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塩谷先生のお父様ご逝去
北里大学名誉教授、塩谷信幸先生のお父様が、
106歳-(マイナス)10日でご逝去されたと、先生のブログに掲載されていました。
心からご冥福をお祈りいたします。
塩谷先生は、日本形成外科学会の重鎮で、現在は名誉会員です。
1931年のお生まれで、
私の恩師である、北海道大学名誉教授の大浦武彦先生と同年代です。
■ ■
塩谷先生は、毎日ブログを更新されています。
私が、毎日、日記を更新する支えとさせていただいています。
今日は、疲れて書くことがないなぁ~と思っている時には、
塩谷先生のブログを読んで、気を取り直して書くこともよくあります。
ここ数日、お父様の容体が悪いと書かれていたので、
気になっていました。
多摩丘陵の桜が見える
『よみうりランド慶友病院』へ移ることができるように…
と私も願っていたのですが、残念です。
■ ■
塩谷先生がブログに書かれていたように、
日本の高齢者医療政策は最悪です。
新聞の読者投稿欄には、
「姥捨て山の医療政策」なんて言葉が出ていて、
高齢者の怒りが爆発しています。
ある人が、
「われわれは、第二次世界大戦を生き抜いて来た」
「国は、ご苦労さんと」
「高齢者の医療費を全額国庫負担にするくらいのことはできないのか?」
と書かれていました。
■ ■
私の親も、家内の親も、
「ポックリ楽にお迎えが来てくれたら一番いいのに…」
とよく言っています。
私の親など、
「お前、もうダメになったら、苦しまないように…」
「こっそり…、楽にしてくれないものかねぇ…」
なんてことまで言います。
私:そんなことしたら、医師免許取り消しで、食べていけなくなる。
正直なところ、
私だって、コロリと楽にあの世へ行けたら幸せだと思います。
■ ■
家内の両親が一時期、奈良県香芝市に住んでいました。
私も、たまに香芝へ行っていました。
その時に、『ぽっくり寺』という看板をよく見ていました。
当時は、
さすが奈良には、おもしろい名前の寺があるものだ。
と思っていた程度でした。
実際に行ったことはありませんでした。
■ ■
Googleで『ぽっくり寺』を検索してみると、
①奈良県香芝市良福寺361 (元祖)
阿日寺(あにちじ)
②奈良県生駒郡斑鳩町小吉田1-1-23
吉田寺。よしだ寺と書いて、きちでんじ。
の2つの寺がありました。
おそらく、私が見た看板は
阿日寺(あにちじ)だったと思います。
■ ■
このお寺のご利益のせいかどうかわかりませんが、
家内の父は、64歳でポックリと亡くなってしまいました。
ゴルフ場のグリーンの上で、
突然の心筋梗塞で帰らぬ人となってしまいました。
平成5年4月6日のことです。
私は、家内の父にほんとうに申し訳ないことをしたと思いました。
■ ■
家内は、父が急逝してから数年間は、魂が抜けたようになりました。
『私が北海道にお嫁に来たから、お父さんの変化に気づかなかった』
『私がお父さんを早死にさせてしまった』
何を言っても、無駄でした。
立ち直るまでに、長い時間がかかりました。
今でも、わが家の居間には、笑顔の家内の父の写真があります。
■ ■
実は、家内の父の心筋梗塞には‘前兆’がありました。
亡くなる前日にも、体調不良で、職場近くの病院にかかっていたそうです。
胸部写真と心電図で異常がなく、
『病院、行ったけど大丈夫やった』
と、翌日早朝からゴルフへ行って、
そのまま倒れて、救急車で運ばれた病院では心肺停止。
死亡が確認されました。
■ ■
JRを退職後に、関連会社に勤務していましたので、
現職のまま死亡。
お葬式は盛大で、たくさんの弔問客にいらしていただきました。
お葬式は、香芝市の林法寺という、浄土宗のお寺で行いました。
①の阿日寺も香芝市の浄土宗のお寺です。
何か不思議な縁を感じます。
■ ■
私は、人間には、寿命という電池があって、
その電池の使い方に個人差があるのだと思っています。
家内の父も、病気一つしないで働く、パワフルな人でした。
今でも、声が聞こえてくるような気がします。
私は家内の父を尊敬していました。
この道一筋50年。
何でも知っている、保線のおじさんでした。
家内の父や私のように、ず~っと働いている人は
電池が早く消耗してしまって、
ある日突然電池切れになって、ポックリ逝けるのだと思います。
■ ■
家内の父が亡くなった時は、
香芝市の林法寺近くのサクラが、それはキレイに咲いていました。
私はゴルフはしませんが、
家内の父のように、好きなゴルフ場やキレイな場所で
キレイなグリーンやラベンダー畑の上で倒れて
ポックリあの世へ行けたら…と願っています。
64歳まで、あと10年です。
いつ亡くなってもいいように、身辺はキレイにしています。
医療問題
わきがで入院手術
ワキガ手術は入院が必要です。
『どの位?入院するのですかぁ?』
そうですねぇ、約一週間程度です。
『一週間も入院するのですかぁ?』
はい、一週間の入院です。
総合病院に勤務していた頃の説明です。
不思議と、
『美容外科では通院でできるのに…、何で入院なんですか…?』
と質問された覚えは一度もありません。
それだけ、総合病院は権威があったのでしょうか…?
■ ■
総合病院の形成外科では、入院手術をすすめます。
ワキガで入院するのは、日本の形成外科だけです。
保険制度で、入院費が無制限に認められているからです。
入院していただいた方が、病院も儲かり、
医師も安心して手術ができるからです。
■ ■
ワキガ手術の後には、トラブルが発生することがあります。
一番イヤなのが、血腫(ケッシュ)という血がたまるトラブルです。
私は、市立札幌病院に勤務していた時に使用した、
持続吸引装置という器具のトラブルで始末書を書いたことがあります。
その後に、自分独自の方法を研究して
血腫によるトラブルはほぼゼロになりました。
入院して手術をしていただくと、
夜間も当直の看護師さんがいてくれるので、
医師は、自宅に帰って寝ることができます。
■ ■
近い将来、DPCという、病名や治療内容で単価が決まる、
包括医療制度になったら、必ず変わります。
この制度は、盲腸(正確には急性虫垂炎)で手術なら○○万円。
中耳炎の手術なら○万円というように、
病気や手術によって支払う価格を国が決めてしまう方式です。
入院していただくと、経費がかさみ病院が損をしますので
ワキガ手術で入院する病院はなくなります。
■ ■
以前の日記にも書きました。
ワキガ手術で入院したとします。
手術後はベッドの上で安静にしているだけです。
個室には、まず入れません。
たいては、重症の患者様で満室です。
運良く空いていたとしても、個室料金がかかります。
■ ■
病院へ入院すると、同室の人と挨拶をします。
こんにちは!
よろしくお願いします。
なるべく手術のことには触れず、そっとしておいて欲しい…
どうかバレませんように!
お隣のベッドには、眼科の患者さんが入院していることもあります。
運悪く、知っている人に会ってしまうこともあります。
■ ■
病院の中で、誰かに合ったらどうしよう…
売店に行きたいけど…
誰かに合ったらどうしよう…
どきドキびくビクしながらの入院生活です。
■ ■
入院して手術をうけたからといって、
全く完璧にキレイに治るのではありません。
その後のケアーが必ず必要になります。
ご自身のケアーによって、キズの治りが違ってきます。
入院するメリットは、安静が保障されることでしょうか?
それなら、自宅で好きなTVでも見ている方が
よほど楽チンです。
■ ■
自分自身の反省もありますが、
実際に開業医になってみると、
通院でできる手術がたくさんあります。
不必要な入院手術をしていたため、
高額の医療費を無駄にしてしまったと反省しています。
医療費の高騰に悩む厚生労働省は、
一般人の目でみて、
『なぜ?おかしい?』と思うことを改革するだけでも
かなりの医療費を削減できると思います。
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ホワイトデー
今日はホワイトデーです。
今年も、札幌美容形成外科の職員に白い恋人を贈ります。
白い恋人は、生産が再開されてから、品薄になっています。
札幌駅周辺の大丸や東急デパートでは、
夕方、買いに行くと売り切れています。
日中に買いに行っても、
希望する価格の白い恋人がないこともよくあります。
石屋製菓が、立ち直ってくれてよかったと思っています。
■ ■
白い恋人を購入する穴場は、雪印パーラーです。
大丸で売り切れていたら、
札幌美容形成外科の1階にある、雪印パーラーをのぞいてみてください。
昨日も、在庫がたくさんありました。
昔の雪印パーラーは、
一階奥にアイスクリームを食べるコーナーがありました。
私が家内とはじめて会って話したのが、
パーラー1階の左奥でした。
■ ■
そこは、現在はみやげ物コーナーになっています。
昨日、買いに行って、ちょっと懐かしく眺めていました。
パーラーも45年の歴史があります。
雪印の食中毒事件で、一時は危うくなりました。
雪印といえば、北海道の超優良企業でした。
雪印に就職すると、
周囲や親戚からも一目置かれた時代もありました。
今でも、元雪印乳業の職員の方が、
スノー会舘ビルで働いてくださっています。
とても、元気で感じのよい方が多く、
私がこのスノー会舘ビルが好きな理由の一つです。
■ ■
石屋製菓と雪印乳業は、
どちらも企業の存続にかかわる大ピンチを切り抜けました。
順風満帆と思われていた企業でも、いつ何が起こるかわかりません。
自分自身を振り返ってみても、人生でさまざまな試練を経験しました。
今も試練の真っ只中です。
問題なのは、ピンチを迎えた時にどう乗り切るか、どう対処できるかです。
これは、医療の世界でも同じです。
■ ■
すべての手術や治療が、100%うまくいくかどうかはわかりません。
手術後の経過が思わしくない時に、どう対処できるかが医師の技量です。
それには、さまざまな経験が必要です。
一番役に立つ経験は、
自分がどれだけ失敗してどう乗り切ったか?ということです。
ピンチの時に、助けてくれる仲間がどれだけいるかも大切です。
自分が築いてきた人脈が財産となります。
■ ■
ホワイトデーやバレンタインデーは日本独自の習慣だそうです。
お菓子屋さんが仕組んだ、という説です。
私は、ホワイトデーを女性職員に感謝する日にしています。
毎日、安全に診療を続けられるのも、
支えてくれる職員がいるからです。
こんな、偏屈なガンコおやじについてきてくれて感謝しています。
■ ■
家内にも感謝しています。
今日のお弁当は、昨晩の天ぷらを天丼にしてくれました。
残り物の利用ですが、私の好きな弁当メニューです。
油ものは苦手なのですが、家内の天ぷらはOKです。
白い恋人は買いませんでしたが、
感謝の気持ちをこめて、弁当箱はキレイに自分で洗いました。
平成20年3月14日の雪印パーラーです
医療問題
勤務医不足と医療難民
週刊文春、平成20年3月13日号、
病院情報ファイル2008の記事です。
取材・構成 恵原真知子さん
医療ユーザー編
勤務医不足と医療難民
治る病気やけがで手遅れにならないために、
患者の側からできることとは。
■ ■
このままでは医療が崩壊する-
10年も言われ続けた事態がこの数年で現実のこととなった。
一方では勤務医の離職による診療科の閉鎖が相次ぎ、
もう一方では下の表のように大病院への一極集中などが起きている。
事ここに至って、医師の報酬引き上げなど姑息な対策が打ち出されているが、
即効性を期待する医師は多くない。
医療難民にならないため、患者にもできることがあるはずだ。
■ ■
医療の実情に目を向けながら、自衛策や有効な行動を探してみよう。
まずあげられるのは救急患者にならない努力だ。
①救急外来に搬送または駆け込む患者が、
外傷や脳卒中など突然起こる病気=本来の急患に限られれば
医療側は集中的に力を発揮できる。
患者のマナーと知恵が、
本当に救急医療を要する患者を優先させるわけで、
もちろん救急隊員の病院探し・搬送も迅速化する。
■ ■
②元気な人が体調に異常を感じたら、
早めに、診療時間内に受診することが勧められる。
それが夜間でも、自力で動けてそれで問題がなさそうなら、
救急車に頼るだけでなく、マイカーやタクシーを利用しよう。
■ ■
③慢性疾患で診療所を利用している人は、
専門的機能がある病院にもアクセスを。
例えば、糖尿病患者は心筋梗塞や脳梗塞のハイリスク群でもある。
ならば脳卒中センターや
症例数の多い心臓外科のある病院にもかかって定期受診を続けよう。
救急搬送の際にカルテがあれば、優先的受け入れを期待できるからだ。
■ ■
④妊婦も同様。産科や助産所に通っていない未受診者は受診し、
かかりつけ医をもとう。
「陣痛の徴候が出たら119番にお任せ」という女性が稀でないことが、
昨今のたらい回し(連続的な診療拒否)で明らかになった。
ジリ貧の産科に、
経過不明な初診妊婦を受け入れる余裕はないと心得よう。
■ ■
病院ボランティアも一案
次は医療に最善を求めすぎないこと。
例えば「小児は小児科に」と固執せず、
臨機応変に他診療科の受診を試みてもいい。
「以前は一般内科医で小児も診る診療所が多かったのに、
最近皆無に近い。
小児急患は急に悪化する例がある。
その見極めが難しいことを熟知し
『だから5時間待っても小児科医にかかります』
という親御さんが非常に多いのです。
が、多数を占める日常的な小児急患は
一般内科医も対応してきたのです。
一時しのぎでも先に内科医の診療を受け、
翌朝小児科に向かう柔軟性も必要」
とは小児科のベテラン、谷風三郎医師の弁。
■ ■
こうした“5時間待ってもかかりたい”病院とは、
ランク本などで常連の優良ブランド病院や大学病院、
専門病院などのこと。
医師の研修や就職・転職先としての希望も多い、
いわば時流に乗った勝ち組だ。
とはいえ医師の激務ぶりは変わらず、
通常の人員より何割か余計な医師を要する
シフト勤務を導入する経済的余裕のある病院は滅多にない。
■ ■
さらに医師不足が最も深刻なのは自治体立病院だが、
これは一定の医療レベルが保たれた地域住民の拠り所でもある。
健全な運営が望まれながらも、
医師が公務員であるシバリがネックとなって低迷している。
患者としては、どの病院を選ぶにしろ、
その特徴を知っておくことだ。
■ ■
いざというときの一番近い施設とも細く長いつきあいを。
例えば病院ボランティアはその機能を知りつつ、
病院の助けにもなる道だ。
退職した企業戦士のセンスを
医師の雑務や無駄な会議の整理などに役立てることを、
病院側も期待しているのではないだろうか。
協力を申し出てみませんか?
(以上、週刊文春より引用)
■ ■
国の政策に任せておいたら、
救急医や産科医になる医師はいなくなります。
現在の臨床研修制度が始まる前から、
地方病院の医師不足は危惧されていました。
まず、大学病院で研修を受ける人が減ることは予測できました。
われわれの間では、
「どうするんだろう~ねぇ~、研修医がいなくなるよ」
なんて話していました。
■ ■
私は、自由競争社会ですから、
国が強制して医師を地方や僻地に勤務させるのはよくないと思います。
医師にも、職業選択の自由(診療科目や勤務地を選ぶ自由)
があってしかるべきだと思います。
地方の自治体病院に勤務する医師が増えるように、
待遇や環境を整備すべきです。
魅力的な勤務地には人が集まります。
徴兵制度のように、僻地勤務を義務化しても、
優秀な人は医師にならなくなります。
国民が健康で文化的な生活を営めるような政策を立案するのが、
政治家の役割です。
経済政策を含めて、優秀な政治家に登場して欲しいものです。
回線不具合により、日記の更新が遅れましたことをお詫び申し上げます。
週刊文春より引用
医学講座
おしりの毛
おしりに毛が生えていることがあります。
男性では、ほぼ100%?
女性でも、肛門周囲にも毛がはえることがあります。
毛の生え方は、人によってさまざまです。
生えて欲しいところに生えないで、
生えなくてもよいところに生えるのも毛です。
毛の生え方は、遺伝によるところが大きいようです。
■ ■
男性は、毎日ヒゲを剃ります。
女性もワキ毛やビキニライン、
人によっては上肢・下肢の毛も剃らなくてはなりません。
男性より、女性の方が手間がかかります。
レーザー脱毛を希望される方は、圧倒的に女性です。
中には、‘保険適応’にして差し上げたいくらいの
‘多毛症’の方もいらっしゃいます。
残念なことに、現在の日本の健康保険制度では、
どんなに多毛でも、健康保険でレーザー脱毛はできません。
■ ■
毛が原因で病気になることがあります。
毛巣瘻(モウソウロウ)Pilonidal sinus(ピロニダール・サイナス)といいます。
お尻の穴の後ろから、背中にかけて毛が濃い人がなります。
お尻の割れ目に、毛が生えています。
たまたま、反対側から生えた毛が、皮膚に刺さることがあります。
割れ目になっているので、まっすぐに伸びると反対側に刺さります。
■ ■
この毛が刺さったところの皮膚に炎症を起こします。
最初は気づきませんが、しだいにニキビからおできになります。
毛が中に入って、毛玉状になり、そこにバイ菌がつくと最悪です。
熱が出て、座ると当たって痛くなります。
くさい膿(ウミ)が出て、パンツが汚れます。
化膿がひどくなると、膿と一緒に血も出ます。
化膿していても、毛はどんどん伸びますから、
炎症は日に日に強くなります。
■ ■
こうなると、手術しか治す方法がなくなります。
肛門の周りにできるので、
痔瘻(ジロウ)という痔の病気と間違われることもあります。
手術は、化膿しておできのように膨らんでいるところを切除します。
もちろん健康保険が使えますが、
重症の方は入院が必要になります。
■ ■
この病気の予防には、脱毛が一番です。
肛門より背中側の割れ目に、
太い毛が生えている方は要注意です。
こんな‘病気’があるなんて、お医者さんでも知らない人がいます。
もちろん看護学部でも看護学校でも教えません。
看護師さんでも知らない人がいます。
健康保険は使えませんが、レーザー脱毛で予防できます。
女性はビキニ奥の脱毛料金で治療が可能です。
男性の方は範囲によって違いますので、費用をお見積もりいたします。
昔の記憶
札幌駅前通り
今日の札幌は小雨です。
3月になると急に暖かくなりました。
歩道や車道の雪も、どんどんとけています。
私は、毎朝、札幌駅前通りを通ってクリニックに来ます。
駅前通りにある小さな花壇から、
チューリップの芽が出るのを楽しみにしています。
■ ■
現在は、地下歩道の工事をしているため、
とてもキレイな通りとは言えない状態です。
クリニックを開業した、4年前には、まだ並木もあり緑がキレイな通りでした。
あと2年で地下歩道が完成します。
それまで、しばらくはキタナイ道のままです。
■ ■
私が子供の頃は、札幌駅前通りには市電が走っていました。
ちょうど五番館(今の西武百貨店)の前あたりから、
ANAの前あたりに市電の乗り場(安全地帯)がありました。
市電は、
北は新琴似まで、
西は円山公園まで、
東は苗穂駅前までありました。
南だけは、今と同じ藻岩山のロープーウェーのところから、
中央図書館(昔は学芸大学→教育大学→中央図書館と変遷)までで同じです。
■ ■
北行きの市電は、北24条から先は架線がなく、
ハイブリッドならぬ、ディーゼルの市電が走っていました。
新琴似近くは、道路が未舗装で、
砂ぼこりを上げて市電が走っていた記憶があります。
西の終点、円山公園は、南大通りの先が折り返し点になっていました。
そこで、市電が休んでいるように見えたものです。
この市電も、地下鉄の開通とともになくなりました。
今でも、円山公園の入り口付近に、奇妙に道幅が広いところがあります。
そこが市電の終点だったところです。
■ ■
子供の頃に、美唄や夕張から札幌へ出てくるのは楽しみでした。
帰りはJRかバスでした。
中央バスのターミナルが、札幌駅前通りの
現在、三菱信託銀行が入っているビルの裏側にありました。
三菱信託銀行が入っているビルの場所に、
ニシムラというパーラーがありました。
■ ■
一階が、ケーキやお菓子を売っている店舗。
二階がレストランでした。
今でいうファミレスのような業態でした。
札幌へ来たら、ニシムラで晩ご飯を食べさせてもらうのが楽しみでした。
私が好きだったのが、ハンバーグ、オムライス、サンドイッチでした。
ハンバーグは、マックやモスバーガーのようなハンバーガーではありません。
お皿にハンバーグ、ご飯、野菜を盛り合わせたセットでした。
今でも、おぼろげに味を覚えています。
誕生日には、ニシムラでアップルパイを買ってもらうのが楽しみでした。
ケーキも好きでしたが、アップルパイが好きでした。
ですから、今でもたまにアップルパイを食べます。
■ ■
私が小学校一年生の時に、雪印パーラーができました。
雪印パーラーはニシムラより、少し高級だったようです。
あまり連れてきてもらった想い出はありません。
一度だけ、父に連れられて、三菱手稲療養所のパーティーに来た記憶があります。
米国に留学して、麻酔師の資格を取った、木村婦長さんの歓迎会をした日に、
子供の私も連れてきてもらいました。
はじめて入った雪印パーラーの宴会場は広くてキレイでした。
■ ■
見たこともないような、チーズフォンデュというのがありました。
長い串をパンに刺して、それをチーズの中に入れて、
チーズをつけて食べるアレです。
優しい看護婦さんが取って、私に食べさせてくれました。
なんて美味しいんだろう…と思いました。
ほんとうは、いっぱい食べたかったのに、
なぜか遠慮して一口しか食べませんでした。
今でも、チーズフォンデュを食べてみたいと思うことがあります。
おそらく、私がチーズフォンデュを食べたのが、
今、私がいる札幌美容形成外科がある3階です。
■ ■
縁というのは不思議なものです。
薬剤師の子供だった私が医師となり、
父親に連れられてきた場所で開業してます。
残念なことに、この雪印パーラーのスノー会舘ビルも、改築計画があります。
まだ移転・改築の時期は未定です。
私としては、想い出深い、この地から離れたくないのですが、
ビルの改築にはかないません。
移転場所は、JR札幌駅から歩いて5分以内の場所に探しています。
詳しく決まりましたら、またHPや日記でお知らせいたします。
昔の記憶
石炭ストーブ
今年の冬は、灯油の値上がりで大変でした。
灯油のような生活必需品は、
国が価格をある程度コントロールして欲しいと思いました。
私が子供の頃は、石炭ストーブでした。
以前にも書きましたが、
炭鉱は、石炭も、電気も、水道も、浴場もすべてタダでした。
■ ■
従業員には、無料で石炭が配られました。
もっとも、従業員に配られた石炭は、
市販される石炭より質の悪い部分でした。
石炭は、石の大きさにより、
①塊炭(カイタン)、手拳大より大きな石炭。
②中塊炭(チュウカイ)、少し小さめの石炭。
③粉炭(フンタン)、砂よりは大きいが、小さい砂利状の石炭。
④豆炭(マメタン)、石炭を洗浄した水を沈殿させ、その粉末を固めた石炭。
と分けられました。
■ ■
価格は①→④となるほど安く、
石炭のカロリー数や、
石炭を燃やした後に残る灰(アクとも呼びました)
の量によっても優劣が決まりました。
ちょうど、トロが
大トロ→中トロ→赤身と
価格が異なるのと同じです。
■ ■
炭鉱会社から、従業員に配られるのは、一番質の悪い粉炭です。
粉炭の中に、中塊(チュウカイ)が混じっているので、
その少し大きめの石炭を拾って集めておきます。
石炭は、石油と違ってすぐに火がつかないので、
石炭ストーブに、古新聞と薪(マキ)と
中塊(チュウカイ)を入れておいて火をつけます。
火力がついたところに、
追加の石炭をそっと入れるのがコツでした。
■ ■
石炭は、家の外にある炭小屋(タンゴヤ)に入れてありました。
粉炭は、固まってしまうので、
固まった粉炭をつるはしでたたいて割るのが仕事でした。
小学校高学年になると、子供もこの作業を手伝いました。
‘石炭出し’と呼んでいました。
炭小屋で、つるはしを振るうと、
石炭の粉が舞って、鼻の中が真っ黒になったものです。
■ ■
石炭は、炭鉱会社から、馬車で運んでくれました。
馬追のおじさんが、
『バイキ、バイキ』と馬に指示して、馬車をバックさせて
炭小屋の前に、どさっと石炭を降ろしてくれました。
それを炭小屋に入れるのも一苦労だった記憶があります。
50年も前の家には、断熱材も、サッシもありませんでした。
夜は、ほんとうに寒かったものです。
夕張では、夜間もストーブをつけていた記憶がありますが、
ストーブは家の居間に一箇所だけでした。
凍らせたくないものは、‘凍らない’冷蔵庫にしまいます。
つまり、台所より、冷蔵庫内の温度が高かったのです。
■ ■
家の中でも物が凍るのは当たり前。
夜、寝る前には、必ず‘水落とし’といって、
水道の止水栓をひねって、水を落として寝るのが日課でした。
もし、この‘水落とし’を忘れると、翌朝は水が出ません。
水道管が破裂して、水浸しになることもあります。
とにかく、寒さとの戦いが北海道の冬でした。
冬でも暖かな室内で、
24時間お湯が使える生活なんて…
想像もできませんでした。
世の中は、便利で暖かくなったものです。
小学校卒業の頃
右奥に見えるのが石炭小屋
昔の記憶
おでこの広さ
私は、小学生の頃から、額が広く‘おでこ’に特徴がありました。
小学校6年生の頃、同級生の佐藤くんが、
本間君の‘おでこ’の広さを測ってみようと言い出しました。
■ ■
佐藤くんも、‘おでこ’が広いほうでした。
将来はげたら困るから、今から測っておいたほうがいいよ。
本間君も、参考になるからね…。
測ろうはかろう、ということになり、
女の子も参加して、私の‘おでこ’の長さを測りました。
正直なところ気が進まなかったのですが、佐藤くんの
‘ボクも測るから、一緒に測ろう’という言葉に負けました。
■ ■
その時に、定規で測った長さが、6㎝9㎜でした。
小さい頃は、気にしていませんでしたが、
同級生から、‘おでこ’‘おでこ’と言われると気になります。
私は、いつの間にか、前髪で‘おでこ’を隠すようになりました。
日東美唄小学校は、あまり‘いじめ’がない小学校でした。
佐藤くんが、私の‘おでこ’を測ったのも、決して意地悪ではなく、
自分も気にしているので、一緒に測ろうという‘趣旨’でした。
■ ■
美唄から大夕張に転校する前に、
夕張では男子は全員丸坊主だという噂を聞かされました。
‘おでこ’を気にしていた私にとっては、大問題でした。
丸刈りだけは勘弁してほしいというのが、正直なところでした。
実際に鹿島中学校に転校してみると、丸坊主の子が目立ちました。
美唄の茶志内中学校では、丸坊主の男子はゼロでした。
■ ■
幸い、鹿島中学校でも丸刈りは強制されませんでした。
でも、中学校でも、私の‘おでこ’の広さは指摘されました。
一年生の時に、同級生のMくんが、長さを測ろうと言い出しました。
私は、イヤだったのですが、しぶしぶ応じました。
Mくんは、額が狭く、その代わり後頭部が出っ張っていました。
本人もそれを気にしていて、髪で隠すようにしていました。
当然、丸刈りは二人とも大嫌いでした。
■ ■
中学校で測った時も、6㎝9㎜でした。
ちなみに、今、測定してみましたが、同じく6㎝9㎜でした。
人間の頭蓋骨の大きさはあまり変化しないようです。
私のことを‘おでこ’。
将来は、確実にはげるね。
と言っていた、Mくんが、はげました。
小学校の時の、佐藤くんには会っていないので
その後どうなったかわかりません。
■ ■
私は、自分が‘おでこ’を気にしていたから、
美容外科医になったのではありません。
ただ、他人から見ると、どうでもよいと思うようなことでも、
本人が悩んでいるのでしたら、
できるだけ力になってあげようと思います。
自分が、がっかりした経験。
自分が、困った経験。
英語でいうと、disappointing experienceがたくさんあると
他人の悩みも理解しやすいのかもしれません。
昔の記憶
美唄から大夕張へ
昭和42年5月に私は、美唄市茶志内から、夕張市鹿島に引っ越しました。
父が勤務していた、三菱茶志内炭鉱が閉山し、炭鉱病院もなくなったためです。
夕張市は、炭鉱都市でした。
いまでこそ、赤字再建団体として、全国的に有名になりましたが、
昭和30年代~40年代は、日本の高度成長を支えていました。
■ ■
‘原料炭’という、製鉄に使うコークスの原料になる石炭を掘っていました。
大夕張は三菱砿業㈱、今、夕張市役所がある、夕張本町などは、
北海道炭礦汽船㈱、通称、北炭(ホクタン)の炭鉱がありました。
北炭は、三井系の優良企業で、
かつては、札幌グランドホテルや札幌テレビ放送(STV)の創設にも貢献した会社でした。
■ ■
美唄から夕張までは、バスを乗り継いで行きました。
岩見沢で夕張行きの中央バスに乗り、
鹿の谷(シカノタニ)という停留所で、夕張本町から来た、
大夕張行きのバスに乗り換えました。
はじめて見る夕張市は、とにかく山の中。
美唄にあった田んぼはどこにも見当たりません。
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山合の谷間に作られた街というのが、私の夕張に対する第一印象でした。
大夕張は鹿の谷から、さらにバスで1時間近くかかりました。
クネクネとした、狭い道路をバスに揺られていました。
清水沢(シミズサワ)という町から、
バスは大夕張に向けてさらに山に入ります。
私の目に入ったのは、北炭の清水沢発電所から出る、
モウモウとした石炭の煙と、
石炭を洗った洗浄水によって、真っ黒になった夕張川でした。
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大夕張の手前には、シューパロ湖というダムがありました。
森林鉄道で使ったという、三角を組み合わせたような橋が架かっていました。
ダムに向かって右奥は、キレイな水の色をしていましたが、
大夕張炭鉱から、排水が流れてくるダムの左半分は真っ黒でした。
そのダムの遥か奥に、1,668m.の夕張岳がありました。
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大夕張へ向かう道は、まだ未舗装で、
横を三菱大夕張鉄道の線路が通っていました。
とにかく、すごい山奥に来たもんだというのが印象でした。
私は、この夕張市鹿島で中学校3年間を過ごすことになりました。
正直なところ、美唄から大夕張への転校は私にとって憂うつでした。
できることなら、美唄に帰りたいと思っていました。
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シューパロ湖へ自転車で行った時
私は自転車が好きな少年でした
昔の記憶
中学生1年生
私は、中学一年の5月に、美唄市(ビバイシ)茶志内(チャシナイ)から
夕張市鹿島(大夕張)に転校しました。
茶志内では、美唄市立茶志内中学校に入学しました。
当時住んでいたのは、炭鉱住宅街のはずれでした。
周りには田んぼがありました。
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私は、中学生になり、Yシャツに詰襟と呼ばれる
いわゆる‘学生服’を着て、田んぼの中を通学していました。
靴はもちろんゴム長靴です。
茶志内中学校には、私が卒業した日東美唄小学校と
茶志内中央小学校、茶志内小学校、中村小学校という
数校の小学校から生徒が集まっていました。
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日東美唄小学校が、炭鉱で働く人の子供が大部分だったのと違い、
他の小学校は、農家の子供たちが多いのが特徴でした。
美唄市は、明治の北海道開拓の時代から、
屯田兵が入植し開拓をした町です。
美唄は、アイヌ語の‘カラス貝の多いところ’という意味の
‘ピパオイ’に由来します。
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中学校一年生の担任は、榊英子先生。
「木ヘンに、神様のカミと書いて、サカキです」
と自己紹介された記憶があります。
とても素敵な、音楽の先生でした。
明るく、元気のよい先生で、子供さんもいらっしゃったと思います。
ピカピカの中学生になった私は、
毎日楽しく、田んぼの中を通学していました。
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茶志内中央小学校から来た、女の子が私の隣でした。
佐々木のぶ子(漢字はわかりません)さんという、明るい子だったと記憶しています。
今までと違う子たちと、楽しい毎日でした。
はじめて、英語の授業がありました。
理科の先生は、毎日白衣を着て授業に来られました。
白衣だけで、カッコいいと思いました。
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残念なことに、三菱茶志内炭鉱の閉山により、
わずか、1ヵ月で、私は美唄市の茶志内中学校から
夕張市の鹿島中学校へ転校することになりました。
今でも、道央自動車道を通って札幌→旭川方面に行く時は
茶志内パーキングで停車して、
懐かしい美唄の山を見ています。
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中学1年生の私です(向かって右)
向かって左は、荒木田和生くんです