昔の記憶
函館の想い出⑦
函館にはお鮨以外にも…
美味しいお店がたくさんありました。
先生、美味しいカレーがある
と教えていただいたのが…
小いけのカレーでした。
函館山のふもと近くの
宝来町(ほうらいちょう)というところにありました。
■ ■
最初に赴任した、
昭和57年(1982年)には、
創業者である故小池義次郎様がお元気でした。
お店奥の厨房で、
寡黙に料理を作られていたのが印象的でした。
評判通りに美味しいカレーでした。
私は北大生協のカレーや
ハウスのカレーでも、
十分に美味しいと思いますが、
ここのカレーは格別でした。
■ ■
「洋食の小いけ」として有名でした。
カレー以外のカツレツも
美味しかった記憶があります。
お店はどちらかというと地味で、
場所も電車通りから少し入った…
目立たない場所にありました。
今は、
二代目のご子息が継承されているようです。
■ ■
ネットで検索すると…
印度カレー小いけがありました。
もう一つ…
元祖インドカレー小いけというお店もあるようです。
こちらの元祖小いけは、
創業者の使用人が受け継ぎ、
「小いけ本店」は
創業者のご子息がその後、
近くに起業したらしい
とネットに記載がありました。
味は元祖小いけの方が…
元の小いけの味らしい…?です。
伝統の味を継承するのは、
なかなか難しいものがあります。
■ ■
その他にも…
函館にはたくさんの美味しいお店があります。
今は、もっと…
おいしいお店が増えていることと思います。
私が住んでいた頃は、
函館ドックも…
北洋漁業も…
まだまだ盛んな時代でした。
私の大好きな街、
函館が…
もっともっと…
元気になってほしいと願っています。
昔の記憶
函館の想い出⑥
函館の想い出で忘れられないのは、
何と言っても…
美味しいお鮨です。
今は函館にも回転寿司がありますが、
私が住んでいた20年前には、
まだ、あまりありませんでした。
函館には、
たくさんの有名なおすし屋さんがあります。
ただ、小さな子ども連れで…
気軽に行けるところは…
なかなか見つけるのは大変でした。
■ ■
私は湯の川にあった、
鮨長(すしちょう)さんという…
小さなおすし屋さんへ行っていました。
最初に函館へ行った…
昭和58年(1983年)に、
マツダ自動車のショールームへ行って、
そこのセールスさんに紹介していただきました。
マツダの車は買いませんでしたが…
紹介していただいたおすし屋さんには、
長い間お世話になりました。
■ ■
湯の川にホテル新松という旅館があり、
そこの斜向かいの床屋さんの隣が、
鮨長さんでした。
中村さんというご主人が、
奥さんとお二人で
おすし屋さんをなさっていらっしゃいました。
お嬢さんがお二人いらしゃいました。
ちょうど子どもが生まれて、
子育てに苦労していた私たちには、
よき人生の先輩でもありました。
■ ■
ご主人が握ってくださる
お鮨も最高でしたが、
奥様が作ってくださったお吸い物が…
これまた最高でした。
お給料が出た後とか…
実家から親が来た時とか…
お客さんがいらした時とか…
回数は多くはありませんでしたが、
よく利用させていただきました。
■ ■
私も家内もお鮨が大好きで、
家内はお鮨が食べたいから…
北海道へお嫁に来た!
というほどです。
結婚する前も…
フレンチや
イタリアンの
レストランなんて…
行ったことはありませんでした。
札幌ではお鮨かラーメン。
大阪では、
うどんかお好み焼きでした。
■ ■
函館の鮨長さんに…
もう一度行きたいと思っていたのですが、
残念なことに…
おすし屋さんがあった場所は、
道路の拡張工事でなくなっており…
検索してもわかりませんでした。
美味しいお鮨の想い出といっしょに…
ご夫婦で仲良く…
鮨店を切り盛りされていた、
中村さんの笑顔が忘れられません。
昔の記憶
函館の想い出⑤
泥棒に入られた後も、
函館の人たちは親切でした。
警察では、
防犯について教えていただきました。
当時…
私のように泥棒に入られる家が…
連続してありました。
札幌へ帰ってきてから…
少年の窃盗団が捕まったと報道されました。
指紋が一致しなかったのか?
私には泥棒が捕まったという知らせは、
ありませんでした。
■ ■
警察の話しでは…
少年犯罪の検挙はなかなか難しく…
現行犯でなければ、
逮捕するのは困難だと話されていました。
靴の足跡や、
手口から、
少年らの犯行と推測されたようです。
平松様からいただいたコメントのように、
少年犯罪には難しいものがあります。
■ ■
警察で教えていただいた教訓です。
①泥棒が入りやすい家がある。
②泥棒に‘留守’を教えている家がある。
③泥棒が入りにくい家にする方法がある。
でした。
たけさんからいただいたコメントのように…
奥さんは病院で仕事している間怖かった…
らずべりーさんからいただいたコメントのように…
道路沿いなのもあったのでしょうか…
泥棒さんの嗅覚なんでしょうか…
平松さんからいただいたコメントのように…
道路沿いの角地…
警察から気をつけるように言われた…
■ ■
私が住んでいた家は、
これらがすべて該当(がいとう)していました。
中央病院の先生の家
と書かれていたのではありません。
他と違っていたところでは…
札幌ナンバーのマークⅡがとまっていた。
でも、私の家の2階は、
南茅部からいらした社長さんの、
立派な白いクラウンでした。
函館ナンバーの白いクラウンでした。
問題は一階でした…
■ ■
家内は用心深い人で、
ちょっと外出するにも…
必ず鍵をかけていました。
夜は電気を消して…
外出時にも、
電気を消していました。
つまり車が無くて…
電気が消えていれば…
留守を泥棒に知らせているようなものでした。
■ ■
一番の問題点は、
泥棒が入りやすい侵入口があったことでした。
隣家との間は…
狭い通路で…
人がいても道路や家から見えない位置でした。
そこに、トイレの窓がありました。
そういう侵入口があり、
入りやすい家を、
泥棒は‘仕事’がない昼間に…
普通の格好をして、
下見をしているのだそうです。
■ ■
泥棒は…
留守になった私の家を狙って…
深夜にやってきました。
家の前は五稜郭公園のお堀です。
誰にも見られません。
お隣の家からも、
トイレの窓から侵入するところは見えません。
誰もいない家に入って、
堂々と?現金だけを狙ったのでした。
見つかっても…
五稜郭公園に逃げる方法がありました。
■ ■
家内は、
泥棒に入られた家で…
私が当直の夜などに、
もし、また泥棒が来たら…?
と思うと安心して眠れないと言いました。
私は湯の川にあった、
セキュリティハウスという、
防犯の専門店へ行きました。
店主の村山様が、
親切に防犯について教えてくださいました。
■ ■
外出する際に…
電気を全部消さず、
何かテレビかラジオの音がするだけでも違うと…
教えていただきました。
泥棒が…
入りにくい家は、
居るのか…?
居ないのか…?
わかりにくい家だそうです。
■ ■
借家だったので、
防犯装置はつけられませんでしたが、
大家さんが、
トイレの窓に柵をつけてくださいました。
いろいろな防犯装置があることを、
その時に勉強しました。
函館で泥棒に入られたおかげで…
防犯に対する認識ができました。
札幌美容形成外科には…
SECOMの監視カメラもついています。
セキュリティにお金をかける大切さを、
函館で知りました。
SECOMに守っていただいています
昔の記憶
函館の想い出④
楽しいことばかりだった函館にも、
忘れられない嫌な想い出があります。
泥棒に入られたことです。
1988年8月、
私は一週間の夏休みを、
濱本淳二先生からいただきました。
家内の両親が住んでいた、
大阪府吹田市(すいた)に行きました。
■ ■
当時は関西国際空港はなく
(1994年9月4日開港です)、
大阪国際空港(伊丹空港)が関西の空港でした。
家内の両親は、
伊丹空港まで出迎えてくれ、
『よう来たなぁ!』と
大歓迎してくれました。
義父は国鉄を定年退職し、
大鉄工業というJR西日本の軌道工事をする、
大阪支店大阪営業所長をしていました。
会社近くのマンションに住んでいました。
■ ■
大阪は暑いなぁ~~
と言いながら、
エアコンをつけて寝ていました。
(北海道ではエアコンをつけて寝るのは
一般的ではありません)
深夜0時過ぎでした…
函館から電話がありました。
『こんばんは、函館の…』
お隣のゆりちゃんのお母さんからでした。
■ ■
『夜遅くにごめんなさい』
『中央病院の看護婦さんに聞いてお電話しました』
今のように携帯電話はありません。
私たちが持っていたのはポケットベル。
それも北海道内だけがエリアでした。
ゆりちゃんのお母さんは、
看護婦さんでした。
大阪の家内の実家に行くことは、
話していたようですが、
連絡先までは知らせていませんでした。
とっさに‘病院の詰所だったらわかる…かも?’
と聞いてくださったのでした。
■ ■
『今、本間さんの家に泥棒が入っているみたいです。』
『110番して、主人が見に行っています。』
『石を踏む音がして…』
『お留守な筈なのに、電気が点いたんです。』
どろぼう?
眠気は一気に吹っ飛び、
私たちは大パニックになりました。
さぁ大変。
貴重品は?
何がどこにある??
通帳と印鑑は???
■ ■
110番で警察が来てくださり、
犯人は玄関から逃走した後でした。
警察に連絡をすると、
被害届けを出さなければいけないとのことでした。
深夜の大阪で、
眠れぬ一夜を明かしました。
当時はネットもないので、
PCで飛行機の予約状況もわかりません。
唯一できたのが、
プッシュホンによるダイアル予約でしたが、
それも夜間は運用停止でした。
■ ■
眠れぬ夜を明かして…
私だけ函館へ戻ることになりました。
朝一番で全日空予約センターに電話しました。
残念なことに、
飛行機は満席。
大阪→東京も
東京→函館も満席です。
すぐに伊丹空港へ向かって、
空席待ちの券をいただきました。
運良く…
最後の一人で東京行きに乗れ、
羽田でまた空席待ちでした。
■ ■
羽田でも運良く空席ができ、
函館行きに乗れました。
お昼過ぎには函館に到着し、
五稜郭のアパートに行ってみると…
わが家には、無残に足跡が残っていました。
犯人は複数犯でした。
指紋を採取していただき、
私の指紋も取られました。
盗まれたのは現金でした。
■ ■
被害届けは…
一万円札が何枚、
五千円札が何枚、
千円札が何枚、
500円が何枚、
百円が何枚、
50円が何枚、
10円が何枚、
と全部記入しなくてはいけません。
こんなこと?
私にはわかりませんでした。
■ ■
家内に電話しながら、
被害届けを書きました。
現金の被害も大変でしたが、
貴重な私の夏休みの一日と
大阪⇔函館の航空券代が痛かったです。
結局、泥棒は捕まりませんでした。
警察の話では、
複数の少年による犯行とのことでした。
被害届けを出した後で、
私は大阪へ向いました。
よい人ばかりの函館にも…
残念なことに泥棒がいました。
この泥棒の‘おかげ’で、
本間家の防犯意識が変わりました。
私の家はこの道沿いでした
昔の記憶
函館の想い出③
小児科の大先輩の先生から…
なるべく子どもさんと遊んであげてください
と助言をいただいたことがありました。
長女が原因不明の高熱と、
肝機能異常で、
天使病院に入院した後で、
小児科部長だった、
南部春生(なんぶはるお)先生に
お礼に伺った時でした。
■ ■
長女の病名は伝染性単核球症でした。
かかりつけの小児科で点滴をしても治らず…
血液検査で異常が見つかったので…
大きな病院に入院して治療…
と言われて…
家内はパニックになって電話をしてきました。
ちょうど長女が一歳頃で、
私が形成外科メモリアル病院に
勤務していた時でした。
■ ■
これには面食らいました。
肝機能の数値も3桁になっていて、
どうしたの…?
とにかく天使病院だったら安心だから…
程度しか私にも言えませんでした。
一歳頃は、
母体からの免疫が薄れてきて…
いろいろな病気で熱を出します。
伝染性単核球症は、
わかってしまえば怖くない病気です。
■ ■
当時の天使病院は、
子どもでも親の付き添いは無しでした。
結局、一週間の入院で無事に治りましたが…
診断がつくまでは心配でした。
考えなくてもよいような、
最悪の病名まで頭に浮かびました。
なるべく子どもさんと遊んであげてください
という南部先生のお言葉は、
当時はよくわかりませんでした。
■ ■
54歳という年齢になるとよくわかります。
仔犬と同じで、
子どもは小さいうちが一番可愛いのです。
大きくなったら…
どんなに遊ぼうと言っても…
勝手に自分たちでどこかへ行ってしまい…
親とは遊ばなくなります。
そのうち、家にはいなくなります。
自分たちもかつてそうだったことに…
自分が親になって気付きました。
■ ■
私の父親は、
私が子どもの頃に、
よく手稲の裏山へ連れて行ってくれました。
そこからは…
石狩湾や遠くに増毛(ましけ)の山が、
とてもキレイに見えました。
だから…?
私は今でも山や高いところが好きです。
■ ■
函館にいた時は、
近くの公園や…
海など…
できるだけ子どもと出かけました。
長男はまだ3歳だったので、
覚えていないようです。
私にとっては、
いいお父さんだった…
なつかしい時代です。
1988年8月14日
函館港の船です
昔の記憶
函館の想い出②
私が北大病院の研修医だった頃も…
30年後の今も…
大学病院の研修医には…
住宅手当がありません。
研修医用の‘職員住宅’がある、
大学附属病院も、
防衛医大や自治医大など、
特殊な大学だけだと思います。
■ ■
大学病院からいただく、
‘お給料’だけでは生活できないため、
(私の頃で、年収200万円以下です)
当直などのアルバイトで…
生活費を稼いでいました。
研修医になりたての頃に乗っていたのは、
ドアが開かないサニーでした。
結婚した時には、
父親から結婚祝いに、
父親が乗っていたカローラをもらいました。
それでも十分に幸せでした。
■ ■
大学病院から、
地方病院へ‘出張’へ行くと…
格段に待遇が違いました。
住宅は病院が準備してくれました。
病院の総務課の方が、
準備してくださるのが一般的でした。
お給料は病院によって違いましたが…
当時の函館中央病院は…
形成外科の関連病院の中では最高でした。
ず~っと、函館にいたいと思いました。
■ ■
私は釧路労災病院から、
函館中央病院へ転勤したので、
釧路で函館から送っていただいた…
何軒かの物件から、
五稜郭町のアパートを選びました。
子どもの幼稚園に近いとか…
近くに子どもが遊ぶ公園があるか…?
子どもを中心に選びました。
五稜郭の家は、
とにかく最高の立地でした。
前が五稜郭公園です。
■ ■
近所にも同じくらいの子どもさんがいました。
家のすぐ裏の‘ゆりちゃん’
近くの社宅に住んでいた‘まきちゃん’
家内は幼稚園を通じて、
たくさんのお母さんと友だちになれました。
私も…
家で…
子どもたちと夕食を一緒に食べることができた、
数少ない時期でした。
■ ■
函館は食べ物が美味しく、
住んでいる方もとてもよい人が多く、
温泉は近くにたくさんあり、
冬の雪は少なく、
空港は近くにあり、
北海道で最も早く開けた街なので、
歴史があり、
教育レベルは高く、
ほんとうに永住したいと思ったものです。
今でも…
老後は函館?と考えます。
函館の五稜郭公園
後方左端の家に住んでいました
昔の記憶
函館の想い出①
函館中央病院には…
たくさんの想い出があります。
昭和63年4月から平成元年3月までの
一年間は、
濱本淳二先生
鳴海栄治先生
と3人で勤務しました。
他の病院が2人体制だったのに、
3人で比較的余裕がありました。
私が2番目で、
濱本先生は北大形成外科の元助教授。
大ベテランの先生の下で、
充実した毎日でした。
■ ■
前任地の釧路労災病院では、
2人体制で…
労災病院という立場上…
救急患者が多く、
とても忙しい病院でした。
私が函館へ赴任した時は33歳でした。
子どもは…
長女が4歳6ヵ月。
長男が2歳6ヵ月でした。
■ ■
長女は幼稚園を3回変わったため…?
とにかく…
駄々っ子で…
家内をいつも困らせていました。
よくスーパーへ行くと…
スーパーの床を転げまわって…
駄々をこねている子どもがいます。
長女は、まさにこれでした。
私は怖い『おやじ』だったので…
私と一緒の時は…
床を転げまわることはしませんでしたが…
家内と一緒の時は…
駄々っ子を発揮していたようです。
■ ■
函館中央病院へは…
五稜郭から歩いて通勤していました。
近くにあった、
函館五稜郭病院の横を通って、
丸井今井デパートの横を通って、
毎日、通勤していました。
先日、函館を訪れた時は…
観光バスや乗用車で道が溢れていました。
家内と思わず…
すごいところに住んでいたんだねぇ~
と話していました。
■ ■
札幌へ転勤してからは忙しくなりましたが、
函館の一年間は、
子どもと五稜郭公園に行ったり…
家内の実家に夏休み行ったり…
濱本先生のお許しを得て、
カナダの国際学会へ行かせていただいたり…
人生の中でも…
一番、ゆっくりできた時期だったように思います。
■ ■
家でも…
子どもと一緒にお風呂に入ったり、
なるべく子どもと遊んでいました。
長女の幼稚園のクリスマス会にも行けました。
函館には温泉がたくさんあり、
よく温泉家族風呂へ行きました。
この頃は…
将来、自分が開業して…
美容外科医になるとは…
夢にも思っていませんでした。
平凡な勤務医がいいと思っていた、
幸せな時代でした。
1988年9月20日
長女の5歳の誕生日です
院長の休日
函館に行ってきました♪
GWの休みを利用して、
函館に行ってきました。
函館は想い出の街です。
高校時代の友人が、
大学を卒業後に知内(しりうち)町に勤務しました。
その友人を訪ねて知内に行きました。
函館の五稜郭で釜飯を食べた時に…
近くに大きな病院がありました。
こんなところに大きな病院があるねぇ~
とその友人と話したのが、
後に自分が勤務して…
長女が生まれた函館中央病院でした。
■ ■
函館中央病院には2回勤務しました。
①1982年(昭和57年)12月~1984年(昭和59年)3月まで、
1年4ヵ月間。
②1988年(昭和63年)4月~1989年(平成元年)3月まで、
一年間。
最初の勤務は、
麻酔科研修を終わった、
28歳から30歳まで。
二回目の勤務は、
形成外科認定医を取得した、
33歳から34歳まででした。
■ ■
当時の函館中央病院は、
道南では唯一の形成外科がある病院でした。
患者さんは
北は長万部(おしゃまんべ)や瀬棚(せたな)。
南は青函連絡船やフェリーを使って…
青森県からもいらしてくださいました。
私は形成外科医としての…
青春時代を、
函館中央病院で過ごしました。
■ ■
当時、函館中央病院で治療した子どもさんは…
今は立派に成人されています。
看護師さんになられて…
地域医療に貢献していらっしゃる方も
何人かいらっしゃいます。
今でも…
たまにお便りをいただくこともあります。
とても嬉しいことです。
■ ■
函館では病院が用意してくれた住宅に住みました。
最初の時が、
富岡町のキャッスル富岡という3DKのマンション。
二回目は、
五稜郭町の、
3階建のアパートの一階でした。
五稜郭のアパートは、
お堀のすぐ前にありました。
家の窓から五稜郭のお堀と…
桜がよく見えました。
■ ■
長女は、
私が釧路→函館→札幌と転勤したので、
幼稚園を3回変わりました。
長女が通ったのが、
函館のちとせ幼稚園でした。
キリスト教系の幼稚園で、
とてもよい幼稚園でした。
この幼稚園にも行ってみました。
昔のままの幼稚園がありました。
よく『幼稚園に行かない…』と
長女が泣いていたと家内が言っていました。
■ ■
私は函館の街が大好きでした。
土地を買って…
家を建てて…
ずっと永住したいと…
本気で思っていたことがありました。
家内は20年ぶりで訪れた函館でした。
子どもが小さかった頃を想い出して…
喧嘩もせずに帰ってきました。
定年後は…
こうして想い出の地を回りたいと思いました。
函館の五稜郭公園
住んでいた家の前のお堀です
院長の休日
札幌駅前通りのチューリップ
さくらんぼさんから、
お母様のご指導で…
業務日誌をつけていると伺いました。
私は先輩である実母に
作業日記を書くように 教わりました。
6年前まで母が 書いていましたが、
5年前から 3年日記を買い
私が書いています。
天気や どんな作業をしたか、
他に山形の桜満開とか ・・
去年の今日は何をしていたかよくわかります。
■ ■
私の院長日記を読んでみると…
去年のチューリップはいつ開花したかなぁ~?
というような…
くだらないこともわかります。
昨年は
4月23日に白いチューリップが写っていました。
桜の開花も早かったようです。
一年前には…
まさか100年に一度の経済危機が訪れるとは…
トヨタが赤字に転落するとは…
夢にも思っていなかったことと思います。
■ ■
経済危機になっても…
ありがたいことに…
チューリップは開花してくれるし…
桜もキレイでした。
元気で働けるということに、
感謝しながら…
毎日、がんばって働いています。
札幌駅前通りの地下工事も、
来年には完成の予定です。
■ ■
下の写真は…
昨日の朝に撮影したものです。
昨年のチューリップは白でしたが…
今年は同じ場所の花が
赤と黄色になっていました。
歩道も…
工事中で…
まだ歩きにくい状態です。
来年のチューリップの頃には、
経済危機も回復していて、
平和で安心できる生活になって…
ほしいと願っています。
2009年5月8日
雪印パーラー
2008年4月23日
医学講座
先輩からの教え
どんなに偏差値の高い医学部に入っても、
名医になれるという保証はありません。
外科医は…
自分の目で先輩の手術を見て、
技(わざ)を盗めと教えられました。
名医の手術をいくら見ても…
見るだけでは上手になれません。
自転車に乗る…
車の運転を覚える…
すべて同じです。
■ ■
昨日のTVで、
年間300例以上の心臓手術をする、
名医と、
それを覚える若い先生が、
放送されていました。
大学医学部で
機械を使ったシュミレーションも、
放送されていました。
医学部長が得意そうに…
説明をしていました。
■ ■
フライトシュミレータだけで、
ベテランパイロットができるなら…
航空会社も苦労はしません。
自動車運転のシュミレーターだけで、
F1のドライバーにはなれません。
車の運転も…
飛行機の操縦も…
外科手術も…
すべて先輩からの教えが役に立ちます。
■ ■
困難にぶつかった時に、
先輩はどう対処したか?
困った時に…
どうやって切り抜けたか?
自分一人で手術をしていて、
ほんとうに困った時に…
助けに来てくれる先輩がいるか…?
ここが運命の分かれ道です。
手術は独学では上手になれません。
■ ■
大学病院の偉い先生が、
世の中で一番手術が上手か?
というと…
必ずしもYESではありません。
大学の先生にとって一番大切なのは…
1、研究、
2、教育、
3番目くらいが臨床(手術など)、
というところでしょうか?
大学院に重点が置かれるようになって、
研究をしない教員は肩身が狭くなっています。
■ ■
私は、
よい先輩に恵まれました。
ほんとうに感謝しています。
大浦武彦先生が築かれた、
北大形成外科という医局で、
たくさんのことを教えていただきました。
私が卒業した当時は、
北海道に北大形成外科と
その関連病院しか
形成外科がありませんでした。
■ ■
卒後6年目で、
形成外科専門医を取得すると、
すぐに地方病院の医長になりました。
そこで…
北大から出張にいらしていただいた先生に、
手術を教えていただきました。
下の先生と苦労してした手術も…
たくさんありました。
■ ■
最初から手術ができたのではありません。
先輩からたくさん教えていただいて、
手を加えていただき、
時には、
手を代わっていただき、
【手術を交代することを手を代わるといいます】
少しずつ上達しました。
先輩を頼りにしなくても、
一人でできるようになったのは…
40歳を過ぎてからでしょうか?
■ ■
患者さんから、
ご指摘を受けて、
改善することもあります。
常に改善【カイゼン】を考え、
注意深く、
耳を傾けることが大切です。
ほんとうに役に立つ、
大切なことは、
教科書にも書いていないし…
学会でも発表されません。
先輩から口伝えに教えていただいたことです。