医学講座

形成外科42年のあゆみ⑭

 形成外科42年のあゆみを2週間も書いてしまいました。
 藤枝正道先生の3年7組は楽しいクラスでした。
 模擬試験では一度もA判定もB判定も出ませんでした。
 それでも第一志望は札幌医大にしていました。
 自分なりに勉強はしていましたが、
 なかなか成績は伸びませんでした。
      ■         ■
 今から考えると学力不足でした。
 札幌西高校では、
 伝統の、
 文化祭、
 運動会、
 行燈行列、
 という学校の行事がありました。
 受験生なのに勉強以外のこともしていました。
 楽しい高校生活でした。
      ■         ■
 北海道には、
 炊事遠足というのがあります。
 結婚してから奥さんに言ったら、
 何それ?って言われました。
 はんごうすいさん飯ごう炊さんのこと?
 …と言われ、
 今度は私がはんごうすいさんって何?
 …と聞きかえしました。
      ■         ■
 北海道では、
 お弁当を持って行くふつうの遠足ではなく、
 どこかに行って、
 豚汁を作ったり、
 ジンギスカンをしたり、
 野外で料理をして食べる遠足を、
 炊事遠足すいじえんそくと呼びます。
 ネットで検索すると今でもあります。
      ■         ■
 3年7組では、
 十五島公園に炊事遠足に行きました。
 藤枝先生の奥様と、
 お嬢様もいらっしゃいました。
 先生が奥さんのことを、
 としちゃん♡と呼ばれていました。
 とても素敵なご夫妻です。
 現役合格はできませんでしたが、
 私は楽しい高校生活を送ることができました。
20150531-1
20150531-2

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑬

 形成外科42年のあゆみ13回目です。
 高校2年生で少し成績がUPしました。
 同級生に本間、新聞を読めと教えてもらったり、
 STVラジオで旺文社の大学受験ラジオ講座を聞いて、
 少しずつ勉強の方法がわかってきました。
 ただ机に向かってもダメでした。
      ■         ■
 当時の札幌西高校は3年生になると、
 進路別にクラス分けがありました。
 2年生までは全員同じ勉強ですが、
 3年生になったら、
 ・国立理系
 ・国立文系
 ・私立理系
 ・私立理系
 …と別れていた記憶があります。
      ■         ■
 国立理系と国立文系は同じクラスで、
 数学と物理だけお隣の3年8組と国立理系は数Ⅲを勉強した記憶があります。
 (はっきり覚えていなくて申し訳ありません)。
 国立文系は数Ⅲはなかったと思いますが、
 記憶が定かではありません。
 私は数Ⅲが嫌いではありませんでしたが、
 成績がいまいちでした。
 これが現役で札幌医大を落ちた原因です。
      ■         ■
 高校3年生になったけんいち少年は、
 3年7組になりました。
 担任は日本史の藤枝正道先生です。
 女子
 圧倒的人気
 …の先生でした。
      ■         ■
 私たち男子生徒から見ても、
 とても素敵な先生でした。
 私が記憶しているのが、
 よく藤枝先生が放課後の掃除を、
 クラスに来ていっしょにしてくれたことです。
 私たちは掃除当番がしていましたが、
 先生は毎日掃除にいらしてくださいました。
      ■         ■
 掃除を毎日いっしょにしてくれた先生は、
 私の記憶では藤枝先生だけです。
 大変申し訳ないことに、
 私は日本史の成績が悪く、
 あまり勉強もしませんでした。
 私が受験した札幌医大は、
 社会科が一科目だけでした。
 私は政治経済で受験しました。
      ■         ■
 すみれさんと同じクラスだったのも、
 3年7組でした。
 私よりずっと健康的で素敵な女の子でした。
 残念なことに難病でご逝去されてしまいました
 ほんとうに今でも信じられません。
 医学の無力さを感じます。
 同級生で亡くなられた方が何人もいます。
 私はまだ元気で働けてしあわせだと思っています。
 心からご冥福をお祈りしています。
1977

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑫

 形成外科42年のあゆみを書き始めて12回目です。
 なかなか高校卒業までたどり着けません。
 いい高校からいい大学に行くつもりで、
 15歳のけんいち少年は札幌西高校に入学しました。
 残念なことに、
 札幌西高校に入学してからは、
 大夕張の優等生が
 札幌西高の劣等生になりました
      ■         ■
 ソフトクリームの思い出に書きました。
 当時の札幌西高校は一学年450人でした。
 45人のクラスが10組ありました。
 おおよそ男子300人、女子150人程度で、
 圧倒的に女子が少ない学校でした。
 北海道の高校ランキングでは、
 ①札幌南
 ②札幌北
 ③札幌西
 …という順位でした。
 札幌西は自由な校風が特徴でした。
      ■         ■
 私は青白い顔をした、
 不健康そうな男子でした
 いつも風邪をひいていました。
 熱を出して学校を休んだこともよくありました。
 一浪して受けた自治医大の面接で、
 きみは高校をよく欠席しているが、
 そんなに身体が弱くて僻地の医師になれるのか?

 …と面接官から質問されたくらいでした。
      ■         ■
 高校2年生は、
 柔道の齋藤佳彦先生が担任で、
 仲のよいクラスでした。
 夏には余市よいちにキャンプに行きました。
 クラスのほぼ全員が参加した記憶があります。
 成績上位者にはなれませんでしたが、
 いい友人や先生に恵まれました。
 彼女はいませんでしたが同級生には女子もいました。
      ■         ■
 よく風邪をひいて、
 大きなマスクをして、
 青白い顔をしていました。
 モテませんでした
 中学・高校と
 バレンタインデーにいただいたチョコはゼロ
 医学部を目指して、
 勉強ばかりしている男子はもてません。
 保健室にもよくお世話になりました
 美容形成外科の医者になるなんて、、、
 夢にも考えていませんでした。
 人生とは不思議なものです。

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑪

 形成外科42年のあゆみの続きです。
 私の68年の人生で、
 形成外科医が42年です。
 医師免許証さえ取得してしまえば、
 形成外科医になろうと思えばなれます。
 68年の人生で一番大変だったのが、
 医学部合格でした。
      ■         ■
 医学部合格への道
 医学部合格への道②
 2009年に書いた院長日記です。
 私が長々と中学や高校のことを書くのは、
 医学部に入るのが、
 いかに大変だったかを書き残すためです。
 私が好きな決して諦めてはいけないは、
 旺文社の大学受験ラジオ講座で覚えました。
      ■         ■
 高校2年生から、
 私はSTVラジオで早朝に放送されていた、
 旺文社の大学受験ラジオ講座を聞きました。
 テープレコーダーにタイマーで録音していました。
 高校2年生には難しい内容もありましたが、
 とてもいい先生がいらっしゃいました。
 忘れられないのが勝浦捨造先生です
      ■         ■
 
 勝浦捨造先生は東北大学助教授から、
 代々木ゼミナールの副校長になられました。
 一度もお会いしたことはありませんが、
 50年たっても先生の関西のアクセントがある声を覚えています。
 『いいですか、どんな難問でも、同じ問題を13回解いてごらんなさい。
  必ずできるようになります』
 …と言われたお言葉は忘れられません。

 修学旅行でいっしょに病院に行ってくれた安田くんも、
 勝浦先生のファンでした。
      ■         ■
 勉強は孤独です。
 自宅に引きこもっていると
 自分を見失う恐れがあります。
 朝、早くから夜遅くまで、
 全員が勉強をしている環境にいると、
 自然と勉強するようになります。
 成績を向上させるコツとポイントは、
 よい先生や参考書を見つけることです。
      ■         ■
 私は回転寿司に行くと、
 隣の人が注文した美味しそうなネタを、
 注意深く見ています。
 そうすると、
 美味しいネタがわかります。
 受験勉強も同じです。
 予備校の自習室などを利用すると、
 成績がよい人がどんな勉強をしているかわかります。
 友だちになって、
 話しをするのもよい方法です。
      ■         ■
 高校生向けの予備校の授業は、
 先生がよければ成績UPにつながります。
 進学校と呼ばれる学校でも、
 科目によって先生を選ぶことはできません。
 予備校の授業は、
 先生を選択して受けることができます。
 私は化学の授業で自分の医進クラスではなく、
 他クラスの授業を聴きに行きました。
 その橋本先生は北大理学部の大学院生でしたが、
 とても明快な授業でした。
      ■         ■ 
 高校2年生になって、
 勉強の方法が少しずつわかってきました。
 ただひたすらがむしゃらに覚えようとしてもダメです。
 いい先生に
 いい方法を
 上手に教えてもらう
ことです。
 私はラジオ講座で勉強しましたが、
 今はネットもYouTubeもあります。
 効率よく勉強することで、
 医学部合格への道が開けます。

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑩

 成績が低迷していた私は16歳になりました
 高校2年生はクラス替があり、
 2年5組になりました。
 担任は齋藤佳彦先生でした。
 専門は柔道です。
 私は体育は苦手でしたが
 礼儀正しい柔道は好きでした。
      ■         ■
 札幌西高校では、
 男子は柔道か剣道を選択できました。
 私は柔道を選択し、
 担任の齋藤佳彦先生から柔道を学びました。
 強くはなれませんでしたが、
 柔道の技と礼儀作法を学びました。
 齋藤先生は柔道整復師の資格もお持ちでした。
      ■         ■
 齋藤先生は私と同じ、
 西区八軒はちけんに住んでいらっしゃいました。
 ガッツ! パブリカと呼ばれていた、
 トヨタのパブリカで通勤していらっしゃいました。
 私のことを、
 本間元気か?
 …とよく気にかけてくれました。
 私は齋藤先生が好きでした
      ■         ■
 高校2年生になると友人も増えました。
 本間、新聞を読めと、
 同級生の高橋新一くんに言われました。
 高橋くんは国語が優秀でした。
 彼は大学卒業後に北海道放送に就職しました。
 高校2年生から、
 私は旺文社の大学受験ラジオ講座を聞きました。
 私はラジオ講座で少しずつ勉強ができるようになりました。
      ■         ■
 毎日、あぁ~~!
 今日もまた寝ちゃった!
 ここまでやろうと思ったのに…
 あぁ~~!
 また同じ問題を間違った!
 これで3回目だ。
 あぁ~~!
 また同じ単語の意味を忘れた!
 前回、辞書を引いたのは、
 つい一週間前だ。
 (私は辞書の単語に日付をつけて、
 何回、同じ単語を引いたか記録していました)
      ■         ■
 こんな毎日でしたが、
 少しずつ成績がUPしてきました。
 落ち込んでいた私を、
 本間元気か?
 …と気にかけてくれた齋藤佳彦先生のおかげです。
 高校2年生の秋に修学旅行があり、
 私たちは青函連絡船とJRの夜行列車で、
 京都と奈良、東京に行きました。
 健康不良児だった私は、
 修学旅行で熱を出して、
 東京で病院に行きました。
 いっしょに行ってくれた安田くんには今でも感謝しています。

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑨

 15歳のけんいち少年は、
 大夕張の夕張市立鹿島中学校から、
 札幌の北海道札幌西高等学校へ進学しました。
 1970年5月の最初の定期試験で、
 何と英語が赤点ぎりぎりでした。
 すっかり劣等生になりました。
      ■         ■
 得意科目だったはずの国語も低迷、
 高校1年生の社会科は地理でした。
 これも得意だったはずなのですが、、、
 成績は低迷。
 大好きだった理科は、
 高校1年生の生物でこれまた低迷、
 数学も苦手ではなかったはずなのに、
 いい点数は取れませんでした。
      ■         ■
 高校1年生の担任は、
 橋本順子まさこ先生でした。
 順子と書いて
 まさこと読みます。

 お茶の水女子大学を卒業され、
 札幌西高校で世界史を教えていらした、
 才女の先生です。
 ニックネームはライオンでした。
 本名を知らず、
 ライオンという名前だけ覚えている同窓生も多いようです。
 獅子しし子先生と呼んだ西高の後輩もいました。
      ■         ■
 2018年5月5日の北海道新聞朝刊(札幌版)に橋本順子先生が出ていました。
 札幌西高校の高校生活は、
 夏に有珠うすでサマーキャンプがあったり、
 学校祭があったり、
 伝統のマラソンがあったり、
 楽しい思い出はたくさんありますが、
 とにかく成績が低迷していました。
 医師になるなんて夢のまた夢でした。
 考えたこともありませんでした。

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑧

 形成外科42年のあゆみ
 ようやく中学校まできたところで
 一週間のお休みが終わりました。
 せっかく書き始めたので、
 もう少し続けさせてください。
      ■         ■
 私が卒業した夕張市立鹿島中学校は、
 大夕張の唯一の中学校でした。
 大部分の生徒は地元の高校へ進学しました。
 私が中学生だった50年前は、
 地元の高校に進学しないで、
 進学校と呼ばれる、
 函館ラサール高校や、
 札幌の高校に進学する生徒もいました。
      ■         ■
 私は家庭教師の永井先生がおすすめしてくださった、
 札幌西高校と函館ラサール高校を受験しました。
 幸運にも両方とも合格できました。
 私は弟も札幌の中学校に進学するため、
 札幌西高校に行きました。
 よかったのはここまででした。
 大夕張では成績優秀者の一人でしたが、
 あっという間に急降下しました。
      ■         ■
 大夕張の田舎から出て来て、
 毎日、バスで通学するだけで大変でした。
 とにかく人が多いのに驚きました。
 毎日、通学だけで疲れました。
 その上、勉強はできず…
 英語の暗記はできず…
 高校に入ってから劣等生になりました。
      ■         ■
 札幌市内や道内の中学校から選抜された450人が集まったのです。
 正規分布した母集団です。
 大夕張では成績が優秀だったとしても…
 高校に入ってから成績が落ちるのは、
 当然と言えば当然の結果です。
 友人はすぐにできました。
 お前、英語の暗記できた?
 できねぇ~
 勉強しようと思ったけど寝ちゃった。
      ■         ■
 最初の定期試験で、
 何と英語が赤点ぎりぎりでした。
 英語が不得意科目になりました。
 1970年5月にあった…
 高校一年生はじめての中間試験。
 英語の文法、
 札幌西高では、
 composition(コンポジション)
 を略してコンポと呼んでいました。
 このコンポがダメでした。
      ■         ■
 毎日、必死に勉強したのに、
 100点満点の24点でした。
 21点以下が赤点だったので、
 かろうじてセーフでしたが、
 生まれてはじめて24点なんて点を取りました。
 札幌の有名中学校を卒業した同級生には、
 楽勝だった人もいました。
 学校をやめたくなりました。
      ■         ■
 勉強の仕方もわかりませんでした。
 高校一年生のけんいち少年は
 英語の辞書が、
 手垢で黒くなるまで、
 何度も繰り返して開きました。
 他の教科も含めて、
 勉強で苦労していました。
 とても医学部へ入れるレベルではなく、
 将来の展望も持てませんでした

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑦

 形成外科42年のあゆみを書いていたら、
 一週間が過ぎてしまいました。
 ようやく中学生のところまで来ました。
 私は美唄から大夕張へ転校しました。
 中学1年生の時にはいじめられたりしましたが、
 そのうち仲の良い友だちもできました。
 成績は悪くはなかったですが、
 学年で一番になったことはありませんでした。
      ■         ■
 夕張市立鹿島中学校で一番だったのは、
 菊池久子さんという女子でした。
 生徒会長にもなった人です。
 私が一生懸命勉強をしてもかないませんでした。
 お父さんから勉強を習っていると聞きました。
 私の成績が伸び悩んでいたので、
 うちの親が家庭教師を頼んでくれました。
 永井先生でした。
      ■         ■
 家庭教師は週2回だったと記憶しています。
 私は永井先生のおかげで成績が少しずつUPしました。
 国語が得意になったのは、
 中学校3年生の時に聴いた…
 NHKラジオの
 中学生の勉強室という番組のおかげです。
 国語の担当が
 東京都立八潮高等学校の
 小田島哲哉先生でした。
      ■         ■
 国語は毎週金曜日でした。
 小田島先生の語り口が穏やかだったのと、
 テキスト本文の朗読がありました。
 朗読は東京放送劇団などに所属する、
 プロの方が担当されていました。
 何て上手な読み方だろう…
 耳をそばだてて聴きました。
 私はこの中学生の勉強室で、
 国語が好きになり…
 得意科目になりました。
      ■         ■
 今こうして…
 院長日記を書き続けられるのも…
 小田島哲哉先生のおかげです。
 50年たっても感謝しています。
 中学生の勉強室で放送してくれた…
 有島武郎(ありしまたけお)の
 『生まれ出づる悩み』
 が函館ラ・サール高校の入試問題
 そのまま出ました。
      ■         ■
 小田島先生が講義で教えてくださった…
 有島武郎
 たけおの読み方。
 落葉松
 からまつの読み方。
 50年たった今でも…
 はっきりと覚えています。
 私は中学生の勉強室を聴かなければ…
 おそらく志望校への進学は無理だったと思います。
      ■         ■
 私が小田島哲哉先生のことを院長日記に書いたので、
 小田島哲哉先生の米寿を祝う会に呼んでいただけました。
 残念なことに先生はご逝去されてしまいましたが、
 米寿を祝う会で先生から、
 ♡子供に夢をあたえる教育♡
 ♡夢を持つことが生きがい♡
 ♡夢を持つことの大切さ♡

 …を教えていただきました。
 私の貴重な財産の一つです。
20150413

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑥

 形成外科42年のあゆみを書きはじめて6日目になりました。
 まだ小学校のところです。
 私がお伝えしたいのは、
 小さい頃から医者になろうと思っていたのではなく、
 血を見るのが嫌いで、
 産科の実習で倒れたこともある私だったこと、
 自分では考えてもみなかった形成外科医に
 たまたまなったということをお伝えしたいので、
 長々と子供時代からのことを書いています。
      ■         ■
 1967年5月に私は美唄市茶志内ちゃしないから夕張市鹿島に引っ越しました。
 父が勤務していた三菱茶志内炭鉱が閉山し炭鉱病院もなくなったためです。
 山合の谷間に作られた街というのが、私の夕張に対する第一印象でした。
 クネクネとした、狭い道路をバスに揺られて行きました。
 清水沢しみずさわという町から、
 バスは大夕張に向けて山に入ります。
 私の目に入ったのは北炭の清水沢発電所から出る、
 モウモウとした石炭の煙と、
 石炭を洗った洗浄水によって真っ黒になった夕張川でした。
      ■         ■
 大夕張の手前にはシューパロ湖というダムがありました。
 森林鉄道で使ったという三角を組み合わせたような橋が架かっていました。
 ダムに向かって右奥はキレイな水の色をしていましたが、
 大夕張炭鉱から排水が流れてくるダムの左半分は真っ黒でした。
 そのダムの遥か奥に1,668mの夕張岳がありました。
 山奥に来たものだなぁ~というのが第一印象でした。
      ■         ■
 美唄から大夕張に転校する前に、
 大夕張では男子は全員丸坊主だという噂を聞かされました。
 おでこを気にしていた私にとっては大問題でした。
 丸刈りだけは勘弁してほしいというのが正直なところでした。
 実際に鹿島中学校に転校してみると丸坊主の子が目立ちました。
 美唄の茶志内中学校では、丸坊主の男子はゼロでした。
      ■         ■
 幸い鹿島中学校でも丸刈りは強制されませんでした。
 でも、中学校でも、私のおでこの広さは指摘されました。
 一年生の時に同級生のMくんが
 おでこの長さを測ろうと言い出しました。
 私はイヤだったのですが、しぶしぶ応じました。
 Mくんは、額が狭くその代わり後頭部が出っ張っていました。
 本人もそれを気にしていて髪で隠すようにしていました。
 当然、丸刈りは二人とも大嫌いでした。
      ■         ■
 中学校で測った時は6㎝9㎜でした。
 今、測定してみても同じくらいです。
 人間の頭蓋骨の大きさはあまり変化しないようです。
 私のことをおでこ
 将来は確実にはげるね
 …と言っていたMくんがはげました。
 小学校の時の佐藤くんには会っていないので
 その後どうなったかわかりません。
      ■         ■
 私は、自分がおでこを気にしていたから、
 形成外科医になったのではありません。
 ただ、他人から見るとどうでもいいと思うようなことでも、
 本人が悩んでいるのでしたら、
 できるだけ力になってあげようと思います。
 自分ががっかりした経験
 自分が困った経験
 英語でいうと、disappointing experienceがたくさんあると
 他人の悩みも理解しやすいのかもしれません。
      ■         ■
 鹿島中学校ではいじめにあいました
 英語の時間にRとLの発音がうまくできなかったため
 英語の先生が『君は言語障害なのか?』と言ったあとで
 ついたあだ名が『言語障害』でした。
 先生に悪気があったとは思いませんが
 教師たる者は言動に注意しなくてはいけません。
 その後についたあだ名は『イカリヤ長介』でした。
 私の下くちびるが少し出ていて、
 当時はやっていたドリフターズの長さんこと
 イカリヤ長介さんの下くちびると同じだというのが理由です。
 中学校時代の写真はいつも下口唇をかんでいます。
      ■         ■
 中学校時代に言われた経験と形成外科医になったことは関係はありません。
 ただ札幌に来た時に、
 中央整形の看板を見つけて、
 ここに来たら下くちびるを治してもらえるのかなぁ~
 …と本気で思っていました。
 まさか自分が将来そこの副院長として雇ってもらえるとは
 夢にも考えていませんでした。

私は自転車が好きな少年でした

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医学講座

形成外科42年のあゆみ⑤

 私は美唄市茶志内びばいしちゃしないで4年ちょっと過ごしました。
 自分の中ではじめて医者になるという言葉が出た時でした。
 でも私の中では、お医者さんになるなんて考えはありませんでした。
 父親が働いていた茶志内炭鉱病院は、
 丘の上にありました。
 病院から見える田んぼはきれいでしたが、
 病院の下にはお墓がありました。
      ■         ■
 私はお墓がこわかったのです。
 小学生の頃の私は、
 おばけ
 お墓
 火葬場
 死体
 
 注射

 …がこわい子供でした。
      ■         ■
 父親が勤務していた、 
 三菱茶志内炭鉱病院は、
 丘の上にありました。
 すぐ前が墓地でした。
 炭鉱病院に行くには、 
 墓地の中の道を通るか、
 急な坂道を上がる2つの道がありました。
      ■         ■
 こわがりだった私は、
 小学校6年生になっても、
 墓地の中を通らず、
 遠回りをして、
 急な坂道を上がりました。
 そのくらい、
 おばけお墓がこわい少年でした。
 今では考えられません。
      ■         ■
 ですからお医者さんになるという考えはありませんでした。
 不幸にもクビになってしまいました
 札幌医大に在職中は、
 解剖学第二講座の村上弦むらかみげん教授
 …のおかげで、
 解剖学教室で研究をさせていただきました。
 PRSという米国形成外科学会雑誌に掲載された英文論文もあります
 解剖学教室で研究なんて、
 小学生の頃のけんいち少年には、
 考えられなかったことです。
      ■         ■
 今は、
 おばけ
 墓地
 火葬場
 死体
 
 注射

 まったくこわくないです。
      ■         ■
 小学生の頃は、
 山に行って遊んだり、
 川や沼で釣りをしたり、
 冬はスキーをしていました。
 親からも医者になれとか、
 薬剤師になれとか、
 言われた記憶はありません。
 けんいち少年は自然の中で遊ぶのが好きでした。
 仲がよかった友だちは荒木田和生くんでした。
20150508-1

中学1年生の私です(向かって右)左は荒木田和生くんです

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