昔の記憶
死後の願い
私は、医師でありながら…
平成元年(1989年)に
市立札幌病院に勤務するまでは、
脳死とはどんな状態か?
知りませんでした。
毎日救急部へ行って、
重症の外傷や熱傷の患者さんを、
救急の先生と一緒に治療していました。
私はそこではじめて脳死の患者さんを診察しました。
■ ■
それまでは、漠然としか脳死を知りませんでした。
救命救急の現場で、
脳死とはどのような状態であるかを知りました。
実際に、そこでチーム協力者として働いてみて…
脳死になった患者さんがどのような状態で、
どのような経過を取るかわかりました。
ご家族の苦しみや、
経済的な負担もわかりました。
■ ■
私は30歳台でした。
自分が脳死になったら臓器提供をしようと思いました。
ある日、腎バンクの登録希望者を募集していたので、
私はすぐに腎バンクに登録しました。
その後、臓器移植法が整備され、
臓器提供意思表示カードを医師会でもらいました。
腎臓提供カードから、
1998年に臓器提供意思表示カードに切り替えました。
私の臓器や組織は、
ボロボロで使い物にならないかも知れませんが?
自分の死後に臓器が役に立つなら喜んで提供します。
■ ■
自分が死んでからも…
誰かの役に立って、
誰かの体の一部として‘生きて’いたいと思っています。
前にも書きましたが…
できれば…
私の体の一部でも(キレイな)女性の中で‘生きて’いたい…
というのがひそかな願いです。
家内は…
『そんなこと言ったって無理ょ』
と冷ややかに見ています。
さくらんぼさんにも叱られるかなぁ…?
昔の記憶
はじめての葬儀
急性心筋梗塞で急逝した岳父の葬儀は、
はじめての経験でした。
家内と母は、呆然(ぼうぜん)とし、
何も考えられない状態でした。
義弟は、
『どうしたんや…?』
『じいちゃん』と号泣しましたが、
気を取り直しました。
義弟と私が親戚と相談しました。
■ ■
頼りになったのは、
島根県からいらした、本家のご長男でした。
私より少し年上で、当時40歳台でした。
義父の長兄はすでに他界していました。
本家のご長男は葬儀や死後の手続きなど、
何でも熟知していました。
すごいと思いました。
恥ずかしながら…
私は54歳なのに、
本間家の家紋も知りません。
学校では教えてくれない、
世間の常識が欠落していることを知りました。
■ ■
家内は神戸で育ちましたが、
子どもの頃は国鉄の官舎に住んでいました。
義父が国鉄を退職後に、
奈良県香芝市(かしばし)の新興住宅地に住みました。
香芝市は奈良時代からの古い町並みと、
しっかり整備された新興住宅地の、
2つの異なったタイプの町並みがありました。
浄土宗の林法寺は、
実家からすぐ近くで、
古い町並みと新しい街の境界にありました。
■ ■
新興住宅地の場合、
檀家でもない限り、
お寺とのお付き合いはありません。
私たちも実家へ帰る度に、
お寺があることは知っていました。
でも、まさかそこのお寺にお世話になるとは、
夢にも思っていませんでした。
山田様という和尚様が、
おじいちゃんにお経を上げに来てくださいました。
さすが奈良のお坊さんは徳の深い方でした。
■ ■
地元の葬儀社の方がいらっしゃいました。
葬儀をどこで行うか?
参列者の数は?
はじめての私たちには、
想像もつかないことばかりでした。
祭壇の大きさ?
予算?
何から何までわかりません。
ここでも本家のご長男が活躍されました。
■ ■
『うちは○○人やったけど…』
『おじさんは、現職やから…』
と参列者の数は、経験者でも想像がつきません。
おじいちゃんの会社の方が、
アドバイスをくださいました。
退職後9年とはいえ、
大鉄工業というJR西日本の軌道工事をする、
大阪支店大阪営業所長をしていました。
亡くなって葬儀にいらしていただいた方から、
私はあらためて義父の偉大さを知りました。
■ ■
葬儀社が推薦してくれたのは、
地元の町内会館でした。
実家から比較的近くでした。
当時は今のようにセレモニーホールというような、
葬儀専門のホールは近くにありませんでした。
私は義弟とその会館を下見に行きました。
夜遅くで閉まっていましたが、
外観だけで狭いのがわかりました。
ここでは(参列者が)入らないと直感しました。
その足で林法寺へ行きました。
立派な門がある大きなお寺でした。
■ ■
亡くなった夜は、
島根県からいらした親戚から、
おじいちゃんの生い立ちや、
今までの生活などをお聞きしました。
私はそれをメモして、
おじいちゃんの歴史と簡易家系図をつくりました。
そのメモを清書して、
翌日、義弟や親戚とお寺に持参しました。
お寺で葬儀を営めないか?と
ご住職の山田様にお願いしました。
山田様はお話しを聞いて下さり、
お寺の本堂での葬儀を承諾してくださいました。
■ ■
お寺の境内には桜が咲き、
立派な本堂に祭壇ができました。
おじいちゃんの歴史から、
慈徳大願居士という戒名をいただきました。
小学校を出て国鉄に就職。
働きながら定時制高校を卒業し、
大阪工業大学2部へ進学、
卒業はできなかったらしいですが、
国鉄の保線区長にまでなったおじいちゃんに、
ぴったりのいい戒名だと思っています。
■ ■
私は家内には、よく文句を言っていますが、
義父のことを立派な人だと尊敬しています。
4月5日に義父の17回忌がありました。
私は行けませんでしたが、
家内と義母に
一日の京都旅行をプレゼントしました。
私の義父に対する供養です。
昔の記憶
命日(めいにち)
今日、4月6日は、
岳父(がくふ:家内の父)、
故_片寄茂八(かたよせもはち)の命日です。
平成5年(1993年)に、
兵庫県三田市(さんだし)のゴルフ場で、
急性心筋梗塞で亡くなりました。
64歳でした。
65歳になる23日で前でした。
■ ■
その日は火曜日でした。
市立札幌病院皮膚科の外来で、
13:30から診療を開始して、
間もなくでした。
看護婦さんが、
『先生、奥さんから電話です』
と電話を取り次いでくれました。
『こんな時間に何だろう?』
『子どもがケガでもしたのかなぁ…?』
と思って電話に出ました。
■ ■
電話を取ると…
家内の声が震えていました。
『おじいちゃんが…』
『おじいちゃんが…、死んだって…』
それを聞いて、
私は自分の父親が亡くなったと、
一瞬、思いました。
市立札幌病院へ勤務してから、
私は、毎日、救急部で、
‘ある日突然亡くなる人’を見ていました。
■ ■
市立札幌病院の正面玄関は、
午後7時に閉まっていました。
その後は、救急部の横が通用口でした。
私が帰宅するのは、
午後7時以降が多く、
救急部の公衆電話から、
身内の急逝(きゅうせい)を伝える方を、
何度も目にしていました。
まさか、自分の身内が急逝するとは…
しかも、家内の父が亡くなるとは…
夢にも思っていませんでした。
■ ■
家内に、
『すぐに帰るから航空券を手配して』
とそれだけを指示しました。
私は4月に赴任したばかりの、
竹野巨一(たけのなおかず)先生に外来をお願いし、
直属の上司である皮膚科主任医長の
嶋崎匡(しまざきただし)先生に報告をしました。
亡くなったことが信じられず、
搬送された、
三田市民病院へ電話をしました。
■ ■
義父の最期を診てくださった、
担当の先生とお話しができました。
『救急車で搬送されていらした時は、心肺停止でした』
『蘇生(そせい)を試みましたが、戻りませんでした』
亡くなったのが、
家内の父であることを確認しました。
亡くなる2日前まで、
私の子どもたち2人(小4と小2)が、
家内の実家に遊びに行っていました。
■ ■
『おじいちゃんに遊園地に連れて行ってもらった』
『おじいちゃん、ちょっと辛そうだった』
『酸欠でなぁ』と休んでいた。
など子どもと話していたところでした。
今から考えると、
下肢の動脈が細くなって、
足が冷たいというので、
登山用の靴下を送っていました。
他にも前兆らしき症状がありました。
■ ■
幸い飛行機に空席があり、
午後のJALが取れました。
新千歳空港に着くと、
JASが少し早く出るというので、
JASに変更しました。
いつもはANAですが、
この時は少しでも早い便に乗りました。
当時は機内に公衆電話があったので、
機内から実家へ電話をしました。
■ ■
伊丹空港に到着しました。
いつも、
『よく来た』と出迎えてくれた義父はいません。
空港からタクシーで、
高速道路を飛ばしました。
家内は一言も話しません。
実家に着いたのは、
午後7時頃でした。
顔に白い布をかけられた義父が、
布団の上に横たわっていました。
■ ■
どうしてこんなことになったのか…?
途方に暮れていました。
そのうち、
親戚の人たちが
島根県から駆けつけて来ました。
私たちは北海道からでしたが、
東京へ出張中の義弟よりも、
島根県からの親戚よりも
早く着きました。
私にとっては、唯一の救いでした。
■ ■
家内は、
『私が北海道へお嫁に来たので、お父さんが早く死んだ』
と悔やんでいました。
家内が回復するまで、
何年もかかりました。
人が亡くなる場面には慣れていた私も、
亡くなった後のことは、はじめての経験でした。
人が亡くなるとこんなに大変だとは知りませんでした。
■ ■
親戚の人たちから、
菩提寺(ぼだいじ)のことや、
葬儀のことなどを教えていただき準備しました。
おじいちゃんは、
慈徳大願居士という名になりました。
浄土宗の林法寺(りんぽうじ)というお寺で
葬儀を営みました。
桜が満開できれいでした。
何年経っても忘れられない日です。
医学講座
縫い方の練習
私が医学生だった30年前も、
現在の医学教育でも、
採血も
縫合法(ほうごうほう)も、
教室で勉強するだけで、
人間を
実験台にしての
練習はできません。
■ ■
採血でしたら…
学生同士で練習ができますが…
さすがに…
学生同士を
切って
縫う
のはできません。
人間にメス入れて
切るのは…
医師免許証を持った人にしか許されていません。
■ ■
私が札幌医大形成外科の講師をしていた
10年前に、
形成外科を選択した6年生の学生さんに、
縫合法という『縫い方』を教えました。
人の皮膚を縫うことはできないので、
皮膚に見立てた
医療用材料(スポンジ)を、
ナイロン糸という実際に使う糸で縫合します。
■ ■
ナイロン糸は高く、
一本、最低数百円はします。
学生実習でも、
手術に使う糸しか売っていません。
一人で何本も使います。
慣れない学生はすぐに糸を切ってしまったり、
針を曲げてしまったりします。
少ない予算で、
この糸を買うのも大変でした。
■ ■
糸も高価ですが…
持針器(じしんき)という、
針と糸をつかむ器械や、
先の細い摂子(せっし:ピンセットのこと)も、
高価です。
これらの器械を揃えるのにも、
お金がかかりました。
予算がなかったのです。
■ ■
不思議に思われるかもしれません。
医師免許証がないと…
切ったり縫ったりできないのに…
実際の医学教育では、
この切って縫う練習は、
必須科目ではありませんでした。
自動車の運転免許証を与えるのに、
学科だけで、
コースも路上もなしで、
ペーパーテストだけで免許をもらえるようなものです。
■ ■
美容師さん理容師さんの試験には、
実技があるようですが、
医師国家試験にも、
看護師国家試験にも、
実技試験はありません。
医師免許証をいただいても、
新米医師は何もできません。
■ ■
実際に医師免許証を取得してから、
はじめて手術を担当させていただきます。
医学部では実際にメスを持って、
切ることは教えてもらっていないのです。
医師免許取得前は、
仮免許なんてのはありません。
大学の実習で人間を
切ったり縫ったりはできないのです。
昔の記憶
採血の練習
私が医師免許証を取得したのが、
昭和55年(1980年)です。
今では信じられないことですが、
免許取立ての頃は、
採血も満足にできませんでした。
医師免許を取得するまでに、
私が採血をしたのは…
医学部の生化学実習で一度だけでした。
■ ■
私が採血をしたのは、
同期の三浦純一先生でした。
なんとか採血できましたが、
採血の痕が残りました。
私から採血したのも、
三浦純一先生でした。
学生同士で採血をしました。
三浦純一先生も
私の太くて見やすい血管からでも、
採血するのが大変でした。
■ ■
三浦純一先生は
旭川赤十字病院で、
長い間、小児科部長をした後で、
みうら小児科クリニックを開業されています。
今ではどんなに小さな子どもさんからでも、
採血ができると思います。
小児科の先生は採血のエキスパートです。
その生化学実習は、
採血の練習が目的ではなく、
血液中の脂質?か何かを測定するために、
血液を取る必要があったために、
学生同士で採血をしただけでした。
■ ■
看護師さんも、
看護師免許を取得するまでは、
患者さんからの採血はできません。
免許取得後に、
はじめて他人に針を刺せます。
最初は誰でも下手です。
何回も失敗して、
針を刺した回数が増えれば増えるほど、
上達するものです。
■ ■
中学校を卒業後に、
高校の衛生看護科に進学すると、
18歳で准看護師の免許証を取得できます。
大卒で保健師・看護師の免許証を持った人より、
高卒後に准看護師を取得。
実務経験を積みながら、
看護師となった方の方が、
採血も注射も上手です。
■ ■
私が北大形成外科の研修医となった頃は、
静脈注射は医師の仕事でした。
実際には、
看護師さんの方が、
はるかに上手でしたが、
研修医の仕事として、
私たちが注射針を刺していました。
忍耐強い患者さんが、
『先生、今日は3回まで』と
3回まで失敗しても許してあげるねと
注射をさせてくださいました。
■ ■
私に包帯の巻き方を教えてくださったのは、
北大形成外科外来の看護師、
畑端雅子(はたばたまさこ)さんでした。
何かわからないことがあると、
はたばたさ~ん
はたばたさ~ん
と頼って、
教えていただいていました。
■ ■
処方箋の書き方や、
軟膏の塗り方を教えていただいたのも、
ガーゼのたたみ方を教えてくださったのも、
外来の畑端さんでした。
こうして、私は少しずつ成長しました。
今日があるのは、
みなさまのおかげです。
30年経っても…
私を教育してくださった方に感謝しています。
昔の記憶
第二志望
私は高校生の時から
北大に憧れ(あこがれ)を持っていました。
予備校で習った生物の矢野雋輔先生や、
高校一年で数学担当だった原田先生が、
北大のおおらかさ、
素晴らしさを何度も語ってくださったからです。
一浪しても、
北大(医)の合格レベルは高く、
理科で物理が必須だったこともあり、
私は最初から北大(医)を諦めていました。
■ ■
札幌医大を卒業して、
北大形成外科の研修医になることにしました。
2008年1月16日の経歴詐称
という日記に書いてあります。
札幌医大6年生の時に、
北大形成外科の大浦武彦教授の、
特別講義をお聴きして、
北大へ行くことに決めました。
北大の研修医になるのに、
試験はありませんでした。
■ ■
大浦武彦教授は、
北大の卒業生も、
札幌医大の卒業生も、
まったく差別することなく教育してくださいました。
私にとって、
医師免許証を取得してから、
晴れて第一志望の
北大(医)の研修医となれました。
■ ■
私の人生にとって、
大浦武彦先生の弟子にしていただいたことが、
貴重な財産となりました。
ご恩は一生忘れません。
今、こうして札幌美容形成外科で診療ができるのも、
大浦先生はじめ、
北大形成外科の諸先輩に教えていただいたからです。
免許取り立てのころは…
ほんとうに何もできませんでした。
■ ■
大学医学部で学ぶのは6年間です。
主として基礎医学や臨床医学の
知識を身につけて、
医師国家試験を受けます。
医師としての技術や能力は卒業してからです。
どんなに偏差値の高い大学を卒業しても、
卒業後に受けた教育が悪いと…
医療事故常習者になってしまいます。
■ ■
私はとてもラッキーでした。
大浦武彦先生や
吉田哲憲先生という、
素晴らしい先輩に、
医師としての基本を教えていただきました。
今春の入学試験で、
第一志望の大学を諦めて、
第二志望の大学に入学した方へのメッセージです。
■ ■
医師免許証はどこで取得しても同じです。
卒業後に第一志望の大学や病院で、
研修を受けることによって、
人生は変わります。
重要なのは、
よい指導者につくことです。
私の友人や先輩・後輩医師には、
有名国立大学卒以外で
素晴らしい先生が何人もいます。
入学した大学で人生が決まるのではありません。
昔の記憶
医学部合格への道②
私が卒業したのは、
国公立大学医学部の中では、
ランクが下の、
札幌医科大学です。
それも約30年前です。
偉そうなことは言えませんが、
これから医師を目指す方へのアドバイスです。
■ ■
東大理Ⅲや慶応(医)など、
超難関の医学部ではありません。
志(こころざし)を持って、
サラリーマンの子弟でも行ける、
ふつうの国公立大学医学部への、
合格への道です。
最難関の東大理Ⅲでも、
医師国家試験合格率は100%ではありません。
入学後に留年する人もいます。
国家試験に合格していただける、
医師免許証は国立でも私立でも同じです。
■ ■
札幌市内で進学校といわれる、
札幌南や札幌北でも、
現役合格が難しいのが、
国公立大学の医学部です。
先日ご紹介した、
深澤信博先生の文章
にありましたが、
医師となった喜びを感じられるのは、
幸せは他人に尽くせること,
そしてその人の喜びと感謝の気持ちに
共感できることです。
■ ■
医師になって30年が経ちます。
私は深澤先生のように立派な医師ではありません。
苦労して勉強して
医師になってよかった
と思うのは、
先生、ありがとうございました
と言っていただけた時です。
時には予想外の結果で、
苦言をいただくこともあります。
そういう時にも、できる限りのことをいたします。
■ ■
勉強は孤独です。
自宅に引きこもっていると
自分を見失う恐れがあります。
朝、早くから夜遅くまで、
全員が勉強をしている環境にいると、
自然と勉強するようになります。
成績を向上させるコツとポイントは、
よい先生や参考書を見つけることです。
■ ■
私は回転寿司に行くと、
隣の人が注文した美味しそうなネタを、
注意深く見ています。
そうすると、
美味しいネタがわかります。
受験勉強も同じです。
予備校の自習室などを利用すると、
成績がよい人がどんな勉強をしているかわかります。
友だちになって、
話しをするのもよい方法です。
■ ■
高校生向けの予備校の授業は、
先生がよければ成績UPにつながります。
進学校と呼ばれる学校でも、
科目によって先生を選ぶことはできません。
予備校の授業は、
先生を選択して受けることができます。
私は化学の授業で自分の医進クラスではなく、
他クラスの授業を聴きに行きました。
その橋本先生は北大理学部の大学院生でしたが、
とても明快な授業でした。
■ ■
お金持ちになりたいなら、
医学部を受験することはおすすめしません。
投資家や上場企業の社長さん、
IT関連の社長さんをおすすめします。
他人の役に立ちたい
自分も困ったので
医学を勉強したい
という人に医学部へ進学して欲しいと思います。
人生は何が幸いするかわからない、
努力+αがあるかもしれない
という深澤先生のお言葉に同感です。
医学部を目指して頑張ってください。
昔の記憶
四浪(よんろう)
平成21年4月1日、北海道新聞『いずみ』への投稿です。
四浪
この春、四浪の末、
息子が大学生になる。
息子はひたすら勉強し、
親は祈り続けた。
■ ■
去年の合格発表の日。
「最後の1年で結果を出せなかった。もういいだろう」
と主人に言われ、
「母さんごめんね」
と声を上げて泣いた息子。
その姿を見て、
なんとかしてやらなきゃ、と思い、
主人に
「もう1年やらせて」と頼み込んだ。
■ ■
そうやって与えたこの1年が、
息子にとって、
かえってつらいものになっていないだろうか、
あの時
あきらめさせるべきだったんではないか、
と何度も後悔しかけた。
■ ■
合格ラインに届かなかったセンター試験。
それでも志望を変えずに
逆転を狙って出願した2次試験を経て、
息子は執念で合格を勝ち取った。
いろんな人に
いろんなことを言われた4年間だった。
■ ■
高校卒業後、
社会人になった娘は、
精神的に大きな支えとなってくれた。
この結果ですべてが報われた。
「親として間違いじゃなかった」
と思わせてくれた息子に、
私は心から感謝した。
■ ■
合格発表後の息子の声は、
明るくて大きい。
生き生きとした息子の声を、
久しぶりに聞いた気がする。
一番つらかったのは本人だっただろう。
■ ■
この4年間を思えば、
今後の6年間、
医学生として
息子は頑張り続けられるはずだ。
浮かれることなく、
責任重大な職業を
選ぼうとしていることを忘れないで。
本当に見たかった桜が、
ようやくわが家に咲きそうだ。
平松奈緒美(45歳・パート)
=十勝管内音更町
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
平松様に心からおめでとうございますと
祝福のメッセージをお送りします。
私は4年間、
札幌医科大学形成外科の講師として働きました。
その間、400人の医学生に、
形成外科の講義をしました。
四浪(よんろう)なんてふつうです。
社会人経験者も、
妻帯者もいました。
■ ■
補欠合格で入学しようと、
四浪で合格しようと、
医師としての資質には、
まったく関係ありません。
むしろ、
ご子息は素晴らしいお医者さんになれます。
私の同級生を見ても、
四浪以上で入学して、
素晴らしい院長になっている先生が何人もいます。
■ ■
卒後30年もして同期会をすると、
現役合格で一番若い先生が、
一番老けて見えたりすることもあります。
4年間は決して無駄ではなかったのです。
むしろ現役合格で入学後に、
大学に失望してやる気を無くする人もいます。
多浪して入学した学生さんは、
大学に対する情熱が違います。
しっかり勉強して落第率も低いです。
(100人入学すると6年間で10人以上落第します)
■ ■
札幌医科大学の入学式は
4月3日(金)ですね。
医学部は入学後も勉強が厳しいです。
実習もあり、レポートもあります。
6年後には難関の医師国家試験もあります。
医学部と保健医療学部だけの
札幌医科大学は、
総合大学に比べて欠点もあります。
ただ、よいところもたくさんあります。
医師国家試験合格率は北大(医)より上です。
■ ■
平松さんのお母さん、
ご苦労様でした。
よかったですね。
私の後輩となった平松君へ、
入学おめでとう
大いに青春を楽しんでください。
よい先輩や素敵な彼女を見つけてください。
心から4年間の努力に敬意を表します。
6年間勉強して、
素晴らしいお医者さんになってください。
医学講座
埋没法が取れた②
埋没法が何度も取れるのは…
原因があります。
技術的に未熟な先生が
手術をした不幸な例もありました。
最近多いのは…
眼瞼下垂症の方に、
埋没法の手術をした例です。
下垂の程度にもよりますが、
埋没法で眼瞼下垂症が一時的に治ることがあります。
でも取れてしまうのです。
■ ■
患者さん本人が、
眼瞼下垂症に気付いていないことも、
多数あります。
小学校から学級写真を撮ります。
小学校・中学校の写真を見ると…
いつもあごを上げています。
高校生くらいになると、
目を大きく見せようとして、
懸命に眉を上げて…
目を大きくして写真を撮っています。
眉が上がっているのを隠すために…
前髪を下げて眉を隠しています。
■ ■
こんな方は、
教室の一番前で…
見上げるようにして黒板を見るのが苦手です。
子どもなのに肩が凝っていて、
おでこにしわができています。
本人も両親も
気付いていないことが大部分です。
アイプチをするようになっても、
なかなか決まりません!
■ ■
勇気を出して美容外科へ行き、
念願の二重を手に入れたのに…
わずか数ヵ月でラインが薄くなってきました。
保証つきだったので、
もう一度、お直しの手術を受けました。
それなのに…
また数ヵ月でラインが薄くなってきました。
他の美容外科へ行き、
高い埋没法を受けました。
それなのに…
二重のラインは消えてしまいました。
■ ■
私のところへいらした時には、
片目に8本ずつ、
合計16本の糸が入っていた方も…
いらっしゃいました。
手術前の写真は、
証拠隠滅のために、
ありませんでした。
どこの美容外科で何回手術をしたかも?
正確に覚えていらっしゃいませんでした。
■ ■
眼瞼下垂症の手術をしました。
埋没法の糸を取るだけで大変です。
何本入っていたか?
わからないという方は、
糸を探すだけでも大変なのです。
(糸を外す料金は保険の規定でいただきません)
ためしてガッテンのおかげで、
有名になった眼瞼下垂症ですが、
まだまだ…
一般の方には知られていない病気が、
眼瞼下垂症です。
医学講座
褥瘡(じょくそう)学会北海道地方会
平成21年3月28日(土)に、
日本褥瘡(じょくそう)学会北海道地方会が、
札幌コンベンションセンターでありました。
300人以上の看護師、医師、介護職員、研究者など
多数の参加で会場は満席でした。
日本褥瘡学会は、
私の恩師である、
大浦武彦先生が平成10年に設立されました。
■ ■
褥瘡(じょくそう)とは床ずれのこと。
ベッド上で寝ている時にできるきずです。
高齢化社会を迎え、
褥瘡で悩む多くの人を診察して、
大浦武彦先生が専門的な予防と治療の必要性を考え、
この学会を設立されました。
最初の学会は東京の品川でありました。
■ ■
第一回の学会なのに…
会場は人であふれていました。
その数の多さに私は驚きました。
この10年間に褥瘡治療は大きく進歩しました。
医学部や看護学部、看護学校でも、
褥瘡の講義は少なく、
医療従事者であっても、
正しい知識を持っていませんでした。
■ ■
大浦武彦先生は、
日本全国、世界中を飛び回って、
褥瘡の講演をなさり、
その間に在宅診療もなさり、
スーパーマンのように…
褥瘡治療の教育と啓蒙をなさいました。
その結果、
一度に数百人の看護師さんなどが集まるほど、
褥瘡学会を大きくなさいました。
実にすごいことです。
■ ■
3月28日の学会では、
教育セミナーも開催されました。
この10年間で進歩したものに、
褥瘡予防マットレスがあります。
ランチョンセミナーでは、
㈱モルテンの
梶原隆司様の講演がありました。
私も実際にマットレスに寝てみました。
もし万一寝たきりになったら、
このマットレスだったら褥瘡ができないと思いました。
介護・福祉系の方には
是非参加していただきたい学会です。