院長の休日

仕事の喜び

 昨日、さくらんぼさんから
 コメントをいただきました。
 植物や動物を育てたり飼ったりする事は好きでも
 仕事となると また 別で
 農家も 労働時間と 収入が見合えば
 息子にも 継いで欲しいと思うかもしれませんが、
 私の代の方より下の後継者はほとんどいません。
      ★         ★
 私も手術をこんなにする前は
 草刈り機械で草刈りをしたり
 朝 四時から
 収穫期は夜中まで
 作業していましたが、
 体に無理が くるし
 主人だけに負担をかけてしまうので
 慣れた人を頼んでいます。
      ★         ★
 それでも
 今は 病院に診察に行く日くらいしか
 休み?がないです。
 母は 私たちが 若い時は
 三時に起きて仕事した。
 などと言ってます。
 なんだか 愚痴になってしまいました。
      ★         ★
 でも 私の家は 超忙しいけれど
 収穫の時期は 他県に配達に行く事も 多く
 たくさんの 人と触れ合い
 帰りは 美味しい 海鮮丼など 食べたりできるので
 息抜きもできます。

      ■         ■
 私の仕事も年中ヒマなしです。
 夜間の呼び出しはなくなりましたが、
 メールの返信は深夜になることもあります。
 私は、仕事をためるのがイヤなので、
 今日できることは、
 すぐにやる主義です。
 勤務医の時も、
 開業してからも、
 医師に労働基準法はないと思っています。
      ■         ■
 私のような開業医は、
 極小企業の経営者です。
 農家の方も、個人事業主ですね。
 経営者や個人事業主に、
 労働基準法はありません。
 好きで選らんだ職業だからやってられます。
 大企業になられた、
 ニトリの似鳥昭雄社長も、
 休みなく働いていらっしゃいます。
      ■         ■
 似鳥昭雄社長は、
 母校の北海学園大学で、
 教鞭までとられています。
 本当に大変なことだと思います。
 ニトリさんは、
 日本の暮らしを豊かにして、
 お客様に喜んでいただくという、
 夢とロマンが企業のバックボーンです。
      ■         ■
 私は、人をキレイにして、
 お客様に喜んでいただく。
 さくらんぼさんは、
 美味しい、フルーツを作って
 消費者の方に喜んでいただく。
 これが、生きがいだから…
 辛い高所作業もできるのだと思います。
      ■         ■
 さくらんぼさんに
 サクランボを送っていただきました。
 今まで見たこともないような…
 一度も食べたことがないような…
 超高級で、
 美味しいサクランボでした。
 今日も作業を頑張ってください!
 辛い作業でも、
 確実に実を結ぶことができるのは、
 素晴らしいことだと思います。
 


宝石のようなサクランボ
ありがとうございました!

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院長の休日

おやじのせなか

 平成20年6月15日、朝日新聞の記事です。
 おやじのせなか
 寺脇 研
 偉大な反面教師だった
 父は医者でした。
 医者というより医学部の教授でした。
 強烈な上昇志向の持ち主で、
 鹿児島の農村から苦学を重ねて
 九州大医学部講師になり、
 後に九大総長となる恩師の娘、
 私の母と結婚しました。
      ■         ■
 長男の私を、なんとしても医学部の教授にしたかった。
 勉強して役に立てというより、
 偉くなれ、
 自分より偉くなれという感じでした。
 父が鹿児島大医学部教授のとき、
 私は中高一貫の私学の進学校に
 トップで合格しました。
      ■         ■
 自慢の息子だったのは、
 そこまでです。
 勉強しないもんだから成績は急降下。
 高校の卒業時は生徒250人中230番台でした。
 父は怒りました。
 私の部屋を監視し、
 文学本ばかり読んでいるといって
 本棚をひもでぐるぐる巻きにして封印したり、
 凝っていた将棋盤と駒を捨てたり。
      ■         ■
 こっちは医者になる気はなく、
 苦しくて自殺まで考えたけど、
 やがて父を欺く術を身につけました。
 ふすまに細工をして「ギー」と音が鳴るようにしました。
 父の急襲をいち早く察知して、
 勉強のふりをする時間を稼ぎます。
      ■         ■
 土曜の夜には家を抜け出して
 オールナイトの映画館に入り浸りました。
 早朝に帰ると
 「徹夜で勉強した」と言って
 日中に寝ます。
 父は最後まで、
 私の真の姿に気づきませんでした。
 運よく東大にひっかかり、
 キャリア官僚にもなって、
 そのたびに手放しで喜ぶ父を
 私はしらけた気分で見ていました。
      ■         ■
 私はやりたいことをやって生きていく。
 栄達を望む父と意気投合することは、
 一度もありませんでした。
 無趣味で仕事人間の父は、
 大学を退くと何もやることがなかった。
 そのとき、
 初めてむなしさを感じたようです。
      ■         ■
 テレビで夜遅く電車に乗る塾帰りの子どもを見て、
 言ってました。
 「いかん。
 私のようになるぞ。
 おまえ、
 なんとかしろ」
 と。
      ■         ■
 72歳のとき、
 老衰で死にました。
 その後読んだ教授時代の日記に
 「もっと頑張って、
 日本一の学者に、
 いや世界一の学者に」
 とありました。
      ■         ■
 裏表がなく、
 自分の素をさらけ出して生きた人でした。
 それでよかったんだ、
 と思います。
 ある意味、
 私と同じ。
 その素は、
 南極と北極ぐらいの違いがあったけど。
 偉大なる反面教師でした。
 (聞き手・大出公二)
(以上、朝日新聞より引用)

      ■         ■
 今日は父の日です。
 私の父は82歳です。
 私の父は、私が大学受験をする時に、
 医師ではなく、
 弁護士になれと言っていました。
 自分が法律を知らなくて、
 土地をだましとられたため、
 私が小学1年生の時に、
 NHKの大学講座で、
 法律を勉強していました。
      ■         ■
 NHKで勉強していた、
 おやじのせなかを見て育った私は、
 今でも、NHKで英語会話を勉強しています。
 中学生の時には、
 NHKの中学生の勉強室という、
 ラジオ講座で勉強しました。
 大学受験の時には、
 旺文社の大学受験ラジオ講座を利用しました。
      ■         ■
 知らず知らずのうちに…
 おやじのせなかを見て、
 子どもは育つものだと思っていました。
 私は大学を追い出されて、
 ひどい目に遭いました。
 ですから、
 息子を医学部の教授にしたいと思った、
 この寺脇先生の
 お父さんの気持ちがわかりません。
      ■         ■
 『末は博士か大臣か?』
 昔の人は、
 立身出世を夢見てこう言ったそうです。
 私は医学博士の学位をいただきましたが、
 それは研究した成果のしるしであり、
 別に偉くもなんともありません。
 それで生活が楽になったこともありません。
 内閣総理大臣になっても大変そうです。
 支持率低迷で四苦八苦ですね。
      ■         ■
 私は美容外科という仕事が好きなのでしています。
 子どもは、
 自分で好きなことを見つけて、
 それをするのがよいと思います。
 親から強制されても、
 長続きしません。
      ■         ■
 私が高校生の時になりたかったのは、
 パイロットでした。
 パイロットになった友人に聞くと…
 パイロットも大変そうです。
 自分が好きな仕事をして、
 人に喜んでいただけるのが
 一番幸せだと思います。 
      ■         ■
 追記:
 東北地方の地震で被害に遭われた方に
 お見舞い申し上げます。
 さくらんぼさんはご無事で、
 今日もお仕事をなさっていらっしゃるそうです。

 


寺脇 研
てらわき・けん
映画評論家、
京都造形芸術大学教授。
文部科学省元大臣官房審議官。
在職当時、「ゆとり教育」を推進し、
「ミスター文部省」とも呼ばれた。
近著に
「官僚批判」(講談社)。
55歳。
上田潤撮影
 (以上、朝日新聞より引用)

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医学講座

容姿の悩み

 美容外科は容姿(外貌)を変える診療科目です。
 キレイにするのが仕事です。
 私がこの仕事を選んだのは、
 少年時代(大夕張の鹿島中学校)で、
 『イカリヤ長介』とあだ名をつけられたことが、
 心の底で関係していると思います。
      ■         ■
 私は中学校1年の5月に、
 美唄市(びばいし)茶志内(ちゃしない)中学校から、
 大夕張(おおゆうばり)の鹿島中学校へ転校しました。
 私は長髪だったのですが、
 鹿島中学校では、
 坊主頭が‘標準’でした。
 長髪(といってもごく普通の頭)の転校生は、
 格好のいじめの対象でした。
      ■         ■
 私は、学校で言われるようになってから、
 自分の下くちびるが気になるようになりました。
 たまに札幌へ出ると、
 ススキノ交差点の角に…
 『中央整形』と書かれた、ビルがありました。
 今のロビンソン百貨店がある場所に、
 三谷ビルというビルがありました。
 そこで、開業なさっていらしたのが、
 武藤靖夫先生でした。
      ■         ■
 形成外科医になってから、
 はじめて武藤先生にお会いしました。
 私の父と同じ年令で、大大先輩です。
 現在は、時計台の向いで
 息子さんの、武藤英生先生が後を継がれ、
 札幌中央形成外科を開業なさっていらっしゃいます。
 親子、お二人とも温和で優しい先生です。
 英生先生のブログもあります。
      ■         ■
 武藤先生(父)に
 このことをお話ししたことがありました。
 先生は、
 『そんなことがあったのですか?』
 と笑っていらっしゃいました。
 中学生だった私は、
 勇気もお金もなかったので、
 中央整形へは行きませんでした。
 当時はメールで相談するシステムもありませんでした。
      ■         ■
 下くちびるが出ていると言われると…
 余計に気になるものです。
 当時の写真を見ると…
 必ず、下くちびるを…
 ギュっとして写真を撮っています。
 ですから余計に目立ちます。
 級友も、私が気にするのをおもしろがって
 言わなくてもいいことを言います。
      ■         ■
 私は、中央整形を受診しませんでしたが、
 もし、受診していたとしても、
 武藤先生は手術はすすめなかったと思います。
 ですから、お会いした時に
 笑ってお話しされたのです。
 このように、
 ちょっとしたことでも、
 何気なく他人から指摘されて気になることがあります。
      ■         ■
 このような悩みは誰にでもあります。
 確かに、美容外科の技術で解決できるもの、
 美容外科で治した方がよいものもあります。
 ただ、私の下くちびるのように…
 友人の
 『本間、そんなの気にすんな!』
 という一言で救われることもたくさんあります。
 上手な美容外科にかかることも大切ですが、
 よい友人を持つことは…
 それ以上に大切だと思います。
 人間は誰でも悩みがあり、
 一人では解決できないことがたくさんあります。

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昔の記憶

札幌西高の想い出

 私が札幌西高校へ入学したのが、
 昭和45年(1970年)4月でした。
 今から38年前です。
 自由な雰囲気の高校でした。
 当時はまだ制服がありました。
 黒の学生服に3本の白い線が入った学生帽です。
      ■         ■
 学生服のボタンだけが、
 西高のマークがついたボタンになり、
 帽子には、西高の校章がつきました。
 当時、3本線が入った帽子を被っているのは、
 中学生でした。
 ですから、高校生になっても3本線は西高だけ。
 逆に目立っていました。
      ■         ■
 一学年の定員は450人でした。
 45人ずつ、10クラスありました。
 男子が約300人。
 女子が約150人でした。
 数からいって、
 約半分は彼女ができない組です。
 私は、彼女ができない組でした。
      ■         ■
 西高は、自由な校風の高校でした。
 ある同期(男性)が言っていましたが…
 高校に入学すると…
 3年生の先輩とかが…
 男子と女子が手をつないで通学…
 この光景を見て、
 カルチャーショックを受けたと言っていました。
      ■         ■
 入学して私は1年8組になりました。
 橋本順子(はしもとまさこ)先生という、
 世界史の先生が担任でした。
 『順子と書いて、まさこと読みます。』
 というのが最初の挨拶でした。
 はっきりと、ものを言う先生でした。
 東京のお茶の水女子大卒の、
 頭のよい先生でした。
      ■         ■
 大夕張の田舎から出て来て、
 毎日、バスで通学するだけで大変でした。
 とにかく人が多いのに驚きました。
 毎日、通学だけで疲れました。
 その上、勉強はできず…
 英語の暗記はできず…
 高校に入ってから、劣等生になりました。
      ■         ■
 中学校から選抜された450人が集まったのです。
 正規分布した母集団です。
 大夕張では、成績が優秀だったとしても…
 高校に入ってから成績が落ちるのは、
 当然と言えば当然の結果です。
 彼女はできませんでしたが、
 友人はすぐにできました。
 お前、英語の暗記できた?
 できねぇ~。
 勉強しようと思ったけど、寝ちゃった。
      ■         ■
 男同士でも楽しい高校生活でした。
 友人にも彼女はいませんでした。
 だから、
 彼女がいなくても…
 自分が価値のない人間とは思いませんでした。
 秋葉原の無差別殺人の加藤容疑者。
 彼女がいないことより、
 男性の親友がいなくて、
 携帯とPCが親友だったことが…
 孤立を深めた原因だったと思います。

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医療問題

男は顔か?

 東京・秋葉原の無差別殺人。
 亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りいたします。
 ケガをされた方々は、
 一日も早く快復できるようお見舞い申し上げます。
      ■         ■
 逮捕された加藤智大容疑者(25)が、
 【友達できない】不細工に人権無し【彼女できない】
 というスレッドを立てて、
 自分のコンプレックスを吐露し続けたといいます。
 男も不細工だと、彼女ができないのでしょうか?
 美容外科を生業とする私には、
 ちょっと気になることです。
      ■         ■
 札幌美容形成外科にも、
 たまに男性が来院されます。
 来院なさるのは90%以上が女性です。
 男性は多くはありません。
 目をなおして欲しい、
 鼻を高くして欲しい、
 という男性がいらっしゃることもあります。
      ■         ■
 平成19年10月9日の日記に書きました。
 日本美容外科学会で、
 北里大学名誉教授の塩谷先生が発言されました。
 注意して施術すべきなのは、
 40~50年前の米国での調査でも、
 男性の鼻の手術だったそうです。 
 男性でも隆鼻術をなさって、
 見事にイケメンになっていらっしゃる方がいるのは事実です。
      ■         ■
 ただ、私自身は、
 男性の隆鼻術は、
 事故などで鼻が変形した方など
 ごく限られた例にしか施術していません。
 男性でも、
 目の手術はたくさんしています。
 特に眼瞼下垂症手術は、
 若年層から高齢の方まで、
 たくさんの方に施術しています。
 みなさん、とても(ものが)見やすくなったと好評です。
 奥様や彼女(娘さん)の評判もよいそうです。
      ■         ■
 たまに、加藤容疑者のように、
 「自分の人生がうまくいかないのは、
 自分の顔が悪いからです。」
 目も鼻も全部一度になおして下さい、
 という男性がいらっしゃいます。
 私は、施術するとしても一度にはしません。
 元に戻せるような手術から、
 少しずつ‘お直し’するのが私の主義です。
      ■         ■
 男性がモテないのは、
 顔のせいではないと、
 私は思います。
 私もモテませんでした。
 中学・高校と彼女はできませんでした。
 平成18年12月2日の日記に書いた、
 高校生の法則があります。
      ■         ■
 私が高校生の頃にモテたのは、
 スポーツマンでカッコよい男子。
 音楽(歌・楽器)などが上手で、
 話しがうまい男子。
 でした…
 私のように医学部を目指して、
 勉強ばかりしている男子は100%モテません。
 東大や慶応を目指していた男子にも、
 彼女がいませんでした。
      ■         ■
 私は、男は顔が第一条件ではないと思います。
 女性には失礼ですが、
 男が女性を選ぶ時は、
 まず顔や容姿が優先することもあると思います。
 女性が男性を選ぶ時はどうでしょうか?
 顔がマズイというより、
 携帯やPCばかり見ていてキモイおたく系
 だから
 モテなかったのではないでしょうか?
 加藤容疑者の容姿は、
 悪くないと私は思いました。

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昔の記憶

私の学生時代

 私は、昭和45年4月から札幌に住んでいます。
 その年に、札幌西高校へ入学しました。
 当時は大学区制で、入学定員の3%程度までは、
 北海道のどこからでも、札幌の高校へ進学できました。
 一番難しかったのが、
 札幌南高校、
 昔は札幌一中(いっちゅう)と呼ばれていました。
 その次が、
 札幌北高校、昔の庁立高等女学校です。
 札幌西高校は、おおよそ3番目でした。
 昔の札幌二中(にちゅう)でした。
      ■         ■
 私の父方の祖母が住んでいた、
 琴似八軒(後の西区八軒)から、
 一番通いやすかったのも選んだ理由の一つです。
 西高は自由な雰囲気が‘売り’でした。
 自分の学力と相談して、
 札幌南は無理でした。
 無理のないところが、札幌西でした。
      ■         ■
 大夕張に父親を一人残して、
 母親、私、弟の3人が札幌へ来ました。
 今から思えば、父親には悪いことをしました。
 父親は、月に1~2回、
 バスで札幌へ来ました。
 自家用車もありませんでした。
 バスの運賃が、片道1,080円程度だったと記憶してます。
      ■         ■
 お金がないので、
 母親は、八軒にあった森永製菓の工場へ、
 パートで働きに出ました。
 エンゼルパイというお菓子を作っていました。
 たまに、できそこないで廃棄処分にされるお菓子を、
 こっそり持って帰ってくれて、
 それを食べるのが楽しみでした。
      ■         ■
 当時の日本(札幌)は、
 今と比べて裕福とは言えませんでした。
 トイレは汲み取り式。
 道路は未舗装。
 下水道はなく、ドブ川に排水を流していました。
 私が高校2年生の時、昭和47年(1972年)に
 札幌オリンピックがありました。
 その時に、地下鉄南北線ができました。
 真駒内⇔北24条でした。
      ■         ■
 私は、高校生の時からケチでした。
 ケチというより、お金がなかったので、
 ケチケチ生活にならざるをえませんでした。
 お金がないので、
 街に出てラーメンを食べる時も、
 必ず安いところで食べました。
      ■         ■
 めったに食べませんでしたが、
 市役所の食堂なんかを利用しました。
 当時は滝本食品という会社が、
 市役所の食堂に入っていました。
 大通り公園が見える食堂で、
 ラーメンが300円もしなかったと思います。
 公共機関の安い食堂を利用するのは、
 今でも昔のままだと、家内に言われます。
 私は悪いことだとは思いません。
 北大生協の食堂も好きです。
      ■         ■
 それでも、小遣いが少なくなると…
 あと500円しかないのに…
 どうやって、一週間過ごそうなんて考えたものです。
 街へ出かけるのにも、バスを使うとお金がかかるので、
 よく自転車を利用しました。
 私が尊敬する、
 ニトリの似鳥昭雄社長も、
 苦労した時代に、
 毎日インスタントラーメンしか食べられず、
 トリ目になったと言われていました。
      ■         ■
 昔と今は違うと家内は言いますが…
 人間は、一度は腹ペコになって…
 あ~ぁ。
 お腹すいたなぁ~
 でも財布には、300円しかないから、
 どうしたらこれでお腹いっぱいになれるかなぁ~?
 という時期が必要だと思います。
 そういう時代を過ごした人が政治家になって、
 世の中をよくして欲しいと願っています。
 医師も同じだと思います。
 苦労を知らない人は、
 人の痛みがわかる医師にはなれません。

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院長の休日

アカシアの花

 この道はいつか来た道
 ああ_そうだよ
 あかしやの花が咲いてる
 「この道」という歌の一節です。
 北原白秋がうたった、
 「この道」は札幌の道です。
      ■         ■
 札幌美容形成外科のある、
 札幌駅前通りにも、
 アカシアの並木がありました。
 残念なことに…
 地下歩道の建設工事で、
 大部分が移植されてしまいました。
      ■         ■
 でも…
 しぶとく生き残っている木がありました。
 昨日あたりから…
 通勤途中に、あまい香りがします。
 上を見上げてみると、
 アカシアの花が咲いていました。
 6月の札幌はとてもよい季節です。
 ‘よさこい’が終わり、
 今週末からは、札幌祭りといわれる、
 北海道神宮例大祭があります。
      ■         ■
 昔は、札幌祭りの時は、
 小学校も早く終わり、
 医院も休診のところがありました。
 今は、‘よさこい’が有名で、
 お祭りは影が薄いのですが、
 中島公園には出店が並びます。
 私は、このアカシアの咲く季節が好きです。
 緑がキレイな時期です。
      ■         ■
 北海道には梅雨がありません。
 さわやかな季節です。
 アカシアの花と、
 札幌駅前通りの写真を撮ってきました。
 航空運賃も安い時期です。
 さわやかカントリー北海道へいらしてください。
 お待ちしております。
      ■         ■
 


アカシアの花

 


札幌駅前通り
雪印パーラーのビルの3階が
札幌美容形成外科です
ビルの左側にある木が
アカシアの木です
下を通るとあまい香りがします

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院長の休日

生協の白石さん

 平成20年6月8日、朝日新聞朝刊の記事です。
 ブログ「生協の白石さん」に幕
 火付け役の学生就職で更新終了
 東京農工大(東京都小金井市、府中市)で3年前、
 学生からの質問に対するユニークな回答が話題になった
 「生協の白石さん」。
 新聞やテレビにも採り上げられ、
 学生とのやりとりをまとめた本
 「生協の白石さん」(講談社)は
 93万部のベストセラーになった。
 このブームの火付け役となったプログが、
 運営していた同大学生の卒業と同時に
 今春に終了した。
      ■         ■
 「生協の白石さん」とは
 東京農工大生協職員の白石昌則さん(38)。
 学生が生協への要望や質問を寄せる
 「ひとことカード」で、
 「問 愛は売っていないのですか…?
 答 どうやら、愛は非売品のようです。
 もし、どこかで販売していたとしたら、
 それは何かの罠かと思われます。
 くれぐれもご注意ください」
 など軽妙な回答が反響を呼んだ。
      ■         ■
 当時工学部2年生だっだ上条景介さん(23)が
 2005年、白石さんの了解を得てプログで回答を紹介し、
 多い日には10万件のアクセスを数える
 人気プログとなった。
 上条さんは生協に通って数日に1度の割で
 「ひとことカード」の回答を紹介していたが、
 この春大学を卒業、
 就職するため、
 3月末でプログの更新をやめた。
      ■         ■
 3年間で取り上げた回答は320件。
 最後のページには
 「いつもとても癒やされた」
 「上質の笑いを提供してくれてありがとう」
 「もう白石さんの律義なコメントが楽しめないのかと思うと、
 とっても悲しい」
 など約270件の書き込みが寄せられた。
      ■         ■
 4月からネット関連の会社に勤める上条さんは
 「さびしいけれど区切りは必要。
 学ぶことの多い3年間でした」
 と振り返る。
 白石さんは
 「外に発信してもらったことで、
 自分も視野が広がった。
 業務の一環として
 ひとことカードは今も書いております」。
 プログ(http://shiraishi.seesaa.net/)は
 閉鎖していないため閲覧はできる。
             (芳垣文子)
 (以上、朝日新聞より引用)

      ■         ■
 北大生協にもひとことカードがあります。
 白石さんのようなカードはありませんが、
 北部店の食堂のカードには、
 生協も変わったものだ…
 と思わせる、的確なカードがありました。
 学生さんの要望に真摯に答えていました。
      ■         ■
 私も「白石さん」を読んでみました。
 さすがに面白い。
 また毎日が短いので読みやすい。
 参考にさせていただきます。
 一部を引用させていただきます。
 ひとことカード 2006年12月17日
 Q:なぜうちの生協の職員の方には
 美人の女性が多いのですか?(吉田さんラブ)
 A:(白石さん)ありがとうございます。
 当生協にて勤務する全ての女性にとっての
 励みとなりました。
 日頃クールなさすがの吉田も、
 口角が上がっておりました。
 何でも農工大生の皆さんは矯正視力の方々が多いとの事。
 眼力が確かであるという裏付けでもあり、
 喜ばしい限りです。
 このようなお褒めのお言葉が、
 美を保つことに不可欠だと思う次第です。(白石)

 管理人:
 女性は褒めれば褒めるほどキレイになる、
 そんなことを先日教えられ、
 早速仲の良い友人で実験し始めたのは、
 つい1週間前。
 ボキャブラリーが少ない私は、
 かける言葉がなくなり早くもダウンしかけています。
 しかし、
 できるのならこの機会に褒め上手な男になりたい、
 そんな下心丸出しの野望を持つ今日この頃です。
 そう、目標は石田純一。
 私の憧れの存在です。

      ■         ■
 めでたく社会人となられた、
 管理人の上条景介さんは、
 石田純一さんになれたでしょうか?
 この生協の白石さんも
 毎日真面目に仕事をしていらした方です。
 学生さんの、不躾な質問にも
 真摯(しんし)に回答していたので、
 後世に残る、本まで出版されました。
      ■         ■
 私は、お会いしたことはなく、
 本も買っていませんが、
 ブログを拝見しただけで
 その姿勢が伝わってきました。
 私の日記も、いつかどこかで、
 誰かのお役に立てるように…
 と思って、毎日書いています。
 今日も最後まで読んでいただき、
 ありがとうございました。

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院長の休日

「ありがとう」で変わる

 平成20年6月6日、朝日新聞夕刊の記事です。
 「ありがとう」で変わる
 語る人
 京セラ名誉会長 稲盛和夫さん
 心地よく、周囲も優しく、生活潤う
 勝つか負けるか。
 厳しい競争でぎりぎりの日常は、
 「ありがとう」という言葉で変えられると、
 京セラ名誉会長で僧侶の稲盛和夫さん(76)は言う。
 自分以外のすべてに感謝することで、
 挫折続きの人生が本当に一変したという。
 (織弁優佳)
      ■         ■
 ――苦しい時に「ありがとう」なんて言えるでしょうか。
 不平、不満が募る悪循環から抜け出す時が、
 一番大変です。
 空襲で丸焼けになった鹿児島から、
 私が京都に出てきたのは1955年。
 家は貧しい。
 受験はことごとく失敗。
 大学を出たら就職難。
 やっと入った会社はつぶれそう。
 これが不平を言わずにおれますか。
      ■         ■
 同期がみんな辞めて不満を言う相手もなくなり、
 仕方なく仕事に気持ちを向けた。
 エレクトロニクス用の絶縁材料の開発です。
 本気になると時間が惜しくなって研究室に泊まり込む。
 上司が様子を見に来る。
 良いデータが出れば、
 「よかったね」と声がかかる。
 いよいよ張り切る。
 こうして新しいファインセラミックス材料の合成に成功し、
 それがテレビのプラウン管部品に採用された。
 逆境のままでしたが、
 ここから「善の循環]が始まりました。
      ■         ■
 ――好調だと今度はおごりが出そうです。
 努力の結果だとうぬぼれたい時も、
 幸運には感謝できるでしょ?
 いい時も悪い時も、
 ウソでもいいから「ありがとう」と言ってみる。
 まず自分が心地よい。
 明るくなって周囲も優しくなり、
 生活にうるおいが満ちてくる。
 この快感は、
 欲望を満たした時とは違ってさわやか。
 これが心を磨くことなんです。
      ■         ■
 人生とは一生かけて心を磨くこと。
 だから死に旅立つ前に、
 宗教の本を読み、
 じっくり人間を勉強する静かな時間を持ちたかった。
 65歳でようやく、
 京都の寺で得度を果たす
 (仏門に入る)と、
 尊敬する老師に
 「あなたは社会に出て役立つことが仏の道」
 と言われた。
 それで経営の一線を退き、
 学術・文化を応援する財団の運営や、
 家庭に恵まれない子を支える施設づくりなどに
 力を入れています。
      ■         ■
 ――お金がないとできませんね。
 懸命の努力で京セラが成長し、
 私は「お金持ち」になりました。
 たまたま手にした財産は預かり物だと思うから、
 どんどん世の中に還元する。
 心も磨かれる。
 でも、少ない中から少し寄付しても同じことです。
      ■         ■
 ――日常に追われ、
 心を思う余裕がありません。
 私も現役時代は忙しく、
 重圧がかかる毎日でした。
 でも、
 会社が急速に発展していった40代半ばから、
 瞑想のまねごとをした。
 毎晩寝る前に深呼吸して声に出して
 「ありがとうありがとう……]と唱える。
 それだけで波だった心が静まりました。
      ■         ■
 若いころ、
 来る日も来る日もセラミックの材料を
 砕いて焼いて、
 一生このままうだつが上がらないのかと
 思い悩んだこともありました。
 でも、
 地味な仕事を積み上げるしかないと、
 今では分かる。
 こういう真理は、
 経験した者が若い人にこんこんと教えるしかない。
      ■         ■
 ――思いが伝わらない相手もいると感じてしまいます。
 研究が難航していた時、よそからきた上司と衝突しました。
 すると仲間7人が私と一緒に退社し、
 出資者を探し、
 「稲盛の技術を世に問う」と会社をつくってくれた。
 おりがたくて、懸命に頑張りました。
 これが京セラの始まりです。
 まだ20代の終わりでした。
      ■         ■
 「自分の夢」から「従業員の生活」に
 ところが創業3年目に、
 若い社員たちに将来の待遇を保証しろと要求された。
 全力を尽くすからついてきてくれとしか約束できない、
 と説くうちに
 「技術で勝負」という気負いが消え、
 「自分の夢より、従業員の生活を守るのが経営者だ」
 と思うようになった。
 思えば、それは利己から利他への転換でした。
 それからは社員に媚びなくなった。
 「お前らのためにこっちは頑張ってるのに、
 さぼるとは何事だ!」と言えるわけ。
      ■         ■
 ――「全力」を求めるのは、競争に勝つためですか。
 努力は「負けないため」ではなく「生きるため」。
 先日、道ばたの石垣で咲く小さな花を見つけ、
 わずかなすき間に根を生やした命のたくましさに
 胸を打たれました。
 自然界は必死でないと生き残れない。
 私は必死の努力で、
 不可能が可能になる瞬間を味わってきた。
 「強者に負けた」ようでも、
 「生きる努力が足りない」から敗者になる。
 敗れても人生が終わるわけじゃない。
 そこで気付くことがあれば、
 次は必死になり、
 生きていることを実感できます。
 (以上、朝日新聞から引用)

      ■         ■
 平成18年11月15日の日記、ニトリ寄附講座で、
 ニトリの似鳥昭雄社長が、
 社員や奥様に声を出して、
 「ありがとう」と言われると書きました。
 大物の社長さんは、
 しっかりと「ありがとう」と言えるのが条件のようです。
 確かに、いい言葉です。
 今日も、この新聞記事を手にして
 家内に言われました。
 『あんたは、私にありがとうと言わない!』
      ■         ■
 娘の件で、最近、またゴタゴタしています。
 家内と口論もあります。
 こうも言われます。
 『あんたは、病院ではいい顔ばかりしているけど…』
 『家では、何も言わない。』
 『機嫌が悪く、日記の中とは別人だ!』
 まあ、こう言われても仕方がないところもあります。
 とにかく、休みなく働いていて、
 娘のことでゴタゴタしているので疲れます。
      ■         ■
 手術をしている時は、
 それなりに緊張感があり、
 手術がうまくいって、
 「ありがとうございました」と言われると
 疲れも吹き飛びます。
 職員もテキパキ働いてくれるので、
 感謝して『ありがとう』と自然に言えます。
 開業してからは、自然と、お客様に
 『ありがとうございました。』
 『お気をつけてお帰りください。』
 と言えるようになりました。
      ■         ■
 昨日の日記に、娘のことを書いたら、
 たくさんのコメントをいただきました。
 さくらんぼさんをはじめ、
 ご心配いただき、
 本当にありがとうございます。
 私のガンコDNAが娘にも遺伝しているので、
 簡単には回復しそうにありません。
 こうして、日記に書くことで
 少しでも冷静に分析・判断をしてみたいと考えています。
 稲盛さんのように、 
 温和な顔になるには時間がかかりそうですが、
 生きる努力をしてみようと思います。


いなもり・かずお
1932年生まれ。
鹿児島大工学部卒。
京セラ名誉会長、
KDDI最高顧問、
稲盛財団理事長。
京セラ本社には、
仲間7人と創業した時に掲げた
「敬天愛人」の額が今も
=京都市、伊ケ崎忍撮影
(以上、朝日新聞より引用)

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子どもの教育

 平成20年6月7日、北海道新聞朝刊の記事です。
 札幌圏、親の懐苦しくて
 私大生仕送り年91万円
 2007年入学、2番目の低さ
 道私大助成推進協議会(札幌)は6月6日、
 2007年春に札幌圏の私立大に入学した
 学生の親の年収が平均で732万円、
 仕送り額は年91万6千円と、
 ここ10年では2006年に次ぎ
 二番目の低い水準になったと発表した。
      ■         ■
 同協議会は
 「親の経済状況の悪化で授業料滞納や中退が急増し、
 私大経営を直撃している」として、
 私大助成の増額を訴えている。
 調査は北海学園大や札幌学院大など
 同協議会を構成する5大学・4短大の
 入学者7,042人の親を対象に実施。
 1,083人から回答を得た。
 回収率は15%。
      ■         ■
 親の年収は1998年の833万円をピークに減少に転じ、
 2006年に最低の673万円を記録。
 仕送り額も1998年の年129万円から
 2006年に87万6千円まで落ち込んだ。
 同協議会は道内の不況に加え、
 少子化による「大学全入」時代の到来で
 低所得層からの進学が増えている影響とみている。
      ■         ■
 2007年は年収、仕送り額ともに
 増加したことについては
 「調査した昨夏の時点では
 景気回復局面にあった影響もある。
 長期的には減少傾向に
 歯止めがかかっていない」としている。
 (以上、北海道新聞より引用)

      ■         ■
 親にとって子どもの学資を出すのは大変です。
 私の親は、
 私と私の弟の学資を出すのに…
 父親は大夕張で単身赴任して寮生活。
 母親は、
 森永製菓のお菓子工場のパート(不況でリストラ)→
 生命保険の外交員→
 財形貯蓄の勧誘員という、
 仕事をしながら、生活費を稼いでくれました。
      ■         ■
 私の父親は、私と弟の教育のために
 16年間も夕張の炭鉱病院で一人暮らしで働いてくれました。
 父親とは、よく喧嘩をしましたが、
 子どもの教育のために、
 自分の生活を犠牲にして働いてくれたことに、
 感謝しています。
 米国では、
 大学生は自分の学費をローンで払うのが当たり前。
 そのローンを返済するのが大変と、
 NHKのビジネス英語会話で聞きました。
      ■         ■
 米国流に、成人しているのだから…
 自分の学資くらい、自分で稼ぐのが当たり前。
 という考えも正しいと思います。
 札幌美容形成外科で採用した多くの看護師さんは、
 奨学金をもらって、資格を取得していました。
 とても立派なことだと思います。
 そういう人は、お金のありがたみをよく知っています。
 無駄遣いもしません。
      ■         ■
 私は、自分の学資や教科書代は、
 親に出してもらいました。
 ですから、自分の子どもの教育費も私が払いました。
 医師といえども、教育費を払うのは大変です。
 特に、私立大学の授業料は高く、
 入学時だけで200万円近くかかりました。
 私は、学資を稼ぎ出すために、
 休みの日も当直をして働きました。
      ■         ■
 私の友人の医師も、
 子どものためにたくさんお金を使っています。
 子どもは気づいていないと思いますが、
 お金を稼ぐのは大変なことです。
 本間家では、
 私が命令して学校へ行かせたのではありません。
 子どもが学校へ行きたいと言ったので、
 少しでも社会の役に立つような人間になれるよう、
 援助したのです。
      ■         ■
 娘と言い合いなった時に、
 子どもの学資を出すのは親として当然。
 というようなことを言われました。
 娘は頭が悪かった上に、満足に勉強をしませんでした。
 志望校には到底合格できる学力がありませんでした。
 勉強ができなかったので、
 家庭教師の先生をお願いして、
 ようやく合格できたのが娘でした。
 高校では、奇跡の合格と言われたそうです。
      ■         ■
 成人したら何をしようと本人の自由だそうです。
 何をしても、本人の自己責任。
 ただ、
 成人した後も、
 学資や生活費を出したのは親の私です。
 少なくとも、
 学校へ行かせてもらったこと、
 資格を取得させてもらったこと、
 については感謝してもらって当然だと思います。
      ■         ■
 私は、曲がったことや間違ったことは大嫌いな人間です。
 たとえ実の娘でも許しません。
 家内は育て方を間違ったと言っています。
 私は今からでも、お金の大切さ、
 働いてお金を得ることの大変さを
 娘に知らしめる考えです。
 それが、信頼の絆を切られても、
 親としてしなければならないことだと固く信じています。
 親を怒らせたり、悲しませたりする娘は最低です。

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