医学講座

お医者さんの奥さん

 旦那が医者だと、安心できると思うのは間違いです。
 医師が、一番最初に診なければならないのは、自分の患者さんです。
 家族は後になります。
 どこの先生の奥さんも、‘母子家庭’を経験していると思います。
 私も、‘いい旦那さん’ではありません。
 家内には、
 ‘院長日記の中だけ愛妻家ぶっている’と非難されています。
 家内はこの院長日記を…
 ‘腹が立つから見ない!’と言っています。
      ■         ■
 私が高校生の時に、
 同級生にお医者さんの娘さんがいました。
 その人のお父さんは、
 たまたま私の父と小学校の同級生だったそうです。
 ○○さんの家はすごいねぇ。
 お父さんがお医者さんだから…
 というような話しをした記憶があります。
      ■         ■
 『あら、そんなことないわょ』
 『小さい時から、たくさんさびしい思いをしたわょ』
 『例えば、今度の日曜日は動物園に行こう!』
 『楽しみにしていたのに、患者さんの容態が悪くなって…』
 『動物園に何回行けなかったことか…』
 本間家では、動物園に行けなかったことはありませんが、
 札幌で勤務した時も、
 地方病院に勤務した時も、
 スーパーへ買い物へ行っても、
 必ずポケットベルを持っていました。
 今の先生は携帯ですね。
      ■         ■
 子どもが生まれると…
 夜もミルクを飲ませなければなりません。
 家内には、申し訳ないですが、
 私は一度も子どもにミルクを飲ませていません。
 ミルクの後の、
 『げっぷ』の出し方は、教えたことがありましたが、
 哺乳瓶でミルクを飲ませたことはありません。
      ■         ■
 釧路労災病院形成外科に勤務していた時です。
 子どもは2人になっていました。
 上の子が2歳、
 下の子が0歳でした。
 家内の母もいませんし、
 私の両親も札幌でした。
 ある日、家内が、
 美容室へ行きたいから、ちょっと子どもを見ていて
 と言いました。
      ■         ■
 『だめだよ、急患が来て、病院から電話がかかってきたらどうするの?』
 それじゃ、私は美容室へも行けないの?
 『託児所付きの美容室へ行けばいいじゃないか』
 これで大喧嘩になりました。
 その後、家内がどうやって美容室へ行ったか?
 まったく記憶にありませんが、
 お医者さんの奥さんなんてこんなものです。
 経済的に困ることは、
 他業種の人よりも少ないとは思いますが、
 孤独に強くて、忍耐強い人でないと、
 なかなか大変かもしれません…

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昔の記憶

赤ちゃんが生まれたら…

 私は26歳の時、
 1981年(昭和56年)に結婚しました。
 形成外科の同期3人の中では、
 一番早く結婚しました。
 家内は24歳でした。
 結婚したのは、研修医2年目の時でした。
 まだ、何もできない若者でした。
      ■         ■
 『本間君、結婚してもね…』
 『2年間くらいは、奥さんと二人だけがいいょ』
 『二人で、いろいろなところへいったり…』
 『二人だけの時間を楽しんだらいいょ…』
 『子どもができると、大変だからね…』
 北大形成外科の先輩のあたたかいお言葉です。
 私はとても恵まれていました。
 2DKの家賃4万2千円の公団住宅で、
 幸せな新婚生活を送っていました。
      ■         ■
 子どもが生まれたのは、
 先輩のご指導通り、
 結婚して2年後の、
 1983年(昭和58年)でした。
 当時、私は函館中央病院形成外科に勤務していました。
 とても素晴らしい病院でした。
 函館中央病院に勤務して、
 そこで積んだ経験は私の財産となっています。
 子どもも函館中央病院で生まれました。
      ■         ■
 函館中央病院形成外科はとても忙しい病院でした。
 当時は土曜日も診療があり、
 日曜日も交替で回診をしていました。
 私の両親は札幌。
 家内の両親は兵庫県西宮市に住んでいました。
 私は、子どもが生まれてから、
 家内の両親に頼んで、
 家内の母親に函館まで来てもらいました。
      ■         ■
 函館で住んでいたのが、
 病院が借りてくれた、
 キャッスル富岡という賃貸マンションでした。
 エレベーターなしの3階だったと思います。
 赤ちゃんが生まれて、
 生活は一変しました。
 すべてが赤ちゃん中心の生活です。
 楽しい反面、
 いろいろと大変だったことも事実です。
      ■         ■
 私の担当は主として、
 風呂入れでした。
 早く帰ってきた日は、
 私がお風呂に入れていました。
 私の方が手が大きいので、
 片手で楽に子どもを持って、
 身体を洗ったり、頭を洗ったりできました。
 でも、それ以外は何もせず…
 家内は一人で子育てをしていました。
      ■         ■
 函館では、
 家内の母親は産後約1ヵ月いてくれました。
 10月の紅葉がキレイなころに、
 家内の父親が迎えに来てくれて、
 そのまま関西に帰りました。
 その後も、
 引越しや2人目の子どもの誕生など、
 何かある度に、
 家内の母親に来てもらいました。
 ほんとうにお世話になりました。
      ■         ■
 医師という職業は、
 急患や当直もあり…
 私自身が、
 育児休業とか育児休暇なんて…
 考えたこともありませんでした。
 家内の母親は、
 今は札幌に住んでいます。
 本間家の子育ては、
 家内の母親のサポートではじまりました。

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院長の休日

新しい生命(いのち)の誕生

 札幌美容形成外科を開業して4年になります。
 勤続4年の職員は、
 その間に結婚をして、
 家庭を持った人もいます。
 職員2人に新しい生命(いのち)が誕生しました。
 本人の了解を得て、日記で公開します。
 私は、おじいちゃんになった心境です。
 最近、あまりいいことがなかったのですが、
 とても楽しみにしています。
      ■         ■
 毎日一緒に仕事をしていると、
 家族以上に長い時間を過ごすのが職場の仲間です。
 少子高齢化で日本が困っている時代に、
 新しい生命(いのち)が誕生するのは、
 ほんとうに嬉しいものです。
 職員のおなかが少しずつ大きくなってきました。
 先日、マタニティーの制服も届きました。
 おなかが大きくなっても、
 調節できるようになっています。
      ■         ■
 来年になると、
 産前6週間、
 産後8週間の産休がはじまります。
 その後、子どもさんが満1歳になるまでは、
 育児休業が取得できます。
 札幌美容形成外科としては、
 はじめてのケースです。
 職員と一緒にいろいろと勉強をしました。
      ■         ■
 国も少子化対策のために、
 子どもを生みやすくするように力をいれています。
 私は、初孫の誕生を控えて、
 じいちゃんとして、
 できるだけの支援をしようと考えています。
 子どもを生んで育てるのは、
 大変なことです。
 家族や周囲のサポートが必要です。
 小さなクリニックですが、
 私自身は初孫の誕生を楽しみにして取り組んでいます。
      ■         ■
 産休に入る職員がいるため、
 契約社員を募集します。
 まず、看護助手が一名。
 その後で受付が一名です。
 看護助手には資格は要りません。
 しいて言えば、
 血を見ても大丈夫な人です。
 受付には医療事務の資格が要ります。
 医療事務は未経験でも可能です。
 PCの操作ができることが、
 受付の条件の一つです。
 年齢は24歳程度までの若い方を希望します。
 みなさんのご応募をお待ちしています。

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医学講座

講義の持つ意義

 私が尊敬する、
 弁護士の高橋智(さとる)先生の日記に、
 北海道大学ロースクール医療訴訟法の授業が開始した。
 と書いてありました。
 来年1月まで全15回もの講義はすごいと思います。
 受講生の中には、
 医師や歯科医師までいらっしゃると書かれていました。
 受講資格があれば、私も是非受講したいと思いました。
      ■         ■
 私は、不遇な形で札幌医大を追い出されましたが、
 4年間の教員生活で得たものもありました。
 それは、私の講義を通じて、
 形成外科とはどんなものか?
 ということを医学部の学生さんに伝えられたことでした。
 こうして日記を書いているのも、
 何らかの形で形成外科や美容外科を伝えたいという、
 私からの情報発信です。
      ■         ■
 他人(ひと)にものを教えるというのは、
 想像以上に難しいものです。
 有名大学の教授の講義が100%おもしろくて、
 ためになるか?
 ということはないと思います。
 私が学生時代に一番印象に残っているのが
 予備校時代にお世話になった、
 生物の矢野雋輔(やのしゅんすけ)先生でした。
      ■         ■
 形成外科医になった大きなきっかけの一つが、
 札幌医大6年生の時に、
 北大から特別講義にいらしていただいた、
 形成外科の大浦武彦教授の講義でした。
 北大の教官が、
 札幌医大に来て講義をするというのは、
 当時では珍しいことでした。
 6年間で数回しか覚えていません。
      ■         ■
 その特別講義では、
 口腔外科の小浜教授、
 眼科の中川教授、
 北大形成外科の大浦教授、
 北大形成外科の濱本助教授、
 の講義がありました。
 私が学生時代に形成外科を教わったのは、
 この一回だけでした。
 わずか2時間程度の特別講義でしたが、
 これで私の人生が決まりました。
      ■         ■
 高橋智先生の北大での講義でも、
 きっと将来、先生の後継者になるような、
 立派な弁護士さんが育つと思います。
 ひとを育てるのは難しいものですが、
 自分の講義を通じて、
 感動とか生きがいを伝えられるのは、
 すごいことだと思います。
 私も3回の講義を担当しますが、
 今年もしっかりと準備をして臨みます。

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昔の記憶

忘れられない味

 北大病院近くの、
 札幌市北区北13条西4丁目の角に
 味の広龍(あじのこうりゅう)というお店があります。
 開店してから、もう45年くらいになるそうです。
 私が北大病院の研修医になったのが、
 1980年(昭和55年)でした。
 当時は土曜日も外来診療がありました。
 札幌市内の総合病院で形成外科があったのは、
 北大だけでした。
      ■         ■
 当時の北大形成外科は、
 患者さんであふれていました。
 手術を申し込んでも、
 手術日は未定。
 まともに待っていると、
 手術を受けられるのは、
 2~3年先でした。
 (2~3ヵ月ではなく、‘年’です)
      ■         ■
 医師免許証をいただいても、
 手術ができるわけではなく…
 研修医の私は、朝9:00から、
 上の先生がいらっしゃる前に、
 予診(よしん)という問診をして、
 ポラロイド写真を撮って、
 外来診療の準備をします。
 上の先生がいらした後は、
 処置をしたり、
 手術や入院の説明をしたり…
 何もできないけれど、一生懸命に働いていました。
      ■         ■
 当時は25歳でした。
 とにかく外来は混んでいました。
 順調に終わって、
 土曜日でも13:30とか14:00までかかりました。
 外来が終わってからも、
 新患台帳という厚い台帳に記入したり、
 手紙の返事を代筆で書いたり…
 とにかく、忙しく働いていました。
      ■         ■
 今でこそ、
 15:00頃まで昼食を食べなくても平気ですが、
 当時は若かったのか、
 とにかく‘腹ペコ’になりました。
 最後の方になると…
 ‘腹へったなぁ~’しか考えられなくなります。
 そんな時、
 当時、講師だった
 ‘杉さん’こと、杉原平樹(すぎはらつねき)先生が、
 『腹へっただろう、出前とってやるよ』
 と私たち研修医に、
 広龍から出前をとってくださいました。
      ■         ■
 私が頼んだのが、中華飯でした。
 出前が早く来たので、
 私が食べる頃には冷めていましたが、
 丁寧にラップがかかっていました。
 ラップを取って食べた
 その中華飯の美味しかったこと。
 今でも杉原先生にご馳走になった
 その味が忘れられません。
      ■         ■
 昨夜、15年ぶりくらいで
 その中華飯を食べました。
 おじさんは少し歳をとっていらっしゃいましたが、
 味は昔のままでした。
 北大病院でかつて働いていた偉い先生も
 たまにいらっしゃるそうです。
 忘れられない味は誰にでもあるようです。
 私は今でも…
 冷たくなった中華飯が好きです。

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医学講座

高須克弥先生

 昨日の日記(信じてはいけない人)に
 たくさんのコメントをいただきありがとうございました。
 一番最初に…
 思いもかけない先生からコメントをいただきました。
 高須クリニックの高須克弥先生です。
 東大形成外科教授のお名前を知らない人でも、
 高須先生をご存知ない方はいないと思います。
 今週号の週刊文春には、
 麻生首相の口を治した漫画まで掲載されています。
      ■         ■
 高須先生まで…
 この日記を読んでいただいているとは…
 夢にも思いませんでした。
 高須先生、
 心あたたまるコメントをありがとうございました。
 高須先生は、
 私が大学をクビになって、
 美容外科医になってから、
 学会であたたかく私を迎えてくださいました。
      ■         ■
 残念なことですが、
 日本形成外科学会の中には、
 高須先生に批判的な方もいらっしゃいます。
 でも、実際に学会でお会いして、
 お話しをしてみると…
 高須先生は、
 ほんとうの意味での、
 『真の美容外科医』だと思います。
      ■         ■
 世界中探しても、
 高須先生ほど、
 ご自分の身体にメスを入れている美容外科医はいません。
 私自身も、
 高須先生と同じようにできるか?
 と問われると自信がありません。
 それほど、
 高須先生はすごい先生です。
      ■         ■
 また、高須先生は愛妻家です。
 私など、家内にいつも言われています。
 『院長日記の中でだけ愛妻家ぶっている!』
 確かに、仕事も忙しいし、
 日記のネタを考えている時に話しかけられると…
 『うるさい。静かにしてて!』
 と声が大きくなります。
 高須先生の奥様はお医者さんです。
 もの静かに見えますが、
 すごい内助の功だとお聞きしたことがあります。
      ■         ■
 高須ファミリーはお医者さんと歯医者さんです。
 一族でクリニックを経営するのは、
 他人同士よりも大変だと思います。
 高須クリニックがうまく運営されているのは、
 家庭円満の証拠です。
 11月15日から、
 東京のホテルニューオータニで
 高須先生が主催される、
 第5回国際美容外科学会があります。
 学会で先生にお会いできるのを楽しみにしています。
 高須先生ありがとうございました。

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昔の記憶

信じてはいけない人

次の文章は2008年度版、北大形成外科年報(教室発行の小冊子)に投稿して、内容不適切でボツになった原稿です。いつか、このHPで公開することにしていました。
関堂充教授就任祝賀会の翌日にあえて掲載します。教授と講師では立場が大きく違いますが、同じことが繰り返されないように、私が犯した人生で最大の失敗をここに記載します。

信じてはいけない人
医療法人札幌美容形成外科 理事長 本間賢一

この同門会・教室年報は、北大形成外科の同門だけではなく、日本全国の形成外科学教室へ配布されます。
私の原稿は、私のことを、快く思っていない人に読まれることも覚悟の上で、書いています。
自分の、人生で最大の失敗について、私からのメッセージです。どうか同じ過ちを繰り返さないでください。

医療は、医師と患者間の信頼関係があって、はじめて成り立ちます。
医師と医師、医師とパラメディカルの間にも信頼関係が必須です。
外科は、チーム医療です。チームの仲間を信頼しなければ、手術はできません。
術者は、助手が採取してくれる皮弁の血管に異常がないことを信じています。
病棟では、しっかりと術後管理をしてくれていることを信じています。
医療人として生きていく上で、同僚を信頼することは、すべてのはじまりです。

私は、1974年(昭和49年)に札幌医大に入学し、1980年(昭和55年)に卒業しました。
1980年に北大形成外科へ入局。1998年(平成10年)に帯広厚生病院を退職するまで、18年間、北大と北大の関連病院にお世話になりました。
1998年9月から、札幌医大形成外科に勤務しました。卒業以来18年ぶりでした。

札幌医大形成外科は、1982年(昭和57年)から1997年(平成9年)まで、15年間にわたり、阿部清秀先生が基礎をつくられました。
私が札幌医大に呼ばれたのは、阿部先生が旭川赤十字病院へ転出され、唇顎口蓋裂の手術ができる医師がいなくなったためでした。北大形成外科と比べて、当時の札幌医大形成外科のスタッフはマイクロを使った再建もできませんでした。
私を札幌医大に呼んだのは、当時の皮膚科教授で形成外科教授を兼務していた人でした。
『英文論文をあと2編書いたら、助教授にする』というのが、私を誘った時の言葉でした。

私が、1998年(平成10年)9月に赴任した時は、形成外科は附属病院の診療科で、講師1、助手1(皮膚科から借り)の定員でした。そこへ私が赴任して、講師2、助手1となりました。
卒業後18年も経っていましたが、母校だけあって、手術症例はすぐに集まりました。耳鼻科の再建手術が多く、英文論文になった手術症例もありました。
私は、もともと教育職に就く気はありませんでした。札幌医大では、北大形成外科の先生の助けをお借りして、教育や研究に情熱を傾けました。私なりに努力していました。

札幌医大へ赴任して、2年も経つと、私は教授と合わないことに気づきました。
教授は学内で権力を得て、医学部長に就任しました。任期は2年でした。
2期目の医学部長選挙の時に、私は対立候補に投票しました。
残念なことに、私が支持した対立候補の先生は落ちました。
2002年(平成14年)1月のことでした。

私は、札幌医大を去って、開業する道を模索しはじめていました。
そんな中、2002年(平成14年)3月7日(木)21:00に、私は医学部長室に呼ばれました。
医学部長は得意そうな笑顔で、医局員が書いたという手紙を読み上げました。
医学部長の傍には、私が札幌医大に赴任以来、‘信頼’していた助手がいました。

半年も前から、周到に準備された計画であったことを後から知りました。
私を札幌医大に呼んだのも、私を札幌医大から追い出したのも、同じ人でした。
私は、最初からその教授を信用していませんでした。
いつかは、そのような日が来ることを予測していました。

ただ、同じ形成外科の助手がグルとは…
同じ形成外科の講師がグルとは…
半年も前から周到に準備されていたとは…
愚かな私は、全く気づいていませんでした。

自分を追い出したい人がいると、自分に味方してくれる人もいるものです。
失意のどん底から救ってくれたのは、自分を慕ってくれた‘仲間’でした。
私は、約4ヵ月の間、診療・教育から一切外されました。
一日も早く出て行ってくれという態度が見えていました。
48歳にして、職を失いました。

そんな時に、私の力になってくれたのが、北大形成外科の先輩やかつての同僚でした。
『本間先生が、そんなこと、するはずがない』
『札幌医大も、よほど追い出すネタがなかったんだね』
『本間ちゃん、元気出せよ』
どんなに私を元気づけてくれたことでしょうか。

人生には、いろいろなことがあります。
自分を引っ張ってくれる人がいて、出世できることもあります。
自分を陥れる人のために、職を失うこともあります。

失意のどん底に落ちた時に、助けてくれた恩は一生忘れられません。
今、私は、札幌医大を追い出されて、本当によかったと思っています。
何の未練もありません。
泥足で、蹴られて、追い出されたようなものですが、背中を押してくれた人に感謝しています。

私は、北大形成外科という、とても良い環境で育ちすぎました。
純培養で育ったので、仲間を疑うことを知りませんでした。
外科医は、仲間に嘘をついたり、裏切ったりしないと思っていました。
世の中には、信じてはいけない人がいます。
自分の最愛の妻でさえ、平気で嘘をついて騙すような人は、簡単に他人を騙します。
そのことに気づいたのは、自分が騙された後でした。

世の中には、良い人もいれば、悪い人もいます。
論文に嘘を書く人も、データーを捏造する人もいます。
権力のトップに立った人は、権力を行使すれば何でもできると思っています。
ただ、嘘をついたり、人を陥れる人は、自分も仕返しをされると気づくべきです。
科研費の不正。所得税の不正申告。
権力の座から、引き摺り下ろされる材料はいくらでもあります。

残念なことに、私の同期で、私を助けてくれた人が…
私と同じような目に遭ってしまいました。
陥れられた、悔しい思いは、当事者でなければわかりません。
私は声を大にして言います。
『元気出せよ』
『先生がそんなことするはずないよ!』
『今にきっといいことがあるよ!』
『俺たち、北大形成外科の同期じゃないか!』

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院長の休日

関堂充先生教授就任祝賀会

 北大形成外科ご出身の
 関堂充(せきどうみつる)先生が
 筑波大学大学院人間総合科学研究科臨床医学系形成外科教授
 (通称:筑波大学形成外科教授)に
 平成20年7月16日付けでご就任されました。
 今日は、その祝賀会が、
 ルネッサンス札幌ホテルで開催されました。
      ■         ■
 関堂充先生は、
 私が平成7年1月1日付けで、
 JA帯広厚生病院形成外科に赴任した際に、
 吉田哲也先生(現:苫小牧日翔病院形成外科医長)とともに
 私をあたたかく迎えてくれた先生でした。
 帯広厚生病院では、
 3ヵ月しかご一緒に仕事をできませんでしたが、
 とても優秀で温厚な先生です。
      ■         ■
 今も昔も…
 医学部の卒業生にとって、
 最高の出世は‘教授就任’と言っても
 過言ではないと思います。
 同級生が100人いたとすると、
 教授になれるのはせいぜい数人です。
 教授になるには、
 大学卒業後も一生懸命勉強をして、
 英文論文をたくさん書かないとなれません。
      ■         ■
 形成外科の場合は、
 最近は実技試験もあるようです。
 応募した大学の選考委員の教授が、
 勤務先の病院まで、
 手術を見に来るそうです。
 そうして、
 本当に手術が上手な先生かどうかを判断します。
      ■         ■
 大学によって選考方法は違いますが、
 最終選考まで残る人はだいたい3人程度です。
 その中から、
 教授会の投票によって決められます。
 大学を卒業した時から、
 『俺は将来は教授になる!』
 と決めて、
 ず~っと…勉強を続ける人もいます。
 そんなに勉強をしてもなれるものではありません。
      ■         ■
 関堂先生のすごいところは、
 ず~っと大学で勉強をしていたのではなく、
 ガンセンターや地方の病院などで、
 臨床経験を積んで、
 大学に戻ってから、
 医学博士の学位を取得されたことです。
 とても面倒見のよい先生で、
 下の研修医からも慕われていました。
      ■         ■
 筑波大学へ行かれても、
 優しい明るい笑顔で、
 新しい形成外科を築かれることと思います。
 ただ、最近は国立大学の教授だからといって…
 安心していられる時代ではありません。
 人のいい教授ほど、
 理不尽な不遇に遭遇することがあります。
 下の人が起こした、
 思わぬ医療事故に巻き込まれることもあります。
 どうか身体に気をつけて
 筑波の地で頑張っていただきたいと願っています。

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医療問題

病院の休止問題

 銚子市立総合病院の休止問題が
 朝日新聞に掲載されていました。
 他人事(ひとごと)ではありません。
 私たち、札幌市民が利用する、
 市立札幌病院も赤字です。
 救命救急センターや
 新生児医療で
 札幌市民をサポートしてくれている、
 市立札幌病院も大変そうです。
      ■         ■
 一番悪いのは、
 国の医療費抑制政策です。
 確かに、
 一部の医療機関が儲けていた時代もありました。
 今は、まともにやっている、
 ‘病院’は儲かりません。
 それどころか、厄介なお荷物です。
 今頃になって、
 急に医師の養成数を1.5倍に増やしたところで、
 その学生さんが一人前になるには、
 あと15年はかかります。
      ■         ■
 国の制度改革の前に、
 ‘病院’では、
 さまざまな経費節減策が取られてきました。
 一番最初になくなったのは、
 病院長専用車だったと記憶しています。
 経費削減は、もう20年近くになります。
 総合病院へ行って受付をして、
 保険証を出して、
 紹介状を出して、
 カルテを作成してもらって、
 順番を待っています。
 ○○病院医事課という名札をつけた女性。
 実は、大部分が派遣社員さんです。
      ■         ■
 派遣社員でも、
 医療事務のベテランなので、
 窓口で苦情が出たり、
 カルテの入力ミスがあったりすることはありません。
 市立○○病院や○○市民病院の
 医事課長になるような方は、
 公務員です。
 転勤があるので、
 札幌市の場合ですと、
 区役所からの転勤もあります。
      ■         ■
 私が市立札幌病院に勤務していた、
 20年前は、
 医事課長就任前オリエンテーションなんて…
 ありませんでした。
 医事課長就任前に、
 医療事務実務講座、
 促成栽培コース受講

 なんてシステムもありませんでした。
 確かに、医事課長には…
 それ相応の経験を積んだ方がいらっしゃいます。
 苦情処理の対応なんかは、
 さすがは行政のベテラン!
 と思わせる方もいらっしゃいました。
 でも医療事務のことについては素人でした。
      ■         ■
 医事課の職員は、
 大部分が派遣の女性社員
 区役所の窓口に行って、
 そこのフロアーの半分が派遣社員なんてありません。
 医事課を派遣にしたのは、
 病院の経費削減のためです。
 私は、今でも派遣で働いてくれていた、
 担当者のお名前と顔をよく覚えています。
 とても、しっかりとした方でした。
 レセプト(診療報酬明細書)の返戻もゼロでした。
 公務員にしてあげたいと思っていました。
      ■         ■
 これだけ病院が経費を節減しても、
 なかなか黒字にできないのは、
 医療費のシステム上、
 どうしても赤字になる部門があるからです。
 赤字の病院はいらないから、
 札幌市交通局のバス部門のように、
 民間に委託しよう…
 なんて考えていると…
 白石区の中央バスのような問題になりますょ。
      ■         ■
 人間が安心して暮らせるというのは、
 私たちの生活に欠かせないことです。
 建物だけ立派な病院をつくる必要はありませんが、
 そこへ行けば、
 あぁ、○○病院へ来てよかった!
 これで助かった!
 という病院を持つことは、
 私たちの暮らしに必要不可欠なことだと思います。

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院長の休日

床屋さん

 今日は休診日だったので、
 床屋さんに行ってきました。
 私がお世話になっているのは、
 札幌市西区琴似にある福原さんという
 理容室です。
 今は琴似から引っ越して、
 北区に住んでいますが、
 床屋さんは琴似まで行っています。
      ■         ■
 私のストレス解消の一つが床屋さんです。
 髪が伸びてくるとイライラします。
 さっぱりと散髪をしていただくと、
 身も心もすっきりとします。
 いつも、椅子にかけて、
 数分すると眠ってしまいます。
 髪を切りにくいだろうなぁ…
 申し訳ないなぁ…
 と思っているうちに爆睡です。
      ■         ■
 福原さんは、
 ご主人と息子さん、
 従業員のお兄ちゃん、
 奥さんの
 4人で、
 椅子3台の理容室です。
 息子さんは、大学を卒業後に
 一度、会社員になられて、
 それから、理容師になられた努力家です。
 今日は、息子さんに散髪をしていただきました。
      ■         ■
 明るく、家庭的な床屋さんです。
 息子さんには、
 3歳になる坊やがいます。
 少し離れたマンションから、
 通勤されています。
 私がわざわざ、JRや車で、
 琴似まで散髪に行くのは、
 ここのお店に行くとリラックスできるからです。
 いつも、私の髪を切ってくださる、
 福原さんご一家に感謝しています。
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 福原さんにお世話になる前は、
 約30年近くも、
 西区八軒の‘むつみ’さんという
 理容室にお世話になっていました。
 高校生の時から、
 47歳くらいまでだったでしょうか?
 残念なことに、
 ご主人が病気で他界されてしまいました。
 家族のようなお付き合いをさせていただいていました。
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 加藤さんという、
 とても真面目なおじさんでした。
 こちらの理容室も、
 ご主人と奥様の2人で
 経営なさっていらっしゃいました。
 おじさんが亡くなった時には、
 火葬場まで行って、
 骨も拾わせていただきました。
 ほんとうに、いいおじさんでした。
 結婚式の前の日にもお世話になりました。
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 髪は毎日伸びるので、
 私は一ヵ月に一度は必ず床屋さんに行きます。
 小さいときは、床屋嫌いだったようです。
 祖母の家の近くにあった、
 橋本さんという理容室で、
 よく泣いていた記憶があります。
 美容外科は、
 月に一度とか行くところではありません。
 私は、同じサービス業として、
 札幌美容形成外科にいらしていただいたお客様に、
 安心して
 リラックスして、
 いただけるような
 ‘店’にしたいと思っています。

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