医学講座

第41回日本熱傷学会(名古屋)②

 日本熱傷学会が発足してから40年以上です。
 まだまだ難しいのが、
 やけどをする前の皮膚に戻すことです。
 熱で破壊された皮膚を、
 元通りに治すのは、
 現在の医療でも難しいことがあります。
      ■         ■
 やけどは一番身近な外傷です。
 誰でも一度くらいはやけどをしたことがあります。
 昨年、日本熱傷学会HPが新しくなりました。
 その中に、
 簡単な知識という項目があります。
 一般の方へ、
 わかりやすく解説がしてあります。
      ■         ■
 一般社団法人日本熱傷学会
 熱傷に関する簡単な知識
 熱傷を受傷した!スピードが大事です!
 まず行うべきことは?熱源を断つこと
熱湯による場合
 多くの場合、熱源はすでにありませんから、次に速やかに冷やすこと!
火炎による場合
 速やかに冷やすことは同じです。しかし、まだ衣服が燃えている場合、そしてすぐに水をかけて冷やすことができない場合、すぐに地面上で転がり、火炎を消火させます。立ったままでは火炎が消えず、その高熱が作用し続けます。地面を転がれば熱が分散し、消火もしやすくなります。その間に、近くにいる人は消火用の水を用意しましょう。
      ■         ■
 次に冷やすこと
•小範囲の創部(傷)であれば、水道水で。
•広範囲であれば浴室のシャワーで。
 冷やす時間はいろいろな意見がありますが、一般的には最低5分から30分くらいを、できれば流水で冷やします。ただし小児の場合、長く広範囲を冷却すると低体温をきたし、意識障害や不整脈を起こすことがあります。そうした症状に注意しながら、過度の冷却とならないようにしてください。

      ■         ■
 やけどをしたら、
 お風呂場のシャワーで、
 服の上から水をかけて冷やします。
 花火をする時には
 バケツに水を準備します
 もし浴衣ゆかたに火がついたら、
 バケツの水で火を消します。
 バケツの水がなかったら、
 地面に転がって火を消します。
 あたりまえのことですが、
 あわてているとできません。
 やけどは予防が一番です。

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医学講座

第41回日本熱傷学会(名古屋)①

 第41回日本熱傷学会のため、
 名古屋に来ました。
 名古屋は熱傷治療が進んでいる地域です。
 今年の日本熱傷学会会長は、
 愛知医科大学形成外科の横尾和久教授です。
 私と同年代の優秀な先生です。
      ■         ■
 名古屋で日本熱傷学会が開催されるのは4回目です。
①1982年の第8回日本熱傷学会
 社会保険中京病院形成外科の井澤洋平先生
①1995年の第21回日本熱傷学会
 愛知医大形成外科の青山久先生
2008年の第34回日本熱傷学会
 社会保険中京病院救急科の上山昌史先生
④2015年の第41回日本熱傷学会
 愛知医大形成外科の横尾和久先生
 4回も日本熱傷学会が開催されるのは実にすごいことです。
      ■         ■
 名古屋の熱傷治療に貢献されたのが、
 第8回日本熱傷学会会長で、
 社会保険中京病院形成外科の井澤洋平先生です。
 横尾教授は井澤先生とご一緒に熱傷治療をはじめられました。
 井澤先生が日本熱傷学会会長をなさったのが、
 33年前です。
 私の医師としての歴史に重なります。
      ■         ■
 第21回日本熱傷学会会長、
 愛知医大形成外科の初代教授青山久先生も、
 第41回日本熱傷学会会長
 愛知医大形成外科の2代目教授横尾和久先生も、
 井澤洋平先生のお弟子さんです。
 残念なことに、
 井澤先生は故人となられてしまいましたが、
 横尾先生が日本熱傷学会会長をなさることを、
 きっと天国でよろこんでいらっしゃると思います。
20150617

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院長の休日

道庁横のラベンダー2015

 今日は平成27年6月16日、晴れの札幌です。
 昨年は2014年6月17日の院長日記に、
 道庁横のラベンダー2014を書いています。
 今年もつぼみが膨らんできました。
 通勤途中の楽しみです。
 札幌のよいところは、
 都心に緑が多いことです。
      ■         ■
 下の写真が私の通勤路です。
 道庁横のラベンダーを眺めながら、
 札幌駅前通りに出ます。
 駅前通りにも緑の中央分離帯があります。
 一番新しい、
 赤れんがテラスの横は、
 いちょう並木です。
 私は緑が多い札幌の街が好きです。
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2015年6月16日

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医学講座

動く義眼を作る形成外科

 平成27年6月13日に開催された、
 第6回北海道形成外科フォーラム“北の大地”2015
 私が一番感動したのが、
 大阪市立大学形成外科教授
 元村尚嗣先生の特別講演でした。
 元村先生は45歳、
 大阪市立大学形成外科の初代教授です。
      ■         ■
 2015年1月に形成外科教授に就任されたと、
 座長の山本有平先生からご紹介がありました。
 元村先生のご講演に、
 義眼床ぎがんしょう再建がありました。
 事故で眼球を失ったり、
 悪性腫瘍で眼球を摘出することがあります。
 眼球そのものが無くなると、
 どんなにいい義眼でも不自然になる場合があります。
      ■         ■
 義眼は、
 義眼を専門に作る会社があります。
 かなり精巧に作ることができます。
 ちょっと見ただけではわからないです。
 眼球が残っている場合でも、
 目の色が変わってしまうことがあります。
 その色を隠すために義眼をすると、
 健常な目とわからない人もいます。
      ■         ■
 難しいのが、
 眼球そのものが無い場合です。
 厚い義眼を入れると、
 どうしても不自然に見えます。
 そんな時に活躍するのが、
 義眼床再建(ぎがんしょうさいけん)です
 第26回日本眼瞼義眼床手術学会(札幌)②
 …でご紹介いたしました。
      ■         ■
 義眼床再建の形成外科は、
 関西で盛んです。
 元村尚嗣先生のすごいところは、
 患者さんの肋軟骨を上手に加工して、
 ちょうど眼球のように、
 丸い球形の軟骨の塊を細工するところです
 手術室の片隅で、
 もくもくと肋軟骨を細工される元村先生の様子が、
 実によくわかりました。
      ■         ■
 手術結果も実にきれいでした。
 眼球が無くなってしまって、
 義眼がうまく装着できない患者さん。
 ぜひ大阪市立大学形成外科に相談してください。
 簡単な手術ではありませんが、
 とても魅力的な目になっていました。
 天王寺にある、
 大阪市大病院形成外科です。

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医学講座

第6回北海道形成外科フォーラム

 昨夜、札幌プリンスホテルで、
 第6回北海道形成外科フォーラム
 “北の大地”2015が開催されました。
 2010年から
 北大形成外科と札幌医大形成外科の共同企画はじまりました。
 残念なことに今年から札幌医大形成外科が抜けて、
 北大形成外科がメインで企画をしています。
      ■         ■
 今年は下記の内容でした
 ミニシンポジウム
 深達性Ⅱ度熱傷に対するbFGFの効果と限界を探る
 ・北海道大学形成外科 七戸龍司
 ・函館中央病院形成外科 高橋紀久子
 ・苫小牧日翔病院形成外科 吉田哲也
 ・市立札幌病院形成外科 高橋周子 
 ②看護リポート
 フットケア外来の現状~開設7年を経過して~
 ・市立札幌病院看護部 阿部てるみ  
 ③特別講演
 Challanges and innovations
 ・沖縄県立中部病院形成外科部長 石田有宏
 大阪市大形成外科における現在までの実績と将来の展望
 ・大阪市立大学形成外科教授 元村尚嗣

      ■         ■
 この北海道形成外科フォーラム“北の大地”は、
 形成外科の医師と看護師、
 形成外科に興味がある医学生の参加で、
 2010年からはじまりました。
 第一回目は、
 東京女子医科大学名誉教授_野﨑幹弘先生と
 杏林大学医学部形成外科教授_波利井清紀先生の
 「次世代の形成外科医たちへのメッセージ」という、
 実に熱いメッセージをお聞きできました。
      ■         ■
 北大形成外科の山本有平教授が考えられた、
 形成外科の若い医師や看護師さんが、
 ともに発表し勉強する企画です。
 私はとてもいい企画だと思って、
 毎回参加しています。
 今年は札幌医大の先生からの発表はありませんでしたが、
 札幌医大出身の先生も参加されていました。
 北海道の形成外科がますます発展することを祈っています。

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医学講座

ブスは自分のせいじゃない

 世の中には、
 小学生の頃から、
 ブス
 ブスだ
 …と言われている女性がいます。
 神様は不公平です。
 ブスに生まれたのは、
 あなたのせいではありません。
      ■         ■
 札幌美容形成外科を開業して10年が過ぎました。
 患者さんの数も1万人を超えました。
 すべて私一人で診ています。
 さまざまなお悩みを診て、
 私ができることは、
 がんばって、
 私が最高と考える手術をしています。
 学会に行って勉強もしています。
      ■         ■
 『私なんて』と『私だって』
 2013年1月15日の院長日記です。
 私なんて…
 どうせブスだから…
 どうせこんな目だから…
 どうがんばったって…
 だめさ…
 同じ目のお父さんを恨む
      ■         ■
 Kさんからコメントをいただきました
 私が手術中に発した言葉だ・・・
 眼瞼下垂手術をしてから、
 スッピンでも堂々と歩けるように
 なりました♪
 術前のお化粧した顔よりも、術後のスッピンの方が100倍好きです!
 自信もわきます!
 先生、スタッフの皆さん、ありがとうございました。

      ■         ■
 眼瞼下垂症手術は難しい手術です。
 私が手術をした患者さんでも、
 左右差が出たり
 再手術になったり
 再々手術になる方もいらっしゃいます。
 ちびまる子ちゃんの、
 みぎわさん
 花輪クンのことが大好きな女の子
です。
      ■         ■
 みぎわさんの目は、
 本人のせいではありません
 でも、
 はっきり言って、
 みぎわさんの目が手術が難しいです
 なんちゃって美容外科医には、
 まず無理です。
 瞼板法2点どめでも、4点どめでも、
 笹山さんの目にはできません。
      ■         ■
 世の中には、
 みぎわさんから、
 笹山さんに変身した女の子がたくさんいます。
 周囲が気付かないだけです。
 私は、
 変身するのはいいことだと思います
 自分には何の責任もありません。
 生まれつき目が細いだけです。
      ■         ■
 私に言わせると、
 目の開きが2ミリ違うだけで
 人生が大きく変わります。 
 目が大きくなって、
 めがねをコンタクトにすると、
 見違えるような美人になります
 大切なのは、
 慎重に手術時期を選ぶこと
 上手な先生を選ぶことです
 札幌美容形成外科では、
 保険診療でみぎわさんの目を手術しています。
 私は自信を持っていい仕事をしていると思っています。 

眼瞼下垂手術
手術前の状態

migiwasan
sasayama

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院長の休日

さくらんぼをいただきました2015

 今年も山形のさくらんぼさんから、
 さくらんぼをいただきました。
 世界一さくらんぼです。
 宝石のようにきれいです。
 お忙しいのに毎日コメントをいただき、
 さくらんぼまでいただき、
 心から感謝しています。
      ■         ■
 さくらんぼさんと知り合うきっかけとなった、
 荻野利彦先生が68歳という若さでご逝去され、
 とても残念に思っています。
 下の写真は6月10日に撮ったのですが、
 荻野先生ご逝去のお知らせのため、
 2日遅れになってしまいました。
 荻野先生は山形がお好きだったと思います。
 山形大学では嫌なことがありましたが、
 裁判で支援していただいたり、
 たくさんの方が荻野先生を応援してくださいました。
      ■         ■
 結果的に裁判では敗訴しましたが、
 山形大学職員組合に応援していただき、
 世界中の人が荻野先生を応援しました。
 荻野先生は感謝していらっしゃいました。
 私は今年61歳になります。
 札幌美容形成外科職員の、
 若いお嬢さんたちに支えてもらい、
 自分にできることを精一杯がんばります。
 さくらんぼさんありがとうございます。 
 今までにいただいた記録です。
 2014年
 2013年
 2012年
 2011年
 2010年
 2009年
 2008年
20150611

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昔の記憶

荻野利彦先生の手

 荻野利彦先生の死がいまだに信じられません
 私が五十肩で苦しんでいた時
 荻野先生に診ていただきました。
 先生のお部屋にも案内していただき、
 コーヒーをご馳走になりました。
 勤務していらした、
 整形外科北新東病院の広田誼(ひろた よしみ)先生のご好意で、
 手の外科の患者さんを診察し手術をしていると話してくださいました。
      ■         ■
 広田先生とは若い頃に北大の関連病院で働いたことがあり、
 山形へ移られても懇意にしていらしたと伺いました。
 荻野先生は、
 広田先生に感謝していること、
 山形大学を退職しても、
 海外の学会へ行っていらっしゃること、
 後輩の先生と手の外科の勉強を続けていらっしゃることなど、
 約1時間近くお話しをさせていただきました。
      ■         ■
 荻野先生のお部屋は、
 本と文献が山のようにあって、
 PCはMacだったと記憶しています。
 大学医学部の教授室を思わせる、
 勉強している先生の部屋でした。
 荻野先生は、
 札幌に帰っていらしても、
 学究肌の謙虚な研究者のままでした。
      ■         ■
 荻野先生は、
 私が右肩が痛くて夜も眠れないこと、
 無影灯に手が届かなくて困ること、
 駐車場で駐車券を取れないことなど、
 私が困っていることを、
 実に丁寧に聞いてくださいました。
 痛い私の肩に、
 注射をしてくださいました。
      ■         ■
 先生の手は優しく、
 先生の手でしてくださった注射は、
 針が刺さったのもわからないくらい痛くありませんでした。
 魔法の注射のおかげで
 私の痛みは劇的に改善しました

 リハビリの吉野先生をご紹介してくださり、
 私のリハビリが開始されました。
      ■         ■
 整形外科北新東病院のおかげで、
 私の肩は回復し、
 元通りに無影灯にも手が届き、
 駐車券も取れるようになりました。
 荻野先生は口数が多い先生ではありません。
 実に謙虚な先生でした。
 学者としても、
 医師としても、
 国際感覚も、
 とにかく最高の先生でした
      ■         ■
 荻野先生の手は、
 とてもあたたかで、
 ていねいで、
 患者さん思いの手です。
 今まで、
 何人の人を助けてくださったことか…
 とてもとても残念です。
 荻野利彦先生のご冥福をお祈りしています。

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昔の記憶

【訃報】荻野利彦先生

 私が尊敬する荻野利彦先生がご逝去されました。
 信じられない思いです。
 残念で、残念で、言葉もありません。
 心からご冥福をお祈りいたします。
 昨日、知人の先生からメールで知らせていただきました。
 急いで調べたところ、
 山形大学整形外科ホームページに次の文がありました。
      ■         ■
 荻野利彦先生が2015年5月22日、ご逝去されました
 謹んでお悔やみ申し上げます。
 荻野利彦先生は平成8年9月から平成23年3月まで山形大学整形外科第2代教授を務められておりました。手の外科の分野では世界をリードされ、特に先天異常の診療に大きな貢献をなされ、世界中の手外科医が荻野先生に相談し、その助言のもとに診療を行われておりました。また、温厚で親しみやすい性格から出会った全ての人に安心感と信頼感を与えて下さる先生であり、「明るく楽しい整形外科」をわれわれ教室員のみならず、日本、世界中の後進に優しく、丁寧にご教授くださいました。
 68歳というあまりにも早く、突然の訃報に驚きと悲しみしかありませんが、これまでの荻野先生のご功績に敬意を表し、山形大学整形外科のますますの発展に邁進して参りたいと思います。
 心よりご冥福をお祈りいたします。
 山形大学整形外科教室員一同

 (山形大学整形外科HPより引用)
      ■         ■
 山形県西置賜郡白鷹町の
 医療法人聰明会 理事長
 齋藤 聰先生の追悼のお言葉です
 荻野利彦先生への哀悼の辞
 本日、恩師の一人でもあり、私が尊敬してやまない荻野利彦先生(第2代山形大学医学部整形外科講座教授)の訃報に接しました。
 昨年11月山形県医師会の健康スポーツ医研修会に講師として来ていただいた時が、私が先生とお会いした最後になりました。その時、「今度、先生を慕っている山形の仲間を誘って飲み会しますのでよろしく。」と言ったのが、今となってはとてもむなしく感じます。
 荻野先生は、平成8年9月に山形大学医学部整形外科学講座第2代教授として山形大学に札幌医大より着任なさいました。まじめで正義感が強く、かつ気さくで誰とでも分け隔てなく付き合ってくれる方でした。 私は、当時山形県上山市にある蔵王みゆき病院(現在のみゆき会病院)に赴任しておりましたが、主に手の外科を専門としていたので、大学で毎週行われていた手の外科ミーティングに参加させていただき、先生にたくさんご指導を受けました。また、当時私は山形大学医学部柔道部OB会会長をしており、それまで医学部柔道部の顧問をしていただいた仙道富士郎先生が、平成13年に山形大学学長に就任なされて医学部柔道部の顧問を退任されたのを機に、荻野先生に医学部柔道部の顧問に就任していただきました。前任者の仙道先生もそうでしたが、荻野先生も医学部柔道部の会があると必ず出席してくれました。そして、2次会はご自分の自宅(官舎にお住まいだったので大勢の人間が入るのには狭すぎましたが)にOB、OG、学生を招いていただき、奥様が作ってくださったとてもおいしい手料理を酒の肴として腹いっぱいごちそうになりました。本当に、先生、奥様とも、とても素晴らしい方々でした。
 約10年位前には札幌にある荻野先生の大きくて立派な家に泊めていただき、翌日に札幌にやってきた私の妻と長男も含めて奥様の車に乗せていただき、荻野先生御夫妻の案内で北海道見学をさせていただきました。その前の日には、荻野先生と知り合って初めて荻野先生執刀の手術の助手に入らせていただきました。先生のご性格通りのまじめで確実な手術の仕方でした。
 荻野先生は日本のみならず、世界の手の外科学会では高名な先生であり、山形大学在職中は多くの教室員を海外留学させました。山形大学医学部整形外科の留学生たちは、海外でOgino’s studentsと呼ばれ、歓迎され大事にされたそうです。留学した教室員達はそのあまりの待遇の良さに、外国の学会でお互いに会うと「どうしたら日本に帰らなくてすむだろう。」と相談しあったと聞いています。私が約30年近く前にアメリカ合衆国に留学した時には、何の歓迎もされず、放っておかれました。とても苦労した思い出ばかりだったので、その話を聞いた当時は、山形大学医学部整形外科の教室員達は何と幸せなんだろうと羨ましくさえ思いました。それもひとえに荻野先生の力によるものです。
 また、荻野先生は、多くの学会も主催され、外国からの留学生も数多く受け入れて、とても活気のある教室を作っておられました。ほかの講座の教授達からも羨ましがられていたと思います。それも将来の災いの種にもなったのかもしれません。
 先生の正義感の強さを一番あらわしていたのが、仙道学長2期目の学長選挙の時だったと思います。振り返ってみるとそれが、先生を不運が襲うきっかけになってしまいました。この時、仙道先生は2期目となる学長選挙に立候補していたのですが、当時の医学部長が突然、医学部は工学部の立候補者を応援すると言い出し、強力な票の取りまとめを開始しました。荻野先生は「何の落ち度もない医学部から出した学長の応援をしないのは筋が通らない。」と、医学部の中で整形外科のみが学長に投票したのでした。それによってかろうじて仙道先生の2期目の学長が決定しました。
 平成19年の事でした。皮膚科に入院している患者が形成外科医に手術されて障害を残した事について、当時その形成外科医が所属していた整形外科の教授である荻野先生が隠蔽工作に走ったとの事で、責任を取らされ付属病院整形外科科長を解任され山形大学付属病院での診療ができなくなりました。荻野先生が医療ミスを知ったのは、手術が行われて一ヶ月以上経ってからで、自分の科の患者さんではないので、知りようがなかったはずです。医療事故で、責任を取るのは、その患者さんを預かっている科の教授、主治医、執刀医、そして、病院長、医学部長であり、執刀医が所属する科の教授ではないはず。いわば、直接関係のない科の教授を叱責して、責任を取るべき者達は何のお咎めもないという、きわめて異常な事が起こったのです。責任を取るべきは、医学部長、病院長であり、荻野先生ではありませんでした。いわば、トカゲのしっぽ切りをされたのです。これは、私に言わせれば学長選挙の時の恨みによるものとしか考えられませんでした。
 荻野先生はパワハラとして果敢に裁判に訴えて戦いました。私も何度か裁判の傍聴に行きました。しかし、結果として荻野先生の主張は通りませんでした。そして、失意のうちに平成21年3月31日で山形大学医学部を退職されました。この時から私も出身大学に対する愛着心を失いました。
 荻野先生に柔道部の顧問になってもらうのではなかった。今でも後悔しています。荻野先生は、私が医者になってから出会った医者の中でも最も尊敬すべき人の一人です。権力にしがみつき、自分の居場所を作るために人に無理な寄付を押し付けたり、いつまでも院長の椅子にしがみついているようなくだらない人間とは比べようもない、素晴らしい人でした。心よりご冥福をお祈り申し上げます。

医療法人社団聰明会みゆき整形外科クリニックのブログから引用

      ■         ■
 私と同じ思いの先生が山形にいらして、
 私以上に悲しんでいらっしゃいます。
 世界中の手の外科の医師が悲しんでいます。
 さくらんぼさんにもお知らせしました。
 とても驚いていらっしゃいました。
 荻野先生は診療中に倒れられたようです。
 心からご冥福をお祈りいたします。
dr_ogino

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医学講座

患者さんを自分の彼女だと思う

 私の生涯で一番記憶に残る特別講演、
 福田慶三先生の
 美容外科医の心得3段活用は、
 巨匠と呼ばれる、
 著名な先生へのインタビューでした。
 東京、大阪、岐阜へわざわざ行かれて、
 福田先生みずからインタビューされました。
      ■         ■
 ためになることが満載でした。
 一番印象に残ったのが、
 ノエル銀座クリニック院長の
 保志名勝先生のお言葉でした。
 保志名先生は、
 どんなことがあっても、
 患者さんを怒ったりしないそうです。
      ■         ■
 福田先生が、
 『どうして怒らないのですか?』と質問されました。
 保志名先生のお言葉は、
 『すべての患者さんを、自分の彼女だと思ったら、怒れないじゃないですか

 これをお聞きして、
 私はすごいと思いました。
 私は彼女でも奥さんでも怒ります
 人間性の問題かと思ったら違いました。
      ■         ■
 福田先生:
 『どうやって怒らないようになったのですか?』 
 保志名先生:
 『十仁で鍛えられました

 私:なるほど!と思いました。
 十仁スピリット
 2008年5月12日の院長日記です。
      ■         ■
 こんなことを書くと、
 十仁病院の梅澤先生に叱られるかもしれません…
 私が勝手につけた名前です。
 私に美容外科を指導してくださったのは、
 中央クリニック新宿院の日高先生でした。
 日高先生は、東海大学医学部をご卒業後、
 正確に言うと、東海大学在学中から…
 美容外科に興味を持っていらした先生です。
      ■         ■
 日高先生に形成外科の講義をなさったのが、
 昨日、特別講演をしてくださった
 東海大学形成外科の谷野隆三郎教授でした。
 日高先生は東海大学卒業後に十仁病院へ入職。
 私が形成外科医として経験したのと同じ歳月を、
 美容外科医として活躍された、生粋の美容外科医です。
 日高先生と中央クリニック新宿院で、
 ご一緒に手術をさせていただいた日々は、
 私にとって何物にも代えがたい、
 貴重な財産となりました。
      ■         ■
 2002年(平成14年)春に札幌医大をクビになって、
 毎日落ち込んでいて…
 うつ病になりかけていた私を救ってくれたのが、
 日高先生と中央クリニック新宿院のスタッフでした。
 人生でもっとも辛かった時期でした。
 この時期に、
 日高先生から教えていただいたのが、
 十仁スピリットです。
      ■         ■
 日高先生から教えていただいた…
 美容外科スピリット
 美容外科は‘技術’だけでは食べて行けません。
 ‘お客様のニーズ’に合わせた手術や治療を提供できるのが
 美容外科だと日高先生から教えていただきました。
 私はまだまだ修行が足りません。
 横柄な形成外科医のままです。
 自分の考えに合わない手術はお引き受けしていません。
      ■         ■
 十仁系の日本美容外科学会に出席すると…
 この美容外科スピリットが気になります。
 私は自分の技術を安売りするつもりはありません。
 ただ、自分の技術を押し売りしてはいないか?と反省します。
 つまり、切らない手術を希望される方には…
 たとえ数年後には効果が少なくなる方法でも…
 お客様のニーズに合わせた手術を‘売る’ことができるのが
 真の美容外科医のような気がします。

      ■         ■
 形成外科出身の(自称)美容外科医は、
 技術が売り物でも、
 なかなか…
 すべての患者さんを、
 ♡自分の彼女♡
だと、
 思えないことも多くあります。
 私は、
 すべての患者さんを、
 自分の家族だと、
 思っています。

 家族だから怒りもしますし、 
 できないものはできないと言います
      ■         ■
 持って生まれた性分だから、
 もう還暦も過ぎているから、
 こんなガンコな性格は直せないと思います。
 保志名先生のような素敵な美容外科医に、
 自分の彼女だと思って
 手術をしていただくのは、
 女性にとって幸せなこと
だと思いました。
 福田慶三先生のおかげで勉強になりました。
 ありがとうございました。

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