院長の休日

孫が大きくなりました

 育児休業中の職員が、
 赤ちゃんを連れてきてくれました。
 もう7ヶ月になりました。
 大きくなるのは早いものです。
 昨年の今頃は、
 お母さんのお腹の中でした。
 赤ちゃんは…
 幸せを運んでくれます。
 みんなの顔が笑顔になります。
      ■         ■
 わぁ~かわいいと…
 他の職員も笑顔になります。
 私を見て笑ってくれました
 最近、人見知りをするようになったそうです。
 じいちゃんとわかっているのか…?
 抱っこしても泣きませんでした。
 腕と下肢に湿疹がありましたので、
 クリニックにあった軟膏を処方しました。
 子育ては大変ですが、
 赤ちゃんはかわいいものです。
      ■         ■
 私の年代。
 早い人は…
 じいちゃん
 ばあちゃん
 になっています。
 自分自身のことを想い出してみると…
 結婚してからしばらくは、
 実家には寄り付きませんでした。
 奥さんと喧嘩もせずに…
 道内のいろいろなところへ行っていました。
      ■         ■
 子どもが生まれると…
 たまに実家へ子どもを預けに行きました。
 子どもは、
 じいちゃん
 ばあちゃんに、
 五番館デパートへ連れて行ってもらい、
 遊技場で遊ばせてもらって、
 サクランボがのった、
 パフェを食べさせてもらうのを、
 楽しみにしていました。
      ■         ■
 じいちゃんばあちゃんは、
 実家に寄り付かなくなった息子(私)が
 嫁と孫を連れてきてくれるので…
 それなりに楽しみにしていたようです。
 今から20年も前なので、
 私の親もずっと元気でした。
 親は…
 孫と遊ぶのを、
 楽しみにしていたようです。
      ■         ■
 私は自分の孫と遊ぶのは…
 残念ながら…
 無理なようなので…
 陰ながら…
 職員の子育てを応援したいと思っています。
 それにしても…
 ♡孫はめんこい♡ものです。

なかなか
こっちを向いてくれない光希くん
ご機嫌な光希くん

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昔の記憶

台風の怖さ

 台風18号が日本を襲っています。
 山形のさくらんぼさんが心配です。
 丹精込めたラ・フランスの収穫時期です。
 まだリンゴもあります。
 どうしていらっしゃるか心配しています。
 被害が少ないことを祈念しています。
 テレビでは収穫前に落ちてしまった
 リンゴが写っていました。
      ■         ■
 札幌美容形成外科を開業した、
 2004年に…
 台風18号が札幌を襲いました。
 私は出勤してきましたが、
 駅前通りの街路樹が、
 何本もやられました。
 北大構内のポプラ並木も…
 無残に倒れました。
 道庁の樹木も、
 北大植物園の木も、
 無残に倒れてしまいました。
      ■         ■
 以前にも書いたことがあります
 樹木が倒れるほどの強風の中、
 手術を受けにいらしていただきました。
 旭川の方でした。
 私も職員も、
 手術はキャンセルだろうと思っていました。
 JRのダイヤも乱れていました。
 私は当時、JRで通勤していました。
 私の列車は動きましたが、
 旭川からは無理だろうと思っていました。
      ■         ■
 意外にも…
 予定時間よりも早く、
 その患者さんが来院されました。
 おはようございます。
 大丈夫でしたか?
 はい、心配だったので…
 昨夜から参りました。
 ようやく休みを取って、
 準備万端整えたので、
 どうしても手術を受けたかったそうです。
 私も職員も感動しました。
      ■         ■
 北海道に台風が上陸することはマレです。
 結婚する時に、
 北海道に台風はまず来ない
 と言ってしまいました。
 実際、私の記憶でも…
 台風で学校が休みになったことは、
 数えるほどもありませんでした。
 北海道で学校が休校になるのは、
 冬の大雪か吹雪でした。
      ■         ■
 ところが皮肉なことに、
 私が結婚した翌月の…
 昭和56年8月上旬に、
 低気圧と台風の影響で、
 なんと石狩川が氾濫しました。
 札幌市内でもあちこちで冠水しました。
 私の実家の地下室にも浸水し、
 ボイラーがダメになりました。
      ■         ■
 農家の方にとって、
 秋は一番の繁忙期です。
 山形ではラ・フランスの収穫がはじまったばかりです。
 せっかく丹精込めて作った果物が、
 台風にやられては大変です。
 さくらんぼさんも、
 さぞお疲れのことと思います。
 今日のコメントはお休みなさってください。
 被害が少ないことを祈念しています。 


倒れたポプラ並木
2004年9月
北大HPより引用

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昔の記憶

手術用顕微鏡の想い出

 私が市立札幌病院へ赴任したのが、
 平成元年4月(1989年)、
 今から20年前でした。
 当時の市立札幌病院は、
 現在、ヤマダ電機がある場所でした。
 私は形成外科医でありながら、
 皮膚科医師として採用されました。
 形成外科がなかったからです。
      ■         ■
 大きな病院や、
 大学病院に、
 形成外科を作るのは大変でした。
 新しい標榜科目を開設したり、
 医師の定員を増やすには、
 札幌市議会の承認が必要でした。
 形成外科を作るには、
 予算も必要です。
 赤字の病院には予算がありませんでした。
      ■         ■
 私が赴任しても、
 形成外科の手術に必要な手術器械がありません。
 他科の器械で間に合うものもありましたが、
 細かい手術をするのに必要な、
 専用の手術器械がありませんでした。
 私の仕事は、
 まず、必要最低限の器械のリストを作って、
 院長決裁をいただくことからはじまりました。
      ■         ■
 この手術器械…
 意外と高価です。
 例えば…
 組織や糸を切る鋏(はさみ)、
 鼻毛切りの鋏を…
 ちょっと大きくした程度でも、
 ドイツ製のよく切れる…
 スーパーカットという鋏は、
 一つ1万円以上しました。
 針を持つ持針器(じしんき)というのも、
 先が細い特殊なものは一つ数万円もしました。
      ■         ■
 中でも高価だったのが、
 手術用顕微鏡でした。
 ドイツ製の高性能の顕微鏡。
 お値段は…
 ドイツ製高級車の…
 最上位車種より高価でした。
 定価は一台2,000万円以上しました。
 とても買っていただけませんでした。
 耳鼻科や眼科、脳外科には、
 それぞれ専用の顕微鏡がありました。
      ■         ■
 今から考えると…
 他科の顕微鏡でも使えないことはありません。
 他科の顕微鏡を使うには、
 対物レンズを交換したり、
 付属品を交換する必要がありました。
 見る目的が違うため、
 微妙に違うのです。
 一番困るのは、
 他科が使っている時は使えないことでした。
 それにレンズ一個買うにも
 数十万円もしました。
      ■         ■
 困った私は、
 担当副院長に相談して、
 メーカーから借りて…
 手術用顕微鏡を使っていました。
 高級車を来年は買うから…
 試乗車を貸してください。
 とタダ乗りしていたようなものでした。
 ある患者さんの手術を予定して、
 顕微鏡を借りる手配をしていました。
      ■         ■
 手術の直前になって…
 代理店から…
 『申し訳ございません』
 『顕微鏡の手配ができませんでした』
 と連絡がありました。
 手術予定はすでに立ててあり、
 患者さんは手術を待っていました。
 外傷による組織欠損だったため、
 手術が遅れるとそのまま回復も遅れます。
      ■         ■
 私は患者さんと家族にお詫びしました。
 正直に…
 申し訳ありません
 手術用顕微鏡の手配ができず…
 手術が延期になります…
 若い男性患者さんで、
 職業は整備士さんでした。
 市立病院で…
 設備がないから手術できないなんて…
 いったいどういうことですか?
      ■         ■
 お怒りはごもっともです。
 ただひたすらお詫びするだけでした。
 担当副院長にも来てもらって…
 私といっしょに謝ってもらいました。
 なにぶんにも…
 予算がなく…
 お怒りはごもっともで…
 何とも歯切れの悪いお詫びでした。
      ■         ■
 私は、次の手術日を確約し、
 代理店が、
 学会でその顕微鏡を使うことを、
 失念していたたこと。
 安易に手配ができたと連絡してきたこと。
 他の代理店に変えて、
 次の手術日には、
 必ず手術用顕微鏡が手配できることをご説明して、
 患者さんからお許しをいただきました。
      ■         ■
 こんな苦い想い出がある…
 手術用顕微鏡です。
 その翌年には、
 別の内科系副院長が、
 本間くん、困っているって聞いたよ
 と言って、
 ポンと顕微鏡の予算を付けてくださいました。
 その時にどんなに嬉しかったかは、
 20年経っても忘れられません。

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昔の記憶

マイクロサージャリー

 私たち形成外科医は、
 細かい作業をします。
 切断された指をつなぐには、
 髪の毛よりも細い糸で、
 血管や神経を縫います。
 この手術を…
 マイクロサージャリーと呼びます。
 山形大学整形外科の荻野利彦先生のように、
 手の外科を専門とする整形外科の先生も、
 マイクロサージャリーがお得意です。
      ■         ■
 マイクロサージャリーには、
 手術用顕微鏡(しゅじゅつようけんびきょう)が必要です。
 学校の理科室にあるような顕微鏡ではなく、
 私の背丈よりも高いような、
 大きな設備です。
 この顕微鏡…
 お高いのです。
 世界的に高性能の顕微鏡は、
 ドイツ製と言われています。
 カールツァイスや
 ライカという会社が有名です。
      ■         ■
 顕微鏡を使って手術をするのは、
 形成外科や整形外科の他に
 眼科
 脳神経外科
 耳鼻咽喉科
 があります。
 最初に使ったのは耳鼻科の先生だそうです。
 最近では、
 歯科や
 産婦人科でも
 手術用顕微鏡を使って
 手術をするところがあります。
      ■         ■
 形成外科医が
 マイクロサージャリーを使うのは、
 組織移植という分野です。
 事故やガンなどで、
 組織が大きく欠損した時に
 身体の他部位から、
 組織を移植します。
 血流がないと組織は死んでしまいます。
 そのために、
 血管を吻合(ふんごう)します。
 この血管が細いのです。
      ■         ■
 現在、日本の形成外科で、
 各大学の教授に就任されている先生は、
 このマイクロサージャリーがお得意で、
 たくさん英文論文を書いた方が多いです。
 ちょうど私が形成外科医として活躍した、
 今から20~25年前頃から、
 この手術が盛んになってきました。
 優秀な形成外科医になるためには、
 マイクロが必須科目になりました。
      ■         ■
 私は日本マイクロサージャリー学会の講習会に参加したり、
 北大に通ってマイクロの練習をしました
 手術用顕微鏡で拡大すると…
 信じられないほど良く見えます。
 今では、すいすい手術ができますが…
 最初は、
 拡大されているために…
 どこを見ているのかわからず…
 自分の指先を確認するのも大変でした。
 高価なマイクロ用の糸を、
 からませては…
 何本もダメにしてしまいました。
      ■         ■
 30歳台で習得した…
 マイクロの技術は、
 55歳のおっさんになっても役立っています。
 手術用顕微鏡があれば…
 若い人以上によく見えます。
 長年の経験が役に立ち、
 若い人に見えない、
 埋没法の糸も見つけられます。
 美容外科で、
 マイクロが役立つとは考えていませんでしたが、
 おじさん先生の強力な武器となり、
 腫れが少ない手術に役立っています。

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昔の記憶

中川昭一さんの死を悼む

 中川昭一さんがお亡くなりになりました。
 中川さんは1953年7月19日生。
 私より一歳年上です。
 心からご冥福をお祈りいたします。
 中川さんの選挙区は、
 北海道の十勝でした。
 私はJA帯広厚生病院に3年間勤務しました。
 3年間住んだ十勝は住みやすいところでした。
      ■         ■
 直接お会いしたことはありませんが、
 北海道民の一人として、
 頼もしく思っていました。
 はじめて十勝に行った時に、
 街が豊かな印象を受けました。
 十勝の農家が、
 とても立派なのに驚きました。
 私が勤務していた、
 JA帯広厚生病院は、
 頭にJAがつく、
 北海道厚生農業協同組合連合会
 (JA北海道厚生連)が経営する病院です。
      ■         ■
 JA帯広厚生病院は
 JA北海道厚生連の中でも、
 屈指の黒字病院でした。
 設備は‘超’一流でした。
 JAの豊富な資金力で、
 立派な病院ができていました。
 中川さんをはじめとする、
 有能な政治家の存在で、
 十勝地方の農業が豊かになりました。
 国の政策一つで、
 農業が左右されることを知りました。
      ■         ■
 十勝には、
 農業に関連した、
 農機具の会社もたくさんありました。
 農産物を加工する工場もありました。
 北海道の銘菓として有名な、
 六花亭も十勝に工場があります。
 北海道の中で、
 十勝地方だけは、
 どこか違う雰囲気があります。
      ■         ■
 開拓の時代に、
 十勝に入植した方々は苦労を重ねられたそうです。
 作物の作付けをする時には、
 国際相場を眺めながら…
 作付け計画を立てると聞いたこともありました。
 北海道の地方都市なのに…
 インターネットの普及も早かったと思います。
 私がインターネットをはじめたのも、
 帯広が最初でした。
 十勝の人々には、
 世界の穀物相場を
 見ているようなところがありました。
      ■         ■
 テレビで中川さんのご自宅を見ました。
 花を育てて、
 癒されている様子が写っていました。
 マスコミは、
 中川さんの悪いところばかりを報道しました。
 私はお酒を飲みませんが、
 周囲に‘酒癖の悪い人’はいました。
 酒を飲まない私が、
 ご自宅までお送りしたこともありました。
 ‘酒癖が悪い人’は、
 お酒を飲まない時は、
 真面目で、じっと耐えています。
      ■         ■
 ふだん抑えている分が…
 お酒で抑制がとれてしまうことがあります。
 北朝鮮拉致問題の、
 横田さんのお母さんが、
 とてもがっかりなさっていたのが印象的でした。
 北海道の中川事務所がTVに写っていました。
 鳩山さんの、
 お母さんが造ってくれた
 立派な事務所とは対照的で、
 質素な事務所に見えました。
      ■         ■
 亡くなってしまってから、
 何を言っても無駄ですが、
 あれだけ自分の失態をTVで報道されると、
 どんなに頑強な精神の持主でも落ち込みます。
 失態を演じたのは、
 もちろん自分の責任です。
 責任ある立場の人でしたら、
 自分の言動には気をつけるべきです。
 でも、もう少し…
 体調の異変に早く気付けば…
 こんなに早く亡くならなくてもよかったのに…
 と残念に思います。
 心からご冥福をお祈りいたします。

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院長の休日

郷ひろみさん

 先日まみ子師長さんから、
 コメントをいただきました。
 郷ひろみは来年55歳になるそうです。
 おじさんに見えないのは
 やっぱりスターだからなのでしょう。
 私と一歳しか違わないのに、
 郷さんはすごいです。
 昨年11月の高須先生の学会で、
 郷さんを近くで見たことがあります。
 確かにお若かかったです。
      ■         ■
 スターが若いのは、
 それなりに努力なさっているからです。
 日々の食事や運動など、
 常に気を遣っていらっしゃると想像します。
 でなければ…
 私たちの年代では、
 すぐにメタボのおじさんになります。
 ステージを見て思ったこと…
 お客様に何を話そうか…?
 と常に考えているなぁ~と思いました。
 それでなければ…
 あのトークはできませんょ。
      ■         ■
 うちの奥さんも、
 郷ひろみさんの大ファンです。
 私は知らなかったのですが、
 結婚する前からファンだったそうです。
 先日、北海道厚生年金会館に、
 うちの奥さんも一人で行きました。
 まみ子師長さんは、
 すごく近い席だったそうですが、
 うちの奥さんは、
 必死で電話して、
 チケットを確保したのに、
 かなり後ろの席でした。
      ■         ■
 どういう訳か…
 わが家には、
 郷ひろみさんの、
 耳かきがあります。
 奥さんがコンサートで買ってきました。
 私もたまに使わせていただいています。
 なかなか使い心地のよい耳かきです。
 白い綿のようなものの位置に、
 郷さんの似顔絵がついています。
      ■         ■
 郷さんがコンサートで、
 次のように言われたそうです。
 僕はいつも皆さんに拍手をもらっているけど
 インフルエンザが心配なこの時期に
 僕のコンサートに来て下さった皆さんに
 今日は僕が拍手をしたいと思います。(拍手)
 皆さんは僕以外に誰に拍手をしたいですか?
 家族
 いっしょに来てくれた娘
 (長野県からわざわざ札幌のコンサートに来たそうです)等の声の後に・・・
 ‘皆さんの旦那さんもでしょう’
 ‘コンサートに行っておいでって出してくれたんでしょう!’
 と言って拍手しました。
      ■         ■
 さすが郷さん
 こう言っていただけると、
 来年も…
 郷さんのコンサートへ行っておいで!
 と言いたくなります。
 こう言っていただいて、
 私のご機嫌もよくなりました。
 お客さんのご主人にまで…
 お気遣いいただき、
 郷さんもさぞ大変なことと思います。
 私たちと同年代だからこそ…
 私たちおじさんの心理
 よくご存知なのだと思います。

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昔の記憶

東京が落選しました

 オリンピック候補地選考の中継を、
 昨夜、遅くまで見ていました。
 シカゴが最初に落選したのには…
 正直なところ驚きました。
 残念ながら…
 東京は落選してしまいました。
 リオデジャネイロは大喜びですね。
 ブラジル人は陽気で明るいです。
      ■         ■
 ブラジルは美容外科が盛んで、
 IT関連のビジネスも盛んです。
 以前の国際学会で、
 PCの不具合がありました。
 ブラジルの先生が、
 ブラジルから技術者を呼んで来て、
 (PCを)直しましょうか?
 と言っていたのを思い出します。
 リオデジャネイロで、
 立派なオリンピックを開催していただきたいです。
      ■         ■
 1964年に東京オリンピックが開催された時、
 私は小学校4年生でした。
 美唄(びばい)市の
 日東美唄(にっとうびばい)小学校、
 担任は村木先生という男の先生でした。
 小学校には、
 テレビが一台しかなかったように記憶しています。
 視聴覚教室という部屋で、
 何度かTV中継を見せてもらいました。
      ■         ■
 東洋の魔女といわれた…
 女子バレーボールの
 日紡貝塚女子バレーボールチーム。
 大松博文さんという名監督がいました。
 マラソンではエチオピアのアベベ。
 女子体操の
 チャスラフスカ(チェコスロバキア)は
 子ども心にも美しいという記憶があります。
      ■         ■
 昭和39年の日本は高度成長期でした。
 東海道新幹線が開通し、
 東京オリンピックを契機にして、
 日本は大きく変わりました。
 私が東京オリンピックで感動したのは、
 TVではなく、
 オリンピックの記録映画でした。
 当時のTVは白黒で、
 画質も今の携帯より悪いものでした。
      ■         ■
 私が住んでいた炭鉱街には、
 会館(かいかん)と呼ばれる、
 映画館がありました。
 小学校では、
 年に何回か、
 その会館を利用して、
 巡回映画という映画を見せてくれました。
 この映画で見た、
 東京オリンピックの印象が鮮烈でした。
      ■         ■
 北海道の札幌と美唄しか知らない小学生は、
 見たこともない…
 東京という街が…
 どんなところだろう…?
 と夢を膨らませたものでした。
 時代は変わり、
 中継で、
 海外の映像もリアルタイムで見れるようになりました。
 ブラジルも景気が悪いようです。
 オリンピックを契機に、
 ブラジルが発展してくれることを祈っています。

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院長の休日

トヨタ車の事故

 平成21年10月1日、朝日新聞朝刊の記事です。
 レクサス時速190キロ「アクセルが…」
 時速200キロ近い猛スピードで疾走する高級車から届いた悲痛な叫びが、運転席のフロアマットに潜む危険性を白日の下にさらけ出した。トヨタ自動車は、マットがずれてアクセルが戻らなくなる恐れから、同社にとって過去最大のリコール(回収、無償修理)を米国で実施する見通しとなった。同様の問題は日本でも、どんな車でも起こる可能性はある。
      ■         ■
 通信指令係「こちら緊急電話番号。どうしましたか」
 通報者「アクセルが動かない。トラブルが発生した。ブレーキも利かない」
 通信指令係「分かりました。車を止めることができないんですね」
 通報者「交差点が迫っている。交差点が迫っている。つかまって。祈って……」
 通信のやりとりを詳報した米ABCニュースなどによると、緊急通報があったのは8月28日。米カリフォルニア州サンディエゴ郊外を走行中のトヨタの高級車「レクサスES350」からだった。
      ■         ■
 運転者は州警察の高速隊員で、妻と13歳の娘、親族の男性の3人が同乗していた。事故直前には、操縦不能の状態で、時速は120マイル(約190キロ)に達していたとみられる。そのまま交差点に突入し、他車と衝突して大破し炎上。この4人が亡くなったという。通報がなければ、原因は何一つ分からずじまいになった可能性がある。
      ■         ■
 「緊急事態だ。対象の車に乗る人は、直ちにマットを取り外すよう強く要請する」
 トヨタが「カムリ」や「プリウス」など最大380万台をリコールする見通しを発表した9月29日、米運輸長官は異例のコメントをした。
 欧米メディアによると、同様の不具合の報告は100件以上あり、計5人が死亡したという。
 まだ、事故原因がフロアマットと特定されたわけではないが、トヨタはマットを固定する留め金を外したり、二重にマットを敷いたりすると事故につながりかねないと購入者に注意を促し始めた。
      ■         ■
 捜査当局は早い段階からマットに注目していたからだ。トヨタは2007年にも、事故車と同じ「レクサスES350」と「カムリ」の一部で、マットの不具合のため計約5万5千台をリコールしている。
 ただ、トヨタは「事故車には違うレクサス車用の純正マットが装着されていた」として、現段階では因果関係を否定している。社内には「普通のリコールとは少し違う。当局から指摘があったので対応策を考えたい」(幹部)との声もあり、米当局とは温度差を見せる。
      ■         ■
 最近の自動車では、アクセルが戻らない非常時の対処法が、わかりにくくなっているとの指摘もある。高級車を中心に普及してきたボタンでエンジンを始動・停止させる車では、走っている最中にエンジンを止めるには、ボタンを3秒以上押し続ける特殊な操作が必要だ。キーを回せばよかった従来の車に比べると、事前に知らなければ実行しにくい。この点が問題だという。
 国内ではフロアマットの危険性の指摘はあまり聞かれないが、アクセルペダルやフロアマットの構造は、日米で大差はない。(中川仁樹)
 (以上、朝日新聞より引用)
      ■         ■
 レクサスといえば…
 トヨタの最高級車です。
 知人の米国人の先生が、
 米国では、メルセデス(ベンツ)と同等か、
 それ以上の人気があると話されたことがありました。
 亡くなられた
 州警察の高速隊員ご一家の
 ご冥福をお祈りいたします。
      ■         ■
 私たち北国に住む者は、
 スノーマットと呼ばれるマットを使います。
 冬期間はどうしても靴に雪が付きます。
 雪がついたままで車に乗ると、
 車内の暖房で雪がとけます。
 そうすると、
 車内がびちゃびちゃになります。
 ズボンの裾が汚れます。
      ■         ■
 融けた雪が夜間に凍ります。
 朝、マットはガチガチになっています。
 スノーマットは、
 黒いゴムでできています。
 お皿のように、
 ふちが盛り上がっているために、
 融けた雪が流れないようになっています。
 ゴムは凍っても硬くならないので、
 マットを取り出して、
 ぽんぽん…とすると、
 簡単に氷が落ちます。
      ■         ■
 はじめてこのスノーマットを使った時に、
 マットがアクセルを押しているのに気付きました。
 アイドリング時に、
 微妙に回転数が上がります。
 ふつうの運転者は気付きます。
 ですから…
 私はマットが原因で…
 190㎞ものスピードが出るとは考えられません。
      ■         ■
 昔の寒冷地仕様の自動車は、
 カローラクラスでも、
 マットがアクセルを押さないように、
 上からアクセルペダルを吊り下げる形になっていました。
 朝日新聞の記事の図(下記参照)
 と同じ形です。
 今の車は、寒冷地仕様でも、
 朝日新聞の記事の図とは逆に
 床にアクセルペダルがついています。
      ■         ■
 190㎞ものスピードは、
 よほどペダルを強く踏み込まないと出ません。
 レクサスなら出るのかも知れませんが…
 ふつうの乗用車では出ません。
 私は、
 事故の原因はマットではないと推測します。
 もっと他に原因があるように思います。
 安全に関することです…
 しっかりと調べていただきたいものです。
 トヨタ車以外も同じ構造になっています。


朝日新聞より引用

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昔の記憶

私の若い頃

 私は1954年生まれです。
 昭和29年。
 日本がまだ高度成長する前です。
 米国は名犬ラッシーや
 英語の教科書で知る…
 夢の国でした。
 中学校一年生の英語教科書に出てきた、
 ブラウンさん一家は、
 グリーンフィールドという街に住んでいました。
      ■         ■
 私が住んでいた、
 炭鉱街の美唄(びばい)や夕張(ゆうばり)は、
 ちょうど石炭産業が崩壊し、
 次々と閉山(へいざん)していました。
 美唄の三菱炭鉱がなくなり、
 父親は大夕張の炭鉱病院へ転勤しました。
 私が小学校の頃の社会科の教科書には、
 北海道の産業として、
 石炭が大きく載っていました。
      ■         ■
 長崎県で最近脚光を浴びている、
 軍艦島こと端島(はしま)という炭鉱の島も、
 同じ三菱砿業㈱が経営していました。
 三菱砿業㈱の社員には、
 九州の端島から、
 北海道の美唄へ転勤となった人もいました。
 その九州から転勤して来た人の子どもが…
 美唄の小学校で…
 九州のアクセントで困っていました。
 はじめて見た雪は…
 どんな印象だったのだろう?と思います。
      ■         ■
 北海道空知地方にたくさんあった炭鉱は、
 一部を除いてなくなりました。
 夕張は炭鉱閉山後に作った観光施設が破綻し、
 膨大な借金返済で苦労しています。
 美唄は農業を中心とした町になっているようです。
 時代の移り変わりとともに…
 産業が変遷(へんせん)し、
 街も人も変わります。
 変わらないのは、
 山とか川のある風景や、
 その土地の言葉や習慣です。
      ■         ■
 私は炭鉱街で育ったので、
 ……だべぇ~
 とか
 ……だべさ
 とかの言葉に愛着を感じます。
 自分が子どもだった頃に、
 まさか美容外科医になるとは…
 夢にも思っていませんでした。
 札幌駅前で開業するとも…
 想像すらしていませんでした。
      ■         ■
 かつて私たちの憧れ(あこがれ)だった、
 アメリカのゼネラル・モーターズ(GM)が
 2009年6月1日に、連邦破産法11章を裁判所に申請しました。
 キャデラックに乗りたいと思ったことはありませんが、
 大統領専用車を作っていた会社が、
 破産法申請にはショックでした。
 日本経済(特に北海道経済)は、
 まだまだ厳しい状況が続きます。
      ■         ■
 私が住んでいた炭鉱は閉山しましたが、
 そこで生活していたかつての仲間は、
 私を含めて元気で頑張っています。
 産業がなくなっても、
 他人にできない…
 自分にしかできない仕事があって、
 少しでも社会の役に立っていれば…
 まだまだ北海道も日本も大丈夫だと、
 私は信じて働いています。


中学1年生の4月(向かって右)
向かって左は、荒木田和生くんです


中学校2年生の頃(シューパロ湖)
私は自転車が好きな少年でした


1976年の大学時代(33年前)、
友人と余市ニッカウヰスキー工場

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昔の記憶

9月の終わり

 今日で平成21年9月が終わります。
 毎朝、前を通って来る。
 札幌西武百貨店が今日で閉店します。
 五番館(西武の前)というデパートには、
 たくさんの想い出があります。
 一人の札幌市民として、
 閉店はとても残念に思います。
      ■         ■
 私が子どもの頃には、
 札幌駅前に国鉄バスの乗り場がありました。
 駅前から、
 手稲鉱山行きのバスに乗りました。
 私が住んでいたのは、
 手稲金山(ていねかなやま)の、
 栄町(さかえまち)でした。
 国道5号線から、
 すこし上がったところが栄町でした。
      ■         ■
 手稲鉱山通り(国道)→
 栄町(さかえまち)→
 滝見町(たきみちょう)→
 手稲鉱山(ていねこうざん)。
 とバス停がありました。
 今の北海道立子ども総合医療・療育センター
 の横をバスが通っていました。
 昔、医療センターの場所には、
 道職員住宅がありました。
      ■         ■
 札幌に来て、
 デパートの遊技場へ行くのが楽しみでした。
 私が好きだったのは、
 自動車の運転ができる遊具でした。
 一回10円を入れて…
 本物の自動車のハンドルのような…
 ハンドルを握り…
 ベルトコンベアーのような…
 動く道の上を、
 小型のジーブを走らせます。
      ■         ■
 この運転が意外と難しくて、
 ちょっと油断すると…
 すぐに脱輪でした。
 失敗して…
 もう一度10円を入れてくれたのが、
 私の祖母でした。
 親と行った時は、
 何度もやらせてもらえなかった記憶があります。
 お年玉をもらった時とか、
 何回か楽しんだ記憶があります。
      ■         ■
 私が子どもだった、
 昭和30年代後半は、
 デパートへ行くのが最高の贅沢でした。
 五番館の包装紙には、
 カトレアの花がついていました。
 五番館の向かい側には、
 ニシムラがありました。
 50年後に…
 札幌駅前通りで開業しているとは、
 夢にも考えませんでした。
      ■         ■
 西武百貨店が閉店する時代なのに…
 偏屈なおっさんの私が…
 診療を続けて行けるのは、
 ありがたいことです。
 皆様のご支援のおかげです。
 皆様に励ましていただき
 診療を続けています。
 ご声援に感謝しています。
 毎日、コメントをありがとうございます。
 これからも何卒よろしくお願い申し上げます。


今朝の札幌西武

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