医学講座
死亡診断書(原本)
今日は2023年11月18日(土)です。
米国形成外科学会から帰国して、
母親が危篤になって、
弟と一週間の間、交代で母親の病室にいました。
私は医師ですが、
処置はすべて看護師さんがしてくださり、
付きそっていても夜間はよく眠っていました。
とても静かな病室でした。
■ ■
私が死ぬ時も東札幌病院でお願いしますと、
看護師さんにお伝えしたくらいです。
緩和ケア病棟では、
患者さんにモニターをつけないそうです。
ナースコールも音が出ない設定になっていました。
大きな声を出す患者さんもいらっしゃいませんでした。
ナースステーションも静かです。
とてもいい病院でした。
■ ■
母親は弟が帰ってしまった翌日、
私の仕事が終わるのを待っていたかのように、
11月7日(火)午後8:56に亡くなりました。
当直医の先生が死亡診断書を書いてくださいました。
厚生労働省からの通達で、
今は死亡診断書に押印はなくてもいいそうです。
電子カルテから出力されたA4の死亡診断書に、
当直医の先生のサインがありました。
■ ■
形成外科医は死亡診断書を書くことは少ないです。
亡くなる患者さんは皮膚癌の患者さんくらいです。
重症熱傷で亡くなることもありますが、
救命救急センターの先生が死亡診断書を書いてくださることが多いと思います。
当直のアルバイトに行って、
当直先で死亡診断書を書くこともありました。
電子カルテがない時代は手書きでした。
■ ■
自分の母親が亡くなってわかりました。
区役所に出す死亡届には、
死亡診断書を書いてくださった先生が、
自筆でサインした原本が必要だそうです。
東札幌病院では死亡診断書にわざわざ【原本】と付箋をつけてくれました。
死亡診断書をいただいた時には付箋の意味がわかりませんでした。
■ ■
精巧なコピー機でコピーすると、
【原本】なのか?
【コピー】なのか?わからないこともあります。
私はどちらでもいいと思うのですが、
役所は原本じゃないとダメと言います。
もし原本を紛失すると大変です。
当直で死亡診断書を書いた先生が非常勤だと、
その先生にまたお願いしないと原本はできません。
一枚しかない原本がわかるようにしておかないと、
死亡届を出す時に困ります。
昔の記憶
母親の葬儀⑦
母親の葬儀で喪主になりました。
69歳でも知らないことがたくさんありました。
これから身内の葬儀で喪主になる方へのアドバイスです。
本間賢一個人の感想です。
地域によって違いあることも考えられます。
参考程度に覚えておいてください。
私が実際に一番困ったことです。
■ ■
本間賢一が考えた変わった葬儀は、
結婚式のように食事を出して、
動画を見ながら故人をしのぶお別れ会です。
約20人の参列者で、
私の家族と弟の家族、
いとこと叔母が参列してくれました。
亡くなったバアさんもよろこんでいると(私は)思っています。
■ ■
バアさんの具合が悪くなって、
今年は喪中はがきだなぁ~と思ったのが9月下旬でした。
私は葬儀の相談室に行って、
こんな形で葬儀をしたいと相談しました。
祭壇中央にスクリーンを設置して、
映像に向かってお別れの言葉を述べます。
故人の遺影は左サイドです。
■ ■
お線香の代わりに、
アロマの香りにしました。
私の時にもお線香ではなく、
アロマの香りがいいです。
斎場も決めていました。
困ったのは斎場が決まるのは、
亡くなってからだということです。
■ ■
もっともなことです。
うちは2回も延期になりました。
人間がいつ亡くなるかはわかりません。
私も判断を誤りました。
斎場は互助会に加入している人が、
亡くなった順番で選ぶことができます。
もし1時間でも先に亡くなった人がいて、
1箇所しかない斎場を選ぶと、
その次になります。
■ ■
斎場と場所・時間を決めておかないと、
忌引届も出せません。
私は相談室で選んだ斎場を変えました。
やわらぎ斎場センティア28にしました。
センティア28は大きめの式場が3つ、
小さめの式場が2つで合計5つあります。
式場が1つの斎場より安心です。
近くにはたくさんホテルもあります。
■ ■
これから喪主になる可能性がある方で、
もし斎場だけは決めておきたいのでしたら、
やわらぎ斎場センティア28をおすすめします。
専任のシェフがいらして、
厨房があって美味しい料理がいただけました。
本間賢一のわがままな葬儀を引き受けてくださった、
やわらぎ斎場に感謝しています。
私の葬儀もやわらぎ斎場センティア28にお願いします。

昔の記憶
母親の葬儀⑥
本間家は無宗教です。
父親の命日にも〇回忌という行事はありません。
父親の葬儀は母親と弟が決めてくれました。
喪主は母親でした。
父親の葬儀は、
お坊さんのお経も、
牧師さんの説教もなく、
生前の写真からつくっていただいた動画を使いました。
■ ■
母親の葬儀は私が考えました。
生前の写真からつくっていただく動画の時間を長くして、
写真や動画をたくさん入れました。
スクリーンを祭壇中央に設置しました。
葬儀場では今まで例がなかったそうです。
下の写真では見えませんが、
式場には最初からテーブルが並べられています。
挨拶が終わったら乾杯ではなく献杯けんぱいをして、
結婚式のように食事をしながら故人をしのぶお別れ会です。
■ ■
本間賢一が考えたお別れ会は好評でした。
父親の時には孫の挨拶だけでしたが、
母親の時にはひ孫の挨拶もありました。
小学校5年生と3年生のひ孫が、
とてもいい挨拶をしてくれました。
私の葬儀でもきっといい挨拶をしてくれると思っています。

ひ孫のお別れの言葉

ひ孫のお別れの言葉

2023年11月9日

2016年3月30日
昔の記憶
母親の葬儀⑤
母親の付きそいのおかげで、
私と弟は仲良くなりました。
バアさんが残した一番の遺産です。
一週間もいたのは無駄ではありませんでした。
残念だったのは、
弟と弟の子どもが最終便まで待っていたのに、
帰った翌日に亡くなったことでした。
これも運命です。
■ ■
私は3日も臨時休診にして、
患者さんに多大なご迷惑をおかけしました。
深くお詫びいたします。
バアさんが亡くなった11月7日(火)は、
朝から手術をしていました。
臨時休診で予定を変更していただいた方です。
手術中に亡くなっても行けないのでごめんなさい。
…と思いながら仕事をしていました。
■ ■
バアさんは私の仕事が終わるのを待っていたかのように、
2023年11月7日(火)20:56に亡くなりました。
私は東札幌病院までタクシーで行き、
弟に連絡をしました。
弟も十分に看病できたので、
思い残すことはありませんでした。
亡くなってから、
東札幌病院の看護師さんが髪を洗ってくださり、
花井幸子さんの服を着せてくださり、
バアさん愛用の化粧品でお化粧をしてくださいました。
■ ■
私は看護師さんの処置の前に、
口を開いたまま亡くなったバアさんの、
口を閉じる処置をしました。
形成外科医の腕の見せどころです。
葬儀社に聞いても、
看護師さんに聞いてもご存知ないようでした。
亡くなった方の口を閉じる方法です。
■ ■
なんちゃって美容外科医は知らないと思います。
亡くなった方の口を閉じるには、
死後硬直の前に顎間固定がっかんこていをします。
形成外科医や歯科口腔外科医ならわかります。
私は札幌医大の学生時代に口腔外科の実習で習いました。
形成外科医になってからも外傷患者さんの手術でしていました。
■ ■
手術時の顎間固定はワイヤーや金具を使います。
亡くなった方の顎間固定は、
残っている歯があれば糸でできます。
うちのバアさんには自分の歯が残っていました。
ぐらぐらしていない歯に、
病院の看護師さんにいただいた絹糸けんしをしっかり結びます。
絹糸がなければデンタルフロスの糸でもいいと思います。
■ ■
上の歯に左右2ヵ所(上顎の3番と4番でした)
下の歯に左右2ヵ所(下顎の3番と4番でした)
それぞれ糸を結んで、
下顎を持ち上げながら上と下の糸を左右とも結びます。
そうするとぽっかり口を開けていたのが、
ちゃんと閉じます。
この糸でする顎間固定は医師免許も歯科医師免許も不要です。
死体損壊罪にもなりません。
■ ■
ネットで検索しても、
死後顎間固定は出てこないようです。
私は祖母の時にもしました。
やすらかな顔になりました。
うちのバアさんには美容形成外科医として、
もう少し処置をしました。
口を閉じたものの頬はやせこけていて、
生前の面影はありませんでした。
■ ■
亡くなったバアさんにヒアルロン酸注射をしたのではありません。
バアさんが使っていた高級なティッシュを、
少しずつ口の中に入れました。
ティシュ1枚は多いので、
少しずつ丁寧にいれました。
上手にティッシュをつめると、
頬がふっくらとして少し笑っているように見えます。
おばあちゃん笑っているみたい
孫にも好評でした。
■ ■
本間賢一のちょっと変わった死後の処置です。
死後顎間固定と頬にティッシュです。
ネットで広まってくれるとうれしいです。
うちのバアさんには何も形成外科の手術はしていません。
眼瞼下垂症手術もしていません。
それでも95歳まで身ぎれいにして、
おしゃれを楽しんでいました。
しあわせな95年間でした。
たくさんのお言葉をいただきありがとうございます。

初孫にスイカを食べさせています
昔の記憶
母親の葬儀④
私と弟は3歳違いです。
性格がまったく違います。
小さい頃から仲がよくありませんでした。
よく喧嘩をしていました。
バアさんが亡くなるまで、
あまり交流もありませんでした。
■ ■
バアさんの状態が悪くなって、
私と弟が協力するようになりました。
協力しないと、
とても看病などできません。
看病ではなく、
ただそばについているだけです。
お世話はすべて看護師さんがしてくださいました。
■ ■
私の米国形成外科学会参加は、
一年前から計画していました。
航空券もホテルも、
一年前から予約してお金も払っていました。
キャンセルしても返金はありません。
そこにバアさんの状態が悪くなりました。
私は弟に、
もし渡米中に急変したら来てくれるように頼みました。
弟も快諾してくれました。
■ ■
バアさんの状態はよくなかったものの、
学会中は問題ありませんでした。
学会最終日の午前中に急変しました。
帰国するまで生きていてほしいと祈るような気持ちでした。
帰国するまでがんばってくれました。
意識はほぼありませんでしたが、
私が帰国したことがわかったようでした。
■ ■
うちのバアさんは、
数年前から長生きしすぎたが口ぐせでした。
長生きするのも楽じゃないともよく言ってました。
今年になってからは、
早く逝かせてほしい、
ごくつぶしは生きていてもしょうがない、
…とも言っていました。
■ ■
最期の一週間、
私と弟が交代でバアさんのベッドの横で寝ました。
東札幌病院の緩和ケア病棟はとても静かです。
よく病院で聞くモニターの音がしません。
ナースコールの音もしません。
ナースコールは看護師さんの携帯マナーモードが、
ブルブルと振動するだけです。
亡くなる前日に弟がバアさんにお別れをして、
東京行の最終便に搭乗しました。
せっかく来てくれたのになぁ~という思いでした。
バアさんのおかげで弟と仲良くなれました。

昔の記憶
母親の葬儀③
危篤状態のまま母親は息をしていました。
バアちゃん、もうがんばらなくてもいいょ
早く天国に行きたいって言ってたでしょ?
私と弟と弟の子どもが見守る中で、
母親はやすらかに眠っていました。
このまま天国に行けたらいいのに、、、
誰もがそう思って見ていました。
■ ■
今日は天国に行けるかなぁ?
…という日がありましたが、
なかなか天国行の飛行機は離陸しません。
出発準備に時間がかかっていました。
滑走路まで出ているのに、
管制官の指示を待っているのか?
到着機を待っているのか?
じいちゃんがまだ来るなと言っているのか?
■ ■
とうとう弟が帰りの飛行機を予約した、
11月6日(月)になりました。
11月6日(月)午前9:30頃に容態が急変しました。
血圧測定不能、
酸素分圧測定不能、
下顎呼吸になりました。
いよいよ天国へ行けるね、
由文が帰る前でよかったね。
弟が付き添っていて、
私と弟の子ども、うちの奥さんが病院に行きました。
■ ■
いよいよお別れの日だと思いました。
看護師さんからバアさんが好きだった服を準備するように言われました。
死装束ではなく、
自分が一番好きだった服を着せてくださるそうです。
うちの奥さんが、
バアさんが好きだった花井幸子さんの服を準備しました。
4人が見守りました。
ところが午後になって、
また離陸が中止になりました。
■ ■
うちのバアさんは、
重度の大動脈弁狭窄症を、
92歳の時に手術で治していただきました。
そのため心臓が強くなったようです。
呼吸は止まりそうになりましたが、
また持ち直しました。
弟と弟の子どもは11月6日(月)の最終便に変更して、
ぎりぎりまで病院にいましたが、
11月6日(月)には旅立ちませんでした。

昔の記憶
母親の葬儀②
危篤になった母親に会えてよかったと思ったのもつかの間、
弟とお葬式はいつにする?
…という相談になりました。
札幌市の火葬場は友引がお休みです。
11月1日(水)11月7日(火)11月17日(金)が友引です。
帰国したのが10月31日(火)でした。
■ ■
もともと11月2日(木)11月3日(金)を休診日にしていました。
弟も一週間は仕事の調整をして札幌に来ました。
米国からLINEのTV電話で見た時は、
下顎呼吸で今にも呼吸が止まりそうでした。
父親の時は、
弟が病院に泊まって、
3日目の昼に、
親父は天国に旅立ちました。
火曜日のお昼でした。
なんというタイミングのよさ!
私の休診日に合わせて、
弟の仕事のスケジュールに合わせて、
親父が決めたかのように葬儀ができました。
■ ■
母親も親父のように、
弟の仕事と私の休診日に合わせて、
天国へ旅立つのかなぁ~?と思っていました。
最初の葬儀日程は、
11月2日(木)お通夜、
11月3日(金)告別式
…を考えていました。
ところが息子たちの思うようにはなりませんでした。
■ ■
上手に痰を吸引してくださり、
上手に痛みを取ってくださり、
身体も毎日きれいにしてくださいました。
母親は危篤状態のまま呼吸をしていました。
次の葬儀日程は、
11月5日(日)お通夜、
11月6日(月)告別式
…を考えました。
11月7日(火)が友引なので6日と7日の選択はありませんでした。
■ ■
弟は11月6日(月)の夜の飛行機を予約していました。
7日と8日は弟の外せない仕事がありました。
私も3日間も臨時休診日をつくり、
患者さんに多大なご迷惑をおかけしました。
私の子どもたちや親戚も、
2回も葬儀日程を変更して大変でした。
その度に忌引届を書き直していました。
11月6日(月)に出勤したら、
『今日は忌引じゃなかった?』と言われたそうです。
困りました。

遺影写真 93歳(2021年)
昔の記憶
母親の葬儀①
私の母親本間瑞子が95歳で亡くなりました。
急な葬儀のため手術や診察日で大変ご迷惑をおかけしました。
ほんとうに申し訳ございませんでした。
東札幌病院でお世話になっていました。
世界一いい病院です。
バアさんはしあわせな最期でした。
■ ■
私が米国形成外科学会に参加した、
最終日の午前中のことでした。
現地時間2023年10月29日午前10:33にLINEが入りました。
日本時間2023年10月30日午前0:33です。
バアさんが急変し弟に連絡しましたが、
連絡がつかないとのことでした。
弟は寝てしまったようでした。
■ ■
日本にいる親戚にLINEで連絡し、
もしもの時には病院に行ってくださいとお願いしました。
その後にLINEのテレビ電話でばあさんの顔を見ました。
確かにいつ天国に行ってもおかしくない状態でした。
米国発の飛行機に搭乗するのは24時間後でした。
帰国するまでなんとかもってほしいと祈るような気持ちでした。
米国でもLINEやLINEのTV電話は実に鮮明に見えて聞こえました。
ここからLINEにお世話になりっぱなしでした。
■ ■
日本への飛行機はこれ以上早くすることはできませんでした。
日本時間で10月30日午前6時過ぎに弟に連絡ができました。
新幹線と飛行機を乗り継いで弟が札幌に向かってくれました。
10月30日午後1時過ぎに弟が病院に到着しました。
容体急変から12時間後です。
万一の時には葬儀屋さんに連絡する準備をしていました。
バアさんはよくがんばっていました。
■ ■
私が羽田空港に着陸しのが、
10月31日午後3時過ぎでした。
それから入国手続きをして、
予定よりも早い便で札幌に向かいました。
札幌に到着するまでは息をしていてほしい……
…という祈るような気持ちでした。
新千歳空港に着陸したのが10月31日18:52でした。
タクシーで病院に向かいました。
■ ■
幸運にも私が病院に到着した時にはまだ息をしていました。
間に合ってよかったという思いでした。
私が日本に到着した日は弟が病院で付き添ってくれました。
私は家に帰って荷物の整理をしました。
困ったのが葬儀日程です。
手術予約が入っていて、
抜糸の患者さんもいらっしゃいます。
診察予約も入っています。
■ ■
帰国した日に見た顔では、
もって数日という感じでした。
そこから葬儀日程の調整がはじまりました。
私の家族も、
弟一家も北海道にはいません。
北海道にいる親戚の数が、
東京や関東にいる数より少ないのです。
11月3日(金)から3連休で飛行機が混んでいました。
ばあさんが天国へいつ行くのか?
神のみぞ知るという状態でした。

2023年11月10日の北海道新聞
昔の記憶
本間瑞子95歳_死去
突然のお知らせで申し訳ございません。
私の母、本間瑞子ほんまみずこが、
2023年11月7日(火)午後8:56に亡くなりました。
謹んでご報告申し上げます。
葬儀は、
家族葬で行いました。
急な葬儀で手術や診察の変更をお願いいたしました。
ご迷惑をおかけし申し訳ございませんでした。
■ ■
私が希望するわがままな葬儀ができました。
容態が急変してから約一週間でした。
無理なお願いを聞いていただいた
やわらぎ斎場センティア28のみなさまに心から感謝いたします。
やすらかな最期を迎えることができたのは、
主治医の長岡康裕先生
東札幌病院緩和ケア病棟のおかげです。
ほんとうにありがとうございました。


医学講座
日本のものづくり⑤
日本のものづくりがすぐれているのは、
日本の教育水準が高く、
手先が器用で、
ものごとをしっかりとするからです。
職人芸があり、
人間国宝もいます。
伝統工芸もあります。
■ ■
でもそれだけではないと(私は)思います。
つくる楽しみです。
さくらんぼさんの果樹園は大変です。
特に収穫の秋はとてもお忙しいです。
それでもつくる楽しみがあると思います。
90歳を超えたお母様がお元気なのは、
毎日働いていらして、
生きる目標があるからです。
■ ■
形成外科には他の科にない楽しみがあります。
恩師、大浦武彦先生のご講演に、
美しさを求めて創る楽しみというタイトルがありました。
美容形成外科ではなく、
形成外科にもキズをきれいに治す楽しみがあります。
大浦武彦先生は、
一人一人の患者さんが一つ一つの作品で、
サインをしたくなるほど美しく仕上げる
創造の楽しみが他科にはない喜びである。
…というお言葉が印象的です。
日本のものづくりの原点は、
つくる楽しみだと思います。