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中国・武漢で感染爆発、死者急増

 今日は2022年12月30日(金)です。
 札幌美容形成外科は今日まで診療です。
 明日から1月5日(木)まで休診です。
 コロナ禍3年目で戦争があり、
 円安になって、
 物価も上がり大変な年でした。
 来年こそいい年になってほしいです。
      ■         ■ 
 昨日のYahoo!ニュースが気になりました。
 中国・武漢で感染爆発、死者急増 住民ら証言、ゼロコロナ政策崩壊
 【武漢共同】中国湖北省武漢市で12月に新型コロナウイルスの感染爆発が起き、感染者の死亡が急増していると、住民らが29日までに共同通信に証言した。習近平指導部の「ゼロコロナ」政策が崩壊する中で流行が拡大した。コロナ発生を世界で初めて武漢当局が通知してから30日で3年。流行初期に都市封鎖を経験した市民らは再び難局に直面している。
 市内の葬儀場には29日、遺影や遺灰を持った人や車が大勢集まった。医療関係者によると流行のピークは過ぎたもようだが、現在も重症者の増加で病床が逼迫。武漢の人口は約1300万人だが複数の住民は「体感で9割近く」が感染したと話している。

葬儀場内を歩く防護服姿の人=29日、中国湖北省武漢(共同)(KYODONEWS)
(以上、Yahoo!ニュース、共同通信より引用)

      ■         ■
 中国のお葬式や火葬場のことはよくわかりません。
 住民が感染者の死亡が急増していると証言するのは、
 ほんとうだと思います。
 3年前に武漢の眼科医、
 李文亮先生が報告されて
 約1ヵ月でご逝去されました。
 まさか世界中に拡がるとは思ってませんでした。
 年末年始も感染に気をつけます。

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3年ぶりに行動制限なしの年末年始

 今日は2022年12月29日(木)です。
 毎週木曜日は休診日ですが、
 年末だけは診療をしています。
 美容形成外科の繁忙期は年末です
 お正月休みをダウンタイムにするためです。
 毎年かわりません。
      ■         ■
 2022年12月29日、Yahoo!ニュースです。
 帰省ラッシュきょうピークか 3年ぶりに行動制限なしの年末年始
 3年ぶりに行動制限がない年末年始、空の便や鉄道では、きょう、帰省ラッシュがピークとなる予想です。
 成田空港はきのう、出国のピークを迎え、旅行客らでにぎわいました。
 日本航空と全日空によりますと、水際対策の緩和などで、国際線の予約は新型コロナ感染拡大前の3年前と比べて半分程度にまで回復しているということです。
 一方、国内の帰省ラッシュは、空の便、鉄道ともきょう、下りがピークとなる見込みで、上りは来月3日になるとみられます。
 JR各社によりますと、年末年始の新幹線、在来線の指定席の予約状況は、感染拡大前の8割近くまで回復しているということで、きょう、あすの下りは空席が少なくなってきています。
 高速道路の帰省ラッシュは、東名や関越道などの各高速道路の下り線できょうから始まり、ピークはあすの午前中になる予想です。

(以上、Yahoo!ニュース、TBS NEWS DIGより引用)

      ■         ■
 中国以外からの入国は緩和されています。
 米国ではマスクなしの生活になっています。
 感染者数や死者数も減ってきていましたが、
 日本では死者数が増えたようです。
 残念なことに、
 中国はかなり違うようです。
 TVのニュースに出ていた、
 火葬場に向かう霊柩車の列はこわかったです。
 棺桶にも入ってないご遺体を見ました。
 2023年はコロナとさよならをしたいです。

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ある日突然裁判所から書類が来たら

 今日は2022年12月28日(水)です。
 御用納めです。
 札幌美容形成外科は12月30日(金)まで診療をします。
 コロナ3年目の2022年は、
 高齢者の受診が減ったままです。
 油断大敵なので外出自粛です。
 若い方の受診は戻りつつあります。
      ■         ■
 私の院長日記も16周年を迎えました。
 2006年10月22日からはじめました
 16年間はあっという間でした。
 私は52歳から68歳になりました。
 院長日記を続けられたのは、
 コメントをいただいたおかげです。
 心から感謝しています。
      ■         ■
 さくらんぼさん
 なっちゅんさん
 えりーさん
 毎日ほんとうにありがとうございます
 ご声援がなければ続けられませんでした。
 16年間にさまざまなできごとがありました。
 大同生命との裁判もありました。
      ■         ■
 今になって思うことです。
 私の場合はこちらから調停を申し立てましたが、
 残念なことに不成立になりました
 突然、特別送達
 …という1000円切手が2枚もついて、
 2170円も郵送料がかかる裁判所からの書類が届きました。
 ばか正直な私は出頭してくださいと書いてあったので、
 毎回口頭弁論に行きました。
 私のマネをしないことをおすすめします
 裁判所の口頭弁論は書類の確認だけです。
      ■         ■
 裁判所に行くとクリニックは閉じるので、
 当然、売上も減ります。
 そうすると収入が減ります。
 裁判で計算する時に損をします。
 これから建物明渡訴訟になった同業の先生は、
 ぜひ信頼できる弁護士さんにすべてお任せして、
 ご自身は本業に専念してください。
 それが精神的にも肉体的にも経済的にもいいです。
 裁判を経験した私からの助言です。
20160523
20160523-2

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4プラがなくなりました

 今日は2022年12月27日(火)です。
 2022年も残すところあと5日です。
 札幌美容形成外科は30日(金)まで診療をします。
 今年はいろいろなことがありました。
 札幌美容形成外科の近くでは、
 4プラが閉店しました。
 もう建物はありません。
      ■         ■
 建物をこわす時に、
 時々地震のような振動がありました。
 大同生命ビルの取り壊しの時には、
 すぐ隣だったのでもっと大きな地響きがありました。
 建物の梁など大きな構造物が、
 落下する時に地響きがしました。
 ビルをこわすのも大変です。
      ■         ■
 今年は札幌駅のパセオもなくなりました
 もともとヨドバシカメラがあった高架下も、
 今は何もなくなっています。
 これから新幹線の工事が本格化してきます。
 ホテルオークラ札幌もなくなりました。
 4プラがあった場所では、
 新しいビルのためにボーリングをしているようです。
 しばらく札幌では工事ラッシュが続きそうです。

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冬の停電に備える2022

 今日は2022年12月26日(月)です。
 形成外科42年のあゆみを16回も書いてしまいました。
 申し訳ございません。
 矢野雋輔やのしゅんすけ先生のところまで書いたので、
 一度お休みします。
 また少しずつ再開します。
      ■         ■
 2022年も今週で終わりです。
 大変な一年でした。
 一番残念なのがウクライナの戦争です。
 ロシアのプーチン大統領は、
 極寒のウクライナで電気を破壊しています。
 とんでもないことです。
 病院にも電気が来ないことになります。
      ■         ■
 北海道の紋別地方で大雪のために、
 停電になりました。
 雪の重みで送電の鉄塔が倒壊しました。
 倒木のために、
 送電線がやられました。
 大変なことです。
 冬に停電になると暖房が止まります。
      ■         ■
 国に冬の停電対策を望みます
 2018年9月21日の院長日記です。
 地震の後で大規模停電になった時に書きました。
 北海道では、
 冬に大雪になると電線に雪が付着します。
 この雪の重みで送電線が揺れて、
 電力が不安定になることがあります。
 2012年11月の登別市の大規模停電は、
 この送電線の障害が原因だったと記憶しています。
 災難は忘れた頃にやってきました。

      ■         ■
 2018年の地震の後で、
 発電機
 ガス暖房機を買いました。
 一度も使っていません。
 またいつ停電になるかわかりません。
 私はEVが止まっても階段で上がれます。
 冬の停電対策のために、
 カイロを買っておこうか?と思いました。

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形成外科42年のあゆみ⑯

 形成外科42年のあゆみの続きです。
 形成外科医になろう、
 美容外科医になろう、
 …という若い人がいたら、
 医学部に入るところが一番の難関です。
 医学部入試は今も昔も難しいです。
 私も入れるとは思っていませんでした。
      ■         ■
 私の人生に一番大きな影響を与えてくださったのが、
 高校3年生の時に通った、
 予備校の夜間ゼミでした。
 そこで矢野雋輔やのしゅんすけ先生との出会いがありました。
 もし矢野先生の講義を聴いていなければ、
 私は医師になれませんでした。
 そのくらい私の人生を変えてくださったのが、
 矢野先生の講義です。
      ■         ■
 けんいち少年は医学部を目指していましたが、
 成績は低迷。
 とても…
 現役合格できるレベルではありませんでした。
 札幌西高校では生物は一年生で履修しました。
 生物は好きでしたが、
 模試の成績は…
 いま一つ…
 パットしませんでした。
 北海道新聞の広告で、
 桑園予備校という予備校が、
 夜間ゼミを開講するというのを知りました。
      ■         ■
 母親に頼んで、
 この夜間ゼミを受講しました。
 当時は、
 夏期講習や冬期講習など、
 札幌にあった、
 札幌予備学院(現、河合塾札幌校)と
 桑園予備校(現在はありません)
 の2校が
 現役受験生向けの講習を開いていました。
      ■         ■
 私の家は裕福ではありませんでした。
 父親は夕張で単身寮生活。
 母親は生命保険の外交員をしていました。
 贅沢ぜいたくはしていませんでしたが、
 子どもの教育費だけは、
 何とか捻出してくれていました。
 西高の授業が終了した後で、
 バスで予備校へ通学しました。
      ■         ■
 授業は17:00開講。
 19:00までの2時間でした。
 矢野先生の授業(講義)は、
 あっという間に2時間が過ぎました。
 今でも先生の顔、声、授業内容を
 とても鮮明に覚えています。
 授業は
 入試に出る生物100というタイトルでした。
      ■         ■
 桑園予備校には、
 当時としては最新鋭のコンピューターがありました。
 矢野先生は、
 このコンピューターで過去の入試を分析。
 入試に出る生物100を抽出し、
 その講義をしてくださいました。
      ■         ■
 講義内容は素晴らしく、
 培風館(ばいふうかん)という会社の、
 生物精義という参考書以上の内容でした。
 私が不得意だった、
 生物の分類も、
 (生物の)名前は
 お経(きょう)のように…
 何度も口に出して、となえて… 
 覚えるしかありません…
 トイレに紙を貼って覚えなさい!
 …とご指導していただきました。
      ■         ■
 原索動物(げんさくどうぶつ)例えば…
 ギボシムシ(現在は半索動物に分類)
 ホヤ
 ナメクジウオ
 と今でもスラスラ出てきます。
 矢野先生の夜間ゼミのおかげで、
 私は冬の校内模試で、
 生物が一番になりました。
 後にも先にも、一番をとったのは
 この生物だけでした。
      ■         ■
 残念なことに数学ができなくて浪人しました。
 一浪した予備校時代にも、
 札幌予備学院で矢野先生にお世話になりました。
 人間とは不思議なもので、
 それまでダメだった私が、
 矢野先生の生物の講義のおかげで、
 他の科目の成績まで伸びました。
 いま、こうして医師免許を取得し、
 医師として生活できるのも、
 矢野先生と出会ったからだと…
 一度も忘れたことはありません

      ■         ■
 68歳になった今も、
 矢野先生のことを忘れたことはありません。
 恩師、大浦武彦先生の奥様、故大浦憲子様が、
 藤女子大学で、
 矢野先生の教え子だったと、
 教えていただいたことがありました。
 私が形成外科医になれたのは、
 矢野先生や大浦武彦先生のおかげです。

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形成外科42年のあゆみ⑮

 形成外科42年のあゆみが長くなりました。
 つまらない院長日記にお付き合いいただきありがとうございます。
 自分史を書いているようで、
 なかなかやめられません。
 もう少し続けさせてください。
 大夕張から札幌に来るために、
 私の両親はかなりがんばってくれました。
      ■         ■
 私の高校進学とともに、
 私と弟、母の3人が札幌に来ました。
 父親の母が住んでいた、
 西区八軒はちけんの家に引っ越してきました。
 お世辞にも立派な家とは言えませんでした。
 トイレは水洗式ではありません。
 最初はお風呂もなく銭湯に通っていました。
      ■         ■
 私たち3人は、
 七畳くらいの一部屋に、
 私と弟と母親が
 寝泊りしていました。
 私と弟は2段ベッド。
 母親は床に布団を敷いて寝ていました。
 壁が汚かったので、
 ペンキを買ってきて自分たちで塗りました。
 床は父親がフローリングを自分で貼りました。
      ■         ■
 父親が昭和36年に購入した中古の建売木造住宅でした。
 昭和30年代に建てられ、
 父親が自分の叔父との裁判で、
 円山にあった土地と建物を失ったので
 その建売住宅を買ったようです。
 お金がなかったので土地は長い間借地でした。
 最初は父の両親と弟妹が住んでいました。
      ■         ■
 そのボロ家から私は札幌西高校に通っていました。
 見栄を張っていたつもりはありませんが、
 高校時代、同級生に、
 『今度、本間の家(ホンマンチ)へ行ってもいぃ?』
 と言われるのが一番困りました。
 友人に来てもらうような家ではありませんでした。
 友人の家は、
 西区西野の閑静な住宅地にあり、
 新築の立派な家でした。
      ■         ■
 私の家には友人を呼んだ記憶がありません。
 けんいち少年は、
 そこからバスと徒歩で西高に通っていました。
 お金がなかったので母親は働きに出ました。
 北海道新聞に載っていた求人広告をよく見ていました。
 40歳を過ぎると雇ってくれるところがないと、
 よくぼやいていました。
      ■         ■
 森永製菓のお菓子工場のパート(不況でリストラ)→
 日本団体生命保険の外交員→
 三菱信託銀行の財形貯蓄の勧誘員、

 …それと私が大学に入ってから、
 公益社団法人北海道不動産鑑定士協会 
 …で将来年金をもらえるようにと働いていました。
 私たち息子2人が独立してからも、
 鑑定協会で働いていました。
 そこでたくさんの人脈を築き株も教えていただきました
 94歳になってもお金に困らず、
 サ高住に住んでいます。
 うさぎ小屋以下だった、
 昔の本間家では考えられないことです。

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形成外科42年のあゆみ⑭

 形成外科42年のあゆみを2週間も書いてしまいました。
 藤枝正道先生の3年7組は楽しいクラスでした。
 模擬試験では一度もA判定もB判定も出ませんでした。
 それでも第一志望は札幌医大にしていました。
 自分なりに勉強はしていましたが、
 なかなか成績は伸びませんでした。
      ■         ■
 今から考えると学力不足でした。
 札幌西高校では、
 伝統の、
 文化祭、
 運動会、
 行燈行列、
 という学校の行事がありました。
 受験生なのに勉強以外のこともしていました。
 楽しい高校生活でした。
      ■         ■
 北海道には、
 炊事遠足というのがあります。
 結婚してから奥さんに言ったら、
 何それ?って言われました。
 はんごうすいさん飯ごう炊さんのこと?
 …と言われ、
 今度は私がはんごうすいさんって何?
 …と聞きかえしました。
      ■         ■
 北海道では、
 お弁当を持って行くふつうの遠足ではなく、
 どこかに行って、
 豚汁を作ったり、
 ジンギスカンをしたり、
 野外で料理をして食べる遠足を、
 炊事遠足すいじえんそくと呼びます。
 ネットで検索すると今でもあります。
      ■         ■
 3年7組では、
 十五島公園に炊事遠足に行きました。
 藤枝先生の奥様と、
 お嬢様もいらっしゃいました。
 先生が奥さんのことを、
 としちゃん♡と呼ばれていました。
 とても素敵なご夫妻です。
 現役合格はできませんでしたが、
 私は楽しい高校生活を送ることができました。
20150531-1
20150531-2

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形成外科42年のあゆみ⑬

 形成外科42年のあゆみ13回目です。
 高校2年生で少し成績がUPしました。
 同級生に本間、新聞を読めと教えてもらったり、
 STVラジオで旺文社の大学受験ラジオ講座を聞いて、
 少しずつ勉強の方法がわかってきました。
 ただ机に向かってもダメでした。
      ■         ■
 当時の札幌西高校は3年生になると、
 進路別にクラス分けがありました。
 2年生までは全員同じ勉強ですが、
 3年生になったら、
 ・国立理系
 ・国立文系
 ・私立理系
 ・私立理系
 …と別れていた記憶があります。
      ■         ■
 国立理系と国立文系は同じクラスで、
 数学と物理だけお隣の3年8組と国立理系は数Ⅲを勉強した記憶があります。
 (はっきり覚えていなくて申し訳ありません)。
 国立文系は数Ⅲはなかったと思いますが、
 記憶が定かではありません。
 私は数Ⅲが嫌いではありませんでしたが、
 成績がいまいちでした。
 これが現役で札幌医大を落ちた原因です。
      ■         ■
 高校3年生になったけんいち少年は、
 3年7組になりました。
 担任は日本史の藤枝正道先生です。
 女子
 圧倒的人気
 …の先生でした。
      ■         ■
 私たち男子生徒から見ても、
 とても素敵な先生でした。
 私が記憶しているのが、
 よく藤枝先生が放課後の掃除を、
 クラスに来ていっしょにしてくれたことです。
 私たちは掃除当番がしていましたが、
 先生は毎日掃除にいらしてくださいました。
      ■         ■
 掃除を毎日いっしょにしてくれた先生は、
 私の記憶では藤枝先生だけです。
 大変申し訳ないことに、
 私は日本史の成績が悪く、
 あまり勉強もしませんでした。
 私が受験した札幌医大は、
 社会科が一科目だけでした。
 私は政治経済で受験しました。
      ■         ■
 すみれさんと同じクラスだったのも、
 3年7組でした。
 私よりずっと健康的で素敵な女の子でした。
 残念なことに難病でご逝去されてしまいました
 ほんとうに今でも信じられません。
 医学の無力さを感じます。
 同級生で亡くなられた方が何人もいます。
 私はまだ元気で働けてしあわせだと思っています。
 心からご冥福をお祈りしています。
1977

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形成外科42年のあゆみ⑫

 形成外科42年のあゆみを書き始めて12回目です。
 なかなか高校卒業までたどり着けません。
 いい高校からいい大学に行くつもりで、
 15歳のけんいち少年は札幌西高校に入学しました。
 残念なことに、
 札幌西高校に入学してからは、
 大夕張の優等生が
 札幌西高の劣等生になりました
      ■         ■
 ソフトクリームの思い出に書きました。
 当時の札幌西高校は一学年450人でした。
 45人のクラスが10組ありました。
 おおよそ男子300人、女子150人程度で、
 圧倒的に女子が少ない学校でした。
 北海道の高校ランキングでは、
 ①札幌南
 ②札幌北
 ③札幌西
 …という順位でした。
 札幌西は自由な校風が特徴でした。
      ■         ■
 私は青白い顔をした、
 不健康そうな男子でした
 いつも風邪をひいていました。
 熱を出して学校を休んだこともよくありました。
 一浪して受けた自治医大の面接で、
 きみは高校をよく欠席しているが、
 そんなに身体が弱くて僻地の医師になれるのか?

 …と面接官から質問されたくらいでした。
      ■         ■
 高校2年生は、
 柔道の齋藤佳彦先生が担任で、
 仲のよいクラスでした。
 夏には余市よいちにキャンプに行きました。
 クラスのほぼ全員が参加した記憶があります。
 成績上位者にはなれませんでしたが、
 いい友人や先生に恵まれました。
 彼女はいませんでしたが同級生には女子もいました。
      ■         ■
 よく風邪をひいて、
 大きなマスクをして、
 青白い顔をしていました。
 モテませんでした
 中学・高校と
 バレンタインデーにいただいたチョコはゼロ
 医学部を目指して、
 勉強ばかりしている男子はもてません。
 保健室にもよくお世話になりました
 美容形成外科の医者になるなんて、、、
 夢にも考えていませんでした。
 人生とは不思議なものです。

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