよいと思います。
親から強制されても、
長続きしません。
■ ■
私が高校生の時になりたかったのは、
パイロットでした。
パイロットになった友人に聞くと…
パイロットも大変そうです。
自分が好きな仕事をして、
人に喜んでいただけるのが
一番幸せだと思います。
■ ■
追記:
東北地方の地震で被害に遭われた方に
お見舞い申し上げます。
さくらんぼさんはご無事で、
今日もお仕事をなさっていらっしゃるそうです。

寺脇 研
てらわき・けん
映画評論家、
京都造形芸術大学教授。
文部科学省元大臣官房審議官。
在職当時、「ゆとり教育」を推進し、
「ミスター文部省」とも呼ばれた。
近著に
「官僚批判」(講談社)。
55歳。
上田潤撮影
(以上、朝日新聞より引用)
医学講座
容姿の悩み
美容外科は容姿(外貌)を変える診療科目です。
キレイにするのが仕事です。
私がこの仕事を選んだのは、
少年時代(大夕張の鹿島中学校)で、
『イカリヤ長介』とあだ名をつけられたことが、
心の底で関係していると思います。
■ ■
私は中学校1年の5月に、
美唄市(びばいし)茶志内(ちゃしない)中学校から、
大夕張(おおゆうばり)の鹿島中学校へ転校しました。
私は長髪だったのですが、
鹿島中学校では、
坊主頭が‘標準’でした。
長髪(といってもごく普通の頭)の転校生は、
格好のいじめの対象でした。
■ ■
私は、学校で言われるようになってから、
自分の下くちびるが気になるようになりました。
たまに札幌へ出ると、
ススキノ交差点の角に…
『中央整形』と書かれた、ビルがありました。
今のロビンソン百貨店がある場所に、
三谷ビルというビルがありました。
そこで、開業なさっていらしたのが、
武藤靖夫先生でした。
■ ■
形成外科医になってから、
はじめて武藤先生にお会いしました。
私の父と同じ年令で、大大先輩です。
現在は、時計台の向いで
息子さんの、武藤英生先生が後を継がれ、
札幌中央形成外科を開業なさっていらっしゃいます。
親子、お二人とも温和で優しい先生です。
英生先生のブログもあります。
■ ■
武藤先生(父)に
このことをお話ししたことがありました。
先生は、
『そんなことがあったのですか?』
と笑っていらっしゃいました。
中学生だった私は、
勇気もお金もなかったので、
中央整形へは行きませんでした。
当時はメールで相談するシステムもありませんでした。
■ ■
下くちびるが出ていると言われると…
余計に気になるものです。
当時の写真を見ると…
必ず、下くちびるを…
ギュっとして写真を撮っています。
ですから余計に目立ちます。
級友も、私が気にするのをおもしろがって
言わなくてもいいことを言います。
■ ■
私は、中央整形を受診しませんでしたが、
もし、受診していたとしても、
武藤先生は手術はすすめなかったと思います。
ですから、お会いした時に
笑ってお話しされたのです。
このように、
ちょっとしたことでも、
何気なく他人から指摘されて気になることがあります。
■ ■
このような悩みは誰にでもあります。
確かに、美容外科の技術で解決できるもの、
美容外科で治した方がよいものもあります。
ただ、私の下くちびるのように…
友人の
『本間、そんなの気にすんな!』
という一言で救われることもたくさんあります。
上手な美容外科にかかることも大切ですが、
よい友人を持つことは…
それ以上に大切だと思います。
人間は誰でも悩みがあり、
一人では解決できないことがたくさんあります。
昔の記憶
札幌西高の想い出
私が札幌西高校へ入学したのが、
昭和45年(1970年)4月でした。
今から38年前です。
自由な雰囲気の高校でした。
当時はまだ制服がありました。
黒の学生服に3本の白い線が入った学生帽です。
■ ■
学生服のボタンだけが、
西高のマークがついたボタンになり、
帽子には、西高の校章がつきました。
当時、3本線が入った帽子を被っているのは、
中学生でした。
ですから、高校生になっても3本線は西高だけ。
逆に目立っていました。
■ ■
一学年の定員は450人でした。
45人ずつ、10クラスありました。
男子が約300人。
女子が約150人でした。
数からいって、
約半分は彼女ができない組です。
私は、彼女ができない組でした。
■ ■
西高は、自由な校風の高校でした。
ある同期(男性)が言っていましたが…
高校に入学すると…
3年生の先輩とかが…
男子と女子が手をつないで通学…
この光景を見て、
カルチャーショックを受けたと言っていました。
■ ■
入学して私は1年8組になりました。
橋本順子(はしもとまさこ)先生という、
世界史の先生が担任でした。
『順子と書いて、まさこと読みます。』
というのが最初の挨拶でした。
はっきりと、ものを言う先生でした。
東京のお茶の水女子大卒の、
頭のよい先生でした。
■ ■
大夕張の田舎から出て来て、
毎日、バスで通学するだけで大変でした。
とにかく人が多いのに驚きました。
毎日、通学だけで疲れました。
その上、勉強はできず…
英語の暗記はできず…
高校に入ってから、劣等生になりました。
■ ■
中学校から選抜された450人が集まったのです。
正規分布した母集団です。
大夕張では、成績が優秀だったとしても…
高校に入ってから成績が落ちるのは、
当然と言えば当然の結果です。
彼女はできませんでしたが、
友人はすぐにできました。
お前、英語の暗記できた?
できねぇ~。
勉強しようと思ったけど、寝ちゃった。
■ ■
男同士でも楽しい高校生活でした。
友人にも彼女はいませんでした。
だから、
彼女がいなくても…
自分が価値のない人間とは思いませんでした。
秋葉原の無差別殺人の加藤容疑者。
彼女がいないことより、
男性の親友がいなくて、
携帯とPCが親友だったことが…
孤立を深めた原因だったと思います。
医療問題
男は顔か?
東京・秋葉原の無差別殺人。
亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
ケガをされた方々は、
一日も早く快復できるようお見舞い申し上げます。
■ ■
逮捕された加藤智大容疑者(25)が、
【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】
というスレッドを立てて、
自分のコンプレックスを吐露し続けたといいます。
男も不細工だと、彼女ができないのでしょうか?
美容外科を生業とする私には、
ちょっと気になることです。
■ ■
札幌美容形成外科にも、
たまに男性が来院されます。
来院なさるのは90%以上が女性です。
男性は多くはありません。
目をなおして欲しい、
鼻を高くして欲しい、
という男性がいらっしゃることもあります。
■ ■
平成19年10月9日の日記に書きました。
日本美容外科学会で、
北里大学名誉教授の塩谷先生が発言されました。
注意して施術すべきなのは、
40~50年前の米国での調査でも、
男性の鼻の手術だったそうです。
男性でも隆鼻術をなさって、
見事にイケメンになっていらっしゃる方がいるのは事実です。
■ ■
ただ、私自身は、
男性の隆鼻術は、
事故などで鼻が変形した方など
ごく限られた例にしか施術していません。
男性でも、
目の手術はたくさんしています。
特に眼瞼下垂症手術は、
若年層から高齢の方まで、
たくさんの方に施術しています。
みなさん、とても(ものが)見やすくなったと好評です。
奥様や彼女(娘さん)の評判もよいそうです。
■ ■
たまに、加藤容疑者のように、
「自分の人生がうまくいかないのは、
自分の顔が悪いからです。」
目も鼻も全部一度になおして下さい、
という男性がいらっしゃいます。
私は、施術するとしても一度にはしません。
元に戻せるような手術から、
少しずつ‘お直し’するのが私の主義です。
■ ■
男性がモテないのは、
顔のせいではないと、
私は思います。
私もモテませんでした。
中学・高校と彼女はできませんでした。
平成18年12月2日の日記に書いた、
高校生の法則があります。
■ ■
私が高校生の頃にモテたのは、
スポーツマンでカッコよい男子。
音楽(歌・楽器)などが上手で、
話しがうまい男子。
でした…
私のように医学部を目指して、
勉強ばかりしている男子は100%モテません。
東大や慶応を目指していた男子にも、
彼女がいませんでした。
■ ■
私は、男は顔が第一条件ではないと思います。
女性には失礼ですが、
男が女性を選ぶ時は、
まず顔や容姿が優先することもあると思います。
女性が男性を選ぶ時はどうでしょうか?
顔がマズイというより、
携帯やPCばかり見ていてキモイおたく系
だから
モテなかったのではないでしょうか?
加藤容疑者の容姿は、
悪くないと私は思いました。
昔の記憶
私の学生時代
私は、昭和45年4月から札幌に住んでいます。
その年に、札幌西高校へ入学しました。
当時は大学区制で、入学定員の3%程度までは、
北海道のどこからでも、札幌の高校へ進学できました。
一番難しかったのが、
札幌南高校、
昔は札幌一中(いっちゅう)と呼ばれていました。
その次が、
札幌北高校、昔の庁立高等女学校です。
札幌西高校は、おおよそ3番目でした。
昔の札幌二中(にちゅう)でした。
■ ■
私の父方の祖母が住んでいた、
琴似八軒(後の西区八軒)から、
一番通いやすかったのも選んだ理由の一つです。
西高は自由な雰囲気が‘売り’でした。
自分の学力と相談して、
札幌南は無理でした。
無理のないところが、札幌西でした。
■ ■
大夕張に父親を一人残して、
母親、私、弟の3人が札幌へ来ました。
今から思えば、父親には悪いことをしました。
父親は、月に1~2回、
バスで札幌へ来ました。
自家用車もありませんでした。
バスの運賃が、片道1,080円程度だったと記憶してます。
■ ■
お金がないので、
母親は、八軒にあった森永製菓の工場へ、
パートで働きに出ました。
エンゼルパイというお菓子を作っていました。
たまに、できそこないで廃棄処分にされるお菓子を、
こっそり持って帰ってくれて、
それを食べるのが楽しみでした。
■ ■
当時の日本(札幌)は、
今と比べて裕福とは言えませんでした。
トイレは汲み取り式。
道路は未舗装。
下水道はなく、ドブ川に排水を流していました。
私が高校2年生の時、昭和47年(1972年)に
札幌オリンピックがありました。
その時に、地下鉄南北線ができました。
真駒内⇔北24条でした。
■ ■
私は、高校生の時からケチでした。
ケチというより、お金がなかったので、
ケチケチ生活にならざるをえませんでした。
お金がないので、
街に出てラーメンを食べる時も、
必ず安いところで食べました。
■ ■
めったに食べませんでしたが、
市役所の食堂なんかを利用しました。
当時は滝本食品という会社が、
市役所の食堂に入っていました。
大通り公園が見える食堂で、
ラーメンが300円もしなかったと思います。
公共機関の安い食堂を利用するのは、
今でも昔のままだと、家内に言われます。
私は悪いことだとは思いません。
北大生協の食堂も好きです。
■ ■
それでも、小遣いが少なくなると…
あと500円しかないのに…
どうやって、一週間過ごそうなんて考えたものです。
街へ出かけるのにも、バスを使うとお金がかかるので、
よく自転車を利用しました。
私が尊敬する、
ニトリの似鳥昭雄社長も、
苦労した時代に、
毎日インスタントラーメンしか食べられず、
トリ目になったと言われていました。
■ ■
昔と今は違うと家内は言いますが…
人間は、一度は腹ペコになって…
あ~ぁ。
お腹すいたなぁ~
でも財布には、300円しかないから、
どうしたらこれでお腹いっぱいになれるかなぁ~?
という時期が必要だと思います。
そういう時代を過ごした人が政治家になって、
世の中をよくして欲しいと願っています。
医師も同じだと思います。
苦労を知らない人は、
人の痛みがわかる医師にはなれません。
院長の休日
アカシアの花
この道はいつか来た道
ああ_そうだよ
あかしやの花が咲いてる
「この道」という歌の一節です。
北原白秋がうたった、
「この道」は札幌の道です。
■ ■
札幌美容形成外科のある、
札幌駅前通りにも、
アカシアの並木がありました。
残念なことに…
地下歩道の建設工事で、
大部分が移植されてしまいました。
■ ■
でも…
しぶとく生き残っている木がありました。
昨日あたりから…
通勤途中に、あまい香りがします。
上を見上げてみると、
アカシアの花が咲いていました。
6月の札幌はとてもよい季節です。
‘よさこい’が終わり、
今週末からは、札幌祭りといわれる、
北海道神宮例大祭があります。
■ ■
昔は、札幌祭りの時は、
小学校も早く終わり、
医院も休診のところがありました。
今は、‘よさこい’が有名で、
お祭りは影が薄いのですが、
中島公園には出店が並びます。
私は、このアカシアの咲く季節が好きです。
緑がキレイな時期です。
■ ■
北海道には梅雨がありません。
さわやかな季節です。
アカシアの花と、
札幌駅前通りの写真を撮ってきました。
航空運賃も安い時期です。
さわやかカントリー北海道へいらしてください。
お待ちしております。
■ ■

アカシアの花

札幌駅前通り
雪印パーラーのビルの3階が
札幌美容形成外科です
ビルの左側にある木が
アカシアの木です
下を通るとあまい香りがします
院長の休日
生協の白石さん
平成20年6月8日、朝日新聞朝刊の記事です。
ブログ「生協の白石さん」に幕
火付け役の学生就職で更新終了
東京農工大(東京都小金井市、府中市)で3年前、
学生からの質問に対するユニークな回答が話題になった
「生協の白石さん」。
新聞やテレビにも採り上げられ、
学生とのやりとりをまとめた本
「生協の白石さん」(講談社)は
93万部のベストセラーになった。
このブームの火付け役となったプログが、
運営していた同大学生の卒業と同時に
今春に終了した。
■ ■
「生協の白石さん」とは
東京農工大生協職員の白石昌則さん(38)。
学生が生協への要望や質問を寄せる
「ひとことカード」で、
「問 愛は売っていないのですか…?
答 どうやら、愛は非売品のようです。
もし、どこかで販売していたとしたら、
それは何かの罠かと思われます。
くれぐれもご注意ください」
など軽妙な回答が反響を呼んだ。
■ ■
当時工学部2年生だっだ上条景介さん(23)が
2005年、白石さんの了解を得てプログで回答を紹介し、
多い日には10万件のアクセスを数える
人気プログとなった。
上条さんは生協に通って数日に1度の割で
「ひとことカード」の回答を紹介していたが、
この春大学を卒業、
就職するため、
3月末でプログの更新をやめた。
■ ■
3年間で取り上げた回答は320件。
最後のページには
「いつもとても癒やされた」
「上質の笑いを提供してくれてありがとう」
「もう白石さんの律義なコメントが楽しめないのかと思うと、
とっても悲しい」
など約270件の書き込みが寄せられた。
■ ■
4月からネット関連の会社に勤める上条さんは
「さびしいけれど区切りは必要。
学ぶことの多い3年間でした」
と振り返る。
白石さんは
「外に発信してもらったことで、
自分も視野が広がった。
業務の一環として
ひとことカードは今も書いております」。
プログ(http://shiraishi.seesaa.net/)は
閉鎖していないため閲覧はできる。
(芳垣文子)
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
北大生協にもひとことカードがあります。
白石さんのようなカードはありませんが、
北部店の食堂のカードには、
生協も変わったものだ…
と思わせる、的確なカードがありました。
学生さんの要望に真摯に答えていました。
■ ■
私も「白石さん」を読んでみました。
さすがに面白い。
また毎日が短いので読みやすい。
参考にさせていただきます。
一部を引用させていただきます。
ひとことカード 2006年12月17日
Q:なぜうちの生協の職員の方には
美人の女性が多いのですか?(吉田さんラブ)
A:(白石さん)ありがとうございます。
当生協にて勤務する全ての女性にとっての
励みとなりました。
日頃クールなさすがの吉田も、
口角が上がっておりました。
何でも農工大生の皆さんは矯正視力の方々が多いとの事。
眼力が確かであるという裏付けでもあり、
喜ばしい限りです。
このようなお褒めのお言葉が、
美を保つことに不可欠だと思う次第です。(白石)
管理人:
女性は褒めれば褒めるほどキレイになる、
そんなことを先日教えられ、
早速仲の良い友人で実験し始めたのは、
つい1週間前。
ボキャブラリーが少ない私は、
かける言葉がなくなり早くもダウンしかけています。
しかし、
できるのならこの機会に褒め上手な男になりたい、
そんな下心丸出しの野望を持つ今日この頃です。
そう、目標は石田純一。
私の憧れの存在です。
■ ■
めでたく社会人となられた、
管理人の上条景介さんは、
石田純一さんになれたでしょうか?
この生協の白石さんも
毎日真面目に仕事をしていらした方です。
学生さんの、不躾な質問にも
真摯(しんし)に回答していたので、
後世に残る、本まで出版されました。
■ ■
私は、お会いしたことはなく、
本も買っていませんが、
ブログを拝見しただけで
その姿勢が伝わってきました。
私の日記も、いつかどこかで、
誰かのお役に立てるように…
と思って、毎日書いています。
今日も最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
院長の休日
「ありがとう」で変わる
平成20年6月6日、朝日新聞夕刊の記事です。
「ありがとう」で変わる
語る人
京セラ名誉会長 稲盛和夫さん
心地よく、周囲も優しく、生活潤う
勝つか負けるか。
厳しい競争でぎりぎりの日常は、
「ありがとう」という言葉で変えられると、
京セラ名誉会長で僧侶の稲盛和夫さん(76)は言う。
自分以外のすべてに感謝することで、
挫折続きの人生が本当に一変したという。
(織弁優佳)
■ ■
――苦しい時に「ありがとう」なんて言えるでしょうか。
不平、不満が募る悪循環から抜け出す時が、
一番大変です。
空襲で丸焼けになった鹿児島から、
私が京都に出てきたのは1955年。
家は貧しい。
受験はことごとく失敗。
大学を出たら就職難。
やっと入った会社はつぶれそう。
これが不平を言わずにおれますか。
■ ■
同期がみんな辞めて不満を言う相手もなくなり、
仕方なく仕事に気持ちを向けた。
エレクトロニクス用の絶縁材料の開発です。
本気になると時間が惜しくなって研究室に泊まり込む。
上司が様子を見に来る。
良いデータが出れば、
「よかったね」と声がかかる。
いよいよ張り切る。
こうして新しいファインセラミックス材料の合成に成功し、
それがテレビのプラウン管部品に採用された。
逆境のままでしたが、
ここから「善の循環]が始まりました。
■ ■
――好調だと今度はおごりが出そうです。
努力の結果だとうぬぼれたい時も、
幸運には感謝できるでしょ?
いい時も悪い時も、
ウソでもいいから「ありがとう」と言ってみる。
まず自分が心地よい。
明るくなって周囲も優しくなり、
生活にうるおいが満ちてくる。
この快感は、
欲望を満たした時とは違ってさわやか。
これが心を磨くことなんです。
■ ■
人生とは一生かけて心を磨くこと。
だから死に旅立つ前に、
宗教の本を読み、
じっくり人間を勉強する静かな時間を持ちたかった。
65歳でようやく、
京都の寺で得度を果たす
(仏門に入る)と、
尊敬する老師に
「あなたは社会に出て役立つことが仏の道」
と言われた。
それで経営の一線を退き、
学術・文化を応援する財団の運営や、
家庭に恵まれない子を支える施設づくりなどに
力を入れています。
■ ■
――お金がないとできませんね。
懸命の努力で京セラが成長し、
私は「お金持ち」になりました。
たまたま手にした財産は預かり物だと思うから、
どんどん世の中に還元する。
心も磨かれる。
でも、少ない中から少し寄付しても同じことです。
■ ■
――日常に追われ、
心を思う余裕がありません。
私も現役時代は忙しく、
重圧がかかる毎日でした。
でも、
会社が急速に発展していった40代半ばから、
瞑想のまねごとをした。
毎晩寝る前に深呼吸して声に出して
「ありがとうありがとう……]と唱える。
それだけで波だった心が静まりました。
■ ■
若いころ、
来る日も来る日もセラミックの材料を
砕いて焼いて、
一生このままうだつが上がらないのかと
思い悩んだこともありました。
でも、
地味な仕事を積み上げるしかないと、
今では分かる。
こういう真理は、
経験した者が若い人にこんこんと教えるしかない。
■ ■
――思いが伝わらない相手もいると感じてしまいます。
研究が難航していた時、よそからきた上司と衝突しました。
すると仲間7人が私と一緒に退社し、
出資者を探し、
「稲盛の技術を世に問う」と会社をつくってくれた。
おりがたくて、懸命に頑張りました。
これが京セラの始まりです。
まだ20代の終わりでした。
■ ■
「自分の夢」から「従業員の生活」に
ところが創業3年目に、
若い社員たちに将来の待遇を保証しろと要求された。
全力を尽くすからついてきてくれとしか約束できない、
と説くうちに
「技術で勝負」という気負いが消え、
「自分の夢より、従業員の生活を守るのが経営者だ」
と思うようになった。
思えば、それは利己から利他への転換でした。
それからは社員に媚びなくなった。
「お前らのためにこっちは頑張ってるのに、
さぼるとは何事だ!」と言えるわけ。
■ ■
――「全力」を求めるのは、競争に勝つためですか。
努力は「負けないため」ではなく「生きるため」。
先日、道ばたの石垣で咲く小さな花を見つけ、
わずかなすき間に根を生やした命のたくましさに
胸を打たれました。
自然界は必死でないと生き残れない。
私は必死の努力で、
不可能が可能になる瞬間を味わってきた。
「強者に負けた」ようでも、
「生きる努力が足りない」から敗者になる。
敗れても人生が終わるわけじゃない。
そこで気付くことがあれば、
次は必死になり、
生きていることを実感できます。
(以上、朝日新聞から引用)
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平成18年11月15日の日記、ニトリ寄附講座で、
ニトリの似鳥昭雄社長が、
社員や奥様に声を出して、
「ありがとう」と言われると書きました。
大物の社長さんは、
しっかりと「ありがとう」と言えるのが条件のようです。
確かに、いい言葉です。
今日も、この新聞記事を手にして
家内に言われました。
『あんたは、私にありがとうと言わない!』
■ ■
娘の件で、最近、またゴタゴタしています。
家内と口論もあります。
こうも言われます。
『あんたは、病院ではいい顔ばかりしているけど…』
『家では、何も言わない。』
『機嫌が悪く、日記の中とは別人だ!』
まあ、こう言われても仕方がないところもあります。
とにかく、休みなく働いていて、
娘のことでゴタゴタしているので疲れます。
■ ■
手術をしている時は、
それなりに緊張感があり、
手術がうまくいって、
「ありがとうございました」と言われると
疲れも吹き飛びます。
職員もテキパキ働いてくれるので、
感謝して『ありがとう』と自然に言えます。
開業してからは、自然と、お客様に
『ありがとうございました。』
『お気をつけてお帰りください。』
と言えるようになりました。
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昨日の日記に、娘のことを書いたら、
たくさんのコメントをいただきました。
さくらんぼさんをはじめ、
ご心配いただき、
本当にありがとうございます。
私のガンコDNAが娘にも遺伝しているので、
簡単には回復しそうにありません。
こうして、日記に書くことで
少しでも冷静に分析・判断をしてみたいと考えています。
稲盛さんのように、
温和な顔になるには時間がかかりそうですが、
生きる努力をしてみようと思います。

いなもり・かずお
1932年生まれ。
鹿児島大工学部卒。
京セラ名誉会長、
KDDI最高顧問、
稲盛財団理事長。
京セラ本社には、
仲間7人と創業した時に掲げた
「敬天愛人」の額が今も
=京都市、伊ケ崎忍撮影
(以上、朝日新聞より引用)
未分類
子どもの教育
平成20年6月7日、北海道新聞朝刊の記事です。
札幌圏、親の懐苦しくて
私大生仕送り年91万円
2007年入学、2番目の低さ
道私大助成推進協議会(札幌)は6月6日、
2007年春に札幌圏の私立大に入学した
学生の親の年収が平均で732万円、
仕送り額は年91万6千円と、
ここ10年では2006年に次ぎ
二番目の低い水準になったと発表した。
■ ■
同協議会は
「親の経済状況の悪化で授業料滞納や中退が急増し、
私大経営を直撃している」として、
私大助成の増額を訴えている。
調査は北海学園大や札幌学院大など
同協議会を構成する5大学・4短大の
入学者7,042人の親を対象に実施。
1,083人から回答を得た。
回収率は15%。
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親の年収は1998年の833万円をピークに減少に転じ、
2006年に最低の673万円を記録。
仕送り額も1998年の年129万円から
2006年に87万6千円まで落ち込んだ。
同協議会は道内の不況に加え、
少子化による「大学全入」時代の到来で
低所得層からの進学が増えている影響とみている。
■ ■
2007年は年収、仕送り額ともに
増加したことについては
「調査した昨夏の時点では
景気回復局面にあった影響もある。
長期的には減少傾向に
歯止めがかかっていない」としている。
(以上、北海道新聞より引用)
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親にとって子どもの学資を出すのは大変です。
私の親は、
私と私の弟の学資を出すのに…
父親は大夕張で単身赴任して寮生活。
母親は、
森永製菓のお菓子工場のパート(不況でリストラ)→
生命保険の外交員→
財形貯蓄の勧誘員という、
仕事をしながら、生活費を稼いでくれました。
■ ■
私の父親は、私と弟の教育のために
16年間も夕張の炭鉱病院で一人暮らしで働いてくれました。
父親とは、よく喧嘩をしましたが、
子どもの教育のために、
自分の生活を犠牲にして働いてくれたことに、
感謝しています。
米国では、
大学生は自分の学費をローンで払うのが当たり前。
そのローンを返済するのが大変と、
NHKのビジネス英語会話で聞きました。
■ ■
米国流に、成人しているのだから…
自分の学資くらい、自分で稼ぐのが当たり前。
という考えも正しいと思います。
札幌美容形成外科で採用した多くの看護師さんは、
奨学金をもらって、資格を取得していました。
とても立派なことだと思います。
そういう人は、お金のありがたみをよく知っています。
無駄遣いもしません。
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私は、自分の学資や教科書代は、
親に出してもらいました。
ですから、自分の子どもの教育費も私が払いました。
医師といえども、教育費を払うのは大変です。
特に、私立大学の授業料は高く、
入学時だけで200万円近くかかりました。
私は、学資を稼ぎ出すために、
休みの日も当直をして働きました。
■ ■
私の友人の医師も、
子どものためにたくさんお金を使っています。
子どもは気づいていないと思いますが、
お金を稼ぐのは大変なことです。
本間家では、
私が命令して学校へ行かせたのではありません。
子どもが学校へ行きたいと言ったので、
少しでも社会の役に立つような人間になれるよう、
援助したのです。
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娘と言い合いなった時に、
子どもの学資を出すのは親として当然。
というようなことを言われました。
娘は頭が悪かった上に、満足に勉強をしませんでした。
志望校には到底合格できる学力がありませんでした。
勉強ができなかったので、
家庭教師の先生をお願いして、
ようやく合格できたのが娘でした。
高校では、奇跡の合格と言われたそうです。
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成人したら何をしようと本人の自由だそうです。
何をしても、本人の自己責任。
ただ、
成人した後も、
学資や生活費を出したのは親の私です。
少なくとも、
学校へ行かせてもらったこと、
資格を取得させてもらったこと、
については感謝してもらって当然だと思います。
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私は、曲がったことや間違ったことは大嫌いな人間です。
たとえ実の娘でも許しません。
家内は育て方を間違ったと言っています。
私は今からでも、お金の大切さ、
働いてお金を得ることの大変さを
娘に知らしめる考えです。
それが、信頼の絆を切られても、
親としてしなければならないことだと固く信じています。
親を怒らせたり、悲しませたりする娘は最低です。