院長の休日
時計を修理しました
札幌美容形成外科の受付にある時計、
先輩の先生から開院祝いにいただきました。
白い素敵な時計です。
定期的に電池を交換して使っていました。
先日、時計が止まっていたので、
単三電池を交換しました。
■ ■
カチカチと音がするのですが、
時計の針が動きません。
ネットで調べると、
なんと時計の病院がありました。
うちの奥さんに、
病院を受診させました。
残念なことに、
素敵な時計にはドイツ製ムーブメントが入っていて、
部品がなく修理不能とのことでした。
■ ■
奥さんは諦めて帰って来ました。
どんなことでも諦めない私は、
ネットでセカンドオピニオンを探しました。
同じ時計が同じように壊れたのが載ってました。
素敵な時計は、
イタリアのARTE&COSEというガラス細工メーカーの時計でした。
どうりでデザインが素敵です。
■ ■
小学校の頃から、
絵は苦手でしたが、
工作には自信があったけんいち少年です。
こわれた時計を分解したこともありました。
さっそく、
ムーブメント
交換
…で検索しました。
■ ■
時計の心臓部である、
ムーブメントと針が、
東急ハンズで売っていることがわかりました。
東急ハンズ札幌店4階に行きました。
親切なお兄さんが、
丁寧に部品を探してくださいました。
部品を買ってきて、
15分で修理が完了しました。
嬉しかったです。
素敵な時計が復活しました。
修理費は部品代約2000円でした
二重・眼瞼下垂
目の左右差を治すのは難しいです
他院で埋没法を受けた方からのご相談です。
もともと左右差がある目でした。
埋没法で手術をしてもらったけど、
左右差があるまま二重になりました。
そちらで治せますか?
…という内容でした。
■ ■
手術をしてくださった先生は、
なんちゃって美容外科医ではありません。
形成外科専門医を持った、
優秀な先生です。
私からの回答は、
もともと左右差がある方は、
手術をしても左右差が残ります。
です。
■ ■
若いから私くらいの年代まで、
二重をつくる糊で、
上手に左右差を修正する方はたくさんいます。
毎日見ている自分の目です。
ここからここまで糊をつけて、
ひょいとくっつけると、
左右差がなくなることをご存知です。
■ ■
私が糊で直せるのだから…
プロの先生だったら、
左右差くらい簡単に治せるでしょ?
…というお気持ちも理解できます。
ところがそんなに簡単なものではありません。
糊は何回でもつけなおしできますし、
皮膚の表面をくっつけるだけです。
■ ■
アイプチとは違います
2010年2月6日の院長日記です。
糊でつくる二重と、
手術でつくる二重は、
そもそも二重の構造が違います。
目の左右差は、
生まれつきまぶたの開きが悪い先天性眼瞼下垂症、
片方の眉を上げる癖のある患者さんなどさまざまです。
■ ■
ご自分で糊で簡単に左右差を直せるから、
ちょっと、
簡単に、
お直ししてもらいましょう!
…という方には手術はおすすめしません。
ちょっと、
簡単に、
毎日糊をつけてください。
簡単には治せません。
医学講座
父親が転院しました
尻餅をついて、
左大腿骨頚部骨折を受傷した89歳の父親が、
昨日リハビリテェーションの病院に転院しました。
最初の病院では手術を断られてしまい、
このまま一生寝たきりか?と心配していました。
2016年1月13日に手術をしていただきました。
高齢で腎機能が悪くリスクが高い患者です。
私なら引き受けたくないです。
■ ■
手術は成功しました。
麻酔からの覚醒も早く、
手術直後から痛みが無くなりました。
ちょっとの体動でも痛がっていたのに、
手術で痛みが無くなりました。
術前からリハビリがはじまり、
術後も翌日からリハビリをしていただきました。
■ ■
夜間に騒ぐという想定外のトラブルもありました。
病棟の看護師さんにはほんとうにご迷惑をおかけしました。
申し訳ございませんでした。
私もできるだけ病院に行きました。
この10年間で、
一番親父の顔を見た3週間でした。
爪切りと、
食事介助と、
髭剃りをしました。
■ ■
昨日転院させていただいた病院は、
なんと昔、親父が働いていた場所にある病院です。
私が小学校2年生まで住んでいた手稲金山です。
今は名前も違っていますが、
病院から見える山や川は同じです。
親父に、
『じいちゃん手稲療養所だよ』と言うと、
あぁ、
あそこに3病棟があったと答えました。
■ ■
私が子どもの頃は、
石炭を使ったボイラーでした。
ボイラー技師の方が、
24時間石炭を燃やして、
手稲療養所の、
暖房と給湯に使っていました。
ボイラー技師の方の名前も覚えていました。
リハビリも毎日3回も行ってくださるそうです。
なつかしい病院でリハビリをしていただき、
早く退院できるといいです。
高齢の親父を手術していただき感謝しています。
医学講座
重い食物アレルギーの治療法
平成28年1月28日、北海道新聞朝刊の記事です。
<子どもの食卓>重い食物アレルギーの治療法
入院して安全に食べる量増やす
卵や牛乳など特定の食べ物を口にすると、じんましんや腹痛などを起こす「 食物アレルギー 」。成長とともに改善していく場合が多いが、就学する頃になっても治らず、症状が重い子どもに対し、入院して原因食品を食べられる量を増やしていく治療法がある。「急速経口(けいこう)免疫療法」だ。治療実績がある道内医療機関の一つ、KKR札幌医療センター(札幌市豊平区)を訪ねた。
食物アレルギーに対して以前は、原因の食品を全く食べない(完全除去)という対応が多く取られていた。近年は安全に食べられる量を「食物経口負荷試験」という方法で確かめ、摂取できる量は積極的に食べるように変わってきている。完全除去ではなく、必要最小限の除去を目指すという考え方だ。
ただ、中には小学校入学が近くなっても、家庭で食べられる量を設定できないような重いアレルギーの子がいる。KKR札幌医療センターは2010年から、こうした5歳以上の子を主な対象に、2週間ほどの入院治療を行っている。
治療はまず、負荷試験で原因食物をどのぐらい食べると、アレルギー症状が出るのかという「限界量」を調べる。入院中は1日5回ほど、最初は限界量の10分の1程度を食べる。症状を見ながら計画的に食べる量を増やしていき、原因食物へ耐性がつくよう目指していく。急速経口免疫療法の急速とは、2週間ほどの比較的短い期間で行われるという意味を含んでいる。
1月中旬、KKRのセンターに北見市から兄弟2人が入院した。長男(小学6年)のアレルギーの原因食物は「乳」、次男(小学1年)は同じく「小麦」だ。母親は「誤って口にした時の危険が減るよう、少しでも食べることができればと考えた。入院して行うので安心感もあります」と話す。2人とも生後数カ月で卵や魚介など複数のアレルギーが分かったが、「当時は負荷試験の情報もなく、完全除去しかなかった」という。
1年ほど前にこの治療法の存在を知り、昨年夏に同センターを受診した。本人たちの「食べられるようになりたい」という意志もあり、2人とも昨年9月にまず卵で急速経口免疫療法を受け、加熱した全卵1個が食べられるようになった。
今回は負荷試験後、長男は牛乳1ccから、次男は食パン1グラムから摂取量を増やし始めた。治療は子どもにとって、長年触れることも禁止されていた原因食物を食べる恐怖心や戸惑いがある。摂取量を増やす段階でアレルギー症状が出ることもある。この2人も腹痛やせき、じんましんなどの症状が出たが、その都度治療して、食べる量を増やしていった。
退院後も安全に食べられる量を取り続けることが必要だ。長男は入院中、牛乳1日170cc、次男は食パン60グラムを摂取できたが、安全を期して、自宅に戻ってからはそれぞれ牛乳50cc、食パン20グラムを継続して食べて経過をみている。
センターではこれまで約60人がこの治療を受け、多くは食べられる量が大幅に増え、退院後も摂取し続けている。一方、症状が強く出てしまい、食べ続けられない子もいる。
治療実績を踏まえ、小児・アレルギーセンター長の高橋豊医師は「課題はあるが、学童期になっても(原因食物を完全に)除去し続けるしかなかった重症の子には、有望な治療と考えている」と語る。費用は1割負担で約6万円。
経口免疫療法は研究段階の治療なので、経験豊富なアレルギー専門施設でのみ行われている。道内ではKKR札幌のほかに、NTT東日本札幌病院、札幌徳洲会病院などだ。症状によっては入院せず、外来で時間をかけ食べる量を増やす方法もある。
高橋医師は「決して自己判断で、家庭で行わないようにしてほしい」と注意を呼び掛けている。(石丸厚子)
(以上、北海道新聞より引用)
■ ■
ためになる記事です。
KKR札幌医療センター小児科の高橋豊先生は、
赤ちゃんの食事とアトピーという、
2015年10月23日の院長日記でご紹介した先生です。
前回の記事は朝日新聞でした。
今回は北海道新聞です。
新聞を読むと役に立つ記事がたくさんあります。
■ ■
私は乳糖不耐症です。
牛乳を飲むとおなかがごろごろします。
アカディという、
雪印の飲料しか飲めませんでした。
父親も牛乳がダメなようです。
遺伝かもしれません。
うちの息子はイクラが食べられません。
■ ■
私は温めた牛乳は飲めますし、
生クリームなどは大丈夫です。
アイスクリームも大丈夫です。
でも新聞の書いてあった子どもさんのように、
小麦や卵などは大変です。
入院治療は大変ですが、
この治療法がもっと進んで、
少しでも食べられるものが増えるといいです。
院長の休日
島本壽さまのご冥福をお祈りいたします
昨日、FBで訃報が届きました。
私のお墓を作っていただいた、
香川県高松市の島本壽(しまもとひさし)様です。
64歳という若さで、
とてもお元気だったのに、
今でも信じられない思いです。
石の芸術家と言える、
とても素敵な方でした。
心からご冥福をお祈りしています。
■ ■
FBからの引用です。
ご報告
(有)島本石材工業、親方島本壽は2014年秋ごろから病気を患い療養中でしたが1月17日 64歳にて急逝いたしました。
当社ブログ及びFacebookで日記を楽しまれていた方に ご報告が遅れましたことを深くお詫び申し上げます。
また、生前のご厚誼を深謝し衷心より御礼申し上げます。
エアロビやカメラ、ウォーキングなど仕事以外の事にも非常に熱心でアクティブだった親方。
あんなに元気だった親方が、胃の様子が変だと病院に行ってからは、ほとんど何もできなくなってしましました。
そんな自分を見てほしくないとの親方の意思のため親族以外のお見舞いをほとんどお断りし元気になる事を目指して激痛と戦っておりました。
しかし、いくつもの不運が重なり、なすすべがなくなるまで、ほとんど時間はかかりませんでした。
最後のお見送りの時、雨男だった親方らしく、外は大雨、吹雪と大荒れでした。
まるで「先に行ってるよ」と皆に手を振っているようでした。
多くの方に愛され惜しまれながら見送られた親方は嬉しかったんじゃないかなと思います。
これからは親方の残してくれた沢山の思い出と培ってきた技術を礎に、また、親方はじめ島本石材工業を支えてくださっている沢山の方々に感謝をし恩返しができるよう、 より一層前に向かって進んで行かなくてはなりません。
まだまだ若輩者ではございますが社員共々一生懸命邁進してまいりたいと思いますので何卒ご指導ご鞭撻賜りたくお願い申し上げます。
引き続き島本石材工業をよろしくお願いいたします。
(有)島本石材工業、代表取締役 島本健一郎
(以上、島本石材工業FBより引用)
■ ■
島本壽さまは、
私と同年代です。
酒も飲まず
たばこも吸わない方です。
石屋の親方というイメージとは違って、
とてもおだやかな芸術家肌の方でした。
私と同じように、
ちょっとの傷も許さない、
石づくりのプロでした。
■ ■
札幌にいらしてくださり、
私の希望通りのお墓を作ってくださいました。
雨で作業がお休みの日には、
イサムノグチが作った、
札幌市のモエレ沼公園に行かれていました。
話しもよく合いました。
いつか四国に行って、
島本さんの工場を見せていただく約束でした。
とても残念です。
心からご冥福をお祈りしています。
四国へ島本さんのお墓参りに行きます。
島本さんに作っていただいたお墓です
医学講座
介護保険を使う_②認定調査、ありのまま伝えて
平成28年1月25日、朝日新聞朝刊の記事です。
先週から連載された、
介護保険を使うシリーズです。
先週のは①被保険者証、気軽に再交付をでした。
なるほどマネー
介護保険を使う:2 認定調査、ありのまま伝えて
介護保険を使う時には要介護度を決めるための調査があるということですが、受けられるサービスにどんな影響があるのでしょうか。調査の際の注意点があれば教えて下さい。
要介護度の認定には、市区町村の介護担当職員か、委託を受けたケアマネジャーという職種の人が来ます。調査はマンツーマンの聞き取り調査です。家族が同席しても構わないので、できるだけ同席するようにしましょう。
というのも、高齢者は家族に見せるのとは別の顔を、他人に見せたがりがちなためです。私が聞いた例では、若い女性のケアマネジャーが男性の要介護認定のために訪問したところ、男らしさを示そうと思ったのか、力こぶを見せたり、突然、腕立て伏せを始めたりしたそうです。女性でも、自分を良く見せようと、普段の生活からほど遠いことを、まことしやかに話したり、自慢話を延々としたりする人もいて、調査はしばしば長時間にわたります。
その結果、介護保険を使うことが認められない「自立(非該当)」という判断が出てしまい、家族をがっかりさせます。
年をとっても親から見ると子供は子供です。子供の言いなりにはなりたくない高齢者は少なくありません。若い時のようには身体が動かず、思うようにならないストレスからか、まるで子供の反抗期のような態度をとる高齢者もいて、周りを困らせます。
調査の当日のハプニングに備えるため、普段どのような行動をしているか、メモをとっておくことをおすすめします。特に最近の様子を箇条書きにまとめておきます。例えば、椅子から立ち上がる時に何かにつかまっているか、服を着る時に自分でボタンをはめられるか、ひどい物忘れがないか――といった日常の行動について、気づいたことを時間や場所と一緒に記録して、調査員に渡します。
また、主治医の意見書が必要になりますので、介護保険の申請をすると同時に主治医に連絡をして、一番困っていることは何かなどを前もって伝えておきます。
こうした資料をもとに市区町村は月に2回、介護認定審査会を開いて要介護度を決めます。要介護度に応じて、受けられる介護サービスの中身も量も違います。要介護度が実際より低く認定されると介護保険では十分なサービスが受けられなくなる可能性があるということです。
介護保険を申請してから、要介護度が決まるまでに約1カ月かかります。決められた要介護度は原則として6カ月は変わりません。不満がある場合、都道府県の「介護保険審査会」に「不服申し立て」ができますが、審査に数カ月かかることがあります。
そこで、少し様子を見ながら、要介護度が本人の心身の状態に合わないという「区分変更申請」をするのが現実的でしょう。その場合、市区町村の介護認定審査会がどのような情報をもとに要介護度の認定をしたのか、審査会で使われた資料の開示を求めることができるので、取り寄せて対策を練りましょう。
介護認定の不服に限らず、介護生活で頼りになる専門家がケアマネジャー(介護支援専門員)です。次回に詳しく説明します。(全10回)
*
中村寿美子 介護カウンセラー。「有料老人ホーム・介護情報館」館長。昨年7~10月の「なるほどマネー」で「老人ホームを選ぶ」を担当。
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
医療従事者でありながら、
介護保険のことはまったく知りませんでした。
うちの父親は、
昨年12月に介護認定申請をしました。
12月に調査がありました。
その時にはまだ骨折していなかったので、
自分でトイレに行けました。
■ ■
認定調査の後で、
尻餅をついて大腿骨頚部骨折です。
あっという間に歩けなくなりました。
老々介護で母親が腰椎を痛めました。
母親まで病院通いです。
マンションに2人で住めなくなりました。
父親の介護認定はまだ決まっていません。
再調査に病院に来ていただきました。
■ ■
順番とはいえ、
親の介護は大変です。
仕事が終わってから、
消灯前の病院にたどり着くのがやっとです。
とても毎日は行けません。
TVで琴奨菊の優勝を見るといういいこともありますが、
正直言ってとても大変です。
自分の番になったらどうしようかと考える毎日です。
朝日新聞の記事はわかりやすくためになります。
院長の休日
おめでとう琴奨菊
私は相撲ファンではありません。
めったにTVも見ません。
昨日はたまたま夕食の介助に行って、
父親の病室でTVを見ていました。
優勝した琴奨菊が、
今にも泣きそうな顔で、
支えてくれたみなさんへの感謝を口にしていました。
■ ■
また相撲を見ようと思いました。
家に帰ってから、
Yahooニュースを見ました。
次のデイリースポーツ 1月24日(日)19時34分配信の記事がありました。
「大相撲初場所・千秋楽」(24日、両国国技館)
大関琴奨菊(31)が大関豪栄道を突き落とし、14勝1敗で初優勝を決めた。2006年初場所の栃東以来となる日本出身力士の優勝で、大きな重圧もかかっていたが、昨年7月に結婚した妻の祐未さん(29)の支えが助けになった。国技館で直接、晴れ舞台を見届けた夫人に聞くと、細やかな配慮と、結婚時に大関が誓った約束があったことが分かった。
和服姿で国技館を訪れた祐未さんの胸には、さまざまな思いがこみ上げていた。「ありがとう、と言いたいです。あらためて輝いている大関を見て、ほれ直しました」。30日に結婚披露宴を控えている夫人にとって、優勝賜杯は何よりも大きな贈り物になった。
昨年7月10日に結婚した後、家族を持った琴奨菊は「必ず優勝するから。優勝賜杯の隣に座らせてあげるから」と、誓いを立てていた。直前の夏場所で負け越し、かど番で迎える名古屋場所前、崖っぷちから結婚生活は始まった。
辛うじて結婚直後の名古屋場所は8勝7敗で切り抜け、地位を守った。祐未さんが「最も長い15日間でした。押しつぶされそうな大関の気持ちも分かりました」と振り返る苦しい戦いを乗り越え、上を目指す戦いが始まった。
常に食事面のサポートを欠かさないが、今場所はウオーターオーブンを購入し、油を使わない料理で体調を管理した。さらに、普段は栄養を重視した玄米食をしていたところを、今場所中は白米にして消化を優先させた。
体のケアも祐未さん自ら行った。琴奨菊のマッサージをするのが日課になっているが、最近はかかとにクリームを塗るのも欠かさない。以前、かかとがひび割れて痛んだため、かばって他の場所まで痛めてしまった経験を踏まえたものだった。「今はつるつるです」というかかとも、祐未さんのサポートのたまものだ。
琴奨菊とは、時間が取れたら夫婦でアロママッサージに行こうと約束しているという。「初デートもアロママッサージだったんです」。初々しい笑顔を輝かせながら祐未夫人は語った。
(以上、デイリースポーツより引用)
■ ■
ネットで検索すると、
次の産経ニュースの記事がありました。
「賜杯の横に座らせてあげる」…愛妻への約束守った
1月30日の披露宴に花添える
初優勝を果たし、賜杯を手に祐未夫人(右)と笑顔で握手する琴奨菊=24日、東京・両国国技館(福島範和撮影)
(以上、産経ニュースより引用)
■ ■
産経ニュースの福島範和さん撮影の写真が一番素敵でした。
ほんとうにおめでとうございます。
奥様がマッサージをしてくださったおかげで、
ひび割れて痛んだかかとが、
つるつるになったというのがいいです。
奥様の祐未さんと仲良く、
日本の相撲を発展させてください。
ほんとうにおめでとうございます。
嬉しいです。
医学講座
1973年一県一医大構想
平成28年1月23日、朝日新聞夕刊の記事です。
(あのとき・それから)昭和48年(1973年)
一県一医大構想 医師数、ぶれ続ける政策
この春、私立の東北薬科大(仙台市)に医学部が誕生する。東日本大震災の復興特例で、新設は国内で37年ぶり。定員100人に2463人が志願。6年で3400万円かかる学費を、最高で3000万円まで条件つきで貸与する修学資金枠を55人分用意したこともあり、24倍を超す狭き門になった。
新設を巡っては、これ以上の「激戦」が43年前にもあった。当時の田中角栄内閣が閣議で決めた「一県一医大構想」の先陣を切る形で、山形大、旭川医大、愛媛大の3医学部で1973年10月、最初の入試があった。
認可が遅れたため通常より半年遅い、異例の秋入試。最も倍率が高かったのは山形大で実質倍率は37倍だった。1期生になった山大付属病院長の久保田功教授は、「『ああ、これで浪人せずに済む』とホッとしたことを覚えています」と振り返る。
*
医師の養成は40年代まで、東大などの旧帝国大と、戦時下で短期間に医師を育てるために増えた旧医学専門学校が担っていた。戦後しばらくは、大陸から引き揚げてきた医師も加わり、医師数はむしろ多かった。
だが、高度経済成長期に入り、1961年に国民皆保険制度ができて医療機関を受診しやすくなると、病院にかかる人が増えた。同時に医師不足と、医療の質に対する不満が顕在化していく。
国は、1960年代は医学部などの定員を増やして対応したが、医学部がない県では医師確保が難しかった。このため、医学部設置は地域の「悲願」に。1970年、戦後初の国立医学部が秋田大に設置されると、医学部のない県の中央への陳情が盛んになった。
この頃、自民党幹事長で、次期首相を狙う田中角栄は山形を訪れ、「佐藤(栄作)首相は5選はしないだろうし、これから(残る任期の)2年間は政治に没頭できる」として、将来の新幹線や高速道路などの整備と合わせ、医学部建設の調査費計上を約束。それは地方での選挙対策の「切り札」の一つでもあった。
1973年には4校、74年に滋賀、宮崎など3校、といった具合に、1979年の琉球大まで、7年で16の国公立の医学部・医科大ができた。私立の新設も相次ぎ、1981年には防衛医大を除いた79校で、入学定員は8280人になり、10年余りで倍以上になった。
ところが1982年、「将来、医師が過剰になる」という声が医学界などから上がり、国は削減策に転換する。国の医師需給の検討会は1984年、「2025年に医師の1割程度が過剰になる」という推計をもとに、「1995年をめどに最小限10%程度削減する必要がある」という意見を出した。結局、定員は2003年に7625人まで減り、一県一医大達成時より約1割減った。
*
だが皮肉なことに、医師過剰時代は訪れていない。医師の質をあげるために導入した新人医師の臨床研修の必修化、医師を地域病院に派遣する医局制度の崩壊、医療の高度化などで、現場は医師不足で疲弊している。
国は2008年から定員の増加政策に転じ、今年から医学部の新設も再開される。「わが国の医師数政策ほど振り子のように揺れた政策はめずらしい」「1割削減という目標は達成された。だが、その時すでに1割過剰どころか、1割以上不足であることが明らかになっていた」と、国立保健医療科学院の岡本悦司統括研究官は著作で述べている。
将来に向けて医師はどれくらい必要なのか。医療や介護の費用の面でも重要な見通しだが、医療行政に詳しい元官僚はつぶやいた。「誰も全体像をわかって議論していないのではないでしょうか」(権敬淑)
■優秀な看護師育成に力を 医学部の立ち上げに関わった山形大元教授・精神科医、外崎(とのさき)昭さん(78)
戦時中に医学専門学校がたくさんできた影響で、1940年代半ばは、医学部の入学者は1万人以上いたんじゃないでしょうか。引き揚げの医師も加わって、多くが開業医に。そういう方が当時の国民衛生のために活躍された。
しかし、GHQの公衆衛生福祉局長は、日本の医学教育について、「日本に医科大学無し」と厳しく評価しています。日本の教育や設備、医療の質は決して高くはなかったんです。
1960年代半ばになると、戦後に開業した先生方の子弟が医学部を目指した。そのころは定員も減り、ものすごい競争に。そういう背景も、当時の一県一医大構想につながっています。
東北大で解剖学を教えていて、山形に初めて足を運んだのは1972年秋。地元では医学部への期待はあっても、現実的な理解は薄かった。「医者が来てくれればいいだけ。教育や研究はいらない」と言われたり、「死体を置くなんて」と解剖学教室に反対が起きたり。苦労はしましたが、理想を持って一から創るのはやりがいがありました。
現在、精神科医として社会と折り合いをつけづらい人や認知症の方と接します。日本の医療、介護の将来を考えるなら、医学部の定員をいじるより、教育の充実で優秀な看護師を育てたり、介護者のレベルアップに力を注いだりする方が現実的ではないでしょうか。
■医学部と入学定員を巡る流れ
1886年~ 旧帝国大7校に医科大学
1940年代前半 各地に医学専門学校
1961年 国民皆保険制度が確立
1973年2月 一県一医大構想を閣議決定
1973年9月 旭川医大、山形大、愛媛大に医学部開設
1979年 琉球大に医学部。無医大県解消。
1982年 医師過剰への配慮を閣議決定
1984年 厚生省検討会が医師数1割削減の意見を出す
1985年 地域別の医療計画づくり開始
1986年 医学部入学定員を約1割削減へ
1997年 医学部の整理・合理化も視野に医学部定員削減を続ける閣議決定
2004年 新人医師の臨床研修が必修に
2008年 医師不足を背景に既存校の定員を期間限定で増やす
2016年 特例で東北薬科大に医学部
2017年 国際医療福祉大に医学部(予定)
(以上、朝日新聞より引用)
一県一医大構想の一環で最初にできた山形大学医学部の最初の入学式。1期生のうち地元出身者は1人だった=1973年11月(山形大学医学部創設十周年記念誌より)
患者に接する臨床実習をする前の試験に合格し、「スチューデント・ドクター」の認証を受ける医学生たち=2012年、山形市
医学部開設から10年後には、田んぼばかりだった土地に、付属病院や研究棟などが建設され、周囲には街も広がった=1983年、山形市(同記念誌より)
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
医学部新設について、
これだけ詳しい新聞記事は今まで見たことがありません。
記事を書いてくださった、
朝日新聞社の権敬淑さんに感謝いたします。
昭和48年1973年は、
私が浪人した年でした。
私は秋に旭川医大を受験し、
みごとに落ちました。
■ ■
旭川医大一期生の入学試験問題の国語に、
朝日新聞の天声人語から出題された記憶があります。
国語は小田島哲哉先生のおかげでできました。
私の学力不足もありますが、
私にとって難題だったのは、
社会科の2科目という壁でした。
札幌医大は政治経済だけでOKでしたが、
旭川医大は政治経済+日本史で受け全滅しました。
■ ■
全国の浪人生が、
旭川、
山形、
愛媛、
この3つの医学部に集中しました。
旭川の旅館がすべて埋まり、
旅館組合に申し込んで、
相部屋に泊まった記憶があります。
私が通っていた、
札幌予備学院医進コースからも多数合格しました。
■ ■
中にはせっかく秋に現役合格できたのに、
旭川医大には進学せず、
翌年北大医学部に進学した人もいました。
現在の旭川医大学長、眼科の吉田晃敏(よしだあきとし)先生も、
秋に受験した組です。
天気がいい日で、
大雪山が見えた記憶があります。
■ ■
朝日新聞の記事にあるように、
日本の医学部入学定員ほど、
国の政策によって変わったものはありません。
医師数、ぶれ続ける政策の見出し通りです。
入学定員を増やしたり、
医学部を新設しても医療現場は変わらないと思います。
私も山形大元教授の外崎昭(とのさき)(78)先生と同意見です。
医学部の定員をいじるより、教育の充実で優秀な看護師を育てたり、介護者のレベルアップに力を注いだりする方が現実的ではないでしょうか。
私の意見はもう一つあり、
リハビリに予算配分を多くすることが大切だと思います。
医学講座
自費の方がきれいに治る?
JRのグリーン車、
飛行機のファーストクラスやビジネスクラス、
ANA国内線のスーパーシート、
料金が高い席はすわり心地がよく、
サービスの内容が違います。
札幌美容形成外科の待合室の椅子は、
差額料金なし、
全席フランスベッド製リクライニングチェアーです。
■ ■
保険診療で治療をしている、
美容形成外科の中には、
【保険】と【自費】、
そりゃ~、
料金が高い【自費】の方が、
♡きれいに治ります♡と、
高い自費治療をすすめるところがあります。
はっきり言ってうさんくさいです。
■ ■
私たち形成外科医は、
少しでも患者さんを快適にすることを生きがいにしています。
手術は少しでも痛くなく、
一回で済む手術は、
たとえ時間がかかっても一度で済むようにしています。
余剰皮膚が多い方の眼瞼下垂症手術は、
3時間以上かかることもあります。
どんなに時間がかかっても同じ料金です。
■ ■
料金が高い【自費】の方が、
♡きれいに治ります♡と言う先生、
借金の返済が多くて、
経営が大変なのかなぁ~?と思います。
札幌美容形成外科では、
【保険】も【自費】も、
使う糸も麻酔も同じです。
料金が高い【自費】の方が、
♡きれいに治ります♡ということはございません。
高い【自費治療】をご希望の方は、
高いクリニックを受診してください。
高いから♡きれいに治る♡保証はございません。
医学講座
生命保険会社の役割
私は職業柄よく生命保険の診断書を書きます。
私の母親は、
昔、日本団体生命という生命保険会社の外交員でした。
私の叔父は、
日本生命の審査医をしていました。
生命保険については、
他の先生より少しだけ詳しいかも?です。
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母親は私が札幌西高校の生徒だった時に、
家計の足しになるようにと、
働き口を探していました。
よく口癖のように、
『40歳を過ぎると働くところがない』
…となげいていました。
ようやく見つけたのが、
札幌市西区八軒1条西1丁目にあった、
森永製菓の工場のパート従業員でした。
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今はマンションが建っているところです。
1階が北海道銀行のマンションです。
そこでエンゼルパイというお菓子を作っていました。
残念なことに、
不況でリストラされてしまいました。
北海道新聞の求人欄に載っていた、
求人広告を見て日本団体生命保険の外交員になりました。
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母親は生命保険のことを勉強して、
少しずつ契約数を増やしたようです。
日本団体生命という会社なので、
有名な日本生命と間違われるとよく言ってました。
それでも、
『団体生命の本間さん』は業績を伸ばし、
ノルマもきつくなったとこぼしていました。
昇進の話しまで出たそうです。
これ以上は無理と辞めました。
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次に応募したのが、
三菱信託銀行の財形貯蓄の外交員です。
生命保険会社と違って、
お客さんに配る粗品を買わなくていいので、
(三菱)信託はありがたいと言っていました。
自分で売っていた財形貯蓄という商品のおかげと、
パートで収入が増えたので、
私が大学生の時に自宅を建て直しました。
お金もないのによくやったと思います。
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三菱信託銀行を退職した後で、
母親は
北海道不動産鑑定士協会のパート事務員になりました。
ここで働いたおかげで、
たくさんの人脈を築きました。
不動産鑑定士という仕事を、
私はここではじめて知りました。
少し不動産にも詳しくなりました。
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私の叔父(父の弟)は長い間日本生命の審査医をしていました。
交通事故にあう直前に、
おじと話しました。
その時に、
生命保険会社にとって一番大切なのは、
保険契約者
審査医だから偉いということはなく、
契約を取る営業が大変だということを教えてくれました。
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私も生命保険に入っています。
所得保障保険にも入っています。
自分や家族の生活を守るためです。
いざという時のためです。
生命保険会社の役割は契約者を守ることです。
突然かかってきた大同生命不動産部からの電話で、
札幌美容形成外科の職員ですら、
私たち失業するの?
この病院なくなっちゃうの?
…と不安になったそうです。
契約者の生活を守るべき生命保険会社がそんなことをしてはいけません。
私が株主だったら株主総会で追及します。