院長の休日

あと何年生きられるか?

 平成21年8月11日に、
 さくらんぼさんからいただいたコメントです。
 若い時は考えませんでしたが
 50歳を過ぎると
 あと何年生きられるか、
 自分はいったい どう生きてきたのか、
 とか考えるようになりますよね、先生・・・
 亡くなって49日目に三途の川を渡り
 生前の行いを鏡に写しだされ
 天国から地獄まで何段階かにわけられると聞きました。
 49日までは 亡くなった方の魂は家の回りにいるそうです。
      ■         ■
 ほんとうに…
 考えるようになります。
 特に、親しい方が亡くなったり、
 自分と同い年の知人の訃報を聞くと…
 考えてしまいます。
 私は不信心なので…
 仏教のこととか…
 お盆とか…
 あまり詳しくありません。
      ■         ■
 神様を信じていないことはありません。
 神道でも、
 仏教でも、
 キリスト教でもありません。
 結婚式はホテルの神社でしたが…
 初詣に行く以外は、
 厄払いでお世話になる程度です。
 困った時だけ、
 『神様…』では、
 神様にも見放されますね。
      ■         ■
 信仰のことは詳しくありません。
 他の職業よりは、
 人の死と直面することが多いのが、
 医師や看護師などの医療関係者です。
 どんな死に方をしたいか…?
 と聞かれたら…
 人工呼吸器も、
 気管内挿管もいりません。
 苦しまないように、
 麻薬などを上手に使ってください。
 とお願いすると思います。
      ■         ■
 自分はどう生きてきたか?
 という記録を残すために…
 この日記を書いてます。
 いつの間にか…
 1,000件を超えました。
 私の形成外科に対する想い。
 私の医療に対する考え方を、
 少しでも書き留めるために、
 毎日書いています。
      ■         ■
 家内は、
 日記の中だけいい夫ぶり
 に腹が立つので、
 日記は読まないそうです。
 今、読まなくても…
 私が死んでからでも読めれば… 
 退屈しのぎになると思っています。
 30年前は♡最高♡と思っていたのに…
 人生なんてこんなものです。
      ■         ■
 昔は…
 開業医の先生は、
 裕福で…
 患者さんから信頼されて…
 最高なんだろうなぁ~?
 と思っていたのですが、
 実際にやってみると大変なものです。
 私の労働時間は一ヶ月250時間以上です。
 メールの返事が深夜のこともザラです。
 楽しいこともありますが、
 辛いこともたくさんあります。
      ■         ■
 日記にコメントをいただいたり、
 私の考えにご意見をいただいたりすると、
 やっててよかったと嬉しくなります。
 あと何年生きられるか?
 今の私にはわかりません。
 毎日まいにちを精一杯がんばっています。
 患者さんに対しては、
 最高の手術を提供しようと努力しています。
 天国へ行く前に振り返った時に、
 人間として…
 恥ずかしくない人生を送りたいと考えています。

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昔の記憶

濱本淳二先生の想い出⑤

 濱本淳二先生がお亡くなりになってから、
 今日でちょうど一週間です。
 昨日が初七日でした。
 濱本先生は、
 昭和7年3月20日生。
 私と22歳違いです。
 22歳の年齢差は、
 ちょうど自分の20年後の姿を、
 重ね合わすことができます。
      ■         ■
 家庭では、
 両親の姿を見て子どもが育ちます。
 大学の医局という社会では、
 常に先輩の姿を見て、
 若い医師が育ちました。
 濱本先生は、
 良き医師であったと同時に、
 良き父親であり、
 良き夫であったと、
 私は思っています。
      ■         ■
 私が結婚した頃に、
 濱本先生のお宅に、
 家内と招いていただいたことがありました。
 小さなお子様がいらして、
 あたたかい家庭がありました。
 自分もいつかは、
 戸建の家を持って、
 こうして暮らしてみたいと思いました。
 (当時は2DKの公団住宅でした)
      ■         ■
 濱本先生は真面目で、
 すすきのへ通うこともなく、
 家族のために…
 一生懸命働いていらっしゃいました。
 函館中央病院で、
 私がご一緒に働いていた時に、
 三男の方が、
 医学部に合格されました。
 その時の先生の満面の笑顔は、
 今でも忘れることができません。
      ■         ■
 病棟の看護婦さんからも…
 ♡先生!おめでとうございます!♡
 ♡先生!よかったですね!♡
 と 
 最高の祝福を受けていらっしゃいました。
 濱本先生の3人のご子息は、
 皆さん立派に成長されました。
 先生の遺影は、
 ご長男が撮影された白衣姿でした。
 最高の写真でした。
      ■         ■
 先生のご長男は、
 プロの報道カメラマンとして活躍中です。
 時々、新聞で署名入りの写真を拝見します。
 晩年の濱本先生は…
 奥様と京都旅行を楽しまれたり、
 お好きな映画を、
 思う存分、鑑賞なさっていらっしゃいました。
 とても羨ましいご夫妻でした。
 私も濱本先生のようになりたいと思っていました。
      ■         ■
 次男の濱本伸夫さんと長男の濱本道夫さんから、
 美容の杜へコメントをいただきました。
 お二人のコメントを掲載させていただき、
 私の濱本先生の想い出シリーズを終わります。
 濱本先生、
 医師として、
 人生の先輩として、
 たくさんのことを教えていただき、
 ありがとうございました。
 心からご冥福をお祈りいたします。
      ■         ■
投稿順に掲載させていただきます。
濱本淳二の次男、濱本伸夫です。

先日は自宅まで御参りに来ていただきありがとうございました。いただいた胡蝶蘭、本人に見せてやりたいほど綺麗に咲いています。

先ほど小田原に帰宅しネット検索で、本間先生のブログで亡父の掲載を知り感激しました。

本人は生前に
「亡くなると灰になり無になるが、残された人の心の中に生き続ける。だから、亡くなった人を思い出し語るのが一番の供養」と申しておりました。

なので、本人のホームページかと思うくらいの立派な記事をブログに載せていただくことは嬉しい限りです。
本当にありがとうございます。

ベストエッセイは、本人も楽しみにしておりましたが、
09年版は、一歩間に合わず本当に残念です。
私は随筆に疎く、今回初めてベストエッセイを知り、昨年版を取り寄せましたが最相葉月さんや泉麻人さん等そうそうたる作家が名を連ねており、びっくりしています。
本人が掲載連絡を受けた6月にやや元気になったのも頷けます。
死の3日前、かなり意識は弱まっていましたが、枕元で96年版の文庫本の藤本義一さん随筆を朗読したら微かに頷いていてくれたことが、私の最後の思い出です。独りで付き添った夜の事でしたが、我ながら下手な朗読で小さい頃に音読をしっかりやっておけば良かったと、後悔しました。そういえば、父は朗読も好きで「『が』は『んが』と読むと響きが良い」と幼少期に言っていたことを思い出します。

昨年版の単行本は棺桶に入れました。
本は火の通りが悪いとの事で、斎場のベルコの方に各々のページを半折にして見開いた状態で入れていただきました。
焼いた後、本は見開いた状態で灰になっていました。棺桶は跡形もないのに。昨年版を読みながら召しのかも知れません。

時々、父の事を思い出していただければ幸いです。

生前含め、お世話になり本当にありがとうございました。

取り急ぎお礼まで。
      ■         ■
濱本淳二の長男、道夫です。

このたびは素晴らしい想い出を綴っていただき、感謝に堪えません。弟の連絡で先生のブログの存在を知り、読み終えさせていただいたところです。

父としての浜本淳二は、私どものよく知るところなのですが、医師としての浜本淳二は、知っているようで知らないことばかりだったのだと、先生のブログを読んで気づかされました。生き生きとした父のエピソードにふれることが出来、感激しております。

小さいころよく、大学の医局に連れて行ってもらったことを思い出します。家でリラックスして笑っている父が、白衣に着替えた途端に鋭い目つきに変わり、「何だかカッコいいね」と申したことを思い出します。父は少し照れておりましたが、子どもの目には颯爽とした「昼間のパパ」ぶりでありました。

その後父の写真好きが遺伝したのか、私自身がカメラマンの道を歩むことになりました。遺影は今年2月、札幌雪まつり会場の救護室にて、白衣で待機する父の姿を私がスナップしたものです。現場に出ていると楽しい、そう言っていたのを昨日のことのように思い出します。

こうして本間先生に取り上げていただき、父がどれほど喜ぶかと思います。本当にありがとうございました。まずは取り急ぎ御礼まで

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昔の記憶

濱本淳二先生の想い出④

 私が1980年に北大形成外科へ入局した時、
 教授が大浦武彦先生、
 助教授が濱本淳二先生、
 講師が杉原平樹(つねき)先生でした。
 大浦先生はおおうら先生
 濱本淳二先生ははまさん
 杉原平樹先生はすぎさん
 と呼ばれていました。
      ■         ■
 新入医局員の私が…
 直接はまさん
 とお呼びすることはありませんでしたが、
 医局内では、
 親しみを込めてはまさん
 と呼ばれていました。
 濱本先生のサインは…
 まるの中にの字で、
 大洋漁業のマークと同じ、
 マルハでした。
      ■         ■
 濱本淳二先生は、
 何でも真面目に…
 こつこつとなさるタイプの先生でした。
 北大形成外科の外来には、
 濱本先生が取られた、
 唇裂の子どもさんの、
 歯の石膏模型がたくさんありました。
 唇裂の患者さんの、
 顎(あご)の発育を調べるためでした。
      ■         ■
 今はデジタルカメラで写真を撮りますが、
 昔はカラースライドでした。
 スライドが出来上がってから、
 一枚いちまい名前を記入します。
 これが大変でした。
 新入医局員の仕事で…
 一番大変だったのがスライド整理でした。
 私たち新入医局員と、
 医局の秘書さんが整理をしていました。
      ■         ■
 術者になると、
 自分自身でもカメラを持って…
 写真を撮って、
 自分で整理するようになります。
 形成外科医は、
 手術室でカメラバッグを持っているので、
 どこの手術室へ行っても、
 形成外科医だとわかる…
 といわれていたものです。
      ■         ■
 自分の家のアルバムを見るとわかりますが、
 写真の整理というのは…
 実に大変なものです。
 本間家のアルバムも…
 しっかり整理されているのは、
 最初に生まれた長女だけです。
 濱本先生のスライドは、
 形成外科で一番しっかり整理されていました。
      ■         ■
 濱本先生は、
 スライドが出来上がって来ると…
 その日のうちに整理なさっていらっしゃいました。
 決してスライドをためませんでした。
 私たちは…
 たまってから…
 当直の日にしよう…
 とか思ってついついためてしまい…
 結局大変な思いをしていました。
 私が毎日日記を書くのも、
 メールの返事をすぐに書くのも…
 濱本淳二先生の教えのおかげです。

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昔の記憶

濱本淳二先生の想い出③

 濱本淳二先生は、
 函館中央病院診療部長から、
 札幌東保健所の所長にご就任されました。
 今から、20年くらい前のことでした。
 先生がちょうど50代の半ば頃…
 つまり…
 今の私と同年代でした。
      ■         ■
 私たち、北大形成外科の同門にとって…
 衝撃的な出来事でした。
 濱本先生が…
 保健所長…?
 どうもピンときませんでした。
 私たちが知っている…
 濱本先生は、
 唇裂の患者さんの記録を、
 丹念にとっていらっしゃる先生でした。
      ■         ■
 私のイメージでは、
 保健所の先生は、
 公衆衛生の先生とか?
 ず~っと…
 行政職に就かれていた先生…
 というイメージがありました。
 ところが、
 実際には…
 外科医から、
 衛生行政に‘転職’された先生が、
 かなりいらっしゃることを知りました。
      ■         ■
 濱本先生が、
 保健所長にご就任されてから、
 お会いしたことがありました。
 先生はとてもさわやかな笑顔で…
 講演が多くて…
 と楽しそうでした。
 濱本先生は、お話し上手でした。
 STVラジオの…
 巻山晃(まきやま あきら)の
 オハヨー!ほっかいどう
 に毎週水曜日8:30頃に出演されていました。
 17年半も休まずに続きました。
      ■         ■
 先生自身のご努力と、
 勉強熱心で、
 博識で、
 お話し上手という才能のために、
 濱本先生は、
 札幌市の衛生行政でご活躍されました。
 私の知人の保健所の医師から聞きました。
 濱本先生は、人望が厚く、
 最後は札幌市役所本庁の、
 衛生局理事にまで昇進されました。
      ■         ■
 濱本淳二先生の生き方は、
 私たち北大形成外科の同門にとって、
 形成外科医が…
 メスを下ろしても、
 活躍の場があるということを…
 身をもって示してくださいました。
 今の私に…
 保健所長は絶対に無理ですが、
 濱本先生という偉大な先輩が残してくれた、
 生き方の軌跡は、
 私たちの心にしっかりと残っています。

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昔の記憶

濱本淳二先生の想い出②

 濱本淳二先生はエッセイストです。
 2009年8月に文藝春秋社から発行される、
 日本エッセイスト・クラブ編
 2009年版ベスト・エッセイに選ばれました。
 先生がとても喜んでいらっしゃいました。
 まみ子師長さんがご紹介してくださった、
 カルテの独り言が私の手もとにあります。
 そのあとがきに、
 濱本淳二先生のお言葉があります。
      ■         ■
 あとがき
 もし何々だったらという思いが誰にもある。子供の頃から、もし病気をしなかったら、もし健康だったらという意識が、私にはずっと付きまとっていた。
 遠足、運動会に参加できたのは小学校の二年生までで、その後は正規の体育の授業も惨めな思いで見学していた。決定的な闘病は高校二年、十七歳のときからで、長期間の療養生活をし、数回の苦しい大手術を受けた。
 生活したというより、生存していたといいたい日々であった。戦中、戦後のきびしい社会環境、そして私の一家は満州から無一物での引揚者であった。私の命が辛うじて守られたのは、数年前に亡くなった父と、現在八十歳になる母の献身的な慈愛をはじめとした家族全員の愛情によってである。
 大きなハンディを背負い、人より遅れて高校を卒業したとき、どの大学へ進んだら一人前の社会人になれるのか分からなかった。低肺機能者の私が何とか社会で生きていくためには、身体検査というふるいのない職業に進む必要があった。それで医学部を受けた。
 私が医学を志したのは高邁な理想によるものではないし、ヒューマニズムに燃えていたからでもない。ただ医学部を卒業して医師になったとき、最低限、患者の心と目を持った医師であろうと決心した。
 それから二十六年、医師としての生活が医師以前の生活とほとんど同じ長さになろうとしている。かって私か患者であった頃、唾棄した医師と同じ言動をしている自分に気づいて、ときどきはっとすることがある。そんな反省と自戒の思いを込めてエッセイを書きつづけてきた。
 『北海道新聞』には偶然の機会で「カルテ余録」、「朝の食卓」、「カルテの余白」を連載し、『月刊ダン』には「カルテの独り言」を六年間も続けさせていただいた。私は北海道新聞によって種まかれ、この十年間、育てられてきたのである。主としてそこに書いたものでこの本はできている。
 形成外科という臨床医学を媒介にして私を啓発してくださった多くの患者さん、先輩・同僚医師および看護婦さん、そしてすべての面で私を支えてくれた家族に心から感謝したい。
 昭和六十三年六月
                  浜本淳二
 カルテの独り言より引用
 北海道新聞社
 昭和63年6月25日発行
 ISBN4-89363-502-6
      ■         ■
 濱本先生からは、
 文章の書き方を教えていただきました。
 私が、こうして院長日記を書き続けられるのも…
 濱本先生の教えのおかげです。
 本間先生、このセンテンスは長すぎるから、
 ここで、一度区切って、
 『。(まる)』を入れて…
 と教えていただきました。
      ■         ■
 ご自分が、苦しい闘病生活を送られたので、
 濱本先生は、
 常に患者目線で
 患者さんと接するように、
 私たちに指導してくださいました。
 下の本は、
 私が濱本先生からいただいた署名入りの本です。
 札幌美容形成外科に、一冊置いておきます。
 興味がある方は、
 是非お読みになってください。

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昔の記憶

濱本淳二先生の想い出①

 形成外科医の間で、
 濱本淳二先生といえば…
 両側唇裂
 マンチェスター法です。
 濱本先生は、
 唇顎口蓋裂治療の中でも、
 もっとも難しいと言われる…
 両側唇裂の権威でした。
      ■         ■
 私の手もとに、
 米国のミラード(D.R.Millard,Jr)先生という、
 有名な形成外科医が書かれた、
 Principlization of PLASTIC SURGERY
 という本があります。
 ミラード先生は唇裂手術で
 世界的に有名な形成外科医です。
 このミラード先生が書かれた本に、
 濱本淳二先生の手術が引用されています。
      ■         ■
 残念なことに…
 Hamamotoと書かれるべきところが…
 Haramotoになってしまっています。
 濱本先生は、
 ミラードから手紙が来て…
 僕の手術が本に載ることになった。
 と…
 とても喜んでいらしたのを覚えています。
      ■         ■
 両側唇裂というのは…
 上口唇に、
 左右2箇所に割れ目が入ってしまう病気です。
 ちょうど鼻の下の部分が、
 突出してしまうことがあります。
 ミルクも上手に飲めないし…
 産んだお母さんは絶望的になります。
 私の責任…
      ■         ■
 濱本淳二先生は、
 まず…
 お母さんに優しく説明することからはじめられました。
 泣いていてはダメ。
 お母さんといっしょに…
 綿のテープで、
 赤ちゃんの頭につける…
 矯正装置の製作をはじめます。
 その手づくりの矯正装置を、
 赤ちゃんの頭につけます。
      ■         ■
 飛び出していた鼻の下の部分に…
 綿テープで作った矯正装置をつけると…
 少しずつ平らになります。
 あまり強くしてもダメで、
 何回も調節します。
 混んでいる外来が終わった頃に、
 ゆっくりと時間をかけて…
 指導なさっていらっしゃいました。
      ■         ■
 唇裂治療のはじまりは、
 赤ちゃんではなく…
 お母さん
 北大病院の外来ではじまった治療が、
 濱本先生を慕って…
 函館中央病院まで、
 何人も続いていました。
 濱本先生が治療を担当された、
 濱本先生の子どもさんも、
 もう、すっかり大人になられています。
      ■         ■
 絶望の淵に立たされた、
 両親を何人も救っていらっしゃいました。
 私は…
 濱本先生が、
 唇裂の患者さんと接する時の、
 あの優しいまなざしを、
 今でもはっきりと覚えています。
 多くの患者さんとご家族が、
 濱本先生の死を悼(いた)んでいると思います。 

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院長の休日

濱本淳二先生を偲ぶ

 今朝の北海道新聞で知りました。
 お別れ会ご案内
 夫_濱本淳二
 8月7日午後8時23分、77歳をもって永眠いたしました。
 葬儀は、家族葬をもって執り行います。
 おって、お別れ会を左記の通り開催することにいたしましたのでお知らせいたします。
 一、日時_8月10日(月)午後2時
 一、会場_ベルコ平岸シティホール_011-833-4444
 札幌市豊平区平岸6条14丁目2-3
 平成21年8月9日
 札幌市豊平区西岡2条4丁目7-24
 喪主_妻_濱本倫子
 施主_長男_濱本道夫
 葬儀委員長_大平整爾
      ■         ■
 濱本淳二先生は、
 元北海道大学形成外科助教授。
 私が入局した時から、
 函館中央病院の時代まで、
 10年近くお世話になりました。
 77歳という…
 まだお若い年齢なのに…
 とても残念に思います。
 こころからご冥福をお祈りいたします。
      ■         ■
 私が1980年に北大形成外科に入局して、
 大夕張の鹿島中学校を卒業したとお話しすると、
 本間君は爆発事故の時は中学生だった?
 と濱本先生から聞かれました。
 はい、父が何日か病院に泊まりこみで、
 札幌から薬の手配をしていました。
 一酸化炭素(CO)の血中濃度測定もしていて、
 大変だったのを覚えています。
 とお答えしました。
      ■         ■
 その後、数ヵ月が経過して、
 私が北大病院の外来係りをしていると、
 濱本先生から呼ばれました。
 本間君、覚えている?
 大夕張の上原さん。
 そこには、濱本先生と一人の患者さんがいらしゃいました。
 濱本先生に命を助けていただきました。
 薬局の本間先生(父のこと)の息子さんですか?
 濱本先生のような、立派なお医者さんになってください。
 と言われたことを覚えています。
      ■         ■
 私は当時中学生だったので…
 直接の面識はなかったのですが、
 父が
 上原さんには…
 何とか助かって欲しい…
 と話していたのを覚えています。
 上原さんは、
 私たちと同じ富士見町という町内に住んでいらして、
 三菱大夕張炭鉱のガス爆発事故で、
 瀕死の重傷となられた職員の方でした。
      ■         ■
 濱本先生は、
 北大病院から…
 熱傷治療のために、
 大夕張へいらしてくださったと伺いました。
 この炭鉱爆発事故がきっかけとなり、
 北大形成外科では、
 気道熱傷という分野の研究をしました。
 研究結果で何人かの先生が
 医学博士の学位を取得されました。
      ■         ■
 濱本淳二先生は穏やかな性格の先生でした。
 はまもとじゅんじは…
 桜田子のです。
 というユーモアのある先生でした。
 今でも優しい声が聞こえてきそうな気がします。
 濱本淳二先生、
 たくさんのことを教えていただき、
 ありがとうございました。


1980年北大形成外科
濱本先生、上原貢さんと私

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昔の記憶

釧路労災病院の想い出②

 私たち北大形成外科の研修医は、
 医局の人事で北海道内の病院を点々と回りました。
 昭和57年(1982年)は
 3ヵ月毎に、
 形成外科メモリアル病院→
 美唄労災病院→
 北大病院→
 釧路労災病院→ 
 北大病院
 といった具合でした。
      ■         ■
 大学医局の人事でも…
 各病院をその都度‘退職’して、
 新しい病院へ‘就職’しました。
 退職理由は自己都合退職でした
 私こと
 この度、一身上の都合により…
 という退職願い
 自筆で書いて提出しました。
 当時は自筆で書く意味も、
 出す理由もわかりませんでした。
      ■         ■
 各病院での待遇は、
 お給料を含めて病院ごとに違いました。
 一番お給料が安かったのが…
 北大病院でした。
 北大病院の当直料を合わせても…
 月に15万円もいただけませんでした。
 足りない分は…
 月に数回の‘出張’と
 当直のアルバイトでまかないました。
      ■         ■
 地方の病院へ行った時は、
 北大病院より高給でした。
 3ヵ月単位で移動した時には、
 ボーナスはありませんでした。
 釧路労災病院にはじめて勤務した、
 1982年12月に、
 職員にボーナスが支給されました。
 私にはボーナスは出ませんでした。
 確か…土曜日だったと思います。
      ■         ■
 病院から帰ってきて…
 近くのイトーヨーカドーに買い物に行きました。
 帰って来ると…
 家の中に足跡がついていました。
 泥棒でした。
 泥棒は、
 私にボーナスが出ないことを知らずに、
 私の家のお風呂場から侵入しました。
 居間のテーブルの上に…
 私が忘れた財布がありました。
      ■         ■
 その私の財布から、
 現金1万3千円を抜き取って…
 (がっかりして?)
 玄関から逃走したようでした。
 戸棚には、
 現金3万円程度がありましたが、
 そちらは取られませんでした。
 警察に被害届を出しました。
      ■         ■
 札幌ナンバーのカローラがなくて、
 家の電気が消えていれば…
 留守を泥棒に教えているようなものでした。
 でも…
 さすがの泥棒も
 研修医の先生にボーナスが出ないことは…
 ご存知なかったようです。
 警察は巡回警備を増やしてくれました。
 でも、家内は不安だったようです。
 私は…
 ボーナスも出ない先生の家には
 もう来ないと思うょ!
 と話していました。

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昔の記憶

釧路労災病院の想い出①

 私は釧路労災病院へ二度赴任しました。
 一度目は、昭和56年(1981年)でした。
 2年目の研修医の時です。
 当時は3ヵ月単位で研修先が変わりました。
 5人の新人研修医が…
 なるべく機会均等に研修を受けられるように…
 という医局の方針でした。
      ■         ■
 当時の北大形成外科は、
 まだ人数も少なく、
 あたたかい家庭的雰囲気の医局でした。
 2年目の研修医でも…
 貴重な戦力でした。
 実際には何もできなかったのですが、
 それでも、傷の縫合とか、
 外傷の処置は一人でしていました。
      ■         ■
 赴任したのは10月でした。
 新婚3ヵ月目で… 
 人生で一番♡しあわせ♡だった頃です。
 北区新琴似の公団住宅には、
 荷物をそのままにしておき…
 最低限の荷物だけを…
 カローラに満載して、
 釧路へ出発しました。
      ■         ■
 当時は高速道路もなく、
 日勝峠も砂利道でした。
 苫小牧まで行き、
 日高経由で日勝峠を越えました。
 道路工事のため、
 いたるところで片側交互通行でした。
 今から思えば時間がかかりました。
 車も父親からいただいた車でした。
 とても新車を買う余裕はありませんでした。
      ■         ■
 今、想い出してみても…
 喧嘩をした覚えもないし、
 辛かった記憶もありません。
 おそらく人生で最高にしあわせだった頃です。
 10月の釧路は快晴の日が多く、
 労災病院の窓からは、
 雌阿寒岳がよく見えました。
 住宅は古かったのですが、
 2DKの公団住宅とは…
 比べ物にならないくらい広く、
 快適に生活をしました。
      ■         ■
 労災病院は中園町というところにありました。
 近くに、
 石黒ホーマー(現、ホーマック)があり、
 ちょっと離れたところには、
 イトーヨーカドーがありました。
 駅前には、
 長崎屋と和商市場(わしょういちば)があり、
 よく買い物に行きました。
      ■         ■
 勤務は10月から12月までの3ヵ月間でした。
 当時、はじまったTVが…
 北の国からでした。
 ビデオはありませんでしたので、
 仲良く北の国からを見ていました。
 秋から冬にかけて…
 3ヵ月はあっという間でした。
 阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、
 厚岸、根室などに行きました。
 もう二度と経験できない…
 若き青春の日々です。

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昔の記憶

釧路の夏休み

 私は1986年7月から1988年3月まで、
 釧路労災病院形成外科に勤務しました。
 32歳から34歳までです。
 当時は形成外科認定医を取得直後。
 免許取立ての認定医でした。
 形成外科医が少なかったので、
 32歳の私が…
 釧路労災病院形成外科のチーフとして、
 道東の形成外科医療を担当しました。
 私と下の先生の二人しかいませんでした。
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 当時の釧路労災病院は、
 交通外傷や労災事故など、
 とにかく外傷の多い病院でした。
 緊急手術になることも多く、
 難しい手術でも…
 緊急だと…
 北大に応援を頼むこともできません。
 とにかく忙しい病院でした。
 よくやっていたものだと思います。
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 月に2回程度、
 北大から上の先生に応援にいらしていただきました。
 釧路でお世話になったのも…
 当時、北大形成外科医局長だった、
 吉田哲憲先生(現、市立札幌病院病院事業管理者)、
 杉原平樹先生(元北海道大学病院長)でした。
 よい先輩に恵まれて、
 私は釧路労災病院で、
 形成外科医としての腕を磨きました。
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 当時は土曜日も外来診療をしていました。
 日曜日は…
 下の先生と交代で回診当番をしました。
 夏休みは、
 2人で交互になんとか取りました。
 子どもが小さかったので
 (長女4歳、長男2歳)
 よく公園やドライブに出かけました。
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 釧路からは、
 阿寒湖、屈斜路湖、摩周湖という、
 道東の有名観光地が、
 車で1~2時間でした。
 日帰りで…
 十分いろいろなところへ行けました。
 家内の両親が関西から飛行機で来て、
 知床半島へ行ったのも…
 楽しい想い出の一つです。
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 私が住んでいた釧路労災病院の宿舎はなくなり、
 釧路市も大きく変わりました。
 北海道新聞に、
 釧路の夏の涼しさを売りにして、
 釧路へ避暑客を呼ぼうという、
 プロジェクトが書いてありました。
 避暑だけではなく、
 釣りなどのアウトドアも、
 十分に楽しめるのが釧路です。
 またいつか…
 釧路を訪れてみたいと思います。

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