医療問題
精神と犯罪
各地で凶悪な犯罪が目立っています。
優秀な弁護士さんは、‘責任能力’を強力な武器として、
無罪を主張してきます。
そうすると、‘犯罪者’の中には、刑務所ではなく、
精神病院へ入院させてもらえる人が出てきます。
■ ■
刑務所と精神病院では待遇に雲泥の差があります。
食事一つとっても、
‘犯罪を犯した患者’だからといって、
差別されることはありません。
一般の入院患者さんと同じ、病院食が出されます。
希望すれば、おかわりもできます。
■ ■
私は学生時代に、真剣に精神科医になろうと思った時期がありました。
理由は、簡単です。
‘血を見るのが怖かったから’です。
今の私を知る人は、
『えぇ~???』と驚かれるに違いありません。
毎日、血を見て仕事をしていますから…。
■ ■
私が精神科を諦めた理由も簡単でした。
治らない、
治せない、
患者さんが実に多いからです。
どこの精神病院にも、
人生の大半を病院で過ごしている方がいらっしゃいます。
他の診療科では考えられないことです。
■ ■
大部分の方は、生活保護を受けていらっしゃいます。
すなわち、税金が使われています。
患者さんの中には、医師免許証を持った人もいました。
医師免許証を持っていても、
人生の大半を精神病院で過ごしていました。
そこの病院の治療方針が悪くて治らないのではありません。
ある割合で、どうしても治せない患者さんがいるのです。
悲しいことですが、これが精神医学の限界です。
■ ■
私は、犯罪を犯した人を、精神を理由に無罪にするのには反対です。
無罪にして、精神病院へ入れたとしても社会はよくなりません。
精神病院では、刑務所ほど厳重に患者さんを管理しません。
いや、管理なんてできません。
タバコを吸うのも自由です。
中には、病院で妊娠しちゃう人も出てきます。
他の病棟と比較すると、看護職員の数が少ないのが精神科です。
看護職を増やすと、それだけお金がかかるからです。
国の方針です。
■ ■
精神科勤務の職員には、程度に応じて、
‘危険手当’が支払われる場合があります。
閉鎖病棟で、凶暴性のある患者さんを看護する職員などです。
私が、知っている看護職の方で、
患者から暴行を受けて意識不明の重体となった男性がいます。
残念なことに、後遺障害も残ってしまいました。
精神科勤務は、時に命がけです。
■ ■
医学生は全員精神神経科を履修します。
選択科目ではありません。
実習へ行くと、分厚い辞書のようなカルテを目にします。
何十年も、精神科に入院していた患者さんのカルテです。
そのカルテを見ただけで、精神医療の難しさを痛感できます。
■ ■
私は、司法修習生など、法曹界の方が、
精神神経科に実習に来ているの見たことがありません。
もし、私が間違っていたら、ごめんなさい。
弁護士さんや裁判官、検察官になる方は、
日本の精神医学の状況や精神病院の現実を見るべきだと思います。
どうしたら、日本を安全で住みやすい国にできるか?
‘犯罪を犯した患者’を精神病院に入れるだけでは、
決して、安全な国はできないと思います。
■ ■
形成外科や美容外科も万能ではありません。
私が手術をしても、治せないキズもあります。
私が手術をしても、満足していただけないこともあります。
でも、それは治療前に説明していますし、
納得していただかなくては、手術をお引き受けしていません。
まさか、美容外科に行ったら、
どんな人でも美人になれるとは考えていないと思います。
でも、ひょっとすると、法曹界では?
精神病院に入院したら、
‘犯罪を犯した患者’が治ると思っているのでしょうか?
医学講座
犬に咬まれる
飼い犬に手を咬まれるという言葉があります。
実際に飼い犬に手を咬まれる人がいます。
私も、チェリーが仔犬の時に咬まれました。
医学用語では、犬咬傷(イヌコウショウ)と呼んでいます。
‘犬咬傷’で検索すると、かなりひどいケガの写真が出てきます。
勇気のある方はチャレンジしてみてください。
■ ■
私は、美容形成外科医になる前は、
総合病院の形成外科医を20年以上していました。
今から、20年以上前のことです。
釧路労災病院形成外科に勤務していました。
毎年、春になると、
犬に咬まれたという患者さんが増えました。
一緒に働いていた、
藤岡浩賢(ふじおかひろたか)先生に調べてもらいました。
■ ■
藤岡先生は、とても真面目で優秀な先生でした。
釧路労災病院形成外科を開設してから、
10年近くのカルテを丹念に調べてくれました。
その結果、釧路労災病院形成外科では、
毎年、春と秋に犬に咬まれてケガをし、
受診する人が多いことがわかりました。
藤岡先生は詳しく調べてくれましたが、
春と秋に多い原因は不明でした。
当時は、まだ今ほど室内で飼うのは一般的ではなかったと思います。
ただ、犬の発情期と何らかの関係があるようでした。
■ ■
私はチェリーに手を咬まれました。
それは、仔犬の時にしつけをしている最中でした。
私は散歩こそ、チェリーの晩年にしませんでしたが、
チェリーの歯磨きと歯石取りは最期まで私の仕事でした。
家内や子供がすると、
最期まで「う~」っとうなって抵抗しました。
私がしても嫌がって逃げ回りましたが、
つかまると観念しておとなしくさせてくれました。
■ ■
形成外科で外傷を診ていると、犬の他に
人間に咬まれて受診する方も、マレにいらっしゃいました。
たいていは、喧嘩か痴情のもつれによるものです。
犬に咬まれても、人間に咬まれても、
咬まれた傷は汚くなります。
これは、口の中には想像以上に雑菌が多く、
どんなに可愛い仔犬でも、
どんなに美しい女性でも、
咬んだ歯に、バイ菌がついているからです。
■ ■
犬で問題になるのが、パスツレラという菌腫です。
私は一度しか診たことがありませんが、
パスツレラに感染すると、痛くて赤く腫れ上がって、
それはそれはひどいキズになります。
そうなるとキズを治すプロの形成外科医でも難しくなります。
■ ■
実は、犬に咬まれたキズで一番困るのが顔のケガです。
私もよくしていましたが、
犬に顔を近づけて‘よしよし’をします。
チェリーはよく私の顔をペロペロしていました。
この時に、犬が間違って咬むと大変です。
口唇がちぎれてなくなった人もいます。
鼻の頭が、食いちぎられてしまった人もいます。
■ ■
若い女性や子供さんには、絶対に、
犬にペロペロは避けていただきたいです。
私が今までに診た患者さんの中で、
一番重症だったのは、
女性に鼻の頭を食いちぎられた男性でした。
‘男だからしょうがないさ’と簡単に片付けられない状態でした。
修復するのに何年もかかりました。
春はうきうきして楽しい季節ですが、
‘不慮の事故’が多いのも春です。
くれぐれも気をつけてください。
医療問題
精神鑑定
平成20年3月23日、北海道新聞の記事です。
香山リカのひとつ言わせて⑬
精神鑑定ってなんだろう
東京・渋谷の夫殺害事件の精神鑑定が話題となっている。
検察側、弁護側、双方の鑑定医が
「被告は短期精神病状態にあり、責任能力はなかった」
という鑑定結果を公判で述べたのだ。
■ ■
特に検察側の鑑定医が
被告の罪が軽くなるような鑑定結果を述べることは異例、
と言われている。
精神科医には「文系」と「理系」のタイプがいるが、
検察側の鑑定医は、
日本でも珍しい「文系、理系どちらも得意」のひとり。
精神医学の世界の中にも、
「あの彼が言うなら」
と鑑定結果を支持する人も少なくない。
■ ■
大学で学生たちにこの件について意見を聞いたら、
「殺人を犯して責任能力がないから無罪や減刑、というのはおかしい」
という声とともに、
「そもそも、検察側の鑑定医だからといって厳しいことを言え、というのはどうして」
という声があった。
確かに客観的でなければならない精神鑑定で、
「弁護側だから」
「検察側だから」
という主観が入るのはおかしな話のような気もする。
■ ■
とはいえ、
「短期精神病という一過性の病名で、夫を殺しても無罪?」
と疑問に思う人がいるのも当然だ。
裁判のスピードアップが要求され、
精神鑑定のあり方も変わってくると言われている。
この「異例の鑑定結果」は、
私たちにもう一度、「精神鑑定ってなに」
と問いかけているのではないだろうか。
(精神科医)
(以上、北海道新聞から引用)
■ ■
秋田の児童殺害事件でも、
精神鑑定が問題になっています。
そもそも、精神状態が普通の人は、
自分の子供や夫を殺しません。
自殺を図って、救命救急センターに搬送される方も、
精神疾患がベースにある方が多いと言われています。
■ ■
それでは、精神鑑定が出て、
複数の精神科医が、
『この人が犯罪を犯したのは、病気のためです』
と鑑定書を出せば、無罪にしてよいものでしょうか?
私は、そうは思いません。
精神病院に入院している患者さんの中には、
『オレは○○で人を殺した』と、
大っぴらに公言している人もいました。
■ ■
その患者さんが言っていることが、
ウソかホントかはわかりません。
ただ精神病院に入れたからといって、
‘完治’させられる訳ではありません。
精神疾患は再発率も高く、
一番治しにくい病気の一つです。
■ ■
犯罪者は犯罪者です。
精神疾患を免罪符にして、
無罪放免だけは勘弁してください。
子供を殺された親の気持ちはおさまりません。
精神科医といえども万能ではありません。
ウソを言われても、わかりません。
オウム真理教の教祖様を‘精神疾患’で無罪にできますか?
仮病(けびょう)を見分けるのは、難しいのです。
精神医学にも限界があります。
犯罪者は犯罪者として刑務所に入れて、
死刑にするのは法律家の仕事です。
‘医学’が関与すべきではないと思います。
横綱だって、‘病気’を理由にしていたではありませんか!
昔の記憶
春の訪れ
札幌はすっかり雪がなくなりました。
一ヵ月前の大雪がうそのようです。
昔は、春になると、道路の雪を割る、
『雪割り』という作業がありました。
道路に小さな川ができて、池のようになります。
その池のようになった水溜りから、
低いところへ流れるように、‘道’をつくります。
■ ■
暖かな日差しで溶けた雪は、
ちょろちょろと流れて、低いところへ広がります。
いつの間にか、小さな流れが少しずつ大きくなり、
水溜りが消えた頃には、水の‘道’の跡形もなくなります。
そこには、雪の下で眠っていた道路が出てきます。
道路が出ると、大好きな自転車を持ち出します。
半年ぶりに乗る自転車は爽快で、
いくつになっても気分がよいものです。
■ ■
私は、小さい頃に足を悪くしたためか…
スポーツは苦手でした。
唯一得意科目だったのが、スキーでした。
走るのもダメ、
球技もダメ、
一番嫌いだったのが、体育のマット運動などでした。
4月に学校が始まると、
マット運動から始まるのでイヤでした。
自転車だけは、運動神経と関係なく好きでした。
■ ■
はじめて自転車に乗ったのは、
小学校入学前だったと思います。
補助車という、支えをつけてもらって、
親に後ろを支えてもらって練習しました。
あまり苦労せず、
痛い思いもせずに乗れたと思います。
だから自転車が好きになったのでしょう。
■ ■
最初の自転車は16インチ。
次に買ってもらったのが、丸石自転車の24インチ。
お小遣いをためて、貯金して、
親にもお金を足してもらって買ったのが、
ミヤタ自転車の26インチ。
外装5段変速のついた、カッコいい自転車でした。
嬉しくて、毎日ピカピカに磨いていました。
■ ■
私が茶志内にいた頃、
小学校6年生くらいで買ってもらった記憶があります。
生協から買ったので、
私が買う前に展示してありました。
他の子供たちも、その自転車が欲しかったと思います。
今のようにホームセンターに
何十台も山積みになっているのではありません。
そのカッコいい自転車は一台限りでした。
■ ■
どこへ行くのも自転車でした。
茶志内から美唄までは、
路線バスがありましたが、
休日には一家で自転車に乗り、
美唄の公園まで行きました。
自家用車なんてありませんから、自転車でも最高でした。
茶志内周辺には、
石狩川の河川改修でできた三日月湖がたくさんありました。
そこへ、父親と釣りに行きました。
■ ■
この50年で、自転車の価格は驚くほど安くなりました。
札幌駅周辺では、指定場所でしか自転車をとめられません。
しかも駐輪場は有料です。
自転車はいたるところに放置されています。
誰もが、自転車を大切にしなくなりました。
自転車好きの私にはとても残念なことです。
もう少し、自転車を大切にする世の中になって欲しと思います。
CO2を排出するのは、乗る人だけです。
医療問題
診察券
平成20年3月21日の朝日新聞朝刊、
声の欄(読者からの投稿)に掲載されていた記事です。
奥さんが、心筋梗塞を発症して救急車を呼んだ。
救急隊員から、最近かかった病院の診察券がないか聞かれた。
健康保険証と一緒にしてあった、大病院の診察券を見せた。
救急隊員は、その診察券をひったくるようにして取り上げ、
病院へ連絡。
すると、即座に入院のOKが出た。
■ ■
この男性投稿者が言いたいのは、
診察券の有無で、受け入れが決まってもよいものだろうか?
病院としては、医療費不払いを防ぐために、
診察券の有無で、救急患者を振り分けているのでは?
道義に反しているのではないだろうか?
診察券の有無にかかわらず、
目の前の救急患者を受け入れるべきではないだろうか?
というのが、投稿の主旨です。
■ ■
この投稿者が不思議に思われるのはもっともです。
ただ、医療費不払いを怖れて、
診察券の有無で振り分けているのではありません。
診察券を持っているということは、
現在その病院で治療を受けているか、
過去に治療を受けたことがあることの証明です。
■ ■
診察券の番号がわかると、すぐにカルテが出てきます。
その方の病歴もわかります。
入院癧があると、詳細な記録が残っています。
病院は、『一見(いちげん)さんお断り』の高給店とは違います。
診察券を持っていらっしゃる方に治療上の責任があるので、
たとえ急病になっても診てもらえるのです。
ですから、たとえ2時間待ちの3分診療でも、
大病院の診察券を持っていると役に立ちます。
■ ■
私が勤務していた時代の市立札幌病院も同じでした。
まず、通院中の患者さんと一般の救急患者さんは
担当する当直医が違います。
通院中の患者さんの容態が悪くなって
病院へ電話が来た時は、
まず、‘一般当直’の看護師・医師が診察します。
‘一般当直’は、私のように、
救急医療部以外の診療科の医師や看護師が、
輪番制で当直をします。
医師は、当直をしても、翌日に通常の診療や手術をします。
■ ■
一番多かったのが、喘息患者さんでした。
患者さんが苦しそうに、
『先生、いつもの点滴をお願いします』
と言われます。
カルテにも主治医から、
救急外来を受診した際には、
○○の点滴をしてくださいと指示が書いてあります。
何度か当直をしていると、主治医ではないのに
喘息患者さんと顔見知りになることもありました。
■ ■
専門外の私でも、指示があれば、その通りに点滴はできます。
救命救急センターとは、救急のレベルが違いました。
突然、通院中の患者さんの容態が極端に悪くなることもあります。
その時は、一般当直の当直医が診察し、
必要に応じて、主治医と連絡をとって対処します。
小児科や循環器内科などは、担当医を呼ぶこともありました。
■ ■
たとえ札幌市民が作った
札幌市民のための市立札幌病院でも、
無条件に夜間の救急患者を受け入れると、
パニックになります。
札幌市の夜間救急は、夜間急病センターが担当。
急病センターで手に負えない方が、
二次救急、三次救急の病院へ来られます。
それが、札幌市が決めたルールです。
■ ■
朝日新聞へ投稿された読者の奥様は
「もう少し処置が遅かったら危なかった」と言われながら、
10日後に無事に退院できたそうです。
日本の救急医療現場は大変です。
一瞬の判断が、生死やその方の予後を大きく変えます。
救命救急センターに、風邪の患者さんまで来ては
助かる患者さんも助からなくなります。
受診する方のモラルも必要なのが救急医療です。
昔の記憶
お葬式
今から50年近く前のことです。
私は、札幌郡手稲町に住んでいました。
父が勤務していた、三菱砿業㈱手稲療養所の職員住宅です。
幼稚園へ入園する前に、
近所の、仲良しだった男の子が亡くなりました。
内科の先生の一人息子でした。
■ ■
お湯で大ヤケドをして、亡くなってしまいました。
私は、ヤケドの治療をたくさんしました。
受傷直後から、どのような経過をとって亡くなったかよくわかります。
子供がヤケドをすると、最初は痛いいたいと泣いています。
救命処置をしないと、そのうちグッタリしてきます。
大ヤケドをした時には、まず点滴をします。
子供はショックになりやすいので、まず点滴をします。
■ ■
現在は、子供でも、大ヤケドの治療は救急部が担当します。
今から50年も前のことです。
当時、どんな点滴があったかわかりません。
小さな子供に点滴をするのは、難しいことです。
その子にどんな治療をしたかもわかりません。
■ ■
父の話しですと、当時、先生は北大で研究をしていて、
北大から手稲の社宅に帰って来て事故が起きました。
先生は、すぐに車を手配して、
子供を札幌医大に搬送したそうです。
一晩、札幌医大で治療をしましたが、
残念なことに、子供さんは帰らぬ人になってしまいました。
■ ■
私より、少しお兄ちゃんだったと思います。
その子のお通夜に、母に連れられて行きました。
当時は、自宅に祭壇を作って、自宅でお通夜をしました。
祭壇には、その子の写真といっしょに、
大きなリンゴが供えてありました。
■ ■
私は子供だったので、その子の死が、
どういうものなのか、わかりませんでした。
母親に、もう○○ちゃんとは遊べないんだよ。
と言われた程度の記憶しかありません。
お通夜がどういう意味を持っていたのかも、
理解していませんでした。
私は無邪気に、あのおリンゴ美味しそうだね。
と言ったのだけ覚えています。
■ ■
両親の話しですと、
一人息子を亡くした先生は、ずっと亡くなるまで、
息子を助けられなかったことを
悔やんでいたそうです。
私の父を含む同僚や医師仲間も、
子供を助けられなかったことを悔やんでいました。
■ ■
私が、手稲から美唄へ引越し、
小学校3年生程度になった頃です。
その先生が、ひょっこりと自動車で遊びにいらっしゃいました。
当時、自家用車は珍しく、
子供の私は、その先生の自動車を触ったり、眺めたりしていました。
後部の窓に、『模範者』と書かれた、
赤いステッカーが貼られていたのを覚えています。
無事故無違反だと、ゴールド免許証ではなく、
ステッカーをくれた時代でした。
■ ■
先生は、車から降りると、
しきりに私の頭を撫でてくれました。
『けんちゃん、大きくなったなぁ!』
『こんなに大きくなったんだぁ。もう足は大丈夫?』
私は、当時どうして○○ちゃんのおじさん(先生)が、
こんなに私の頭を撫でてくれるのかわかりませんでした。
■ ■
自分がおじさんになってわかりました。
先生は、 私を見て、
自分の亡くなった一人息子を想い出していたのです。
○○も、生きていたら、こんなになっていたのだろうなぁ!
と感慨深く私を見ていらしたのです。
その先生とは、その後お会いした記憶はありません。
昭和54年7月にお亡くなりになりました。
私の父と同年代でしたが、
父よりずっと若くしてお亡くなりになりました。
■ ■
人間の幸せなんて、わからないものです。
お医者さんになって、裕福に暮らしていても
自分の子供を亡くすると、突然、不幸になります。
平凡でも、
親子そろって、晩御飯を食べられる家庭が一番です。
私たち、医師がお手伝いできるのは、
人間の生活のほんの一部です。
もうヤケドの子供を助けることはできませんが、
少しでも、他人に喜ばれる仕事をしたいと考えています。
未分類
神さま!
私は、クリスマスには教会の賛美歌に耳を傾け、
大晦日(おおみそか)には、お寺の除夜の鐘を聞き、
お正月には神社に初詣(はつもうで)に行きます。
外国人が聞いたら驚くような、‘信心深い’日本人です。
結婚式は、ホテルの結婚式場で、
二礼二拍手一礼の作法で、
玉串(たまぐし)を奉げ(ささげ)ました。
私たち夫婦の神様は、
三吉神社(みよしじんじゃ)という
札幌市内中心部にある神社の、ホテル内出張所でした。
■ ■
こんな信心のない、不心得な私でも、
困ったことや、辛いことがあると…
『神さま!』と思うことがあります。
『おぉ、神よ!神さまよ!』
『あなたは、どうしてこのように惨い(むごい)ことをなさるのか?』
と思うことがあります。
せっかく、自分や自分の家族が楽しみにしていたことを…
あなたは、なぜ無残なことをなさるのか…
と、神を思うこともあります。
■ ■
医学なんて偉そうにしていても、無力なものです。
一番力をもっているのは、自然の摂理(せつり)。
自然の力にはかないません。
世の中は、楽しいことばかりではありません。
辛いつらいことも、たくさんあります。
つらいことに出会った時に、人間は神頼みをします。
自分の力では、どうにも、どう努力しても、
かなわないことがあります。
■ ■
私たち医師は、人の死と対面します。
葬儀屋さんの次に、
人の死と多く接する職業かもしれません。
私たち医師でも、
自分の家族の死を受け入れなければならないことがあります。
私の人生の中で、何度か、
つらい、悲しいお葬式に出たことがあります。
それは、子供の死です。
■ ■
私は救急医療の現場で多くの人の死を見ました。
朝、元気で家を出て行った人が、
ある日、突然救急ホールに搬送されて来て、
治療の甲斐なく帰らぬ人となってしまうことがあります。
その死が予期せぬことであればあるほど、
人の心に深い悲しみを残します。
■ ■
医師といえど、
最愛の子供を亡くした親の気持ちは同じです。
私が知っている人の例です。
自分の後継者になると喜んでいた息子が、
山で遭難して、若くして亡くなってしまった。
東京の大学で勉強していた息子が、
湘南海岸で水死してしまった。
可愛い子供にガンができて、
手術をしたけれど転移して亡くなってしまった。
どの子供の死も、ごく身近な先生に起こりました。
■ ■
子を亡くした親の気持ちは悲しいものです。
私の場合は、少し状況が違いますが、
自分の娘が私のもとからいなくなりました。
こんな‘クソ真面目なおやじ’から、
どう突然変異して、あんな娘になったのか?
私は深く傷つき、怒りと悲しみで気が変になりました。
その時に、私を救ってくれたのは、
『先生、かわいそう…』という言葉でした。
■ ■
どんなに真面目に一生懸命に生きていても
『どうして?』
『なぜ?』
『どうして、神さまはこんなことをするの?』
ということに遭遇します。
私の友人の韓国の先生が言いました。
『運命です』
私は、その先生の言葉が忘れられません。
人間には、
人生には、
つらいことがたくさんあります。
それを乗り越えて、人は生きていかなければなりません。
悲しい時は、思いっきり泣いて…
泣いて…泣いて…
涙が枯れるまで泣いて…
そうして、時間とともに少しずつ、回復できるのだと思います。
医療問題
外国人看護師
日本の医師・看護師不足対策の一つとして
外国人看護師の活用を図る方法が取り上げられています。
弁護士の高橋智先生Sammy通信や
平成20年3月18日の朝日新聞に掲載されています。
■ ■
特に、今朝の朝日新聞の記事が気になりました。
フィリピンでは、
医師・看護師の海外流失が深刻な問題となっています。
フィリピンの医師の月給が5万8千円程度。
米国で看護師の資格を取得して、
看護師として働くと、月給が40万円になる。
フィリピンの医師国家試験に
一番で合格した優秀な先生が米国の看護師になって
社会問題になったそうです。
■ ■
私の友人の先生が、
国際協力事業団の仕事で数年間フィリピンに滞在しました。
彼は医師で、フィリピンの医療問題を担当していました。
朝日新聞にも書かれていましたが、
フィリピンの僻地医療は、日本の比ではないそうです。
とにかく、医師も看護師もいない。
■ ■
フィリピンの医科大学を卒業した、‘優秀な’医師が、
高給を求めて、海外で看護師として働きます。
米国、英国、アラブなど、お金持ちの国へ流失です。
この上、日本が円高を背景に、
フィリピンから看護師を‘輸入’してしまうと…
新たな国際問題となりそうです。
■ ■
私は、フィリピン人が嫌いではありません。
人種差別もありません。
ただ…
日本人看護師でも、指示を間違えて注射をして…
医療事故が起きています。
言葉の違いは、医療では致命的な事故になる可能性があります。
看護は、微妙な意思疎通が必要な領域です。
病んでいる、苦しんでいる患者さんの
一番近くにいるのが看護師さんです。
『ちょっと、お願い!』
と言われただけで、ピンと来る勘が必要です。
■ ■
2月にあった、JAL機の離陸事故も
Expect immediately takeoff.
のExpectを聞き逃し
Immediateだけが聞こえたための事故です。
あらためて、国際線の機長をしている知人に聞きました。
私が日記で書いた通りに、
外国の航空管制官は、Immediateという言葉は
絶対にtakeoffとペアーで使う
つまり、『ただちに離陸しなさい』としか使わないそうです。
だから、千歳の管制官が
『ただちに離陸指示がでることを予測しなさい』
という表現を使ったことが、事故の誘因になっています。
■ ■
航空機の外国人パイロットや客室乗務員を雇用するのと
外国人医師や外国人看護師を雇用するのは
医療の安全を考えた時に、まったくレベルが違う問題です。
外国人客室乗務員が乗った飛行機に、搭乗することがあります。
日本人CAが来てくれると、ほっとするのは私だけでしょうか?
■ ■
日本の医療を考える時に、安易に外国人に頼るのは誤りです。
外国人を雇うと、その外国人の母国では
それだけ医師や看護師が減ります。
私は医療分野だけは、
日本語を母国語とする、
医師や看護師が担う(ニナウ)べきだと考えています。
院長の休日
心を癒す(いやす)
何度も日記に書いています。
医師はストレスの多い仕事です。
決して、楽で、儲かる職業ではありません。
診療科目や立場によってストレスは違いますが、
私のように、一人で開業していると、
医業以外のことで、ストレスがかかります。
■ ■
手術で悩むことは、まずありません。
クリニックの運営、労務、経理、人事など
今までの経験が役に立たないことで、
問題が発生すると悩みます。
私の先輩が何人か、
大病院の院長に就任なさいました。
お気の毒なことですが、
一番多くマスコミに登場するのは、
頭を下げているところ…。
謝罪の記者会見です。
■ ■
大病院の院長ともなると、すべての責任がかかります。
1,000人近い患者様や、それとほぼ同数の職員のことなど
いくら頭が良くても、すべては掌握できません。
近年は、それに経営問題が重くのしかかります。
国公立病院で‘黒字経営’をするのは、
並大抵のことではありません。
私の何倍もストレスが多いことと思います。
■ ■
私は、酒も飲まず。
タバコも吸わず。
ススキノに通うこともありません。
どうやって?
ストレス解消をしていると思いますか?
健康管理のために、スポーツクラブに通っています。
スイミングを、ほぼ毎日、少しずつしています。
■ ■
ストレス解消になっているか?と聞かれると…???
適度に疲れるので、よく眠れます。
ただ、あぁ~、
これは良かったなぁ~、
というような、感動はありません。
たまにストレス解消をしたいと思います。
■ ■
一昨日の夜、‘サーカス’のコンサートに行ってきました。
そして、昨夜は、‘さだまさし’さんのコンサートに行ってきました。
たまたま、家内が‘さだ’さんのチケットを買った後で、
サーカスの30周年記念コンサートのことを知り、
2晩続けてになりました。
少し、贅沢でしたが、
いやぁ~~、これはよかったです。
どちらも、とても心が癒され(いやされ)ました。
■ ■
サーカスのお姉さん、叶正子(かのうまさこ)さんと
さだまさしさんが、同じ1952年生まれ。
サーカスの叶高(かのうたかし)くん、
と私は札幌西高校の同期で1954年生まれ。
どちらのコンサートも、
観客は圧倒的に、おじさんとおばさん。
男女比では女性が多い印象でした。
■ ■
サーカスの叶くんも
さだまさしさんも
コンサートに来てくれたお客さんから
『来てよかった!』
『歌を聴いて元気が出ました!』
『また元気を出して頑張ります!』
と言われるのが、一番の励みになるそうです。
■ ■
さだまさしさんのコンサートは、はじめてでした。
約3時間近く、途中休憩もなしで、
歌いっぱなし、
話しっぱなし、
でした。
さだまさしさんのトークが、
こんなにおもしろいとは知りませんでした。
さださんは、幼少の頃、
お坊ちゃまでバイオリンを習っていたそうです。
その後、お父様の事業がうまく行かなくなり、
豪邸住まいから、一転しました。
ご自身でも、
映画事業の負債から30億円もの借金をかかえられました。
■ ■
コンサートは通算3,500回を超えたとお話しされました。
とにかく、すごいパワーでした。
歌を通じて、多くの人の心を癒してくださっています。
私も心を癒していただきました。
歌を聴いて、元気をいただくのはよいことだと思います。
これからも、少しずつ、コンサートに足を運んでみようと思いました。
自分も、少しでも人の役に立つ仕事をしようと思いました。
私たちの50歳台という年代は、
こんな風に考える年頃なのかなぁ…
とも思いました。
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塩谷先生のお父様ご逝去
北里大学名誉教授、塩谷信幸先生のお父様が、
106歳-(マイナス)10日でご逝去されたと、先生のブログに掲載されていました。
心からご冥福をお祈りいたします。
塩谷先生は、日本形成外科学会の重鎮で、現在は名誉会員です。
1931年のお生まれで、
私の恩師である、北海道大学名誉教授の大浦武彦先生と同年代です。
■ ■
塩谷先生は、毎日ブログを更新されています。
私が、毎日、日記を更新する支えとさせていただいています。
今日は、疲れて書くことがないなぁ~と思っている時には、
塩谷先生のブログを読んで、気を取り直して書くこともよくあります。
ここ数日、お父様の容体が悪いと書かれていたので、
気になっていました。
多摩丘陵の桜が見える
『よみうりランド慶友病院』へ移ることができるように…
と私も願っていたのですが、残念です。
■ ■
塩谷先生がブログに書かれていたように、
日本の高齢者医療政策は最悪です。
新聞の読者投稿欄には、
「姥捨て山の医療政策」なんて言葉が出ていて、
高齢者の怒りが爆発しています。
ある人が、
「われわれは、第二次世界大戦を生き抜いて来た」
「国は、ご苦労さんと」
「高齢者の医療費を全額国庫負担にするくらいのことはできないのか?」
と書かれていました。
■ ■
私の親も、家内の親も、
「ポックリ楽にお迎えが来てくれたら一番いいのに…」
とよく言っています。
私の親など、
「お前、もうダメになったら、苦しまないように…」
「こっそり…、楽にしてくれないものかねぇ…」
なんてことまで言います。
私:そんなことしたら、医師免許取り消しで、食べていけなくなる。
正直なところ、
私だって、コロリと楽にあの世へ行けたら幸せだと思います。
■ ■
家内の両親が一時期、奈良県香芝市に住んでいました。
私も、たまに香芝へ行っていました。
その時に、『ぽっくり寺』という看板をよく見ていました。
当時は、
さすが奈良には、おもしろい名前の寺があるものだ。
と思っていた程度でした。
実際に行ったことはありませんでした。
■ ■
Googleで『ぽっくり寺』を検索してみると、
①奈良県香芝市良福寺361 (元祖)
阿日寺(あにちじ)
②奈良県生駒郡斑鳩町小吉田1-1-23
吉田寺。よしだ寺と書いて、きちでんじ。
の2つの寺がありました。
おそらく、私が見た看板は
阿日寺(あにちじ)だったと思います。
■ ■
このお寺のご利益のせいかどうかわかりませんが、
家内の父は、64歳でポックリと亡くなってしまいました。
ゴルフ場のグリーンの上で、
突然の心筋梗塞で帰らぬ人となってしまいました。
平成5年4月6日のことです。
私は、家内の父にほんとうに申し訳ないことをしたと思いました。
■ ■
家内は、父が急逝してから数年間は、魂が抜けたようになりました。
『私が北海道にお嫁に来たから、お父さんの変化に気づかなかった』
『私がお父さんを早死にさせてしまった』
何を言っても、無駄でした。
立ち直るまでに、長い時間がかかりました。
今でも、わが家の居間には、笑顔の家内の父の写真があります。
■ ■
実は、家内の父の心筋梗塞には‘前兆’がありました。
亡くなる前日にも、体調不良で、職場近くの病院にかかっていたそうです。
胸部写真と心電図で異常がなく、
『病院、行ったけど大丈夫やった』
と、翌日早朝からゴルフへ行って、
そのまま倒れて、救急車で運ばれた病院では心肺停止。
死亡が確認されました。
■ ■
JRを退職後に、関連会社に勤務していましたので、
現職のまま死亡。
お葬式は盛大で、たくさんの弔問客にいらしていただきました。
お葬式は、香芝市の林法寺という、浄土宗のお寺で行いました。
①の阿日寺も香芝市の浄土宗のお寺です。
何か不思議な縁を感じます。
■ ■
私は、人間には、寿命という電池があって、
その電池の使い方に個人差があるのだと思っています。
家内の父も、病気一つしないで働く、パワフルな人でした。
今でも、声が聞こえてくるような気がします。
私は家内の父を尊敬していました。
この道一筋50年。
何でも知っている、保線のおじさんでした。
家内の父や私のように、ず~っと働いている人は
電池が早く消耗してしまって、
ある日突然電池切れになって、ポックリ逝けるのだと思います。
■ ■
家内の父が亡くなった時は、
香芝市の林法寺近くのサクラが、それはキレイに咲いていました。
私はゴルフはしませんが、
家内の父のように、好きなゴルフ場やキレイな場所で
キレイなグリーンやラベンダー畑の上で倒れて
ポックリあの世へ行けたら…と願っています。
64歳まで、あと10年です。
いつ亡くなってもいいように、身辺はキレイにしています。