医学講座
形成外科42年のあゆみ⑨
15歳のけんいち少年は、
大夕張の夕張市立鹿島中学校から、
札幌の北海道札幌西高等学校へ進学しました。
1970年5月の最初の定期試験で、
何と英語が赤点ぎりぎりでした。
すっかり劣等生になりました。
■ ■
得意科目だったはずの国語も低迷、
高校1年生の社会科は地理でした。
これも得意だったはずなのですが、、、
成績は低迷。
大好きだった理科は、
高校1年生の生物でこれまた低迷、
数学も苦手ではなかったはずなのに、
いい点数は取れませんでした。
■ ■
高校1年生の担任は、
橋本順子まさこ先生でした。
順子と書いて
まさこと読みます。
お茶の水女子大学を卒業され、
札幌西高校で世界史を教えていらした、
才女の先生です。
ニックネームはライオンでした。
本名を知らず、
ライオンという名前だけ覚えている同窓生も多いようです。
獅子しし子先生と呼んだ西高の後輩もいました。
■ ■
2018年5月5日の北海道新聞朝刊(札幌版)に橋本順子先生が出ていました。
札幌西高校の高校生活は、
夏に有珠うすでサマーキャンプがあったり、
学校祭があったり、
伝統のマラソンがあったり、
楽しい思い出はたくさんありますが、
とにかく成績が低迷していました。
医師になるなんて夢のまた夢でした。
考えたこともありませんでした。

医学講座
形成外科42年のあゆみ⑧
形成外科42年のあゆみ、
ようやく中学校まできたところで、
一週間のお休みが終わりました。
せっかく書き始めたので、
もう少し続けさせてください。
■ ■
私が卒業した夕張市立鹿島中学校は、
大夕張の唯一の中学校でした。
大部分の生徒は地元の高校へ進学しました。
私が中学生だった50年前は、
地元の高校に進学しないで、
進学校と呼ばれる、
函館ラサール高校や、
札幌の高校に進学する生徒もいました。
■ ■
私は家庭教師の永井先生がおすすめしてくださった、
札幌西高校と函館ラサール高校を受験しました。
幸運にも両方とも合格できました。
私は弟も札幌の中学校に進学するため、
札幌西高校に行きました。
よかったのはここまででした。
大夕張では成績優秀者の一人でしたが、
あっという間に急降下しました。
■ ■
大夕張の田舎から出て来て、
毎日、バスで通学するだけで大変でした。
とにかく人が多いのに驚きました。
毎日、通学だけで疲れました。
その上、勉強はできず…
英語の暗記はできず…
高校に入ってから劣等生になりました。
■ ■
札幌市内や道内の中学校から選抜された450人が集まったのです。
正規分布した母集団です。
大夕張では成績が優秀だったとしても…
高校に入ってから成績が落ちるのは、
当然と言えば当然の結果です。
友人はすぐにできました。
お前、英語の暗記できた?
できねぇ~。
勉強しようと思ったけど寝ちゃった。
■ ■
最初の定期試験で、
何と英語が赤点ぎりぎりでした。
英語が不得意科目になりました。
1970年5月にあった…
高校一年生はじめての中間試験。
英語の文法、
札幌西高では、
composition(コンポジション)
を略してコンポと呼んでいました。
このコンポがダメでした。
■ ■
毎日、必死に勉強したのに、
100点満点の24点でした。
21点以下が赤点だったので、
かろうじてセーフでしたが、
生まれてはじめて24点なんて点を取りました。
札幌の有名中学校を卒業した同級生には、
楽勝だった人もいました。
学校をやめたくなりました。
■ ■
勉強の仕方もわかりませんでした。
高校一年生のけんいち少年は、
英語の辞書が、
手垢で黒くなるまで、
何度も繰り返して開きました。
他の教科も含めて、
勉強で苦労していました。
とても医学部へ入れるレベルではなく、
将来の展望も持てませんでした。
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑦
形成外科42年のあゆみを書いていたら、
一週間が過ぎてしまいました。
ようやく中学生のところまで来ました。
私は美唄から大夕張へ転校しました。
中学1年生の時にはいじめられたりしましたが、
そのうち仲の良い友だちもできました。
成績は悪くはなかったですが、
学年で一番になったことはありませんでした。
■ ■
夕張市立鹿島中学校で一番だったのは、
菊池久子さんという女子でした。
生徒会長にもなった人です。
私が一生懸命勉強をしてもかないませんでした。
お父さんから勉強を習っていると聞きました。
私の成績が伸び悩んでいたので、
うちの親が家庭教師を頼んでくれました。
永井先生でした。
■ ■
家庭教師は週2回だったと記憶しています。
私は永井先生のおかげで成績が少しずつUPしました。
国語が得意になったのは、
中学校3年生の時に聴いた…
NHKラジオの
中学生の勉強室という番組のおかげです。
国語の担当が
東京都立八潮高等学校の
小田島哲哉先生でした。
■ ■
国語は毎週金曜日でした。
小田島先生の語り口が穏やかだったのと、
テキスト本文の朗読がありました。
朗読は東京放送劇団などに所属する、
プロの方が担当されていました。
何て上手な読み方だろう…
耳をそばだてて聴きました。
私はこの中学生の勉強室で、
国語が好きになり…
得意科目になりました。
■ ■
今こうして…
院長日記を書き続けられるのも…
小田島哲哉先生のおかげです。
50年たっても感謝しています。
中学生の勉強室で放送してくれた…
有島武郎(ありしまたけお)の
『生まれ出づる悩み』
が函館ラ・サール高校の入試問題に
そのまま出ました。
■ ■
小田島先生が講義で教えてくださった…
有島武郎の
たけおの読み方。
落葉松
からまつの読み方。
50年たった今でも…
はっきりと覚えています。
私は中学生の勉強室を聴かなければ…
おそらく志望校への進学は無理だったと思います。
■ ■
私が小田島哲哉先生のことを院長日記に書いたので、
小田島哲哉先生の米寿を祝う会に呼んでいただけました。
残念なことに先生はご逝去されてしまいましたが、
米寿を祝う会で先生から、
♡子供に夢をあたえる教育♡
♡夢を持つことが生きがい♡
♡夢を持つことの大切さ♡
…を教えていただきました。
私の貴重な財産の一つです。

医学講座
形成外科42年のあゆみ⑥
形成外科42年のあゆみを書きはじめて6日目になりました。
まだ小学校のところです。
私がお伝えしたいのは、
小さい頃から医者になろうと思っていたのではなく、
血を見るのが嫌いで、
産科の実習で倒れたこともある私だったこと、
自分では考えてもみなかった形成外科医に
たまたまなったということをお伝えしたいので、
長々と子供時代からのことを書いています。
■ ■
1967年5月に私は美唄市茶志内ちゃしないから夕張市鹿島に引っ越しました。
父が勤務していた三菱茶志内炭鉱が閉山し炭鉱病院もなくなったためです。
山合の谷間に作られた街というのが、私の夕張に対する第一印象でした。
クネクネとした、狭い道路をバスに揺られて行きました。
清水沢しみずさわという町から、
バスは大夕張に向けて山に入ります。
私の目に入ったのは北炭の清水沢発電所から出る、
モウモウとした石炭の煙と、
石炭を洗った洗浄水によって真っ黒になった夕張川でした。
■ ■
大夕張の手前にはシューパロ湖というダムがありました。
森林鉄道で使ったという三角を組み合わせたような橋が架かっていました。
ダムに向かって右奥はキレイな水の色をしていましたが、
大夕張炭鉱から排水が流れてくるダムの左半分は真っ黒でした。
そのダムの遥か奥に1,668mの夕張岳がありました。
山奥に来たものだなぁ~というのが第一印象でした。
■ ■
美唄から大夕張に転校する前に、
大夕張では男子は全員丸坊主だという噂を聞かされました。
おでこを気にしていた私にとっては大問題でした。
丸刈りだけは勘弁してほしいというのが正直なところでした。
実際に鹿島中学校に転校してみると丸坊主の子が目立ちました。
美唄の茶志内中学校では、丸坊主の男子はゼロでした。
■ ■
幸い鹿島中学校でも丸刈りは強制されませんでした。
でも、中学校でも、私のおでこの広さは指摘されました。
一年生の時に同級生のMくんが
おでこの長さを測ろうと言い出しました。
私はイヤだったのですが、しぶしぶ応じました。
Mくんは、額が狭くその代わり後頭部が出っ張っていました。
本人もそれを気にしていて髪で隠すようにしていました。
当然、丸刈りは二人とも大嫌いでした。
■ ■
中学校で測った時は6㎝9㎜でした。
今、測定してみても同じくらいです。
人間の頭蓋骨の大きさはあまり変化しないようです。
私のことをおでこ。
将来は確実にはげるね。
…と言っていたMくんがはげました。
小学校の時の佐藤くんには会っていないので
その後どうなったかわかりません。
■ ■
私は、自分がおでこを気にしていたから、
形成外科医になったのではありません。
ただ、他人から見るとどうでもいいと思うようなことでも、
本人が悩んでいるのでしたら、
できるだけ力になってあげようと思います。
自分ががっかりした経験。
自分が困った経験。
英語でいうと、disappointing experienceがたくさんあると
他人の悩みも理解しやすいのかもしれません。
■ ■
鹿島中学校ではいじめにあいました。
英語の時間にRとLの発音がうまくできなかったため
英語の先生が『君は言語障害なのか?』と言ったあとで
ついたあだ名が『言語障害』でした。
先生に悪気があったとは思いませんが
教師たる者は言動に注意しなくてはいけません。
その後についたあだ名は『イカリヤ長介』でした。
私の下くちびるが少し出ていて、
当時はやっていたドリフターズの長さんこと
イカリヤ長介さんの下くちびると同じだというのが理由です。
中学校時代の写真はいつも下口唇をかんでいます。
■ ■
中学校時代に言われた経験と形成外科医になったことは関係はありません。
ただ札幌に来た時に、
中央整形の看板を見つけて、
ここに来たら下くちびるを治してもらえるのかなぁ~
…と本気で思っていました。
まさか自分が将来そこの副院長として雇ってもらえるとは、
夢にも考えていませんでした。

私は自転車が好きな少年でした
医学講座
形成外科42年のあゆみ⑤
私は美唄市茶志内びばいしちゃしないで4年ちょっと過ごしました。
自分の中ではじめて医者になるという言葉が出た時でした。
でも私の中では、お医者さんになるなんて考えはありませんでした。
父親が働いていた茶志内炭鉱病院は、
丘の上にありました。
病院から見える田んぼはきれいでしたが、
病院の下にはお墓がありました。
■ ■
私はお墓がこわかったのです。
小学生の頃の私は、
おばけ
お墓
火葬場
死体
血
注射
…がこわい子供でした。
■ ■
父親が勤務していた、
三菱茶志内炭鉱病院は、
丘の上にありました。
すぐ前が墓地でした。
炭鉱病院に行くには、
墓地の中の道を通るか、
急な坂道を上がる2つの道がありました。
■ ■
こわがりだった私は、
小学校6年生になっても、
墓地の中を通らず、
遠回りをして、
急な坂道を上がりました。
そのくらい、
おばけとお墓がこわい少年でした。
今では考えられません。
■ ■
ですからお医者さんになるという考えはありませんでした。
不幸にもクビになってしまいましたが、
札幌医大に在職中は、
解剖学第二講座の村上弦むらかみげん教授
…のおかげで、
解剖学教室で研究をさせていただきました。
PRSという米国形成外科学会雑誌に掲載された英文論文もあります。
解剖学教室で研究なんて、
小学生の頃のけんいち少年には、
考えられなかったことです。
■ ■
今は、
おばけ
墓地
火葬場
死体
血
注射
まったくこわくないです。
■ ■
小学生の頃は、
山に行って遊んだり、
川や沼で釣りをしたり、
冬はスキーをしていました。
親からも医者になれとか、
薬剤師になれとか、
言われた記憶はありません。
けんいち少年は自然の中で遊ぶのが好きでした。
仲がよかった友だちは荒木田和生くんでした。

中学1年生の私です(向かって右)左は荒木田和生くんです
医学講座
形成外科42年のあゆみ④
楽しかった手稲ていねでの生活は、
小学校2年生の終わりまででした。
小学校2年生の3月に、
私の家は美唄市びばいし茶志内ちゃしないに転居しました。
父親は三菱茶志内炭鉱病院の薬剤師になりました。
私は日東美唄小学校にっとうびばい小学校に転校しました。
■ ■
美唄市びばいしは、明治時代に屯田兵とんでん兵が開拓した農業の町です。
大正時代に三菱鉱業が炭鉱をつくりました。
三菱、三井の財閥が炭鉱をつくって、
石炭と農業の町になりました。
国の石炭政策が変わり、
私が中学生の頃に炭鉱が閉山しました。
私が通った日東美唄小学校も閉校しました。
日東美唄小学校には炭鉱で働く人の子供たちと、
近くの農家の子供たちが通っていました。
■ ■
私は小学校3年生から中学校1年生の5月まで、
茶志内ちゃしないに住んでいました。
ここで友だちになったのが、
荒木田和生くんです。
荒木田くんは誕生日が同じ9月でした。
お父さんは病院ではなく、
三菱茶志内炭鉱のえらい方でした。
■ ■
私は荒木田くんと、
裏山に福寿草を取りに行ったり、
山にきのこを取りに行ったりしました。
茶志内でも自分が医者になるとは考えていませんでした。
何になるかわかりませんでした。
荒木田くんと遊ぶようになって、
お医者さんごっこではなく、
バンカースというゲームをするようになりました。
荒木田くんの家にはケンちゃんの家にないものがありました。
■ ■
茶志内で記憶に残っているのが、
今野こんの先生です。
今野先生のご子息は、
私の札幌医大の先輩です。
私が小学生の時に、
美唄東高校から、
札幌医大に進まれました。
■ ■
PTAの会合か何かで、
私の母親に、
息子さんはお医者さんにしなさい
…と言っていただいたそうで、
母親は、
今野先生がおっしゃっていたと
美唄を離れた後も言っていました。
先生の何気ない一言が私の中で、
医師になるというはじめての言葉です。
でも自分では医者になるとは考えていませんでした。

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形成外科42年のあゆみ③
私の楽しかった子供時代、
手稲での生活は小学校2年生まででした。
結核患者の減少で、
三菱鉱業は手稲療養所を閉鎖しました。
病院は札幌市琴似八軒ことにはちけんで開業していた、
ルカ病院に売却され手稲ルカ病院になりました。
父親は三菱鉱業の茶志内ちゃしない炭鉱病院に転勤になりました。
マーちゃんのお父さん(小山先生)は赤平市の、
茂尻もじり炭鉱病院に行かれました。
■ ■
縁とは不思議なものです。
私の祖母(太田キヨ)はマーちゃんのお父さん、
小山昌正おやまよしまさ先生のことを、
ヨシマサさんと呼んでいました。
小山昌正先生は祖母のことをおばさんと呼んでいました。
私は子供ながら不思議に思っていました。
■ ■
小山先生が北大医学部の学生だった頃、
祖母の家の近くに親戚があり、
よく遊びに来ていたそうです。
私の母とも母の兄とも親しかったそうです。
それもあって、
私の家とマーちゃんの家は、
ふつうのご近所以上に親しくお付き合いをしていただきました。
今でも母親(94歳)の一番の仲良しがマーちゃんのお母様(94歳)です。
■ ■
『今日はおじさん(マーちゃんのお父様)が当直でいないから泊まりにいらっしゃい!』
…と泊まりに行ったことが何度もありました。
母親から『あんたはマーちゃん家チにお泊りに行って、
お客さん用のフトンにおねしょをした!』と子供のころに何度も言われました。
子供だから、おねしょくらいするでしょ!、
…と今なら反論できますが傷ついた記憶があります。
マーちゃんは、背が高くて、頭がよくて、
母からよく『あんたも、マーちゃんみたいになりなさい』と言われていました。
■ ■
マーちゃんはリーダーでカッコよかったので、
私もいつかはマーちゃんに追いつきたいと思っていました。
ただ、手稲にいた頃には、
自分がお医者さんになりたいとか、
いつかお医者さんになってやろうとか、
夢にも考えていませんでした。
私は血を見るのがこわくて、
お医者さんは絶対に無理だと思っていました。

祖母に産湯に入れてもらっている私です
昔はタライでした

ソリを引くのがマーちゃん
その後ろが妹のはるみちゃん
最後尾が私ケンちゃんです
医学講座
形成外科42年のあゆみ②
私は1954年9月8日に市立札幌病院で生まれました。
病院のすぐ近くに母親の実家がありました。
母親は5人きょうだいの2番目で、
小学4年生の時に父親が亡くなりました。
祖母が一人で男4人女1人の5人の子供を育てました。
30代で未亡人になって財産もないのに、
よく一人で育てたと思います。
■ ■
市立札幌病院の近くの借家で、
和裁の仕事をして、
その収入で子供を5人育てました。
今、考えてもよく育てたと思います。
市立病院のおばあちゃんと呼んでいました。
私は祖母が大好きでした。
家内が私の家にはじめて来た時にも、
真っ先に祖母に紹介しました。
■ ■
私の父親は病院勤務の薬剤師でした。
私が小学校2年生まで、
札幌郡手稲町金山にあった、
三菱鉱業の結核療養所で働いていました。
病院の職員住宅に住んでいました。
近所の子どもたちは病院職員の子供でした。
■ ■
お医者さんごっこをして遊んでました。
お父さんの仕事と同じ役割分担でした。
・マーちゃんがお医者さん。お父さんは小山先生(内科医)。
・はるみちゃん(マーちゃんの妹)が看護婦さん。お母さんが元看護婦さん。
・ひろすけちゃんが事務長さん。お父さんは小林事務長さん。
・まさるちゃんがレントゲン技師さん。お父さんは、レントゲン技師の草野さん。
・私が薬剤師。父は薬剤師の本間寛でした。
患者さん役が誰だったか?どうやったか?は覚えていません。
■ ■
お医者さんのマーちゃんが‘診察’をして、
看護婦さんのはるみちゃんが介助します。
レントゲン技師のまさるちゃんがレントゲンを撮ります。
注射は、看護婦さんのはるみちゃんが担当。
薬剤師のケンちゃんは、マーちゃんが処方したお薬を作ります。
■ ■
私は、土を集めて、サラサラにして、お薬を調合。
木の葉っぱに包んで、
「はい、お薬ができました」という係りでした。これは今でも覚えています。
私はこの薬の係りが好きでした。
少し大きめの葉っぱを集めて、さらさらにした土を、おままごとの皿に入れて調合しました。
看護婦さんの、はるみちゃんが「はーい、お口を開けて!」と飲ませるマネをしていました。
■ ■
お医者さんは血も見なければいけないし大変だから、
自分は薬剤師でよかった!と子供心に思ったのを覚えています。
マーちゃんのようにお医者さんになりたいとは、
まったく考えていませんでした。
大人になってからは、
マーちゃんが歯科医師、
はるみちゃんは薬剤師になりました。
■ ■
小さい時にお医者さんごっこをしたのと、
私が医師になったのは、
まったく関係ないと思っています。
父親が働いていた結核療養所には、
よく子供たちが遊びに行ってました。
自分の周囲に医療関係者がたくさんいたことは、
病院で働くことに少しは影響したかな?と思っています。

左端が祖母の太田キヨ、私26歳、家内24歳でした
医学講座
形成外科42年のあゆみ①
今日は2022年12月10日(土)です。
札幌美容形成外科は今日から一週間お休みをいただきます。
この間に、私が形成外科を選んだ理由、
形成外科が好きな理由、
これからの若い先生に伝えたいこと、
そんなことを書いておきます。
つまらないかもしれませが、
お付き合いください。
■ ■
私は子ども頃から身体が弱く、
ペルテスという病気になりました。
男の子に多い、
大腿骨骨頭が壊死になる病気です。
私は北大の整形外科にかかりました。
整形外科は痛い注射もなく、
レントゲンを撮って、
診察室で歩くだけで終わりでした。
■ ■
レントゲンと診察だけで、
痛い注射も検査もない整形外科は好きでした。
子どもでしたが、
別に足や腰が痛いわけではなかったので、
どうして自分が整形外科にかかっているのか?
よくわかっていませんでした。
ペルテスの治療のために、
愛育病院に約1ヵ月入院しました。
■ ■
入院して、
自分の足を貨車のような台に固定して、
レールの上にのせて、
足を重石で牽引しました。
ベッドの上から動けませんでした。
食事も排泄もベッドの上です。
床上排泄しょうじょうはいせつと呼びます。
■ ■
愛育病院に入院しました。
ベッドの上で一ヵ月を過ごしました。
一番苦痛だったのが、
ベッド上でのうんこでした。
けんちゃんうんこ臭いには、
5歳の男の子でも参りました。
この頃はまさか自分が医者になるとは、
夢にも考えていませんでした。

左脚につけているのがコルセットです
二重・眼瞼下垂
手術後12年です
今日は2022年12月9日(金)です。
毎年12月1日が私の手術記念日でした。
今年はすっかり忘れていました。
昨夜気がつきました。
ボケてきて忘れたのもありますが、
手術していただいたことを忘れるくらい、
自然な自分の目になっているということです。
■ ■
白髪が増えて、
すっかりおじいさんになりました。
56歳で手術をしていただきました。
今は68歳です。
68歳になっても、
手術ができるのは快適な目のおかげです。
大竹尚之先生に手術をしていただいたおかげです。

56歳_手術前夜

手術翌日朝

手術翌日夜(札幌)

手術6日後

62歳_手術6年後
↑裁判がはじまり顔つきが変わりました

65歳_手術9年後

68歳_手術12年後
■ ■
白髪が増えておじいさんになっても、
元気で手術が続けられるのは、
目を治していただいたおかげです。
私の目は【保険診療】です。
保険診療でもきれいに治すのが形成外科です
残された私の人生は、
保険診療で形成外科の手術を丁寧にします。
自分の目を治していただいた恩返しです。