医療問題

キャンデラユーザーズミーティング

 昨日、平成20年6月1日(日)に、
 第9回キャンデラユーザーズミーティングに出席してきました。
 昨年の第8回の時(平成19年5月27日)は、
 ANAのシステム障害で一日ダイヤが乱れ、
 新千歳空港で2時間以上待たされました。
 今日は、1時間前に会場に到着し、
 ゆっくりと機器やビデオを見て待ちました。
      ■         ■
 このキャンデラ社は、真面目な会社です。
 参加する先生も、真面目な先生が多く、
 私に合っている会社だと思いました。
 今日の講演は、
 みやた形成外科・皮ふクリニック(東京、虎ノ門)の
 宮田成章先生からスタートしました。
 タイトルは、
 美容医療メーカー全盛期;
 それでも私がキャンデラを選択する理由。
 メーカーのやらせではなく、先生の本音でした。
      ■         ■
 医療機器メーカーにも、
 効果が定かではないのに、
 盛んに売り込む会社があります。
 データーそのものが捏造(ねつぞう)なんて…
 信じられないこともあるようです。
 私たちは、それを見極める目と
 情報網を持たなくてはなりません。
 1千万円以上もする高価な機器を購入したのに、
 さっぱり効果が無ければ倒産します。
      ■         ■
 今年は、私の友人である、
 名古屋のはせがわクリニック
 長谷川隆先生も講演されました。
 長谷川先生は、元名古屋大学形成外科講師。
 年齢も私と同年代です。
 私と同じ、2004年に開業されました。
 形成外科医で、マイクロサージャリーなど再建外科の名手です。
 北大形成外科で、一緒に仕事をしました。
 私の微小血管造影の手技も、
 長谷川先生に教えていただきました。
      ■         ■
 平成20年4月9日の日記にも書きました。
 形成外科学会で評判がよかったので
 長谷川先生が再度発表されました。
 昨日のユーザーズミーティングは、
 形成外科よりも、皮膚科などの先生が多いのが特徴です。
 形成外科医の数は少なかった印象でした。
 毎年参加していると、
 他科の先生とも顔なじみになれます。
      ■         ■
 皮膚科の先生とも親しくなりました。
 神戸で開業なさっていらっしゃる、
 まるぐち皮膚科医院
 丸口幸也先生ともこのミーティングで知り合いました。
 丸口先生は、
 灘中学、灘高校、
 京都大学医学部(昭和60年卒)、
 京都大学医学部大学院卒業。
 京都大学付属病院、
 国立京都病院、
 神戸市立中央市民病院
 を経てご開業。
      ■         ■
 PRSという米国形成外科学会誌に、
 素晴らしい論文を書かれていらしたので、
 お名前だけは存じていました。
 私など逆立ちしても入れない、
 灘高→京大医学部→京大学医学部大学院卒業
 という素晴らしい経歴です。
 ‘本物’の先生は、
 笑顔の優しい、とても親しみやすい先生です。
 神戸で皮膚科にかかるのでしたら、
 まるぐち皮膚科医院がおすすめです。
 このように、他科の先生と知り合えるのも、
 こうした研究会に出席する楽しみです。

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院長の休日

地雷除去機

 平成20年5月31日、朝日新聞、be on Saturdayの記事です。
 フロントランナー
 山梨日立建機社長
 雨宮 清(あめみや きよし)さん(61歳)
 アフリカの地雷根絶したい
      ■         ■
 山梨の町工場のオヤジが、世界の地雷と闘っている。
 経験ゼロから奮起一番、
 たたき上げの技で悪魔の兵器と渡り合う。
 反感にも、爆風にも、戦禍にもめげず、
 地雷除去機を手がけて15年。
 今度の舞台はアフリカだ。
      ■         ■
 -アンゴラに地雷除去機を持ち込みました。
 国家地雷除去院という政府機関があって、
 昨年夏に2台持ち込み、
 使い方を覚えてもらいました。
 世界で最も地雷に汚染された国で、
 国土の3分の1にあたる約42万平方㌔が地雷原。
 日本全土より広いんですよ。
 2001年に来日したドスサントス大統領に誘われ、
 内戦終結を待って訪ねました。
 電線を守るために地雷が道路に埋められ、
 往来が寸断されている。
 投票すら行けないという状況です。
      ■         ■
 -そもそも、なぜ除去機を作ったんですか。
 1994年、仕事のついでに足を延ばしたカンボジアで、
 幼女をおぶった老婆に出会いました。
 右ひざから先がなく松葉づえをつき、
 焼けただれだほおをスカーフで隠していた。
 地雷で家族はみな亡くなったそうです。
 「カンポジアを助けて」と訴えられ、
 耳から消えなくて。
      ■         ■
 -整備業だから、新機種の開発は初めてでした。
 1号機の完成に4年半ですよ。
 まず地雷の仕組みがわからない。
 カナダの軍人やNGO(非政府組織)など、
 いろいろな人から聞きました。
 初めはショベルカーを改造していましたが、
 いまは機体も含めてすべて作っています。
 採算は度外視。
 もう10億円は使ってるかな。
      ■         ■
 -既に他メーカー製の機械があったのでは?
 最初に見たのはカナダ製だったけど、
 オレも技術屋だからね、
 すぐ使えないとわかりました。
 カンボジアは低木が多く、
 地雷を掘る前に刈り取らなきやいけないが、
 パワー不足でカッターはもろい。
 現場で本当に役立つ機械を、
 と開発に踏み切りました。
      ■         ■
 -機械は壊れやすく狭い場所にも入れない、
 手作業が一番だと言う人もいます。
 世界80カ国以上に1億個を超える地雷が埋められています。
 手作業は危険だし、
 いつまでも終わりません。
 操縦席にいれば蚊を防げるから、
 マラリアにやられる危険も減る。
 機械の押しつけにならないよう、
 現地の人と同じテントに寝て、
 メシを食い、
 何が必要か聞いてきました。
 カンポジアは雨が多く地盤が軟らかいから
 機械が重いとはまっちやう。
 アフガニスタンは一見砂漠だけど、
 少し掘るとガチガチの岩盤。
 場所ごとに機械は開発し直します。
 メンテナンスにも力を注ぎ、
 欧米製の機械は半分は動かなくなってるけど、
 うちは1号機からすべて現役です。
      ■         ■
 -アンゴラの状況はいかがですか。
 30年近く続いた内戦が終わって間もないから、
 ほとんどの地雷が生きています。
 ワイヤで引っかける悪質な仕掛け地雷が多いですね。
 広々としていて大型の機械も比較的入りやすいんですが、
 岩がちで処理が難しい。
 まだ課題は山積みです。
 でも、手応えはあります。
 昨年夏に一カ月滞在したんですが、
 今後の担い手になる若者たちは明るくて勤勉だし、
 なにより母国を良くしようと一生懸命。
 自分の若い頃を思い出しました。
 アフリカは、これからですよ。
 文・神田大介、写真・山谷勉
      ■         ■
 ●プロフィル
 1947年、山梨県山梨市生まれ。
 中学を卒業後、東京の建設機械メーカーに就職。
 1970年に自動車修理業として独立した。
 その後、建機販売・整備へ業務を拡大。
 1997年に日立グループ入り。
 本社は同県南アルプス市。
 従業員67人、
 2006年度の売上高は17億3千万円。
 (以上、朝日新聞より引用)

      ■         ■
 世の中には、すごい人がいらっしゃるものです。
 私は、この雨宮さんに、
 ノーベル平和賞を差し上げたいと思いました。
 日立建機を見直しました。
 中学校しか出ていないというと失礼ですが、
 そこが、この雨宮さんのすごいところです。
      ■         ■
 私は、この社長さんのように、
 この道一筋、何十年という人を尊敬します。
 こういう立派な方たちが、
 今の日本を作ってきました。
 フリーターやニートの若者に、
 是非、見習っていただきたいです。
 私は地雷除去はできそうもないので、
 将来、時間ができたら、
 地雷でケガをした人を、
 治すお手伝いをしようと思いました。


カッターは1千度の爆風に耐え、
地雷を残らず爆発させる。
「わが子同然」の機体に寄り添う=山梨県南アルプス市


(写真は独立した当時、自宅で妻の里子さんと)
(以上、朝日新聞より引用)

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医療問題

専業主夫

 平成20年5月30日、朝日新聞-声-の欄への投稿記事です。
 専業「主夫」は
 情けないのか
 派遣社員(東京都狛江市、41歳)
      ■         ■
 「『専業主婦』も立派な仕事だ」(15日)を読み、
 なぜ家を守るのは
 みな女性なのかと思った。
 我が家は共働きで3歳の子供がいる。
 子供が1歳の頃、
 家庭と仕事の両立が難しいため、
 専業主夫になりたいと妻に申し出た。
      ■         ■
 「家庭に入るのは、
 男としてちょっと情けないと思う」
 と却下された。
 「女として」と妻に言ったことがない私は
 「男として」という言葉に少々カチンときた。
 妻は看護師で、
 職場は2交代制だ。
 勤務時間外も勉強会や学会などで忙しい。
 妻が不在の間は私が家事を切り盛り、
 育児をする。
      ■         ■
 仕事と家庭生活に追われ、
 夫婦は疲れきっていた。
 少し収入が減っても、
 片方が家庭に入れば人間らしく
 幸せに暮らせると思った。
 妻の方が高給取りだが、
 引け目を感じたことはない。
      ■         ■
 しかし、
 仕事を辞めて家事に専念するなら、
 身分が不安定な私の方だろうと考えた。
 キャリア志向の女性が増える中、
 男性が家庭を守るという選択肢が
 あってもいいと思った。
 (以上、朝日新聞より引用)

      ■         ■
 看護師さんが、家庭と仕事を両立するのは大変です。
 私が今まで勤務した総合病院は、
 例外なく夜勤がありました。
 病院に附属保育園があるところもありましたが、
 夜間の保育はしていませんでした。
      ■         ■
 私:「夜勤の時は、子どもさんはどうするのですか?」
 看護師さん:「お父さんとお留守番」
 私:「朝はどうするのですか?」
 看護師さん:「お父さんが保育園までタクシーで連れてきてくれて、
 その後、会社へ出勤」
 「子どもが熱を出したり、病気した時が一番困るのよねぇ~」
 私:「子どもさんが病気の時は?」
 看護師さん:「実家の母に応援を頼むの。おばあちゃんがいないと無理ょ」
      ■         ■
 こんな具合でした。
 総合病院の病棟は、定時には終わりません。
 保育園の延長保育も、19:00頃まででした。
 保育園から、子どもさん2人を連れてきて、
 病棟の詰所で、子どもさんにおやつを与えて、
 お母さん看護師さんは、記録を書いていました。
 ダダもこねずに、とても良い子たちでした。
      ■         ■
 北大病院の女医さんは、
 私の非常勤(医師)のお給料より、
 子どもの保育園の保育料の方が高いのょ!
 いったい何のために働いているのか?
 なんてことをよく言っていました。
 医療従事者に限らず、
 仕事と家庭の両立はどんな職種でも難しいものです。
      ■         ■
 私は、主夫にはなれないと思いますが、
 もし私が主夫になったら…
 きっと完璧を目指して、
 家の中はピッカピカ。
 週に一度は、フルコースのディナー
 なんて…
 ことは無理かなぁ~
 と考えたりします。

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院長の休日

札幌のタクシー料金

 私はめったにタクシーを使いません。
 大部分は地下鉄とかバス。
 近くでしたら必ず歩きます。
 自転車もよく使います。
 昨年購入した、電動自転車は便利でラクチンです。
      ■         ■
 先日、アマの花を撮りに行って気づきました。
 以前は、小型と中型に別れていた、
 札幌駅のタクシー乗り場が…
 小型も中型もなくなっていました。
 法人の小型タクシーも、
 個人の黒塗りの中型タクシーも、
 みんな一列に並んでいました。
      ■         ■
 私はケチなので、
 以前は、小型と中型があると、
 必ず料金が安い小型に乗っていました。
 小型でも、特に料金が安い、
 プリウスのタクシーがありました。
 このプリウスのタクシーを見つけると、
 何だか得した気分になっていました。
      ■         ■
 札幌駅北口のタクシーをよく見てみました。
 小型も黒塗りの中型も
 みんな650円のシールが貼ってありました。
 以前は、㊥と青いシールが貼ってあった、
 中型タクシーからシールが消えていました。
 個人タクシーの運転手さんに、
 おそるおそる聞いてみました。
 『あのぉ~、すいません』
 『この車も、あちらの小さい車も料金は同じですか?』
      ■         ■
 答えは意外にも、
 運転手さん:
 『同じですよ』
 『去年の改定で同じになったんですよ』
 『まだ、高いと思って乗らないお客さんもいらっしゃいますよ』
 私:
 『初乗り料金が同じでも、
 走ったら上がるのは高いんじゃないですか?』
 運転手さん:
 『同じですよ』
 『一部の大型(センチュリー、セルシオ、クラウンマジェスタ)
 以外はみんな同じです』
      ■         ■
 ネットで検索してみました。
 <タクシー>札幌地区で10年ぶり値上げ 初乗り650円
札幌地区(札幌、江別、北広島、石狩市=厚田・浜益地区除く)のタクシー運賃が2007年12月17日から10年ぶりに値上げされた。
値上げ率は平均9.2%。初乗り料金は従来の小型車600円と中型車610円が「普通車」に統合されて650円にアップした。
国土交通省北海道運輸局は「乗務員の労働条件改善のため」として、3ヶ月後をめどに改善状況の報告を各社に求める。
12月17日午前、JR札幌駅前で客待ちをしていた乗務員(57)は値上げの影響について「客は減っていない」と安堵(あんど)の表情。
別の乗務員(61)は「月12~13万円では暮らしていけないので若い乗務員が減った。手取りが少しは増えるよう期待している」。
これまでは中型車に分類されていた黒塗りの個人タクシー経営者(57)は「(割安の小型車に流れていた)お客さんが乗りやすくなった」と歓迎した。
 今回の値上げで距離に応じた加算額は従来の334メートルごとに80円から309メートル80円にアップ。深夜割増も1時間早まって午後10時からとなる。一方、7,000円を超えた額の1割引だった遠距離割引は5,000円を超えた額の3割引へと割引率が上がった。【斎藤誠】 (毎日新聞)


札幌駅北口のタクシー乗り場
小型と黒い中型が並んでいます


この黒塗りの中型と
一回り小さな小型が同一料金
(法人タクシーさんごめんなさい)
黒塗りの個人タクシーが
圧倒的に快適です
個人タクシーには
小型550円のタクシーもあります

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院長の休日

電話帳広告

 美容形成外科クリニックの経営者にとって、
 生命線とも言えるのが、広告宣伝です。
 他の診療科目と違って、
 『クチコミ』はまずありません。
 「私、○○美容形成でキレイになった!」
 「あなたも行ってみたら!」
 なんて言ってくれる方は、
 まずいらっしゃいません。
      ■         ■
 キレイになった方は、
 夜、鏡を見て…
 『私、キレイになった!』
 『嬉しい!』
 と一人で微笑むのです。
 これは、いくつになっても女性なら同じです。
 まして、ワキガなんかは…
 まず、絶対に言いません。
      ■         ■
 ひと昔前までは、電話帳広告が効果的でした。
 どの家にも、‘イエ電’がありました。
 今ほど、個人情報がうるさくなかったので、
 友だちの家の番号なんかも、
 電話帳で調べた時代でした。
 家内も、私の家の電話番号を
 住所を頼りに電話帳で調べてかけてくれたと、
 もう30年近く前に聞いたことがありました。
      ■         ■
 昔は、黒い‘電話機’がある家が珍しく、
 電話の呼び出しなんてのもありました。
 下宿や寮に住んでいた友人は、
 電話011-611-○○○○(呼▽○方)
 なんて名簿に書いてあったものです。
 札幌医大の望嶽寮という学生寮では、
 交代で電話番という係りがあり、
 かかってきた電話を、
 「先輩、お電話です」と
 取り次ぐ当番があったそうです。
      ■         ■
 そんな時代は過ぎ去り…
 今は携帯電話やIP電話の時代です。
 NTTの電話帳はyahoo!BBなどの
 IP電話を引いているご家庭には配布されません。
 また、駅や公共施設に設置してある、
 公衆電話もどんどん撤去されています。
 従って、当然のように若い人は電話帳を知りません。
      ■         ■
 電話帳を知らなくても、
 携帯で十分に電話番号が検索できます。
 携帯で‘札幌 美容外科’と検索した時に
 いかに上位にランクされるようになるかが、
 生き残りをかけた、
 美容形成外科の広告戦略になります。
      ■         ■
 私は札幌美容形成外科を開業する時から、
 NTT電話帳会社に、
 電話帳をコンビニに置いて、
 フリーペーパーのように、
 自由に持ち帰れる制度にしなさい!
 と声を大にして言っていました。
 そうしないと、
 電話帳そのものの存続が危ぶまれます。
 今は電話帳が欲しいというと、
 正式には販売することになる筈です。
      ■         ■
 平成20年秋に発行される、
 NTT電話帳の広告をどうするか…
 6月末までに決めなくてはなりません。
 東京などの美容外科は電話帳広告を止めています。
 札幌美容形成外科はどうしようか…
 と頭を悩ませている毎日です。

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院長の休日

歴史香る3㌔の彩り

 平成20年5月28日、北海道新聞朝刊の記事です。
 北8条通に「亜麻とホップ」
 5年かけこつこつと
 地域で整備
 「見に来て」
      ■         ■
 「私たちの花の道ができました。
 どうぞ見に来てください」
 -札幌市東区の北八条通に、
 地域住民が整備してきた
 「アマとホップのフラワーロード」が、
 当初の500㍍から、
 約3㌔の長さにまで伸びた。
 五月の風に揺れる空色の亜麻の花と
 みずみずしい緑のホップの葉が、
 道行く人たちの心をなごませている。
 (本庄彩芳)
      ■         ■
 北八条通周辺にはかつて官営麦酒醸造所
 (現・サッポロビール園)や
 帝国製麻の工場が並んでいた。
 「花の道」は、
 産業振興の歴史を担ってきたホップ(ビール原料)
 と亜麻で地域を明るくしようと、
 同区のフラワーコディネーター
 走川貴美(はしりかわよしみ)さん(62)が
 2003年に発案。
 ボランティア団体「AMAサポーターズ倶楽部
 を設立し、
 亜麻とホップの苗を、
 北八条通沿いの植え込みに植えてきた。
      ■         ■
 初めは10人だった会員は現在約400人。
 東区以外からも多数参加する。
 5月17日に開いた苗植え今では、
 地域住民ら150人が亜麻の苗4,000株を植えた。
 沿道の企業や地元町内会も賛同。
 一団体ずつ植え込みを受け持ち、
 「花の道」はどんどん伸びて…。
 いまでは北区の北八西三から
 東区の苗穂町4丁目まで広がった。
      ■         ■
 東区も
 「歴史を生かして地域活性化をはかる取り組み。
 応援していきたい」
 (地域振興課)と区役所職員が
 苗植え会やイベントを手伝っている。
      ■         ■
 「花の道」が亜麻とホップなのを
 広く知ってもらうため、
 今月末までには道路沿いに
 全部で18基の看板を立てる。
 亜麻は11月上旬まで花をつけるが、
 一番の見ごろは、
 5月下旬から6月いっぱい。
 ホップもつるを空に向かって伸ばし、
 葉を広げている。
      ■         ■
 これまでアマとホップを見て、
 きれいだけど名前がわからない、
 という人も多かった。
 看板を見て、
 親しみを感じてくれるはず」
 と走川さんは話す。
 (以上、北海道新聞から引用)

      ■         ■
 この亜麻とホップの花の道は、
 札幌駅北口にあります。
 札幌美容形成外科は札幌駅南口ですから、
 ちょうど駅の反対側になります。
 札幌駅北口に出ると、
 40階建の大きなマンションが目に入ります。
 そのマンションの下に花の道があります。
      ■         ■
 5年間も手塩にかけて育てていただいた、
 走川さんに感謝いたします。
 お花は心を和ませてくれます。
 私も時間ができたら、
 是非、AMAサポーターズ倶楽部に
 入会したいと思っています。


満開になった亜麻の花を前に
「5年間かけてここまで広がりました。」
「子どもみたいにかわいい」
と笑顔の走川(はしりかわ)さん
(北海道新聞より引用)


札幌市北区北8条西3丁目付近
マンションの前です


札幌駅北口から見える
大きなマンションが目印です
この下にお花が咲いています

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院長の休日

内閣総理大臣

 昨夜、フジテレビのCHANGEを見ました。
 木村拓哉さんが扮する
 朝倉啓太(35)という補欠検挙で当選した新人議員が
 内閣総理大臣になりました。
 家内は、
 私はキムタクが立候補したら投票すると言っていました。
 (家内は郷ひろみのファンですが…)
      ■         ■
 現実には、‘ありえない話し’だから、
 ドラマのおもしろさがあるのでしょう。
 番組中にキムタクが言っていました。
 『小学校5年生にもわかる言葉で話して!』
 まったく、その通りだと思います。
 今の政治には夢もロマンもありません。
 何がなんだかわかりません。
      ■         ■
 後期高齢者医療制度なんてのができて、
 これを支持している、
 お年寄りもお医者さんもいないと思います。
 このままで、日本はいったいどうなっちゃうの?
 というのが正直な感想です。
 私は今の国の政策に失望しています。
      ■         ■
 私が札幌西高校の生徒だった時に、
 田中角栄さんが内閣総理大臣になりました。
 ‘コンピューター付きブルドーザー’とか
 ‘よっしゃよっしゃ’とか
 ‘小学校しか出ていない総理大臣’とか
 ‘田中のカナ振り英語’とか
 いろいろ言われた内閣総理大臣でした。
      ■         ■
 ロッキード事件で逮捕され、
 晩年は病気になられました。
 いろいろな批判はあると思いますが…
 私は今でも田中角栄さんが好きです。
 小学校しか出ていないのに、
 苦学して内閣総理大臣にまでなって…
 田中さんの時代に、
 日本はよくなったと思います。
      ■         ■
 私は政治にも、夢やロマンが必要だと思います。
 日本国憲法第25条第1項の生存権。
 すべて国民は、
 健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
 この生存権を保障してくれる政治。
 これに
 ‘頑張って働いていれば、いつかきっといいことがあるさ!’
 という夢とロマンを与えてくれる政治家が
 内閣総理大臣になってほしいと願っています。
 こんなことは無理でしょうか…?

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昔の記憶

役に立った写真部

 私は写真部に所属していましたが、
 写真そのものは、さっぱりダメでした。
 撮影はしましたが…
 センスがなく、展覧会に出品とか…
 写真展に出展なんてのは考えませんでした。
 好きに撮って、適当に引き伸ばして…
 年に一度、クラブの写真展に出しただけでした。
      ■         ■
 それでも、5年間、写真部に所属しました。
 そのおかげで、暗室技術とか…
 カメラの使用方法などは一通りマスターしました。
 これが、形成外科医になってから役立ちました。
 ご存知のように、
 形成外科では術前・術後に写真を撮ります。
 専門医試験でも、写真判定で合否を決めます。
 どんなに上手に手術ができていても…
 写真がピンボケでは落第です。
      ■         ■
 北大形成外科に入局すると、
 ちょっと写真をかじっただけの私が…
 写真のプロとなってしまいました。
 医局の野球大会、学会の写真など、
 私は写真係長になったようなものでした。
 後輩の写真の指導も私が担当しました。
 たまたま、
 旅行に行けるからと入った写真部が役立ちました。
      ■         ■
 日本形成外科学会で、
 形成外科医に必要な写真の基礎知識という発表をしました。
 ある有名な大学の教授から褒められました。
 その後、日本形成外科学会学術講習会で、
 写真の撮り方の講師まで仰せつかりました。
 写真部の仲間や先輩が聞いたら…
 『あのカメラを持っていなかった本間が!写真の講師か!』
 と驚かれるに違いありません。
 人間、いつどこで何が幸いするかわからないものです。
      ■         ■
 私は、皮弁の微小循環というのを研究テーマにしました。
 札幌医大に在職中も、解剖学教室で研究をしました。
 その時に、写真の暗室技術が役に立ちました。
 自分の博士論文でも写真の暗室技術が役に立ちました。
 学生時代には考えもしなかったことでした。
 私が考えた、皮弁の血管造影法は、
 外国雑誌に学術論文として掲載されました。
 恩師の大浦武彦教授に、
 今までこんなにキレイな血管の写真は見たことがない。
 と褒められた記憶は、生涯忘れられない感動です。
      ■         ■
 J Reconstr Microsurg. 2000 Jul;16(5):367-70
 Technique for selective microangiography of skin flaps with high contrast and fine detail.
 Homma K, Sugihara T, Igawa HH,
 Department of Plastic and Reconstructive Surgery,
 Hokkaido University School of Medicine, Sapporo, Japan.
 The technical factors of microangiography were studied, and the authors found that the main limiting factors in resolution were the injection pressure of the contrast medium and the thickness of the materials. A gentle manual hand pressure injection, with the aid of visual monitoring under the operating microscope, were keys to obtaining beautiful microangiograms.
 これが学術論文のタイトルと要旨です。
 皮弁の選択的微小血管造影法
 この方法は、後世に残る有用な方法だと今でも思っています。 


私が撮影した血管の写真です。
ラット(ネズミ)の皮膚です。

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昔の記憶

人生の師

 私が札幌医大写真部で
 ‘人生の師’と仰ぐ先輩が水谷羊一先生です。
 水谷先生は、秋田県角館(かくのだて)町出身。
 みちのくの小京都と呼ばれる、
 桜の美しい町です。
 早稲田大学商学部を卒業後に、
 札幌医大に入学されました。
      ■         ■
 当時の札幌医大は、他大学を卒業していても、
 歯科医師免許を持った人以外は、
 全員、1年生から入学し全科目を履修(リシュウ)しました。
 年令は私より6歳年上でしたが、
 学年は1年上でした。
 とても面倒見のよい先輩で、
 『水谷さん、みずたにさん』
 と全員から慕われていました。
      ■         ■
 全国どこの医学部でも同じですが、
 医師国家試験を受験するまで、
 全員が同じ勉強をします。
 将来、内科になる人も耳鼻科になる人も、
 すべての科目を勉強するのが医学部です。
 入学後も定期試験が厳しく、
 当時の札幌医大では、
 1科目でも落とすと(不合格となると)、
 翌年、すべての科目を再履修しなければなりませんでした。
      ■         ■
 進級判定も厳しく、
 100人の入学者のうち、6年間で卒業するのは、
 毎年、80%台でした。
 つまり、毎年、数人が進級できず…
 下の学年に落ちて行きました。
 勉強そのものも、予備校のように‘熱心な’先生は少なく、
 学生は自分で勉強するものという方針でした。
 入学はしたものの、
 5月病に罹って体調を崩す学生もいました。
      ■         ■
 医学部の勉強は、とにかく丸暗記です。
 解剖学を例にとっても…
 頭の先からつま先まで、
 すべての構造と機能を丸暗記。
 しかも、日本語、英語、ラテン語で覚えます。
 かなり要領よく効率的に勉強しないと落第です。
 水谷先輩は、この勉強法を教えてくれました。
 また、過去の試験問題や教授の傾向などなど…
 同じ勉強するなら効率よく能率的に…
 と教えてくれた先輩でした。
      ■         ■
 19歳~24歳までの6年間は、
 勉強ばかりではなく、
 生涯の伴侶となる相手を見つける時期です。
 つまり、彼女(彼)を見つけて、
 仲良くなる時期です。
 水谷先輩は、
 彼女の見つけ方、
 女性との付き合い方、
 などなど、
 人生に必要な、さまざまなことを教えてくれました。
      ■         ■
 この時期にどういう先輩と付き合い、
 どういう影響を受けて、
 どういう生き方をするか、
 という方向性が身につくと思います。
 水谷先輩は、
 明るく前向きで真面目な先輩でした。
 私が困っていると、
 『本間、どうした?』
 と気さくに声をかけてくださる先輩でした。
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 私の生き方は、この水谷先輩に影響を受けました。
 水谷先輩は、札幌医大を卒業後、
 秋田大学整形外科に入局されました。
 現在は、秋田市で城東整形外科を開業されています。
 秋田県で、もっとも流行っている整形外科だと思います。
 昨夜は、整形外科学会で札幌へいらした水谷先生を囲んで、
 写真部の仲間が集まりました。
 とても楽しい夜でした。 


写真部の仲間
前列、向かって左端が水谷羊一先生です。

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昔の記憶

写真部

 私は昭和49年(1974年)4月に、
 札幌医大へ入学しました。
 一浪して入学したので、19歳でした。
 入学した頃は、
 革マル派(カクマルハ)という派閥の学生が、
 毎日、教室でアジ演説をしていました。
 私には何だかわからないことを…
 休み時間に、ずーっとしゃべっていました。
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 当時は学生運動が下火になってはいましたが、
 革マル派と民生派という派閥が対立していました。
 私が入学する数年前には、
 学生運動に端を発した殺人事件まであったほどでした。
 その頃、盛んに学生運動をしていた学生も、
 今ではその面影もないくらい、
 おじさん先生・おばさん先生になっています。
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 入学すると、熱心な先輩が、
 クラブへ入ろうと勧誘してくれました。
 とても人のよさそうな先輩が、
 弓道部へ誘ってくれました。
 弓道に興味があったというより、
 その先輩に惹かれて弓道部へ入ることにしました。
 ところがこれが失敗の原因でした。
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 弓道を甘く考え過ぎました。
 弓道部には立派な道場がありました。
 北海道神宮の祭典では、
 神宮で弓を引くほど、先輩は弓道の達人でした。
 弓道を‘弓を引くお遊び’の延長、
 程度にしか考えていなかった私は、
 早々に弓道部をやめました。
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 その後、しばらくクラブには入っていませんでした。
 2年生になってからだったと思います。
 『本間、写真部が夏休みに奥尻に撮影旅行に行くんだって』
 『まだ、空きがあるそうだから一緒に行かない?』
 と友人の服部くんが誘ってくれました。
 『だけど、俺カメラ持ってないょ』
 『俺も持ってないょ』
 『カメラもってなくても、いぃらしいょ』
      ■         ■
 奥尻に旅行に行けるという動機で、
 私はカメラも持っていないのに写真部に入りました。
 奥尻へはJRとフェリーで行きました。
 当時は、テントと寝袋を持って行きました。
 キャンプ場は『賽の河原(サイノカワラ)』というところでした。
 先輩が選んだのだと思います。
 どうして?賽の河原?
 と今ではわかりません。
 大小無数の石塔で埋め尽くされた霊場でした。
      ■         ■
 カメラを持っていないので、当然写真は撮りませんでした。
 先輩と数日間のキャンプを楽しんで撮影旅行は終わりました。
 真面目な先輩が聞いたら怒ると思います。
 カメラなしでもOKの写真部が気に入りました。
 行っても行かなくてもOKの写真部でした。
 こんな写真部の雰囲気が気に入って、
 卒業まで入っていました。
      ■         ■
 私がカメラを買ったのはそれから1年以上たってからです。
 毎年夏に撮影旅行と称した旅行に行きました。
 撮影もしましたが、楽しみしていたのは‘旅行’でした。
 テントと寝袋は辛かったので、
 翌年から、車と民宿を使うようになりました。
 6年間の間に
 奥尻
 天売・焼尻
 知床・阿寒・釧路
 函館・道南
 利尻・礼文
 道内の離島はすべて行きました。
      ■         ■
 利尻では、利尻岳に登り…
 礼文では島の北端から南端まで歩いて縦走しました。
 旅行中に毎晩先輩や後輩と楽しく話しをしました。
 私の楽しい学生時代の想い出です。
 写真部で知り合った先輩や後輩は
 私の人生や生き方に大きな影響を与えてくれました。
 写真部の先輩後輩は、真面目でいい先生ばかりです。
 よい友人は人格形成に大きな影響を与えます。

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