昔の記憶

私の若い頃

 私は1954年生まれです。
 昭和29年。
 日本がまだ高度成長する前です。
 米国は名犬ラッシーや
 英語の教科書で知る…
 夢の国でした。
 中学校一年生の英語教科書に出てきた、
 ブラウンさん一家は、
 グリーンフィールドという街に住んでいました。
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 私が住んでいた、
 炭鉱街の美唄(びばい)や夕張(ゆうばり)は、
 ちょうど石炭産業が崩壊し、
 次々と閉山(へいざん)していました。
 美唄の三菱炭鉱がなくなり、
 父親は大夕張の炭鉱病院へ転勤しました。
 私が小学校の頃の社会科の教科書には、
 北海道の産業として、
 石炭が大きく載っていました。
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 長崎県で最近脚光を浴びている、
 軍艦島こと端島(はしま)という炭鉱の島も、
 同じ三菱砿業㈱が経営していました。
 三菱砿業㈱の社員には、
 九州の端島から、
 北海道の美唄へ転勤となった人もいました。
 その九州から転勤して来た人の子どもが…
 美唄の小学校で…
 九州のアクセントで困っていました。
 はじめて見た雪は…
 どんな印象だったのだろう?と思います。
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 北海道空知地方にたくさんあった炭鉱は、
 一部を除いてなくなりました。
 夕張は炭鉱閉山後に作った観光施設が破綻し、
 膨大な借金返済で苦労しています。
 美唄は農業を中心とした町になっているようです。
 時代の移り変わりとともに…
 産業が変遷(へんせん)し、
 街も人も変わります。
 変わらないのは、
 山とか川のある風景や、
 その土地の言葉や習慣です。
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 私は炭鉱街で育ったので、
 ……だべぇ~
 とか
 ……だべさ
 とかの言葉に愛着を感じます。
 自分が子どもだった頃に、
 まさか美容外科医になるとは…
 夢にも思っていませんでした。
 札幌駅前で開業するとも…
 想像すらしていませんでした。
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 かつて私たちの憧れ(あこがれ)だった、
 アメリカのゼネラル・モーターズ(GM)が
 2009年6月1日に、連邦破産法11章を裁判所に申請しました。
 キャデラックに乗りたいと思ったことはありませんが、
 大統領専用車を作っていた会社が、
 破産法申請にはショックでした。
 日本経済(特に北海道経済)は、
 まだまだ厳しい状況が続きます。
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 私が住んでいた炭鉱は閉山しましたが、
 そこで生活していたかつての仲間は、
 私を含めて元気で頑張っています。
 産業がなくなっても、
 他人にできない…
 自分にしかできない仕事があって、
 少しでも社会の役に立っていれば…
 まだまだ北海道も日本も大丈夫だと、
 私は信じて働いています。


中学1年生の4月(向かって右)
向かって左は、荒木田和生くんです


中学校2年生の頃(シューパロ湖)
私は自転車が好きな少年でした


1976年の大学時代(33年前)、
友人と余市ニッカウヰスキー工場

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