医学講座
梅澤文彦先生ご逝去
昨日、日本美容外科学会新聞、
2017年3月31日(金)
第021号が届きました。
そこに、
梅澤文彦先生の訃報が掲載されていました。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
偉大な先生でした。
■ ■
梅澤文彦先生ご逝去
梅澤文彦先生が、本年1月19日未明にご逝去されました。
先生はまさに日本の美容外科のパイオニアであり、美容医療を日本に根付かせ発展させた最大の功労者でありました。
また戦後、美容外科医学の元祖とも言える十仁病院の院長として実践面においても自ら美容医学の技術の発展に尽力されました。
当学会は先代の梅澤文雄先生の時代の1966年、当時の文部省から認可され、文彦先生が継承された1985年には、第2回国際美容外科学会も学会長として日本で開催致しました。
先生は「美容も立派な医療であり、人を幸せにする医学である」ということを広く定着させることに生涯をかけて尽力されて来られました。
その後、学会長の皆様、理事の皆様、その他各方面の方々のご協力により、当学会は着実に発展してきて、本年5月には「第105回日本美容外科学会」が森上和樹学会長のもと盛大に開催されることとなり、梅澤先生も大変喜んでおられることでしょう。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
保志名 勝

(以上、日本美容外科学会新聞より引用)
■ ■
とても残念で悲しいです。
2016年11月8日のFBには、
胃カメラしてきました。
問題ありませんでした!

フェイスブックより引用
上の写真が載っていました。
■ ■
毎年の日本美容外科学会では、
最前列でしっかり見ていらっしゃいました。
私の記憶が正しければ、
梅澤文彦先生は、
1934年1月(昭和9年1月)生まれで、
83歳です。
まだまだお元気でご活躍していただきたかったです。
■ ■
私が札幌医大を追い出されて、
中央クリニック札幌院の院長に就任したのが、
2002年でした。
今から15年前です。
当時は、
日本形成外科学会専門医が、
十仁系の日本美容外科学会(JSAS)に参加するのは、
おきてやぶりのような感じでした。
■ ■
チェーン店の美容外科に就職するのも、
ご法度という雰囲気がありました。
ですから、
私は国際学会でしか発表しませんでした。
上海の学会に着いたら、
十仁病院院長の梅澤文彦先生が
わざわざ私のところへいらしてくださり
「先生ようこそこの学会にいらしてくださいました」
とおっしゃってくださいました。
■ ■
少し肩身の狭い思いで参加した私は、
VIPの梅澤先生から歓迎されて、
とても嬉しく思いました。
上海の学会では韓国や台湾、中国の先生と親しくなりました。
日本に帰ってから
韓国の先生から韓国へ講演に来てくれないか?
…とメールをいただきました。
■ ■
今でこそ日本美容外科学会(JSAS)に、
現役の形成外科教授が参加して、
特別講演をする時代になりました。
日本形成外科学会の偉い先生の中には、
日本美容外科学会(JSAS)を嫌う先生もいます。
でも、
私は十仁病院院長梅澤文彦先生の、
寛容な心を忘れません。
梅澤先生安らかにお休みください。
日本美容外科学会に迎えてくださり、
ほんとうにありがとうございました。
医学講座
美容外科医の特徴
今日は2017年4月3日(月)です。
今日から新しい仕事の方もいると思います。
通勤途中で、
新人と思われる、
若い方を見かけました。
ちょっと不安そうに、
期待に胸をふくらませて歩いていました。
■ ■
つたない院長日記が、
意外なところでヒットして、
相談メールをいただくことがあります。
住所
氏名
電話番号
相談内容
までしっかり書いてあるのに、
肝心の
どこのクリニック?
何先生?
…が書いていないことがあります。
■ ■
ちゃんと書いてくれればわかるのに、、、
…と思うことがあります。
美容外科医によって、
手術に特徴があります。
私なら絶対にしない手術でも、
やってくれる先生もいます。
その代わり、
手術後にはかなり腫れる先生がいます。
■ ■
私は形成外科専門医で、
2つの日本美容外科学会に毎年出ています。
大手美容外科の、
初期研修終了後のお兄ちゃんみたいな先生、
お化粧が上手なお姉ちゃん先生のことは知りません。
でも、
全国に知っている先生がたくさんいます。
■ ■
おすすめの先生や、
おすすめしない先生がいます。
もともといい先生だった人でも、
経営方針で、
手術や治療まで変わってしまった先生もいます。
他院で手術を受けた後で、
困ってメール相談をいただく時には、
先生の名前を書いてください。
■ ■
私は根が正直で真面目です
困っている人には、
なるべく♡親切♡に返信を書いています。
62歳の役割だと思っています。
ちゃんと書いてくれると、
より正確に返信ができます。
毎日下のマンガのように、
私が直接返信をしています。

医学講座
顔面神経マヒと朝戸裕貴先生
聴神経腫瘍ちょうしんけいしゅようは、
頭の中にできる腫瘍です。
手術をすると、
顔面神経麻痺になることがあります。
聴神経腫瘍ちょうしんけいしゅようの手術は耳鼻科でします。
顔面神経再建を耳鼻科から依頼されたことがありました。
■ ■
顔面神経再建の思い出
2011年9月14日の院長日記です。
忘れられない患者さんです。
先生、
私の顔、
ちゃんと動くようになるのですか?
手術は完璧にしましたが、
100%動くようになると言うことはできませんでした。
■ ■
この2011年9月14日の院長日記を、
ある患者さんが読んでくださいました。
私の院長日記がきっかけとなり、
獨協医科大学形成外科教授の
朝戸裕貴先生に診ていただきました。
その方から、
御礼のメールをいただきました。
■ ■
教授という偉い立場の方なので、、、
と心配していたのですが、
とても優しい笑顔で
包み込むような雰囲気でお話をされる方でした。
本間先生のブログで記述がなかったら、
知る由もなく受診を考える事もありませんでした。
先生のブログに本当に感謝しています。
ありがとうございます。
■ ■
お役に立ててよかったです。
2011年9月14日の院長日記を、
もう一度掲載します。
私は札幌医大形成外科の講師を、
平成10年(1998年)から14年(2002年)までの4年間勤めました。
最後は、
医学部長から…
泥足で蹴られて追い出されました。
仲間だと思っていた同僚にも…
見事に裏切られました。
■ ■
残念な4年間でしたが…
医師として貴重な経験もできた4年間でした。
一番の想い出は、
耳鼻科の先生とたくさんの再建手術ができたことです。
英文論文にした…
チンの皮で気管を作る
…という手術もあります。
■ ■
耳鼻科というと…
耳、鼻、のどを診るお医者さんのイメージがあります。
優しい先生が多く…
額帯鏡(がくたいきょう)という…
大きな丸い鏡をつけて、
その真ん中から…
耳や鼻やのどを診てくれるイメージです。
今は高性能のカメラで見てくださるクリニックもあります。
■ ■
耳は、
頭蓋骨とつながっています。
耳鼻科医は脳の一部も診たり、
頭蓋骨の中も手術をします。
私が頼まれたのは…
頭蓋内の顔面神経が…
腫瘍に巻き込まれていて…
切除しなければならないので…
そこに神経移植をしてほしいという内容でした。
■ ■
患者さんは…
まだ若い女性でした。
顔面神経の根っこを…
数センチ切断してしまう手術です。
手術前には正常だった顔が、
手術後には片側がまったく動かなくなります。
神経を切断しなければ…
腫瘍は切除できません。
待ったなしです。
■ ■
神経移植はそれまでにも経験がありましたが、
頭蓋内の移植ははじめてでした。
神経をつなぐ技術には自信がありましたが…
果たして正常に機能するか?わかりません。
患者さんへの説明は、
切断された神経の断端に、
他の神経を移植します。
数ヶ月~1年で回復する見込みです。
…という内容でした。
■ ■
手術は無事に終わりました。
頭蓋内への移植ははじめてでしたが…
神経そのものは正確につなげました。
他の神経を橋渡ししました。
問題は、
その神経を移植した場所です。
骨の真上でした。
血流の悪い場所でした。
皮膚や粘膜だったら移植しても着きません。
■ ■
術後2ヵ月しても…
麻痺した側の顔の表情は…
まったく動きませんでした。
先生、ほんとうに動くようになるのですか…?
もし動かないなら…
早めに他の方法で治した方がいい…
…と言う先生もいらっしゃるようです。
■ ■
患者さんの不安はもっともです。
当時、東大病院形成外科では…
顔面神経麻痺の再建を盛んになさっていました。
患者さんのご希望で…
当時、東大形成外科で助教授をなさっていらした、
朝戸裕貴先生(現、獨協医科大学形成外科教授)にお願いして、
セカンドオピニオンをいただきました。
■ ■
私が紹介状を書いて…
患者さんは東大病院まで行かれました。
朝戸先生のセカンドオピニオンは、
今すぐに再手術をしないで、
もう少し神経の回復を待ってみましょうでした。
私も患者さんも安心して待つことにしました。
■ ■
東大から帰って数ヶ月後でした…
♡先生うごいてきました♡
患者さんの麻痺した顔面が…
わずかに動き出しました。
少しずつですが…
麻痺していた顔面が動くようになりました。
手術後一年もすると、
日常生活で不自由することはなくなりました。
神経移植は回復まで時間がかかります。
患者さんも医師も…
じっと待つ長い時間が必要です。
医学講座
カンニングで仕事を覚える
今日から4月です。
新年度のはじまりです。
今日は土曜日なので、
来週月曜日、
2017年4月3日から仕事の人が多いと思います。
私が医師免許を取得した、
1980年は4月に医師国家試験がありました。
4月1日はまだ最後の勉強をしていました。
■ ■
医師として認められたのは、
1980年5月26日です。
医籍いせきという、
お医者さんの戸籍のようなところに登録され、
登録番号が通知されて、
はじめて医師としての仕事が可能になります。
免許証をいただいたのは、
保健所を通して申請するので、
さらにその後でした。
■ ■
どの職種でも同じです。
受験勉強は、
予備校の先生が親切丁寧に教えてくれます。
社会人の新人教育も、
一応オリエンテーションはありますが、
実際に現場に出て、
先輩の仕事を見て覚えます。
■ ■
今までは絶対にしてはいけなかった、
カンニングで仕事を覚えます。
先輩の仕事を見て、
どうやったら早く正確にできるか、
カンニングするのです。
職場によってやり方が違います。
電子カルテもシステムが違うと、
オーダーの入れ方も違います。
■ ■
医師2年目
2011年5月13日の院長日記です。
卒後2年目の私は、
医師としては…
何もできませんでした。
救急搬送された患者さんを診ても…
ただおろおろするような…
ひよっこ医師でした。
■ ■
形成外科医とは名ばかりで、
大学病院の業務は、
検査の伝票を書いたり
(昔の検査オーダーは手書きでした)、
処方箋を書いたり
(処方箋も手書きでした)、
患者さんの写真を撮ったり
(これだけは自信がありました)、
医師とは関係のない業務でした。
■ ■
手術室では、
メスは持てませんから、
術野の消毒をしたり、
被布(おいふ)という布をかけたりするのが、
新米医師の仕事でした。
カンファレンスの資料を揃えたり、
患者さんのスライド整理も、
重要な仕事でした。
■ ■
上の先生が手術した患者さんの、
ガーゼ交換をしたり、
軟膏処置をしたりするのが、
新米形成外科医の仕事です。
最初から、
切ったり縫ったりはできません。
今から考えると、
こうした時間があってよかったと思います。
■ ■
先輩が手術をしても、
経過が良い患者さんばかりではありません。
困った時にどうする?
どう対処する?
…という…
教科書に書いていないことを、
身をもって体験できるのは、
こんな時しかありません。
■ ■
北大形成外科は、
大浦武彦先生を頂点として、
優秀な先輩がたくさんいらっしゃいました。
卒後2年目の私が得意だったことは、
やけどの患者さんの風呂入れでした。
熱傷浴室という日記に書いてあります。
若い女性の顔にメスをいれるなんて…
とても考えられませんでした。
■ ■
専門医を取得後も、
できる手術は限られていました。
手術後の経過がよくない患者さんもいました。
毎日必死で仕事をしていました。
30代前半が一番大変でした。
釧路労災病院手術室
2011年8月17日の院長日記に書いてあります。
2017年4月から新人になった方への助言です。
頭で考えるのではなく、
身体で覚えてください。
反射的に仕事ができるようになります。
上手にカンニングで仕事を覚えてください。
昔の記憶
2017年3月31日
今日で3月も終わりです。
あっという間に3ヵ月が過ぎました。
去年の3月31日は何をしていたかなぁ~
すぐに思い出せませんでした。
院長日記を見ました。
セピア色の写真2016-2
そうだ、
親父の葬儀で火葬場に行ってたんだ。
■ ■
すぐに思い出せないところが、
年齢としなのかなぁ~?と思います。
でも、
命日は覚えていても、
火葬場に行った日は?
思い出せないものです。
一年前は晴れのいい天気でした。
昨夜の札幌はたくさん雪が降りました。
■ ■
札幌市には2つの火葬場があります。
札幌市HPによると、
亡くなられた方の住所または葬儀場の住所が
豊平川の
東側(白石区、豊平区、厚別区、清田区、南区)の場合は「里塚斎場」を、
西側(中央区、北区、東区、西区、手稲区)の場合は「山口斎場」を
ご利用いただきますようご協力をお願いいたします。
…と書いてありました。
■ ■
豊平川で分けているとは知りませんでした。
私は豊平川の西側なので、
山口斎場です。
斎場から、
手稲の山がきれいに見えました。
親父は薬剤師という仕事が好きだったんだと、
息子の私は思います。
薬のことはよく知っていました。
■ ■
昨年1月に市立札幌病院に入院させていただいた時に、
看護師さんから、
今日の治療薬という本をお借りして、
病室で読んでいたのには驚きました。
眼鏡なしで、
小さな字を読んでいました。
私は形成外科が好きです。
いくつまでできるかわかりませんが、
親父を見習って、
70歳くらいまでは、
元気で診療を続けたいと思います。
医学講座
一番優しいヘルパーに
平成29年3月30日、朝日新聞朝刊、ひとときへの投稿です。
一番優しいヘルパーに
夫は現在82歳。71歳の時にアルツハイマー型認知症と宣告された。
「負けてたまるか」「勝ってやる」が彼の口癖になり、進行を遅らせることができるならと小学生のドリルを始めたが、それが2人のストレスになりすべてのドリルを捨てた。2人寄り添う生活をすればいいと思うと気持ちが楽になった。
それから11年、週5回のデイサービスと月2回のショートステイが入る生活。家では私もヘルパーだ。だったら、一番優しいヘルパーでいたいと思う。
在宅介護できるのは介護サービスがあるから。デイのスタッフさんに支えられていることを感謝したい。
老老介護の末に殺傷、というニュース。私も同じような思いをすることがある。怒りと情けなさで暴言を吐く、今まで知らない自分に出会う。そんな私を夫は理解できず、嫌な感情のみ彼の心に残すが、暴言のことは忘れてくれる。
人にはいくつかの人格があり、環境や理性でコントロールされていると思う。夫が病気を背負うことがなければ、私は「もう1人の私」に出会うことがなかったかもしれない。結婚50年がたった今、明日も柔らかな日差しの中で過ごそう。
(相模原市 中村順子 主婦 76歳)
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
私の親は、
子供の前で、
よく夫婦喧嘩をしていました。
小さい頃から、
親の夫婦喧嘩を見ていた私は、
将来結婚するなら、
絶対に喧嘩しない女性ひとと結婚しよう!
…と高校生の頃から思っていました。
■ ■
そう思って結婚しましたが、
私の♡夢♡は、
子供が誕生した頃から崩れました。
人生で最良の時は、
25歳の研修医時代に、
家内と2DKの公団住宅で
新婚生活をはじめた頃だったような気がします。
■ ■
本間家では、
よく夫婦喧嘩をします。
私も言いますが、
奥さんもすごいです。
喧嘩になると、
暴言も出ます。
奥さんは、
関西弁になります。
迫力があります。
■ ■
投稿者の、
相模原市の中村順子様はすごいです。
ご主人が
71歳の時にアルツハイマー型認知症と宣告され、
それから11年、
週5回のデイサービスと
月2回のショートステイが入る生活。
家では私もヘルパーだ。
だったら、
一番優しいヘルパーでいたいと思う。
■ ■
私は今年63歳、
家内は61歳です。
毎日、喧嘩しながら、
札幌美容形成外科で働いています。
もし、
奥さんが
アルツハイマー型認知症になったら、
一番優しい主治医でいたいと思います。
でも、できるかどうかわかりません。
自信もありません。
私がアルツハイマー型認知症になったら、
奥さんは、
一番優しいヘルパー
…になってくれるかなぁ~?
昔の記憶
本間寛一周忌
今日は親父の命日です。
ちょうど一年前
平成28年3月29日(火)午後0:49に亡くなりました。
満90歳でした。
いい人生だったと思います。
昔、自分が勤務していた病院で亡くなりました。
私もできることなら、
想い出深い病院で死にたいです。
■ ■
本間家は無宗教なので、
一周忌の法事はありません。
私の父方の祖父母の法事は、
一度もありませんでした。
父方の祖父母はクリスチャンでした。
お葬式は教会でした。
私の父は無宗教でした。
私も無宗教です。
■ ■
法事はありませんが、
お墓参りには3月20日のお彼岸に行きました。
札幌市の平岸霊園は、
深い雪の中でした。
私がようやくお墓までたどり着きました。
88歳の母親は、
とても無理なので、
車の中で待っていてもらいました。
■ ■
お墓から、
FaceTimeで、
群馬県の弟にもお参りしてもらいました。
雪が多くて驚いていました。
お墓からでも、
ちゃんとTV電話がつながりました。
便利な世の中です。
雪がとけたら、
チューリップが咲きます。
今年も供養のために、
草取りに来ます。
本間家流の供養だと思っています。
院長の休日
稀勢の里、若き日の猛稽古見た
平成29年3月28日、朝日新聞朝刊、『声』の欄への投稿です。
稀勢の里、若き日の猛稽古見た
無職 山岸貢(千葉県 81)
こんな記憶がある。13年前の正月、私は相撲好きの母を連れて、近くにあった当時の鳴戸部屋を訪ね、力士たちの稽古を見せてもらった。事前に連絡もしなかったのに、健在だった元横綱隆の里の鳴戸親方が自ら座布団や座椅子を勧めてくれたのには感激した。
稽古場では、兄弟子が弟弟子たちに盛んに稽古をつけていた。熱心な者は稽古をつけてもらおうと、競って手を挙げ、順番取りをする。その中で、何回も挙手を繰り返し、兄弟子にぶつかっていっては土俵にたたきつけられていた若者がいた。
まげも結えなかったその若者は「萩原」と呼ばれていた。
いま、萩原は稀勢の里となり、天賦の恵まれた体に強靱(きょうじん)な精神力が宿り、大輪の花を咲かせた。
今場所、13日目に横綱日馬富士に敗れたときには、休場してしまうと思った。ところが、自らを支えてきてくれた人を落胆させたくないと強行出場。千秋楽で逆転優勝してみせた。
とても人間業とは思えない。このすごさは、どこからきたのか。やはり、鳴戸親方の指導と若き日からの猛稽古のたまものではないだろうか。
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
横綱稀勢の里のことをよく知らなかった私は、
山岸貢様の投稿を読んで、
なるほどと思いました。
元横綱隆の里の鳴戸親方も、
自ら座布団や座椅子を勧めてくれた
…と書いてありました。
さすが、立派な親方が、
立派に育てられた横綱稀勢の里です。
■ ■
天賦の恵まれた体に
強靱(きょうじん)な精神力が宿り、
大輪の花を咲かせた。
これが、
千秋楽の逆転優勝につながりました。
私は努力して、
稽古に稽古を重ねて、
優勝した横綱を誇りに思います。
ますます活躍されることを祈っています。
院長の休日
稀勢の里、逆転優勝
平成29年3月27日、朝日新聞朝刊の記事です。
稀勢の里、逆転優勝 大相撲
大相撲春場所は26日、大阪市浪速区のエディオンアリーナ大阪で千秋楽を迎え、新横綱稀勢の里(30)=本名萩原寛(ゆたか)、茨城県出身、田子ノ浦部屋=が、単独首位に立っていた大関照ノ富士を本割、優勝決定戦ともに下し、劇的な逆転で2場所連続2度目の優勝を飾った。新横綱場所での優勝は1995年初場所の貴乃花以来の快挙。
13日目に左肩付近を負傷し、テーピング姿の稀勢の里は優勝後の支度部屋で涙を流した。優勝インタビューでは「苦しかった分、うれしいですね」と喜びをかみしめた。

涙を浮かべながら賜杯(しはい)を受け取る稀勢の里=26日、大阪市、伊藤進之介撮影
(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
感動しました。
私はTV中継は見れなかったのですが、
ニュースで見ました。
左上腕の出血斑を見て、
あれは痛いだろうなぁ~と思います。
休場しないで出て、
しかも優勝です。
ほんとうにえらいです。
■ ■
優勝インタビューでは
「苦しかった分、うれしいですね」
その通りです。
新横綱は、
私の好きな言葉、
最後まであきらめないを、
ご自分の身で見せてくれました。
ますます活躍されることを祈っています。
優勝おめでとうございます。
医学講座
精子提供で人工授精、施設減少_ネットでは個人やりとり
平成29年3月26日、朝日新聞朝刊の記事です。
精子提供で人工授精、施設減少 ネットでは個人やりとり
夫が不妊症の夫婦を対象に、他人の精子を使った人工授精(AID)に取り組む医療施設が、この14年で26カ所から7カ所に減ったことが朝日新聞の取材でわかった。一方、ネットを介して、個人が精子を提供する動きが出ている。規制もなく、トラブルや子どもへの影響を懸念する声もある。
AIDは、提供精子を器具を使って人工授精する。国内では1940年代から始まったとされる。日本産科婦人科学会(日産婦)が1997年に営利目的の精子提供を禁じて、対象を婚姻した夫婦に限るルールをつくり、実施施設を登録制にした。登録施設は、2003年に26カ所あったが、2016年には14カ所に減少。朝日新聞の取材では、このうち現在も実施している施設は7カ所だけだった。
減少の背景には、子どもに精子提供者の情報を知らせる「出自を知る権利」が世界的に認められつつあり、将来のトラブルを心配して提供者が減っていることなどがある。感染症検査で一時凍結した精子を使うため、妊娠率が数%という低さも敬遠される一因だ。2012年に中止した施設は「出自を知る権利が認められたら対応できない」と説明。実施中の複数の施設も「提供者が集まりにくい」と回答した。
施設が減る中、国内でAIDを最も多く手がけている慶応大学病院は、1年以上先まで予約で埋まっている。
自民党は2013年、AIDで生まれた子の父親は夫と明確化し、精子や卵子の提供のあっせんなどを規制する法案の検討を始めた。しかし、議論が深まらないまま、今の法案では具体的な規制は削除。取りまとめ役の古川俊治・参院議員は「まずは親子関係を最優先したい」としているが、法案提出のめどはたっていない。
◇
〈AIDに詳しい吉村泰典・慶応大学名誉教授の話〉 精子の提供は倫理的な問題を伴い、学会という民間団体が決めたルールしかない現状は普通ではない。生まれた子の父親が誰かという基本的なことすら法的に不明確なままだ。生まれてくる子のためにも制度化の議論を進めるべきだ。
自称「精子バンク」、60サイト以上 性交渉も選択肢
他人の精子を使った人工授精を手がける医療機関が減る一方、ネット上には「精子バンク」などと称して精子の提供を掲げるサイトが、活動休止中も含めて60以上存在する。多くは「無償」や「ボランティア」とし、個人で運営している。精液を入れた市販の注射筒を渡して、女性が自分で注入する方法のみのサイトがある一方、性交渉を選択肢とするところもある。
都内に住む20代後半の女性は「無償の精子バンク」を運営する男性の提供で、長女(1)を生んだ。胸に抱いた長女を見つめて「そっくりでしょ」と笑う。スマホには、長女によく似たまゆ毛の男性の写真が映っていた。「男性への恐怖心や嫌悪感」で結婚はしたくなかったが、子どもは欲しかった。医療施設ではAIDを受けられないため、ネットで提供者を探した。
複数のサイト運営者と面会し、4人目の男性に「こちらの気持ちをくみとってくれている」と感じた。1年近くにわたり月1、2回、注射筒をもらって、自分で人工授精を十数回繰り返した。うまくいかず、妊娠の確率を上げようと性交渉した結果、妊娠したという。「後悔は何もない。この子の質問には答えていきたい」と話す。
提供した男性は関東地方の40代の既婚者だ。「子どもがなかなかできず、別の形で子どもを残したい」と、妻に秘密で7年前から始めた。これまでに28人に提供したという。子どもが生まれると、誕生日に毎年メールを送る。「以前は最後の最後にたどり着く感じだったが、割と早い段階で連絡してくる人が増えた。子どもが望めば、名前や住所が特定されない範囲で会いたい」と話す。
ただ、医療施設を介さない提供は、感染症の厳格な検査やカウンセリングがなく、提供者とのトラブルや経緯を知った子どもへの影響も心配される。AIDの相談活動をする清水清美・城西国際大学教授は「医療施設が提供に応えられない中、個人的な提供に安易に流れないか」と懸念する。
慶応大学病院でAIDを受けて、長女を授かった沖縄県の男性(35)は「どういう経緯で生まれたのかを親自身が堂々と言えることが大事だと思う。医療機関が実施することは大きな意味がある」と語る。
都内の女性に精子を提供した男性は「提供する側も受ける側も、互いに素性が知れず、自己責任でやっていて、リスクを感じる。そこまでして欲しい人がいるのだから、公的な管理の下でやる方が良いという議論が起こってしかるべきだと思う」と話す。

(以上、朝日新聞より引用)
■ ■
難しい問題だと思います。
私はネットで見つけるのは?
どうか?
…と思います。
リラ冷えの街2014
2014年5月17日の院長日記です。
この院長日記で、
自分の父親を探している人のことを書きました。
■ ■
「リラ冷えの街」という、渡辺淳一さんの小説があります。
昭和45年に北海道新聞日曜版に連載された小説です。
当時、本間家では…
朝日新聞しか購読していなかったので、
私はこの連載は読んでいません。
私が札幌西高校1年生の時です。
札幌オリンピックが昭和47年でした。
オリンピックを目指して札幌の街づくりが盛んでした。
■ ■
医学生と人工授精が関係する小説です。
私が学生の頃から、
札幌医大産婦人科では不妊治療をしていました。
人工授精に使われる精子は、
医学生が提供すると言われていました。
数人分を混ぜて…
誰のかわからないようにすると言われていました。
■ ■
医学生のアルバイト?があったかどうかわかりません。
少なくとも私自身や私の友人に、
精子提供者はいませんでした。
あまりおおっぴらにできないので、
おそらく医局との個人的なつながりで?
契約していたのかも?
…と想像します。
■ ■
最近になって、
人工授精で生まれたと知った人が、
自分の遺伝上の父を探して、
大学医学部に情報開示を請求したという記事を読みました。
お気持ちはよく理解できます。
でもおそらく資料は残っていないと思います。
昭和40年代~50年代は、
将来情報開示請求があるとは考えていなかったと思います。
■ ■
もし私が遺伝上の父を見つけるとしたら、
大学医学部の卒業記念アルバムを探します。
学会で知り合った先生を通じて、
先輩や後輩を紹介してもらいます。
同級生だったら、
『○○先生の若い頃にそっくりだ』
…とわかると思います。
DNAを調べるより早いと思います。
遺伝上の父は難しい問題です。
■ ■
不妊治療は必要だと思います。
精子提供も選択肢の一つだと思います。
私は、
しっかりと法整備をして、
医療機関が、
営利を目的としないで、
他人の精子を使った人工授精(AID)ができるのがいいと考えます。
子供には父親を知る権利があると思います。