昔の記憶

石炭ストーブ

 今年の冬は、灯油の値上がりで大変でした。
 灯油のような生活必需品は、
 国が価格をある程度コントロールして欲しいと思いました。
 私が子供の頃は、石炭ストーブでした。
 以前にも書きましたが、
 炭鉱は、石炭も、電気も、水道も、浴場もすべてタダでした。
      ■         ■
 従業員には、無料で石炭が配られました。
 もっとも、従業員に配られた石炭は、
 市販される石炭より質の悪い部分でした。
 石炭は、石の大きさにより、
①塊炭(カイタン)、手拳大より大きな石炭。
②中塊炭(チュウカイ)、少し小さめの石炭。
③粉炭(フンタン)、砂よりは大きいが、小さい砂利状の石炭。
④豆炭(マメタン)、石炭を洗浄した水を沈殿させ、その粉末を固めた石炭。
 と分けられました。
      ■         ■
 価格は①→④となるほど安く、
 石炭のカロリー数や、
 石炭を燃やした後に残る灰(アクとも呼びました)
 の量によっても優劣が決まりました。
 ちょうど、トロが
 大トロ→中トロ→赤身と
 価格が異なるのと同じです。
      ■         ■
 炭鉱会社から、従業員に配られるのは、一番質の悪い粉炭です。
 粉炭の中に、中塊(チュウカイ)が混じっているので、
 その少し大きめの石炭を拾って集めておきます。
 石炭は、石油と違ってすぐに火がつかないので、
 石炭ストーブに、古新聞と薪(マキ)と
 中塊(チュウカイ)を入れておいて火をつけます。
 火力がついたところに、
 追加の石炭をそっと入れるのがコツでした。
      ■         ■
 石炭は、家の外にある炭小屋(タンゴヤ)に入れてありました。
 粉炭は、固まってしまうので、
 固まった粉炭をつるはしでたたいて割るのが仕事でした。
 小学校高学年になると、子供もこの作業を手伝いました。
 ‘石炭出し’と呼んでいました。
 炭小屋で、つるはしを振るうと、
 石炭の粉が舞って、鼻の中が真っ黒になったものです。
      ■         ■
 石炭は、炭鉱会社から、馬車で運んでくれました。
 馬追のおじさんが、
 『バイキ、バイキ』と馬に指示して、馬車をバックさせて
 炭小屋の前に、どさっと石炭を降ろしてくれました。
 それを炭小屋に入れるのも一苦労だった記憶があります。
 50年も前の家には、断熱材も、サッシもありませんでした。
 夜は、ほんとうに寒かったものです。
 夕張では、夜間もストーブをつけていた記憶がありますが、
 ストーブは家の居間に一箇所だけでした。
 凍らせたくないものは、‘凍らない’冷蔵庫にしまいます。
 つまり、台所より、冷蔵庫内の温度が高かったのです。
      ■         ■
 家の中でも物が凍るのは当たり前。
 夜、寝る前には、必ず‘水落とし’といって、
 水道の止水栓をひねって、水を落として寝るのが日課でした。
 もし、この‘水落とし’を忘れると、翌朝は水が出ません。
 水道管が破裂して、水浸しになることもあります。
 とにかく、寒さとの戦いが北海道の冬でした。
 冬でも暖かな室内で、
 24時間お湯が使える生活なんて…
 想像もできませんでした。
 世の中は、便利で暖かくなったものです。
 


小学校卒業の頃
右奥に見えるのが石炭小屋

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昔の記憶

おでこの広さ

 私は、小学生の頃から、額が広く‘おでこ’に特徴がありました。
 小学校6年生の頃、同級生の佐藤くんが、
 本間君の‘おでこ’の広さを測ってみようと言い出しました。
      ■         ■
 佐藤くんも、‘おでこ’が広いほうでした。
 将来はげたら困るから、今から測っておいたほうがいいよ。
 本間君も、参考になるからね…。
 測ろうはかろう、ということになり、
 女の子も参加して、私の‘おでこ’の長さを測りました。
 正直なところ気が進まなかったのですが、佐藤くんの
 ‘ボクも測るから、一緒に測ろう’という言葉に負けました。
      ■         ■
 その時に、定規で測った長さが、6㎝9㎜でした。
 小さい頃は、気にしていませんでしたが、
 同級生から、‘おでこ’‘おでこ’と言われると気になります。
 私は、いつの間にか、前髪で‘おでこ’を隠すようになりました。
 日東美唄小学校は、あまり‘いじめ’がない小学校でした。
 佐藤くんが、私の‘おでこ’を測ったのも、決して意地悪ではなく、
 自分も気にしているので、一緒に測ろうという‘趣旨’でした。
      ■         ■
 美唄から大夕張に転校する前に、
 夕張では男子は全員丸坊主だという噂を聞かされました。
 ‘おでこ’を気にしていた私にとっては、大問題でした。
 丸刈りだけは勘弁してほしいというのが、正直なところでした。
 実際に鹿島中学校に転校してみると、丸坊主の子が目立ちました。
 美唄の茶志内中学校では、丸坊主の男子はゼロでした。
      ■         ■
 幸い、鹿島中学校でも丸刈りは強制されませんでした。
 でも、中学校でも、私の‘おでこ’の広さは指摘されました。
 一年生の時に、同級生のMくんが、長さを測ろうと言い出しました。
 私は、イヤだったのですが、しぶしぶ応じました。
 Mくんは、額が狭く、その代わり後頭部が出っ張っていました。
 本人もそれを気にしていて、髪で隠すようにしていました。
 当然、丸刈りは二人とも大嫌いでした。
      ■         ■
 中学校で測った時も、6㎝9㎜でした。
 ちなみに、今、測定してみましたが、同じく6㎝9㎜でした。
 人間の頭蓋骨の大きさはあまり変化しないようです。
 私のことを‘おでこ’。
 将来は、確実にはげるね。
 と言っていた、Mくんが、はげました。
 小学校の時の、佐藤くんには会っていないので
 その後どうなったかわかりません。
      ■         ■
 私は、自分が‘おでこ’を気にしていたから、
 美容外科医になったのではありません。
 ただ、他人から見ると、どうでもよいと思うようなことでも、
 本人が悩んでいるのでしたら、
 できるだけ力になってあげようと思います。
 自分が、がっかりした経験。
 自分が、困った経験。
 英語でいうと、disappointing experienceがたくさんあると
 他人の悩みも理解しやすいのかもしれません。

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昔の記憶

美唄から大夕張へ

 昭和42年5月に私は、美唄市茶志内から、夕張市鹿島に引っ越しました。
 父が勤務していた、三菱茶志内炭鉱が閉山し、炭鉱病院もなくなったためです。
 夕張市は、炭鉱都市でした。
 いまでこそ、赤字再建団体として、全国的に有名になりましたが、
 昭和30年代~40年代は、日本の高度成長を支えていました。
      ■         ■
 ‘原料炭’という、製鉄に使うコークスの原料になる石炭を掘っていました。
 大夕張は三菱砿業㈱、今、夕張市役所がある、夕張本町などは、
 北海道炭礦汽船㈱、通称、北炭(ホクタン)の炭鉱がありました。
 北炭は、三井系の優良企業で、
 かつては、札幌グランドホテルや札幌テレビ放送(STV)の創設にも貢献した会社でした。
      ■         ■
 美唄から夕張までは、バスを乗り継いで行きました。
 岩見沢で夕張行きの中央バスに乗り、
 鹿の谷(シカノタニ)という停留所で、夕張本町から来た、
 大夕張行きのバスに乗り換えました。
 はじめて見る夕張市は、とにかく山の中。
 美唄にあった田んぼはどこにも見当たりません。
      ■         ■
 山合の谷間に作られた街というのが、私の夕張に対する第一印象でした。
 大夕張は鹿の谷から、さらにバスで1時間近くかかりました。
 クネクネとした、狭い道路をバスに揺られていました。
 清水沢(シミズサワ)という町から、
 バスは大夕張に向けてさらに山に入ります。
 私の目に入ったのは、北炭の清水沢発電所から出る、
 モウモウとした石炭の煙と、
 石炭を洗った洗浄水によって、真っ黒になった夕張川でした。
      ■         ■
 大夕張の手前には、シューパロ湖というダムがありました。
 森林鉄道で使ったという、三角を組み合わせたような橋が架かっていました。
 ダムに向かって右奥は、キレイな水の色をしていましたが、
 大夕張炭鉱から、排水が流れてくるダムの左半分は真っ黒でした。
 そのダムの遥か奥に、1,668m.の夕張岳がありました。
      ■         ■
 大夕張へ向かう道は、まだ未舗装で、
 横を三菱大夕張鉄道の線路が通っていました。
 とにかく、すごい山奥に来たもんだというのが印象でした。
 私は、この夕張市鹿島で中学校3年間を過ごすことになりました。
 正直なところ、美唄から大夕張への転校は私にとって憂うつでした。
 できることなら、美唄に帰りたいと思っていました。
      ■         ■


シューパロ湖へ自転車で行った時
私は自転車が好きな少年でした

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昔の記憶

中学生1年生

 私は、中学一年の5月に、美唄市(ビバイシ)茶志内(チャシナイ)から
 夕張市鹿島(大夕張)に転校しました。
 茶志内では、美唄市立茶志内中学校に入学しました。
 当時住んでいたのは、炭鉱住宅街のはずれでした。
 周りには田んぼがありました。
      ■         ■
 私は、中学生になり、Yシャツに詰襟と呼ばれる
 いわゆる‘学生服’を着て、田んぼの中を通学していました。
 靴はもちろんゴム長靴です。
 茶志内中学校には、私が卒業した日東美唄小学校と
 茶志内中央小学校、茶志内小学校、中村小学校という
 数校の小学校から生徒が集まっていました。
      ■         ■
 日東美唄小学校が、炭鉱で働く人の子供が大部分だったのと違い、
 他の小学校は、農家の子供たちが多いのが特徴でした。
 美唄市は、明治の北海道開拓の時代から、
 屯田兵が入植し開拓をした町です。
 美唄は、アイヌ語の‘カラス貝の多いところ’という意味の
 ‘ピパオイ’に由来します。
      ■         ■
 中学校一年生の担任は、榊英子先生。
 「木ヘンに、神様のカミと書いて、サカキです」
 と自己紹介された記憶があります。
 とても素敵な、音楽の先生でした。
 明るく、元気のよい先生で、子供さんもいらっしゃったと思います。
 ピカピカの中学生になった私は、
 毎日楽しく、田んぼの中を通学していました。
      ■         ■
 茶志内中央小学校から来た、女の子が私の隣でした。
 佐々木のぶ子(漢字はわかりません)さんという、明るい子だったと記憶しています。
 今までと違う子たちと、楽しい毎日でした。
 はじめて、英語の授業がありました。
 理科の先生は、毎日白衣を着て授業に来られました。
 白衣だけで、カッコいいと思いました。
      ■         ■
 残念なことに、三菱茶志内炭鉱の閉山により、
 わずか、1ヵ月で、私は美唄市の茶志内中学校から
 夕張市の鹿島中学校へ転校することになりました。
 今でも、道央自動車道を通って札幌→旭川方面に行く時は
 茶志内パーキングで停車して、
 懐かしい美唄の山を見ています。
      ■         ■


中学1年生の私です(向かって右)
向かって左は、荒木田和生くんです

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医学講座

ボトックス

 平成20年3月6日、朝日新聞朝刊の記事です。
 もっと知りたい
 ボツリヌス菌整形は安全か?
 毒素注射「実績豊富な所で」
 筋肉のけいれんなどを和らげる注射薬
 「ボトックス」
 を使った患者が死亡したり
 呼吸不全になったりした事例があり、
 米食品医薬品局(FDA)が
 薬との因果関係の調査に乗り出した。
 国内でも顔のしわ取りなどに広く使われているが、
 そもそも注射薬の成分であるボツリヌス菌の毒性はどれほどなのか。
 「プチ整形」ブームに影響するのだろうか。(松村北斗)
      ■         ■
 ボツリヌス菌を用いた美容施術は安全なのか。
 中村うさぎさんが施術を受けた
 タカナシクリニック新宿(東京都)の
 高梨真教理事長は、「適切な施術なら問題はない」と太鼓判を押す。
 同クリニックは1998年以降、
 ボトックスを患者の顔や体の部位延べ4万ヵ所以上に注射してきた。
      ■         ■
 しわ取りや顔を小さく見せる場合に3、4ヵ月ごとに注射。
 効果が薄れると繰り返す。
 費用は病院によって差があるが、
 タカナシはしわ取りで1回5万2500円だ。
      ■         ■
 国内では米アラガン社のボトックスと、
 仏イプセン社のディスポートが広く使われている。
(注:仏イプセン社は朝日新聞社の誤りです)
(正しくは、英イプセン社です。made in UKと記載されています)
 中国製も両社製の半額ほどで出回っている。
      ■         ■
 ボトックスが国内で承認されている効能は
 まぶたや片側顔面のけいれん、
 頭や首の筋肉のこわばりで首がねじれたりする症状の三つ。
 国内製造販売元グラクソ・スミスクライン(東京)は
 講習を受けた整形外科医らに使用する医師を限っており、
 美容整形では個人輸入して、
 医師の判断で使っているのが実情だ。
      ■         ■
 けいれんなどの治療も美容のしわ取わも、原理は同じ。
 ボツリヌス菌の毒素が、
 筋肉を動かす神経伝達物質アセチルコリンの放出を妨げる作用を利用する。
 筋肉が繰り返し収縮して
 皮膚が折れ曲がる所にできる表情じわを、
 筋肉をまひさせて消すのだ。
      ■         ■
 米国ではボトックスがみけんのしわ取りでも認可されている。
 国内ではグラクソ社がこの効能の承認を厚生労働省に申請中だ。
 国立感染症研究所によると、
 ボツリヌス菌の毒素は極めて強く、
 人間の致死量は注射で2?グラム(1?は100万分の1)。
 グラクソ社によると、
 ボトックスで1800~3千単位に相当する。
      ■         ■
 高梨理事長は、
 美容整形で顔の一カ所に注射するのは10~15単位だと話し、
 「数力所に注射したくらいでは致死量にほど遠い。
 米国での死亡や重体例は技術的なミスがあった可能性がある」。
      ■         ■
 ボトックスは米国では1990年代から広がっていた。
 国内ではいつから始まったのか。
 1999年に美容雑誌「VoCE」(講談社)が特集したところ問い合わせが殺到した。
 編集にかかわった美容エディター近藤須雅子さんは
 「注射で済む手軽さと数ヵ月で元に戻る安心感が人気を呼んだ。
 ここ数年は定着した感がある」と話す。
      ■         ■
 手術を伴ねない「プチ整形」の人気が高まるにつれて、
 ボトックスをめぐる苦情も増えた。
 「まゆが動かなくなった」
 「数年前に注入した部分に炎症が出た」
 といった相談が各地の消費者相談窓口に寄せられている。
      ■         ■
 日本美容外科学会理事長の一瀬正治・千葉学医学部教授は
 「顔の筋肉や構造に詳しい形成外科専門医や、
 実績が豊富で評判がよい所を選ぶべきだ」と助言する。
 美容整形が盛んな韓国では、
 ポトックスがより「過激」に使われている。
 声の震えやかすれが就職や仕事上、
 不利になると考える女性がのどに注射している。
 3、4ヵ月に一度済州島から飛行機を使って
 ソウルの大学病院に通う大学3年生の女性は
 「とても痛いが、
 もうすぐ就職活動なので面接で声が震えるのではないか不安」。
 注射代は1本20万ウォン(約2万2千円)はかかるそうだ。
      ■         ■
 メ モ
 米国での症例
 米食品医薬品局(FDA)の発表によると、
 ボツリヌス中毒の可能性がある重体患者や死者の多くは小児で、
 脳性まひに伴う手足のけいれんなどの治療にボトックスを使っていた。
 この目的での投与は米国でも適応外。
 FDAに対応を要請した米消費者団体は
 「成人を含む87人が入院し、16人が死亡した」
 としている。
 製造元の米アラガン社はこれまでに美容用ボトックスは
 100万人以上に施療されてきた。
 その中に死亡との因果関係が証明された例一件もない」としている。
      ■         ■ 
 中村うさぎさんが整形体験
 「劇的に若返る」
 「老いは避けられない」
 どんな思いでボトックス美容を受けるのか。
 実体験をエッセーに繰り返し書いている
 小説家中村うさぎさんに尋ねた。
 ブログにも
 「劇的に若返らせてくれる、魔法みたいな注射と記している。
      ■         ■
 最初のボトックス注射は2002年春。
 みけんのしわを取ってみた。
 新宿のホストクラブに通い詰め、
 2千万円近く散財した直後。
 若い女性がホストにちやほやされるのが侮しかった。
 直後は自分の顔でない感じがしたが、すぐに慣れた。
      ■         ■
 2度目の注射は同年秋。
 女優の奥菜恵さんにどこまで似せられるかに挑戦した。
 「工ラ」を減らして小顔に見せるため、
 □を動かす筋肉にボトックスを注射。
 とがったあご、
 高い鼻にするため別の薬品も注射した。
      ■         ■
 この2回は女性雑誌編集部の提案だったが、
 その後、
 自分の意思で肌のたるみを取るなどの整形手術に踏み切った。
 ボトックスは今も約1年に一度みけんとエラに注射してもらう。
      ■         ■
 「美醜は他人の評価ではなく自意識の問題」
 と中村さん。
 容姿にずっとコンプレックスを抱いてきたのが、
 整形で多少解放されたという。
 一方で50歳を迎え、
 自身を
 「表面をコーティングしたミカン」
 と表現する。
 表はつるつるでも、
 老眼など体内は衰えているという意味だ。
 いくらあらがっても老いや死は避けられない。
 整形で痛感したそんな現実を受け止めるつもりだと話す。
      ■         ■


中村うさぎさん


ボツリヌス菌の毒素製剤
ボトックス(左2本)、ディスポート(右)
 (以上、朝日新聞より引用)

     ■         ■
 高梨先生や一瀬先生のコメントの通り、
 ボトックスは正しく使えば、安全な「魔法の薬」です。
 私は、高須先生が開かれた国際美容外科学会で、
 本物の中村うさぎさんを、間近で見て、お話ししましたが
 実にお若く美しい方でした。
      ■         ■
 「表面をコーティングしたミカン」でも
 しわシワになったミカンよりはずっとキレイで、
 商品価値も増し、高く売れます。
 見た目がよければ、味も美味しく感じるはずです。
 私は、自分自身が今年54歳になるので、
 同じ昭和29年生まれの、午年(ウマドシ)の方がいらっしゃると
 とても‘ひとごと’とは思えなくなります。
 キレイで長生きして、ボケない老後を生きたいと願っています。

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医療問題

安心してできる‘お産’

 札幌市産婦人科医会(遠藤一行会長)が
 札幌市の産婦人科二次救急からの撤退を、
 市に申し入れています。
 「各病院の負担が重く、これ以上は担いきれない」
 という現場からの切実な声です。
 産婦人科医の減少で二次救急を毎日交代で引き受ける医療機関が、
 四年前の14から5ヵ所も減少しました。
      ■         ■
 各医療機関の担当回数が二週間で1回から
 一週間で1.3回程度に増え、
 担当医から
 「産婦人科は慢性的な人手不足で、
 受け持ち患者の診療と出産で手いっぱい。
 これ以上、救急を分担できない」と悲鳴が聞こえてきます。
      ■         ■
 平成20年3月5日の北海道新聞朝刊に、
 これについて、
 札幌市の担当者と遠藤一行先生の
 それぞれのコメントが掲載されています。
 札幌市の言い分は、一晩に来る患者数が眼科より少ないので、
 緊縮財政の札幌市には、予算がない。
 妊婦さんは、何かあっても、かかりつけ医に行くので
 行政が産婦人科救急医療を整備する必要がない。
 という言い分に聞こえました。
      ■         ■
 札幌市の言い分で気になったことがあります。
 産婦人科医会が求めた、
 分娩費用を払わない‘生み逃げ’に
 遭った時の費用を何とかして欲しいというものです。
 札幌市は、市が負担すると、
 ‘どうせ市で負担してくれるのだから…’
 と‘生み逃げ’する人が増える恐れがあるので、市では負担しない。
 という理論です。
 さすがは、弁護士さん出身の上田市長の理論ですね。
      ■         ■
 医療側の私に言わせると… 
 確信犯的に‘生み逃げ’する人がいないとは言いません。
 ただ、出産費用を払いたくても、
 払えない人がいるのではないでしょうか?
 社会保険にも、
 国民健康保険にも、
 入っていない妊婦さんがいるのではないでしょうか?
 少子高齢化対策を真剣に考えているのなら、
 分娩費用はすべて国費負担。
 なんて政策があってもよいのではないでしょうか?
      ■         ■
 保険に入っている人は、
 社会保険や国保から、直接、病院やクリニックに支払われる。
 保険に入っていない人は、
 国費で分娩費用を賄う。
 漁船に当て逃げする、軍艦を造って維持する費用や
 道路の予算で、道路以外の物を買うお金を倹約すれば…
 出産費用、全額国費負担政策はできないのでしょうか?
      ■         ■
 このままだと、産婦人科医を目指す医師や医学生はゼロになります。
 安心してお産ができる病院やクリニックがなくなります。
 いくら志(ココロザシ)の高い医師でも、
 夜も寝ないで働いて、神経をすり減らしてリスク管理をして、
 挙句の果てに、‘生み逃げ’されて自分の病院は倒産では…。
 産婦人科なんて、やってられるかって思いませんか?
      ■         ■
 何度も書いていますが、お産にはリスクがつきものです。
 100%安全なお産なんてありません。
 産婦人科は、次の日本を作るために、なくてはならない診療科目です。
 札幌市単独では無理だと思います。
 国で、産婦人科(特に産科)医療をもう少し真剣に考えて欲しいと思います。
 札幌市内の民間病院でお産をするには、
 予約金35万円を前払いしなくてはならないようです。

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昔の記憶

父の誕生日

 今日、3月4日は、私の父(本間寛ユタカ)の誕生日です。
 大正15年3月4日に、樺太(カラフト)、今のサハリンで生まれました。
 父方の祖父は、郵便局勤務で樺太に住んでいました。
 豊原→泊居(トマリオロ)と転勤し、泊居で生まれのが父です。
 今日で、82歳になります。
      ■         ■
 父は、5人兄弟の2番目です。
 姉が一人、弟が一人、妹が二人です。
 全員歳をとっていますが、存命です。
 私が子供の頃の父は、短気でよく怒っていました。
 今の私に、よく似ていると思います。
 (私もよく怒ります…)
      ■         ■
 父が生まれて間もなく、祖父は樺太から札幌へ転居。
 勤務先も、郵便局から国鉄に変わりました。
 祖父は、郵便局でも、国鉄でも、通信関係の仕事をしていました。
 父は、子供の頃から、学校の勉強はあまり得意ではなかったと言います。
 普通の中学(今の高校)ではなく、札幌工業高校へ進学しました。
 木材工芸科という、家具などを作る学科で、
 卒業記念に、居間に置く家具(茶箪笥チャダンス)を製作したそうです。
      ■         ■
 父の世代は、第二次世界大戦に徴兵されました。
 父も、通常ですと徴兵されました。
 医学、薬学の学校に進学すると、徴兵免除になったので、
 仙台にあった、東北薬学専門学校へ進学しました。
 父の姉が薬剤師だったことも影響したのでしょうか?
      ■         ■
 仙台で薬学を勉強して、薬剤師になりました。
 戦争も終戦になりました。
 札幌へ戻った父は、終戦の年、昭和20年9月に、
 現在のJA北海道厚生連の前身である、
 北海道農業会本部厚生部に勤務しました。
      ■         ■
 薬剤師として、鵡川(ムカワ)厚生病院などに勤務したそうです。
 北海道農業会を退職して、
 築別炭鉱病院薬局→三菱砿業㈱手稲療養所薬局と
 炭鉱病院の薬局に定年まで勤務しました。
 退職後の昭和61年4月から、
 秋山愛生舘㈱大曲物流センターに管理薬剤師として勤務。
 昭和63年3月31日に秋山愛生舘㈱を退職。
      ■         ■
 その後は、一時、薬剤師人材斡旋会社などで働いていました。
 アポテーカバンク北海道という会社でした。
 一生に一度だけ、そこの社長になりました。
 数年前までは、たまに頼まれて薬剤師の仕事をしていました。
 ここ2~3年は、もっぱらチェリーの散歩が日課になっていました。
 そのチェリーも昨年6月に亡くなりました。
      ■         ■
 薬剤師だけあって、薬のことは何でもよく知っています。
 私は、何かわからないことがあると、すぐに電話で聞きます。
 電話をすると、たいてい母が出ます。
 私「じいちゃんは?」
 かわるね。
 父「あぁ。どうした…?」「あぁ。そうか。」
 会話は短く、用件はすぐに終わります。
 親子の会話はあまりありませんが、
 父も、この日記を読んでくれています。
      ■         ■
 私が、札幌西高校へ進学した、昭和45年から、
 三菱南大夕張炭鉱病院を退職した、昭和61年まで、
 16年間も、父は夕張で単身生活をしていました。
 当時、三菱南大夕張病院には、数人の先生がいました。
 父を含めて、単身赴任が過半数でした。
      ■         ■
 私は、子供の頃はよく父と喧嘩をしていました。
 父が、60歳台~70歳台までは、よく喧嘩をしていました。
 『クソおやじ!』とよく怒っていました。
 さすがに、最近はあまり喧嘩をしません。
 私は、よく父と喧嘩をしていましたが、
 子供の教育のために、
 単身生活をしてくれた父に感謝しています。
 大学に合格した時も
 医師免許を取得した時も
 一番先に報告したのは父でした。
 特に、一浪で、札幌医大に合格した時には喜んでくれました。
 昨年暮れには、急性胆嚢炎になって入院しましたが回復しました。
 このまま、ボケ老人にならず、元気でいて欲しいと願っています。

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医療問題

診断書

 北海道で、医師の診断書が原因となった事件が2件問題となっています。
 一件目は、滝川市の2億円にも上る、タクシー代金の不正請求。
 こちらは、暴力団と関係がある夫婦が、 
 滝川から札幌まで一回数十万円の介護タクシーで通院が必要という
 北大病院の‘先生’が書いた診断書が原因です。
      ■         ■
 北大の先生は、おそらく一回の通院費が数十万円とは、
 ‘知らないで’書いたと思います。
 生活保護(医療保護)で治療を受けるには、医師の意見書が必要です。
 私も、区役所の保護課から依頼されて書くことがあります。
 幸い、札幌美容形成外科を受診なさる方は、
 本当に‘医療’が必要な方で、何の問題もありません。
      ■         ■
 高額納税者の方でも、
 滝川から札幌まで一回数十万円のタクシーは使いません。
 逆に、一回数十万円のタクシーを使っている人は、
 高額納税者にはなれません。
 滝川市の近くには、砂川市立病院という総合病院があります。
 だいたいの治療は砂川で受けられる筈です。
      ■         ■
 もう、一件は、札幌市内の耳鼻科の‘先生’が書いた、
 障害認定の診断書です。
 身体障害者福祉法という法律で、指定された先生しか書けません。
 指定医といいます。
 かなりの書類を揃えて審査に出して、認定を受けて初めて指定医になれます。
 平成20年3月3日の北海道新聞朝刊に、
 以前、この耳鼻科の先生のところで働いていたという女性の‘告白’が掲載されていました。
      ■         ■
 それが事実とすると、
 どんなに優秀な弁護士がついていても、
 その耳鼻科の先生の責任は免れないと思います。
 医師の診断書は、重みのある書類です。
 診断書があれば、会社も学校も休めます。
 入学試験も、再試験を受けられる場合があります。
 それだけに、私たちは慎重に書きます。
      ■         ■
 医学部で診断書の書き方を正式に教える時間は多くはありません。
 せいぜい、数時間だと思います。
 私の頃は、医事法制という講義がありました。
 そこで、ある程度の知識を得たと思いますが、定かではありません。
 だいたいは、卒業してから、実際に書類を前にして
 ‘先輩’から教えてもらって書き方を学びます。
      ■         ■
 最先端の医学研究ではないので、
 あまり熱心に診断書の書き方を教える先生もいません。
 ‘診断書の書き方’なんて本があって、
 それを見るのが一番です。
 私は、医学部で、もう少し診断書の持つ重みとか、
 もし、虚偽の診断書を書いたら、
 このような処罰があるとかということを教えるべきだと思います。
      ■         ■
 私が、労災病院に勤務していた時のことです。
 ある科の先生が怒っていました。
 仕事ができないなんて診断書を書けるか!?
 病院に来た時は、痛いいたいと言ってるのに、
 診察室を出たとたんに、元気100%。
 病院の後で、
 新装開店になったパチンコ屋に行くって
 仲間と話していたそうだ。
 その‘患者’は、
 診断書を書いてくれない先生に悪態をついて、
 こんな病院、二度と来ねぇぞ~~
 と出て行ったそうです。
 私は、医師たるものは、
 毅然とした態度で診断書を書かなければならないと思います。

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昔の記憶

医師としての価値

 世の中は医師不足です。
 特に地方の医療機関は、医師不足で困っています。
 昨日まで、3回にわたり、
 北海道新聞に掲載された、
 市立札幌病院NICUのことを記載しました。
 私の心のどこかに、
 美容外科医なんて
 形成外科医なんて
 新生児科医や救急医に比べて、
 価値の低い医師さ。
 という自分を卑下した意識があります。
      ■         ■
 国は、医師不足解消のために、医師養成を急いでいます。
 北海道では、札幌医大と旭川医大の入学定員を
 2009年度入学生から増員しました。
 私は、国の政策に懐疑的です。
 かつて、国策で作った、
 防衛医科大学校卒業生のうち、
 現在まで、防衛医官として、
 防衛省職員のままの‘先生’は
 何%いらっしゃるのでしょうか?
      ■         ■
 もちろん、防衛医科大学校を卒業後は、
 最低9年間は、防衛省に勤務しなくてはならないという、
 ‘義務年限’がありました。
 ところが、現実には、
 お金を払って義務年限を免除してもらい、
 晴れて自由の身になった‘先生’が
 何人もいらっしゃいました。
 そのため、
 義務を免除するために必要な‘お金’を
 増やしたという話しを聞いたことがあります。
      ■         ■
 なぜ、防衛医大出身の先生は
 防衛省を退職したのでしょうか?
 医師として働く魅力が乏しいから、
 防衛省を退職して、
 民間の医療機関に就職したり
 ご自分で開業したりしたのではないでしょうか?
      ■         ■
 人間は、やりがいがあって、
 仕事に見合った報酬を得られれば、
 簡単には、職場を変えないものです。
 市立札幌病院新生児科の先生は、
 助からないと思われた、500㌘の赤ちゃんを救命して、
 立派に育っていく様子を、お母さんとともに喜ぶことができて、
 両親や祖父母からも感謝されて…
 だから、36時間勤務でも、辞めないで働けるのだと思います。
      ■         ■
 私は、毎日、朝から深夜まで仕事をしています。
 日記の更新やメールの返事は、
 午前0時を過ぎていることもよくあります。
 私が、市立札幌病院に勤務していたのは、30歳台後半でした。
 当時は、今よりもっと働いていたと思います。
 北大に通って、研究もしていました。
 自分にとって、医師としての青春時代だったと思っています。
      ■         ■
 私は、その頃に、救急部や未熟児センターへ行くのが好きでした。
 自分にとって未知の世界だった救急医療の現場や
 触っただけで、壊れそうな赤ちゃんを助けることに
 少しでも、医師としてお手伝いできることに、魅力を感じていました。
 皮膚のキズが少しでもよくなると、
 お母さんと一緒に喜びを共有できました。
      ■         ■
 今は、形成外科や美容外科の手術をしています。
 もう、総合病院の形成外科医として働くことはありません。
 私は形成外科の手術も美容外科の手術も好きです。
 人をキレイにして、喜んでもらえるのは嬉しいことです。
 遠くから、この日記を読んでくださって、
 メールでご相談を受けることもあります。
      ■         ■
 面識がない方から、ご相談を受けても、
 できる限りのご返事を差し上げているつもりです。
 ただ、どんなにキレイに手術をしても、
 どんなに丁寧に手術をしても、
 わたしたち、美容形成外科医ができることは、
 体表面のキズや形を治すことです。
 人の命を助ける‘医師’よりも、
 価値が低いような気がしています。
 私はもう救急医にも新生児科の医師にもなれません。
 自分の美容形成外科医としての職責を
 できるだけ誠実に果たしたいと考えています。

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医学講座

500㌘の赤ちゃん㊦

 平成20年2月27日、北海道新聞朝刊の記事です。
 500グラムの命みつめて
 高度新生児医療の現場から㊦
 危機乗り越え母の腕に
 知識集積し「23週後半」可能
      ■         ■
 赤ちゃんは母親を目で追い、
 「ウー、ウー」とおねだりするような声を上げた。
 母親は
 「抱いてほしいのね」
 と語りかけ、優しく両腕で包み込んだ。
      ■         ■
 妊娠24週の緊急帝王切開で誕生した女児。
 市立札幌病院総合周産期母子医療センター
 新生児集中治療室(NICU)では当時、
 522㌘と最小だったが、
 生後5ヵ月で体重3㌔、
 身長は二倍の50㎝に成長した。
 NICUの保育器を出て、ベツドに移った。
      ■         ■
 出生後、1000㌘未満の超低出生体重児に多い
 慢性肺疾患が3回悪化した。
 担当した平尾文音看護師は
 「慢性肺疾患の危機を三度も乗り越えた赤ちゃんは、初めて」
 と振り返った。
      ■         ■
 同センターでは今、
 妊娠23週後半で赤ちゃんを誕生させることが可能になった。
 「23週」は1990年まで人工妊娠中絶が許された期間。
 同センターの服部司・新生児科部長は
 「新生児医療は、かつて赤ちゃんが生存不能だった領域に踏み込んだ」
 と語る。
      ■         ■
 新生児医療は、
 超低出生体重児の未熟な肺の機能を補う薬
 「人工肺サーファクタント」の開発や、
 人工呼吸器など医療技術の発達で大きく進歩した。
 その過程で、NICUの新生児科医らが赤ちゃんと向き合い、
 新生児の生理と病態に関する知識を集積してきたことが、
 進歩を支えている。
      ■         ■
 同センターでは五人の新生児科医が、
 当直から連続36時間にも及ぶ厳しい勤務を、
 月数回こなす。
 看護師とともに、
 各種モニター装置を監視し、
 体温測定や輸液管理、
 たんを取り除くための気管内吸引などの仕事は、
 ほぼ一時間ごと。
 保育器の中で大半は自ら泣くことのできない、
 声なき赤ちゃんのサインを読み取る。
      ■         ■
 NICU加算が付いた赤ちゃんの医療費は
 一日8万5千円。
 乳幼児医療費助成制度があり、
 家族負担には直結しないが、
 社会的には大きなコストを強いる。
      ■         ■
 新生児科専門医となるにも
 医学部卒業後、8年間の研修が必要だ。
 障害が残る恐れのあるかもしれない赤ちゃんの発達を、
 退院後も見守る態勢も重要だ。
      ■         ■
 服部部長は
 「高度な周産期医療は公的支援がなければ立ちいかない。
 赤ちゃんを出生直後から治療するNICUのコストは、
 その後の疾病や障害に費やす社会的資源を抑制できると考えれば、高くはない。
 何より、社会の構成員として元気な赤ちゃんを送り出す意義は大きい」と話す。
      ■         ■
 市立札幌病院で約30年、
 新生児医療一筋に歩んだ服部部長は、
 NICUにいた子どもたちの力強い未来を確信する。
 「私が担当して、成人になった子は大勢いる。
 一方で障害がある子や身体や知能の発達が遅れる子もいるが、
 家族の愛情を受けて課題を克服し、
 自分なりの人生を歩んでいるのです」
      ■         ■
 522㌘で生まれた赤ちゃんは退院に向け、
 肺の発達を待っている。
 両親は娘に、
 人に優しく、
 そして希望を持って生きてほしいという願いを込めて
 「優希奈」
 という名前を付けた。
 母親は言う。
 「無事に生まれるかどうかさえ難しいと言われたのですから、
 心配するときりがありません。
 今はただ、生まれてくれて、ありがとう」と。
      ■         ■
 <メモ>
 1999年に中村肇・神戸大学医学部小児科教授(当時)らが、
 1990年出生の超低出生体重児の9歳児の全国調査を集計した。
 それによると、就学状況は
 普通学級が87%、
 障害児学級が4.3%、
 養護学級が5.6%、
 盲学校が3%。
 小学校入学時に60%の親が不安を持ったが、
 最終的に97%の親が
 「子は楽しく学校に通っている」
 と答えている。
      ■         ■


市立札幌病院のNICUで
初めて保育器を出て母に抱かれた
超低出生体重児の赤ちゃん
(伊丹恒撮影)
(以上、北海道新聞より引用)

      ■         ■

 先日いらした患者様です。
 お母さんと、ご一緒にいらっしゃいました。
 紹介者の欄に○○と書いてありました。
 私:「ひょっとして、○○◎◎ちゃんのご紹介ですか…?」
 「覚えていらっしゃるのですか?」
 私:「えぇ……」
 「もう、短大生になりました。元気です。」
 私の姪になります。
 私:「あぁ……」
 「病棟が違うのに、よく往診にいらしていただいた。」
 と姉が申しておりました。
      ■         ■
 ◎◎ちゃんは、
 私が市立札幌病院で治療させていただいた赤ちゃんでした。
 もう短大生になったんだぁ!
 と感慨深いものがありました。
 ちょうど、その後で、北海道新聞にこの記事が連載されました。
      ■         ■
 毎日まいにち当直をして、36時間勤務の先生。
 服部先生も中島先生もとても素晴らしい方です。
 新生児科の専門医は、
 美容形成外科医より、ずっと立派に見えます。
 地味なお仕事ですが、
 たくさんの子供たちを救ってくれています。
      ■         ■
 北海道新聞に掲載された、優希奈ちゃん。
 酸素を投与するチューブが少し痛々しいです。
 私の友人や同僚の子供さんも、かつてこのような赤ちゃんでした。
 もう、立派に高校生や大学生になっています。
 赤ちゃんの顔の左側に見えているのが、
 お母さんがかぶった、NICU用の帽子です。
 最初は、
 手を洗って、
 帽子をかぶって、
 予防衣を着て、
 自分の赤ちゃんと対面します。
      ■         ■
 この記事を書いてくれた、
 北海道新聞社の山本哲朗さんという記者さんも、
 市立札幌病院新生児科の素晴らしさに驚かれたことと思います。
 妊娠・出産は、女性だけに神様が与えられた特権です。
 男は、どんなに偉そうにしていても、子供は生めません。
 赤ちゃんを産んで、育てるというのは大変なことです。
 普段から健康管理に気をつけて、
 元気な子供を生むことが一番大切です。
 もし万が一、母体や赤ちゃんに異常があった時に、
 最先端の医学で助けてもらえるシステムが、
 日本のどこに住んでいても、
 平等に受けられるといいのに…と思います。

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