昔の記憶

函館の想い出⑦

 函館にはお鮨以外にも…
 美味しいお店がたくさんありました。
 先生、美味しいカレーがある
 と教えていただいたのが…
 小いけのカレーでした。
 函館山のふもと近くの
 宝来町(ほうらいちょう)というところにありました。
      ■         ■
 最初に赴任した、
 昭和57年(1982年)には、
 創業者である故小池義次郎様がお元気でした。
 お店奥の厨房で、
 寡黙に料理を作られていたのが印象的でした。
 評判通りに美味しいカレーでした。
 私は北大生協のカレーや
 ハウスのカレーでも、
 十分に美味しいと思いますが、
 ここのカレーは格別でした。
      ■         ■
 「洋食の小いけ」として有名でした。
 カレー以外のカツレツも
 美味しかった記憶があります。
 お店はどちらかというと地味で、
 場所も電車通りから少し入った…
 目立たない場所にありました。
 今は、
 二代目のご子息が継承されているようです。
      ■         ■
 ネットで検索すると…
 印度カレー小いけがありました。
 もう一つ…
 元祖インドカレー小いけというお店もあるようです。
 こちらの元祖小いけは、
 創業者の使用人が受け継ぎ、
 「小いけ本店」は
 創業者のご子息がその後、
 近くに起業したらしい
 とネットに記載がありました。
 味は元祖小いけの方が…
 元の小いけの味らしい…?です。
 伝統の味を継承するのは、
 なかなか難しいものがあります。
      ■         ■
 その他にも…
 函館にはたくさんの美味しいお店があります。
 今は、もっと…
 おいしいお店が増えていることと思います。
 私が住んでいた頃は、
 函館ドックも…
 北洋漁業も…
 まだまだ盛んな時代でした。
 私の大好きな街、
 函館が…
 もっともっと…
 元気になってほしいと願っています。

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昔の記憶

函館の想い出⑥

 函館の想い出で忘れられないのは、
 何と言っても…
 美味しいお鮨です。
 今は函館にも回転寿司がありますが、
 私が住んでいた20年前には、
 まだ、あまりありませんでした。
 函館には、
 たくさんの有名なおすし屋さんがあります。
 ただ、小さな子ども連れで…
 気軽に行けるところは…
 なかなか見つけるのは大変でした。
      ■         ■
 私は湯の川にあった、
 鮨長(すしちょう)さんという…
 小さなおすし屋さんへ行っていました。
 最初に函館へ行った…
 昭和58年(1983年)に、
 マツダ自動車のショールームへ行って、
 そこのセールスさんに紹介していただきました。
 マツダの車は買いませんでしたが…
 紹介していただいたおすし屋さんには、
 長い間お世話になりました。
      ■         ■
 湯の川にホテル新松という旅館があり、
 そこの斜向かいの床屋さんの隣が、
 鮨長さんでした。
 中村さんというご主人が、
 奥さんとお二人で
 おすし屋さんをなさっていらっしゃいました。
 お嬢さんがお二人いらしゃいました。
 ちょうど子どもが生まれて、
 子育てに苦労していた私たちには、
 よき人生の先輩でもありました。
      ■         ■
 ご主人が握ってくださる
 お鮨も最高でしたが、
 奥様が作ってくださったお吸い物が…
 これまた最高でした。
 お給料が出た後とか…
 実家から親が来た時とか…
 お客さんがいらした時とか…
 回数は多くはありませんでしたが、
 よく利用させていただきました。
      ■         ■
 私も家内もお鮨が大好きで、
 家内はお鮨が食べたいから…
 北海道へお嫁に来た!
 というほどです。
 結婚する前も…
 フレンチや
 イタリアンの
 レストランなんて…
 行ったことはありませんでした。
 札幌ではお鮨かラーメン。
 大阪では、
 うどんかお好み焼きでした。
      ■         ■
 函館の鮨長さんに…
 もう一度行きたいと思っていたのですが、
 残念なことに…
 おすし屋さんがあった場所は、
 道路の拡張工事でなくなっており…
 検索してもわかりませんでした。
 美味しいお鮨の想い出といっしょに…
 ご夫婦で仲良く…
 鮨店を切り盛りされていた、
 中村さんの笑顔が忘れられません。

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昔の記憶

函館の想い出⑤

 泥棒に入られた後も、
 函館の人たちは親切でした。
 警察では、
 防犯について教えていただきました。
 当時…
 私のように泥棒に入られる家が…
 連続してありました。
 札幌へ帰ってきてから…
 少年の窃盗団が捕まったと報道されました。
 指紋が一致しなかったのか?
 私には泥棒が捕まったという知らせは、
 ありませんでした。
      ■         ■
 警察の話しでは…
 少年犯罪の検挙はなかなか難しく…
 現行犯でなければ、
 逮捕するのは困難だと話されていました。
 靴の足跡や、
 手口から、
 少年らの犯行と推測されたようです。
 平松様からいただいたコメントのように、
 少年犯罪には難しいものがあります。
      ■         ■
 警察で教えていただいた教訓です。
 ①泥棒が入りやすい家がある。
 ②泥棒に‘留守’を教えている家がある。
 ③泥棒が入りにくい家にする方法がある。
 でした。
 たけさんからいただいたコメントのように…
 奥さんは病院で仕事している間怖かった…
 らずべりーさんからいただいたコメントのように…
 道路沿いなのもあったのでしょうか…
 泥棒さんの嗅覚なんでしょうか…
 平松さんからいただいたコメントのように…
 道路沿いの角地…
 警察から気をつけるように言われた…
      ■         ■
 私が住んでいた家は、
 これらがすべて該当(がいとう)していました。
 中央病院の先生の家
 と書かれていたのではありません。
 他と違っていたところでは…
 札幌ナンバーのマークⅡがとまっていた。
 でも、私の家の2階は、
 南茅部からいらした社長さんの、
 立派な白いクラウンでした。
 函館ナンバーの白いクラウンでした。
 問題は一階でした…
      ■         ■
 家内は用心深い人で、
 ちょっと外出するにも…
 必ず鍵をかけていました。
 夜は電気を消して…
 外出時にも、
 電気を消していました。
 つまり車が無くて…
 電気が消えていれば…
 留守を泥棒に知らせているようなものでした。
      ■         ■
 一番の問題点は、
 泥棒が入りやすい侵入口があったことでした。
 隣家との間は…
 狭い通路で…
 人がいても道路や家から見えない位置でした。
 そこに、トイレの窓がありました。
 そういう侵入口があり、
 入りやすい家を、
 泥棒は‘仕事’がない昼間に…
 普通の格好をして、
 下見をしているのだそうです。
      ■         ■
 泥棒は…
 留守になった私の家を狙って…
 深夜にやってきました。
 家の前は五稜郭公園のお堀です。
 誰にも見られません。
 お隣の家からも、
 トイレの窓から侵入するところは見えません。
 誰もいない家に入って、
 堂々と?現金だけを狙ったのでした。
 見つかっても…
 五稜郭公園に逃げる方法がありました。
      ■         ■
 家内は、
 泥棒に入られた家で…
 私が当直の夜などに、
 もし、また泥棒が来たら…?
 と思うと安心して眠れないと言いました。
 私は湯の川にあった、
 セキュリティハウスという、
 防犯の専門店へ行きました。
 店主の村山様が、
 親切に防犯について教えてくださいました。
      ■         ■
 外出する際に…
 電気を全部消さず、
 何かテレビかラジオの音がするだけでも違うと…
 教えていただきました。
 泥棒が…
 入りにくい家は、
 居るのか…?
 居ないのか…?
 わかりにくい家だそうです。
      ■         ■
 借家だったので、
 防犯装置はつけられませんでしたが、
 大家さんが、
 トイレの窓に柵をつけてくださいました。
 いろいろな防犯装置があることを、
 その時に勉強しました。
 函館で泥棒に入られたおかげで…
 防犯に対する認識ができました。
 札幌美容形成外科には…
 SECOMの監視カメラもついています。
 セキュリティにお金をかける大切さを、
 函館で知りました。


SECOMに守っていただいています

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昔の記憶

函館の想い出④

 楽しいことばかりだった函館にも、
 忘れられない嫌な想い出があります。
 泥棒に入られたことです。
 1988年8月、
 私は一週間の夏休みを、
 濱本淳二先生からいただきました。
 家内の両親が住んでいた、
 大阪府吹田市(すいた)に行きました。
      ■         ■
 当時は関西国際空港はなく
 (1994年9月4日開港です)、
 大阪国際空港(伊丹空港)が関西の空港でした。
 家内の両親は、
 伊丹空港まで出迎えてくれ、
 『よう来たなぁ!』と
 大歓迎してくれました。
 義父は国鉄を定年退職し、
 大鉄工業というJR西日本の軌道工事をする、
 大阪支店大阪営業所長をしていました。
 会社近くのマンションに住んでいました。
      ■         ■
 大阪は暑いなぁ~~
 と言いながら、
 エアコンをつけて寝ていました。
 (北海道ではエアコンをつけて寝るのは
 一般的ではありません)
 深夜0時過ぎでした…
 函館から電話がありました。
 『こんばんは、函館の…』
 お隣のゆりちゃんのお母さんからでした。
      ■         ■
 『夜遅くにごめんなさい』
 『中央病院の看護婦さんに聞いてお電話しました』
 今のように携帯電話はありません。
 私たちが持っていたのはポケットベル。
 それも北海道内だけがエリアでした。
 ゆりちゃんのお母さんは、
 看護婦さんでした。
 大阪の家内の実家に行くことは、
 話していたようですが、
 連絡先までは知らせていませんでした。
 とっさに‘病院の詰所だったらわかる…かも?’
 と聞いてくださったのでした。
      ■         ■
 『今、本間さんの家に泥棒が入っているみたいです。』
 『110番して、主人が見に行っています。』
 『石を踏む音がして…』
 『お留守な筈なのに、電気が点いたんです。』
 どろぼう?
 眠気は一気に吹っ飛び、
 私たちは大パニックになりました。
 さぁ大変。
 貴重品は?
 何がどこにある??
 通帳と印鑑は???
      ■         ■
 110番で警察が来てくださり、
 犯人は玄関から逃走した後でした。
 警察に連絡をすると、
 被害届けを出さなければいけないとのことでした。
 深夜の大阪で、
 眠れぬ一夜を明かしました。
 当時はネットもないので、
 PCで飛行機の予約状況もわかりません。
 唯一できたのが、
 プッシュホンによるダイアル予約でしたが、
 それも夜間は運用停止でした。
      ■         ■
 眠れぬ夜を明かして…
 私だけ函館へ戻ることになりました。
 朝一番で全日空予約センターに電話しました。
 残念なことに、
 飛行機は満席。
 大阪→東京も
 東京→函館も満席です。
 すぐに伊丹空港へ向かって、
 空席待ちの券をいただきました。
 運良く…
 最後の一人で東京行きに乗れ、
 羽田でまた空席待ちでした。
      ■         ■
 羽田でも運良く空席ができ、
 函館行きに乗れました。
 お昼過ぎには函館に到着し、
 五稜郭のアパートに行ってみると…
 わが家には、無残に足跡が残っていました。
 犯人は複数犯でした。
 指紋を採取していただき、
 私の指紋も取られました。
 盗まれたのは現金でした。
      ■         ■
 被害届けは…
 一万円札が何枚、
 五千円札が何枚、
 千円札が何枚、
 500円が何枚、
 百円が何枚、
 50円が何枚、
 10円が何枚、
 と全部記入しなくてはいけません。
 こんなこと?
 私にはわかりませんでした。
      ■         ■
 家内に電話しながら、
 被害届けを書きました。
 現金の被害も大変でしたが、
 貴重な私の夏休みの一日と
 大阪⇔函館の航空券代が痛かったです。
 結局、泥棒は捕まりませんでした。
 警察の話では、
 複数の少年による犯行とのことでした。
 被害届けを出した後で、
 私は大阪へ向いました。
 よい人ばかりの函館にも…
 残念なことに泥棒がいました。
 この泥棒の‘おかげ’で、
 本間家の防犯意識が変わりました。


私の家はこの道沿いでした

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昔の記憶

函館の想い出③

 小児科の大先輩の先生から…
 なるべく子どもさんと遊んであげてください
 と助言をいただいたことがありました。
 長女が原因不明の高熱と、
 肝機能異常で、
 天使病院に入院した後で、
 小児科部長だった、
 南部春生(なんぶはるお)先生に
 お礼に伺った時でした。
      ■         ■
 長女の病名は伝染性単核球症でした。
 かかりつけの小児科で点滴をしても治らず…
 血液検査で異常が見つかったので…
 大きな病院に入院して治療…
 と言われて…
 家内はパニックになって電話をしてきました。
 ちょうど長女が一歳頃で、
 私が形成外科メモリアル病院に
 勤務していた時でした。
      ■         ■
 これには面食らいました。
 肝機能の数値も3桁になっていて、
 どうしたの…?
 とにかく天使病院だったら安心だから…
 程度しか私にも言えませんでした。
 一歳頃は、
 母体からの免疫が薄れてきて…
 いろいろな病気で熱を出します。
 伝染性単核球症は、
 わかってしまえば怖くない病気です。
      ■         ■
 当時の天使病院は、
 子どもでも親の付き添いは無しでした。
 結局、一週間の入院で無事に治りましたが…
 診断がつくまでは心配でした。
 考えなくてもよいような、
 最悪の病名まで頭に浮かびました。
 なるべく子どもさんと遊んであげてください
 という南部先生のお言葉は、
 当時はよくわかりませんでした。
      ■         ■
 54歳という年齢になるとよくわかります。
 仔犬と同じで、
 子どもは小さいうちが一番可愛いのです。
 大きくなったら…
 どんなに遊ぼうと言っても…
 勝手に自分たちでどこかへ行ってしまい…
 親とは遊ばなくなります。
 そのうち、家にはいなくなります。
 自分たちもかつてそうだったことに…
 自分が親になって気付きました。
      ■         ■
 私の父親は、
 私が子どもの頃に、
 よく手稲の裏山へ連れて行ってくれました。
 そこからは…
 石狩湾や遠くに増毛(ましけ)の山が、
 とてもキレイに見えました。
 だから…?
 私は今でも山や高いところが好きです。
      ■         ■
 函館にいた時は、
 近くの公園や…
 海など…
 できるだけ子どもと出かけました。
 長男はまだ3歳だったので、
 覚えていないようです。
 私にとっては、
 いいお父さんだった…
 なつかしい時代です。


1988年8月14日
函館港の船です

 

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昔の記憶

函館の想い出②

 私が北大病院の研修医だった頃も…
 30年後の今も…
 大学病院の研修医には…
 住宅手当がありません。
 研修医用の‘職員住宅’がある、
 大学附属病院も、
 防衛医大や自治医大など、
 特殊な大学だけだと思います。
      ■         ■
 大学病院からいただく、
 ‘お給料’だけでは生活できないため、
 (私の頃で、年収200万円以下です)
 当直などのアルバイトで…
 生活費を稼いでいました。
 研修医になりたての頃に乗っていたのは、
 ドアが開かないサニーでした。
 結婚した時には、
 父親から結婚祝いに、
 父親が乗っていたカローラをもらいました。
 それでも十分に幸せでした。
      ■         ■
 大学病院から、
 地方病院へ‘出張’へ行くと…
 格段に待遇が違いました。
 住宅は病院が準備してくれました。
 病院の総務課の方が、
 準備してくださるのが一般的でした。
 お給料は病院によって違いましたが…
 当時の函館中央病院は…
 形成外科の関連病院の中では最高でした。
 ず~っと、函館にいたいと思いました。
      ■         ■
 私は釧路労災病院から、
 函館中央病院へ転勤したので、
 釧路で函館から送っていただいた…
 何軒かの物件から、
 五稜郭町のアパートを選びました。
 子どもの幼稚園に近いとか…
 近くに子どもが遊ぶ公園があるか…?
 子どもを中心に選びました。
 五稜郭の家は、
 とにかく最高の立地でした。
 前が五稜郭公園です。
      ■         ■
 近所にも同じくらいの子どもさんがいました。
 家のすぐ裏の‘ゆりちゃん’
 近くの社宅に住んでいた‘まきちゃん’
 家内は幼稚園を通じて、
 たくさんのお母さんと友だちになれました。
 私も…
 家で…
 子どもたちと夕食を一緒に食べることができた、
 数少ない時期でした。
      ■         ■
 函館は食べ物が美味しく、
 住んでいる方もとてもよい人が多く、
 温泉は近くにたくさんあり、
 冬の雪は少なく、
 空港は近くにあり、
 北海道で最も早く開けた街なので、
 歴史があり、
 教育レベルは高く、
 ほんとうに永住したいと思ったものです。
 今でも…
 老後は函館?と考えます。


函館の五稜郭公園
後方左端の家に住んでいました

 

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昔の記憶

函館の想い出①

 函館中央病院には…
 たくさんの想い出があります。
 昭和63年4月から平成元年3月までの
 一年間は、
 濱本淳二先生
 鳴海栄治先生
 と3人で勤務しました。
 他の病院が2人体制だったのに、
 3人で比較的余裕がありました。
 私が2番目で、
 濱本先生は北大形成外科の元助教授。
 大ベテランの先生の下で、
 充実した毎日でした。
      ■         ■
 前任地の釧路労災病院では、
 2人体制で…
 労災病院という立場上…
 救急患者が多く、
 とても忙しい病院でした。
 私が函館へ赴任した時は33歳でした。
 子どもは…
 長女が4歳6ヵ月。
 長男が2歳6ヵ月でした。
      ■         ■
 長女は幼稚園を3回変わったため…?
 とにかく…
 駄々っ子で…
 家内をいつも困らせていました。
 よくスーパーへ行くと…
 スーパーの床を転げまわって…
 駄々をこねている子どもがいます。
 長女は、まさにこれでした。
 私は怖い『おやじ』だったので…
 私と一緒の時は…
 床を転げまわることはしませんでしたが…
 家内と一緒の時は…
 駄々っ子を発揮していたようです。
      ■         ■
 函館中央病院へは…
 五稜郭から歩いて通勤していました。
 近くにあった、
 函館五稜郭病院の横を通って、
 丸井今井デパートの横を通って、
 毎日、通勤していました。
 先日、函館を訪れた時は…
 観光バスや乗用車で道が溢れていました。
 家内と思わず…
 すごいところに住んでいたんだねぇ~
 と話していました。
      ■         ■
 札幌へ転勤してからは忙しくなりましたが、
 函館の一年間は、
 子どもと五稜郭公園に行ったり…
 家内の実家に夏休み行ったり…
 濱本先生のお許しを得て、
 カナダの国際学会へ行かせていただいたり…
 人生の中でも…
 一番、ゆっくりできた時期だったように思います。
      ■         ■
 家でも…
 子どもと一緒にお風呂に入ったり、
 なるべく子どもと遊んでいました。
 長女の幼稚園のクリスマス会にも行けました。
 函館には温泉がたくさんあり、
 よく温泉家族風呂へ行きました。
 この頃は…
 将来、自分が開業して…
 美容外科医になるとは…
 夢にも思っていませんでした。
 平凡な勤務医がいいと思っていた、
 幸せな時代でした。


1988年9月20日
長女の5歳の誕生日です

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院長の休日

函館に行ってきました♪

 GWの休みを利用して、
 函館に行ってきました。
 函館は想い出の街です。
 高校時代の友人が、
 大学を卒業後に知内(しりうち)町に勤務しました。
 その友人を訪ねて知内に行きました。
 函館の五稜郭で釜飯を食べた時に…
 近くに大きな病院がありました。
 こんなところに大きな病院があるねぇ~
 とその友人と話したのが、
 後に自分が勤務して…
 長女が生まれた函館中央病院でした。
      ■         ■
 函館中央病院には2回勤務しました。
 ①1982年(昭和57年)12月~1984年(昭和59年)3月まで、
 1年4ヵ月間。
 ②1988年(昭和63年)4月~1989年(平成元年)3月まで、
 一年間。
 最初の勤務は、
 麻酔科研修を終わった、
 28歳から30歳まで。
 二回目の勤務は、
 形成外科認定医を取得した、
 33歳から34歳まででした。
      ■         ■
 当時の函館中央病院は、
 道南では唯一の形成外科がある病院でした。
 患者さんは
 北は長万部(おしゃまんべ)や瀬棚(せたな)。
 南は青函連絡船やフェリーを使って…
 青森県からもいらしてくださいました。
 私は形成外科医としての…
 青春時代を、
 函館中央病院で過ごしました。
      ■         ■
 当時、函館中央病院で治療した子どもさんは…
 今は立派に成人されています。
 看護師さんになられて…
 地域医療に貢献していらっしゃる方も
 何人かいらっしゃいます。
 今でも…
 たまにお便りをいただくこともあります。
 とても嬉しいことです。
      ■         ■
 函館では病院が用意してくれた住宅に住みました。
 最初の時が、
 富岡町のキャッスル富岡という3DKのマンション。
 二回目は、
 五稜郭町の、
 3階建のアパートの一階でした。
 五稜郭のアパートは、
 お堀のすぐ前にありました。
 家の窓から五稜郭のお堀と…
 桜がよく見えました。
      ■         ■
 長女は、
 私が釧路→函館→札幌と転勤したので、
 幼稚園を3回変わりました。
 長女が通ったのが、
 函館のちとせ幼稚園でした。
 キリスト教系の幼稚園で、
 とてもよい幼稚園でした。
 この幼稚園にも行ってみました。
 昔のままの幼稚園がありました。
 よく『幼稚園に行かない…』と
 長女が泣いていたと家内が言っていました。
      ■         ■
 私は函館の街が大好きでした。
 土地を買って…
 家を建てて…
 ずっと永住したいと…
 本気で思っていたことがありました。
 家内は20年ぶりで訪れた函館でした。
 子どもが小さかった頃を想い出して…
 喧嘩もせずに帰ってきました。
 定年後は…
 こうして想い出の地を回りたいと思いました。


函館の五稜郭公園
住んでいた家の前のお堀です

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院長の休日

札幌駅前通りのチューリップ

 さくらんぼさんから、
 お母様のご指導で…
 業務日誌をつけていると伺いました。
 私は先輩である実母に
 作業日記を書くように 教わりました。
 6年前まで母が 書いていましたが、
 5年前から 3年日記を買い
 私が書いています。
 天気や どんな作業をしたか、
 他に山形の桜満開とか ・・
 去年の今日は何をしていたかよくわかります。
      ■         ■
 私の院長日記を読んでみると…
 去年のチューリップはいつ開花したかなぁ~?
 というような…
 くだらないこともわかります。
 昨年は
 4月23日に白いチューリップが写っていました。
 桜の開花も早かったようです。
 一年前には…
 まさか100年に一度の経済危機が訪れるとは…
 トヨタが赤字に転落するとは…
 夢にも思っていなかったことと思います。
      ■         ■
 経済危機になっても…
 ありがたいことに…
 チューリップは開花してくれるし…
 桜もキレイでした。
 元気で働けるということに、
 感謝しながら…
 毎日、がんばって働いています。
 札幌駅前通りの地下工事も、
 来年には完成の予定です。
      ■         ■
 下の写真は…
 昨日の朝に撮影したものです。
 昨年のチューリップは白でしたが…
 今年は同じ場所の花が
 赤と黄色になっていました。
 歩道も…
 工事中で…
 まだ歩きにくい状態です。
 来年のチューリップの頃には、
 経済危機も回復していて、
 平和で安心できる生活になって…
 ほしいと願っています。


2009年5月8日


雪印パーラー


2008年4月23日

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医学講座

先輩からの教え

 どんなに偏差値の高い医学部に入っても、
 名医になれるという保証はありません。
 外科医は…
 自分の目で先輩の手術を見て、
 技(わざ)を盗めと教えられました。
 名医の手術をいくら見ても…
 見るだけでは上手になれません。
 自転車に乗る…
 車の運転を覚える…
 すべて同じです。
      ■         ■
 昨日のTVで、
 年間300例以上の心臓手術をする、
 名医と、
 それを覚える若い先生が、
 放送されていました。
 大学医学部で
 機械を使ったシュミレーションも、
 放送されていました。
 医学部長が得意そうに…
 説明をしていました。
      ■         ■
 フライトシュミレータだけで、
 ベテランパイロットができるなら…
 航空会社も苦労はしません。
 自動車運転のシュミレーターだけで、
 F1のドライバーにはなれません。
 車の運転も…
 飛行機の操縦も…
 外科手術も…
 すべて先輩からの教えが役に立ちます。
      ■         ■
 困難にぶつかった時に、
 先輩はどう対処したか?
 困った時に…
 どうやって切り抜けたか?
 自分一人で手術をしていて、
 ほんとうに困った時に…
 助けに来てくれる先輩がいるか…?
 ここが運命の分かれ道です。
 手術は独学では上手になれません。
      ■         ■
 大学病院の偉い先生が、
 世の中で一番手術が上手か?
 というと…
 必ずしもYESではありません。
 大学の先生にとって一番大切なのは…
 1、研究、
 2、教育、
 3番目くらいが臨床(手術など)、
 というところでしょうか?
 大学院に重点が置かれるようになって、
 研究をしない教員は肩身が狭くなっています。
      ■         ■
 私は、
 よい先輩に恵まれました。
 ほんとうに感謝しています。
 大浦武彦先生が築かれた、
 北大形成外科という医局で、
 たくさんのことを教えていただきました。
 私が卒業した当時は、
 北海道に北大形成外科と
 その関連病院しか
 形成外科がありませんでした。
      ■         ■
 卒後6年目で、
 形成外科専門医を取得すると、
 すぐに地方病院の医長になりました。
 そこで…
 北大から出張にいらしていただいた先生に、
 手術を教えていただきました。
 下の先生と苦労してした手術も…
 たくさんありました。
      ■         ■
 最初から手術ができたのではありません。
 先輩からたくさん教えていただいて、
 手を加えていただき、
 時には、
 手を代わっていただき、
 【手術を交代することを手を代わるといいます】
 少しずつ上達しました。
 先輩を頼りにしなくても、
 一人でできるようになったのは…
 40歳を過ぎてからでしょうか?
      ■         ■
 患者さんから、
 ご指摘を受けて、
 改善することもあります。
 常に改善【カイゼン】を考え、
 注意深く、
 耳を傾けることが大切です。
 ほんとうに役に立つ、
 大切なことは、
 教科書にも書いていないし…
 学会でも発表されません。
 先輩から口伝えに教えていただいたことです。

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