院長の休日
とも耳鼻科クリニック
私が、札幌医大でお世話になった、
新谷朋子(しんたにともこ)先生が…
2010年9月1日にとも耳鼻科クリニックを、
開業されました。
新谷先生は、
札幌医大昭和62年卒
元札幌医大耳鼻咽喉科講師。
とても優秀な耳鼻科医です。
■ ■
クリニックは、
札幌医大病院のすぐ前です。
元北海道銀行があったビルの2階。
新しくて、きれいなクリニックです。
「みみ」
「はな」
「のど」
一般的な耳鼻科診療はもちろん、
最新精密聴力検査装置を用いた聴力評価もできます。
■ ■
とも子先生は、
厚生労働省補聴器適合判定医
厚生労働省言語機能等判定医
騒音性難聴担当医です。
耳が聞こえなくなって困っている方には、
是非、一度受診していただきたいです。
■ ■
とも耳鼻科クリニックの、
一番の特徴は、
睡眠時無呼吸症候群の治療です。
とも子先生は耳鼻科医としては、
数少ない
睡眠学会認定医です。
睡眠時無呼吸の原因には、
鼻やのどの通りが悪いことがあります。
痛くない最新の内視鏡で、
丁寧に鼻からのどまでを診てくださいます。
■ ■
これからの季節は、
インフルエンザが猛威をふるいます。
風邪やインフルエンザで、
熱や鼻づまりの症状が出ます。
一番、上手に治してくれるのが、
耳鼻科医です。
インフルエンザの予防接種もしていらっしゃいます。
美人で優しい、
とも子先生をおすすめします。
お気軽にご相談ください。
■ ■
とも耳鼻科クリニック
〒060-0061
札幌市中央区南1条西16丁目1-246 ANNEXレーベンビル2F
TEL 011-616-2000 FAX 011-616-2180
●地下鉄東西線「西18丁目」より徒歩3分
●札幌市電「西15丁目」より徒歩3分
●JRバス「医大病院前」より徒歩1分
院長の休日
勇気ある海上保安官
神戸の海上保安官が、
私がやりました
…と船長に報告しました。
さすが海の男です。
勇気ある海上保安官に、
心からエールを送ります。
どんなことがあっても…
自分の正当性を主張してください。
■ ■
霞ヶ関で平和ぼけしている、
内閣総理大臣には、
北の海の厳しさも…
南の海の厳しさもわかりません。
私も釧路労災病院で、
旧ソ連に撃たれた、
漁師さんを治療するまでは、
平和ぼけしていました。
■ ■
日本は海に囲まれている、
単一民族の平和な国です。
でも…
海の向こうには、
北朝鮮もいるし、
ロシアも、
中国もいます。
油断大敵です。
■ ■
私は、
中国の船長を釈放したのに、
海上保安官を逮捕→起訴→裁判、
なんて絶対に許せません。
海上保安庁をクビにするのも許せません。
クビになればいいのは、
内閣総理大臣と官房長官です。
次の選挙では全滅です。
■ ■
私は前の選挙で、
鈴木宗男さんに投票しました。
松山千春さんも大好きです。
仕事をしないで、
威張っている役人は大嫌いです。
鈴木さんは、
最高裁で敗訴して収監されます。
恩赦で出してあげて、
ロシアとよく話し合って欲しいと思っています。
勇気ある内部告発を支持しています。
昔の記憶
同期で一番のお金持ち
卒後30年の同期会。
本間、美容整形はもうかる…?
…と聞かれました。
いえいえ、もうかった時代も…
確かにあったようですが…
私は、そんなにもうかってません。
美容外科医になって、
よかったと思っていますが、
そんなにもうかる商売ではありません。
■ ■
私たち、札幌医科大学27期で…
一番の資産家は誰か…?
同期会では話題にもなりません。
納税額が公表されていた頃には、
北海道でもトップクラスの同期がいました。
私の推測では、
その先生が…
同期で一番のお金持ちでしょう。
■ ■
経済誌などで、
○○を買い取ったなどと…
お名前を見ることがあります。
私の想像がつかないくらいの資産を、
お持ちだと想像します。
若くして、自分の病院を持ち、
順調に業績を伸ばされました。
■ ■
学生時代には、
私たちと同じでした。
病院の食堂で、
280円くらいの定食を食べていました。
特に目立ってはいませんでした。
どちらかというと…
地味で真面目な学生でした。
その彼が…
世界最高級の外車を…
何台も持っているそうです。
■ ■
私はその同期とも仲良しだったので、
会って話しをしたかったのですが、
残念なことに同期会にはいらっしゃいませんでした。
医師は収入が安定した職業ですが、
昨今は、もうからなくなっています。
今朝の新聞にも道立病院の赤字が出ていました。
お金儲けをしたければ、
医学以外の、
投資とか、
企業経営をおすすめします。
■ ■
私の同期で一番のお金持ちは、
大学同期の医師ではありません。
2008年1月4日の院長日記に書いた…
札幌西高校23期生の阿部修平さんです。
スパークス・グループ株式会社 代表取締役社長 。
資産運用の会社です。
創業1989年7月1日
資本金 124億0400万円(2010年3月末現在)
私たち医師には、
どうがんばっても無理な資産です。
医療問題
昨今の研修医気質
卒後30年の同期会。
私の同期には、
教授もいれば、
院長も部長もいます。
何もできなかった卒業直後から、
後輩を指導する立場になっています。
■ ■
教授も、
院長も異口同音に…
医師不足を嘆いていました。
大学にも人がいないようです。
大きな病院の部長職でも、
まだ当直をしているそうです。
一晩当直をすると、
2日はダウンしてしまう…。
とてもよくわかります。
■ ■
研修医は、
すぐに辞めてしまう
つらいことはしない
給与を高くしないと集まらない
現代の若者気質は、
お医者さんも同じなのでしょうか…?
高いこころざしの人は…
少ないのでしょうか?
■ ■
私たちが卒業した30年前。
確かに給与で選んだ人も…?
一部にはいたかも…?
でも、大部分の同期は、
自分が将来何をしたいか?
自分がどんな仕事に向いているか?
…で、決めたように思います。
■ ■
札幌医大→北大へ行った私は、
同期の中でも、
もっとも給与が低かったと思います。
それでも…
結婚もできました。
人生で最も幸せだったのは、
2DKの公団住宅で新婚だった頃です。
■ ■
これから卒業して医師免許を取得する先生には、
自分の性格や適性を考えて、
専門とする科を選ぶことをおすすめします。
人と話すのが苦手な方は、
基礎医学で研究者という道もあります。
好きでもないのに…
何となく選んだのでは…
長続きしません。
配偶者選びと同じです。
院長の休日
卒後30年
平成22年11月6日(土)に、
札幌医大27期、
卒後30周年の同期会がありました。
私は25歳で卒業し、
現在56歳です。
もう還暦を過ぎた同級生もいました。
一人も亡くなることがなく、
全員元気で30周年を迎えました。
■ ■
土曜日の同期会には、
卒業生の半数近くが集まりました。
札幌医大を卒業して、
東京女子医大へ行った先生。
東京慈恵医大へ行った先生。
30年ぶりに会った人もいました。
懐かしい・楽しい時間でした。
■ ■
私たちは…
ふだん先生と呼ばれる職業です。
病院で会っても…
卒業後は○○先生と呼びます。
同期会は別です。
教授になった同期も…
院長になった同期も…
昔のまま呼び捨てでOKです。
■ ■
『本間、お前のブログ読んでる』
『これブログに書かないで!』
つたない院長日記を読んでいただき、
ありがとうございます。
『毎日、よく続けるよなぁ~』
『本間、昔からまめだったからなぁ~』
同級生とはいいものです。
■ ■
私のように、
50歳近くになってから開業した友人。
卒後、10年程度で開業した友人。
いろいろな人生があり、
さまざまな苦労があります。
同業者ならではの、
貴重な情報交換も…
たくさんありました。
■ ■
一番、若い先生でも55歳、
最高齢は60歳を超えています。
でも…
外見では…
年齢は判断できませんでした。
若い先生でも老けて見える人もいるし、
60歳を超えていても、
元気はつらつとした人もいました。
共通の話題は、
元気でいたい。
病気はしたくない。
卒後30年のお医者さんの実感です。
医療問題
第17回日本熱傷学会北海道地方会
昨日(2010年11月6日土曜日)、
札幌市教育文化会館で、
第17回日本熱傷学会北海道地方会が開催されました。
今年の2月27日が第16回でした。
最近は毎年2月に開催されていました。
札幌の2月には…
大雪による飛行機や列車の運休という、
思わぬアクシデントがあります。
■ ■
今回から毎年秋に変更されました。
昨日は晴れのよい天気でした。
帯広からまみ子師長さんも、
参加してくださいました。
昨日の学会で一番印象に残ったのは、
札幌医科大学、救急・集中治療部、
前川邦彦先生のご発表でした。
■ ■
札幌医科大学高度救命救急センターでは、
多剤耐性緑膿菌のため…
2年間も熱傷患者さんの治療ができませんでした。
そのため…
前回の熱傷学会では、
札幌市内で大やけどをした子どもさんを
東京まで搬送して救命した事例が報告されました。
■ ■
その後…
朝日新聞社がこの問題を取り上げてくれました。
その結果、
2010年3月29日から、
札幌医科大学高度救命救急センターが、
熱傷患者さんの受入を再開しました。
北海道の熱傷治療の専門家は、
この受入再開でほっとしています。
■ ■
前川邦彦先生のご発表は、
多剤耐性緑膿菌の発生を、
統計学的に解析した立派な発表です。
国際学会で発表できる内容でした。
札幌医科大学高度救命救急センターは、
おそらく…
日本で一番、感染症対策が進んだ、
クリーンな高度救命救急センターになりました。
■ ■
前川先生のご研究により、
多剤耐性緑膿菌を発生させない、
抗生物質の使い方。
抗菌性外用剤の使い方がわかりました。
おそらく、
この札幌医大方式が、
熱傷治療の世界標準になると思いました。
■ ■
多剤耐性緑膿菌という、
目に見えないばい菌と闘い、
見事に感染対策を確立された、
札幌医科大学高度救命救急センターは、
素晴らしい施設です。
何年もの間、苦闘され、
日夜努力され復旧なさった、
浅井康文教授とスタッフの皆さんに感謝いたします。
これからも救急医療を充実させてください。
ありがとうございました。
昔の記憶
内部告発者の心理
尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件。
私は勇気ある内部告発者が、
意図的に流出させたと考えます。
マスコミは強調していませんが、
あのビデオを撮影した海上保安官は、
自分の生命を懸けて撮影しています。
武器で攻撃されるという危険もあります。
■ ■
自分たちが、
日本の領海を守るために、
命がけで船長を逮捕したのに、
間抜けな日本政府は、
船長を釈放し、
おまけに中国から報復を受けました。
国会議員に一部だけ見せても、
真相はわかりません。
理解していない馬鹿もいました。
■ ■
私は内部告発をして、
札幌医大の名義貸事件を摘発しました。
札幌医大に形成外科を作ろう
私の明確な意思で、
計画的に摘発しました。
もちろん私の個人的な恨みもあります。
内部告発には勇気も要ります。
報復も覚悟の上でした。
■ ■
もし私が内部告発をしなければ、
札幌医大に、
形成外科教授が誕生しなかった可能性があります。
いつまでも、
皮膚科教授が兼任だったと思います。
医学部長は権力を得て、
学長になっていた可能性があります。
私は絶対に阻止したかったのです。
■ ■
自分の人生の中では、
一番、歴史に残る仕事だったと思います。
それが良かったのか…?
悪かったのか…?
は後世が判断してくれます。
そんなこと止めなさい
と忠告してくれた人もいましたが、
私は内部告発をしたことを悔いていないし、
子孫にも胸を張って伝えられます。
勇気ある内部告発者にエールをおくります。
昔の記憶
英語会話の先生
念願がかなって…
一浪で札幌医大へ入学できました。
19歳になっていました。
大学に入ると…
英語会話とドイツ語会話がありました。
英語会話の先生はクラーク先生。
ドイツ語会話の先生はケンプ先生でした。
ケンプ先生は北大の先生で、
非常勤講師としていらしてくださいました。
■ ■
クラーク先生は、
米国人の先生でした。
札幌医科大学講師でした。
北海道大学の…
クラーク博士の親戚ではありません。
20代の米国人女性で、
金髪の美人でした。
■ ■
札幌医大には英語の外国人教員一人が、
講師として採用されていました。
学生の英会話教育の他…
入学試験問題の作成。
医学部教員の英文論文のチェックも、
なさっていらしたようです。
さくらんぼさんのコメントのように、
クラーク先生のおかげで…
英会話の時間が楽しみでした。
■ ■
私の他にも、
クラーク先生の授業を楽しみにしている、
男子学生はいました。
明るい米国人女性で、
女子学生にも人気がありました。
大学祭などでは、
学生といっしょに楽しんでくれました。
空手?か少林寺拳法?をなさる、
日本が好きな米国人でした。
■ ■
私はお金を出して、
英会話学校に通ったことはありません。
NHKの英語会話→ビジネス英語会話だけです。
今でも、
NHKラジオの「実践ビジネス英語」を聴いています。
杉田敏(すぎたさとし)先生のファンです。
昔はオープンリールのテープレコーダーでしたが、
カセット(ウォークマン)→
携帯型MDプレーヤー→
ICレコーダーと進歩しました。
継続は力なり
好きこそものの上手なリ
です。
昔の記憶
英語が好きになったきっかけ
高校一年生の英語は悲惨でした。
札幌西高校の英語の先生は、
鬼(福原先生)とか
閻魔[えんま](鈴木先生)と恐れられながら、
生徒をびしびしと鍛えてくださいました。
君たちの将来、
英語は必ず必要になる!
私は英語を厳しく教えてくださった、
札幌西高校の先生に感謝しています。
■ ■
英語会話という院長日記を
2006年11月24日に書いています。
高校二年生の頃だったと思います。
西高の先輩で有名な方が、
学校に講演にいらしてくださいました。
「皆さん英語で苦労していますか?」
「実は私も高校生の時は英語が苦手だったのです」
「今ではビジネスでも全く苦労していません」
「私はNHKラジオの英語会話で話せるようになりました」
とお話してくださいました。
これが最初のきっかけでした。
■ ■
私は当時のNHKラジオ英語会話を聞きました。
東後勝明(とうごうかつあき)先生の流暢な英語は、
同じ日本人とは思えませんでした。
高校の教科書と違い…
NHKのテキストには、
米国の空港で、
入国審査を受ける場面がありました。
実際に空港にいるような雰囲気で、
バックの音が米国の空港でした。
■ ■
同級生がニューヨークへ留学したり…
札幌の姉妹都市である、
ポートランド市から交換留学生が来ていました。
いつかは…
自分も外国へ行きたいと…
夢をみていた賢一少年は、
すっかり東後勝明先生のファンになりました。
毎日、テープレコーダーに、
ラジオから線をつないで録音しました。
テープもカセットではなく、
オープンリールという茶色いヤツです。
■ ■
最初はさっぱり聞き取れませんでしたが、
数ヵ月もすると、
少しずつ聞けるようになりました。
聞き取れなかったところは、
テープを巻き戻して何度も聞きました。
いつかは外国へ行きたい
という少年の夢が、
私を英語好きにしてくれました。
■ ■
学校の英語の成績はすぐにはUPしませんでした。
それでも、
高校2年生になると、
少しずつ成績もUPしてきました。
貧乏な家に住んでいた、
少年時代の私は、
いつか外国へ行ってみたいという夢を持っていました。
その夢に少し近づけたのが、
東後勝明(とうごうかつあき)先生の英語会話でした。
昔の記憶
英語赤点
高校時代の思い出です。
赤点=落第点。
札幌西高校の規定は
平均点の4割以下と記憶しています。
私は、
北海道夕張市の山奥、
大夕張(おおゆうばり)の、
鹿島(かしま)中学校を卒業して、
札幌西高校へ入学しました。
■ ■
大夕張では、
そこそこ成績は良かったのですが、
札幌へ出てきて、
成績が急降下しました。
大夕張でも、
一番になったことはありませんでした。
当時の成績優秀者は、
生徒会長になった、
菊池久子さんという女生徒でした。
聡明な方でした。
■ ■
札幌西高校で一番苦労したのが、
英語でした。
入学式の翌日に英語のテストがありました。
全英連(ぜんえいれん)
全国英語教育研究団体連合会
という団体のテストでした。
高校入試を終えて、
そこそこ英語にも自信があったのが、
難しくて壊滅(かいめつ)状態でした。
■ ■
すっかり自信をなくして、
英語は不得意科目になりました。
5月にあった…
高校一年生はじめての中間試験。
英語の文法、
札幌西高では、
composition(コンポジション)
を略してコンポと呼んでいました。
このコンポがダメでした。
■ ■
毎日、必死に勉強したのに、
100点満点の24点でした。
21点以下が赤点だったので、
かろうじてセーフでしたが、
生まれてはじめて24点なんて点を取りました。
札幌の有名中学校を卒業した同級生には、
楽勝だった人もいました。
学校を辞めたくなりました。
■ ■
勉強の仕方もわかりませんでした。
高校一年生の本間賢一少年は、
英語の辞書が、
手垢で黒くなるまで、
何度も繰り返して開きました。
他の教科も含めて、
勉強で苦労していました。
とても医学部へ入れるレベルではなく、
将来の展望も持てませんでした。
■ ■
医師免許を取得して30年になります。
今は不得意だった英語で話せます。
高校一年生で、
英語が赤点だったのに、
なんだか不思議な気がします。
世の中、努力すればできるものです。
私の実感です。