医学講座

第32回日本美容外科学会(横浜)③

 昨夜、札幌へ帰ってきました。
 新千歳空港に到着すると…
 外気温は12℃でした。
 寒かったです。
 やはり北国だと思いました。
 寒くても…
 私は住み慣れた札幌が好きです。
      ■         ■
 昨日は学会の最終日でした。
 最後まで熱心な討論がありました。
 昨日の発表で参考になったのは、
 千葉大学 形成・美容外科、
 金沢雄一郎先生のご発表でした。
 最近の大学病院は、
 形成外科ではなく、
 形成・美容外科
 美容外科が付くようになりました。
      ■         ■
 演題名は、
 眼瞼下垂症手術における上眼瞼内側の挙上困難の成因の検討と対策
 というちょっと難しいものです。
 簡単に言うと…
 眼瞼下垂症手術をした時に、
 内側(目頭側)だけ…
 挙上が不完全になる例があります。
 目頭側だけ、
 二重の線が不自然になることがあります。
      ■         ■
 金沢先生は、
 この原因を分析されました。
 眼瞼挙筋の解剖を詳しく調べて、
 対策を考えられました。
 眼瞼挙筋の解剖を調べるといっても…
 私たちのような開業医にはできません。
 大学でしたら、
 解剖学教室があります。
      ■         ■
 私は札幌医大の教員だった時に、
 文部科学省から、
 解剖学の教員免許をいただきました。
 どんなに優秀な医学生でも、
 学生時代に…
 眼瞼挙筋の解剖を詳しく調べた人は、
 まず…絶対にいません。
 眼瞼挙筋は、
 保存遺体で見ると、
 筋肉には見えません。
      ■         ■
 医学生の解剖実習では、
 せいぜい瞼板(けんばん)という、
 白い組織を確認して終わりです。
 眼瞼挙筋を見つけたとしても、
 白い膜にしか見えませんし…
 それが筋肉だとはわかりません。
 金沢先生は、
 この眼瞼挙筋の解剖を示してくださり、
 わかりやすく解説してくださいました。
      ■         ■
 若い先生なのに…
 手術は丁寧で、
 優秀だと思いました。
 仕上がりもキレイでした。
 この研究は
 英文論文にしても良いと思いました。
 大学の先生には、
 解剖学など、
 医学の基礎に基づいた研究をしていただき、
 美容医学の発展させて欲しいと思いました。
 金沢先生ありがとうございました。

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医学講座

第32回日本美容外科学会(横浜)②

 学会出席の楽しみの一つは
 顔なじみの先生との再会です。
 昨夜は、
 高須克弥先生に声をかけていただき、
 写真まで撮っていただきました。
 高須先生ありがとうございました。
 高須先生のような偉い先生が、
 毎日何度もブログを更新されていて…
 どうやっていらっしゃるのだろう…?
 と不思議に思っていました。
      ■         ■
 私の日記はPCから更新しています。
 高須先生のブログは、
 携帯からでした。
 写真はホテルのウェーターさんに、
 撮っていただきました。
 携帯を使いこなし、
 一日に何度も更新される高須先生。
 すごいと思いました。
 高須先生は、
 ご子息の幹弥先生も学会に参加し、
 最初から最後まで
 熱心に聴いていらっしゃいました。
      ■         ■
 何人もの先生から、
 ブログを見ています!
 と声をかけていただきました。
 運転免許証の写真を見て、
 先生の5年間の苦労がわかりました。
 と言ってくださった先生が、
 八事石坂クリニック
 大口春雄先生です。
 さすが、美容外科の先生です。
 さくらんぼさんにも指摘されていました…ね。
      ■         ■
 大口先生は、
 名古屋大学形成外科のご出身です。
 とても手術が上手な先生です。
 私も大口先生のブログ
 読ませていただいています。
 ヴェリテクリニックの院長をなさった後で、
 ご開業されました。
 繊細な手術をなさり、
 とても優しい先生です。
      ■         ■
 私の写真は…
 さくらんぼさんからも、
 家内からも、
 職員からも、
 指摘を受けました。
 自分自身でも…
 手術の必要性を感じています。
 もう55歳ですから、
 お直しが必要です。
 なんとか時間を作って、
 手術を受けたいと思っています。
      ■         ■
 学会に参加すると…
 顔なじみの先生も年をとっています。
 頭髪が薄くなっていらっしゃる先生も、
 何人もいらっしゃいました。
 私の頭髪はまだ大丈夫ですが、
 もし…
 頭髪の手術を受けるなら、
 横浜のヨコ美クリニック
 今川賢一郎先生にお願いします。
      ■         ■
 真の意味での名医とは、
 同業者から信頼され、
 同業者(美容外科医)が
 手術を受けているクリニックだと思います。
 頭髪のことなら、
 今川賢一郎先生です。
 今日もAGA(Androgenetic Alopecia)
 「男性型脱毛症」の発表がありました。
 美容外科医から信頼されている
 自毛植毛のクリニックは、
 ヨコ美クリニックです。


高須先生のブログから
引用させていただきました

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医学講座

第32回日本美容外科学会(横浜)①

 今日から横浜で日本美容外科学会です。
 この日本美容外科学会は、
 形成外科出身の先生が多い学会です。
 もう一つの日本美容外科学会は、
 十仁病院の梅澤先生が会頭で、
 高須克弥先生が実質的なリーダーです。
 いつか2つの学会が一緒になると、
 日本の美容外科が発展すると思います。
      ■         ■
 今日の学会で、
 新手術手技コンテストという発表がありました。
 自分の手術を発表し、
 審査員に審査していただくものです。
 私の個人的な見解です…
 今日のコンテスト10演題の中で
 一番印象に残ったのは、
 美容外科・ヤスミクリニック
 木村知史先生が発表された、
 SRS(性別適合手術)の和田式について
 でした。
      ■         ■
 性同一性障害の、
 性別適合手術、MTF(男→女)とは、
 おくりびとに出てきた、
 男の子として生まれたのに、
 心は女の子であり、
 外見もキレイな女の人
 局所を女の人にする手術です。
 今日、木村先生が見せてくださった、
 女の人の局所は、
 私が今まで見た中で、
 一番女性らしい形態でした。
      ■         ■
 しかも、
 驚いたことに…
 この術式で作った腟は、
 濡れるというのです。
 卑猥な話しではなく…
 医学的に不可能だと思っていました。
 濡れる腟を作ったのは、
 おそらく…
 世界中で和田先生だけだったと思います。
 今まで、
 どの医学論文でも見たことがありませんでした。
      ■         ■
 残念なことに、
 和田先生は平成19年5月に急逝され、
 もうこの世にはいらっしゃいません。
 医療事故など、
 ネガティブな面だけが報道されていました。
 私も、
 札幌の性同一性障害の方から、
 和田先生のことを伺ったことがありました。
 患者さんからは、
 抜群の信頼を得ていました。
      ■         ■
 今日、木村先生が発表してくださった、
 和田式の性別適合手術は、
 実に画期的で素晴らしい術式でした。
 私自身は実施する予定はありませんが、
 困っていらっしゃる方には、
 是非、おすすめしたい手術です。
 和田先生は亡くなられましたが、
 ご自身で書かれたブログは、
 まだ残っているそうです。
 こちらがサイトです。
 和田先生のご冥福をお祈りいたします。
 木村先生、
 紹介していただきありがとうございました。

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医学講座

瞼(まぶた)の裏側

 日本美容外科学会に出席するために、
 横浜へ来ています。
 札幌と比べると…
 横浜は暑いです。
 今日の最高気温は27℃です。
 (札幌は20℃でした)
 こんなのは暑いうちに入らないのでしょうが、
 札幌育ちの私には、
 関東での生活は無理なようです。
      ■         ■
 昨日の日記に、
 埋没法は2回まで
 と書きました。
 埋没法の手術をする時には、
 瞼板法(けんばんほう)でも、
 挙筋法(きょきんほう)でも、
 必ず瞼をひっくり返して、
 裏側を見ます。
      ■         ■
 慣れないと…
 瞼をひっくり返して、
 裏側を見ること自体が…
 難しいものです。
 ふつうの形成外科医は、
 瞼をひっくり返して、
 裏を見ることをしません。
 私も最初は…
 上手にできませんでした。
      ■         ■
 健康な人の瞼の裏側は、
 キレイなピンク色です。
 瞼板(けんばん)という白い組織の上に、
 結膜(けつまく)があり、
 そこに毛細血管があります。
 教科書によると、
 この毛細血管から、
 目の角膜へ酸素や栄養を供給する、
 と書かれています。
      ■         ■
 角膜(かくまく)というのは、
 光を通すために、
 透明です。
 血管はありません。
 ソフトコンタクトで、
 すっぽりと角膜を覆(おお)ってしまうと…
 角膜に酸素が供給されず、
 酸欠になるといわれています。
 ですから長時間付けっ放しにできないのです。
      ■         ■
 瞼板法(けんばんほう)で、
 何回も埋没法手術を受けると…
 この毛細血管がズタズタになります。
 瞼の裏側がキズだらけになり…
 角膜へ…
 酸素や栄養の供給ができなくなります。
 手術をする先生は、
 キズだらけの瞼の裏側を見ます。
 自分の身内だったら、
 糸が4本も6本も入った瞼に、
 更に糸を追加することはしないと思います。
      ■         ■
 埋没法の保証とは、
 この糸をむやみに追加して、
 結果的に瞼をキズだらけにするだけです。
 私は、
 他院で埋没法を受けた…
 眼瞼下垂症の方を手術する時に…
 できるだけ埋没糸を除去しています。
 追加料金もいただきません。
 (保険の規定です)
      ■         ■
 手術用顕微鏡で見て、
 高倍率にして、
 ようやく見える程度の糸もあります。
 そんな糸でも、
 毛細血管を傷つけています。
 表面から見えない、
 瞼の裏側には、
 大切な役割があります。
 どうか自分の目を大切にしてください。

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医学講座

埋没法は2回まで!

 埋没法が取れた!
 保証付だから、
 無料でお直ししてもらいましょう…!
 何度、お直ししても、
 取れちゃう埋没法
 札幌美容形成外科にいらした時には、
 何回、無料でお直ししたのかも?
 忘れてしまったそうです。
      ■         ■
 埋没法が取れるのには…
 原因があります。
 アレルギーで目をこする癖(くせ)がある方。
 もともと眼瞼下垂症で、
 埋没法に向いていない目だった方などです。
 小学校の時からの、
 学級写真を見てください。
 顎を上げていませんか?
      ■         ■
 写真屋さんで写真を撮る時に、
 必ず、顎を引いてください
 と言われる方。
 眉が上がっているので、
 前髪でいつも額を隠す方。
 眉が上がっているので、
 眉の上を剃って…
 下に眉を書く方。
 眼瞼下垂症の可能性があります
      ■         ■
 そもそも…
 眼瞼下垂症なんて病気があるなんて…
 医師国家試験にもめったに出ません。
 看護師国家試験にも出ません。
 医学部でも詳しく教えません。
 看護学部でも、
 看護学校でも教えません。
 義務教育でも教えません。
 医師でも、
 知らない人はたくさんいます。
      ■         ■
 眼瞼下垂症が有名になったのは、
 ここ数年の間です。
 NHKのためしてガッテンで、
 信州大学形成外科の、
 松尾清先生が有名にしてくださいました。
 他院で埋没法で二重にならなかった方、
 埋没法が取れた方、
 には眼瞼下垂症が原因であったことが、
 私の経験上、たくさんあります。
      ■         ■
 先日いらしていただいた方は、
 何と!
 片目に糸が11本も入っていました。
 瞼の裏側には、
 無残な糸の痕が、
 無数に残っていました。
 リストカットの痕のような、
 小さなキズが
 たくさん瞼の裏側についていました。
 角膜という…
 大切な部分に傷がつくこともあります。
      ■         ■
 埋没法は、
 受けてもせいぜい2回までにしてください。
 瞼板法2点留めだと、
 これでも片目に
 2×2=4本の糸が入っています。
 何度も埋没法を受けるのは…
 はっきり申し上げて危険です。
 目というのは大切な器官です。
 傷ついた角膜を
 元に戻すことはできません。
 無料保証は2回が限度です。

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院長の休日

みんなおじさん

 昨夜、
 札幌西高3年7組の男だけのクラス会、
 支三会がありました。
 会場は札幌駅近くの…
 「魚屋一丁」(札幌駅店:011-232-0022)
 (札幌市北区北6条西1丁目(JR高架下))でした。
 会費:5,110円
 飲み放題でした。
      ■         ■
 全員55歳のおじさんばかり。
 担任の藤枝正道先生(日本史)は、
 72歳でお元気でした。
 今でも札幌福祉専門学校の校長先生です。
 私たちが高校3年生の頃…
 藤枝先生は35歳だったことに、
 気づきました。
      ■         ■
 先生は…
 よく放課後の掃除の時間に、
 教室に来られて、
 みんなといっしょに…
 話しをしながら掃除を手伝ってくださいました。
 女生徒に…
 圧倒的に人気があった先生でした。
 愛妻家で知られていました。
      ■         ■
 奥様は、
 先生が東北大学の学生だった頃に、
 お知り合いになったと記憶しています。
 奥様のことを、
 ~ちゃん付けで呼んでいました。
 私が高校生だった頃、
 いつか藤枝先生のように、
 素敵な奥さんをもらいたいと思っていました。
      ■         ■
 昨夜集まった同級生。
 一番遠くは、
 大阪から来ました。
 他に、神奈川、東京など、
 声と話し方は変わりませんが、
 全員おじさんになっていました。
 単身赴任の支店長
 家に帰ると娘さんから煙たがられる人
 いろいろな55歳がいました。
      ■         ■
 私を含めて、
 眼瞼下垂症(がんけんかすいしょう)の同級生が、
 たくさんいました。
 パソコンを見ていると、
 首が疲れて…
 目がしょぼしょぼしてくる…
 肩も腰も痛くなる。
 としだなぁ~
 私が携帯で、
 眼瞼下垂症の症例写真を見せると…
 え~っ!これ病気なの?
      ■         ■
 この歳になって、
 目が変わるとへんでしょ!
 本間!俺が若い時に教えてくれれば…
 俺の青春時代も変わっていたのに…
 その時になって、
 はじめて、
 あぁ…
 気にしていたんだ…
 とわかりました。
      ■         ■
 私が医師になった30年前でも、
 眼瞼下垂症(がんけんかすいしょう)なんて、
 特殊な病気だと思っていました。
 歳をとれば…
 誰でも瞼(まぶた)が下がってきて、
 当然だと思っていました。
 医学が進歩して、
 手術で治せるようになりました。
 今からでも遅くはないょ…
 と次のクラス会で教えてあげようと思います。
 次の幹事に私が指名されました。

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昔の記憶

西高の想い出(遅刻)

 札幌市中央区宮の森と
 西区山の手の境界にある通りを、
 通称、文化通りと言います。
 由来は…?
 文化人がたくさん住んでいたから…?
 理由はわかりません。
 私が昭和45年(1970年)に、
 北海道札幌西高等学校へ入学した時には、
 文化通りと呼ばれていました。
      ■         ■
 当時は、
 札幌に‘区’はありませんでした。
 札幌に‘区’ができたのは、
 1972年の札幌オリンピックの後です。
 文化通りは、
 何の変哲もない、
 ふつうの住宅街の通りです。
      ■         ■
 大夕張の山奥から、
 札幌へ出て来た、
 弱冠、15歳の私は、
 毎日、この文化通りを通って、
 札幌西高校へ通学しました。
 西区八軒にあった古い家から、
 バスで高校へ通っていました。
 今でしたら…
 自転車で通学したと思います。
      ■         ■
 毎日、満員の市営バスに乗り、
 慣れない札幌の生活でクタクタになって、
 必死に通学していました。
 私の家の近くに、
 函館本線の開かず踏切がありました。
 この踏切で待たされ…
 バスが遅れた時は、
 文化通りを、
 重い鞄(かばん)を持って、
 ダッシュしたものでした。
      ■         ■
 私がダッシュしていた時には、
 必ず、他にもダッシュしている生徒がいました。
 中には、悠々と歩いている人もいました。
 息切れがして、
 途中で休むと…
 無残な遅刻でした。
 たまに、あと一歩のところで…
 用務員のおじさんに、
 玄関のドアをガチャンと閉められました。
      ■         ■
 ドアが閉まった後は、
 ボイラー室横の入口から入り、
 外靴を持って…
 とぼとぼと、
 生徒玄関まで、
 床の冷たさを感じながら…
 惨(みじめ)めに歩いたものでした。
 毎回、私以外にも、
 遅刻組の生徒がいました。
 3年間で、
 数回遅刻しました。
      ■         ■
 毎日、同じ時刻のバスに乗っても、
 運悪く…遅刻することがありました。
 高校に慣れてくると、
 自転車通学をするようになりました。
 自転車通学になってからは、
 開かずの踏切を避けて通り、
 遅刻もなくなりました。
 遅刻も今となっては楽しい想い出の一つです。
      ■         ■
 私が一度も遅刻や欠席をしなかったのは、
 予備校時代でした。
 出席は無かったと思いますが、
 とにかく必死で勉強していました。
 今晩は西高の仲間が男ばかり集まり、
 クラス会をします。
 昔の仲間は楽しいものです。
 幹事は、
 学校であまり勉強しないのに
 東大に合格した有沢くんです。
 あいつの頭はどうなっているのか?
 と…よく思っていたものです。

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昔の記憶

今から26年前…

 今から26年前。
 昭和58年(1983年)9月20日。
 函館市本町33-2、
 社会福祉法人函館厚生院函館中央病院で、
 長女が生まれました。
 その日は今日のように天気が良く、
 私が出勤する時に、
 家内を車に乗せて、
 病院へ向かいました。
      ■         ■
 当時、
 私29歳、家内27歳。
 函館中央病院形成外科に勤務していました。
 4年目の形成外科医でした。
 住んでいたのは、
 函館市富岡町の、
 キャッスル富岡という…
 賃貸マンションでした。
 病院が借り上げてくれた、
 住宅でした。
      ■         ■
 私は富岡町から、
 車で通勤していました。
 その日は、家内の定期健診の日でした。
 家内は、
 午前中に産婦人科で健診を済ませて…
 中央病院の近くにある、
 丸井今井デパートへ寄って…
 自宅へ帰りました。
 デパートにいる時に…
 ちょっとお腹が痛くなったそうです。
 そのままバスで自宅へ帰りました。
      ■         ■
 私が形成外科の医局で、
 お昼休みを取っていた時でした。
 家内から電話がありました。
 『ちょっとお腹が痛くて変なので…』
 『病院へ行った方が良いか…?』
 という内容でした。
 先輩の石川先生が、
 奥さんを迎えに行ったら…?
 と言ってくださいました。
 医局には製薬会社のMRさんがいらしていて…
 僕の車で行きましょう
 と言ってくださいました。
      ■         ■
 MRさんに乗せていただき、
 私は家内を迎えに行きました。
 お腹が痛かったのは、
 陣痛(じんつう)でした。
 車の中でも、
 そんなに苦しそうでもなく、
 家内を産婦人科へ連れて行きました。
 生まれそうになったら呼んでください。
 そうお願いして、
 私は形成外科外来で診察をしていました。
      ■         ■
 外来をはじめて間もなく、
 分娩室から電話がありました。
 先生、もうすぐ生まれます。
 分娩室へいらしてください。
 助産婦さんからの連絡でした。
 え~っ?
 もう生まれるんですかぁ~?
 私が分娩室へ着くと、
 家内は苦しそうな顔をして、
 分娩台の上にいました。
      ■         ■
 初産は、
 時間がかかるんじゃなかったかなぁ~?
 と考える余裕もなく、
 産婦人科の松浦敏章先生に取り上げていただき、
 無事に長女は生まれました。
 助産婦さんから、
 安産でよかったですね
 と褒めていただきました。
 当時はビデオはなく、
 カメラとテープレコーダーで、
 分娩の様子を記録しました。
       ■         ■
 私の両親も、
 家内の両親も、
 初孫の誕生を喜んでくれました。
 私の両親は、
 札幌から車で飛んで来ました。
 家内の両親には、
 まず、母親に来てもらい…
 約1ヶ月の間、
 函館に滞在してもらって、
 お世話になりました。
 義父は一ヶ月後に、
 母親を迎えに来て会ってくれました。
      ■         ■
 今のように携帯もなく。
 もちろんメールで画像を送ることもできません。
 まだ青函連絡船があった時代でした。
 26年前に生まれた娘は、
 親の元を離れて…
 自由に生活しているようです。
 信頼の絆(きずな)を切られて…
 もうすぐ3年になります。
 親の私は、 
 悪いことをしないで…
 他人の役に立つことをしていて欲しいと、
 願っています。

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院長の休日

親も見ている院長日記

 今日からシルバーウイークです。
 秋のゴールデンウイークではなく、
 シルバーウイークという名前が好きです。
 ‘後期高齢者’という名前は嫌いです。
 毎年、敬老の日の前後に…
 長い休みがあるのはよいことだと思います。
 おかげさまで、
 札幌美容形成外科は…
 手術予約で一杯です。
      ■         ■
 昨日の日記に、
 83歳と81歳の私の親が、
 パソコンでメールをしていることを書きました。
 私は知らなかったのですが、
 この院長日記をよく読んでいるらしいです。
 私は、
 実家へは帰らないし、
 行っても用事が済むと、
 すぐに帰ります。
 親孝行な息子ではありません。
      ■         ■
 同じ札幌市内に住んでいても、
 用事がなければ電話もしません。
 朝から夜まで働いているので、
 時間がないこともあります。
 便りがないのは…
 よい便りということにしています。
 55歳のオッサンになっても、
 息子のことは心配なので、
 親は院長日記で安否を知っているようです。
      ■         ■
 親はコメントをくださる方のことを知っていて、
 いつも感謝しています。
 毎日、コメントをくださって…
 ありがたいねぇ~
 いただいたコメントは、
 私の一番の励(はげ)みになっています。
 毎日、ありがとうございます。
 院長日記のネタに困ることもなく、
 いただいたコメントをネタに、
 新しい日記を考えています。
      ■         ■
 そういえば…
 私の息子も、
 部活のホームページ係りをしています。
 私も、
 息子が作ったHPをたまに見ます。
 息子のHPは、
 私のように毎日更新はありません。
 毎日更新していたら、
 おそらく私も見ていると思います。
      ■         ■
 もし、
 この院長日記が更新されないと、
 私が倒れたとか…
 病気になったとか…
 思われそうなので…
 なかなか…
 本日休診にもできません。
 拙い(つたない)内容で申し訳ございませんが、
 細々と続けたいと思っています。
 なかなか親孝行はできないので…
 せめて院長日記だけは続けます。

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院長の休日

75歳の手習い

 私の両親、
 父親(83歳)
 母親(81歳)
 がパソコンでメールをしていると、
 昨日の日記に書きました。
 父親は私が中学生の頃、
 三菱砿業㈱三菱大夕張炭鉱に、
 薬剤師として勤務していました。
 会社が坑内の安全管理のために導入した、
 最新鋭のコンピューターで、
 薬剤の在庫管理を始めたのがきっかけで、
 コンピューターに取り組みました。
      ■         ■
 毎日、コンピューターと悪戦苦闘していました。
 今のノートPCより機能が悪いコンピューターが、
 専用の部屋に設置されて、
 エアコンまで完備されていた時代でした。
 大変だ、たいへんだ
 コンピューターはすごい
 これからはコンピューターの時代だ
 ということを、
 40年前に言っていました。
 炭鉱には、
 優れた人材が揃っていました。
 炭鉱会社の専門家から、
 コンピューターを教えていただいたのが父です。
      ■         ■
 濱本淳二先生にお世話になった、
 上原貢様も、
 父にコンピューターとコンピューターで知り合った、
 三菱砿業㈱職員のお一人です。
 NHKの大学講座で法律を勉強した父は、
 独学でコツコツ勉強したのでしょう。
 炭鉱病院で、
 当時としては画期的な、
 薬剤在庫管理システムはじめました。
 退職後も、
 父はノートパソコンを使っていました。
      ■         ■
 母親は、
 ごくふつうの主婦でした。
 家計が苦しかったので、
 森永製菓の工場のパート従業員→
 →不況でリストラ→
 日本団体生命保険の外交員→
 三菱信託銀行の財形貯蓄の外交員→
 北海道不動産鑑定士協会のパート事務員
 と働きました。
 家計が苦しかった原因は、
 私と弟の教育費でした。
      ■         ■
 母親は働いたおかげで、
 たくさんの人脈を築きました。
 最後に働いていた時代には、
 コピーを取るのが仕事でした。
 PCには触ってもいませんでした。
 もちろんワープロも使えませんでした。
 電話とFAXは活用していましたが、
 父親のノートパソコンには、
 見向きもしていませんでした。
      ■         ■
 今から6年前、
 75歳頃だったと記憶しています。
 何を考えたのか…?
 突然、パソコンを触りはじめました。
 もちろんキーボードも、
 スイッチの入れ方も知りませんでした。
 ぽちポチと、
 あ・い・う・え・お
 を入力していました。
      ■         ■
 どうせやるなら、
 ローマ字変換がいいよ、
 という私と父のアドバイスで、
 ローマ字かな変換にしました。
 本人に確認したところ、
 まず忘れていた…
 ローマ字を覚えることから…
 はじめたそうです。
 こうして少しずつ、
 パソコンを覚えて行ったようです。
      ■         ■
 今では、
 メールに写真を添付して送ったり、
 自分の弟たちと、
 メールでやり取りをしたり…
 父親以上にパソコンを活用しています。
 昨日も、
 自分の弟(79歳)からメールで送ってきた、
 写真を見せてくれました。
 私はたまにしか実家へは行かず、
 親にメールもしません。
 息子としては…
 75の手習いで覚えたパソコンで、
 元気でいて欲しいと願っています。

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