医学講座
お肌に悩む看護師さん
うす毛のことを
一番考えているのは…
うす毛に悩んでいる
お医者さんで~す
たぶん…
だとしたら…
お肌のことを
一番考えているのは…
お肌に悩んでいる
看護師さんです
たぶん…
■ ■
夜勤がある看護師さんは、
生活が不規則になります。
食事時間も…
バラバラになります。
せっかく夜勤手当をいただいたのに…
お肌が台無しになって、
夜勤手当以上に…
お肌の治療費がかかった!
というとても悲しいこともあります。
■ ■
私は皮膚科専門医ではなく、
ニキビ治療を積極的に行っていません。
ニキビに悩む看護師さんのお肌を
手術用顕微鏡を使って治療しました。
ニキビの芯を取ったり、
白くなった‘かたまり’を取りました。
ニキビと毛
ニキビ
ニキビの芯
という日記に書いてあります。
■ ■
毛が原因でできている、
お肌のトラブルは、
毛をレーザーフェイシャルで焼くと
快くなります。
化粧のりがよくなると好評です。
お肌に悩んだ看護師さんは、
とても親切で丁寧です。
自分が困っていたことは、
誰よりも、よくわかります。
■ ■
札幌美容形成外科にも、
優しくて親切な看護師がおります。
自分自身がお肌で悩んでいたので、
私以上に…
お肌の悩みに詳しく、
親切で丁寧です。
私の宝物です。
医学講座
うす毛に悩むお医者さん
TVで
うす毛のことを
一番考えているのは…
うす毛に悩んでいる
お医者さんで~す
たぶん…
というCMを見ました。
■ ■
私はうす毛に悩んでいた、
皮膚科の偉い先生を、
何人も知っています。
大学病院では、
一般病院で使われる前に、
臨床試験という治療が行われます。
通称、治験(ちけん)といいます。
海外の学会へ行った時に、
うす毛に効く新薬を
現地で入手することも可能です。
■ ■
まず、ご自分の頭でテストできます。
真っ先に…
ご自分で臨床試験をしているという、
うわさを耳にしたことがあります。
残念なことに…
私が知っている皮膚科の偉い先生は、
あまり効果がなかったようです。
毛はどんどん薄くなりました。
■ ■
私が知っている、
うす毛に悩むお医者さんで、
髪がふさふさになっているのは、
横浜の今川賢一郎先生です。
今川先生は、
ご自身で植毛手術を受けていらっしゃいます。
今川先生のHPの記載です。
頭髪がさみしくなるというのは、その人しか分からない深刻な悩みです。
それだけに日々の抜け毛に一喜一憂、涙ぐましいばかりの努力をしているのではないでしょうか?
こうした心配や悩みに対して育毛剤、民間治療、カツラなどの手段もあるにはあったのですが、ここ最近は生毛植毛がその劇的な効果のために脚光をあびてきました。
生毛植毛のルーツはもともと日本なのですが美容医療先進国のアメリカが1960年以降臨床に応用し、1990年代に入ってから革命ともいえる技術革新がおこり現在に至っております。
私共は我が国でも最新のヘア治療法の確立が急務であり、それが時代の要求でもあると痛感しその普及に努力してきました。
ただ、ここ数年、生毛植毛がやっと認知されるようになってきた反面、この分野に新規参入した医師達の技術的未熟さやビジネス至上主義によるトラブルも増加しているのも事実です。
■ ■
残念なことですが
人工毛や自毛植毛を、
大々的に宣伝している大手クリニックもあります。
医師や歯科医師ですら、
その大手クリニックに騙されています。
有名な俳優さんを使ったCMで、
たくさんの人からお金を取っています。
■ ■
私が推薦する、
うす毛に悩むお医者さんで
ほんとうに実力があるのは、
ヨコ美クリニックの今川先生です。
今川先生のところでは、
植毛手術だけではなく、
内服薬や外用剤による治療もなさっていらっしゃいます。
うす毛に悩む方は男性も女性も、
今川先生にご相談ください。
私が推薦いたします。
院長の休日
サントリーのエール広告
平成21年4月1日の朝日新聞朝刊に、
サントリーの広告が掲載されました。
残念なことに、
北海道版には掲載されませんでした。
その伊集院静さんが書いた文章が好評で、
4月7日の朝日新聞夕刊に掲載されました。
私もよい文章だと思いました。
引用して掲載します。
■ ■
その仕事は
ともに生きるためにあるか
新社会人おめでとう。
君は今春、どんな仕事に就いただろうか。どんな仕事、職場であれ、
そこが君の出発点だ。
今、世界は経験したことのない不況にある。金を儲けるだけが、自分だけが富を得ようとする仕事が愚かなことだと知っていたはずなのに、暴走した。なぜ止められなかったのか。それは仕事の真の価値を見失っていたからだ。人を騙す。弱い立場の人を見捨てる。自分だけよければいい。それらは人間の生き方ではないと同時に仕事をなす上でもあってはならないことだ。仕事は人が生きる証しだ、と私は考える。働くことは生きることであり、働く中には喜び、哀しみ、生きている実感がたしかにある。
だから出発の今、真の仕事、生き方とは何かを問おう。
その仕事は卑しくないか。
その仕事は利己のみにならないか。
その仕事はより多くの人をゆたかにできるか。
その仕事はともに生きるためにあるか。
今何より大切なのはともに生きるスピリットではなかろうか。一人でできることには限界がある。誰かとともになら困難なものに立ちむかい克服できるはずだ。会社とは、職場とはともに働き、生きる家である。仕事は長く厳しいが、いつか誇りと品格を得る時が必ずくる。笑ってうなずく時のために、新社会人の今夜はともに祝おう。
その日のために、皆で、ハイボールで乾杯。
その日のために、皆で乾杯。
伊集院 静
(以上、朝日新聞の広告より引用)
■ ■
私もその通りだと思います。
職場とは
ともに働き、
生きる家である。
仕事は長く厳しいが、
いつか誇りと品格を得る時が必ずくる。
私はお酒はほんの少ししか飲みません。
このサントリーの広告は気に入りました。
■ ■
私のような個人経営のクリニックは、
院長も職員も家族のようなものです。
自分の子どもと過ごすより、
長い時間を職員と共有し仕事をします。
美容外科や形成外科は、
見た目を治す仕事です。
私はこの仕事が好きです。
患者さんの喜ぶ顔を見るのが、
生きがいです。
つらいこともありますが、
がんばって仕事をしています。
生きるためです。
昔の記憶
死後の願い
私は、医師でありながら…
平成元年(1989年)に
市立札幌病院に勤務するまでは、
脳死とはどんな状態か?
知りませんでした。
毎日救急部へ行って、
重症の外傷や熱傷の患者さんを、
救急の先生と一緒に治療していました。
私はそこではじめて脳死の患者さんを診察しました。
■ ■
それまでは、漠然としか脳死を知りませんでした。
救命救急の現場で、
脳死とはどのような状態であるかを知りました。
実際に、そこでチーム協力者として働いてみて…
脳死になった患者さんがどのような状態で、
どのような経過を取るかわかりました。
ご家族の苦しみや、
経済的な負担もわかりました。
■ ■
私は30歳台でした。
自分が脳死になったら臓器提供をしようと思いました。
ある日、腎バンクの登録希望者を募集していたので、
私はすぐに腎バンクに登録しました。
その後、臓器移植法が整備され、
臓器提供意思表示カードを医師会でもらいました。
腎臓提供カードから、
1998年に臓器提供意思表示カードに切り替えました。
私の臓器や組織は、
ボロボロで使い物にならないかも知れませんが?
自分の死後に臓器が役に立つなら喜んで提供します。
■ ■
自分が死んでからも…
誰かの役に立って、
誰かの体の一部として‘生きて’いたいと思っています。
前にも書きましたが…
できれば…
私の体の一部でも(キレイな)女性の中で‘生きて’いたい…
というのがひそかな願いです。
家内は…
『そんなこと言ったって無理ょ』
と冷ややかに見ています。
さくらんぼさんにも叱られるかなぁ…?
昔の記憶
はじめての葬儀
急性心筋梗塞で急逝した岳父の葬儀は、
はじめての経験でした。
家内と母は、呆然(ぼうぜん)とし、
何も考えられない状態でした。
義弟は、
『どうしたんや…?』
『じいちゃん』と号泣しましたが、
気を取り直しました。
義弟と私が親戚と相談しました。
■ ■
頼りになったのは、
島根県からいらした、本家のご長男でした。
私より少し年上で、当時40歳台でした。
義父の長兄はすでに他界していました。
本家のご長男は葬儀や死後の手続きなど、
何でも熟知していました。
すごいと思いました。
恥ずかしながら…
私は54歳なのに、
本間家の家紋も知りません。
学校では教えてくれない、
世間の常識が欠落していることを知りました。
■ ■
家内は神戸で育ちましたが、
子どもの頃は国鉄の官舎に住んでいました。
義父が国鉄を退職後に、
奈良県香芝市(かしばし)の新興住宅地に住みました。
香芝市は奈良時代からの古い町並みと、
しっかり整備された新興住宅地の、
2つの異なったタイプの町並みがありました。
浄土宗の林法寺は、
実家からすぐ近くで、
古い町並みと新しい街の境界にありました。
■ ■
新興住宅地の場合、
檀家でもない限り、
お寺とのお付き合いはありません。
私たちも実家へ帰る度に、
お寺があることは知っていました。
でも、まさかそこのお寺にお世話になるとは、
夢にも思っていませんでした。
山田様という和尚様が、
おじいちゃんにお経を上げに来てくださいました。
さすが奈良のお坊さんは徳の深い方でした。
■ ■
地元の葬儀社の方がいらっしゃいました。
葬儀をどこで行うか?
参列者の数は?
はじめての私たちには、
想像もつかないことばかりでした。
祭壇の大きさ?
予算?
何から何までわかりません。
ここでも本家のご長男が活躍されました。
■ ■
『うちは○○人やったけど…』
『おじさんは、現職やから…』
と参列者の数は、経験者でも想像がつきません。
おじいちゃんの会社の方が、
アドバイスをくださいました。
退職後9年とはいえ、
大鉄工業というJR西日本の軌道工事をする、
大阪支店大阪営業所長をしていました。
亡くなって葬儀にいらしていただいた方から、
私はあらためて義父の偉大さを知りました。
■ ■
葬儀社が推薦してくれたのは、
地元の町内会館でした。
実家から比較的近くでした。
当時は今のようにセレモニーホールというような、
葬儀専門のホールは近くにありませんでした。
私は義弟とその会館を下見に行きました。
夜遅くで閉まっていましたが、
外観だけで狭いのがわかりました。
ここでは(参列者が)入らないと直感しました。
その足で林法寺へ行きました。
立派な門がある大きなお寺でした。
■ ■
亡くなった夜は、
島根県からいらした親戚から、
おじいちゃんの生い立ちや、
今までの生活などをお聞きしました。
私はそれをメモして、
おじいちゃんの歴史と簡易家系図をつくりました。
そのメモを清書して、
翌日、義弟や親戚とお寺に持参しました。
お寺で葬儀を営めないか?と
ご住職の山田様にお願いしました。
山田様はお話しを聞いて下さり、
お寺の本堂での葬儀を承諾してくださいました。
■ ■
お寺の境内には桜が咲き、
立派な本堂に祭壇ができました。
おじいちゃんの歴史から、
慈徳大願居士という戒名をいただきました。
小学校を出て国鉄に就職。
働きながら定時制高校を卒業し、
大阪工業大学2部へ進学、
卒業はできなかったらしいですが、
国鉄の保線区長にまでなったおじいちゃんに、
ぴったりのいい戒名だと思っています。
■ ■
私は家内には、よく文句を言っていますが、
義父のことを立派な人だと尊敬しています。
4月5日に義父の17回忌がありました。
私は行けませんでしたが、
家内と義母に
一日の京都旅行をプレゼントしました。
私の義父に対する供養です。
昔の記憶
命日(めいにち)
今日、4月6日は、
岳父(がくふ:家内の父)、
故_片寄茂八(かたよせもはち)の命日です。
平成5年(1993年)に、
兵庫県三田市(さんだし)のゴルフ場で、
急性心筋梗塞で亡くなりました。
64歳でした。
65歳になる23日で前でした。
■ ■
その日は火曜日でした。
市立札幌病院皮膚科の外来で、
13:30から診療を開始して、
間もなくでした。
看護婦さんが、
『先生、奥さんから電話です』
と電話を取り次いでくれました。
『こんな時間に何だろう?』
『子どもがケガでもしたのかなぁ…?』
と思って電話に出ました。
■ ■
電話を取ると…
家内の声が震えていました。
『おじいちゃんが…』
『おじいちゃんが…、死んだって…』
それを聞いて、
私は自分の父親が亡くなったと、
一瞬、思いました。
市立札幌病院へ勤務してから、
私は、毎日、救急部で、
‘ある日突然亡くなる人’を見ていました。
■ ■
市立札幌病院の正面玄関は、
午後7時に閉まっていました。
その後は、救急部の横が通用口でした。
私が帰宅するのは、
午後7時以降が多く、
救急部の公衆電話から、
身内の急逝(きゅうせい)を伝える方を、
何度も目にしていました。
まさか、自分の身内が急逝するとは…
しかも、家内の父が亡くなるとは…
夢にも思っていませんでした。
■ ■
家内に、
『すぐに帰るから航空券を手配して』
とそれだけを指示しました。
私は4月に赴任したばかりの、
竹野巨一(たけのなおかず)先生に外来をお願いし、
直属の上司である皮膚科主任医長の
嶋崎匡(しまざきただし)先生に報告をしました。
亡くなったことが信じられず、
搬送された、
三田市民病院へ電話をしました。
■ ■
義父の最期を診てくださった、
担当の先生とお話しができました。
『救急車で搬送されていらした時は、心肺停止でした』
『蘇生(そせい)を試みましたが、戻りませんでした』
亡くなったのが、
家内の父であることを確認しました。
亡くなる2日前まで、
私の子どもたち2人(小4と小2)が、
家内の実家に遊びに行っていました。
■ ■
『おじいちゃんに遊園地に連れて行ってもらった』
『おじいちゃん、ちょっと辛そうだった』
『酸欠でなぁ』と休んでいた。
など子どもと話していたところでした。
今から考えると、
下肢の動脈が細くなって、
足が冷たいというので、
登山用の靴下を送っていました。
他にも前兆らしき症状がありました。
■ ■
幸い飛行機に空席があり、
午後のJALが取れました。
新千歳空港に着くと、
JASが少し早く出るというので、
JASに変更しました。
いつもはANAですが、
この時は少しでも早い便に乗りました。
当時は機内に公衆電話があったので、
機内から実家へ電話をしました。
■ ■
伊丹空港に到着しました。
いつも、
『よく来た』と出迎えてくれた義父はいません。
空港からタクシーで、
高速道路を飛ばしました。
家内は一言も話しません。
実家に着いたのは、
午後7時頃でした。
顔に白い布をかけられた義父が、
布団の上に横たわっていました。
■ ■
どうしてこんなことになったのか…?
途方に暮れていました。
そのうち、
親戚の人たちが
島根県から駆けつけて来ました。
私たちは北海道からでしたが、
東京へ出張中の義弟よりも、
島根県からの親戚よりも
早く着きました。
私にとっては、唯一の救いでした。
■ ■
家内は、
『私が北海道へお嫁に来たので、お父さんが早く死んだ』
と悔やんでいました。
家内が回復するまで、
何年もかかりました。
人が亡くなる場面には慣れていた私も、
亡くなった後のことは、はじめての経験でした。
人が亡くなるとこんなに大変だとは知りませんでした。
■ ■
親戚の人たちから、
菩提寺(ぼだいじ)のことや、
葬儀のことなどを教えていただき準備しました。
おじいちゃんは、
慈徳大願居士という名になりました。
浄土宗の林法寺(りんぽうじ)というお寺で
葬儀を営みました。
桜が満開できれいでした。
何年経っても忘れられない日です。
医学講座
縫い方の練習
私が医学生だった30年前も、
現在の医学教育でも、
採血も
縫合法(ほうごうほう)も、
教室で勉強するだけで、
人間を
実験台にしての
練習はできません。
■ ■
採血でしたら…
学生同士で練習ができますが…
さすがに…
学生同士を
切って
縫う
のはできません。
人間にメス入れて
切るのは…
医師免許証を持った人にしか許されていません。
■ ■
私が札幌医大形成外科の講師をしていた
10年前に、
形成外科を選択した6年生の学生さんに、
縫合法という『縫い方』を教えました。
人の皮膚を縫うことはできないので、
皮膚に見立てた
医療用材料(スポンジ)を、
ナイロン糸という実際に使う糸で縫合します。
■ ■
ナイロン糸は高く、
一本、最低数百円はします。
学生実習でも、
手術に使う糸しか売っていません。
一人で何本も使います。
慣れない学生はすぐに糸を切ってしまったり、
針を曲げてしまったりします。
少ない予算で、
この糸を買うのも大変でした。
■ ■
糸も高価ですが…
持針器(じしんき)という、
針と糸をつかむ器械や、
先の細い摂子(せっし:ピンセットのこと)も、
高価です。
これらの器械を揃えるのにも、
お金がかかりました。
予算がなかったのです。
■ ■
不思議に思われるかもしれません。
医師免許証がないと…
切ったり縫ったりできないのに…
実際の医学教育では、
この切って縫う練習は、
必須科目ではありませんでした。
自動車の運転免許証を与えるのに、
学科だけで、
コースも路上もなしで、
ペーパーテストだけで免許をもらえるようなものです。
■ ■
美容師さん理容師さんの試験には、
実技があるようですが、
医師国家試験にも、
看護師国家試験にも、
実技試験はありません。
医師免許証をいただいても、
新米医師は何もできません。
■ ■
実際に医師免許証を取得してから、
はじめて手術を担当させていただきます。
医学部では実際にメスを持って、
切ることは教えてもらっていないのです。
医師免許取得前は、
仮免許なんてのはありません。
大学の実習で人間を
切ったり縫ったりはできないのです。
昔の記憶
採血の練習
私が医師免許証を取得したのが、
昭和55年(1980年)です。
今では信じられないことですが、
免許取立ての頃は、
採血も満足にできませんでした。
医師免許を取得するまでに、
私が採血をしたのは…
医学部の生化学実習で一度だけでした。
■ ■
私が採血をしたのは、
同期の三浦純一先生でした。
なんとか採血できましたが、
採血の痕が残りました。
私から採血したのも、
三浦純一先生でした。
学生同士で採血をしました。
三浦純一先生も
私の太くて見やすい血管からでも、
採血するのが大変でした。
■ ■
三浦純一先生は
旭川赤十字病院で、
長い間、小児科部長をした後で、
みうら小児科クリニックを開業されています。
今ではどんなに小さな子どもさんからでも、
採血ができると思います。
小児科の先生は採血のエキスパートです。
その生化学実習は、
採血の練習が目的ではなく、
血液中の脂質?か何かを測定するために、
血液を取る必要があったために、
学生同士で採血をしただけでした。
■ ■
看護師さんも、
看護師免許を取得するまでは、
患者さんからの採血はできません。
免許取得後に、
はじめて他人に針を刺せます。
最初は誰でも下手です。
何回も失敗して、
針を刺した回数が増えれば増えるほど、
上達するものです。
■ ■
中学校を卒業後に、
高校の衛生看護科に進学すると、
18歳で准看護師の免許証を取得できます。
大卒で保健師・看護師の免許証を持った人より、
高卒後に准看護師を取得。
実務経験を積みながら、
看護師となった方の方が、
採血も注射も上手です。
■ ■
私が北大形成外科の研修医となった頃は、
静脈注射は医師の仕事でした。
実際には、
看護師さんの方が、
はるかに上手でしたが、
研修医の仕事として、
私たちが注射針を刺していました。
忍耐強い患者さんが、
『先生、今日は3回まで』と
3回まで失敗しても許してあげるねと
注射をさせてくださいました。
■ ■
私に包帯の巻き方を教えてくださったのは、
北大形成外科外来の看護師、
畑端雅子(はたばたまさこ)さんでした。
何かわからないことがあると、
はたばたさ~ん
はたばたさ~ん
と頼って、
教えていただいていました。
■ ■
処方箋の書き方や、
軟膏の塗り方を教えていただいたのも、
ガーゼのたたみ方を教えてくださったのも、
外来の畑端さんでした。
こうして、私は少しずつ成長しました。
今日があるのは、
みなさまのおかげです。
30年経っても…
私を教育してくださった方に感謝しています。
昔の記憶
第二志望
私は高校生の時から
北大に憧れ(あこがれ)を持っていました。
予備校で習った生物の矢野雋輔先生や、
高校一年で数学担当だった原田先生が、
北大のおおらかさ、
素晴らしさを何度も語ってくださったからです。
一浪しても、
北大(医)の合格レベルは高く、
理科で物理が必須だったこともあり、
私は最初から北大(医)を諦めていました。
■ ■
札幌医大を卒業して、
北大形成外科の研修医になることにしました。
2008年1月16日の経歴詐称
という日記に書いてあります。
札幌医大6年生の時に、
北大形成外科の大浦武彦教授の、
特別講義をお聴きして、
北大へ行くことに決めました。
北大の研修医になるのに、
試験はありませんでした。
■ ■
大浦武彦教授は、
北大の卒業生も、
札幌医大の卒業生も、
まったく差別することなく教育してくださいました。
私にとって、
医師免許証を取得してから、
晴れて第一志望の
北大(医)の研修医となれました。
■ ■
私の人生にとって、
大浦武彦先生の弟子にしていただいたことが、
貴重な財産となりました。
ご恩は一生忘れません。
今、こうして札幌美容形成外科で診療ができるのも、
大浦先生はじめ、
北大形成外科の諸先輩に教えていただいたからです。
免許取り立てのころは…
ほんとうに何もできませんでした。
■ ■
大学医学部で学ぶのは6年間です。
主として基礎医学や臨床医学の
知識を身につけて、
医師国家試験を受けます。
医師としての技術や能力は卒業してからです。
どんなに偏差値の高い大学を卒業しても、
卒業後に受けた教育が悪いと…
医療事故常習者になってしまいます。
■ ■
私はとてもラッキーでした。
大浦武彦先生や
吉田哲憲先生という、
素晴らしい先輩に、
医師としての基本を教えていただきました。
今春の入学試験で、
第一志望の大学を諦めて、
第二志望の大学に入学した方へのメッセージです。
■ ■
医師免許証はどこで取得しても同じです。
卒業後に第一志望の大学や病院で、
研修を受けることによって、
人生は変わります。
重要なのは、
よい指導者につくことです。
私の友人や先輩・後輩医師には、
有名国立大学卒以外で
素晴らしい先生が何人もいます。
入学した大学で人生が決まるのではありません。
昔の記憶
医学部合格への道②
私が卒業したのは、
国公立大学医学部の中では、
ランクが下の、
札幌医科大学です。
それも約30年前です。
偉そうなことは言えませんが、
これから医師を目指す方へのアドバイスです。
■ ■
東大理Ⅲや慶応(医)など、
超難関の医学部ではありません。
志(こころざし)を持って、
サラリーマンの子弟でも行ける、
ふつうの国公立大学医学部への、
合格への道です。
最難関の東大理Ⅲでも、
医師国家試験合格率は100%ではありません。
入学後に留年する人もいます。
国家試験に合格していただける、
医師免許証は国立でも私立でも同じです。
■ ■
札幌市内で進学校といわれる、
札幌南や札幌北でも、
現役合格が難しいのが、
国公立大学の医学部です。
先日ご紹介した、
深澤信博先生の文章
にありましたが、
医師となった喜びを感じられるのは、
幸せは他人に尽くせること,
そしてその人の喜びと感謝の気持ちに
共感できることです。
■ ■
医師になって30年が経ちます。
私は深澤先生のように立派な医師ではありません。
苦労して勉強して
医師になってよかった
と思うのは、
先生、ありがとうございました
と言っていただけた時です。
時には予想外の結果で、
苦言をいただくこともあります。
そういう時にも、できる限りのことをいたします。
■ ■
勉強は孤独です。
自宅に引きこもっていると
自分を見失う恐れがあります。
朝、早くから夜遅くまで、
全員が勉強をしている環境にいると、
自然と勉強するようになります。
成績を向上させるコツとポイントは、
よい先生や参考書を見つけることです。
■ ■
私は回転寿司に行くと、
隣の人が注文した美味しそうなネタを、
注意深く見ています。
そうすると、
美味しいネタがわかります。
受験勉強も同じです。
予備校の自習室などを利用すると、
成績がよい人がどんな勉強をしているかわかります。
友だちになって、
話しをするのもよい方法です。
■ ■
高校生向けの予備校の授業は、
先生がよければ成績UPにつながります。
進学校と呼ばれる学校でも、
科目によって先生を選ぶことはできません。
予備校の授業は、
先生を選択して受けることができます。
私は化学の授業で自分の医進クラスではなく、
他クラスの授業を聴きに行きました。
その橋本先生は北大理学部の大学院生でしたが、
とても明快な授業でした。
■ ■
お金持ちになりたいなら、
医学部を受験することはおすすめしません。
投資家や上場企業の社長さん、
IT関連の社長さんをおすすめします。
他人の役に立ちたい
自分も困ったので
医学を勉強したい
という人に医学部へ進学して欲しいと思います。
人生は何が幸いするかわからない、
努力+αがあるかもしれない
という深澤先生のお言葉に同感です。
医学部を目指して頑張ってください。