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ホタテの味
もう20年以上も前のことです。私が道内の病院に勤務していた時、夜に病院から呼び出されました。顔に大ケガをした女の子が管内の救急隊から搬送されると連絡が入りました。
私はまだ若く、自分の子供がまだ生まれて間もないころでした。その子供さんは、お父さんの運転する車の助手席でおばあちゃんが抱っこしていたと思いました。
車同士の衝突で、その女の子はフロントガラスに顔をぶつけ、血だらけになって救急車で搬送されてきました。
意識ははっきりしていましたので、レントゲンを撮って手術の準備をしました。右の目の横から頭にかけて大きなキズがあり、ガラスが突き刺さっていました。
麻酔科の先生にお願いして全身麻酔をかけていただき、キズの処置をはじめました。外来で診察した時には泣いていたので、ガラスには触らずガーゼを当てて手術室に入りました。
消毒をして手術用の布をかけて、キズを生理的食塩水で洗い、処置をはじめました。簡単に取れるだろうと考えていたガラスは引っ張ってもびくともしませんでした。
イヤな予感がして、おそるおそるガラスを取り除いてみると、なんとガラスは骨を突き破って脳に達していました。大人だったら骨が硬く、ガラスが頭蓋骨を突き破ることはめったにありませんが、子供の柔らかな骨はガラスで破られていました。
さらに悪いことには、ガラスは脳硬膜という白くて硬い膜まで破り、ガラスを取り除くと脳脊髄液という透明な液が流れてきました。
こうなると形成外科ではなく脳外科になります。不幸にもその病院には脳神経外科がなかったため、私はいつもお世話になっていた近隣の病院の脳外科の先生に電話をしました。
深夜にもかかわらず、その脳外科の先生は私の勤務していた病院まで来てくださり、脳の処置をしてくださいました。
その子のお父さんは腕の良い漁師さんでした。娘さんのキズが脳にまで達していたこと。私の判断の甘さからガラスが脳に達していることがわからなかったこと。脳の処置は専門の先生にきていただき、顔のキズは私が処置をしたことをお話ししました。
お父さんは、深夜に他の病院から先生を呼んでまで娘を助けてくれたことにとても感謝してくれました。
幸いにも、その娘さんは脳の後遺障害もなく、顔のケガもキズが目立たずに治りました。今でも、お父さんからも結婚して子供さんができた娘さんからも年賀状をいただきます。
お父さんからは、毎年自分が採ったホタテを20年以上も送っていただいています。私は、その日本一美味しいホタテをいただく度に、自分の判断が甘かったことを反省し、深夜にいらしていただいた脳外科の先生に感謝しています。
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クリニックの香り
以前、雑誌の女性編集者の方にご来院いただいた時のことです。「今日は仕事で参りましたが、美容外科へ来るのははじめてでどんなところか?とドキドキして参りました」「玄関に入るとよい香りがして、病院らしくなく安心いたしました」と印象を述べていただきました。
お仕事でいらしてもドキドキするのですから、これから手術を受けようといらっしゃる方はどんなに緊張していることでしょうか?正直なところ、私も普通の‘病院’勤務をしていた時代に、はじめて美容外科を訪れた時はドキドキでした。
‘病院’のイメージとして、消毒の臭いがプ~んとして、注射の針が怖くて、私も小さい頃は注射が大嫌いでした。針を見ただけで逃げ出していました。
札幌美容形成外科の玄関に入るとラベンダーの香りがします。私がラベンダー好きなので自分で育てた花を飾り、院内にはラベンダーオイルでラベンダーの香りを流しています。
私がラベンダーを知ったのは高校生の時です。偶然、NHKラジオでラベンダーのことを放送していました。当時はラベンダーを見たこともありませんでしたが、いつか見て嗅いで育ててみたいと思っていました。
前にも書きましたが、高校生の頃のからNHKの趣味の園芸をみていました。高校生の頃に育てていたのは白いユリとスズランでした。狭い庭でしたが花を育てるのが好きでした。
今、クリニックに飾ってある花は、私が育てて、家内、私の両親と家内の母が束ねて乾燥したドライフラワーです。ラベンダーは今は雪の下ですが、春になって芽を出し、7月に開花します。皆様がご来院いただいた時に少しでもリラックスしていただけると幸いです。
医療問題
お辞めなさい!
柳澤伯夫(やなぎさわはくお)厚生労働大臣がまた問題発言をしました。若者が「結婚し、子どもは2人以上持ちたいという健全な状況にある」と言ったそうです。
朝日新聞の記事によると、心理学者の小倉千加子さんは「結婚したい、子供が2人以上ほしい、というのを健全とすること自体、古い道徳観からくる発言で、年齢的な限界を感じる」と言う。「こういう発言が止まらない人が厚生労働大臣をしているから、ピントのずれた政策が続き、少子化が止まらないのだと思う。(夫の発言をメディアでしかった)奥さんはずっとまともな方のようだから、これからは外で何か発言する前に、奥さんにチェックしてもらった方がいい」と話した。
この人には厚生行政を担当する能力がありません。はっきり言って大臣を辞任すべきです。奥さんに代わってもらった方がまだまともな行政ができます。
医学常識として、普通に結婚して、普通に性生活を送っている夫婦の10組に1組は子供ができないと言われています。子供が欲しくてもできない夫婦が10%もあるのです。
運良く、子供ができたとしても、北海道の地方都市では産婦人科が次々となくなっています。お産ができる病院がなくなってきているのです。こんなことを知っているのでしょうか?タレントから知事になった方の方が、東大法学部を卒業してエリートコースを歩んだ議員さんよりよほど庶民的です。
産婦人科が敬遠されるのは日本だけではありません。私がお隣の国、韓国に‘二重埋没法’の講師として招かれて実技指導に行った時のことです。韓国でも、産婦人科を辞めて美容外科になりたい先生がたくさんいらっしゃいました。リスクの高いお産を扱うのは、どこの国でも嫌がられているようです。ある先生が言っていました。『美容外科はたとえ失敗しても患者さんが死ぬことはないが(注:脂肪吸引などで死亡事故があります)、お産は下手をするとお母さんと赤ちゃんの2人を失うことになる』
また、ある都会の病院(札幌ではありません)の先生が言っていました。最近の妊婦さんは病院を選ぶので、和食・洋食・中華とそれぞれシェフを雇い、自分が食べたこともないような‘生きた鮎(アユ)’なんて食材を購入しなければならない。と嘆いていました。その先生も、産婦人科は大変なので辞めたいと言われていました。安心して子供を生んで育てられる国づくりをしないと日本の将来はありません。
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白樺文学館
昨日(平成19年2月5日)から北海道新聞夕刊で白樺文学館長 佐野力(さのちから)さんの連載が始まりました。
私は偶然にも北海道が生んだ偉大な社長、佐野さんと知り合いました。佐野さんは1941年栗山町生まれ。お父様は佐野弘さん。佐野家は奥州白石城主片倉家の家臣で、明治の初め、薩長土肥に仕えることを潔し(いさぎよし)とせず、津軽海峡を渡って来道されたそうです。
お父様はシンガポールで写真術を学び栗山で写真館を開かれました。佐野さんは4人兄弟の末っ子で、高校まで栗山で過ごされ、小樽商大に進まれました。
1963年に小樽商大を卒業後、日本IBMに入社され、26才で課長に昇進後、米国IBM(ニューヨーク)出向、中国事業開発部長、西部支社営業本部長などを歴任。1990年に日本オラクルの代表取締役社長に就任。CEO、米国オラクル上級副社長兼務を歴任されました。
恥ずかしながら、私は佐野さんと知り合うまで、IBMは知っていましたが、オラクルはまったく知りませんでした。オラクルは手短に言うと、データーベースソフトの会社。データーベースと言えば、dBaseⅡやファイルメーカー程度しか知らない私は、佐野さんからオラクル?データーベース?と聞いてもオラクルがどんな会社かまったく知りませんでした。
さまざまな企業がITのおかげで発展しました。セブンイレブンが成功したのは、商品管理をいち早くコンピューターで行ったからだと言われています。このセブンイレブンの商品管理に役立っているのがオラクルなのです。
佐野さんは1990年に日本オラクルを立ち上げ、2000年に会長就任後、経営を退かれました。今でも日本オラクルの大株主です。著書『辞めた 起こした 成功した!そしてロマン』(こうき社刊)の中でIBMを退社し、新しい日本オラクルを立ち上げた思いを述べていらっしゃいます。今日の道新の記事では小学校時代に世界文学全集を読破したことで成績が上がり、後に世界を相手にするビジネスで役に立ったことが紹介されています。道新の連載を是非読んでください。私からのお薦めです。
医療問題
女性は産む機械
柳澤伯夫厚生労働大臣(やなぎさわはくお:昭和10年8月18日生、本籍 静岡県。 昭和36年3月東京大学法学部卒業)が女性は産む機械と発言したことが問題になっています 。はっきり言って、この人は厚生労働大臣を辞任すべきです。大臣をやめさせられないのなら、安倍首相も今年限りでおしまいでしょう。
妊娠・出産が女性にとってどれほど重大で大変なことかは、厚生労働大臣たる者はしっかり認識しなくてはいけません。医師免許証にも、助産師免許証にも、看護師免許証にも厚生労働大臣の名前が入るのですから。
産婦人科の先生でなくても、妊娠・出産が危険を伴うことは周知の事実です。どんなに医学が進歩しても、100%安全なお産などあり得ません。一般の人はお産は普通に生まれて当たり前と思っていらっしゃるかもしれませんが、異常分娩は珍しいことではありません。
ニワトリがタマゴを産むときだって、タマゴが詰まって親鳥が死んでしまうこともあります。人間が一人の赤ちゃんを産んで育てるのは大変なことです。子供を生んで、おっぱいをあげて、赤ちゃんを愛しみ(いつくしみ)育てるのは女性に与えられた特権です。男はどんなに頑張っても子供は生めませんし、おっぱいもあげれません。愛している人の子供だから危険があっても産み育てられるのです。
女性はか弱いと思われている方が多いと思います。神様は子供を生む女性を強く作られました。重症の外傷で出血多量になったとします。同じ条件で出血したとすると、男と女では助かるのは女性です。これは救急医療を経験した医師であれば‘常識’として知っています。女性は赤ちゃんを産むために、出血や貧血に強くできています。
お産が大変で、リスクも高いので産婦人科(特に産科)の医師になる医学生が減っています。北海道でもお産ができる病院が極端に少なくなってきています。少子高齢化対策を講じないと日本は滅びます。その担当大臣が生む機械発言をして、それに内閣総理大臣が何もできないのでは日本も終わりです。美しい国どころではありません。
女性が安心して子供を生んで育てられる国づくりが、一番の少子高齢化対策だと思います。
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医師の給与
日記に釧路労災病院に勤務していた時のことを記載したところ、興味深い内容だったとご意見をいただきました。
一般の方はお医者さんのお給料のことなどあまり知る機会がありませんね。お医者さん=お金持ち。というのが一般的な考えでしょうか?
一般企業でしたら、大きな会社=お給料がよい会社。というイメージで、業績にもよると思いますが、上場企業の方が中小企業よりもお給料が高いのが一般的でしょう。
医師の給料は、大きな病院=給料が安い病院。と言っても差し支えないと思います。私が研修医になった昭和55年頃は研修医の給料が一番安かったのが、なんと慶応病院でした。
あの有名な‘王選手まで手術した’慶応義塾大学病院の研修医の月給が約3万円。北大病院の研修医が約10万円でした。慶応病院はお給料が安くてもたくさんの研修医が集まるため高くする必要がなかったのだと思います。
北大形成外科の大浦武彦教授はとても公平な先生でした。研修医が出張先を決めるのも、‘教授命令’ではなく研修医が自主的に決めていました。出張先によって月給が10万円単位で異なっていました。年収にすると100万円単位の差がありました。労災病院のような公的病院は(当時は労働福祉事業団という労働省の外郭団体が経営していました)、全国一律の給与規定により給与が決まっていました。当然、院長から研修医まで民間病院よりずっとお給料は安かったのです。
①民間≒村立>②町立>③市立>④国立の順番に給与は高く。①僻地・離島>②田舎>③地方都市(特急の停車する市)>④都会の順に給与は高くなります。
田舎へ行くと子供の教育ができない。デパートがないので奥さんに嫌われ単身赴任させられる。などの理由で医師が赴任したがらない土地ほど給与が高いのです。
当然といえば当然の理由ですが、田舎では村長より給与が高い先生がゴロゴロいたと聞いています。
医師が給与だけで病院を決めていたかというと、そうでもありません。私たち北大形成外科の研修医は研修委員会という研修医の組織をつくり、そこで話し合いで決めていました。ただ、同期3人で3箇所の病院を選ぶ際には、最後は‘じゃんけん’や‘くじ引き’で出張先を決めていました。じゃんけんで負けたばっかりに、年収で100万円以上の差が付くこともありました。
私はお給料のことはあまり考えていませんでした。じゃんけんで負けたかどうかは覚えていませんが、自分が当たった病院で精一杯頑張るようにしていました。家内と二人でしたから大学の給料と比較すると、どこへ行っても十分に生活して行けました。釧路労災病院へ行った時も休日に阿寒や知床などをドライブするのが楽しみでした。こうして私の医師としての青春時代が過ぎて行きました。
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腕を磨く
医師はある意味‘職人’なので、有名シェフや棟梁の下で働き技術を身につけ腕を磨く必要があります。都市部の大病院や有名病院に勤務して、研修を積めば腕も上がり名声も得られるという‘幻想’を持つ先生もいます。
ところがいくら有名シェフの料理を見ても、腕のよい棟梁の仕事を見ても、医師は先輩に指導していただき、自分で苦労して手術を覚えないと上達しません。自転車にはじめて乗る時は、補助車をつけて、親に後輪を支えてもらって、何度も転んで痛い思いをして、はじめて自転車に一人で乗れるようになります。
『私は○○大学病院形成外科で研修しました』と言っても大学病院で手術を執刀するのは、せいぜい助手までで、研修医にまで手術をさせてくれる大学病院はマレです。
私の例でいうと、大学で研修して専門医を取得した後で、釧路労災病院や帯広厚生病院といった地方病院のチーフになって、そこでたくさんの患者様を手術させていただいて手術の腕が上達しました。釧路労災病院は時間外手当も休日出勤手当もありませんでしたが、設備は大学病院以上で、全国の労災病院でも一番というくらい設備やスタッフが充実した病院でした。
札幌から離れていたため、大学のスタッフに応援を頼むのも大変でした。ですから外傷で目や顔がぐちゃぐちゃになった患者様がいらしても、夜を徹して自分で手術をしなければなりませんでした。徹夜で手術をしても翌日は普通に外来や手術をしていました。私の30歳台の前半はこうして修行を積んで少しずつ腕を磨いたのです。
今思うと、体も壊さずによく働いたものだと思います。外傷でぐちゃぐちゃになった患者様を治す技術を身につけていると、他院で失敗した美容外科の患者様の修正手術なども簡単にできるようになります。卒業してから美容外科しかしたことがない先生は、二重やワキガや包茎の手術はできても、絶対にアッカンベーになった失敗例は治せません。私が他院で失敗した症例の手術をあまりしないのは、患者様が簡単な手術で治ると思っているからです。 「人の手術の失敗例に手を付けるな」という教えは札幌中央形成外科の武藤靖夫先生もブログに書いていらっしゃいます。
私はロシアから来たヤケドの子供の治療もしました。下まぶたどころか顔全体がアッカンベーになった子供を治すのは本当に大変でした。国際問題になるので手術の失敗は許されませんでした。あのコンスタンチンちゃんを治したのは私の先輩である、旭川赤十字病院形成外科部長の阿部清秀先生です。阿部先生のところにはいまでもコースチャから連絡があるそうです。苦労して腕を磨いた形成外科出身の先生は、高給優遇の宣伝で美容外科を選び、速成栽培で手術を覚えた先生とは奥の深さが違います。
医療問題
医師引き上げ
今朝の北海道新聞に、北海道内の病院へ北大・札幌医大・旭川医大の大学病院が、医師派遣を打ち切るという記事が掲載されていました。昨日は、釧路労災病院へ小児科医の派遣を北大が打ち切ったため、旭川医大が「小児科医がいない病院へ産婦人科医を派遣できない」と産婦人科医の派遣を打ち切り、釧路労災病院では小児科と産婦人科が休診になるという記事が掲載されていました。
派遣を打ち切られる病院は、釧路労災病院の他に、旭川赤十字病院小児科(札幌医大)、市立室蘭総合病院皮膚科(札幌医大)など、いわゆる道内の有名公立病院が含まれているところが今回の‘事件’の特徴です。
この問題の背景として、2004年4月からはじまった臨床研修制度があります。医師免許取得後2年間は臨床研修を義務づけ、研修医が自由に病院を選ぶ時代になったのです。私たちが卒業した頃は、卒業後に各大学の医局という診療科に就職し、そこで徒弟制度のように先輩から技術や知識を学ぶのが一般的でした。医局の頂点は各診療科の教授で、教授は若い医師を‘教育する’見返りとして、強力な人事権を有していました。
よく冗談のように、人事異動の前に教授にトイレで会って‘連れション’をした時に、‘○○君、今度キミは○○町立病院へ行ってくれ’と言われて飛ばされたというもっともらしい話が当たり前のように言われていました。人呼んで‘ション便人事’とすら言われていました。私が所属していた北大形成外科では絶対にありませんでしたが、教授の権力がいかに大きかったかという象徴的な言葉です。
各病院の院長は大学の教授とさえ親密にしておけば、医師の派遣という病院にとって最も重要な人材確保は安心できていたのです。ところが、臨床研修制度がはじまると、医学生は医師臨床研修マッチング協議会という機関に申し込んで、コンピュターにより研修先を決められるようになりました。医学部の6年生になると申し込みます。学生は各病院の給与や待遇を十分に検討して申し込みますので、安月給で重労働おまけに雑用ばかりの大学病院は敬遠されます。
この制度がはじまってから、各大学は極端な人手不足になりました。地方病院へ派遣する医師はいなくなり、次々と大学へ医師を引き上げています。教授の‘人事権’も権力が低下していると言われています。‘ション便人事’などもってのほかで、今では「○○先生。今度○○総合病院へ主任医長として赴任していただけませんか?」と教授が切り出しても「せっかくですが、○○総合病院は給料が安く時間外手当も出ません。おまけに土曜日も外来があります。私は家庭第一主義ですからお断りさせていただきます」というように人事も簡単に決まらないと聞いています。
派遣を打ち切られている‘有名公立病院’は、‘給料が同じ都市の他病院より安い’のでも有名でした。私が釧路労災病院に勤務していた頃は、お隣の釧路赤十字病院より年収が100万円単位で安かった記憶があります。私は大学から派遣されていたので、時間外手当がなくても、土日も回診があって休みなく働かされても、ボーナスが日赤病院より少なくても、一生懸命働いていました。今の若い先生には通用しないのかもしれませんね。
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あまおう
私の好物はイチゴです。今日、以前ご紹介した中央市場のさっぽろ青果館にある中野商店(電話:011-622-7817。メール:fruits-nakano1515@bridge.ocn.ne.jp)へ行って‘博多あまおう’というイチゴを買ってきました。このイチゴにはJA糸島いちご部会というセロハンが付いています。九州の農家の方が手塩にかけて育ててくれたのだと思います。‘あまおう’という名前に恥じず、とても甘くて美味しいイチゴです。スーパーでも‘あまおう’は売っていますが、中野商店の‘あまおう’は一段と甘く美味しいのです。
家内はスーパーに行ってイチゴを買う時に、あれこれ選んでパックの裏側まで見て買います。それでもたまにはずれがあります。私は中野商店に行った時は必ずご主人の中野功さんに選んでもらいます。メロンもイチゴも絶対にはずれがありません。さすがこの道何十年のプロの目です。
私のイチゴ好きは子供の頃からです。小学校3年生から中学校1年の5月まで、美唄市茶志内(びばいしちゃしない)の日東(にっとう)という炭鉱の街に住んでいました。
家の近くに海老名(えびな)さんという農家ががあり、イチゴや野菜を栽培し、近所の人にも分けてくれていました。ここのイチゴが真っ赤でとても美味しかったのを覚えています。
私が小学生だった昭和39年(1964年)は東京オリンピックが開催された年でした。まだ自家用車がとても珍しい頃でした。当時はバナナが高級品で、めったに口にできませんでした。バナナが食べられたのは運動会とお祭りの頃だけだったような気がします。一本のバナナを大事にだいじに食べた記憶があり、バナナを腹いっぱい食べられたらどんなに幸せだろうと思っていました。
ですから今でもバナナが好きですし、バナナ一本でも黒くなって捨てるのはとてももったいなく思っています。
話は変わりますが、中野商店のメロンのおかげで愛犬のチェリーはなんとか生き延びています。腎不全が進行して尿が出なくなってきていますので、あと何日生きられるかわかりません。一日メロンを1/3程度食べています。最後なので実の甘いところを食べさせています。
医学講座
修正手術
他院で手術を受け、経過が思わしくないと受診なさる方がいらっしゃいます。大学病院や総合病院に勤務していた時にも相談を受けていました。
実は、お直しの‘お直し手術’は、とても難しい場合が多いのです。ちょっとした不具合を修正して欲しいと、軽いお気持ちでご来院なさる方もいらっしゃいます。
変形の程度が軽ければ軽いほど手術は難しくなります。ちょっとした不具合が一番難しいのです。私は自分が見て‘このままではどうしても外を歩けない’という程度でないと手術はお引き受けしていません。
いままで札幌美容形成外科で行った他院手術後の修正手術は、二重埋没法をしてその後に化膿して瞼に膿が溜まってしまった患者様。下まぶたのたるみ取り手術をして『アッカンベー』になってしまった患者様。昔、豊胸術を受けてシリコンバッグが破れて胸が変形してしまった患者様などです。
お直し手術が難しい原因は、
①他院で受けた手術内容が不明なため、どこをどう縫ったのかわからず、皮膚の下にある見えないキズアトが予想以上にひどい場合があるからです。
②瘢痕組織というキズアトがあると、通常より手術操作がしにくく時間もかかります。
③患者様はよくなろうと思って受けた手術の結果、前よりも悪化したため、とかく疑心暗鬼になりがちです。
私は、修正手術の相談を承った時には、まず手術をしてくださった先生に相談するように薦めています。心ある術者であれば自分の‘作品’に不具合があるのは許せないものです。
その先生に修正手術をするだけの技量がないと判断した場合は、リスクや得られる結果を十分にご説明して納得していただいた方だけ手術をしています。
取り返しが付かないことになったら人生の一大事です。‘彼’と美容外科は慎重に選んでください。