昔の記憶

函館の想い出④

 楽しいことばかりだった函館にも、
 忘れられない嫌な想い出があります。
 泥棒に入られたことです。
 1988年8月、
 私は一週間の夏休みを、
 濱本淳二先生からいただきました。
 家内の両親が住んでいた、
 大阪府吹田市(すいた)に行きました。
      ■         ■
 当時は関西国際空港はなく
 (1994年9月4日開港です)、
 大阪国際空港(伊丹空港)が関西の空港でした。
 家内の両親は、
 伊丹空港まで出迎えてくれ、
 『よう来たなぁ!』と
 大歓迎してくれました。
 義父は国鉄を定年退職し、
 大鉄工業というJR西日本の軌道工事をする、
 大阪支店大阪営業所長をしていました。
 会社近くのマンションに住んでいました。
      ■         ■
 大阪は暑いなぁ~~
 と言いながら、
 エアコンをつけて寝ていました。
 (北海道ではエアコンをつけて寝るのは
 一般的ではありません)
 深夜0時過ぎでした…
 函館から電話がありました。
 『こんばんは、函館の…』
 お隣のゆりちゃんのお母さんからでした。
      ■         ■
 『夜遅くにごめんなさい』
 『中央病院の看護婦さんに聞いてお電話しました』
 今のように携帯電話はありません。
 私たちが持っていたのはポケットベル。
 それも北海道内だけがエリアでした。
 ゆりちゃんのお母さんは、
 看護婦さんでした。
 大阪の家内の実家に行くことは、
 話していたようですが、
 連絡先までは知らせていませんでした。
 とっさに‘病院の詰所だったらわかる…かも?’
 と聞いてくださったのでした。
      ■         ■
 『今、本間さんの家に泥棒が入っているみたいです。』
 『110番して、主人が見に行っています。』
 『石を踏む音がして…』
 『お留守な筈なのに、電気が点いたんです。』
 どろぼう?
 眠気は一気に吹っ飛び、
 私たちは大パニックになりました。
 さぁ大変。
 貴重品は?
 何がどこにある??
 通帳と印鑑は???
      ■         ■
 110番で警察が来てくださり、
 犯人は玄関から逃走した後でした。
 警察に連絡をすると、
 被害届けを出さなければいけないとのことでした。
 深夜の大阪で、
 眠れぬ一夜を明かしました。
 当時はネットもないので、
 PCで飛行機の予約状況もわかりません。
 唯一できたのが、
 プッシュホンによるダイアル予約でしたが、
 それも夜間は運用停止でした。
      ■         ■
 眠れぬ夜を明かして…
 私だけ函館へ戻ることになりました。
 朝一番で全日空予約センターに電話しました。
 残念なことに、
 飛行機は満席。
 大阪→東京も
 東京→函館も満席です。
 すぐに伊丹空港へ向かって、
 空席待ちの券をいただきました。
 運良く…
 最後の一人で東京行きに乗れ、
 羽田でまた空席待ちでした。
      ■         ■
 羽田でも運良く空席ができ、
 函館行きに乗れました。
 お昼過ぎには函館に到着し、
 五稜郭のアパートに行ってみると…
 わが家には、無残に足跡が残っていました。
 犯人は複数犯でした。
 指紋を採取していただき、
 私の指紋も取られました。
 盗まれたのは現金でした。
      ■         ■
 被害届けは…
 一万円札が何枚、
 五千円札が何枚、
 千円札が何枚、
 500円が何枚、
 百円が何枚、
 50円が何枚、
 10円が何枚、
 と全部記入しなくてはいけません。
 こんなこと?
 私にはわかりませんでした。
      ■         ■
 家内に電話しながら、
 被害届けを書きました。
 現金の被害も大変でしたが、
 貴重な私の夏休みの一日と
 大阪⇔函館の航空券代が痛かったです。
 結局、泥棒は捕まりませんでした。
 警察の話では、
 複数の少年による犯行とのことでした。
 被害届けを出した後で、
 私は大阪へ向いました。
 よい人ばかりの函館にも…
 残念なことに泥棒がいました。
 この泥棒の‘おかげ’で、
 本間家の防犯意識が変わりました。


私の家はこの道沿いでした

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昔の記憶

函館の想い出③

 小児科の大先輩の先生から…
 なるべく子どもさんと遊んであげてください
 と助言をいただいたことがありました。
 長女が原因不明の高熱と、
 肝機能異常で、
 天使病院に入院した後で、
 小児科部長だった、
 南部春生(なんぶはるお)先生に
 お礼に伺った時でした。
      ■         ■
 長女の病名は伝染性単核球症でした。
 かかりつけの小児科で点滴をしても治らず…
 血液検査で異常が見つかったので…
 大きな病院に入院して治療…
 と言われて…
 家内はパニックになって電話をしてきました。
 ちょうど長女が一歳頃で、
 私が形成外科メモリアル病院に
 勤務していた時でした。
      ■         ■
 これには面食らいました。
 肝機能の数値も3桁になっていて、
 どうしたの…?
 とにかく天使病院だったら安心だから…
 程度しか私にも言えませんでした。
 一歳頃は、
 母体からの免疫が薄れてきて…
 いろいろな病気で熱を出します。
 伝染性単核球症は、
 わかってしまえば怖くない病気です。
      ■         ■
 当時の天使病院は、
 子どもでも親の付き添いは無しでした。
 結局、一週間の入院で無事に治りましたが…
 診断がつくまでは心配でした。
 考えなくてもよいような、
 最悪の病名まで頭に浮かびました。
 なるべく子どもさんと遊んであげてください
 という南部先生のお言葉は、
 当時はよくわかりませんでした。
      ■         ■
 54歳という年齢になるとよくわかります。
 仔犬と同じで、
 子どもは小さいうちが一番可愛いのです。
 大きくなったら…
 どんなに遊ぼうと言っても…
 勝手に自分たちでどこかへ行ってしまい…
 親とは遊ばなくなります。
 そのうち、家にはいなくなります。
 自分たちもかつてそうだったことに…
 自分が親になって気付きました。
      ■         ■
 私の父親は、
 私が子どもの頃に、
 よく手稲の裏山へ連れて行ってくれました。
 そこからは…
 石狩湾や遠くに増毛(ましけ)の山が、
 とてもキレイに見えました。
 だから…?
 私は今でも山や高いところが好きです。
      ■         ■
 函館にいた時は、
 近くの公園や…
 海など…
 できるだけ子どもと出かけました。
 長男はまだ3歳だったので、
 覚えていないようです。
 私にとっては、
 いいお父さんだった…
 なつかしい時代です。


1988年8月14日
函館港の船です

 

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昔の記憶

函館の想い出②

 私が北大病院の研修医だった頃も…
 30年後の今も…
 大学病院の研修医には…
 住宅手当がありません。
 研修医用の‘職員住宅’がある、
 大学附属病院も、
 防衛医大や自治医大など、
 特殊な大学だけだと思います。
      ■         ■
 大学病院からいただく、
 ‘お給料’だけでは生活できないため、
 (私の頃で、年収200万円以下です)
 当直などのアルバイトで…
 生活費を稼いでいました。
 研修医になりたての頃に乗っていたのは、
 ドアが開かないサニーでした。
 結婚した時には、
 父親から結婚祝いに、
 父親が乗っていたカローラをもらいました。
 それでも十分に幸せでした。
      ■         ■
 大学病院から、
 地方病院へ‘出張’へ行くと…
 格段に待遇が違いました。
 住宅は病院が準備してくれました。
 病院の総務課の方が、
 準備してくださるのが一般的でした。
 お給料は病院によって違いましたが…
 当時の函館中央病院は…
 形成外科の関連病院の中では最高でした。
 ず~っと、函館にいたいと思いました。
      ■         ■
 私は釧路労災病院から、
 函館中央病院へ転勤したので、
 釧路で函館から送っていただいた…
 何軒かの物件から、
 五稜郭町のアパートを選びました。
 子どもの幼稚園に近いとか…
 近くに子どもが遊ぶ公園があるか…?
 子どもを中心に選びました。
 五稜郭の家は、
 とにかく最高の立地でした。
 前が五稜郭公園です。
      ■         ■
 近所にも同じくらいの子どもさんがいました。
 家のすぐ裏の‘ゆりちゃん’
 近くの社宅に住んでいた‘まきちゃん’
 家内は幼稚園を通じて、
 たくさんのお母さんと友だちになれました。
 私も…
 家で…
 子どもたちと夕食を一緒に食べることができた、
 数少ない時期でした。
      ■         ■
 函館は食べ物が美味しく、
 住んでいる方もとてもよい人が多く、
 温泉は近くにたくさんあり、
 冬の雪は少なく、
 空港は近くにあり、
 北海道で最も早く開けた街なので、
 歴史があり、
 教育レベルは高く、
 ほんとうに永住したいと思ったものです。
 今でも…
 老後は函館?と考えます。


函館の五稜郭公園
後方左端の家に住んでいました

 

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昔の記憶

函館の想い出①

 函館中央病院には…
 たくさんの想い出があります。
 昭和63年4月から平成元年3月までの
 一年間は、
 濱本淳二先生
 鳴海栄治先生
 と3人で勤務しました。
 他の病院が2人体制だったのに、
 3人で比較的余裕がありました。
 私が2番目で、
 濱本先生は北大形成外科の元助教授。
 大ベテランの先生の下で、
 充実した毎日でした。
      ■         ■
 前任地の釧路労災病院では、
 2人体制で…
 労災病院という立場上…
 救急患者が多く、
 とても忙しい病院でした。
 私が函館へ赴任した時は33歳でした。
 子どもは…
 長女が4歳6ヵ月。
 長男が2歳6ヵ月でした。
      ■         ■
 長女は幼稚園を3回変わったため…?
 とにかく…
 駄々っ子で…
 家内をいつも困らせていました。
 よくスーパーへ行くと…
 スーパーの床を転げまわって…
 駄々をこねている子どもがいます。
 長女は、まさにこれでした。
 私は怖い『おやじ』だったので…
 私と一緒の時は…
 床を転げまわることはしませんでしたが…
 家内と一緒の時は…
 駄々っ子を発揮していたようです。
      ■         ■
 函館中央病院へは…
 五稜郭から歩いて通勤していました。
 近くにあった、
 函館五稜郭病院の横を通って、
 丸井今井デパートの横を通って、
 毎日、通勤していました。
 先日、函館を訪れた時は…
 観光バスや乗用車で道が溢れていました。
 家内と思わず…
 すごいところに住んでいたんだねぇ~
 と話していました。
      ■         ■
 札幌へ転勤してからは忙しくなりましたが、
 函館の一年間は、
 子どもと五稜郭公園に行ったり…
 家内の実家に夏休み行ったり…
 濱本先生のお許しを得て、
 カナダの国際学会へ行かせていただいたり…
 人生の中でも…
 一番、ゆっくりできた時期だったように思います。
      ■         ■
 家でも…
 子どもと一緒にお風呂に入ったり、
 なるべく子どもと遊んでいました。
 長女の幼稚園のクリスマス会にも行けました。
 函館には温泉がたくさんあり、
 よく温泉家族風呂へ行きました。
 この頃は…
 将来、自分が開業して…
 美容外科医になるとは…
 夢にも思っていませんでした。
 平凡な勤務医がいいと思っていた、
 幸せな時代でした。


1988年9月20日
長女の5歳の誕生日です

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院長の休日

函館に行ってきました♪

 GWの休みを利用して、
 函館に行ってきました。
 函館は想い出の街です。
 高校時代の友人が、
 大学を卒業後に知内(しりうち)町に勤務しました。
 その友人を訪ねて知内に行きました。
 函館の五稜郭で釜飯を食べた時に…
 近くに大きな病院がありました。
 こんなところに大きな病院があるねぇ~
 とその友人と話したのが、
 後に自分が勤務して…
 長女が生まれた函館中央病院でした。
      ■         ■
 函館中央病院には2回勤務しました。
 ①1982年(昭和57年)12月~1984年(昭和59年)3月まで、
 1年4ヵ月間。
 ②1988年(昭和63年)4月~1989年(平成元年)3月まで、
 一年間。
 最初の勤務は、
 麻酔科研修を終わった、
 28歳から30歳まで。
 二回目の勤務は、
 形成外科認定医を取得した、
 33歳から34歳まででした。
      ■         ■
 当時の函館中央病院は、
 道南では唯一の形成外科がある病院でした。
 患者さんは
 北は長万部(おしゃまんべ)や瀬棚(せたな)。
 南は青函連絡船やフェリーを使って…
 青森県からもいらしてくださいました。
 私は形成外科医としての…
 青春時代を、
 函館中央病院で過ごしました。
      ■         ■
 当時、函館中央病院で治療した子どもさんは…
 今は立派に成人されています。
 看護師さんになられて…
 地域医療に貢献していらっしゃる方も
 何人かいらっしゃいます。
 今でも…
 たまにお便りをいただくこともあります。
 とても嬉しいことです。
      ■         ■
 函館では病院が用意してくれた住宅に住みました。
 最初の時が、
 富岡町のキャッスル富岡という3DKのマンション。
 二回目は、
 五稜郭町の、
 3階建のアパートの一階でした。
 五稜郭のアパートは、
 お堀のすぐ前にありました。
 家の窓から五稜郭のお堀と…
 桜がよく見えました。
      ■         ■
 長女は、
 私が釧路→函館→札幌と転勤したので、
 幼稚園を3回変わりました。
 長女が通ったのが、
 函館のちとせ幼稚園でした。
 キリスト教系の幼稚園で、
 とてもよい幼稚園でした。
 この幼稚園にも行ってみました。
 昔のままの幼稚園がありました。
 よく『幼稚園に行かない…』と
 長女が泣いていたと家内が言っていました。
      ■         ■
 私は函館の街が大好きでした。
 土地を買って…
 家を建てて…
 ずっと永住したいと…
 本気で思っていたことがありました。
 家内は20年ぶりで訪れた函館でした。
 子どもが小さかった頃を想い出して…
 喧嘩もせずに帰ってきました。
 定年後は…
 こうして想い出の地を回りたいと思いました。


函館の五稜郭公園
住んでいた家の前のお堀です

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院長の休日

札幌駅前通りのチューリップ

 さくらんぼさんから、
 お母様のご指導で…
 業務日誌をつけていると伺いました。
 私は先輩である実母に
 作業日記を書くように 教わりました。
 6年前まで母が 書いていましたが、
 5年前から 3年日記を買い
 私が書いています。
 天気や どんな作業をしたか、
 他に山形の桜満開とか ・・
 去年の今日は何をしていたかよくわかります。
      ■         ■
 私の院長日記を読んでみると…
 去年のチューリップはいつ開花したかなぁ~?
 というような…
 くだらないこともわかります。
 昨年は
 4月23日に白いチューリップが写っていました。
 桜の開花も早かったようです。
 一年前には…
 まさか100年に一度の経済危機が訪れるとは…
 トヨタが赤字に転落するとは…
 夢にも思っていなかったことと思います。
      ■         ■
 経済危機になっても…
 ありがたいことに…
 チューリップは開花してくれるし…
 桜もキレイでした。
 元気で働けるということに、
 感謝しながら…
 毎日、がんばって働いています。
 札幌駅前通りの地下工事も、
 来年には完成の予定です。
      ■         ■
 下の写真は…
 昨日の朝に撮影したものです。
 昨年のチューリップは白でしたが…
 今年は同じ場所の花が
 赤と黄色になっていました。
 歩道も…
 工事中で…
 まだ歩きにくい状態です。
 来年のチューリップの頃には、
 経済危機も回復していて、
 平和で安心できる生活になって…
 ほしいと願っています。


2009年5月8日


雪印パーラー


2008年4月23日

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医学講座

先輩からの教え

 どんなに偏差値の高い医学部に入っても、
 名医になれるという保証はありません。
 外科医は…
 自分の目で先輩の手術を見て、
 技(わざ)を盗めと教えられました。
 名医の手術をいくら見ても…
 見るだけでは上手になれません。
 自転車に乗る…
 車の運転を覚える…
 すべて同じです。
      ■         ■
 昨日のTVで、
 年間300例以上の心臓手術をする、
 名医と、
 それを覚える若い先生が、
 放送されていました。
 大学医学部で
 機械を使ったシュミレーションも、
 放送されていました。
 医学部長が得意そうに…
 説明をしていました。
      ■         ■
 フライトシュミレータだけで、
 ベテランパイロットができるなら…
 航空会社も苦労はしません。
 自動車運転のシュミレーターだけで、
 F1のドライバーにはなれません。
 車の運転も…
 飛行機の操縦も…
 外科手術も…
 すべて先輩からの教えが役に立ちます。
      ■         ■
 困難にぶつかった時に、
 先輩はどう対処したか?
 困った時に…
 どうやって切り抜けたか?
 自分一人で手術をしていて、
 ほんとうに困った時に…
 助けに来てくれる先輩がいるか…?
 ここが運命の分かれ道です。
 手術は独学では上手になれません。
      ■         ■
 大学病院の偉い先生が、
 世の中で一番手術が上手か?
 というと…
 必ずしもYESではありません。
 大学の先生にとって一番大切なのは…
 1、研究、
 2、教育、
 3番目くらいが臨床(手術など)、
 というところでしょうか?
 大学院に重点が置かれるようになって、
 研究をしない教員は肩身が狭くなっています。
      ■         ■
 私は、
 よい先輩に恵まれました。
 ほんとうに感謝しています。
 大浦武彦先生が築かれた、
 北大形成外科という医局で、
 たくさんのことを教えていただきました。
 私が卒業した当時は、
 北海道に北大形成外科と
 その関連病院しか
 形成外科がありませんでした。
      ■         ■
 卒後6年目で、
 形成外科専門医を取得すると、
 すぐに地方病院の医長になりました。
 そこで…
 北大から出張にいらしていただいた先生に、
 手術を教えていただきました。
 下の先生と苦労してした手術も…
 たくさんありました。
      ■         ■
 最初から手術ができたのではありません。
 先輩からたくさん教えていただいて、
 手を加えていただき、
 時には、
 手を代わっていただき、
 【手術を交代することを手を代わるといいます】
 少しずつ上達しました。
 先輩を頼りにしなくても、
 一人でできるようになったのは…
 40歳を過ぎてからでしょうか?
      ■         ■
 患者さんから、
 ご指摘を受けて、
 改善することもあります。
 常に改善【カイゼン】を考え、
 注意深く、
 耳を傾けることが大切です。
 ほんとうに役に立つ、
 大切なことは、
 教科書にも書いていないし…
 学会でも発表されません。
 先輩から口伝えに教えていただいたことです。

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医療問題

過渡期の医療過誤防止システム

 平成21年5月4日、
 北海道新聞の記事です。
 過渡期の医療過誤防止システム
 ネットで“医師暴発”は論外
 東大名誉教授_村上陽一郎(むらかみよういちろう)
 医療の安全をめぐる問題は、筆者が「安全学」という領域を探し当てるきっかけをつくったもので、長年の関心事である。一つには、医師やその周辺の関係者に、品質管理や、システムの立場から安全に取り組む発想が、過去に極めて乏しかったからだ。
 1980年代初め、ある医学者の集まりで、医療の品質管理という言葉を使ったとたんに、激しい反発が起こったことはいまだに忘れられない。あるいは、システムの立場からの安全対策として、フール・プルーフ(ミスがあっても事故に至らないような設計)の必要性を説いたときに、ある医師はいみじくも、「われわれはフールではないから、その概念は医療にはなじまない」と言い放った。1986年のことだった。
 航空界が先例
 現在事態は急速に改善されつつある。まともな医療機関は、ほとんどすべて安全管理室を備え、「インシデント・アクシデント・リポート」 (ひやり・はっと体験申告)の制度も立ち上げてきた。日本医療機能評価機構も、安全にかかわる情報収集とその共有化に努力を重ねるようになった。もとより、制度ができても、医療界が本気で取り組む機運をつくり出し、そのための人材の養成や確保に努力を重ねなければ、画餅(がぺい)にすぎないが。
 航空業界では、過誤や事故、不都合などが起こったとき、民事はともかく、当事者の責任を刑事的に追及することよりも、第三者機関の調査によって起こったことの詳細を正確に把握し、将来同じような状況を防止できるようシステム上の対策を立てることに活用すべきだ、という考え方が国際司法の間で定着しつつある。
 それを教訓に、医療界でも、第三者調査機関の可能性が検討されるようになった。それにも医師側からの反発が大きくて、なかなか実現されない状況にあるにしても、問題意識は明らかに改善されつつある。また、裁判でなく話し合いでの和解を目指すADR(訴訟外紛争処理)という論点も、浮上してきている。
 そうした方向をすべての当事者が確認し、実効あるものにするに当たって、過渡期的に、過誤が刑事として問題化されることも、やむを得ない側面もある。航空機業界の歴史でも、そうであった。
 「暗黙の支持」
 そういう状況にあって、医療界にいくつかの刑事事件が生まれた。それらが刑事に当たるかどうか、当然議論のあるものもある。裁判上は無罪になった事例もあるから、なおさらだろう。しかし、ここで問題にしたいのは、そうした事件にかかねる人々(被害者、報道者、支持者、検察など)に対して、ネット上で、医師(とおぼしき人々)が、想像を絶する罵言雑言(ばりぞうごん)を浴びせかけている、という事実だ。
 鳥集徹氏の「ネットで暴走する医師たち」(WAVE出版)は、そのありさまを克明に伝えてくれる。被害者の訴えに同情的な発言をした医師へ「U(実名)は日本の全ての医師の敵」 「Uとその家族を皆殺しにする勇者募集中!」などの言辞が浴びせかけられる。被害者やその家族が問題人物であるという虚報を垂れ流す。「フールでない」はずの、人一倍理性ある知識人であるはずの医師たちから発せられる言葉とは、およそ信じられないほどだ。
 もちろんこうした言辞を弄(ろう)する医師は、数から言えばごくわずかだろう。苦々しく思う医師も多いと信じたい。しかし医師の間に暗黙の支持が広がっていることも、鳥集氏は見逃していない。医師たちにすれば、黙って批判にさらされるばかりの自分たちの鬱屈(うっくつ)が暴発しているのだ、と言いたいのだろう。しかし、どう弁護しても、このような言動が正当化される余地はない。
 同時に、しかしネットという媒体がなかったら、いくら鬱屈した医師たちでも、こんなひどい言動はしないだろう。そう考えると、ネットという媒体の持つ問題点も浮かび上がってくる。
 ネットのある種のサイトは、便所の落書きと同じだと割り切るほかはないのか。自己管理の強化が切に望まれる。
 (以上、北海道新聞より引用)
      ■         ■
 医療従事者以外の方は、
 病院で医療事故?と思われるかも知れません。
 逆に医療従事者の方は…、
 事故がないのが不思議?と、
 感じることも多いと思います。
 私は北海道内の何箇所かの…
 500床以上の大病院に勤務しました。
 医療事故がなかった病院はゼロでした。
      ■         ■
 私の日記は…
 医学生や医療関係の方にも
 読んでいただいています。
 新聞を読む習慣がない、
 若い医療関係者や、
 医学生、
 看護学生さんなどに、
 この村上先生の文章を読んでいただきたくて…
 長い文章を引用させていただきました。
      ■         ■
 2008年8月9日の美容外科価格破壊の弊害
 2008年12月30日の医者は横暴?
 の日記にも医療事故について書いてあります。
 偏差値が高くて、
 優秀な成績で有名国立大学医学部へ入学し、
 一発で医師国家試験に合格した‘先生’でも、
 一瞬にして医療事故を起こします。
 卒業した大学とか…
 成績とか…
 は関係なく医療事故が起こります。
      ■         ■
 私たちはフールです。
 ミスを犯す生きものです。
 学会でも…
 『私はこんな失敗をしました…』
 なんて発表はしません。
 医局制度があった頃は…
 あの先生でも…
 こんなことがあった…と
 先輩から口伝えに教えられたものです。
      ■         ■
 経験を積んだ医師が上手なのは…
 自分や
 他人の
 失敗からたくさん学んだだけです。
 私も同じです。
 偉そうなことは言えませんが、
 ネットで暴走したりしないで、
 真摯(しんし)に聴く耳を持つことが、
 一番大切だと思います。

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医学講座

わきが手術と年齢⑦

 ご質問に対する回答②です。
 先生に質問です。
 ブログにあるように
 年齢とともに
 アポクリン腺がなくなることはないようですが、
 それに比例して汗の量も増えるのでしょうか?
 唾液線は高齢になるにつれ弱り、
 唾液量が年齢とともに減りますよね。
      ■         ■
 加齢と発汗量について、
 本を調べてみました。
 年齢とともに、
 基礎代謝(きそたいしゃ)
 【車のアイドリングで消費するガソリンのようなもの…】
 は低下します。
 ですから、発汗量も減少するのが一般的です。
 ただ、女性は閉経に伴ってホルモンバランスが乱れ、
 発汗しやすくなる人もいらっしゃいます。
      ■         ■
 発汗は全身的な感染症でも多くなります。
 ‘熱’が出ると、
 ‘汗’をかきます。
 残念ですが…
 わきが治療の本にも、
 年齢とアポクリン腺の関係は書いていませんでした。
 一般的には、
 年齢ととともにアポクリン腺の数は減らなくても、
 機能は低下すると考えられます。
      ■         ■
 私は70代以上の方に、
 わきが手術をしたことがありません。
 解剖学教室でも、
 ご遺体でアポクリン腺の数を
 調べたことはありません。
 性腺や唾液腺は、
 ご高齢のご遺体でも‘存在’します。
 高齢になっても、
 臭いが気になるのは、
 入浴回数とか…
 脇が病気のために動かないので
 蒸れやすい…
 というような理由ではないでしょうか?
      ■         ■
 私はよく説明に使うのですが…
 どんなに可愛いペットでも…
 シャンプーをしなかったり、
 うんこや
 おしっこの
 始末をしないと臭います。
 ペットショップのお姉さんは、
 スプレー片手にいつもがんばっています。
      ■         ■
 わきが手術は奥が深く、
 難しい手術です。
 その割りに…
 形成外科医で…
 わきがを専門に研究している先生も
 いないように思います。
 元東京女子医大第2病院で、
 現在、新宿でクロスクリニックを開業していらっしゃる、
 石川浩一先生が、
 腋臭症の治療という本に次のように書かれています。 
      ■         ■
・腋臭症治療の評価は,治療効果,術後の整容的問題,術後合併症の危険性など総合的に考える必要がある。治療効果は真皮内の汗腺組織をより完全に切除することにより得られるが,皮膚を薄くすればそれだけ術後合併症の危険性や瘢痕拘縮の可能性が増える。
・血腫形成,皮膚壊死など合併症の防止は,術中の止血と術後の固定が重要であるが,患者にとっては,逆に固定期間の短縮,軽減が社会的にも重要である。
・切開の短縮と術後瘢痕の軽減は,患者,とくに若い女性にとって重要であるが,それにより,手術が煩雑になったり手術時間の延長を来すこともある。
・理想としては,傷をつけず,日常生活の制限なしに完全に臭いをとることであるが,これらの点はそれぞれが表裏の関係にあり,すべてを満足する方法はない。そこで患者の性別,年齢,症状,希望に合わせて,インフオームドコンセントを含めバランスの良い手術法を選択すべきと考えている。
・腋臭症には多くの手術法の報告があるが,それぞれに欠点があり,どの方法を行なうかは術者,施設により一定していない。
 (以上、腋臭症の治療、克誠堂出版、1998年、ISBN4-7719-0200-3の内視鏡下手術より引用)
      ■         ■
 つまり、たくさんの手術法があるということは、
 どの手術法にも欠点があるということです。
 また、
・臭いも汗も限りなくゼロに近づけたい!
・お休みは取れない!
・キズ痕も残したくない!
 という患者さんの要望を
 100%満たす手術はないということです。
 何歳で手術を受けるにしても…
 ご自分でよく調べて!
 この先生だったら!
 という方にお任せして下さい。

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医学講座

わきが手術と年齢⑥

 ご質問に対する回答です。
 手術後、ワキを固定して・・・
 固定が解除された後、
 肩を上げる動作などの指導も
 先生が行っているのでしょうか?
 それとも看護師さんが
 指導されているのですか?
      ■         ■
 固定解除後の、
 肩を上げる…
 つまりワキを動かす運動は、
 私がしております。
 一番痛いと言われます!
 筋肉が発達した、
 筋骨隆々とした男性が…
 『いって~~ぇ!』
 と足をバタバタして痛がります。
      ■         ■
 わきがの原因となる部位の皮膚は、
 薄く削られています。
 注意深く腕を上げないと…
 うすく削った皮膚の下に、
 漿液腫(しょうえきしゅ)という
 水がたまることがあります。
 (実際には黄色の液体です)
 これができると硬くなりやすいのです。
      ■         ■
 軟膏を塗ったりするのは、
 看護師が行いますが、
 ワキの運動については私(医師)がしています。
 硬くなった皮膚を…
 柔らかくするのが大変です。
 皮膚は大丈夫でも、
 皮膚の下に‘スジ’ができることがあります。
 これを瘢痕(はんこん)と言います。
      ■         ■
 チェーン店の美容外科で手術を受けると、
 お金を払うのは最初だけです。
 20万円~30万円というところが一般的です。
 (100万円は異常です)
 チェーン店としては、
 お客さんの来院回数が増えると、
 経費がかかります。
 できるだけ少ない通院で済むと、
 クリニックとしては助かるわけです。
      ■         ■
 ですから…
 『通院は不要です』とか
 『抜糸の後は通院の必要はありません』
 と説明するのです。
 ところが、
 しっかり手術をすればするほど…
 皮膚の下にキズができます。
 臭いをとるための手術です。
 おっぱいの横まで広範囲に手術をすると…
 それだけ回復に時間がかかります。
      ■         ■
 50歳を過ぎた男性は…
 肩の動きが悪いので硬くなりやすいのです。
 それと…
 10代の高校生でも…
 硬くなることがあります。
 わきが手術の目安は、
 脇毛が親と同じ程度になった時期です。
 中学生や高校生は多感な時期です。
 人生でもっとも傷つきやすい時期です。
      ■         ■
 少しでも早く手術をしたいというお気持ちは、
 本人だけではなく、
 親にとっても同じです。
 ところが…
 15歳程度で手術をすると、
 キズが赤く硬くなることがあります。
 肥厚性瘢痕(ひこうせいはんこん)と言います。
 人生でもっともキズを目立たせたくない時期が、
 一番キズが目立ちやすい時期なのです。
      ■         ■
 形成外科医になりたての頃に、
 先輩から教わりました。
 キズが目立ちにくいのは、
 生まれたばかりの赤ちゃん。
 小学校入学までの子ども。
 一年間に身長が何センチも伸びる、
 成長期の子どもはキズが目立ちやすい
 形成外科医の言い伝えです。
 高校卒業から大学生までが、
 社会的に時間もあり、
 わきが手術の適齢期だと
 私は考えます。

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