昔の記憶

住み込み奉公

  平成20年10月18日、北海道新聞朝刊、
 『いずみ』への投稿記事です。
      ■         ■
 住み込み奉公
 雪がしんしんと降りつもる寒い夜のことだった。
 裏の戸をたたく音がするので母が出てみると、
 同じ市内の洋服店に
 住み込み奉公に出ていた2番目の姉がいた。
 「今日仕事場の裁ち台から親方のはさみを落とした。
 怒った親方に物差しでたたかれ
 晩ご飯を食べさせてもらえなかった。

 もうあんな所へは帰らない」。
 姉が泣きじゃくって事情を話した。
      ■         ■
 母は「そうか、そうか」と聞いていたが、
 「あそこの店には4年という年季の約束がある。
 泊まらせてやりたいが、
 今日泊まったら明日帰りづらいだろう。辛抱してや」。
 そう論した母も泣いていた。
 今来た道をトボトボ帰る姉の後ろ姿を見て
 私は母をうらんだ。

      ■         ■
 「女もこれから経済力を持たんとあかん」
 と娘4人全員に洋裁を仕込んだ母だったが、
 私は姉の姿があまりにあわれで、
 「住み込みは行かん。洋裁学校へ行く」と我を張った。
 月謝は縫い物をもらい、
 その仕立て代であてた。
 姉は年季を務め上げ一流洋服店に就職、
 その腕をたたえられた。
 母はよく姉が仕上げた洋服を手にとって、
 「やっぱり泣いて覚えた腕は素晴らしい」
 とほめ喜んでいた。
      ■         ■
 今はすぐ給料がもらえて
 楽な仕事を希望する若い人が多いが、
 歯を食いしばって頑張っている人たちに伝えたい。
 「身についた技術はどんな時代になっても離れないし、
 きっと花咲く時が来るからね」と。
 中山和子(82歳・洋裁師)=旭川市
 以上、北海道新聞より引用
      ■         ■
 私の母方の祖母、
 太田キヨは30台半ばで沖電気の技師だった夫と死別。
 東京から第二次世界大戦がはじまる前に
 郷里の札幌へ5人の子どもと帰ってきました。
 札幌市北1条西10丁目の借家に住み、
 親や兄弟からの援助をうけながらも…
 自分で身につけた和裁の技術で、
 男4人女1人の子どもを育てました。
      ■         ■
 5人の子どものうち、
 3人は大学に進学しています。
 私が子どもの頃は、
 ふぅ~んと聞いていましたが…
 自分が子どもを持って、
 大学に進学させるというのが、
 いかに大変なことかよくわかりました。
      ■         ■
 家内の母、片寄登喜子(74歳)は、
 島根県で洋裁学校に通い、
 洋裁の技術を身につけました。
 結婚後は内職で洋裁をしました。
 コシノヒロコさんの仕立てをするほどの
 技術力になりました。
 私がはじめて家内の実家に行った時に、
 工業用ミシンがあったのを覚えています。
      ■         ■
 札幌美容形成外科で使用している、
 手術用の被布(おいふ)
 (手術の時に使うグリーンの布)
 はすべて、家内の母に縫ってもらいました。
 職員が着ている制服の、
 丈(たけ)を直してくれるのもの、
 家内の母です。
 若い時に身につけた技術は生涯役立ちます。
      ■         ■
 私は『おしん』というTV番組が好きでした。
 今の若い人には通用しないと思います。
 医師免許を取得しても、
 厳しい修行時代が待っています。
 一流の技術を身につけて、
 それを維持するには努力が要ります。
 私も修行時代に…
 形成外科を辞めようか?と
 何回か思ったことがありました。
      ■         ■
 私は、
 今朝、北海道新聞のこの投稿を読んで、
 82歳になられても、
 お元気で、
 洋裁の技術を生かした
 仕事をなさっていらっしゃる
 中山和子さんのことを思い浮かべてみました。
 きっと素敵なご婦人だと思います。
 いつまでもお元気でご活躍なさってください。

“住み込み奉公”へのコメント

  1. さくらんぼ より:

    おしんは山形の人です。私の母も 8人兄弟ですが 習いものに和裁をしていたそうです。ほんとに恥ずかしいのですが 私は針を持つのも嫌いで 家庭科の縫い物は妹がしてくれました。若い時は これでも一生通用すると思いました。結婚して子供が生まれ 保育園に入ると お手製の布バックや 弁当入れを作らなければならなくなりました。高校に入ると 授業で 柔道があり 柔道着に氏名を縫い付けなければなりませんでした。今でも ズボンの裾あげやら ほころび直しは 母がしてくれます。私がしても みっともないと やり直します。結婚して 子供が生まれてから あ〜 家庭科をもっと 勉強しとけばよかったなあ〜。料理や 洋裁を習っとけばよかったなあ〜。と思いました。今は既製品がありますが やはり 手作りには 心がこもってます。 今でも 母は 目が悪くなって 針に糸を通すのだけは 私がしますが 裾あげから ゼッケン縫いから みんな母です。

  2. 函館の看護師さん より:

    裁縫は本当に一生ものだと思います。
    私が看護学校に行く前に看護助手をしていた時まだ19歳で正直雑巾を縫うくらいしかできませんでした。
    その頃はおむつカバーなど患者さんの衣類など身寄りがない方の物を助手が縫ってなおしていました。
    それから縫物ができるようになり自分で服も縫うくらいまでなりました。
    その後施設で勤務してからも家族の事情で衣類が少ない方など直してあげたり、外出用の帽子や手袋を古くなったフリース生地で作ったりしました。
    あと宴会用の衣装もすべて昨年は作ったりしました。
    私は専門で習ったわけではないので少し雑ですが、一つ作ると次に・・・という具合にだんだんうまくなります。
    今はそのおかげで姑が右半身麻痺で片手しか使えないのでマジックテープなどを使って日常着からパジャマまでリフォームしています。

    ちなみに当時准看護婦もお礼奉公があってその病院を辞めるといったら「やめたらもう看護婦として働けなくなるよ」という脅しととれる状況がありました。
    (今はそんなことはないようですが・・・)

  3. さくらんぼ より:

    山形は秋晴れ 畑でteaタイムです。 芸は身を助けると言うのが今日の内容にあっているのかな? 苦労して身につけた技術や資格などは いざという時役立つと思います。私は小学生時代 お裁縫より 昆虫採集して 注射して 標本作りしているような子供でした。(今はそんな昆虫採集セットはないですよね。薬剤と注射器もついていました)でも 私も 若い頃一度だけ 3日徹夜で刺繍のクッションをお世話になったサークルの先輩にプレゼントした事あります。喜んでくださいました。そのサークルには私の市の現 市長さんもいらっしゃいました。函館の看護師さんも 資格があるから 私は看護師よ!って言えたのだと思います。

TEL 011-231-6666ご相談ご予約このページのトップへ