昔の記憶
住み込み奉公
平成20年10月18日、北海道新聞朝刊、
『いずみ』への投稿記事です。
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住み込み奉公
雪がしんしんと降りつもる寒い夜のことだった。
裏の戸をたたく音がするので母が出てみると、
同じ市内の洋服店に
住み込み奉公に出ていた2番目の姉がいた。
「今日仕事場の裁ち台から親方のはさみを落とした。
怒った親方に物差しでたたかれ
晩ご飯を食べさせてもらえなかった。
もうあんな所へは帰らない」。
姉が泣きじゃくって事情を話した。
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母は「そうか、そうか」と聞いていたが、
「あそこの店には4年という年季の約束がある。
泊まらせてやりたいが、
今日泊まったら明日帰りづらいだろう。辛抱してや」。
そう論した母も泣いていた。
今来た道をトボトボ帰る姉の後ろ姿を見て
私は母をうらんだ。
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「女もこれから経済力を持たんとあかん」
と娘4人全員に洋裁を仕込んだ母だったが、
私は姉の姿があまりにあわれで、
「住み込みは行かん。洋裁学校へ行く」と我を張った。
月謝は縫い物をもらい、
その仕立て代であてた。
姉は年季を務め上げ一流洋服店に就職、
その腕をたたえられた。
母はよく姉が仕上げた洋服を手にとって、
「やっぱり泣いて覚えた腕は素晴らしい」
とほめ喜んでいた。
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今はすぐ給料がもらえて
楽な仕事を希望する若い人が多いが、
歯を食いしばって頑張っている人たちに伝えたい。
「身についた技術はどんな時代になっても離れないし、
きっと花咲く時が来るからね」と。
中山和子(82歳・洋裁師)=旭川市
以上、北海道新聞より引用
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私の母方の祖母、
太田キヨは30台半ばで沖電気の技師だった夫と死別。
東京から第二次世界大戦がはじまる前に
郷里の札幌へ5人の子どもと帰ってきました。
札幌市北1条西10丁目の借家に住み、
親や兄弟からの援助をうけながらも…
自分で身につけた和裁の技術で、
男4人女1人の子どもを育てました。
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5人の子どものうち、
3人は大学に進学しています。
私が子どもの頃は、
ふぅ~んと聞いていましたが…
自分が子どもを持って、
大学に進学させるというのが、
いかに大変なことかよくわかりました。
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家内の母、片寄登喜子(74歳)は、
島根県で洋裁学校に通い、
洋裁の技術を身につけました。
結婚後は内職で洋裁をしました。
コシノヒロコさんの仕立てをするほどの
技術力になりました。
私がはじめて家内の実家に行った時に、
工業用ミシンがあったのを覚えています。
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札幌美容形成外科で使用している、
手術用の被布(おいふ)
(手術の時に使うグリーンの布)
はすべて、家内の母に縫ってもらいました。
職員が着ている制服の、
丈(たけ)を直してくれるのもの、
家内の母です。
若い時に身につけた技術は生涯役立ちます。
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私は『おしん』というTV番組が好きでした。
今の若い人には通用しないと思います。
医師免許を取得しても、
厳しい修行時代が待っています。
一流の技術を身につけて、
それを維持するには努力が要ります。
私も修行時代に…
形成外科を辞めようか?と
何回か思ったことがありました。
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私は、
今朝、北海道新聞のこの投稿を読んで、
82歳になられても、
お元気で、
洋裁の技術を生かした
仕事をなさっていらっしゃる
中山和子さんのことを思い浮かべてみました。
きっと素敵なご婦人だと思います。
いつまでもお元気でご活躍なさってください。