医学講座
先行きが不透明な時代こそ、原点に立ち返る
平成22年7月25日、北海道新聞朝刊の記事です。
札幌圏版に掲載されていました。
ちょっと長い文章ですが、
とても印象深く読みましたので、掲載します。
はなし_抄
豊田自動織機顧問_磯谷智生(いそがい・ちせい)さん
(6月22日・北海道銀行中小企業人材育成基金の講演会から)
先行きが不透明な時代こそ、原点に立ち返る
トヨタグループの概況を簡単に話しますと、現在、グループはトヨタ自動車や弊社など15社あります。グループ全体の売上高は約40兆円。全世界での従業員数は約80万人にもなります。ここまで発展できたのは、皆さんのおかけで非常に感謝しています。しかし、2007年のリーマン・ショックを機に、08年度は大幅赤字に陥ったとともに、米国での大規模リコールは、グループにとっても大きな衝撃でした。大変なご迷惑をおかけしたと思っています。
ひるがえって09年度の決算をみますと、少しは黒字が出てきて先行きが良いとの印象を受けています。世界的に環境・エネルギーに焦点が当たり、自動車産業に目を転じれば、ガソリン車から電気自動車への関心がますます強くなってきています。これは、産業構造が大幅に変化していることを示していると同時に、将来的には、先行きが不透明といえるかもしれません。
しかし、こうしたときこそ原点に立ち返って反省すべき所は反省し、良い所を継続し、伸ばしていく。将来に希望をもって前に進みたいと思っています。
トヨタグループのものづくりの原点は、グループの創業者である豊田佐吉が発明した「G型自動織機」にあります。今から120年ぐらい前、織機は人の手と足を使い布を織っていました。貧しい農家に生まれた佐吉は、母親が朝から晩まで機織りに苦労する姿を日夜目の当たりにして育ちました。縦糸の間に横糸を左から右へ右から左へと動かす、大変手間のかかる作業だったためです。
さらに当時は、若い女性たちが休みなく機織りにいそしみ、体をこわす人もいたそうです。「母親や女性従業員を少しでも楽にさせたい」。これが佐吉の切なる願いでした。1890年(明治23年)、佐吉はトヨタ式木製人力織機を発明しました。それは片手でおさを前後させるだけで、横組みが同時にできるようになっていて、従来に比べて能率を4割から5割も向上させるものでした。
佐吉は、その後も織機に改良に改良を重ね1924年(大正13年)、長男喜一郎とともに、ついにG型自動織機を完成させたのです。G型は縦糸が切れると、織機が自動的に止まる仕組みになっています。縦糸が切れたままだと、不良品が大量にできてしまうからです。
止まると、すぐに人が修理して再び動かす。現代のように電気的、光学的なセンサーのない時代に、こうした仕組みを作り上げた佐吉の発明は驚異的だったと思います。
故障があれは自動的に停止して、修理して再び機械を動かす仕組み。これは、必要な商品を必要な時に、必要な分だけ作るという「ジャストインタイム」の概念につながっています。
佐吉の原点は、異常があれば自動的に止まる。不良品は絶対につくらない。人を機械の番人にしない-の3点でした。だからこそ、織機の連続運転を可能にし、1人で30台以上も受け持つことができるようになりました。当時の世界は「マジックブーム」として、佐吉に惜しみない称賛を送りました。
ただ、このG型自動織機は発明して、すぐに販売したわけではないのです。販売するまで2年間も営業試験を行いました。佐吉は機械の動きが、価値を生まなければならないと考えていました。お客さまに絶対に迷惑をかけてはいけない。この考えをわれわれは「自働化(じどうか)」と呼んでいます。故障しない設計を心掛け、806㌻からなる取り扱いマニュアルまで作成しました。
佐吉の発明したG型の性能の良さは、今でも同じ仕組みの織機が、中国や東南アジアで数万台も使われていることが証明しています。
いそがい・ちせい_1929年名古屋市生まれ。53年に名古屋大学工学部卒業後、豊田自動織機製作所(現・豊田自動織機)入社。74年に車両事業部生産技術部長、78年取締役を経て93年に社長。会長を経て2005年から現職。80歳。
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
私(本間家)は運転免許を取得した時から
トヨタ車です。
トヨタの車は故障知らずです。
16年も乗ったエスティマは、
故障はほぼ零でした。
その世界のトヨタですら…
リーマン・ショックで売上激減。
私たちの美容外科業界も悲惨です。
■ ■
大手美容外科の…
神奈川クリニックは…
2010年5月に会社更生法の申請をしました。
帝国データバンクによると…
負債は68億円だそうです。
美容外科学会へ行っても…
景気が良い話しは聞きません。
どこも大変なようです。
■ ■
私は磯谷(いそがい)顧問のお話しを読んで、
美容医療業界も、
医療の原点に立ち返ってこそ、
この不況を乗り切ることができると考えました。
医療は薄利多売には馴染みません。
困っている人を援助するのが、
医療の原点です。
儲かるからといって…
美容外科からレーシックの眼科へ転向は、
どう考えてもおかしな道です。
■ ■
私は自分で開業する時に、
総合病院の形成外科では
できなかったことをしようと考えました。
私の医療の原点は、
安全で快適な医療の提供。
確かな技術と信頼です。
先行きが不透明な医療業界ですが、
困っている人を助けるのが…
医療の原点だと信じています。
以上、北海道新聞より引用
院長の休日
暑中お見舞い申し上げます
4月末に転居したまま…
転居通知も差し上げていませんでした。
申し訳ございませんでした。
遅ればせながら…
転居通知+暑中お見舞いの…
葉書を出しました。
■ ■
北海道も今年は暑い夏ですが…
本州(山形も…)猛暑だと…
メールやお手紙をいただきました。
熱中症でお亡くなりになった方もいらっしゃると、
今朝の報道で知りました。
お悔やみとお見舞いを申し上げます。
私は暑いのが苦手です。
■ ■
昔の北海道には…
エアコンもクーラーもありませんでした。
病院も…
涼しいのは…
手術室と…
コンピューターがあったCT室だけでした。
大学ももちろんエアコンなしです。
夏の臨床講堂は…
まさに蒸し風呂でした。
■ ■
小中学校のことはよく知りませんが…
今でも北海道の小中学校には…
エアコンもクーラーもないと思います。
本州でもあるのは一部だけでしょうか?
大学でも…
古い校舎では…
自然の風が唯一の冷房…
というところもあると思います。
■ ■
北海道の良いところは…
夜になると涼しくなるところです。
暑いあついといっても…
夜に30度を超えることはありません。
窓を開けると…
涼しい風が入ってきます。
北大には緑が多いので…
森の香りがします。
夏休みには…
是非、さわやかな北海道へいらしてください。
医学講座
顔貌の変化
顔貌(がんぼう)の変化(へんか)と読みます。
顔が変わることです。
美容外科や形成外科は、
顔という、
大切なパーツを変える仕事です。
レーザーでお肌をきれいにするのはいいけど…
顔を変えるのは…
どうかなぁ~~???
という方は世の中にたくさんいらっしゃいます。
■ ■
私も昔はそう考えていました。
自分が美容整形の医者になるとは、
考えたこともありませんでした。
私は血を見るのがこわい医学生でした。
形成外科医になった理由という、
2006年11月26日の院長日記に書いてあります。
■ ■
最初に美容外科の患者さん(お客様)を見た時には、
私の率直な印象は
『こんなにキレイな方なのに
どうしてコラーゲンでシワなんかとるの?』でした。
形成外科から美容外科という
2007年3月27日の院長日記に書いてあります。
当時は、
北大病院でコラーゲンの臨床試験の担当になりました。
■ ■
あれから30年近くになります。
私の考えも変わりました。
せっかく医学が進歩したのだから…
ちょっと医学の力を借りて…
きれいになればいいじゃないですか?
親からもらった顔だって…
親もきれいだったら…
もっといい人生だったかもしれませんょ。
きれいでしあわせな方が…
親も喜びますよ!
■ ■
それでも…
いきなり変わるのはどうかなぁ~?
と考えるのが人間です。
先生、あまり変わらないようにお願いします!
彼氏にバレないようにお願いします!
会社でバレないようにお願いします!
というお願いもよく承ります。
もっともなお気持ちです。
■ ■
顔貌(がんぼう)の変化を求めて…
手術を受けるのに…
あまり変わらないようにと願うのは、
自然といえば自然な気持ちです。
そんな方でも…
手術から3ヶ月も経って…
腫れが落ち着いてくると…
もっと幅を広くしておけばよかった!
ということになる人もいます。
■ ■
これももっともなお気持ちです。
私のモットーは、
イメージは自然です。
世の中には、
お客さんの求めに応じて、
外人顔でも…
幅広二重の西洋人顔でも…
何でも作ってしまう先生もいます。
私は超ナチュラル派なので、
もの足りないという人も多いようです。
医者と患者の相性も大切です。
■ ■
美容外科や形成外科は十分に相性の合う医師を選ぶべきです。
私がどんなに、これはキレイでしょう。と申し上げても、本人が気に入らなければダメです。
家を建てる場合や自動車を購入する時は、モデルハウスを見たり、試乗者に乗ったりして確められます。
美容外科は高い買い物なのに、試乗することもできません。
ホームページなどでその先生の‘代表作’をよく吟味して、実際にクリニックに足を運んで確めてください。
どんな名医がした手術でも結果に不満足な人はいます。
私は世界一の名医ではありません。
後悔しないためにも、ご自分で吟味して、確認して、同意書にサインをして、手術を受けてください。
医学講座
医者冥利(みょうり)
医師になってよかったと思う瞬間があります。
それはお給料をいただいた時とか…
ではありません。
自分が他人の役に立った…!
と実感できた時です。
この院長日記でも…
何人かの先生の医者冥利を掲載しました。
■ ■
私が一番印象に残っているのが…
産科医冥利という
2007年10月29日に掲載した、
日本産婦人科医会会長、
浜松医科大学長の寺尾俊彦先生のエッセイです。
メディカルトリビューンという
医師向けの新聞に掲載されていました。
■ ■
以下が要旨です。
名古屋大学医学部附属病院に勤務していた40年前、
ある日、浜松から患者さんが診察にみえた。幼いころ、脊柱が湾曲する病気にかかり、身長が中学生位の方だった。
大学で福祉の勉強をしたという、とてもかわいらしい女性である。卒業後、高校教諭と結婚したが、出産はあきらめていた。どの産婦人科医に尋ねても無理とのこと。
しかし、愛する夫の子がどうしても欲しいと遂に名古屋まで来たという。
正直、私も無理かと思った。子宮が大きくなるにつれ腸の行き場がなくなり食事ができない、また、背骨が痛むのではないかと心配した。
しかし、話をしているうちに、この方の明るさと前向きな姿勢なら、ひょっとしていけるかもしれないと思うようになった。
結局、浜松から名古屋まで通っていただき、帝王切開で無事、男の子が誕生した。更に数年後には女の子が誕生した。
この男の子が名古屋大学医学部に入学し医師となった。
卒業後2年間の研修医期間を終え、私たちの産婦人科教室に入ってくれた。さらにまた、結婚し、私たち夫婦が仲人をさせていただいた。
最近、この夫婦にも赤ちゃんが誕生したが、将来きっと素晴らしい医師になってくれるに違いない。
■ ■
医師という仕事は、
ストレスの多い仕事です。
患者さんの死という…
避けては通れない場面と遭遇します。
どんなに頑張っても…
救命できないこともあります。
鹿野恒先生という日記に書いてあります。
そんな時には無力感に襲われます。
■ ■
美容外科や形成外科は…
想像以上に大変な仕事です。
結果が目に見えるために…
どんなに上手にできた!
…と、こちらが思っても…
患者さん(お客さん)が気に入らなければ…
零点と同じです。
■ ■
私にも…
形成外科医になってよかったと思ったことがあります。
私の顔を治してください
と頼まれて…
6時間30分もかけて治した方から…
結婚しましたと…
写真付の葉書をいただいた時。
昔、赤ちゃんの時に手術をした患者さんが
訪ねて来てくれてた時。
■ ■
美容形成外科医になってからは…
手術を受けていただいた方から
院長日記に…
手術を受けてよかったと
コメントをいただいた時。
苦労して手術してよかった!
と…
医者冥利を実感しています。
これからもがんばりたいと思います。
医学講座
未熟児だった私医師に
平成22年7月21日、朝日新聞夕刊の記事です。
小さく生まれて
はぐ_Hug【育(はぐく)む】
未熟児だった私医師に
東京都内の大学付属病院の小児科病棟で、女性医師(29)が、忙しいながらも生き生きと子どもを診ている。おもちゃを手に子どもと一緒に遊びながら、体の具合を聞き出すこともある。
彼女自身、未熟児だった。
都内の日本赤十字病院で1980年8月30日、妊娠27週、1050㌘で産まれた。当時の主治医によると約50%の生存率だったという。肺が未熟で体重が増えず、母親(66)は不安が募った。医師になって2年目の主治医は重圧の中、夢中で治療した。
半年後に退院。順調に育っていった彼女に、産まれた時の周囲の苦労を知っている母親は「あなたは、みんなに支えられて育ってきたのよ」と何度も諭した。
高校3年の5月12日の「看護の日」。病院で看護体験をするという学校行事があった。彼女が選んだのは、自分が産まれた日赤病院だった。新生児集中治療室(NICU)で自分と同じ千㌘の新生児を見て、実際の小ささに驚いた。医師や看護師は24時間体制で新生児の命をつなぎとめる。その中には、生まれた時の彼女を覚えている看護師もいた。どれだけ周囲に支えられてきたのかを実感した。「恩返しをしたい」。小児科を目指すと決めた。
都内の医科大学に進んだ。研修医時代には、急患が途絶えることのない小児科の当直業務を経験するなど厳しい面を実感したが、信念を貢いて小児科を選んだ。
2年前のある日、母親から主治医の名前を初めて教えられ、30年も前のことで覚えていないかも知れないと思いながら手紙を出した。「未熟児の時はお世話になりました」。しかし「詳細に記憶している」と返事があり、会いに行った。「みんなに支えてもらったんだから、今度は君の番だね」と励まされた。
半年間のNICU勤務も経験した。担当した女児の母親に、自分も未熟児だったことを伝えると「うちの子もお医者さんになれるかも」と喜んでくれた。
昨春、病院からの帰り道にある女児の家を訪ねた。「何歳?]と聞くと、指を立てて1歳と教えてくれた。大きくなった姿を見て恩返しを少しでもできたかな、とうれしくなった。(沢伸也)
シリーズ「小さく生まれて」はこれで終わります。
「はぐ」担当記者がツイッターでつぶやいています。子育てをめぐる体験や記事への感想などを、ツイッター(http://twitter.com/asahi_hug)、またはメール(asahi-hug2010@asahi.com)でお寄せください。
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
私の後輩で、
自分の父親が盲人なので…
入学した時から眼科医になると言っていた先生がいます。
写真の腕前はプロ級で…
毎年、富良野や美瑛(びえい)の写真を…
年賀状で送ってくれました。
アレルギー性鼻炎に悩んでいたので…
耳鼻科医になった先生もいます。
医師を目指す理由はさまざまです。
■ ■
私もはじめて…
1000㌘以下の赤ちゃんを見た時には…
こんなに小さくて生きられるのだろうか…?
と思いました。
市立札幌病院のNICUで育てていただいた…
知人の子どもさんも大きくなりました。
500㌘の赤ちゃん㊤
500㌘の赤ちゃん㊥
500㌘の赤ちゃん㊦
の院長日記を読んでください。
■ ■
未熟児だった赤ちゃんを、
卒後2年目で懸命に助けた、
元主治医の先生は、
立派な女医さんになって訪ねてくれた先生を見て、
どんなに嬉しかったことでしょうか。
医者冥利(みょうり)に尽きる…
と思います。
未熟児だった子を…
立派に育てたお母さんにも拍手です。
医学講座
大森清一先生②
私が存じている大森清一先生は、
学会で最前列中央にお座りになり…
『警察病院の大森ですが…』
と発言される先生でした。
私の恩師、
大浦武彦先生は…
大森先生の弟子です。
■ ■
私たちの世代は…
大森先生の孫の世代です。
私が札幌医大の学生だった30年前。
実習で手術を見学していた頃です、
顔を縫うのに
どう見てもキズが残りそうな縫い方を見ました。
『病気が治ってもキズが残ったら
この人の人生はどうなるのだろう?』と思って、
図書館で形成外科の教科書を見つけました。
この教科書の著者が大森清一先生でした。
■ ■
医学部6年生の私は…
形成外科のことはまったく知りませんでした。
図書館で見つけた本も…
よく理解できませんでした。
本を読んだ(見た)だけでは…
形成外科医になりたいとも思いませんでした。
一つだけ理解したのは、
形成外科に行けば
傷をきれいにできる?
という程度でした。
■ ■
大森先生を知ったのは、
北大形成外科へ入局して、
大浦武彦先生が学会を開催された時が最初でした。
威厳と貫禄のある先生でした。
私たち孫の世代には…
優しい先生でした。
東京警察病院で修行を積まれた先生は、
日本中で形成外科を広められました。
大森清一先生は、
たくさんの形成外科教授を育てられました。
■ ■
今、日本形成外科学会の主なメンバーは
大森先生の孫の時代になっています。
若い先生が…
大森清一先生のお名前を知らなくても…
無理はないかも…?です。
私たちの世代は、
形成外科の教科書は
日本の大森先生と
米国のカンバースでした。
■ ■
大森清一先生のことについては…
塩谷信幸先生のブログにも掲載されています。
東大形成外科50周年
ムンテラの名手大森清一先生
再び大森先生
とても興味深い内容です。
大森先生のような先生は…
今は少なくなった気がします。
形成外科を志す若い先生は、
大森清一先生のことは覚えておいてください。
日本形成外科学会の父です。
マンガでわかる美容形成外科
Chapter“39” ワキガ手術と再発について
携帯電話でマンガを見る
まず、ワキガ手術はにおいのもととなる汗腺を取り去ってしまうものなので、一度切除した汗腺は再生しません。ですからワキガがガンのように再発することはまず考えられないのです。にもかかわらず、臭いがすると受診される方のケースには主に3つの原因が考えられます。
ワキガ手術を受けたのに再発?
ワキガ再発の原因と特徴
①汗腺の切除不足
- 毛が生えてくる。
- 手術後すぐにおう
- 「吸引法」に多い
においの原因となる汗腺がきちんと取れていないため、毛根も残り毛が生えます。
②範囲が足りない
- ベタベタした汗をかいてくる
- 手術後しばらくしてから気づく
- 「剪除法(センジョホウ)」に多い
切開線から胸のよこ、腕のつけ根などに取り残しが多い。
③手術は完璧でワキガ臭もない(汗の臭いを訴える)
- サラサラした汗が出る
- 汗の臭い
- 手術後数ヶ月して気づく
ワキガ独特の臭いはおさまりますが、サラサラした汗を分泌するエクリン腺からの汗が出ます。その汗の臭いが気になる場合が多いようです。
臭いも汗も限りなくゼロに近づけたい
- お休みはとれない!
- 傷跡も残したくない!
- 臭いも汗も限りなくゼロに近づけたい!
ワキガ手術はクリニックによっても違いますが、患者さんの要望を100%満たす方法はないと言えます。ワキガの手術は簡単なものではありません。汗腺をしっかり取ろうとすると、当然傷痕が治るには時間を要します。きちんとアフターケアをしなければ、つっぱったり、かたくなったりというトラブルを引き起こします。そのため、当院ではある程度の休みがとれて、アフターケアで来院できる方でなければ残念ながら手術はお受けしていません。
先生からひとこと
今回のように、ワキガで再発といわれるもののほとんどは「取り残し」です。ワキガ手術は、一度手術すると皮下に瘢痕(はんこん)と言われ、皮下組織が硬く厚くなる層ができます。どんなワキガ手術を受けても瘢痕が残り、再手術が難しくなります。そのため、手術はしっかりと医師と相談をして信頼できるクリニックでお受けすることをおすすめします。
ワキガ手術(両ワキ)
80,000円(保険適用) 所要時間約2時間
医学講座
大森清一先生①
平成22年7月17日の日本美容外科学会で、
大森喜太郎先生から資料をいただきました。
私も知らなかったことが多いので…
長文ですが引用して掲載しました。
特に最後の部分に、
大森清一先生の美容外科に対する思いが記載されています。
以下の資料は’KOLBEN(三角フラスコを意味するドイツ語)
という冊子に掲載された内容です。
’KOLBENがどこの出典かはわかりません。
■ ■
私の思い出
じやんけんで負けたのが運命の分かれ道
東京警察病院名誉院長
大森清一
アウトドアスポーツに熱中した学生時代
――先生のお生まれはどちらですか。
大森_東京は日本橋生まれです。家は、鮫津の浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)の下屋敷があったところの近でした。秩父銘仙の問屋をしていて、母がそこの一人娘だった。父は入り婿で、家の商売をやらずに当時の中学で物理の教師をしていました。
――すると、先生が医学の道に進まれたのは、お父さまの影響でしょうか。
大森_いや、僕が医者になったきっかけというのはそんな大層なもんじやなくてね。まあ、家が商売をしていたから多少の小金はあったわけだ。で、一高に入る前に、別に就職を考えなくてもいい専門を選ぼうと思った。医学部に入れば何年でも医局にいればいいし、その間、好きなことをやっていられるという、不届きな理由で医学部を選んだんだよ(笑)。
だから、大学在学中もアウトドアスポーツに熱中して、ラグビーだ、水泳だ野球だと、遊んでばかり。一日の大半を戸外で過ごして、帰ってくれば食べて寝る、勉強はどうしてもなおざりだったね。
――随分健康的な学生生活でしたね(笑)。
大森_そうだね。だが、後年、この時に培った体力やバイタリティが大いに役だったのではないかな。卒業も間近になって、何科をやろうかということになった時、外科を希望したのだが、一諸にスポーツをやってきた親友もやはり外科志望だった。だけど仲が良すぎて、一諸にいたら遊んてばかりいるに違いない。そこで二人でじゃんけんをしたら、僕は負けてしまった。で、皮膚科・泌尿器科なら欠員があるということでそこに入ったんです。人生の大事を決めるにしては、ひどいもんだね(笑)。しかし、結果的には、それが僕の運命を決めたわけです。
あざの治療から傷痕をきれいにする形成外科の道に
――そんな先生が、形成外科の確立に力を注がれるようになったのには、どんなきっかけがあったのでしょう。
大森_入局後二年半位の時、あざを治療する部屋に行くことになっている。そこに行くと百五十名位のあざの患者さんがジーッと私の治療を待っている。随分長く通ってきていてもあまりよくなっていない。人三化七のような患者を診て悩んだ。そこで、あざを治すにはどうしたらいいのかに真剣に取り組み始めたんだ。当時は若い医者は珍しい病気に取り組んで学会で発表するという風潮であったが、僕は命にかかわらない、ありふれた病気でも、実際にその病気で苦しんだり悩んだりしている人が多い病気を、ほうっておいてはいけないと思ったんだな。そこであざ治しの医者になろうと志して、ドライアイスで凍らせてあざを取るなど、一定の治療方針の確立に努めました。とはいうものの学生時代に勉強していない付けが回ってきて、知らないことばかり。必要に迫られて懸命に本を読んだものでした。
――警察病院にでられたのはいつごろですか。
大森_昭和十七年かな。当時の東大皮膚科の教授は、カビの研究などで有名な太田正雄先生でした。太田先生は木下杢太郎というペンネームで文化人としても名を知られた方であった。その太田先生は皮膚科の外科的治療にも関心を持たれていた。私が警察病院の部長になれば東大の講師になる。そうすれば一つのテーマに取り組めるということだったので、あざの治療をテーマにしていただいた。これには、先生はあまり乗り気でなかったが、三日間お願いしてやっと許可が得られた。これには、一ヵ月に一度はケースを教授にお見せするという条件付であった。
そのうちに私は、あざを取ったあとをきれいにすることにも関心を持ち始めた。患者にとっては、傷痕がきれいになって初めて治ったと思えるのですから。当時の日本でも植皮ということが一部で行われていましたが、やはり形成外科の先進国はイギリスやアメリカで当時は、バースキーの書いた本が唯一無二のテキストでしたね。僕が日比谷の米軍図書館に通いつめて、皮膚外科のことを集めた本を書いたのもこの頃です。また東大にいた時、二年先輩の整形外科の教授の三木威勇治さんに「日本は遅れている。外国の雑誌を読め、どんどん実験しろ」と言われましたが、その助言は僕にと実に貴重だったと思います。
「知らないことは誰にでも訊け」の精神で世界中を飛び回る
――先生は随分頻繁に外国に行かれたそうですね。
大森_そう、最初は昭和二十五年に八か月間アメリカに行った。ある時、院長がここに百万円ある。この金で誰か留学してこないか」とおっしやった。部長も誰も手を挙げないので僕がろくに英語もできないのに図々しく「行きます」と言ったんだ。なにしろ、日本には形成外科のトレーニングをできるところがないのだから、ぜひアメリカに行きたかった。便宜上、ハーバードの皮膚科の卒後教育課程に入学したが、講義はエスケープして形成外科の手術をたくさん見せてもらった。その時皮膚をどんな厚さにも切れるダーマトームという器具を見て、帰ってから警察病院の院長に購入の許可を頼んだ。
また、相手がどこの誰でも、優秀な技術を持っていたり、優れた治療効果をあげていれば、どんどん行って教えを乞うという精神で世界を飛び回って学んだ。語学も徐々に進歩した。なかったら、また翌年出かけて行く、それでもだめならまた見せてもらう、そうやって僕は自分の技量や考えかたの水準を少しずつ上げてくることができたんだと思っています。そして、そういう僕のやり方を支持して世界を見て歩く機会を与え下さったのが、当時の警察病院院長の塩沢総一先生です。大切な恩人の一人ですね。
国際熱傷学会での万雷の拍手が生涯最高の光栄
――先生は日本形成学会の創設者でもいらっしやいますね。
大森_いや、なりゆきでね。先に話した三木先輩が東大の形成外科、当時はまだ形成診療班でしたが、それを作って下さった。1995年には国際形成学会がスタートするなどの情勢で、三木先生と「そろそろ科として独立させないといけない」ということになり、昭和三十二年には集談会をもって、その後、形成外科学会となった。その時は「形成美容外科会」にしようという動きもあったんだ。というのも、当時は美容整形で問題があいつぎ、美容整形の医師にも正しい訓練を積んでもらうことの必要が実感されていたわけです。もっとも、日本では会費を払えば会員ということで、のちに国際学会で「会員は約四百名です」と自慢したら「すごい、それだけの人をどうやって訓練したのか」と訊かれて、冷汗をかいたこともありますが。
――多くの国際会議を経験していらして、一番心に残っていることは?
大森_1974年の第四回国際熱傷学会で発表した時のことですね。顕微鏡下で直径一ミリほどの血管を縫って血管付の皮膚および皮下脂肪を移植する手術は、1972年頃から臨床に応用していたのだが、それをこの学会では「遊離皮弁で治す」という演題で話すことになっていた。ところが手違いで、学会の最後に出席者全員が一堂に会したしたところで発表するはめになった。終わった途端、会場は万雷の拍手に包まれたのです。中には立って何か叫んでいる人もいる。この時ほど光栄に思ったことはありませんでした。帰ってきて仲間と悦びを分かちあいましたが、心の中は躍るようでした。当時としてはまったく新しい治療法でしたから。
その翌年、パリで開かれた国際形成外科学会では、アジア及び南半球を代表して祝辞を述べるという栄誉を得ました。これは、白人も含めた地域の代表に黄色人種の日本人がついに選ばれたという意昧て感慨深いものがありました。
――先生がこれからなさろうと思っていらっしやることは?
大森_僕は今でも何か新しいことを見つけたくてしょうがない(笑)。もう一つには美容外科にもっと日が当たるようにしたい。アメリカでは、必要に応じて若々しく見えるために美容手術を受けるのはあたりまえです。乳癌で乳房を失った女性が乳房をとりもどしたいと思うのは当然でしょう。それはみかけの良さだけでなく、心の健康にとっても大事なことです。また、若い医師を中心に「恥すかしがらないでものを訊ける会」を開くことです。海外の一流の医者や研究者も呼んで意見を聞く。聞く方も質問を用意して、知識を吸収し、大いに議論もし、進歩していってほしい。それが今の僕の願いです。
大森先生ご略歴
明治39年東京に生まれる
大正15年第一高等学校卒業
昭和6年東京帝国大学医学部卒業
同医学部皮膚科泌尿器科副手を経て
17年東京警察病院皮膚科泌尿器科部長
/東京大学医学部講師
25年アメリカ留学(形成外科を志す)
32年日本形成外科学会誕生(創設に携わる)
43年東京大学医学部教授(形成外科診療科)
東京警察病院副院長
47年同病院院長
53年同病院名誉院長
●学会活動
日本形成外科学会第4回・第13回会長
日本美容外科学会第1回・第2回会長
1975~83年国際形成外科学会理事
83~84年国際美容外科学会(ISAPS)会長
85年~同学会理事
日本形成外科学会名誉会員
日本皮膚科学会名誉会員
日本熱傷学会名誉会員
日本美容外科学会名誉会員(JSAPS)
以上、’KOLBENより引用
■ ■
長文を最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。
最後に書かれていた、
美容外科にもっと日が当たるようにしたい。
アメリカでは、必要に応じて若々しく見えるために美容手術を受けるのはあたりまえです。
乳癌で乳房を失った女性が乳房をとりもどしたいと思うのは当然でしょう。
それはみかけの良さだけでなく、
心の健康にとっても大事なことです。
この文章を読んでいただきたかったのです。
■ ■
私は、日本の形成外科の創始者である、
大森清一先生は、
美容外科にもっと日が当たるようにし、
美容外科が広く国民に支持され、
受け入れられることを願っている思います。
2つの日本美容外科学会が統合され、
美容外科が発展すると、
大森先生は喜ばれると思います。