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白い恋人
私は毎年3月14日のホワイトデーに、白い恋人を従業員に贈っています。昔、家内の実家を訪ねる時にもよく白い恋人を買っていました。
韓国の学会に招待された時のお土産も白い恋人です。
韓国には白い恋人のような美味しいお菓子がないそうで、とても喜ばれていました。
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北海学園大学のニトリ講座で石水社長の講義をお聴きしました。
石屋製菓は、現社長のお父さんが札幌市北区茨戸(バラト)近くで、水飴(ミズアメ)を作るお菓子屋としてはじめたそうです。
終戦後の甘いものがなかった時代に、水飴はよく売れ、その後は駄菓子を製造し販売していたそうです。
一時期は駄菓子もよく売れたましたが、時代とともに売れなくなり、試行錯誤の上に石水社長が作られたのが、クッキーとホワイトチョコを挟んだ白い恋人でした。
苦労して作ったお菓子ができた時の喜びを講義でお聴きしました。
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フランスのグルノーブルで開かれた冬季オリンピックの記録映画の音楽が‘白い恋人たち’でした。フランシスレイという作曲家の映画音楽で、昔のスキー場ではよく流れていました。
白い恋人の発売前にヒットしていた北海道のお菓子に、当時の帯広千秋庵(現六花亭)が作ったホワイトチョコがありました。
帯広でしか買えないという希少価値と、フキノトウの包装紙に包まれた白いホワイトチョコが人気でした。
石水社長はこのホワイトチョコとクッキーのミックスを考え試行錯誤を続けたそうです。
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白い恋人のネーミングは、ちょうど初雪が降ってきた頃にお菓子が完成し、石水社長のお父さんが、『白い恋人たちが降ってきた』と言われたのがきっかけだと伺いました。
体育会系の石水勲社長が、お菓子を持って千歳空港の全日空カウンターへ行き『このお菓子を機内で配ってください』とお願いしたのが成功のはじまりだったというのが有名です。
この時に、全日空の担当者が会社を見せてくださいと言われ、工場の見学にいらしたそうです。
全日空から製品の衛生管理などに改善を求められ、これがきっかけとなって石屋製菓の体制が変わったと講義でお聴きしました。
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昨日、うちの職員に『来年のホワイトデーはどうしようか?』と尋ねたところ、
『白い恋人は美味しいので、また白い恋人がいいです』と言ってもらいました。
今回の事件を契機にして、是非、石屋製菓を立て直して欲しいと願っています。
新しい社長は、北洋銀行から慶応大学卒の重役さんがいらっしゃるそうです。
経営は銀行からいらした社長に任せて、新しい白い恋人を作っていただきたいです。
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昨日まで順調だった企業も何が起こるかわからない時代です。
新しい白い恋人には、‘白い恋人ライト’などの、カロリーが低くて美味しい製品を追加していただきたいと願っています。
カロリーが低くて、味がよくて、食べても太らないお菓子は絶対に売れます。
白い恋人というネーミングも好きです。白い恋人が一日も早く立ち直って欲しいと願っています。
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講義でお会いした時の石水社長は、お嬢様がご結婚なさってとても嬉しそうでした。
今は人生で最悪の時かもしれませんが、また一人のお菓子職人として、美味しいお菓子を作ってください。
銀行マンに経営再建はできても、お菓子は作れませんから…。
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人間の能力
数学の問題を何回やってもダメだった経験は、医学部を受験した人なら誰でも持っていると思います。
ところが、世の中には頭の良い人がいるもので、一度参考書で問題を見ただけでスラスラと解ける人もいます。
医学部の勉強は、ほぼすべてが丸暗記です。解剖学は頭の先から、つま先まで全ての骨、筋肉、神経、血管の名前を地図を覚えるように覚えなくてはなりません。
解剖学実習には口頭試問がありますので、カンニングもできません。
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私など何度もなんども復唱して、トイレに紙まで貼って覚えたものです。苦労して覚えたことは、なかなか忘れません。
カメラで撮ったか、頭の中にコピー機でもあるの?と思うくらい覚えるのが早い人がいます。
覚えるのが早く、忘れるのも早い人もいます。試験の時に覚えてさえいれば試験は通ります。
医師国家試験の前にも、膨大な量の過去問や問題集を叩き込まないと合格できません。
普通の頭の人は、何度もなんども忘れて『自分はバカだなぁ~』と思いながら、苦労して覚えるものです。
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学生さんにレポートを書かせても、短時間で見事に立派なレポートを完成させる人がいます。
頭のデキが違うなぁ~と感心されられることがありました。
大人になって社会に出て仕事をするようになっても、個人の能力の差は出てきます。
研修医に仕事を教えても、一度で覚える人も、何回教えても間違える人もいます。
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私はデキのよい研修医ではなく、北大に入った時はよくチーフレジデントの先生から叱られていました。
一番、頭がよかったのは斉川(サイカワ)先生という北大卒の先生でした。彼は頭がよかっただけではなく、ピアノが上手で形成外科の宴会で見事な腕を披露してくれました。
残念なことに、斉川先生は北大形成外科を辞めて国立がんセンターに行ってしまいました。今は東京で仕事をなさっています。
デキが悪かった私は、他の研修医や看護師と一緒にチーフの先生から叱られながら、コツコツと仕事を覚えました。
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人間にはさまざまな能力があります。受験勉強や医師国家試験の勉強は‘暗記’が得意な方に向いています。
ところが、実際の医療は‘暗記’では片付けられない難問がたくさん出てきます。
研究者になっても、ただ‘暗記’が得意なだけでは世界に通用する研究はできません。
どの職種にも共通して言えることは、他人と接する‘医療’を実践するには、他人とよくコミュニケーションを取れる能力が必要なことです。
他人の目を見て話すことができる能力が大切です。
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このような能力は学校で教わるのではなく、職場や社会に出てから自分で磨くものです。苦労して失敗して覚えるものです。
私もコミュニケーション能力が高い方ではありません。
今は、一開業医として、美容外科・形成外科の診療を生業(ナリワイ)としています。
受験勉強で役に立っていることはあまりありません。数学よりも簿記でも覚えていたらどんなに役立つだろうと思います。
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受験では挫折も味わいました。奈落の底から這い上がる力も受験でできたかもしれません。
丸暗記では覚えられない、さまざまな‘試練’という経験を積むのが受験勉強の価値であり、人間の能力を高めるのかもしれません。
医学講座
アトピー性皮膚炎
私は高校から大学まで、札幌市西区八軒(ニシクハチケン)に住んでいました。
当時は、地下鉄東西線がなかったので、交通機関は国鉄(今のJR)函館本線の琴似駅か市営バスでした。
琴似に来る市営バスは9番と29番という2路線がありました。
両方とも今はありませんが、9番は大通西4丁目の秋田銀行の前から、29番は市民会館の前から出ていました。
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琴似線のバスに乗車すると、顔や首から手まで皮膚が真っ赤な男子学生にたまに会いました。
話したことはありませんでしたが、気の毒なくらい皮膚が真っ赤でした。ところどころ盛り上がっているところとか、白く粉をふいたようになっている部分もありました。皮膚科の専門用語で紅斑(コウハン)、鱗屑(リンセツ)、苔癬化(タイセンカ)を伴う紅斑と言います。
彼も自分の皮膚を気にしているのか、いつも人目を気にしている様子でした。
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今考えると、彼は重症のアトピー性皮膚炎だったと思います。
私は皮膚科専門医ではないので、アトピー性皮膚炎の治療は行っておりません。
市立札幌病院に勤務していた時に、皮膚科に入院治療をなさったアトピーの患者様を診る機会がありました。
重症のアトピーは本当に気の毒なくらい、皮膚が赤く痒く(カユク)なります。
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市立札幌病院皮膚科に入院されたアトピーの患者様は、皮膚科の先生や看護師さんから、毎日スキンケアーの方法を指導されていました。
ベテランの婦長さん(今の看護師長さん)が『入院して軟膏の塗り方を覚えていただくだけでも、驚くほど快くなるのよ』とおっしゃっていたのを覚えています。
その時に私は、アトピーは外用薬の使い方や生活指導でかなり改善するということを知りました。
軟膏は薄く何回か塗ること。ベトベトにするのはよくないそうです。
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札幌美容形成外科を受診なさる患者様にもアトピーの方がいらっしゃいます。
眼瞼下垂症を主訴に受診される方に、アトピーによって症状が悪化している方がいらっしゃいます。
お話しを伺ってみると、皮膚科へ行っても快くならないので、自分で東北地方の温泉へ行って治している。
皮膚科でもらったステロイドでひどい目にあったので、外用薬は使わず漢方だけで治している。という方が複数いらっしゃいます。
私は信頼できる皮膚科医をご紹介して、まずアトピー性皮膚炎を治すようにお話しします。上手にスキンケアーをすることで症状は必ず快くなります。
ベテランの皮膚科医に外用剤とスキンケアーを指導していただくのがよいと思います。
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アトピー性皮膚炎は皮膚の病気ですから、専門は皮膚科だと思います。
高価な民間療法よりも、マメに皮膚科に通って、毎日スキンケアーをすることです。
入院の必要は必ずしもないと思いますが、外用剤の使い分けは必要です。
皮膚は顔でも瞼と頬では厚さも構造も違いますし、顔と背中では全く厚さが違います。
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エアコン
私は札幌生まれの北海道育ちなので、暑さにはめっぽう弱い体質です。4日連続の記録的猛暑で参っています。
暑いと頭はボ~っとするし、夜もよく眠れません。今日の日記更新も遅くなってしまいました。家の居間は深夜なのに、まだ29℃もあります。
医師になってからは、一日中、空調完備の手術室で仕事をしているので、昼間は快適です。
快適なクリニックで仕事をしていると、夜、家に帰ってからが大変です。
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北海道は涼しいのでエアコンはあまり普及していません。私の学生時代は、高校までは学校にエアコンはありませんでした。北海道は喫茶店にエアコンが無いといわれていた時代でした。
予備校に通うようになってはじめてエアコンの涼しさを体験しました。夏は暑いので予備校の自習室は快適でした。
私が学生の頃は、札幌医大の教室はエアコン無しでした。扇風機もありませんでした。
病院でエアコンがついていたのは、検査室の一部だけで、病室にもエアコンはありませんでした。
今は札幌医科大学にはエアコン完備の立派な図書館がありますが、昔は窓を全開にしても暑い図書館でした。
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私は暑がりだったので、学生時代にアルバイトで貯めたお金で買ったのが窓用クーラーでした。
昭和53年に今のロビンソン百貨店の前身である、ヨーク松坂屋が開店ました。薄野にあった松坂屋とイトーヨーカ堂が提携してできたと記憶しています。その開店記念に、GE製の窓用クーラーを特売で売っていました。
当時のお金で6万円程度でした。自分が稼いだお金で窓用クーラーを買って部屋につけました。
大学時代の試験勉強や医師国家試験の勉強に役立ちました。
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平成元年4月から市立札幌病院皮膚科に勤務しまた。生まれてはじめて‘皮膚科医’になり、皮膚科主任医長の嶋崎先生の総回診につきました。
わずか2年間でしたが、毎週の皮膚科総回診で皮膚病について教えていただきました。
皮膚病の人は、暑い夏に症状が悪化することが多いそうです。暑くて痒くなり、掻いてキズができて悪化します。
私は皮膚科の嶋崎先生から、皮膚病にエアコンが効果的であると教わりました。
老練な皮膚科医である嶋崎先生の持論は『夏は金太郎さんの腹掛けが一番』でした。
つまり風通しをよくして、汗をなるべくかかないようにすることでした。
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息子がアトピーだったので、いつも痒いかゆいとアイスノンで冷やしていました。
息子はかゆくて辛そうで『ボクをアトピーに生んだお母さんが悪い!』と家内に文句を言っていました。
エアコンは贅沢だと思っていましたが、自分の家を作る時にエアコンをつけました。
エアコンのおかげで皮膚も快くなり、子供も涼しいのでよく眠っていました。
アトピー性皮膚炎は、上手にスキンケアーをすると快適に過ごせます。少し贅沢かもしれませんが、アトピーの方にはエアコンをお薦めします。
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今はエアコンも海外生産の廉価版があります。私が買った窓用クーラーの価格で、6畳用のエアコンが工事費込みで買えます。
アトピー性皮膚炎の方や受験生にはエアコンをお薦めします。
快適に過ごすために、涼しさを買うのは贅沢ではないと思います。
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受験生の夏
今日の新聞に来年の国公立大学の募集要項が掲載されていました。
私が高校生だった、35年前は前期・後期ではなく、一期校・二期校という分け方でした。
一期校は3月上旬の3日とか4日に試験日があり、二期校は3月20日過ぎが試験日でした。
一期校に落ちた人が行くのが二期校というイメージでした。小樽商科大学のように二期校でありながら、第一志望にされる大学も例外的にありました。
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一期校は旧帝大の、東大・京大などを代表とする有名国立大学です。北海道では、一期校は北大でした。
札幌医大は、北海道が設立した公立大学でしたが、試験日は一期校と同じ3月3日と4日でした。
今は、前期が札幌医大、後期が北大医学部という併願も、しようと思えばできますが(実際にこのパターンは少ないと思いますが…)、昔は‘絶対に’札幌医大と北大は併願できませんでした。
今も昔も、レベルは北大医学部(北医)が札幌医大(札医)より上です。模試の成績判定で北医A、札医Aなんて人は本当に上位の数人だったように思います。
ちなみに私は札医Aがついたのが、予備校の秋以降だったと思います。だいたいは札医Bくらいだったでしょうか?
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試験科目は、北医は理科2科目で、理科は物理が必須。生物と化学から一科目選択でした。札医は理科が物理・化学・生物から2科目選択でした。
物理が苦手だった私は、この時点で北医は諦めていました。予備校時代に少しずつ成績がUPしてはいたものの、私の周囲には、前年に北医A札医Aで常に成績上位だったのに、どういう訳か?北医に落ちて2浪している人が何人かいました。
私の目標は、1浪で札幌医大に入ることでした。
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3月に落ちて、4月に予備校に通い始めて、あっという間に夏になり、お盆も過ぎていました。
‘受験は夏で決まる’なんてことを予備校の先生から言われました。数えてみると、あと半年でまた試験です。
今はセンター試験が1月にありますので、あと5ヵ月です。
私は、数学の問題はさっぱり解けないし、成績もUPしないし、模試の判定も変化なしという状況でした。
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自治医大という大学が栃木県にあります。僻地(ヘキチ)のお医者さんになる人を育成するために作られた大学です。
都道府県が奨学金を出してくれるので、授業料は実質タダ。その上、生活費としてお小遣いまで貸してくれる大学です。
試験日も、国公立大学の前にありましたので、一期校や二期校と別に受験できました。
かなり倍率が高い大学で30倍以上あった記憶があります。そこの判定はいつも自治医Dとかでした。
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暑くて勉強をしていても、頭がぼ~っとしてなかなか進みません。
浪人したけど、来年は大丈夫かなぁ~?と不安な日々を送っていました。
予備校の同じクラスには、私よりずっと優秀だったのに落ちた人がいました。自分も2浪かなぁ~?2浪はしたくないなぁ~。という毎日でした。
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西高に入学した頃は大の苦手だった英語の成績がUPしてきていました。ラジオの英語会話も聴いていたので、聞く力がついていました。ヒアリングはほぼ100%できるようになりました。
私は特別頭が良かった訳ではありません。ただ、この日記を毎日書いているように、辛抱強く、諦めずに続ける力はこの頃につきました。
北医Aでも落ちた人がいる。私なんか現役の時は札医Cくらいが最高でした。今、自分が浪人しているのは当然の結果だ。開き直りとも諦めともとれる心境でした。
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不安でも、毎日コツコツ勉強を続けました。もちろん‘彼女’の‘カ’の字もありません。ひたすら毎日勉強でした。
パチンコやマージャンをしていた予備校生もいましたが、私は酒もタバコも一切しませんでした。
こうして、勉強を続けた結果、翌春には、札幌医大と自治医大に合格できました。
自治医大には北海道から3人が合格しました。あとのお二人は北医に合格。私の合格は‘奇跡’と言われました。判定がDでしたから。
受験生の皆さん、決して最後まで諦めないでください。
一度、挫折を味わって一年間努力した人は必ず後から報(ムク)われます。私の人生哲学です。
医療問題
お父さんの仕事は当直
私が以前勤務していた総合病院の産婦人科の先生の話しです。
子供さんが幼稚園で先生から『お父さんのお仕事は?』と聞かれて、答えたのが、
『うちのお父さんのお仕事は当直!』
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『いゃ~ぁ、参ったよ!』
確かに、週に2回も3回も当直があって、家に帰ると子供はすでに寝ているので、毎日寝顔を見るだけ。
子供が妻に『今日もお父さんいないの?』と聞くと、
『お父さんは、今日もお仕事で当直なのょ』
幼稚園でお父さんのお仕事は当直と答えても当然だよね。
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その総合病院では、院内当直と救急当直の他に、外科と産婦人科は科内当直を置いていました。
大学病院では、各科毎に当直医がいるのが当たり前ですが、総合病院では病院当直が一人です。
各科の医師は、オンコールといって、何か用件があれば電話で呼び出されるシステムです。
医療法の規定では、30床の病院でも800床の病院でも当直医の数は一人です。つまり、小規模であろうが大規模であろうが当直医の数は一人が法定数です。
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地域周産期母子医療センターは母体搬送など、他の医療機関で手に負えない妊婦さんの治療をします。高度の専門知識を持った医師やスタッフが必要です。
産婦人科専門医の数は少なく、最も医師数が多い施設でもせいぜい6人程度です。
その中には、一人では満足に治療ができない先生もいるので、中堅の医師にかかる負担はかなりのものになります。
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重症の妊婦さんは、急に容体が変化することもあります。
たとえ緊急手術をしたとしても、その後に術後管理をしなくてはいけません。
下の先生が当直当番でも、頼りなかったら上の先生(業界用語でオーベンと言います)がつくこともあります。
その結果が『うちのお父さんのお仕事は当直!』ということです。
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以前にも書きましたが、お産はある一定割合で必ずトラブルになります。
医学が発達したのに、たかがお産ごときで死ぬことなんて無いと思っていらっしゃる方が多いと思います。ところが世界中ではかなりの数の妊婦さんと赤ちゃんが亡くなっています。
お産はもしトラブルになると、赤ちゃんとお母さんの2人の命が危険になります。
妊婦さんの側に、喫煙・性感染症など、問題がある方が増えているのも事実です。
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昔から、医者で一番の早死には産婦人科と言われています。
ストレスが多く、時間が不規則で、拘束時間が長い…、少しくらい給与が高いだけでは産婦人科医になる人はいません。
医学生や臨床研修医は、冷めた眼で現場を見ていますので、産婦人科医になる人は減っています。
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産婦人科医はリスクの大きな周産期治療ではなく、自由診療で料金が高い不妊治療などを専門にするようになります。
私は韓国で、産婦人科を辞めて美容外科になりたいという先生に‘二重まぶた’の手術を教えました。
安心して子供が生める医療システムを作らないと日本は滅びます。
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医師が辞める理由
昨日、天使病院の産婦人科医が9月末で全員辞めるという北海道新聞の記事を紹介しました。
医師が辞める理由はさまざまですが、一つの科の医師が全員辞めるというのは、あまり例がありません。江別市立病院で内科医が辞めたのが記憶にある位です。
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一般の方には想像できないと思いますが、医師は横のつながりが極めて強い職種です。
学会を通じて、全国や世界各国の同業医師と友だちになります。学会発表や論文を見ると、その先生にどの位の力量があって、どんな考えの先生かも推測できます。
医学部は6年間もありますので、100人近い人が小学校1年生から6年生まで同じ学校に通うようなものです。
同級生とは強い連携ができますし、6年間も同じ学校に通うので、性格から行動までおおよそ全てがわかります。
同級生から信頼されない医師は、ダメ医師のレッテルを貼られたようなものです。
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専門科目を専攻するようになってから、一番強いつながりができるのが、大学の同門(ドウモン)です。大学病院で同じ釜の飯を食べて、医師として腕を磨いた仲間のことです。
現在、30歳以上の中堅の先生は、医局制度が健在だった頃に専門医になっています。
私も含めて、何もできなかった新米の医師を育ててくれたのが大学の医局でした。
産婦人科は北大も札幌医大も大きな医局でした。横のつながりも極めて強い医師集団が大学の同門でした。
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天使病院は2003年7月から社会福祉法人聖母会から医療法人社団カレスアライアンスに病院事業が継承されました。
当時の天使病院長は藤本征一郎先生でした。藤本先生は北海道大学産婦人科の名誉教授です。北大産婦人科と強いパイプを作り、地域周産期母子医療センターを立ち上げるというのが医療関係者の見方でした。
医療法人社団カレスアライアンスは、室蘭の日鋼記念病院が原点になっている医療法人です。理事長の西村昭雄先生が、日本製鋼所の企業病院だった病院を、日本でも有数の優良病院に育てたことで有名です。
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西村先生は北大第一外科の助教授から室蘭の日鋼病院の病院長に就任されました。
西村先生が赴任された頃の日鋼病院は、とても立派な病院とは言えない古い病院だったそうです。
その病院を西村院長が大手術をして、今の日鋼記念病院に育てたそうです。
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不思議なことに、日鋼記念病院でも、現在、産婦人科が休診しています。
私の推測ですが、西村理事長と北大産婦人科に何かがあったと思います。
医師が辞める理由はさまざまですが、大学の医局と病院のどちらを取るかと問われれば、答えは大学の医局です。
太い絆(キズナ)で結ばれた大学の同門は団結が強いものです。
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産婦人科医の処遇をめぐって、医療法人との間に‘絶対譲れない何か?’があったのだと思います。
一般病院では、医師の待遇が年々悪くなっています。給料は下がるは、責任は重くなるは、拘束時間は長くなるは…。
急患の診療で休日も休みなし。子供と夏休みを取ろうと思ってリゾートホテルを予約しても、病院からの呼び出しで予約はキャンセル。
奥さんからも子供からも責められては、お父さんも病院を辞めたくなります。
札幌から安心してお産ができる病院をなくさないで欲しいと願っています。
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天使病院
平成19年8月10日と11日の北海道新聞に天使病院の記事が掲載されていました。
天使病院は札幌市東区にある260床の病院です。明治44年(1911年)に開院した歴史のある病院で、札幌市民や北海道の人にはよく知られています。私の長男も天使病院で生まれました。
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その名前の示す通りキリスト教の病院でした。以下は天使大学HPから引用しました。
1908(明治41)年「マリアの宣教者フランシスコ修道会」本部(ローマ)から7名の修道女が札幌に派遣されました。修道女たちは施療所(現・カレスアライアンス天使病院)を開設し、日夜貧しい人々へ手をさしのべ、病める人々に献身的な看護を行いました。
1924年(大正13年)に病院付属看護婦養成所を開設。
1947年(昭和22)年に札幌天使女子厚生専門学校が設立されました。
現在まで60年間で8500名以上の卒業生が看護師・栄養士・養護教員などとして活躍されています。
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天使大学の同窓会長は、鎌田とし子先生です。栄養科5期卒。東京女子大学名誉教授で社会福祉学博士です。
私は一度鎌田先生のお話しをお聞きしたことがありますが、とても優秀な先生でした。
昔の天使病院には、たくさんのシスターがいらして、病める病者に優しい愛の手を差しのべていました。
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2003年(平成15年)7月から社会福祉法人 聖母会から医療法人社団カレスアライアンスに病院事業が継承されました。
当時の藤本征一郎病院長の2005年のお言葉です。
公益性が求められる病院は「社会公器」であり、目先の「利益」よりは「義」が重んじられなければなりません。公益性を指向する「運営」が経営を改善し、受療される地域の皆様と病院職員一同とが、ともに初めて満足感を共有しうるものと私は考えます。
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天使病院で何があったか私にはわかりませんが、産婦人科医全員が9月末で辞めてしまうそうです。
天使病院は地域周産期母子医療センターという早産や重い妊娠中毒症など高いリスクの出産を受け入れている数少ない病院の一つです。
天使病院が産婦人科を休診すると、重症の妊婦さんが受け入れてもらえない可能性が出てきます。奈良県の死亡事故が思い出されます。
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天使病院の院長になられた杉原平樹(スギハラツネキ)先生は私の恩師です。初代、北海道大学病院長です。
杉原先生の再建手術は慎重で丁寧な手術でした。‘失敗した’手術を見たことがありませんでした。私たち北大形成外科同門の間では「スギさん」と親しみを込めて呼ばれていました。
杉原病院長のご尽力で、何とか天使病院から産婦人科の灯を消さないで欲しいと願っています。数多くのシスターもお祈りなさっていることと思います。
医学講座
がん免疫療法
平成19年8月8日の北海道新聞に‘がん免疫療法’の記事が掲載されていました。
治療を実施しているのは、帯広市の北斗病院です。
私が帯広厚生病院時代にお世話になりました。もともと札幌の中村脳神経外科に勤務していた、鎌田先生と橋本先生が作った脳神経外科の病院でした。
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私が帯広にいた平成7年から平成10年までは、帯広厚生病院に脳神経外科がありませんで。
現在、北斗病院理事長をしている橋本郁郎先生が私の大学時代の同期でしたので、よく患者様をお願いしていました。
帯広厚生病院ではできない手術を、東大の先生にいらしていただき、私が北斗病院まで行って東大の先生とご一緒に手術をしたこともありました。
当時から学閥にとらわれず、常に最先端の医療を目指していました。
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北斗病院は2003年7月1日からPET(ペット)というガンの診断装置を導入しています。北海道では最も早く導入した施設の一つです。現在ではPET-CTを含め3台のPETが寡動しています。
PETはかなり高価な装置なので、大学病院でもないところがあるくらいです。
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北斗病院で行っている、がん免疫療法は東京大学医科学研究所の細胞治療技術を採用しています。がん治療のベンチャー企業であるテラ(株)と提携して行われています。
がん免疫療法は私が学生だった30年前から、可能性を示唆されていました。
近年のバイオ技術の進歩で一般的になってきました。
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大学病院ではさまざまな理由でなかなか実施できない治療が、北海道の十勝で受けられるのはすごいことです。
最先端の医療を目指す北斗病院で、一人でも多くのがん患者様が助かることを祈念しています。
未分類
補正下着
平成19年8月9日、北海道新聞の記事です(北海道新聞HPより引用)
補正下着販売、苦情相次ぐ 05年度以降、相談127件20代中心
理想の体形に矯正する女性用補正下着の販売をめぐる苦情や相談が、札幌市消費者センターに相次いでいる。若い女性の体形の悩みを利用し、400万円を超えるローン契約を結ばせるケースもあり、同センターは注意を呼びかけている。。
同センターによると、補正下着の販売をめぐる苦情、相談は2005年度からこれまでに127件あった。相談者の約8割は20代前半の女性で、購入金額の平均は約79万円、最高額は約439万円。最近は下着店の女性店員が販売目的を隠し、居酒屋などで女性と「友人」になり、下着販売店に誘うケースが目立ち、全体の約半数を占める。
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20歳の女性は下着販売店に勤める友人から「同級生が集まるから」とお好み焼きパーティーに誘われ、出向いたところ販売店だった。「ももが太い」と悩んでいた女性は補正下着の購入を勧められ116万円のローン契約を結んだが、体形は変わらなかったという。
また、21歳の女性は友人に誘われて下着店を訪れ、「理想の体形になるには、肉を移動させること」と説明を受けた。ブラジャーやボディースーツなど67点を86万円で購入し、一年間着用したが、効果はなく、逆に皮膚にあざや色素沈着が残った。
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同様の相談は旭川や帯広などの消費生活センターにも寄せられている。札幌市消費者センターは「友人関係を利用した販売が最近の傾向。多額のローン契約を結び支払い不能になった相談者もいる」と話している。
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同じような内容が札幌市消費者センターHPに掲載されています。
こちらは2005年のケースですから、毎年かなりの数の‘被害者’がでていると推測されます。
胸を大きくしたい、お腹のぜい肉をとりたいという願望は女性共通のものです。体重が40㎏台のかなり細い方でも、お腹の肉をとりたいと来院されることがあります。
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医学の力を借りても‘簡単に’体型を変えることはできません。
下着で胸を大きくすることは不可能です。寄せることはできても‘大きく’することはできません。寄せるだけでしたら、市販の下着で十分です。
お金さえ出せば、‘楽に’‘簡単に’キレイになれると思わないで下さい。‘甘い話’には必ずワナがあります。