院長の休日

卒後30年

 平成22年11月6日(土)に、
 札幌医大27期、
 卒後30周年の同期会がありました。
 私は25歳で卒業し、
 現在56歳です。
 もう還暦を過ぎた同級生もいました。
 一人も亡くなることがなく、
 全員元気で30周年を迎えました。
      ■         ■
 土曜日の同期会には、
 卒業生の半数近くが集まりました。
 札幌医大を卒業して、
 東京女子医大へ行った先生。
 東京慈恵医大へ行った先生。
 30年ぶりに会った人もいました。
 懐かしい・楽しい時間でした。
      ■         ■
 私たちは…
 ふだん先生と呼ばれる職業です。
 病院で会っても…
 卒業後は○○先生と呼びます。
 同期会は別です。
 教授になった同期も…
 院長になった同期も…
 昔のまま呼び捨てでOKです。
      ■         ■
 『本間、お前のブログ読んでる』
 『これブログに書かないで!』
 つたない院長日記を読んでいただき、
 ありがとうございます。
 『毎日、よく続けるよなぁ~』
 『本間、昔からまめだったからなぁ~』
 同級生とはいいものです。
      ■         ■
 私のように、
 50歳近くになってから開業した友人。
 卒後、10年程度で開業した友人。
 いろいろな人生があり、
 さまざまな苦労があります。
 同業者ならではの、
 貴重な情報交換も…
 たくさんありました。
      ■         ■
 一番、若い先生でも55歳、
 最高齢は60歳を超えています。
 でも…
 外見では…
 年齢は判断できませんでした。
 若い先生でも老けて見える人もいるし、
 60歳を超えていても、
 元気はつらつとした人もいました。
 共通の話題は、
 元気でいたい。
 病気はしたくない
 卒後30年のお医者さんの実感です。

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医療問題

第17回日本熱傷学会北海道地方会

 昨日(2010年11月6日土曜日)、
 札幌市教育文化会館で、
 第17回日本熱傷学会北海道地方会が開催されました。
 今年の2月27日が第16回でした。
 最近は毎年2月に開催されていました。
 札幌の2月には…
 大雪による飛行機や列車の運休という、
 思わぬアクシデントがあります。
      ■         ■
 今回から毎年秋に変更されました。
 昨日は晴れのよい天気でした。
 帯広からまみ子師長さんも、
 参加してくださいました。
 昨日の学会で一番印象に残ったのは、
 札幌医科大学、救急・集中治療部、
 前川邦彦先生のご発表でした。
      ■         ■
 札幌医科大学高度救命救急センターでは、
 多剤耐性緑膿菌のため…
 2年間も熱傷患者さんの治療ができませんでした。
 そのため…
 前回の熱傷学会では、
 札幌市内で大やけどをした子どもさんを
 東京まで搬送して救命した事例が報告されました。
      ■         ■
 その後…
 朝日新聞社がこの問題を取り上げてくれました
 その結果、
 2010年3月29日から、
 札幌医科大学高度救命救急センターが、
 熱傷患者さんの受入を再開しました。
 北海道の熱傷治療の専門家は、
 この受入再開でほっとしています。
      ■         ■
 前川邦彦先生のご発表は、
 多剤耐性緑膿菌の発生を、
 統計学的に解析した立派な発表です。
 国際学会で発表できる内容でした。
 札幌医科大学高度救命救急センターは、
 おそらく…
 日本で一番、感染症対策が進んだ、
 クリーンな高度救命救急センターになりました。
      ■         ■
 前川先生のご研究により、
 多剤耐性緑膿菌を発生させない、
 抗生物質の使い方。
 抗菌性外用剤の使い方がわかりました。
 おそらく、
 この札幌医大方式が、
 熱傷治療の世界標準になると思いました。
      ■         ■
 多剤耐性緑膿菌という、
 目に見えないばい菌と闘い、
 見事に感染対策を確立された、
 札幌医科大学高度救命救急センターは、
 素晴らしい施設です。
 何年もの間、苦闘され、
 日夜努力され復旧なさった、
 浅井康文教授とスタッフの皆さんに感謝いたします。
 これからも救急医療を充実させてください。
 ありがとうございました。

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昔の記憶

内部告発者の心理

 尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件。
 私は勇気ある内部告発者が、
 意図的に流出させたと考えます。
 マスコミは強調していませんが、
 あのビデオを撮影した海上保安官は、
 自分の生命を懸けて撮影しています。
 武器で攻撃されるという危険もあります。
      ■         ■
 自分たちが、
 日本の領海を守るために、
 命がけで船長を逮捕したのに、
 間抜けな日本政府は、
 船長を釈放し、
 おまけに中国から報復を受けました。
 国会議員に一部だけ見せても、
 真相はわかりません。
 理解していない馬鹿もいました。
      ■         ■
 私は内部告発をして、
 札幌医大の名義貸事件を摘発しました。
 札幌医大に形成外科を作ろう
 私の明確な意思で、
 計画的に摘発しました。
 もちろん私の個人的な恨みもあります。
 内部告発には勇気も要ります。
 報復も覚悟の上でした。
      ■         ■
 もし私が内部告発をしなければ、
 札幌医大に、
 形成外科教授が誕生しなかった可能性があります。
 いつまでも、
 皮膚科教授が兼任だったと思います。
 医学部長は権力を得て、
 学長になっていた可能性があります。
 私は絶対に阻止したかったのです。
      ■         ■
 自分の人生の中では、
 一番、歴史に残る仕事だったと思います。
 それが良かったのか…?
 悪かったのか…?
 は後世が判断してくれます。
 そんなこと止めなさい
 と忠告してくれた人もいましたが、
 私は内部告発をしたことを悔いていないし、
 子孫にも胸を張って伝えられます。
 勇気ある内部告発者にエールをおくります。

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昔の記憶

英語会話の先生

 念願がかなって…
 一浪で札幌医大へ入学できました。
 19歳になっていました。
 大学に入ると…
 英語会話とドイツ語会話がありました。
 英語会話の先生はクラーク先生。
 ドイツ語会話の先生はケンプ先生でした。
 ケンプ先生は北大の先生で、
 非常勤講師としていらしてくださいました。
      ■         ■
 クラーク先生は、
 米国人の先生でした。
 札幌医科大学講師でした。
 北海道大学の…
 クラーク博士の親戚ではありません。
 20代の米国人女性で、
 金髪の美人でした。
      ■         ■
 札幌医大には英語の外国人教員一人が、
 講師として採用されていました。
 学生の英会話教育の他…
 入学試験問題の作成。
 医学部教員の英文論文のチェックも、
 なさっていらしたようです。
 さくらんぼさんのコメントのように、
 クラーク先生のおかげで…
 英会話の時間が楽しみでした。
      ■         ■
 私の他にも、
 クラーク先生の授業を楽しみにしている、
 男子学生はいました。
 明るい米国人女性で、
 女子学生にも人気がありました。
 大学祭などでは、
 学生といっしょに楽しんでくれました。
 空手?か少林寺拳法?をなさる、
 日本が好きな米国人でした。
      ■         ■
 私はお金を出して、
 英会話学校に通ったことはありません。
 NHKの英語会話→ビジネス英語会話だけです。
 今でも、
 NHKラジオの「実践ビジネス英語」を聴いています。
 杉田敏(すぎたさとし)先生のファンです。
 昔はオープンリールのテープレコーダーでしたが、
 カセット(ウォークマン)→
 携帯型MDプレーヤー→
 ICレコーダーと進歩しました。
 継続は力なり
 好きこそものの上手なリ
 です。 

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昔の記憶

英語が好きになったきっかけ

 高校一年生の英語は悲惨でした。
 札幌西高校の英語の先生は、
 (福原先生)とか
 閻魔[えんま](鈴木先生)と恐れられながら、
 生徒をびしびしと鍛えてくださいました。
 君たちの将来、
 英語は必ず必要になる!
 私は英語を厳しく教えてくださった、
 札幌西高校の先生に感謝しています。
      ■         ■
 英語会話という院長日記を
 2006年11月24日に書いています。
 高校二年生の頃だったと思います。
 西高の先輩で有名な方が、
 学校に講演にいらしてくださいました。
 「皆さん英語で苦労していますか?」
 「実は私も高校生の時は英語が苦手だったのです」
 「今ではビジネスでも全く苦労していません」
 「私はNHKラジオの英語会話で話せるようになりました」
 とお話してくださいました。
 これが最初のきっかけでした。
      ■         ■
 私は当時のNHKラジオ英語会話を聞きました。
 東後勝明(とうごうかつあき)先生の流暢な英語は、
 同じ日本人とは思えませんでした。
 高校の教科書と違い…
 NHKのテキストには、
 米国の空港で、
 入国審査を受ける場面がありました。
 実際に空港にいるような雰囲気で、
 バックの音が米国の空港でした。
      ■         ■
 同級生がニューヨークへ留学したり…
 札幌の姉妹都市である、
 ポートランド市から交換留学生が来ていました。
 いつかは…
 自分も外国へ行きたいと…
 をみていた賢一少年は、
 すっかり東後勝明先生のファンになりました。
 毎日、テープレコーダーに、
 ラジオから線をつないで録音しました。
 テープもカセットではなく、
 オープンリールという茶色いヤツです。
      ■         ■
 最初はさっぱり聞き取れませんでしたが、
 数ヵ月もすると、
 少しずつ聞けるようになりました。
 聞き取れなかったところは、
 テープを巻き戻して何度も聞きました。
 いつかは外国へ行きたい
 という少年のが、
 私を英語好きにしてくれました。
      ■         ■
 学校の英語の成績はすぐにはUPしませんでした。
 それでも、
 高校2年生になると、
 少しずつ成績もUPしてきました。
 貧乏な家に住んでいた、
 少年時代の私は、
 いつか外国へ行ってみたいというを持っていました。
 そのに少し近づけたのが、
 東後勝明(とうごうかつあき)先生の英語会話でした。

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昔の記憶

英語赤点

 高校時代の思い出です。
 赤点落第点
 札幌西高校の規定は
 平均点の4割以下と記憶しています。
 私は、
 北海道夕張市の山奥、
 大夕張(おおゆうばり)の、
 鹿島(かしま)中学校を卒業して、
 札幌西高校へ入学しました。
      ■         ■
 大夕張では、
 そこそこ成績は良かったのですが、
 札幌へ出てきて、
 成績が急降下しました。
 大夕張でも、
 一番になったことはありませんでした。
 当時の成績優秀者は、
 生徒会長になった、
 菊池久子さんという女生徒でした。
 聡明な方でした。
      ■         ■
 札幌西高校で一番苦労したのが、
 英語でした。
 入学式の翌日に英語のテストがありました。
 全英連(ぜんえいれん)
 全国英語教育研究団体連合会
 という団体のテストでした。
 高校入試を終えて、
 そこそこ英語にも自信があったのが、
 難しくて壊滅(かいめつ)状態でした。
      ■         ■
 すっかり自信をなくして、
 英語は不得意科目になりました。
 5月にあった…
 高校一年生はじめての中間試験。
 英語の文法、
 札幌西高では、
 composition(コンポジション)
 を略してコンポと呼んでいました。
 このコンポがダメでした。
      ■         ■
 毎日、必死に勉強したのに、
 100点満点の24点でした。
 21点以下が赤点だったので、
 かろうじてセーフでしたが、
 生まれてはじめて24点なんて点を取りました。
 札幌の有名中学校を卒業した同級生には、
 楽勝だった人もいました。
 学校を辞めたくなりました。
      ■         ■
 勉強の仕方もわかりませんでした。
 高校一年生の本間賢一少年は、
 英語の辞書が、
 手垢で黒くなるまで、
 何度も繰り返して開きました。
 他の教科も含めて、
 勉強で苦労していました。
 とても医学部へ入れるレベルではなく、
 将来の展望も持てませんでした。
      ■         ■
 医師免許を取得して30年になります。
 今は不得意だった英語で話せます。
 高校一年生で、
 英語が赤点だったのに、
 なんだか不思議な気がします。
 世の中、努力すればできるものです。
 私の実感です。 

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昔の記憶

定年後「イクジイ」の出番だ

 平成22年11月1日、朝日新聞朝刊、声の欄への投稿です。
 定年後「イクジイ」の出番だ
 無職 木本和男(埼玉県上尾市 64)
 わが家の近くに所帯を持った娘は妻と同じ看護師で、孫にあたる3歳の一人娘を職場の保育室に預けて大学病院で働いている。その孫がいよいよ来春から幼稚園。子守役に、定年退職後、料理の腕を上げた私の出番が待っている。
 先日、通園予定の幼稚園の説明会に娘と孫と聞きに行った。周りは若いママばかり。じいちゃんは一人もいなかった。朝8時半に迎えのバスが来て午後2時に帰宅のバスが着くと説明された。妻か娘が戻る午後7時過ぎまで、孫と2人きりになる生活が、来春から始まるというわけだ。
 思い返せば33年前。妻が職場復帰する折、1歳になる娘の子守のために私の母が同居することになった。母は初め戸惑いを見せていたが情は移り、娘が成長するまで宝物のように慈しみ育ててくれた。
 母は口にしなかったが、今思うと気苦労もあったろうとしのばれる。母のように孫を優しく守る自信は今のところないが、母が残してくれたわが家の孫のお守りの「伝統」はしっかり受け継ぎたい。
      ■         ■
 私が知っている優秀な看護師さん。
 仕事ができる人ほど、
 しっかりと子供を見てくれる、
 おばあちゃんがいました。
 実家の母に育ててもらった
 という言葉をよく聞きました。
      ■         ■
 ばりばり仕事をしていた、
 優秀な女医さん。
 私が働けるのは…
 実家の母のおかげ…
 …とよく話していました。
 子供さんといっしょに当直をした先生も、
 一人だけ覚えています。
      ■         ■
 じいちゃんが子育てをしたのは…
 私の記憶にはありません。
 私にははいません。
 定年後に「イクジイになりたいです。
 料理も勉強して…
  「さいごのおべんとう
 を投稿してくださった、
 千葉県松戸市の松岡清三さんのように…
 79歳まで弁当を作りたいです。
      ■         ■
 これからの少子高齢化社会。
 イクジイになって、
 働く女性の味方になる人が…
 増えると良いと思います。
 子供のためにも…
 老人のためにも…
 大切なことだと…
 私は考えています。
 イクジイは私のです。

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院長の休日

上田勝彦さん

 昨夜(2010年10月31日)、
 TVのソロモン流を見ました。
 水産庁加工流通課課長補佐
 上田勝彦さん。
 久しぶりにすごい人を見ました。
 官僚とはほど遠い外見でした。
 どう見ても魚屋のおっさん
 感動しました。
 以下は番組HPからの引用です。
      ■         ■
 1964年島根県生まれ。 長崎大学水産学部を卒業後、漁師を経験。
 「大学を出ているなら現場の声を伝えてくれ」と周囲の漁師仲間の声に後押しされ、27歳の時に農林水産省・水産庁に入省。
 白長靴と首のタオルがトレードマーク、豊富な魚の知識や料理の腕前が注目を集め、型破りな国家公務員として、テレビ・雑誌に紹介される。
 近年、全国各地の漁村では、漁業者の高齢化や後継者不足、魚価の低迷など問題点は多い。 上田さんはこうした問題に立ち向かうべく、賢人自らが無償で全国を奔走し漁師の意見を聞いていく。 さらに、魚の味と鮮度を良くする「活け締め」の技術を自ら研究、その方法を全国の漁師に伝えている。
 時に漁師、時に魚屋、時に包丁を持ち料理を振る舞う、パワフルな官僚・上田勝彦の毎日に密着。
      ■         ■
 北海道の稚内にまで、
 ボランティアで講演に行き、
 講演の最後に、
 ご自分の携帯電話の番号を知らせて、
 いつでも疑問があったら電話してください。
 若い漁師のお兄さんが、
 真剣な眼差(まなざ)しで講演を聴いていました。
      ■         ■
 鮭の身は、
 身の側から焼き始める
 皮の方から焼くと臭みが出る。
 魚をいじった後…
 手についた匂いを取るには、
 石鹸で手を洗った後で、
 水道蛇口のステンレス部分を、
 両手でこする。
 こうするとイオンの働きで匂いが取れる。
      ■         ■
 知らないことばかりでした。
 長崎大学水産学部を卒業後に
 漁師として働いていたが、
 不漁のために漁師を諦めることになる。
 その時に、
 同僚から「大学を出ているなら現場の声を(国へ)伝えてくれ」
 …と言われて、
 国家公務員試験を受け合格
 すごい人です。
      ■         ■
 番組の終わりの方で、
 ご家庭が紹介されていました。
 笑顔が素敵な奥様でした。
 3人のお子様も、
 とても素直でいい子でした。
 上田さんの、
 マグロ料理が最高に美味しそうでした。
 素晴らしい官僚でした。
      ■         ■
 私は、
 中央政府にこんな人がいてくれて…
 日本国もまだまだ捨てたものではないと思いました。
 上田勝彦さんが、
 農林水産大臣になって、
 日本の農林漁業を良くして欲しい…
 番組を見ながら思いました。
 残念なことに再放送はないようです。
 ネットで『上田勝彦』と検索するとたくさん出てきます。

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医学講座

芸術祭参加作品

 芸術の秋です。
 私は芸術家ではありませんが、
 形成外科医には…
 創る喜びがあります。
 恩師の大浦武彦先生は、
 形成外科の楽しみは
 「美しさを求めて創る楽しみ」
 一人一人の患者様が一つ一つの作品で、
 サインをしたくなるほど美しく仕上げる
 創造の楽しみが他科にはない喜びである
 …とお話しされています。
      ■         ■
 私が芸術祭参加作品と呼ぶ手術があります。
 小陰唇縮小手術がそうです。
 ただ切るだけではダメです。
 複雑な3次元的な形態を、
 いかに自然に…
 美しく仕上げるか…
 とても難しい手術です。
 特に…
 俗にクリトリス包茎と呼ばれる、
 恥骨に近い部分まで出ている人を、
 きれいに治すのは、
 とても難しい手術です。
      ■         ■
 婦人科の先生は、
 卵巣とか子宮は得意ですが、
 外陰部については…
 形成外科が専門です
 私は大学病院で、
 外陰癌(がいいんがん)の手術を、
 婦人科の先生と一緒にしました。
 婦人科病棟へ回診に行きました。
      ■         ■
 婦人科の看護師さんからは、
 形成の先生が縫うと…
 こんなにキレイ!
 毎回、必ず驚かれました。
 私が手術を受ける時も
 先生にお願いしていいですか?
 …とよく言われました。
 もちろんOKです
      ■         ■
 小陰唇縮小手術や乳頭肥大手術。
 どうやって治すのだろう…?
 …と思うような重度の方を、
 もくもくと手術して治します
 手術が終了して…
 札幌美容形成外科の女性職員から…
 わぁ…きれいと…
 感動されます。
 他人に見せることはない、
 公開されない芸術祭参加作品を創って…
 しあわせになっていただくことを祈っています。

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医学講座

恥ずかしい相談

 札幌美容形成外科のHP。
 検索でヒットしている文字は、
 意外にも
 小陰唇
 陥没乳頭
 です。
 眼瞼下垂
 二重より、
 ずっと多いのです。
      ■         ■
 小陰唇が大きくて悩む人は多いのです。
 残念なことですが、
 せっかく勇気を出して…
 婦人科に相談に行っても…
 正常ですとか
 何ともありません
 この位の方はたくさんいます
 …と言われてしまいます。
      ■         ■
 そもそも、
 他の患者さんもいる婦人科や、
 レディースクリニックで、
 声に出して、
 あの~
 しょういん…
 と言うこと事体が恥ずかしいです。
 看護師さんや事務員さんは女性ですが、
 同姓に聞かれるのも嫌です。
      ■         ■
 そんな…
 口に出して言いにくい…
 恥ずかしい相談は、
 小さな紙に書いて、
 先生にそっと渡すとよいです。
 百均に売っている、
 小さな封筒を利用する方法もあります。
 待ち時間に、
 メモに書く方法もあります。
      ■         ■
 専用用紙でなくても、
 問診票の裏でもOKですし、
 問診票に記入されるのもよい方法です。
 恥ずかしい相談以外でも、
 たくさんの病気をしていらっしゃる方は、
 病歴を履歴書のように…
 A4の紙にプリントしておくと便利です。
 とにかく、
 口に出して言いにくいことは、
 紙に書いて渡してください。
      ■         ■
 当院の相談コーナーからは、
 24時間365日相談ができます。
 なるべく、
 24時間以内に返信を書くようにしています。
 メールで相談なさると、
 クリニックでは言えないことも、
 相談しやすいです。
 プライバシー保護のため、
 SSL暗号化通信を採用しています。
 恥ずかしがらずに相談なさることが、
 解決への早道です。

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