医学講座
熱傷用ベッドの管理
高価な熱傷用ベッドは、
維持管理にもお金がかかります。
白い砂のような、
シリコンコートした‘ビーズ’と呼ばれる、
‘砂’を交換する必要がありました。
この‘砂’が高価でした。
25年前で、
交換には100万円以上かかりました。
米国製の高級車は、
維持費がかかるのと同じです。
■ ■
患者さんがベッドに寝て、
やけどした部位から、
滲出液(しんしゅつえき)が出ると…
その分だけビーズが汚れます。
固まったビーズが、
ベッドの底に溜まりました。
また、
白いナイロンの布が、
ビーズの拡散を防いでいました。
丈夫な布でしたが、
これに穴を開けると、
砂がこぼれてきました。
■ ■
間違って、
鋭利な刃物で布に穴をあけると、
交換するのに何万円もかかりました。
穴を塞がないと、
ビーズがこぼれてきて、
床に落ちると、
すごく滑りました。
とにかく扱いが面倒な器械でした。
患者さんにも、
ベッドの上に物を載せないでくださいと、
お願いしていました。
■ ■
私が医師になった、
30年前に、
このベッドがあったのは、
北大形成外科、
美唄労災病院形成外科、
釧路労災病院形成外科
の3施設だけだったと思います。
労災病院は、
医師や看護師のお給料は低かったのですが、
その分、設備は立派でした。
■ ■
私は釧路労災病院形成外科にも勤務しました。
釧路は霧の街です。
私が赴任したのは、
7月でしたが、
まだストーブをつけていました。
夏に発生する海霧のために、
日照時間が少ないのが特徴でした。
釧路労災病院のベッドは、
北大より新しかったと思います。
釧路労災病院のベッドだけ、
この‘砂’の交換が余計に必要でした。
■ ■
私は院長の新田一雄先生に呼ばれました。
何でうちの病院のベッドだけが、
毎年100万円以上もかけて、
ビーズ交換をしなければならないのか?
不良品ではないのか?
ちゃんと調べなさいと指示されました。
確かに、院長のおっしゃる通りでした。
釧路労災病院は、
日本一の黒字労災病院でしたが、
それは新田先生の経営の賜物でした。
■ ■
私はメーカーに指示をして、
‘砂’を米国へ送って分析してもらいました。
その結果は、
釧路の霧のため、
‘砂’が水分を吸ってしまい、
それで劣化が早く進むということでした。
霧が原因だったのか?
ほんとうかどうか?
今でもわかりません。
私の自動車も釧路へ行って、
マフラーが腐蝕しました。
■ ■
それ以来、
熱傷用ベッドは使っていない時も、
定期的に電源を入れて、
ビーズを動かしていました。
市立札幌病院へ行ってからも、
この定期的な空運転をしました。
その成果のためか?
それ以来、ビーズの劣化は少なくなりました。
私は、今でも釧路労災病院の新田院長を、
素晴らしい院長だったと尊敬しています。
医学講座
熱傷用ベッド
今日はやけどの患者さん用の
特殊なベッドの解説です。
熱傷用空気流動ベッド
(ねっしょうようくうきりゅうどうべっど)
と厚生労働省の書類に書いてあります。
私たち形成外科医は、
エアーベッド
Air Floating Bed
(えあー・ふろーてぃんぐ・べっど)
とも呼んでいました。
■ ■
もともと米国で開発されたベッドです。
全身に大やけどをすると、
体を動かしただけでも痛みます。
痛みを感じないほど…
(神経まで焼けてしまうと痛みを感じません)
やけどをしてしまうこともあります。
こうなっても…
体を動かすことができません。
じっとしていると…
からだ中が
褥瘡(じょくそう:床ずれ)になってしまいます。
■ ■
私が医師になった、
30年前には、
このベッドが北大形成外科にありました。
当時で、
一台が約1,000万円もしました。
米国製の高級車より高価でした。
深さ50㎝くらいの、
箱型のお風呂を想像してください。
その平べったいお風呂が、
機械の上に載っているとお考えください。
ふつうのベッドより、
高い位置に寝るようになっています。
■ ■
お風呂の中には、
マットレスの代わりに、
白い砂のようなものが入っています。
その砂が、
空気で流動する仕掛けになっています。
砂の上には、
薄い白いナイロンの布が張ってあり、
空気で流動する砂が、
その布の下でボコボコ動きます。
■ ■
はじめてこのベッドに寝てみた時は、
ちょうど海の上に寝ているような気分でした。
機械の音が、
ウーンと聞こえます。
身体が
フワフワと浮いているような感じでした。
実際にこのベッドに患者さんが寝ると、
フワフワしているので、
乗り物酔いになる方がいらっしゃいました。
■ ■
やけどの患者さんだけではなく、
褥瘡(じょくそう)の手術後の患者さん、
大きな手術をした後で、
動けない(動かせない)患者さんの
手術後にも使いました。
価格が高いだけではなく、
重さも約1トン近くありました。
ですから、
現在の市立札幌病院を設計する時には、
そのベッドを置くスペースだけ、
床を補強したほどでした。
■ ■
私が市立札幌病院へ赴任した20年前には、
北海道でこのエアーベッドがあるのは、
限られた施設だけでした。
ベッドは温度管理が難しく、
寝たきりで
起き上がることもできないので、
痰の排出などを気をつけないと、
術後の合併症を起こすこともありました。
せっかくの高価なベッドが
活用されていませんでした。
■ ■
私が赴任してから、
この1トンもある重いベッドを
4階の皮膚科病棟から、
1階の救急病棟まで、
何度も往復させました。
私と看護師さんが運びましたが、
一度はお見舞いに来ていらした、
警察署長さんに
お手伝いしていただいたこともありました。
懐かしい想い出の一つです。
医学講座
熱傷浴室(ねっしょうよくしつ)
さくらんぼさんから
熱傷浴室(ねっしょうよくしつ)について、
ご質問がありました。
やけどに効く温泉について、
お聞きになったことがあると思います。
ある種の温泉は、
やけどに効きます。
生理的食塩水(0.9%)と同じ濃度の食塩水は、
キズにしみません。
生理的食塩水は、
目に入っても、
鼻に入っても痛くありません。
■ ■
やけどをすると、
皮膚がただれて、痛みがあります。
キズからは滲出液(しんしゅつえき)という
黄色の液体が出てきます。
皮膚というバリアーがなくなるので、
ばい菌が悪さをして化膿することもあります。
生理的食塩水で、
キズをキレイに洗い流すと、
ばい菌の数が減ります。
痛みもなく、キズをキレイにできます。
これがやけどの温浴療法(おんよくりょうほう)
の原理です。
■ ■
やけどの患者さんにとって、
ガーゼ交換や、
キズの処置は、
痛くてつらいものです。
特にキズにガーゼが固着(こちゃく:くっつくこと)てしまうと…
はがす時に血が出たりして、
それはつらいものです。
生理的食塩水で濡らしてから、
ガーゼを剥がすと痛みも無く、
ばい菌を洗い流して、
キズをキレイにすることができます。
■ ■
やけどだけではなく、
他のキズの処置でも、
生理的食塩水で洗うことは、
キズにとってよいことです。
小さなキズややけどでしたら、
ベッドサイドや
洗面器を使ってもできます。
問題なのは…
全身の大やけどです。
ベッドの上で処置をすると、
水浸しになります。
■ ■
そこで考えられたのが、
熱傷浴室でした。
やけどの患者さん用のお風呂です。
ステンレスでできていて、
横になったまま入れます。
お湯1㍑に対して、食塩を9㌘入れます。
そうすると、
生理的食塩水と同じ0.9%の濃度になります。
このお風呂でやけどのキズを洗い、
軟膏処置をするのが、
形成外科研修医の仕事でした。
■ ■
私が形成外科医の卵になった、
約30年前は、
私の仕事はやけど患者さんの風呂入れでした。
白いゴム長を履いて、
茶色のゴムの長い前掛けをつけて、
看護婦さんといっしょに、
一日、数人の処置をしたこともありました。
熱傷浴室は、
寝たまま入れるお風呂なので、
寝たきりで動けない方の、
入浴にも使っていました。
■ ■
ところが…
30年の間に時代は変わりました。
院内感染の原因として、
この熱傷浴室が問題になりました。
キズを洗い流すのは、
今でもよい方法なのですが、
MRSA(えむあーるえすえい)や
多剤耐性緑膿菌などが、
熱傷浴室で感染して問題となりました。
■ ■
日本では、
まだ熱傷浴室を使っている施設が多いと思いますが、
一部の救命救急センターでは、
感染の問題から廃止してしまったところもあります。
ご自宅で、
お湯1㍑に対して、食塩を9㌘入れて、
それをペットボトルなどに入れて、
キズを洗い流すのは、
痛くなくてよい方法です。
キズの処置として、
覚えておかれるとよいと思います。
昔の記憶
ヤマダ電機と旧市立札幌病院
2009年6月19日(金)にオープンした、
ヤマダ電機
テックランド札幌本店
札幌市中央区北1条西8丁目1-2
TEL: 011-205-8001
へ行ってきました。
この札幌市中央区北1条西8丁目には、
平成6年(1994年)まで、
市立札幌病院がありました。
■ ■
私は平成元年(1989年)から、
平成6年(1994年)まで、
この市立札幌病院で
医師としての青春時代を送りました。
ヤマダ電機のお隣には、
当時の病棟の一部がまだ残っています。
地下が救急部の
救急ホール、
CT室、
救急部の医局、
救急の当直室、
など救急関係の部門でした。
■ ■
1階が救急部の病棟、
2階が中央手術室、
3階からが病棟。
私が働いていた病棟は、
4階にありました。
通称1-4(いちのよん)
1病棟(いちびょうとう)
4階(よんかい)
なので
いちのよん
でした。
■ ■
今でも、この病棟の横を通ると、
当時のことを懐かしく思い出します。
私が働いてた、
1-4(いちのよん)
は放射線科と皮膚科の病棟でした。
病棟婦長は、
野切光子さんでした。
とても優秀な婦長さんでした。
朝は他のスタッフよりも早くいらして、
各病室を回って、
約50人近い患者さんのことを、
すべて把握していらっしゃいました。
■ ■
私が赴任してから、
形成外科の患者さんも、
積極的に受け入れてくださいました。
使われていなかった、
熱傷用の浴室を使ったり、
熱傷用のベッドを、
引っ張り出してきて、
整備して使いました。
今考えても…
病棟のスタッフもよくやってくれたと思います。
■ ■
ヤマダ電機は、
北1条の西8丁目と9丁目の間に
またがってあります。
ちょっとわかりにくい表現ですが、
この8丁目と9丁目の間から、
大通り公園が見えます。
駐車場から見た、
大通り公園が、
ちょうど旧市立札幌病院の
正面玄関から見た風景といっしょでした。
■ ■
同じ場所から見ているので、
同じ光景がみえるのは当たり前なのです。
ただ、
20年の間に、
病院→STVのスピカというホール
→ヤマダ電機と変わりました。
ヤマダ電機には、
トイレットペーパーやティッシュ
飲料水やお菓子まで売っていました。
■ ■
時代の流れとはいえ、
電気屋さんで、
お菓子まで売っているのには、
ほんとうに驚きです。
これから札幌の街がどう発展していくのか?
札幌駅前通りがどう変わるのか?
もう少し私も長生きして、
時代の移り変わりを見ようと思います。
昨日の日記にたくさんのコメントを
ありがとうございました♪
院長の休日
父の日
今日は『父の日』です。
私の父親は83歳になりますが、
まだ元気です。
毎年年末になると…
『○○が死んだ』とか
『残っているのはあと○人だ』
とかよく言っています。
私の父親は大正15年(1926年)生まれです。
■ ■
父親の世代は、
級友の多くが第二次世界大戦へ、
徴兵されたそうです。
父親は、
札幌工業高校の木材工芸科という、
家具などをつくる学科へ進学しました。
薬学専門学校へ行くと、
徴兵免除になったので、
仙台の東北薬学専門学校へ進学しました。
■ ■
戦争中の仙台で空襲に遭(あ)い、
山へ避難して難を逃れたと、
私が子どもの頃に聞きました。
途中の防空壕(ぼうくうごう)で、
学生さんここに入りなさいと、
親切に言ってくれた人がいたそうです。
父はその防空壕へは入らず、
山へ逃げたそうです。
■ ■
空襲が終わって、
山から下りる時に、
その防空壕は焼夷弾(しょういだん)に撃たれ
防空壕の人たちは亡くなっていた。
あの時、
逃げていなかったら死んでいたと、
聞かされた覚えがあります。
子どもの頃に聞いた話しを
何故かよく覚えています。
■ ■
父親は煙草を吸い、
酒もよく飲んでいました。
さすがに高齢なので、
酒も煙草も止めました。
『お前は、(患者さんが来るから…)
酒も飲めないで可愛そうになぁ~』
と言われたこともありました。
酒を飲まないのは、
身体に合わないからで、
別に可哀想とは思いませんでした。
■ ■
父親と私は…
好みも性格も違うと思っていました。
ところが…
DNAとは恐ろしいもので…
年齢を重ねる毎に、
父親のDNAを受け継いでいることに気付きます。
体質はよく似ています。
お腹が弱いところも似ています。
短気なのも似ています。
嫌になりますが、
DNAには逆らえません。
■ ■
短気だった父親も、
年齢とともに温厚になりました。
よく喧嘩もしていましたが、
最近は喧嘩をしなくなりました。
今日の父の日には、
両親と家内の母親も誘って、
琴似の鮓佐(すしさ)さんへ、
回らないお鮨を食べに行きました。
また来年も行きたいと願っています。

私と83歳の父です
医学講座
第6回北海道臨床創傷治癒研究会
昨夜、札幌パークホテルで、
第6回北海道臨床創傷治癒研究会がありました。
昨日の特別講演は、
市立札幌病院形成外科医長の、
堀内勝己先生でした。
チームアプローチによる
糖尿病性足病変の治療
―米国の現状ならびに当院での取り組み―
という興味深い内容でした。
■ ■
堀内勝己先生は、
1991年に福島県立医科大学をご卒業。
北大形成外科へ入局され、
北海道大学大学院をご卒業になった、
素敵な形成外科医です。
奥様は内科医で、
福島県立医大の同級生です。
私はJA帯広厚生病院で
一年間ご一緒に働きました。
とても優秀な先生です。
■ ■
堀内勝己先生は、
一昨年秋から、
一年間、米国へ留学されました。
ワシントンにある創傷治癒センターで、
糖尿病などによる、
足の治療を勉強されてきました。
糖尿病は怖い病気です。
足が腐って…
壊死(えし)になってしまいます。
足の趾(ゆび)だけではなく、
膝から下を切断しなければならないこともあります。
■ ■
堀内先生が講演で述べられていましたが、
糖尿病の患者さんが増えています。
ちょっと古いですが、
平成20年12月26日、読売新聞の記事です。
2,210万人に糖尿病の疑い
10年で6割増…厚労省調査
厚生労働省は2008年12月25日、
2007年の「国民健康・栄養調査結果」を発表し、
糖尿病の疑いがある人は
全国で推定2,210万人に上るとした。
■ ■
2006年調査(1,870万人)と比べ
300万人以上増えた。
同省は
「運動不足や食生活の乱れが
改善されていないことが原因」
と分析している。
調査は2007年11月、
全国約6,000世帯の
約1万8000人を対象に実施。
糖尿病については成人約4,000人の
血液検査結果をもとに推計した。
■ ■
それによると、
糖尿病が強く疑われるのは890万人で、
可能性が否定できない1,320万人を合わせると
2,210万人に上った。
1997年調査(1,370万人)と比べると6割も増加。
年代別の人口に占める割合は
70歳以上が約38%、
60代約35%、
50代約27%、
40代約15%、
30代約6%、
20代が1%だった。
(以上、読売新聞から引用)
■ ■
糖尿病になると、
目が見えなくなり(糖尿病性網膜症)
腎不全から人工透析を受けなればならなくなり
(糖尿病性腎症)
足の血管が詰まって、
キズができると壊死になります。
(糖尿病性足病変)
神経も侵されるので
男性は高率にインポテンツになります。
■ ■
私も形成外科医時代に
足趾切断(足のゆびを切断する)の
手術は何例もしました。
堀内先生は膝下の切断まで、
形成外科でなさるそうです。
切断した後の、
義肢装具の調整も、
義肢装具士の方と一緒になさっています。
■ ■
糖尿病は内科の病気ですが、
眼科や形成外科など、
さまざまな科の医師や看護師、
理学療法士、作業療法士、
義肢装具士が
力を合わせて治療しなければ、
良い結果は得られません。
堀内勝己先生のご尽力で、
お一人でも多くの方が快適な生活をおくれるように
祈念しています。
堀内勝己先生ありがとうございました。
医学講座
臓器移植法
臓器移植法が衆議院を通過しました。
河野洋平衆議院議長は、
ご子息の河野太郎衆院議員から
肝臓移植を受けられました。
万感の思いで、
採決を行なわれたことと思います。
私のように、
組織すべてを提供しますという人もいれば、
臓器は提供しませんという人もいます。
個人の考え方の問題です。
■ ■
2009年4月8日に書いた、
死後の願いという日記には、
たくさんのコメントをいただきました。
何度も繰り返しているように、
私自身も、
医師免許を取得してから数年間は、
臓器提供には否定的でした。
現在の医学教育では、
医師、看護師ともに、
脳死になった患者さんを長期間にわたって、
ケアーしたり観察する実習はありません。
■ ■
私の死生観が変わったのは、
市立札幌病院救急部で、
連日のように…
脳死となった患者さんを診てからでした。
私の遠縁にあたる人は、
ご主人が…
急性心筋梗塞で救命救急センターへ搬送され、
亡くなるまでの、
約1年以上を、
毎日、病院へ通いました。
とうとう意識が戻ることなく
帰らぬ人となりました。
■ ■
その人は、
ご主人が亡くなった後で、
尊厳死協会へ入り、
自分には、
『人工呼吸器はつけないでください。』
『延命治療もしないでください。』
と署名され…
ご自分が亡くなる時は、
安らかに眠りについたそうです。
■ ■
臓器移植は医学の進歩によって可能となりました。
また、
脳死になった人も、
医学の進歩によって生きることができるようになりました。
私が医学生だった…
30年前には、
人工呼吸器が今ほど普及していませんでした。
ですから、
在宅で人工呼吸器をつけることなど、
考えも及びませんでした。
■ ■
医学が進歩したことにより、
今までは救えなかった命が救えるようになりました。
ロシアから来たヤケドの、
コンスタンチンちゃんを手術したのは、
旭川赤十字病院形成外科の
阿部清秀先生です。
阿部先生が東京から、
亡くなった方の皮膚の提供を受けて、
コンスタンチンちゃんは救命されました。
■ ■
皮膚は心臓停止後にも採取できます。
ドナーカードに皮膚はありませんが、
その他に
その他(すべて)と書いてあれば、
皮膚も提供できます。

私の保険証の裏です
医学講座
眼科と形成外科の違い
米国や韓国には、
眼形成外科、
Oculoplastic surgery (オキュロプラスティク サージェリー)
または
Oculoplastics (オキュロプラスティク)
という科があります。
学会もあります。
残念ですが日本にはまだありません。
私を韓国へ招待してくださった先生は、
この眼形成外科の先生たちでした。
■ ■
私が学生時代に眼科を習ったのは、
中川喬(なかがわたかし)先生でした。
札幌医大眼科の教授を退職され、
現在は、
医大前中川眼科を開業なさっていらっしゃいます。
中川先生は、
眼科の中でも、
斜視や流涙症などがご専門です。
お若い頃に、
ニューヨークに留学され、
カンバースという有名な形成外科医の下で、
指導を受けたと伺ったことがありました。
■ ■
私が形成外科医になるきっかけとなった、
医学部6年生の時の、
形成外科の特別講義は、
中川教授が担当されました。
中川先生は、
日本でも形成外科に造詣(ぞうけい)が深い、
眼科医のお一人だと思います。
私のような若輩者とは大違いです。
私は斜視や流涙症などは、
必ず中川先生をご紹介しています。
中川先生から眼瞼下垂症をご紹介いただくこともあります。
■ ■
一度、私が眼瞼下垂症を手術した方を、
斜視の疑いで、
中川先生にご紹介したことがありました。
斜視は手術をするまでもなく、
経過観察だけでよいことになりました。
その時に、
中川先生から、
私の眼瞼下垂症手術を褒めていただき、
とても嬉しかった思いがあります。
■ ■
眼形成外科は、
眼科医がしても、形成外科医がしても、
まったく問題はありません。
一部の眼科医の間では、
形成外科医が眼瞼下垂症手術をするのを、
非難されていらっしゃるのを
目にすることがあります。
確かに形成外科医は、
より形態(見た目)を重視するのは確かです。
■ ■
眼瞼下垂症手術を、
眼科で受けるか、
形成外科で受けるかは、
手術を受ける方に選ぶ権利があります。
HPなどを参考にして、
自分がなりたい目を選んでください。

手術前です

手術直後です

手術3週間後です

まぶたが下がってものが見えません
手術前です

手術一ヵ月後です

手術3年後です
医学講座
麻酔器の点検
今日は麻酔器の点検日です。
自動車は車検や定期点検が法律で決められています。
医療器械の法定点検については、
自動車のような法律は無いと思います。
薬事法などの規定があるようですが、
病院や診療所が自主的に
点検整備しているのが現状だと思います。
大規模な病院では、
臨床工学士という方がいるところもありますが、
クリニックでは、まだ一般的ではありません。
■ ■
これから開業を考えていらっしゃる先生や、
開業されて日が浅い先生は、
おそらく医療器械の定期点検まで、
頭が回らないと思います(失礼ですが…)。
医学部の講義や
臨床研修でも、
医療器械の定期点検については、
教えていないし、
医師国家試験にも出ません。
■ ■
私のような小さなクリニックでも、
医療用レーザー装置、
麻酔器、
滅菌機など、
さまざまな医療機器があります。
滅菌機は、
診療に必須のものなので、
予備機も置いてあります。
■ ■
一番メンテナンス費用がかかるのが、
医療用レーザー機器です。
次が麻酔器でしょうか?
手術用顕微鏡は高価ですが、
めったに故障はしませんし、
電球が切れることもマレです。
安全のことを考えると、
麻酔器の点検整備は欠かせません。
■ ■
開業する前には、
金融機関に資金計画や、
事業計画を提出して審査を受けます。
銀行が融資をしてくれなければ、
クリニックを開業することはできません。
(スポンサーがいる場合とか)
(自己資金が豊富な先生が別ですが…)
この資金計画が狂うこともあります。
メンテナンス費用は資金計画の
意外な盲点になることもあります。
■ ■
医療費抑制政策や
100年に一度の不況で、
医療機関の経営も大変です。
ただ、安全にかける費用は、
事故防止の観点からも惜しんではいられません。
お医者さんもなかなか大変なのです。
今日の麻酔器の点検は、
3時間以上もかかりました。
結果をドイツにまで送るそうです。
担当の及川様お疲れ様でした。
昔の記憶
ピアノの発表会
『先生、今度、市民文化会館で』
『娘のピアノ発表会があるんです。』
『よかったら、いらしてください。』
とピアノ発表会のチケットをいただきました。
もう20年以上も前のことです。
そのお嬢さんは、
生まれつき手が不自由でした。
■ ■
手の先天異常は…
山形大学整形外科の荻野利彦教授がご専門です。
形成外科でも…
生まれつき、
指が多い多指症(たししょう)とか
指と指がくっついている合指症(ごうししょう)の
手術をしています。
そのお嬢さんは、
北大形成外科で手術をした方でした。
■ ■
私が釧路労災病院形成外科へ勤務していた時、
外来で経過を診ていました。
指の異常があっても、
ピアノは弾けます。
障害の程度は人によってさまざまですが、
練習を重ねると、
ピアノも弾けるし、
パソコンのキーボードも打てます。
■ ■
土曜日の夜だったので、
釧路労災病院から、
歩いて釧路市民文化会館へ行きました。
幼稚園か小学生だった、
そのお嬢さんは、
とても上手にピアノを弾いて、
終わった後で、
ちょっと恥ずかしそうにしていました。
会場から大きな拍手がありました。
もちろん手に障害があることはわかりませんでした。
■ ■
お母さんは、
手が不自由だったので、
少しでもリハビリになれば…
と思ってピアノを習わせたと、
お話しくださいました。
そのお嬢さんも、
今は成人して、
立派になられていることと思います。
■ ■
小さい時に病気をしたので、
看護師さんになったお嬢さんもいらっしゃいます。
自分に障害があることで、
他人の痛みが、
健常者よりよくわかることもあります。
父親の目が見えなかったので、
眼科医になった先生もいます。
ふつうの人よりも…
よく理解できることもあると思います。
病気に負けず頑張ってください♪