医学講座

生涯に悔いを残すわきが手術のキズ

 学会報告の続きです。京都に冨士森形成外科という有名な形成外科医院があります。院長の冨士森良輔先生は元京都大学形成外科講師。日本形成外科重鎮のお一人です。学会で‘京都の冨士森ですが…’と発言なさると、どの大学の教授でも反論できないほどです。
 今回の学会で、冨士森形成外科医院の小熊孝先生が‘生涯に悔いを残す腋臭症術後瘢痕’というポスター演題を出されていました。わきが手術を受けたものの、回復不能なキズが残り、苦悩している患者様がいるという内容でした。
 冨士森先生はキズとかケロイド治療の第一人者です。私は冨士森先生に治せないキズはないと思っていました。今回の発表の主旨は、わきが手術を受ける前には『キズアトはほとんど残らない』と説明を受けたにもかかわらず、生涯に悔いを残すほど回復不能なキズが残ってしまった方がいる。しっかり説明して手術をしないと、形成外科医としての信頼を失うというものでした。
 女性週刊誌に載っている大手美容外科やわきが手術専門クリニックの広告には、いかにも簡単にワキガが治ると書いてあります。私がHPで何度もワキガ手術について書いているように、しっかり汗腺を取ればとるほど皮膚は傷つきます。キズついた皮膚をキチンと治さないと、一生悔いが残るキズができてしまいます。ワキガ手術は手術も大切ですが、手術後のケアーが大切なのです。
 今回の学会で提示されていた症例のキズは、いずれも珍しいものではありませんでした。私のクリニックには「わずか30分で治る超音波法」という広告を見て、東京まで行って手術を受けたが、100万円もとられたのに治らなかった。という方までいらっしゃいます。
 わきが手術は簡単ではありません。クリニック選びはくれぐれも慎重になさってください。

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医学講座

日本形成外科学会④

 学会に参加する目的の一つは、新しい治療法や知見を知ることです。昔からどんな治療をしてもなかなか治らない‘病気’があります。
 形成外科医や美容外科医にとって一番困るのがケロイドです。キズが赤く盛り上がり、痒くなります。胸や肩にできたケロイドは手術でもなかなか治りません。治らないどころか切れば切るほど悪化します。ガンの治療に使うような放射線治療が必要になることもあります。
 今回の学会で、東邦大学形成外科の岡田先生が‘抗真菌薬により改善を認めたケロイド・肥厚性瘢痕の経験’という演題を出されていました。展示演題というコーナーで発表をポスターにして掲示する形式です。展示演題は、演壇に上がり聴衆の前で発表する口演より、どちらかというと低く見られるのですが、私はこのご発表が価値あるものに思えました。
 新しい治療法は、日常診療で気づいたちょっとした変化から生み出されることがあります。真面目に診療をしていると、‘あれっ?どうしたの?’と思うことがあります。
 岡田先生の発表は、ケロイドで悩んでいた患者様が、たまたま水虫になって、水虫を治す薬を内服したところ、何年も悩んでいたケロイドが快くなってしまった。というものです。‘なーんだ、じゃ水虫の薬を飲めばいいじゃん’と思われるかもしれませんが、ケロイドという病名で水虫の薬を処方することはできません。
 水虫薬の製薬メーカーがこの発表に気づき、これから臨床試験をはじめても、厚生労働省から認可されるまで何年もかかります。ケロイドで悩んでいる人は世界中に大勢います。もし水虫の薬でケロイドが治れば、これは世界的な大発見です。あと何年かしてケロイドが治るようになればと願っています。水虫薬メーカーの株価が上がるかも知れません。今日で学会は終わり、明日からまた診療をはじめます。

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医学講座

日本形成外科学会③

 今日は朝7:50からのモーニングセミナーから参加しました。モーニングセミナーではサンドイッチなどの軽食が出て、それを食べながら講演を聴きます。コーヒーは出ないので、少し眠たくても居眠りをしないように気をつけます。演者は長崎大学形成外科の秋田先生。最先端の再生医療を使ったキズの治し方について講演がありました。糖尿病や外傷などで、グチャグチャになった足をどう治すのか?という講演です。私も昔はこんな治療をしていたなぁ~。と懐かしく想い出しながらお聴きしました。
 その次はレーザー。札幌スキンケアクリニックの松本敏明先生のイチゴ状血管腫についての講演が印象的でした。レーザー一筋にこの道30年。30年前から治療した患者様の経過を反省を含めて供覧されました。
 お昼にはランチョンセミナー。お昼もお弁当が出ます。私が聴いたのは‘形成外科保険診療について’。この保険診療についてのランチョンセミナーは形成外科学会で最も人気があるセミナーです。会場も満員で居眠りする人もいません。形成外科では保険診療で診察しますが、請求方法が悪いと‘査定(サテイ)’といってお金がもらえなくなります。
 保険診療をしていると、不正請求でなくても、厚生労働省が決めた‘しきたり’通りに請求しないとダメなのです。この保険請求の決まりがなかなか難しく、学会員であれば誰でも共通した悩みなので参加者がたくさんいます。
 午後は山形大学医学部整形外科の荻野利彦教授の特別講演をお聴きしました。荻野先生は北大のご出身で、一時札幌医科大学教授もなさっていらっしゃいました。先生のライフワークは手の先天異常。生まれつき指が6本あったり、指が足りなかったり、あっても極端に短かったり、さまざまな異常があります。荻野先生はこの手の先天異常の世界的権威です。先生のすごいところは、そんなに偉い先生なのに、偉ぶらないのです。実に謙虚です。小柄な先生ですが、手術がとてもお上手です。もし、生まれた子供が手や足に先天異常があれば、荻野教授がお薦めです。
 その後は、眼瞼下垂の発表を聞きました。正直に言って、小切開による眼瞼下垂症手術は当院の方が上だと思いました。自分の方法に自信が持てました。そのうち米国形成外科学会誌に投稿しようと思いました。

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医学講座

日本形成外科学会②

 今日は午前8:00から学会に参加しました。学会はホテル日航東京で行われています。ホテルの1階を貸切って、発表会場だけで1~5まで5会場があります。つまり、午前8:00から第1会場:外傷。第2会場:鼻。第3会場:美容外科。第4会場:頭頚部(トウケイブ)。第5会場:植皮。と5つの分野に分けて口演がはじまりました。
 一人で全部は聴けませんので、私は第3会場の美容外科を聴きました。会場ごとに聴衆の数が違います。一番人気があるのが美容外科の会場です。
 どの先生の発表も興味深い内容です。手術してからの経過観察期間が短い発表などは、ほんとうに良い結果が出ているのか?もう少し慎重に検討しなければならないのでは?とコメントされていました。よくこの手術法は○○学会で発表しました。と宣伝しているクリニックがありますが、ただ発表するだけでは認められません。もちろん発表することが大切ですが、それを英文論文にして米国形成外科学会雑誌などに掲載されると、はじめて世界から認められたことになります。医学の世界は厳しいものです。
 はじめて学会に参加した頃は、その発表が本当か嘘か見分けられませんでした。25年も参加していると‘ウソ臭い’発表はわかるようになります。発表者本人だけが自己満足しているような内容もあります。
 今日の発表でためになったのは、豊胸術に関する3人の外国人の発表でした。米国ミネソタ大学のCunningham先生の講演。米国でもシリコンインプラントが承認され、豊胸術に使われるようになりました。一番大切なのは、優秀な医師に手術してもらうこと。当たり前のようですが、米国でもいい加減な先生がいるようです。メーカーが合併症を防ぐために、セミナーを開催し術式を確立してからは、カプセル拘縮という合併症が少なくなったそうです。
 豊胸術に関しては、表面のツルツルしたバッグかザラザラのバッグか?という2つの選択があります。私は南雲先生の教えの通り、ツルツルのバッグを大胸筋という筋肉の下にいれています。今日の3人の先生の発表では、痩せた体型でAカップも無いような方には、この筋肉の下にツルツルのバッグを入れるのが一番自然に見えるということでした。自分が行っている方法が世界で一番の方法だと確信できました。
 今日は、これから北大形成外科の同門会があります。同じ釜の飯を食べた仲間と、久しぶりに会うのも学会の楽しみの一つです。明日も朝7:50からモーニングセミナーがあります。今日も遅くならないように帰って寝ることにします。

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医学講座

日本形成外科学会①

 明日から東京で日本形成外科学会がはじまります。学会に参加するため、今日は東京に来ています。今回の形成外科学会は第50回目です。最初は、東大病院整形外科の三木先生が小さな研究会をはじめたと聞いています。1958年、昭和33年に第一回目が開催されました。
 私がはじめて日本形成外科学会に参加させていただいたのは1983年。第26回、京都で行われた学会でした。その時は発表もせず、ただ先輩にくっついて‘学会とはこんなところ’と知るために参加したようなものでした。それでも、日常診療で行っている手術や治療を見直すことができ、‘他の施設ではこんな治療もしているのだ’と理解を深めることができました。
 学会では海外からの招待講演も行われます。同時通訳はめったにありません(お金がかかるので)。形成外科は米国で進歩・発展した学問です。米国人の講演は、ほぼ毎回ありました。私はNHKのおかげで英語が得意になっていましたので、毎回外国人の特別講演を楽しみにしていました。通訳なしで十分に理解できました。
 学会に参加する目的のもう一つの目的は他の医師との交流です。同じような手術をしていると同じような悩みを持ちます。自分と意見の合う先生、合わない先生。考え方もさまざまです。
 形成外科学会のおもしろいところは、手術前後が必ず写真やビデオででます。上手下手がすぐにわかります。どんなに偉そうに発表したところで結果が悪ければ一目瞭然です。国立大学も私立大学も一流校も三流校も関係ありません。大学病院の先生だけが神の手ではありません。この道一筋何十年の先生の一言に重みがあります。
 明日は通常より一時間早く、午前8時から学会がはじまります。今日はこの日記をUPしたら明日に備えてすぐに寝ます。明日から学会の内容を報告したいと思います。

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医療問題

医師養成費用

 昨日行われた北海道知事選挙でも、地方の医師不足が問題になりました。高橋知事は、奨学金制度や北海道職員として医師を採用することにより、地方の医師不足解消を図ると公約しています。
 札幌医科大学は北海道が設立した公立大学です。ここで医師、看護師、理学療法士、作業療法士の養成が行われています。私が入学した昭和49年で、医師一人を養成するのに数千万円の費用がかかると言われていました。
 医師を養成するには、文部科学省から大学の設置許可をいただき医学部や医科大学を作ります。建物を建てて、教員を採用して、病院を作り、必要な物品を購入して、職員にお給料を払います。
 家一軒建てるのですら、数千万円のお金がかかります。医科大学を建てるのに、どの位のお金がかかるのか?私にも想像できません。建物を建てて、中に入れる物品の他、研究用機材などが必要になります。医科系で使う研究機材や試薬はとても高価です。優秀な先生を呼んで研究をしてもらうためには、とてもお金がかかります。研究室は工場ではないので、一般的にはお金を生み出すことはありません。
 医科大学には附属病院が必要です。ここで働く職員にもお給料を払います。病院というとお金が儲かりそうですが、大学の附属病院は例外なく赤字です。特に札幌医科大学附属病院は大赤字でした。病院の診療収入だけでは倒産してしまうので、北海道から赤字を補填しています。
 これらすべての費用を学生数で割ると医師一人を養成する費用が算出されます。建物の費用まで含めると億の単位になるかもしれません。ですから私立医大に入学するには莫大なお金がかかる訳です。
 私も道民の皆様の税金で医師免許を取得させていただきました。美容外科という下賎な医療かもしれませんが、少しでも社会の役に立とうと考えて毎日診療をしています。
 医学部や医科大学に入学された学生諸君は、君たちには多額の税金が投入されているということを認識して欲しいのです。せっかく入学したのだから、せめて講義には出席して真面目に聴いてください。

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医療問題

留年

 私は平成10年9月から平成14年7月まで札幌医大形成外科に勤務しました。当時は形成外科教授が不在だったため、私が形成外科担当者として教員会議に出席していました。
 教員会議は①定期試験の受験資格について。②卒業試験の問題作成などについて、各科から担当教員が出席して検討する会議です。
 大学の講義は2/3以上出席すると定期試験の受験資格が与えられます。逆に言うと1/3は欠席しても大丈夫です。大部分の学生さんは、ほぼ毎回出席しますが、中にはギリギリの人もいます。
 普通の会社に勤務して1/3も休んだら、お給料がもらえなくても当たり前ですね。‘あんたもう来なくていいょ’と言われると思います。札幌医大は点呼で出席はとらず、秘書さんが出席カードを配ります。学生さんの中には、この出席カードをごまかしてもらい、友人に名前を書いてもらう人もいます。昔からそういう学生はいましたし、カードのごまかし方も先輩から引き継がれたりします。出席をごまかしても、試験は通って‘立派な’先生になった人もいます。
 一科目で出席がギリでも目立ちませんが、これが何科目にもなると目立ちます。教員会議では‘やさしい’ハト派の先生と‘きびしい’タカ派の先生がいます。厳しい先生になると、『こんな学生が医者になる資格はない!』と一発で落とされます。試験の成績も悪く、出席も悪いとハト派の先生も救いようがありません。
 前の日記で、受験に失敗して予備校に行くのは悪くないと書きました。しかし、留年はダメです。せっかく大学に入って勉強の機会が与えられたのに、自分が怠惰で留年するなんてもってのほかです。入りたくても入れなかった人のことを考えてください。一人の学生を卒業させるのには多額のお金がかかります。親が出した授業料もあります。国公立大学でしたら税金も使われています。医学部は特にお金(税金)がかかります。
 医師不足で困っている過疎地もたくさんあります。真面目な教員は一回の講義をするのに、倍以上の時間をかけて準備をします。講義に出るのは義務だと思って出席してください。代返やカードの偽造もダメです。

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西高一年生の頃

 4月から新しい生活をはじめられた方も多いと思います。もう慣れましたか?私は、高校へ入学した15歳の時に、8年ぶりに札幌へ戻りました。西区八軒にあった家から宮の森の西高へ通いました。
 昭和45年4月8日が入学式だったように記憶しています。入学式の日に雪が積もりました。当時、八軒から西高まではバスで通学しました。八軒にフレッティというスーパーがあります。昔は大丸スーパーでした。デパートの大丸とは関係なく、アークスの横山社長が、最初にはじめられたスーパーの一つです。この大丸スーパーの前に市営バスの停留所がありました。八軒5条1丁目です。ここからバスに乗り、山の手一条通りで降ります。降りてから通称‘文化通’と呼ばれていた住宅街を10分ほど歩いて西高です。
 この市営バスが難物でした。まず、毎日満員でした。バスは新琴似方面から来るバスと、八軒中学方面から来るバスの2系統がありました。夕張の田舎から出てきて、この満員バスに乗るだけで疲れました。また、バスに乗ってもJR(当時は国鉄)琴似駅の踏切で引っかかりました。運が悪いとこの踏切で10分も待たされました。
 踏切で待たされると、当然遅れます。山の手一条通りに着いてから、少し上り坂になっている文化通をダッシュすることになります。英語の辞書やら教科書などが入った思いカバンを下げて、ダッシュすると本当に疲れました。現在、ロッテリアがある、山の手通りの交差点に着く頃にはヘトヘトでした。
 西高の授業も厳しかったです。特に厳しかったのが英語。中学ではそこそこ英語ができたと思っていたのですが、西高では下から何番目?みたいな感じでした。1年生の英語担当は鈴木徹先生でした。通称‘閻魔(エンマ)の鈴木’と呼ばれていました。最初の授業でちょっと隣の人に声をかけられ、ヒソヒソ話していたらいきなり叱られて立たされました。
 英語の授業では教科書を暗記させられました。What do you do when you come across a new or difficult word in your English reader? Do you ask your father? うろ覚えながら今でも最初の一節は覚えています。
 西高には意地悪な子やいじめっ子はいませんでしたが、毎日の授業で私はすっかり自信をなくして行きました。のちに、このエンマ先生に習ったことがとても役立つのですが、最初は‘何でオレが立たされんのョ?’と怒っていました。

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昔の記憶

炭鉱の街

 小学校3年生から中学校卒業までの7年間を、美唄と夕張の炭鉱の街で過ごしました。札幌近郊の手稲から美唄へ引越した時は、戸惑うことが多かったのを覚えています。
 炭鉱の街は石炭産業の企業が作った‘企業城下町’と呼ばれていました。職制によって住む地域が分かれていました。炭鉱は企業ですから、炭鉱長を頂点とする会社組織です。炭鉱長→会社幹部→職員→下請け従業員という順番です。
 茶志内では炭鉱長以下の職員が住んでいた町が‘富の郷(トミノゴウ)’。当時はあまり考えなかったですが、改めて読んでみると、いかにもお金持ちの街という感じです。坑内員の方が住んでいたのが、‘住吉町’でした。職員の街はトイレも水道も家の中にありましたが、下請けさんの街では、トイレや水道は屋外の共同施設を使っていたような記憶があります。お風呂も職員の街の一部には家にありましたが、それ以外では共同浴場でした。
 炭鉱の街は家賃も電気代も水道代も浴場代も石炭もみんなタダでした。炭鉱会社が水道設備を備え、炭鉱で掘った石炭でお風呂を沸かし、地域住民に無料開放していました。病院も当時の健康保険では本人は無料だったと思います。
 ですから、高校生になって札幌へ出てきた時、よく‘電気を消しなさい!’とか‘水道が出しっぱなし!’と祖母に叱られました。結婚して家内からも同じようなことを言われます。北海道の人なのに寒がりとも言われます。石炭がタダで冬でもストーブが真っ赤になるほど暖房して生活していたためでしょうか?私は寒がりなのでクリニックも家も、できるだけ暖かくしています。
 住環境では圧倒的に職員が優遇されていた炭鉱街でしたが、お給料は坑内で働く坑内員の方が良かったと聞いています。炭鉱には事故がつきものでした。一発爆発事故が起これば命はないものというのが共通した認識でした。お墓の横には慰霊碑が立っていて、坑内に入るにはお墓の横を通って通っていたはずです。母がよく‘坑員さんの奥さんは、うちがとっても買えないような高い魚や肉をたくさん買っていく’と言っていました。
 坑内員の方には、頭の良い方も多く、その子供たちが医学部や大学にたくさん進学しました。私より、よほど優秀な大学へ進学したり、大きな会社で偉くなっている友だちもたくさんいます。
 北海道にはこうした炭鉱がたくさんありましたが、国の石炭政策や海外からの安い輸入炭で炭鉱の街は消滅しました。

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院長の休日

福寿草

 今日は休診日。忙しかった春休みシーズンも終わり、陽射しも4月の春の陽気になりました。今朝は朝から天気が良かったのですが、昼前にはなんと春の雪が降ってきました。まだまだ油断できません。
 天気の良いうちに、家の玄関横に咲いた福寿草の写真を撮りました。フクジュソウはわが家で一番先に咲く花です。私はこのフクジュソウに想い出があります。
 小学校2年生の3月に、札幌の手稲金山(当時は札幌郡手稲町字金山栄町でした)から美唄市茶志内(ビバイシ チャシナイ)へ引っ越しました。私が生まれたのは、市立札幌病院です。7歳までは手稲に住んでいました。手稲に三菱砿業㈱の結核療養所があり、父がそこの薬剤師をしていました。結核患者が減少したため、美唄の炭鉱病院へ転勤になりました。
 子供心にも札幌を離れるのが寂しく、辛かった想い出があります。はじめて住んだ炭鉱の町は、驚くことがたくさんありました。まず、流れている川の水が真っ黒です。石炭を掘って、それを選炭といって質の良い石炭と悪いズリに分ける作業に水を使います。石炭を洗った水は上澄みを川へ流すので川が真っ黒になります。毎日、この黒い川と、石炭を積み出すために蒸気機関車がモクモク黒い煙を出しているのを珍しげに見ていました。
 小学校3年の担任は内海昭吉先生でした。学校の校門の近くに先生の家がありました。内海先生は理科の時間になるとよく山へ出かけました。
 美唄の山には福寿草が自生していて、春になるとこの福寿草を採りに行きました。まだ残雪が残っている沢を上がって行くと黄色い福寿草があります。完全に開ききっていないのを見つけて掘ってきます。
 私は山が好きだったので学校から帰ってきても、友だちの荒木田(アラキダ)くんとよく山へ福寿草やウドを採りに行きました。
 昔は教師に裁量権が多かったのでしょう。今なら理科の授業で毎回山へ行くなど信じられないことですが、小学生の私は、こうして自然科学に興味を持つようになったのだと思います。

自宅前の福寿草
(2007年4月5日)

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