昔の記憶

死後の願い

 私は、医師でありながら…
 平成元年(1989年)に
 市立札幌病院に勤務するまでは、
 脳死とはどんな状態か?
 知りませんでした。
 毎日救急部へ行って、
 重症の外傷や熱傷の患者さんを、
 救急の先生と一緒に治療していました。
 私はそこではじめて脳死の患者さんを診察しました。
      ■         ■
 それまでは、漠然としか脳死を知りませんでした。
 救命救急の現場で、
 脳死とはどのような状態であるかを知りました。
 実際に、そこでチーム協力者として働いてみて…
 脳死になった患者さんがどのような状態で、
 どのような経過を取るかわかりました。
 ご家族の苦しみや、
 経済的な負担もわかりました。
      ■         ■
 私は30歳台でした。
 自分が脳死になったら臓器提供をしようと思いました。
 ある日、腎バンクの登録希望者を募集していたので、
 私はすぐに腎バンクに登録しました。
 その後、臓器移植法が整備され、
 臓器提供意思表示カードを医師会でもらいました。
 腎臓提供カードから、
 1998年に臓器提供意思表示カードに切り替えました。
 私の臓器や組織は、
 ボロボロで使い物にならないかも知れませんが?
 自分の死後に臓器が役に立つなら喜んで提供します。
      ■         ■
 自分が死んでからも…
 誰かの役に立って、
 誰かの体の一部として‘生きて’いたいと思っています。
 前にも書きましたが…
 できれば…
 私の体の一部でも(キレイな)女性の中で‘生きて’いたい…
 というのがひそかな願いです。
 家内は…
 『そんなこと言ったって無理ょ』
 と冷ややかに見ています。
 さくらんぼさんにも叱られるかなぁ…?

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昔の記憶

はじめての葬儀

 急性心筋梗塞で急逝した岳父の葬儀は、
 はじめての経験でした。
 家内と母は、呆然(ぼうぜん)とし、
 何も考えられない状態でした。
 義弟は、
 『どうしたんや…?』
 『じいちゃん』と号泣しましたが、
 気を取り直しました。
 義弟と私が親戚と相談しました。
      ■         ■
 頼りになったのは、
 島根県からいらした、本家のご長男でした。
 私より少し年上で、当時40歳台でした。
 義父の長兄はすでに他界していました。
 本家のご長男は葬儀や死後の手続きなど、
 何でも熟知していました。
 すごいと思いました。
 恥ずかしながら…
 私は54歳なのに、
 本間家の家紋も知りません。
 学校では教えてくれない、
 世間の常識が欠落していることを知りました。
      ■         ■
 家内は神戸で育ちましたが、
 子どもの頃は国鉄の官舎に住んでいました。
 義父が国鉄を退職後に、
 奈良県香芝市(かしばし)の新興住宅地に住みました。
 香芝市は奈良時代からの古い町並みと、
 しっかり整備された新興住宅地の、
 2つの異なったタイプの町並みがありました。
 浄土宗の林法寺は、
 実家からすぐ近くで、
 古い町並みと新しい街の境界にありました。
      ■         ■
 新興住宅地の場合、
 檀家でもない限り、
 お寺とのお付き合いはありません。
 私たちも実家へ帰る度に、
 お寺があることは知っていました。
 でも、まさかそこのお寺にお世話になるとは、
 夢にも思っていませんでした。
 山田様という和尚様が、
 おじいちゃんにお経を上げに来てくださいました。
 さすが奈良のお坊さんは徳の深い方でした。
      ■         ■
 地元の葬儀社の方がいらっしゃいました。
 葬儀をどこで行うか?
 参列者の数は?
 はじめての私たちには、
 想像もつかないことばかりでした。
 祭壇の大きさ?
 予算?
 何から何までわかりません。
 ここでも本家のご長男が活躍されました。
      ■         ■
 『うちは○○人やったけど…』
 『おじさんは、現職やから…』
 と参列者の数は、経験者でも想像がつきません。
 おじいちゃんの会社の方が、
 アドバイスをくださいました。
 退職後9年とはいえ、
 大鉄工業というJR西日本の軌道工事をする、
 大阪支店大阪営業所長をしていました。
 亡くなって葬儀にいらしていただいた方から、
 私はあらためて義父の偉大さを知りました。
      ■         ■
 葬儀社が推薦してくれたのは、
 地元の町内会館でした。
 実家から比較的近くでした。
 当時は今のようにセレモニーホールというような、
 葬儀専門のホールは近くにありませんでした。
 私は義弟とその会館を下見に行きました。
 夜遅くで閉まっていましたが、
 外観だけで狭いのがわかりました。
 ここでは(参列者が)入らないと直感しました。
 その足で林法寺へ行きました。
 立派な門がある大きなお寺でした。
      ■         ■
 亡くなった夜は、
 島根県からいらした親戚から、
 おじいちゃんの生い立ちや、
 今までの生活などをお聞きしました。
 私はそれをメモして、
 おじいちゃんの歴史と簡易家系図をつくりました。
 そのメモを清書して、
 翌日、義弟や親戚とお寺に持参しました。
 お寺で葬儀を営めないか?と
 ご住職の山田様にお願いしました。
 山田様はお話しを聞いて下さり、
 お寺の本堂での葬儀を承諾してくださいました。
      ■         ■
 お寺の境内には桜が咲き、
 立派な本堂に祭壇ができました。
 おじいちゃんの歴史から、
 慈徳大願居士という戒名をいただきました。
 小学校を出て国鉄に就職。
 働きながら定時制高校を卒業し、
 大阪工業大学2部へ進学、
 卒業はできなかったらしいですが、
 国鉄の保線区長にまでなったおじいちゃんに、
 ぴったりのいい戒名だと思っています。
      ■         ■
 私は家内には、よく文句を言っていますが、
 義父のことを立派な人だと尊敬しています。
 4月5日に義父の17回忌がありました。
 私は行けませんでしたが、
 家内と義母に
 一日の京都旅行をプレゼントしました。
 私の義父に対する供養です。

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昔の記憶

命日(めいにち)

 今日、4月6日は、
 岳父(がくふ:家内の父)、
 故_片寄茂八(かたよせもはち)の命日です。
 平成5年(1993年)に、
 兵庫県三田市(さんだし)のゴルフ場で、
 急性心筋梗塞で亡くなりました。
 64歳でした。
 65歳になる23日で前でした。
      ■         ■
 その日は火曜日でした。
 市立札幌病院皮膚科の外来で、
 13:30から診療を開始して、
 間もなくでした。
 看護婦さんが、
 『先生、奥さんから電話です』
 と電話を取り次いでくれました。
 『こんな時間に何だろう?』
 『子どもがケガでもしたのかなぁ…?』
 と思って電話に出ました。
      ■         ■
 電話を取ると…
 家内の声が震えていました。
 『おじいちゃんが…』
 『おじいちゃんが…、死んだって…』
 それを聞いて、
 私は自分の父親が亡くなったと、
 一瞬、思いました。
 市立札幌病院へ勤務してから、
 私は、毎日、救急部で、
 ‘ある日突然亡くなる人’を見ていました。
      ■         ■
 市立札幌病院の正面玄関は、
 午後7時に閉まっていました。
 その後は、救急部の横が通用口でした。
 私が帰宅するのは、
 午後7時以降が多く、
 救急部の公衆電話から、
 身内の急逝(きゅうせい)を伝える方を、
 何度も目にしていました。
 まさか、自分の身内が急逝するとは…
 しかも、家内の父が亡くなるとは…
 夢にも思っていませんでした。
      ■         ■
 家内に、
 『すぐに帰るから航空券を手配して』
 とそれだけを指示しました。
 私は4月に赴任したばかりの、
 竹野巨一(たけのなおかず)先生に外来をお願いし、
 直属の上司である皮膚科主任医長の
 嶋崎匡(しまざきただし)先生に報告をしました。
 亡くなったことが信じられず、
 搬送された、
 三田市民病院へ電話をしました。
      ■         ■
 義父の最期を診てくださった、
 担当の先生とお話しができました。
 『救急車で搬送されていらした時は、心肺停止でした』
 『蘇生(そせい)を試みましたが、戻りませんでした』
 亡くなったのが、
 家内の父であることを確認しました。
 亡くなる2日前まで、
 私の子どもたち2人(小4と小2)が、
 家内の実家に遊びに行っていました。
      ■         ■
 『おじいちゃんに遊園地に連れて行ってもらった』
 『おじいちゃん、ちょっと辛そうだった』
 『酸欠でなぁ』と休んでいた。
 など子どもと話していたところでした。
 今から考えると、
 下肢の動脈が細くなって、
 足が冷たいというので、
 登山用の靴下を送っていました。
 他にも前兆らしき症状がありました。
      ■         ■
 幸い飛行機に空席があり、
 午後のJALが取れました。
 新千歳空港に着くと、
 JASが少し早く出るというので、
 JASに変更しました。
 いつもはANAですが、
 この時は少しでも早い便に乗りました。
 当時は機内に公衆電話があったので、
 機内から実家へ電話をしました。
      ■         ■
 伊丹空港に到着しました。
 いつも、
 『よく来た』と出迎えてくれた義父はいません。
 空港からタクシーで、
 高速道路を飛ばしました。
 家内は一言も話しません。
 実家に着いたのは、
 午後7時頃でした。
 顔に白い布をかけられた義父が、
 布団の上に横たわっていました。
      ■         ■
 どうしてこんなことになったのか…?
 途方に暮れていました。
 そのうち、
 親戚の人たちが
 島根県から駆けつけて来ました。
 私たちは北海道からでしたが、
 東京へ出張中の義弟よりも、
 島根県からの親戚よりも
 早く着きました。
 私にとっては、唯一の救いでした。
      ■         ■
 家内は、
 『私が北海道へお嫁に来たので、お父さんが早く死んだ』
 と悔やんでいました。
 家内が回復するまで、
 何年もかかりました。
 人が亡くなる場面には慣れていた私も、
 亡くなった後のことは、はじめての経験でした。
 人が亡くなるとこんなに大変だとは知りませんでした。
      ■         ■
 親戚の人たちから、
 菩提寺(ぼだいじ)のことや、
 葬儀のことなどを教えていただき準備しました。
 おじいちゃんは、
 慈徳大願居士という名になりました。
 浄土宗の林法寺(りんぽうじ)というお寺で
 葬儀を営みました。
 桜が満開できれいでした。
 何年経っても忘れられない日です。

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医学講座

縫い方の練習

 私が医学生だった30年前も、
 現在の医学教育でも、
 採血
 縫合法(ほうごうほう)も、
 教室で勉強するだけで、
 人間
 実験台にしての
 練習はできません。
      ■         ■
 採血でしたら…
 学生同士で練習ができますが…
 さすがに…
 学生同士を
 切って
 縫う
 のはできません。
 人間にメス入れて
 切るのは…
 医師免許証を持った人にしか許されていません。
      ■         ■
 私が札幌医大形成外科の講師をしていた
 10年前に、
 形成外科を選択した6年生の学生さんに、
 縫合法という『縫い方』を教えました。
 人の皮膚を縫うことはできないので、
 皮膚に見立てた
 医療用材料(スポンジ)を、
 ナイロン糸という実際に使う糸で縫合します。
      ■         ■
 ナイロン糸は高く、
 一本、最低数百円はします。
 学生実習でも、
 手術に使う糸しか売っていません。
 一人で何本も使います。
 慣れない学生はすぐに糸を切ってしまったり、
 針を曲げてしまったりします。
 少ない予算で、
 この糸を買うのも大変でした。
      ■         ■
 糸も高価ですが…
 持針器(じしんき)という、
 針と糸をつかむ器械や、
 先の細い摂子(せっし:ピンセットのこと)も、
 高価です。
 これらの器械を揃えるのにも、
 お金がかかりました。
 予算がなかったのです。
      ■         ■
 不思議に思われるかもしれません。
 医師免許証がないと…
 切ったり縫ったりできないのに…
 実際の医学教育では、
 この切って縫う練習は、
 必須科目ではありませんでした。
 自動車の運転免許証を与えるのに、
 学科だけで、
 コースも路上もなしで、
 ペーパーテストだけで免許をもらえるようなものです。
      ■         ■
 美容師さん理容師さんの試験には、
 実技があるようですが、
 医師国家試験にも、
 看護師国家試験にも、
 実技試験はありません。
 医師免許証をいただいても、
 新米医師は何もできません。
      ■         ■
 実際に医師免許証を取得してから、
 はじめて手術を担当させていただきます。
 医学部では実際にメスを持って、
 切ることは教えてもらっていないのです。
 医師免許取得前は、
 仮免許なんてのはありません。
 大学の実習で人間を
 切ったり縫ったりはできないのです。

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昔の記憶

採血の練習

 私が医師免許証を取得したのが、
 昭和55年(1980年)です。
 今では信じられないことですが、
 免許取立ての頃は、
 採血も満足にできませんでした。
 医師免許を取得するまでに、
 私が採血をしたのは…
 医学部の生化学実習で一度だけでした。
      ■         ■
 私が採血をしたのは、
 同期の三浦純一先生でした。
 なんとか採血できましたが、
 採血の痕が残りました。
 私から採血したのも、
 三浦純一先生でした。
 学生同士で採血をしました。
 三浦純一先生も
 私の太くて見やすい血管からでも、
 採血するのが大変でした。
      ■         ■
 三浦純一先生は
 旭川赤十字病院で、
 長い間、小児科部長をした後で、
 みうら小児科クリニックを開業されています。
 今ではどんなに小さな子どもさんからでも、
 採血ができると思います。
 小児科の先生は採血のエキスパートです。
 その生化学実習は、
 採血の練習が目的ではなく、
 血液中の脂質?か何かを測定するために、
 血液を取る必要があったために、
 学生同士で採血をしただけでした。
      ■         ■
 看護師さんも、
 看護師免許を取得するまでは、
 患者さんからの採血はできません。
 免許取得後に、
 はじめて他人に針を刺せます。
 最初は誰でも下手です。
 何回も失敗して、
 針を刺した回数が増えれば増えるほど、
 上達するものです。
      ■         ■
 中学校を卒業後に、
 高校の衛生看護科に進学すると、
 18歳で准看護師の免許証を取得できます。
 大卒で保健師・看護師の免許証を持った人より、
 高卒後に准看護師を取得。
 実務経験を積みながら、
 看護師となった方の方が、
 採血も注射も上手です。
      ■         ■
 私が北大形成外科の研修医となった頃は、
 静脈注射は医師の仕事でした。
 実際には、
 看護師さんの方が、
 はるかに上手でしたが、
 研修医の仕事として、
 私たちが注射針を刺していました。
 忍耐強い患者さんが、
 『先生、今日は3回まで』
 3回まで失敗しても許してあげるね
 注射をさせてくださいました。
      ■         ■
 私に包帯の巻き方を教えてくださったのは、
 北大形成外科外来の看護師、
 畑端雅子(はたばたまさこ)さんでした。
 何かわからないことがあると、
 はたばたさ~ん
 はたばたさ~ん
 と頼って、
 教えていただいていました。
      ■         ■
 処方箋の書き方や、
 軟膏の塗り方を教えていただいたのも、
 ガーゼのたたみ方を教えてくださったのも、
 外来の畑端さんでした。
 こうして、私は少しずつ成長しました。
 今日があるのは、
 みなさまのおかげです。
 30年経っても…
 私を教育してくださった方に感謝しています。

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昔の記憶

第二志望

 私は高校生の時から
 北大に憧れ(あこがれ)を持っていました。
 予備校で習った生物の矢野雋輔先生や、
 高校一年で数学担当だった原田先生が、
 北大のおおらかさ
 素晴らしさを何度も語ってくださったからです。
 一浪しても、
 北大(医)の合格レベルは高く、
 理科で物理が必須だったこともあり、
 私は最初から北大(医)を諦めていました。
      ■         ■
 札幌医大を卒業して、
 北大形成外科の研修医になることにしました。
 2008年1月16日の経歴詐称
 という日記に書いてあります。
 札幌医大6年生の時に、
 北大形成外科の大浦武彦教授の、
 特別講義をお聴きして、
 北大へ行くことに決めました。
 北大の研修医になるのに、
 試験はありませんでした。
      ■         ■
 大浦武彦教授は、
 北大の卒業生も、
 札幌医大の卒業生も、
 まったく差別することなく教育してくださいました。
 私にとって、
 医師免許証を取得してから、
 晴れて第一志望
 北大(医)の研修医となれました。
      ■         ■
 私の人生にとって、
 大浦武彦先生の弟子にしていただいたことが、
 貴重な財産となりました。
 ご恩は一生忘れません
 今、こうして札幌美容形成外科で診療ができるのも、
 大浦先生はじめ、
 北大形成外科の諸先輩に教えていただいたからです。
 免許取り立てのころは…
 ほんとうに何もできませんでした。
      ■         ■
 大学医学部で学ぶのは6年間です。
 主として基礎医学や臨床医学の
 知識を身につけて、
 医師国家試験を受けます。
 医師としての技術や能力は卒業してからです。
 どんなに偏差値の高い大学を卒業しても、
 卒業後に受けた教育が悪いと…
 医療事故常習者になってしまいます。
      ■         ■
 私はとてもラッキーでした。
 大浦武彦先生
 吉田哲憲先生という、
 素晴らしい先輩に、
 医師としての基本を教えていただきました。
 今春の入学試験で、
 第一志望の大学を諦めて、
 第二志望の大学に入学した方へのメッセージです。
      ■         ■
 医師免許証はどこで取得しても同じです。
 卒業後に第一志望の大学や病院で、
 研修を受けることによって、
 人生は変わります。
 重要なのは、
 よい指導者につくことです
 私の友人や先輩・後輩医師には、
 有名国立大学卒以外で
 素晴らしい先生が何人もいます。
 入学した大学で人生が決まるのではありません。

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昔の記憶

医学部合格への道②

 私が卒業したのは、
 国公立大学医学部の中では、
 ランクが下の、
 札幌医科大学です。
 それも約30年前です。
 偉そうなことは言えませんが、
 これから医師を目指す方へのアドバイスです。
      ■         ■
 東大理Ⅲや慶応(医)など、
 超難関の医学部ではありません。
 志(こころざし)を持って、
 サラリーマンの子弟でも行ける、
 ふつうの国公立大学医学部への、
 合格への道です。
 最難関の東大理Ⅲでも、
 医師国家試験合格率は100%ではありません。
 入学後に留年する人もいます。
 国家試験に合格していただける、
 医師免許証は国立でも私立でも同じです。
      ■         ■
 札幌市内で進学校といわれる、
 札幌南や札幌北でも、
 現役合格が難しいのが、
 国公立大学の医学部です。
 先日ご紹介した、
 深澤信博先生の文章
 にありましたが、
 医師となった喜びを感じられるのは、
 幸せは他人に尽くせること,
 そしてその人の喜びと感謝の気持ちに
 共感できることです。
      ■         ■
 医師になって30年が経ちます。
 私は深澤先生のように立派な医師ではありません。
 苦労して勉強して
 医師になってよかった
 と思うのは、
 先生、ありがとうございました
 と言っていただけた時です。
 時には予想外の結果で、
 苦言をいただくこともあります。
 そういう時にも、できる限りのことをいたします。
      ■         ■
 勉強は孤独です。
 自宅に引きこもっていると
 自分を見失う恐れがあります。
 朝、早くから夜遅くまで、
 全員が勉強をしている環境にいると、
 自然と勉強するようになります。
 成績を向上させるコツとポイントは、
 よい先生や参考書を見つけることです。
      ■         ■
 私は回転寿司に行くと、
 隣の人が注文した美味しそうなネタを、
 注意深く見ています。
 そうすると、
 美味しいネタがわかります。
 受験勉強も同じです。
 予備校の自習室などを利用すると、
 成績がよい人がどんな勉強をしているかわかります。
 友だちになって、
 話しをするのもよい方法です。
      ■         ■
 高校生向けの予備校の授業は、
 先生がよければ成績UPにつながります。
 進学校と呼ばれる学校でも、
 科目によって先生を選ぶことはできません。
 予備校の授業は、
 先生を選択して受けることができます。
 私は化学の授業で自分の医進クラスではなく、
 他クラスの授業を聴きに行きました。
 その橋本先生は北大理学部の大学院生でしたが、
 とても明快な授業でした。
      ■         ■
 お金持ちになりたいなら、
 医学部を受験することはおすすめしません。
 投資家や上場企業の社長さん、
 IT関連の社長さんをおすすめします。
 他人の役に立ちたい
 自分も困ったので
 医学を勉強したい
 という人に医学部へ進学して欲しいと思います。
 人生は何が幸いするかわからない、
 努力+αがあるかもしれない
 という深澤先生のお言葉に同感です。
 医学部を目指して頑張ってください。

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昔の記憶

四浪(よんろう)

 平成21年4月1日、北海道新聞『いずみ』への投稿です。
 四浪
 この春、四浪の末、
 息子が大学生になる。
 息子はひたすら勉強し、
 親は祈り続けた。
      ■         ■
 去年の合格発表の日。
 「最後の1年で結果を出せなかった。もういいだろう」
 と主人に言われ、
 「母さんごめんね」
 と声を上げて泣いた息子。
 その姿を見て、
 なんとかしてやらなきゃ、と思い、
 主人に
 「もう1年やらせて」と頼み込んだ。
      ■         ■
 そうやって与えたこの1年が、
 息子にとって、
 かえってつらいものになっていないだろうか、
 あの時
 あきらめさせるべきだったんではないか、
 と何度も後悔しかけた。
      ■         ■
 合格ラインに届かなかったセンター試験。
 それでも志望を変えずに
 逆転を狙って出願した2次試験を経て、
 息子は執念で合格を勝ち取った。
 いろんな人に
 いろんなことを言われた4年間だった。
      ■         ■
 高校卒業後、
 社会人になった娘は、
 精神的に大きな支えとなってくれた。
 この結果ですべてが報われた。
 「親として間違いじゃなかった」
 と思わせてくれた息子に、
 私は心から感謝した。
      ■         ■
 合格発表後の息子の声は、
 明るくて大きい。
 生き生きとした息子の声を、
 久しぶりに聞いた気がする。
 一番つらかったのは本人だっただろう。
      ■         ■
 この4年間を思えば、
 今後の6年間、
 医学生として
 息子は頑張り続けられるはずだ。
 浮かれることなく、
 責任重大な職業を
 選ぼうとしていることを忘れないで。
 本当に見たかった桜が、
 ようやくわが家に咲きそうだ。
 平松奈緒美(45歳・パート)
 =十勝管内音更町
 (以上、北海道新聞より引用)
      ■         ■
 平松様に心からおめでとうございます
 祝福のメッセージをお送りします。
 私は4年間、
 札幌医科大学形成外科の講師として働きました。
 その間、400人の医学生に、
 形成外科の講義をしました。
 四浪(よんろう)なんてふつうです。
 社会人経験者も、
 妻帯者もいました。
      ■         ■
 補欠合格で入学しようと、
 四浪で合格しようと、
 医師としての資質には、
 まったく関係ありません
 むしろ、
 ご子息は素晴らしいお医者さんになれます。
 私の同級生を見ても、
 四浪以上で入学して、
 素晴らしい院長になっている先生が何人もいます。
      ■         ■
 卒後30年もして同期会をすると、
 現役合格で一番若い先生が、
 一番老けて見えたりすることもあります。
 4年間は決して無駄ではなかったのです。
 むしろ現役合格で入学後に、
 大学に失望してやる気を無くする人もいます。
 多浪して入学した学生さんは、
 大学に対する情熱が違います。
 しっかり勉強して落第率も低いです。
 (100人入学すると6年間で10人以上落第します)
      ■         ■
 札幌医科大学の入学式は
 4月3日(金)ですね。
 医学部は入学後も勉強が厳しいです。
 実習もあり、レポートもあります。
 6年後には難関の医師国家試験もあります。
 医学部と保健医療学部だけの
 札幌医科大学は、
 総合大学に比べて欠点もあります。
 ただ、よいところもたくさんあります。
 医師国家試験合格率は北大(医)より上です。
      ■         ■
 平松さんのお母さん、
 ご苦労様でした。
 よかったですね
 私の後輩となった平松君へ、
 入学おめでとう
 大いに青春を楽しんでください。
 よい先輩や素敵な彼女を見つけてください。
 心から4年間の努力に敬意を表します。
 6年間勉強して、
 素晴らしいお医者さんになってください。

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医学講座

埋没法が取れた②

 埋没法が何度も取れるのは…
 原因があります。
 技術的に未熟な先生が
 手術をした不幸な例もありました。
 最近多いのは…
 眼瞼下垂症の方に、
 埋没法の手術をした例です。
 下垂の程度にもよりますが、
 埋没法で眼瞼下垂症が一時的に治ることがあります。
 でも取れてしまうのです。
      ■         ■
 患者さん本人が、
 眼瞼下垂症に気付いていないことも、
 多数あります。
 小学校から学級写真を撮ります。
 小学校・中学校の写真を見ると…
 いつもあごを上げています
 高校生くらいになると、
 目を大きく見せようとして、
 懸命に眉を上げて…
 目を大きくして写真を撮っています。
 眉が上がっているのを隠すために…
 前髪を下げて眉を隠しています。
      ■         ■
 こんな方は、
 教室の一番前で…
 見上げるようにして黒板を見るのが苦手です。
 子どもなのに肩が凝っていて、
 おでこにしわができています。
 本人も両親も
 気付いていないことが大部分です。
 アイプチをするようになっても、
 なかなか決まりません!
      ■         ■
 勇気を出して美容外科へ行き
 念願の二重を手に入れたのに…
 わずか数ヵ月でラインが薄くなってきました。
 保証つきだったので、
 もう一度、お直しの手術を受けました。
 それなのに…
 また数ヵ月でラインが薄くなってきました。
 他の美容外科へ行き、
 高い埋没法を受けました。
 それなのに…
 二重のラインは消えてしまいました。
      ■         ■
 私のところへいらした時には、
 片目に8本ずつ、
 合計16本の糸が入っていた方も…
 いらっしゃいました。
 手術前の写真は、
 証拠隠滅のために、
 ありませんでした。
 どこの美容外科で何回手術をしたかも?
 正確に覚えていらっしゃいませんでした。
      ■         ■
 眼瞼下垂症の手術をしました。
 埋没法の糸を取るだけで大変です。
 何本入っていたか?
 わからないという方は、
 糸を探すだけでも大変なのです。
 (糸を外す料金は保険の規定でいただきません)
 ためしてガッテンのおかげで、
 有名になった眼瞼下垂症ですが、
 まだまだ…
 一般の方には知られていない病気が、
 眼瞼下垂症です。

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医学講座

褥瘡(じょくそう)学会北海道地方会

 平成21年3月28日(土)に、
 日本褥瘡(じょくそう)学会北海道地方会が、
 札幌コンベンションセンターでありました。
 300人以上の看護師、医師、介護職員、研究者など
 多数の参加で会場は満席でした。
 日本褥瘡学会は、
 私の恩師である、
 大浦武彦先生が平成10年に設立されました。
      ■         ■
 褥瘡(じょくそう)とは床ずれのこと。
 ベッド上で寝ている時にできるきずです。
 高齢化社会を迎え、
 褥瘡で悩む多くの人を診察して、
 大浦武彦先生が専門的な予防と治療の必要性を考え、
 この学会を設立されました。
 最初の学会は東京の品川でありました。
      ■         ■
 第一回の学会なのに…
 会場は人であふれていました。
 その数の多さに私は驚きました。
 この10年間に褥瘡治療は大きく進歩しました。
 医学部や看護学部、看護学校でも、
 褥瘡の講義は少なく、
 医療従事者であっても、
 正しい知識を持っていませんでした。
      ■         ■
 大浦武彦先生は、
 日本全国、世界中を飛び回って、
 褥瘡の講演をなさり、
 その間に在宅診療もなさり、
 スーパーマンのように…
 褥瘡治療の教育と啓蒙をなさいました。
 その結果、
 一度に数百人の看護師さんなどが集まるほど、
 褥瘡学会を大きくなさいました。
 実にすごいことです。
      ■         ■
 3月28日の学会では、
 教育セミナーも開催されました。
 この10年間で進歩したものに、
 褥瘡予防マットレスがあります。
 ランチョンセミナーでは、
 ㈱モルテン
 梶原隆司様の講演がありました。
 私も実際にマットレスに寝てみました。
 もし万一寝たきりになったら、
 このマットレスだったら褥瘡ができないと思いました。
 介護・福祉系の方には
 是非参加していただきたい学会です。

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