昔の記憶
命日(めいにち)
今日、4月6日は、
岳父(がくふ:家内の父)、
故_片寄茂八(かたよせもはち)の命日です。
平成5年(1993年)に、
兵庫県三田市(さんだし)のゴルフ場で、
急性心筋梗塞で亡くなりました。
64歳でした。
65歳になる23日で前でした。
■ ■
その日は火曜日でした。
市立札幌病院皮膚科の外来で、
13:30から診療を開始して、
間もなくでした。
看護婦さんが、
『先生、奥さんから電話です』
と電話を取り次いでくれました。
『こんな時間に何だろう?』
『子どもがケガでもしたのかなぁ…?』
と思って電話に出ました。
■ ■
電話を取ると…
家内の声が震えていました。
『おじいちゃんが…』
『おじいちゃんが…、死んだって…』
それを聞いて、
私は自分の父親が亡くなったと、
一瞬、思いました。
市立札幌病院へ勤務してから、
私は、毎日、救急部で、
‘ある日突然亡くなる人’を見ていました。
■ ■
市立札幌病院の正面玄関は、
午後7時に閉まっていました。
その後は、救急部の横が通用口でした。
私が帰宅するのは、
午後7時以降が多く、
救急部の公衆電話から、
身内の急逝(きゅうせい)を伝える方を、
何度も目にしていました。
まさか、自分の身内が急逝するとは…
しかも、家内の父が亡くなるとは…
夢にも思っていませんでした。
■ ■
家内に、
『すぐに帰るから航空券を手配して』
とそれだけを指示しました。
私は4月に赴任したばかりの、
竹野巨一(たけのなおかず)先生に外来をお願いし、
直属の上司である皮膚科主任医長の
嶋崎匡(しまざきただし)先生に報告をしました。
亡くなったことが信じられず、
搬送された、
三田市民病院へ電話をしました。
■ ■
義父の最期を診てくださった、
担当の先生とお話しができました。
『救急車で搬送されていらした時は、心肺停止でした』
『蘇生(そせい)を試みましたが、戻りませんでした』
亡くなったのが、
家内の父であることを確認しました。
亡くなる2日前まで、
私の子どもたち2人(小4と小2)が、
家内の実家に遊びに行っていました。
■ ■
『おじいちゃんに遊園地に連れて行ってもらった』
『おじいちゃん、ちょっと辛そうだった』
『酸欠でなぁ』と休んでいた。
など子どもと話していたところでした。
今から考えると、
下肢の動脈が細くなって、
足が冷たいというので、
登山用の靴下を送っていました。
他にも前兆らしき症状がありました。
■ ■
幸い飛行機に空席があり、
午後のJALが取れました。
新千歳空港に着くと、
JASが少し早く出るというので、
JASに変更しました。
いつもはANAですが、
この時は少しでも早い便に乗りました。
当時は機内に公衆電話があったので、
機内から実家へ電話をしました。
■ ■
伊丹空港に到着しました。
いつも、
『よく来た』と出迎えてくれた義父はいません。
空港からタクシーで、
高速道路を飛ばしました。
家内は一言も話しません。
実家に着いたのは、
午後7時頃でした。
顔に白い布をかけられた義父が、
布団の上に横たわっていました。
■ ■
どうしてこんなことになったのか…?
途方に暮れていました。
そのうち、
親戚の人たちが
島根県から駆けつけて来ました。
私たちは北海道からでしたが、
東京へ出張中の義弟よりも、
島根県からの親戚よりも
早く着きました。
私にとっては、唯一の救いでした。
■ ■
家内は、
『私が北海道へお嫁に来たので、お父さんが早く死んだ』
と悔やんでいました。
家内が回復するまで、
何年もかかりました。
人が亡くなる場面には慣れていた私も、
亡くなった後のことは、はじめての経験でした。
人が亡くなるとこんなに大変だとは知りませんでした。
■ ■
親戚の人たちから、
菩提寺(ぼだいじ)のことや、
葬儀のことなどを教えていただき準備しました。
おじいちゃんは、
慈徳大願居士という名になりました。
浄土宗の林法寺(りんぽうじ)というお寺で
葬儀を営みました。
桜が満開できれいでした。
何年経っても忘れられない日です。