医療問題

フィブリン糊とC型肝炎

 フィブリン糊を使用した患者様が、C型肝炎になったと新聞で報道されています。
 私も、市立札幌病院に勤務していた時にフィブリン糊を使用しました。
      ■         ■
 私が使用した製品は、日本臓器製薬という会社が、オーストリアのイムノ社から輸入した製品でした。製品名はティシールです。
 昭和63年1月20日に承認され、私が使用した段階で、2年以上経過し、有害事象は報告されていませんでした。
 当時はHIVについての認識がありました。この製剤は加熱処理による不活化で安全だと認められていました。
 もちろん、C型肝炎になることは‘絶対に’考えられませんでした。
      ■         ■
 私がこの製剤を使用したのは、重症の外傷で神経断裂があった方でした。
 日本マイクロサージャリー学会の学術講習会で、信州大学の先生がティシールを使用すると神経が回復する率が高いと教えてくださいました。
 神経は生体組織ですが、顕微鏡でみると電気の線のような構造をしています。
      ■         ■
 神経が断裂すると、あたかも電気器具の線が切れたように、細い繊維がたくさん束になっている様子がわかります。
 一本いっぽんを、細かく縫合できない時に、大まかに神経線維を引き寄せておき、フィブリン糊で周囲を固める方法を教わりました。
 実際にこの方法で、断裂した神経を修復すると、それまでより回復が早く認められました。
      ■         ■
 細い電線の束を繋いで、周囲にアロンアルファーのような糊をつけます。
 そうすると、ただ単に電線を繋ぐよりも確実に電流が流れます。
 私が手術をした方も、フィブリン糊を使用するようになって、手術成績が向上しました。
      ■         ■
 今回、問題になっているのは、旧ミドリ十字が販売した分だと推測します。
 私が、使用した製品とは別です。
 ただ、絶対に大丈夫か?と問われると、確信は持てません。
 できれば、血液検査で肝機能とC型肝炎ウイルスのチェックをするべきです。
      ■         ■
 ところが、その当時のカルテがあるかどうかわかりません。
 医療法で定められた保存期間は5年間です。
 市立札幌病院の倉庫へ行って調べると、手掛りがあるかもしれませんが、既に焼却されていればアウトです。
 また、私は現在、市立札幌病院の職員ではありませんから、自分で調べる訳にも参りません。
      ■         ■
 個人情報保護の観点から、私の手元には患者様のリストはありません。
 製薬会社には、何年何月にどこの病院へ納入したという記録があります。ただ、15年以上も前ですと???です。
 やはり、最後は国の責任で調べるべきです。
 認可したのは国。私たち医師も患者も、肝機能障害になるとわかっていれば、危険な薬は使いませんでした。

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ミシュランと焼き芋

 平成19年12月7日(木)朝日新聞朝刊への投稿-ひととき-からです。
 ミシュランと焼き芋
      ■         ■
 夫がさっそくミシュランガイド東京版を買ってきた。
 せっかく東京に住んでいるんだから三ツ星レストランに行かない手はないと言う。
 1回は行ってみたいねと相づちをうちながら、フランスの古城にいるような雰囲気というレストランの写真に見入った。
      ■         ■
 この豪華なシャンデリアの下で、メタボな夫としばらく美容院もごぶさたな私と、緊張しいの娘とキレやすい息子がフレンチを食べる?
 お父さんはおならで退場かも?
 粗相があったら飛んで行けるよう、お店の人がすぐ後ろで見張っているんじゃない、と皆で大笑い。
      ■         ■
 ページをぱらぱらめくると8万円という数字が目に入った。
 1人1食分の金額だ。うちの1ヵ月の食費より多いじゃない。
 だれがこういう店に行くのかねえ、どうすれば8万円なんて数字が出てくるんだろう、と侃々諤々(カンカンガクガク)。
      ■         ■
 なんだか腹がたって夕食のカレーをしゃにむに食べた。
 実家から送ってきた大きいジャガイモや、生協から届いた素性の確かそうな豚小間を使った小細工なしのカレーだ。
 「おいしかった。ごちそうさま」と娘が席を立った。
      ■         ■
 早食いの夫はとっくにカレーを食べ終わり、ちょっとだけと言って焼き芋をほおばっている。
 「ミシュラン片手に焼き芋か」と夫がため息まじりにつぶやいたので、ふきだしてしまった。
 (東京都板橋区 パート 51歳)
 (以上、朝日新聞より引用)
      ■         ■
 私は美食家ではありません。今日の夕食はアジの干物でした。
 私は和食が好きで、油が多い食べ物はどちらかというと苦手です。
 今日のアジはとても美味しくいただきました。
 8万円のレストランは行ったことがありませんし、行く気もありません。
      ■         ■
 ミシュランの三ツ星は、東京で外国人を接待するのに良いレストランだという評判を聞いたことがあります。
 私の贅沢は、鮓佐というおすし屋さんへたまに行って、ご主人とお話しをしながら、美味しいお鮨をいただくことです。
 フレンチも嫌いではありませんが、一人一万円でも‘高い’と思います。
 私は貧乏舌なのかもしれません。大学生協の食堂でも十分に美味しいと思います。ミシュランのお店には行けません。

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マスコミからの取材

日記をつけてよかったなぁ~と思うことの一つにマスコミからの取材があります。
 拙い(ツタナイ)日記でも、毎日書いてUPしていると、マスコミ関係の方の目に留まることがあります。
 営業目的ではない、読者に正しい情報を伝えるために取材を受けると嬉しくなります。
      ■         ■
 平成19年6月9日に書いた、加湿器によるヤケドは、私がマスコミに直接訴えたはじめてのケースでした。
 毎年、この時期になり、電気店で加湿器が販売されるようになると、当時のことを思い出します。
 スチーム式加湿器や炊飯器から出る水蒸気は危険です。
 まさかと思いますが、ヤケドで指が曲がってしまい手術が必要になります。
      ■         ■
 私は、帯広厚生病院形成外科に在職中に、この加湿器によるヤケドを発表しました。
 医師は、学会発表をすると、その発表を論文として投稿し学会誌に掲載されます。
 ところが、学会誌は専門誌のため、書店では販売されず、学会員と大学図書館程度にしか頒布されません。
 いくら学会誌に、『スチーム式加湿器は危険です』と論文を書いたところで、国民の目にはとまりません。
 スチーム式加湿器によるヤケドは、学会誌には論文を書きませんでした。
      ■         ■
 札幌医大に赴任してからも、スチーム式加湿器でヤケドをして、指が曲がってしまった子の手術をしました。
 その子のおばあちゃんが、
 『本当に子供に悪いことをしました』
 『私は、加湿器から出る湯気で子供がヤケドをして、指が曲がってしまうなんて、考えもしませんでした』
 といわれたので、これは何とかしないとダメだと考えました。
      ■         ■
 東京で行われた、日本熱傷学会で発表しました。
 学会の取材にマスコミの方が来ることもありますが、世界的な大発見でもない限り新聞で取り上げてはくれません。
 私は学会へ出発する前日に、各新聞社のHPからアドレスを探し、こんな発表をするので取材してくださいとメールを出しました。
 一番早く取材にいらしていただいたのが読売新聞社でした。
 私は学会場のホテルで取材を受け、資料を読売の記者さんにお渡ししました。
      ■         ■
 最初の記事は、私が発表した日の夕刊(全国版)に掲載されました。
 その後、朝日新聞が日曜版の記事として取り上げてくれました。
 朝日の記事を読んでくださった、国民生活センターの方が調査をしてくださいました。
      ■         ■
 国民生活センターで取り上げてくれて、スチーム式加湿器の危険性を啓蒙(ケイモウ)してくれました。
 その結果増えたのが、ハイブリッド式加湿器と気化式加湿器です。
 気化式加湿器でしたら、熱くなることもなく、小さな子供さんがいらしても安全です。
      ■         ■
 昨日は醜形恐怖症についての取材を受けました。
 醜形恐怖症は、北海道大学精神神経学講座の小山教授から直接お電話をいただき、当院としても積極的に取り組むことにした経緯があります。
 私が醜形恐怖症に取り組むのは、7月24日に書いた、一人の若者の死のためです。
 私が手術をしたのではありませんが、医師として自分がかかわった人が亡くなってしまうのは残念で、一番心に残るからです。

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夕張市立鹿島中学校

 平成18年11月8日の日記に書いたように、私は夕張市立鹿島中学校を昭和45年3月に卒業しました。
 卒業時のクラスは、3年A組でした。担任は渡辺熈(ワタナベヒロシ)先生、担当は社会科でした。
 当時の夕張市は、まだ炭鉱が栄えており、商店街も、街自体も繁栄していました。
      ■         ■
 私が住んでいた大夕張(オオユウバリ)は、夕張市役所があった、夕張本町から、バスで約1時間弱、山奥へ入ったところにありました。
 夕張川の源流である、シューパロ川があり、夕張岳が見える、風光明媚な場所でした。
 そこに、小学校2校、中学校1校、高校が1校ありました。
      ■         ■
 私は中学1年の5月に、美唄市茶志内から、夕張市鹿島へ引っ越しました。
 引っ越した当時にいじめられたのは、昨年11月8日に書いた通りです。
 私がいじめられた時に助けてくれたのが、同級生のT君でした。
 T君は、私を助けた覚えはないと言いますが、私はしっかり覚えています。
 T君は、小樽商科大学を卒業して、札幌銀行へ入行。今は札幌市内の支店長です。
      ■         ■
 今日、40年ぶりにT君と食事をして、中学校時代の卒業記念アルバムを見て、昔話に花を咲かせました。
 一人では、なかなか思い出せないことも、2人揃うとすらすらと想い出します。
 ○○さんは、可愛かったとか。
 ○○さんと、○○が付き合っていたけれど、その後どうなったとか……
 何で本間はいじめられた?とか……。
      ■         ■
 私は高校から、越境入学(5%の特別枠というのがありました)で、札幌西高校へ入学しました。
 T君は、地元の進学校である夕張北高校へ入学し、見事に現役で小樽商科大学へ入学しました。
 私の記憶は中学時代で途切れていますが、T君は高校のこともよく覚えています。
 私たちが通った、夕張市立鹿島中学校は、ダム工事のため、もう少しでダムの底に沈んでしまいます。
 校舎自体も、炭鉱閉山による人口減で、とっくに取り壊されています。
      ■         ■
 育った街が消えてダムの底に沈んでも、私たちの記憶の中では生き続けています。
 T君は支店長、私は院長。
 社会的な立場は違っても、昔に戻ると、
 …だったべ
 …だったなぁ
 と懐かしく話せます。
 昔の友達はよいものです。
 自分が年をとったせいでしょうか?昔の話をしていると、時間を忘れて話せました。
 そのうち、他の仲間にも会ってみたいと思っています。

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被曝線量

私は、ペルテスの診断と治療のために、股関節のレントゲン写真を何枚も撮りました。
 前にも書きましたが、レントゲン写真はじっとしているだけでした。
 注射と違って、何枚撮っても痛くないので子供にとっては安心でした。
      ■         ■
 股関節のレントゲンを撮ると、当然、チンチンにも放射線が当たり被曝します。
 今でしたら、チンチンにプロテクターを当てて、被曝を防ぎますが、当時、子供のチンチンにプロテクターを当てたかどうか、記憶が定かではありませんでした。
 被曝線量を計算すれば、大したことはない値だと思います。
 それでも、結婚して子供ができた時には、一抹の不安がありました。
 家内には話しませんでしたが、何か子供に異常があれば、私の責任かなぁ?と考えていました。
      ■         ■
 私は形成外科医として、たくさんの子供さんの手術をしてきました。
 親は、
 どうして…?
 うちの子供にだけ…?
 神様はこんなむごいことをしたのだろう…?
 と考えます。
 待望の赤ちゃんが生まれて、本来であれば、喜びに包まれているはずなのに……
      ■         ■
 以前、ある患者さんのお父さんから、
 『自分は病気で治療を受けていました』
 『子供に生まれつきの異常があったのは、自分の治療と何か関係があるのでは?』
 と質問を受けたことがあります。
 私は、子供さんの異常とお父さんの治療は関係がないこと。
 先天異常の大部分は、原因がはっきりとわかっていないことをご説明しました。
      ■         ■
 人間は、信じられないような不幸な出来事が起こると、
 『なぜ?』
 『どうして?』
 と考えて、思いを巡らせます。
 私が被曝した線量は、問題になるような量ではなかったと思いますが、自分自身には不安がありました。
      ■         ■
 幸いなことに、私の子供には生まれつきの異常はなく、私はホッとしました。
 もし、何らかの異常があれば、私は自分を責めたり、神を憎んだりしたと思います。
 ペルテスになった原因は今でもわかりません。
 一つだけ心当たりがあるとすれば、私は小さい頃に結構やんちゃで、よく飛び降りて遊んでいたような気がします。
 二軒長屋で育ったので、ソファーの上から飛び降りて遊んでも、階下の人から‘うるさい’と言われることはありませんでした。
      ■         ■
 幸いにも、私はペルテスという病気が治り、レントゲンによる障害も受けませんでした。
 誰にでも、人には話せない悩みや苦悩があります。
 私たち、医療従事者は、他人の悩みや苦しみを少しでも取り除くことを使命としています。
 自分自身が、被曝線量のことを気にしていたので、少しは他人の悩みが理解しやすかったように思います。
 私は自分が受けた治療の恩返しのために、少しでも社会の役に立ちたいと考えて診療をしています。

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昔の記憶

初発症状

 私の左股関節は、整形外科の専門家が診てもわからない位、しっかり治っていました。
 これは、私の歩き方が変で、異常があると早期に発見され、診断をつけ、治療していただいたからです。
      ■         ■
 健康診断で、今までに大きな病気をしたことがありますか?と聞かれます。
 医師になるまでは、子供の時にペルテスをしました。と答えていました。
 ペルテスと言って、すぐにわかる先生はマレでした。
 『ペルテス?』
 『ヘルペスですか?』
 『いいえ、ペルテスです』
 『股関節の病気のペルテスです。幼稚園の時になりました。』
 『……??? はぁ、ペルテスね』
 といった感じで、ペルテスを知らない内科医もたくさんいました。
      ■         ■
 子供の頃の写真を気をつけて見ると、私はよく左足を上げていました。
 両親は、この子は写真を撮る時にポーズをつけて足を上げていると思っていたそうです。
 私にはまったく記憶がありませんが、痛い足をかばうために無意識に足を上げていたのです。
      ■         ■
 整形外科の先生は、私を診察する時に必ず歩かせました。
 向うの壁まで歩いて戻ってきて。
 注射をされないので、整形外科は好きでしたが、先生によっては何回もなんかいも歩かされました。
 子供心に、どうやって歩けば、一発で‘合格’して、何回も歩かされなくて済むのだろう?と思いました。
      ■         ■
 ペルテスに関するホームページがあります。
 50年たった今でも、原因不明で、ペルテスの子の親は戸惑うことが多いようです。
 札幌医大の学生だった時に、一度だけコルセットをつけた子供の親子に、JRで乗り合わせたことがありました。
      ■         ■
 時間があったので、私は『子供さんはペルテスですか?』と伺ったところ、お父さんはとても驚いていらっしゃいました。
・私は、自分も子供の頃にペルテスだったこと。
・今は特に後遺障害もなく普通に生活していること。
・札幌医大の学生であることをお話ししました。
 子供さんは、わからないようでしたが、お父さんはとても喜んでくれました。
      ■         ■
 私は、周囲に医師や医療関係者が多い環境で幼少時を過ごしました。
 私の周囲の‘先生’も、‘ケンちゃん’の歩き方が変なことに気付き、早期発見ができました。
 私は幸運にも、早期発見、早期治療を受けることができ、後遺障害もなく成長できました。
 ペルテスという病名は、北大整形外科でつきましたが、私の周囲は‘小さな変化’を見逃しませんでした。
      ■         ■
 どんな病気でも、早期発見、早期治療が大切です。
 私の両親は、左足を上げる子供を‘ポーズをつける’と思ったようでした。
 私の親が普通のサラリーマンで、周囲に医療関係者がいなければ、‘病気’の発見は遅れたと思います。
 子供のちょっとした変化を目ざとく見つけ、しっかり治療してくれた親と‘先生’に感謝しています。

1959年11月1日(手稲にて)
私と母と弟です。左足を上げています。
入院2日前です

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昔の記憶

鉄人28号

 左下肢に装具をつけていた私は、歩き方がロボットのようでした。
 幼稚園で誰かが、鉄人28号みたいだと言いました。
 鉄人28号は当時流行していた、ウルトラマンの原型のようなロボットでした。
      ■         ■
 私は鉄人28号と呼ばれることを喜んでいました。
 そのロボットは正義の味方で、悪者を次々とやっつける、カッコいいロボットだったからです。
      ■         ■
 私の周囲の子供たちは、育ちがよかったのか?‘いじめ’はありませんでした。
 むしろ私が女の子の髪を引っぱっていたそうです。
 私はあまり記憶がないのですが、札幌西高校へ入学した時に、幼稚園から小学校まで同級だった女の子に会い、『昔、本間君に髪を引っぱられた』と言われ、謝ったことがありました。
      ■         ■
 幼稚園へどうやって通ったのか忘れましたが、幼稚園の遠足では、神社の階段を園長先生が、私をおんぶして上がってくれました。
 コルセットをつけて、外でも遊んでいたような気がします。
 子供は驚くほど適応力があるので、私が手術した子供たちも、ギプスをつけながら器用に遊んでいたことを想い出します。
 こうして、私は約一年間コルセットをつけて幼稚園へ通園しました。
      ■         ■
 整形外科のおかげで、私の骨は変形することもなく成長できました。
 札幌医大に入学してから、整形外科の臨床実習がありました。
 実習担当の先生に、『僕は昔ペルテスで整形外科のお世話になりました』と話しました。
      ■         ■
 『今は何ともないの?』と聞かれました。
 私は、母親から歩き方が変だと言われたことはありますが、特に問題なく、スキーもできますと答えました。
 じゃぁ、念のためレントゲンを撮ってみようということになり、私は20年ぶりくらいで股関節のレントゲンを撮りました。
      ■         ■
 レントゲンを読影してくださった先生は、『本間君、ペルテスだったのは右か?左か?どっちだった?』と言われました。
 私は今回、日記を書くために古い写真を見て、左とわかりましたが、学生の時はどちらだかはっきりわかりませんでした。
 『おそらく左だったと思います』
 先生は、『イゃ~、こりゃ、どっちかわかんないほどよく治っているゎ』と仰ってくださいました。
      ■         ■
 私は今でも、歩き方が少し変です。
 でも、別に股関節に痛みもありませんし、歩行も水泳もできます。
 手稲でペルテスが見つかり、北大から愛育病院へ紹介され、しっかり治していただいたことに感謝しています。
      ■         ■
 ペルテスのことは、家内にも息子にもあまり話したことはありません。おそらく知らないと思います。
 私の親や親戚は、よく覚えていると思います。
 祖母は、骨によいからと言って、ホッケという魚の骨を焼いて、それを子供の私に食べさせました。
 これを食べると骨が丈夫になるから。
 小さい子供にとって、ホッケの骨は美味しいものではありませんでしたが、私は骨を丈夫にするという言葉を信じて、固い骨をカリカリと食べていました。

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昔の記憶

コルセット

 ペルテスになって愛育病院へ入院した私は、無事に退院できました。
 入院中はギプスをつけたり、下肢を牽引したりの治療でした。
 退院後は大腿骨にかかる負荷を減らし、下肢の安静を保つ目的で装具を作りました。
      ■         ■
 私が子供の時は、装具をコルセットと呼んでいました。
 お風呂に入る時と寝る時以外はすべてコルセットをつけていました。
      ■         ■
 コルセットを作ってくれるのは、義肢装具屋さんという専門家です。義肢装具士という国家資格があります。
 私の装具を作ってくれたのは、北大病院の近くにあった馬場義肢製作所というところでした。
      ■         ■
 整形外科の先生の指示で義肢装具士の方が私の採寸をしてくださいます。
 ある程度できたところで仮合わせをして、微調整を経て完成です。
 コルセットができるまでは、歩行禁止でした。
 出かける時は『おんぶ』です。
      ■         ■
 今にして思えば、ずっとおんぶは大変だったと思います。
 3歳下の弟はヨチヨチ歩きで、大きな私がおんぶでした。
      ■         ■
 このコルセットが高価でした。当時は健康保険の適用はありませんでした。
 私はコルセットを2回作りました。
 一個が18,000円でした。
      ■         ■
 当時、私の父はスクーターに乗っていました。
 中古のラビットスクーターを購入して、自分で手入れをして乗っていました。
 私のコルセットは、その中古のスクーターとほぼ同じ価格でした。
 今では20万円以上でしょうか?父の月給と同じ位の額だったと記憶しています。
      ■         ■
 子供心に、高いものを買ってもらって親に申し訳ないと思っていました。
 私が開業する時に、保険診療でなるべく費用がかからないようにと考えたのは、この記憶に影響されています。
      ■         ■
 親は自分のワキガ体質が遺伝したので、子供にはイヤな思いをかけたくないと考えます。
 ふつうの人はワキガ手術が健康保険で受けられるとは知りません。
 人知れず手術をしたいと思うので、美容外科へ行きこっそり手術を受けます。
 20~30万円で‘治る’ならと考えてローンを組んでも手術を受けます。
      ■         ■
 私は、自分が子供の時に入院して治療を受けて、親に高いコルセットを2回も作ってもらったので、保険が効くものは保険で安く手術をしようと考えて開業しました。
 もし、自分の体験がなければ、このような発想は浮かばなかったと思います。
      ■         ■
 日本の医療保険制度は‘倒産寸前’の赤字企業です。
 医療費の配分も適正に行われていると考えにくい部分もあります。
 せっかく高い保険料を払っているのですから、これを利用しない手はありません。
 ワキガ手術も何年かすると保険から外されることも考えられます。
 かしこい納税者になって、利用できる制度は大いに利用しようではありませんか。

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昔の記憶

お母さんの銀行

平成19年11月29日(木)朝日新聞朝刊ひとときへの投稿です。
「お母さんの銀行」
 地元で開かれた「家事家計講習会」に出た。その席上で、一瞬、子どものおこづかいに話が及んだ。
「おこづかい帳はつけさせていますか」
      ■         ■
 私はその時、心の中で、ほほ笑みたくなった。我が家には「お母さんの銀行」があるからだ。
 子どもたちは中1と小5。
 おこづかいはどちらも月千円程度だが、親類からのお小遣いやお年玉など、臨時収入もあわせると月1万円近くになることもある。
 現金の管理は大人でも難しい。そこで一計を案じたのが「銀行」だ。
      ■         ■
 子どもたちのおこづかいは全額、おのおののファスナー付きの袋にメモ帳とともにいれ、台所の引き出しに保管する。
 お金の出入りがあったら記帳。そこまでは普通だ。
      ■         ■
 我が家の「銀行」の特別なところは、月初めに残高の1%の利息がつくことだ。残高がはっきりしないと利息はつかないので、子どもたちは記帳を忘れない。
 私も子どもたちの所持金を知ることができる。一石二鳥だ。
 そのうちに、利息がついてからお金を使う、なんていう知恵もついてくる。
      ■         ■
「小さいうちから金銭教育を」とよく言われる。
 でも、「やらなければ」なんて堅苦しく考えるよりは、工夫して、楽しくできたらいいと思う。「お母さんの銀行」、始めてみませんか。
 山形市 佐藤美佐子 主婦38歳
(以上、朝日新聞より引用)
      ■         ■
 私が子供の頃は、子供も一人一冊ずつ郵便貯金通帳を持っていました。
 郵便局へ行くと、ガッチャンという印字する器械で、預金額を記入してくれて、四角い郵便局の印を押してくれました。
 100円ずつでも、イヤな顔をせずに預かってくれました。
      ■         ■
 初めて大きな額を下ろした記憶があるのが、小学校6年生頃に買った変速機付き自転車でした。5段変速のミヤタの自転車でした。その自転車は20年近く使いました。
 中学生の時には、星座を見るNikonの双眼鏡を買いました。当時、¥16,000くらいしました。
 そのNikonの双眼鏡は40年近くたった今でも、十分にキレイに見えます。新婚旅行にも持って行きました。
 中学生の時に、『すばる』というプレアデス星団がとてもきれいに見えて感激したのを覚えてます。
 少しずつ貯金をして、良いものを買い長く使うのが私の主義です。
 子供の頃からついた習慣なのかもしれません。

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医療問題

障害年金

平成19年11月29日(木)朝日新聞朝刊の記事です。
 障害年金受けるには
 うつ病や糖尿病でも
 ポイントは初診日と認定日
      ■         ■
 人生に病気やけがはつきものです。障害が残ったとき、生活の支えとなるのが障害年金。
 生まれつきの障害だけではなく、がんや糖尿病などでも場合によっては受けとれるのですが、知らずに請求していない人もいるようです。
 自分は関係ないと思っていませんか?
      ■         ■
 年金は、年をとってからもらうものと思いがちだ。
 しかし、それだけではない。病気やけがで心身に障害が残って働きにくくなった場合に収入を保障するのが障害年金だ。
      ■         ■
 ただ、この制度自体があまり知られていない。
 障害年金に詳しい社会保険労務士の藤澤貴司さんは
「もらえるはずなのに請求していない人は、少なくないはず」。
 その大きな理由は「障害」という言葉が、一般には狭く解釈されているからではないかという。
 障害年金の対象は手足が不自由な人だけではない。がんや生活習慣病、うつ病などでも、労働や日常生活が制限を受けていると認められれば、年金が出る。
      ■         ■
 認定は、障害者手帳の基準などとは異なる独自の基準に従って社会保険庁がする。
 障害等級により年金額が変わる。
 全国民が対象となる障害基礎年金は2級まで、会社員が在職中の病気やけがで障害をおった場合に受け取る障害厚生年金には3級も加わる。
 例えば、心臓病でペースメーカーを入れていれば3級、糖尿病による腎症で人工透析が必要なら2級が目安となる。
      ■         ■
 社保庁によると、障害基礎年金の受給者は2005年度末で152万人、障害厚生年金は35万人だった。
 障害年金の受給の仕組みでは、初診日と認定日が重要だ。
 初診日は、その障害の原因となった病気やけがで初めて診察を受けた日。それまでに保険料をきちんと納めていることが、受給条件だ(初診日が20歳未満の場合をのぞく)。
      ■         ■
 認定日は
①基本は初診日から1年半後
②それ以前に症状が悪化も改善もしない状態になったらその時点で、障害の程度を判断することになる。
 所定の診断書を医師に記入してもらい、社保事務所に出す。
      ■         ■
 老齢の基礎年金と障害基礎、老齢厚生年金と障害厚生を両方はもらえない。ともに条件を満たす人は、どちらかを選ぶことになる。
 額は障害基礎は定額で、2級が老齢基礎の満額(40年加入)と同じ年間792,100円なる。
 障害厚生では認定日までに納めた保険料が年金額に反映する。
 誰もがいつ障害年金を受ける立場になるか分からない。生活習慣病では長い間に症状が悪化するのが一般的だが、初診日がいつだったかは年金を請求する側が証明しなければならない。
      ■         ■
 特に障害厚生では、初診日が会社勤めの期間中だったかが重要になる。
 カルテの法定保存期間は5年。転院などしていれば証明が難しいことも少なくない。
 社労士の藤澤さんは「退職が近く、体調がおかしいと思う人は、退職前に病院に行った方がいい。
 万一、障害厚生年金を請求するときの初診日になる。診察券や記録も残しておくこと」と助言する。(山田史比古)
      ■         ■
 どんな人が受けられる?(認定基準の一部)
一級:両目の矯正視力が合計0.04以下、両上肢のすべての指を欠く、座っていること、立ち上がることができない
二級:両目の矯正視力が0.05以上0.08以下、 平衡機能や音声、言語機能に著しい障害、そしやく機能を欠く
三級:両目の矯正視力がともに0.1以下、そしやくまたは言語に相当の障害、労障害基礎年金
(以上、朝日新聞より引用)
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 私は市立札幌病院と帯広厚生病院に勤務していた時に、育成医療と身体障害者の指定医になりました。
 形成外科で障害者の診断書を書くことはマレです。
 20歳になって、国民年金に加入していなかったため、脊髄損傷で障害者になったのに障害年金を貰えなかった大学生は知っています。とてもお気の毒でした。
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 恥ずかしい話しですが、身体障害者の等級と障害年金の等級が、同じ症状でも異なることは、この記事を読むまで知りませんでした。
 決して多い額ではありませんが、せっかくある制度ですから有効に利用なさってください。

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