二重・眼瞼下垂
わきがと眼瞼下垂の同日手術
わきが手術と…
眼瞼下垂症手術を…
お一人の患者さんに…
同じ日に続けて手術することがあります。
最初にわきが手術をします。
その後で目の手術をします。
合計4時間程度かかります。
■ ■
時間がかかって…
手術をする方も…
患者さんも大変ですが…
限られた休みで…
両方一度に悩みが解決できるメリットがあります。
■ ■
同日手術をお引き受けできるのは…
限られた人だけです。
家族の人が協力してくれて…
手術後のお迎えや…
手術後のケアーを…
手伝っていただける方だけです。
■ ■
わきがも…
眼瞼下垂(がんけんかすい)も…
自分には何の責任もないのに…
何も悪いことをした訳でもないのに…
悩んでいる方は深刻です。
心ないクリニックで手術を受けて…
臭いもローンも残った方もいます。
■ ■
どちらも簡単な手術ではありません。
一番大切なのは手術後の安静です。
安静を守らないと…
傷が治りません。
一人の患者さんに4時間もかかるので…
お引き受けできる日は限られます。
■ ■
進学や就職を控えて…
手術できるのは今しかない!
…という方は、
ご家族の協力を得て…
卒業式が終わってからの期間に…
手術を検討なさってください。
院長の休日
父の誕生日2012
昨日(平成24年3月4日)は、
私の父の86歳の誕生日でした。
今年は温泉には行かず…
札幌市内で食事をしました。
昨年に比べると…
衰えてはいますが元気です。
■ ■
両親の親しい友人ご夫妻のご主人が…
入院したと心配していました。
80歳を過ぎて…
夫婦二人とも元気なのは…
ありがたいことです。
私の親は、
よく夫婦喧嘩をしていました。
■ ■
自分は結婚したら…
夫婦喧嘩をしないつもりで…
慎重に奥さんを選んだつもりでしたが…
残念なことに歴史は繰り返されました。
同じ歴史でも…
自分たちも夫婦二人そろって…
80歳過ぎまで元気でいられるか…?
私は自信がありません。
■ ■
家内の父親は64歳で急死してしまいました。
来年で20年になります。
私の親の年代になると…
知人は胃瘻(いろう)を作ってもらったが…
自分はいらないとか…
苦しまないように…
痛くないように…
…は、してほしいけれど…
延命治療はいらないとか…
義母はしっかりノートに書いていました。
私もしっかり書き留めておこうと思います。
私57歳、父86歳
医学講座
上山博康先生の「宝刀」伝承
2012年2月27日の院長日記
2012年3月1日の院長日記
でご紹介した北海道新聞夕刊に連載された、
旭川赤十字病院脳神経外科部長、上山博康先生の
私のなかの歴史。
平成24年3月3日が最終回でした。
■ ■
私のなかの歴史
人生を手術する「匠の手」-⑯
旭川赤十字病院脳神経外科部長
上山博康(かみやま ひろやす)さん
「宝刀」伝承
思いの詰まった技次代ヘ
僕は最近、難しい手術に当たって、患者に必ず確認することがあります。まず、一番治りたいのは患者です。次に、治ってほしいと思っているのは家族です。3番目に、僕ら医者がいる。治したいから医者をやっている。それを忘れないでほしい。
治りたい人、治ってほしい人、治したい人。3者が共同して立ち向かわねば難敵は克服できません。例えば、手術は僕ら医者の出番だ。患者が無事に帰れるよう全力を尽くす。でも、後遺症が残ることもある。術後のリハビリは患者の出番です。だが、くじけたりすることもある。その時は家族の出番になる。励まし、サポートするんです。
きょうの手術も難しかったが、うまくいきました。こうした時、僕は患者や家族に「何とかやれたと思います。おめでとうございます」と必ず言います。至福の瞬間です。「外科医の凱旋(がいせん)」と僕は呼んでいます。
今、外科医はなり手が少ない。確かにきついし、訴訟のリスクもある。でも楽しいこともたくさんある。若い先生はぜひ外科医となって、この感覚を味わってほしいと願っています。
僕はテレビに出るようになって「スーパースター」とか「神の手を持つ」とか言われています。面はゆくて、自分の柄に合わない。だから「違います。匠(たくみ)の手です」と言うんです。
「匠の手」。これは与えられたものではありません。師匠に厳しく教えられ、夜通し自分でトレーニングして得たものです。だから「神の手」には遠く及ばないかもしれません。
だけど、匠の手は伝承できます。自分が学んだのと同じように、後輩に伝えることができます。神の手はその人間が死んだら死ぬ。でも匠の手は後輩が僕の技術を伝承していってくれるから、僕の手は死なない。
「神の手は死ぬけれど、匠の手は死なず」匠の手は、自分の力だけでなれたわけではありません。導いてくれた人がいたからなれたのです。伝家の宝刀ではないが、諸先輩の思いが詰まった技術を受け継いでいる。重いんです。伝統の重みです。僕はね、それをもっと重くして、後輩に渡そうと思っています。とてつもなく重くしてね。その重さは、患者の命の重さになるんですよ。
この4月から僕は二足のわらじを履きます。札幌市東区に新設される、禎心会脳疾患研究所の所長に就任します。旭川赤十字病院は、非常勤の脳神経外科顧問になります。
旭川赤十字はあと2年、65歳で定年です。もう一つ、札幌にも診療や手術をする患者の受け皿をつくりたいと考えていと考えています。全国から集まる若い研修医もそこで育てます。もちろん旭川赤十字でも従来通り、週1回の外来も、手術も、続けます。基本的には今と変わりません。
僕はこれまで「本当に満足」と、自信を持って言える生き方をしてきました。幸いにも僕を慕ってくれる後輩が全国にたくさんいます。彼らが今の僕と同じ年齢、63歳になった時、僕と同様、「満足」と言えるような生き方をしてほしいと願っています。そうなることが、たくさんの患者の幸せへとつながるからです。 (聞き手・岩本進)
=おわり=
(以上、北海道新聞から引用)

僕ら医者は素晴らしい仕事です。
一生懸命やればやるだけ感謝される。尊い仕事だと思います。
■ ■
私には「匠の手」はありませんが、
先輩から教えていただいた技術、
友人から学んだ技術、
国内や海外の学会で学んだ技術があります。
ライブサージャリーも勉強になりました。
■ ■
形成外科や美容外科は、
命にかかわることはありません。
逆に手術で命を落としては大変です。
脳神経外科とは比べものになりませんが、
私たちも実験動物で練習をして…
顕微鏡下の手術を学びます。
■ ■
美容外科や形成外科も…
一生懸命やればやるだけ感謝されます。
外科医としてうれしいのは…
患者さんから感謝された時です。
若い先生が…
なんちゃって美容外科医ではなく…
真の意味での外科医を目指してほしいです。
医学講座
早すぎる死防ぎたい
平成24年3月3日、朝日新聞朝刊、
ひとときからの引用です。
早すぎる死防ぎたい
昨年3月、若年性の大腸がんのため、31歳のめいが亡くなりました。5歳と3歳の男の子を残した早すぎる死でした。
1年半前、職場の健康診断の結果があまりにも悪かったため総合病院を受診したところ、すでに多くの臓器やリンパ節にも転移していました。余命一カ月と診断されましたが、奇跡的に手術が成功。以後、抗がん剤治療を受けながら闘病生活を送りました。仕事を続け、家事・育児にも奮闘しました。しかし、次第に入退院を繰り返すようになり、ホスピスで最期を迎えました。
予兆はあったようで、第2子出産後、ときどき下血していたようです。「痔だろう」と軽く考え、多忙なこともあって受診を先延ばしにしたようです。
「若い人の大腸がんはまれ」と聞きます。それだけに取り返しのつかないこともあるようです。
若い女性の場合、大腸検査には抵抗があるとも思います。しかし、早期に発見すれば、確実に良くなるといいます。
間もなく一周忌がめぐってきます。めいの例を参考にしてもらい、悔しい思いをする人が1人でも少なくなればと思います。
愛知県春日井市_吉田美奈子_ケアマネジヤー_60歳
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
31歳は若すぎる死です。
予防医学が発達した今日でも…
がんで亡くなる若い方はいらっしゃいます。
どうにかして…
尊い命を守りたいと思います。
■ ■
職場の健康診断を受けられる方はまだ良いほうで…
健康診断を受けたことも…
採血をして検査をしたことも…
一度もない!
…という方もいらっしゃいます。
■ ■
北海道医報という…
北海道医師会の広報誌2012年3月号に、
北海道対がん協会の
菊地浩吉先生が、
若い医師よ、癌で死ぬな
…という投稿を寄せられています。
■ ■
菊地先生は、
元札幌医大学長、
私が病理学を習った先生です。
大浦武彦先生と同期です。
菊地先生によると…
北海道対がん協会では、
日曜日にも検診をしているそうです。
■ ■
私も…
職場の法定定期健診しか受けていないので…
これを機会にがん検診を…
受けてみようか…?
…と考えました。
院長の休日
小池宏二さんの死を悼む
昨夜(平成24年3月1日)、
札幌市西区むすめやホール西町で、
小池宏二さんのお通夜がありました。
シオノギの小池さんに…
お世話になった医師は…
北海道にはたくさんいると思います。
■ ■
小池宏二さんは、
北大薬学部をご卒業なさった薬剤師さんです。
北大薬学部をご卒業後に、
塩野義製薬株式会社に入社されました。
平成8年には札幌支店長に昇進されました。
私は北大やJA帯広厚生病院時代に、
大変お世話になりました。
■ ■
私が医師免許を取得したのが…
昭和55年(1980年)です。
免許を取得したものの…
ペーパードライバー以下でした。
大学や医師国家試験で覚える薬の名前は、
一般名という名前だけです。
■ ■
処方箋を書くときには…
商品名で書き、
患者さんへの説明も薬の商品名で行います。
この薬の名前を覚えるのが大変でした。
また…
用法・用量という…
薬を何g(または何錠)ずつ…
何日分出すのか…
学校では教えてくれません。
■ ■
新米医師に…
懇切丁寧に教えてくださったのが、
製薬メーカーのMRさん(医薬情報担当者)でした。
シオノギの小池さんは…
自社の製品についてだけではなく、
薬のことについて広く丁寧に教えてくださいました。
医師としての生き方も教えてくださいました。
■ ■
小池さんは、
自然を愛する方でした。
北大山とスキーの会の幹事をなさっていらして…
山小屋の管理運営にもご尽力なさっていらっしゃいました。
昨夜のお通夜の祭壇には、
小池さんが愛用されたスキーとウェアーも飾られていました。
毎年、自然を題材とした版画の年賀状をいただいていましたが、
今年は体調不良で断念と書かれていました。
■ ■
昭和16年5月生まれで満70歳でした。
昨年8月に肺がんが見つかり…
手術を受けられ…
その後も最先端の治療を受けられましたが…
2月28日に永眠されました。
昨夜のお通夜には…
北大医学部の名誉教授もいらしていました。
心からご冥福をお祈りしています。
小池さんありがとうございました。
医学講座
上山博康先生の『お言葉ですが、反対です』
2012年2月27日の院長日記でご紹介した、
北海道新聞夕刊に連載中の、
旭川赤十字病院脳神経外科部長の、
上山博康先生の私のなかの歴史。
今日ご紹介するのは、
平成24年2月27日に掲載された内容です。
若い先生にも読んでいただきたいので、
また引用させていただきました。
■ ■
人生を手術する「匠の手」―⑨
旭川赤十字病院脳神経外科部長
上山 博康(かみやま ひろやす)さん
北大を去る
患者の死を機に主張貫く
1985年、秋田から北大脳神経外科に助手で戻りました。36歳でした。すぐに関連病院の部長で出る約束でしたが、行き先が次々と消え、翌1986年には講師となり、大学に残っていました。教授は都留美都雄先生(故人)から阿部弘先生(現北大名誉教授)に代わっていました。
北大に戻った当初、手術があまり当たらない時期がしばらく続きました。朝から部屋で基礎論文を読み、手術で使う器具を作りました。「上山式」と呼ぶ一連の器具で、刃の薄いハサミが有名です。「上山式マイクロ剪刀(せんとう)ムラマサ」。脳外科医の間では全国で一番売れています。
北大の脳神経外科は「腫瘍」「脊髄」「血管障害」の3班に分かれ、卒業後の6年間の研修医が終わると、どこかの班に属し、研究や臨床を続けます。僕は血管障害班のチーフ。戻ったころは僕一人でしたが数年すると最大の班になり、僕も数多くの手術をこなすようになりました。「次の教授は上山だ」。そんな声も聞こえてきました。
ところが、ちょうどそのころです。僕に大学を去る決意をさせたある出来事が起きました。
脳腫瘍の42歳の男性患者です。何回手術をしてもうまくいかなかった。妙に気が合い、いろいろな話をした患者でした。僕は、腫瘍に行く血管に特殊な接着剤を流し、腫瘍を内側から壊死(えし)させる作戦を立てた。呼吸など生命維持をつかさどる脳幹に接着剤が行かないよう、腫瘍から出る血管にクリップを2本かけてふさいでから、接着剤を注入した。当初はその血管を糸で縛るつもりでした。でも上司の指摘でクリップにしたんです。
全てがうまくいったはずでした。「様子がおかしい」と手術室に呼ぱれ、顕微鏡をのぞいた瞬間に「だめだ」と思った。脳幹に接着剤が入っていた。クリップが緩んで漏れたんです。患者は亡くなりました。控室に戻っても、講師室に帰っても、自分の居場所がない。「息子が2人いてね…」と話す、患者の笑顔が目に浮かんできました。
僕は家族に土下座して「全て私が悪かった」と謝りました。奥さんは泣き崩れました。確か中学2年生の長男が、涙を浮かべてこう言ったんです。「お父さんは、先生のことを大好きだと言っていた。その先生が一生懸命やった結果だから。悔しいけど、悲しいけど、今はどうこう言ってもしょうがない。良いとか、悪いとか、言えない」。胸に刺さる言葉でした。
思い出すと今でも涙が出るほど悔しい出来事です。それから、僕は生き方を変えたのです。
本音を言うと、僕は教授になりたかった。大学にいたら教授は夢です。だから、上司の言うことが自分の意にそぐわなくても、逆らわずにきた。あの手術も予定通り、血管を糸で縛れば絶対に漏れなかったんです。
患者を失ったことで、僕に心の声が聞こえました。「そこまでして教授になりたいのか」「今のおまえは患者にとって良い医者か」「良い医者とは何か、考え直した方がよいのでは」。患者は常に命がけで、僕ら医者に真実を教えてくれるのです。
「お言葉ですが、反対です」。僕は教授に自分の考えを言うようになった。そうなると大学にいられる日は長くない。92年4月、助手や講師を7年務めた北大を追われるように去り、旭川赤十字病院に来ました。43歳でした。(聞き手・岩本進)
(以上、北海道新聞から引用)

秋田から北大に戻った僕(前列右)と医局の同期=36歳のころ
■ ■
医者の間で出世とは…
大学に残って教授になること…
…と考えられています。
確かに学会のトップは各大学の教授です。
街中の開業医が…
学会の理事長になることはありません。
■ ■
上山先生と私では立場が違いすぎますが…
この文章を読ませていただき…
上山先生でも…
教授になりたかった時期があったのだなぁ~
…と思いました。
■ ■
同じ北大でも…
私がいた形成外科は…
『お言葉ですが…』
…を言える医局でした。
大浦武彦先生は、
部下の意見にも耳を傾けてくださいました。
■ ■
その証拠に…
新人の頃から『お言葉ですが…』を言っていた、
山本有平先生が、
現在、北大形成外科の教授です。
山本教授は日本形成外科学会のリーダーの一人として、
学会を牽引しています。
■ ■
今の北大脳神経外科教授は、
私と同年代の寳金清博(ほうきん_きよひろ)先生です。
とても優秀な先生です。
寳金先生でしたら、
部下の『お言葉ですが…』にも、
しっかりと耳を傾けると思います。
■ ■
私が若い先生に伝えたいのは、
教授でも、
開業医でも、
素晴らしい先輩の…
良い言葉には…
しっかりと耳を傾けて、
何が患者さんのためになるかを、
しっかり判断すべきだということです。
私の記憶が正しければ…
寳金教授は上山先生の弟子の一人だったはずです。
昔の記憶
2012年2月29日
今日は2月29日、
4年に一度の閏年(うるう年)です。
英語ではleap year というようです。
はずかしながら…
閏という漢字も…
英語も知りませんでした。
■ ■
うるう年には、
オリンピックがあります。
私が小学校4年生の時に…
東京オリンピックがありました。
昭和39年、1964年です。
東海道新幹線もこの年に開通しました。
■ ■
2009年10月3日の院長日記に書きました。
1964年に東京オリンピックが開催された時、
私は小学校4年生でした。
美唄(びばい)市の
日東美唄(にっとうびばい)小学校、
担任は村木先生という男の先生でした。
小学校には、
テレビが一台しかなかったように記憶しています。
視聴覚教室という部屋で、
何度かTV中継を見せてもらいました。
■ ■
昭和39年の日本は高度成長期でした。
東海道新幹線が開通し、
東京オリンピックを契機にして、
日本は大きく変わりました。
私が東京オリンピックで感動したのは、
TVではなく、
オリンピックの記録映画でした。
当時のTVは白黒で、
画質も今の携帯より悪いものでした。
■ ■
時代はまさに三丁目の夕日でした。
私が住んでいた美唄市は炭鉱の街でした。
SLが走っていて…
JRは国鉄でした。
家の暖房は石炭ストーブです。
炭鉱で働く人は…
石炭が無料でした。
■ ■
美唄から札幌へ出てくると…
人がいっぱいいて…
子ども心に…
札幌は都会だなぁ~と思ったものでした。
50年後に…
自分が札幌駅前通りで…
美容整形の医者になるとは…
夢にも思っていませんでした。
■ ■
今年は空知地方が大雪(おおゆき)です。
岩見沢や美唄では…
雪で古い建物が倒壊しました。
かつて炭鉱で栄えた街は、
エネルギー政策の転換によって…
過疎の街になっています。
■ ■
昭和39年(1964年)から48年後…
12回目のうるう年が今年です。
私は今年58歳になります。
昨年の原発事故からもうすぐ一年です。
私が生きている間に…
放射能汚染が解決するとは思えません。
■ ■
最近の新聞では…
東京電力や政府の不手際が…
ようやく報道されています。
今すぐ政治が良くなるとは思いませんが…
せめて…
夢のある暮らしのビジョンを…
国民に示して欲しいです。
原発被爆国なった日本が…
世界の原発を考える時だと思います。
4年後の2月29日には、
明るい日本になっていたいです。
医学講座
開業医になって『常に患者のそば』
昨日の院長日記、
上山博康先生のお言葉『常に患者のそば』には…
私自身への自戒も含まれています。
研修医の時は…
常に患者のそばに居られても…
主任医長…
主任部長…
…と職位が上がるにつれて…
患者さんのそばから離れます。
■ ■
私が一番患者さんのそばから離れたのは…
札幌医大にいた4年間でした。
大学というところ
…という2007年9月18日の院長日記に書いてあります。
大学教員で一番評価されるのは、
英文論文が何篇あるか?という書類上の‘業績’です。
つまり、英語で論文を書くのが得意な人が、大学で偉くなれます。
どんなに手術が上手でも、‘神の手’でも、
外国の有名な雑誌に英文論文を書いていないと教授にはなれません。
■ ■
大学で大切なのは…
教育
研究
診療
…と言われます。
文部科学省から誉められるのは…
英文論文をたくさん書いて…
たくさん論文が引用されている先生です。
■ ■
大学病院や研修指定病院で…
『常に患者そば』に居られるのは…
研修医の期間が一番長いです。
講師→准教授→教授と
職位が上がると…
患者さんのそばに居られる時間がなくなります。
院内の会議、
出張、
学会の会議などなど…
■ ■
私は開業医になって…
はじめて24時間365日常に患者さんのそばです。
開業医になってよかったことです。
良いことばかりでもありません…
クレームや苦情もいただきます。
自分の責任の範囲で、
自分にできることを…
悔いがないように…
精一杯やっています。
開業医になってよかったと思っています。
医学講座
上山博康先生のお言葉『常に患者のそば』
北海道新聞夕刊に連載されている、
私のなかの歴史を楽しみに読んでいます。
今は、旭川赤十字病院脳神経外科部長上山博康先生です。
神の手と呼ばれる名医です。
平成24年2月22日水曜日に掲載された記事が、
若い研修医の先生に参考になります。
ぜひ読んでいただきたいので、
ちょっと長いですが引用しました。
■ ■
人生を手術する「匠の手」-⑦
旭川赤十字病院脳神経外科部長
上山 博康(かみやま_ひろやす)さん
医 局
常に患者のそば、信頼得る
僕は高校2年生の16歳で脳神経外科医になると決めていたから、1973年9月に北大医学部を卒業すると、迷わず大学の脳神経外科の医局に入りました。当時の教授は、1965年に脳神経外科を開いた初代教授の都留(つる)美都雄先生(故人)でした。
当時は今の初期臨床研修のような国の制度はなく、医学部を出てすぐ大学の医局に入りました。そこで6年間、大学病院と外の病院を半年か1年交代で行き来しながら研修するのです。
同期は僕を含め5人。井須豊彦先生は釧路労災病院(釧路市)の脳神経外科部長、越前谷幸平先生は越前谷脳神経クリニック(小樽市)の院長、野村三起夫先生は渓和会江別病院(江別市)の副院長、岸原隆先生は岸原病院(青森県八戸市)の院長で、それぞれ活躍しています。
当時の北大の研修医制度は、医局に入ると一カ月約10万円が支給された。だが脳神経外科は「これでは暮らせない。そんないいかげんな制度は認めない」と反発。だから僕らは「自主研修医」で、研修期間の6年間は大学から一銭ももらえない。
そのため、研修医は皆、相棒をつくりましてね。1人が大学を出て外の病院で働き、もう1人が医局の中で大学病院の仕事をする。外で働く人が、給料の半分を、医局にいる人に送る、これを交互に繰り返す仕組みでした。とても苦しい生活でした。
大学に皆が寝泊まりする部屋がありました。「第4研究室」。名前は研究室ですが、2段ベツドがあり、僕らが暮らしている。長期合宿みたいなものですよ。当時人気の「ボンカレー」を食べ、風呂は手術場にあった施設で済ませた。僕にはとても楽しかった。部屋の主みたいでしたから。
大学病院にいる時は、朝から晩まで病棟に、患者のところへ行きました。医者の腕はまだない。力がなければ手数で勝負するしかないと思ったからです。
患者さんはね、「きょうの検査どうでした」と結果を聞いてくる。知っているから教えます。「おしっこ、きれいだったよ」。これで安心するんです。
先輩は「上山はいつも病棟にいるから」と、出先から患者の様子を電話で問い合わせてくる。下っ端だけど影の病棟医長のようでね。あるとき看護師が、入院患者たちに「受け持ちの先生はだれ」と聞いた。全員が「上山先生」と答えたんです。本当は先輩なんですけどね。
この時、患者の信頼を集める一つの方法が分かりました。「常に患者のそばにいる」。医学の話だけをすればいいのではない。テレビドラマなどたわいのない話題でもいい。患者は心細い思いで入院している。そばにいる、同じ空間にいるだけで、どれほど心強く思うのか、と。
僕みたいに、いつも病棟にいて全てオープンだと、患者は「少なくともこの人は、うそは言わない」と信頼を寄せてくれる。医者としての信頼はないかもしれないが、人間としての信頼なら得ることができたのです。
これは今の若い先生に最も足りないことかもしれない。早くから医者の目線やポーズをとりたがるが、それでは患者の信頼は得られません。医者として信頼される前に、人として信頼されなかったら無理なんですね。
「人間として信頼してもらえなければ、医者としても信頼してもらえない」。人間性で勝負する。僕は若い時、肌身で感じました。 (聞き手・岩本進)
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
上山先生は、
神の手と呼ばれる脳神経外科医。
TVにもよく出演されて…
とても有名な先生です。
北海道新聞夕刊の、
私のなかの歴史には、
幼少の頃からのエピソードも含め、
興味深い記事が掲載されています。
■ ■
何もできない研修医は、
とにかく患者さんのところへ行って…
おはなしを伺う
私も北大形成外科の研修医だった頃…
点滴も入らず患者さんに痛い思いをさせてしまいました。
4月から初期研修がはじまる先生、
この上山先生のお言葉『常に患者のそば』を覚えておいてください。

医局の旅行で。右が僕。当時は髪が長かった=25歳のころ
医学講座
第83回日本形成外科学会北海道地方会②
形成外科学会では、
自由に活発な討論が行われます。
こんな手術をして…
こんな手術を考えて…
こんなに素晴らしい結果が出ました。
…という発表はしやすいです。
■ ■
数ある学会の中には…
失敗した例は除いて統計を取り…
失敗は一例もありません。
…と嘘の発表をする先生もいます。
悪い例を除いて…
データーを捏造する先生もいます。
形成外科は結果が写真で出るので…
データー捏造はしにくい学会です。
■ ■
残念なこと…という、
2006年12月11日の院長日記。
残念な結果…という、
2010年8月25日の院長日記に書いてあります。
英語で…
unfavorable resultsと言います。
■ ■
医学が進歩するのは…
残念な結果から…
どうしたら…?
小さな子どもさんの腕を…
切断しなくても済んだだろう…?
…という考えからです。
■ ■
unfavorable results
残念な結果を発表するのは…
勇気が要ることです。
他の先生から批判されることもあります。
私もかつてunfavorable resultsを発表したことがあります。
同じことを繰り返したくないという気持ちからです。
医学が進歩して…
劇症型溶連菌感染症で命を落とす人が無くなってほしいです。